根南志具佐 5巻
【参照資料:国会図書館デジタルコレクション>帝国文庫>第22編・風来山人傑作集>根南志具佐 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1882565/78】
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根南志具佐 上
根南志具佐序
余読_二 ̄ムヤ斯 ̄ノ篇_一 ̄ヲ也不_レ覚撃_レ ̄テ節 ̄ヲ驚-呼 ̄シテ曰 ̄ク
咄人 ̄カ邪鬼 ̄カ邪無_二能 ̄ク名_一 ̄クルヿ焉蓋 ̄シ可_レ ̄クシテ測 ̄ル
而測 ̄リ可_レ ̄クシテ言 ̄フ而言 ̄フ旦_二暮 ̄ニシ万-古_一 ̄ヲ咫_二-尺 ̄スルモ
六-合_一 ̄ヲ世有_二 ̄テ若 ̄ノコトキ人_一而 ̄シテ為_二 ̄ス若 ̄コトキ事_一 ̄ヲ亦曷 ̄ソ
異_レ ̄ン之 ̄ヲ若 ̄シ乃 ̄チ冥-途潜-府 ̄ハ幽-昩浩-渺 ̄タリ
瞿-曇-氏 ̄ハ者姑 ̄ク-舎 ̄ク其 ̄ノ他雖有_二 ̄ト眀-者_一
不_レ能_二窺測_一 ̄ルヿ也而 ̄シテ斯 ̄ノ篇能 ̄ク測_二 ̄リ其 ̄ノ不_一 ̄ルヲ
_レ可_レ測 ̄リ也能 ̄ク言_二 ̄フ其 ̄ノ不_一レ ̄ルヲ可_レ言也紀-事
詳-悉属-辞壮-快波-瀾変-幻不_レ可_二
端倪_一 ̄ス嗚呼人 ̄カ邪鬼 ̄カ邪果 ̄シテ無_二能 ̄ク名_一 ̄クルヿ
焉童-子秉_レ ̄ル燭 ̄ヲ曰 ̄ク儻 ̄クハ有_レ類_二黄-帝華-
胥 ̄ノ之遊_一 ̄ニ者非 ̄カ邪
宝暦癸未秋九月黒塚処士題
自序
唐人の陳紛看(ちんぷんかん)天竺(てんぢく)の□□□□□(おんべらぼう)
紅毛(をらんだ)のSutupelpomu(すつぺらぽん)朝鮮(てうせん)のㅁ챠리ㅋ챠리(むちやりくちやり)京の男の髭喰(ひげくひ)そらしてあの
おしやんすことわいな江戸の女の口紅(くちへに)
からいま〳〵しいはつつけ野郎(やらう)なんど
其詞は違へども喰(くふ)て糞(はこ)して寝(ね)て
起(おき)て死て仕舞ふ命(いのち)とは知(しり)ながらめつた
に金(かね)を慾(ほし)がる人情は唐も大倭(やまと)
も昔も今も易(かはる)ことなし聖(せい)人も学(まなへ)は
禄(ろく)其中にありと旨(うまく)云て喰(くい)付せ仏は
黄金の膚(はだへ)となりて慾(ほし)からせ初穂(はつほ)なし
には神道加持力も頼れず皆是金が
敵(かたき)の世の中なり一日 貸(かし)本屋何某来
て予に乞ことあり其源を尋れはこい
つまた慾がる病の膏肓(かう〳〵)に入たる親父なり
是を治せんとするに鍼灸(しんきう)薬(やく)の及へき
にあらず是を戒(いましむる)に儒((じゆ)を以てすれば彼曰
聖人物を食(しよく)せざりしは神道(しんとう)を以て
すれはまたいわく貧して正直なりかたし
仏法を以てすれは又曰 未来(みらい)より現在(げんざい)
なり冀(ねがはく)はまづ鈎(かき)と縄(なわ)とを賜(たま)へ家内の
口を天井(てんじやう)へつるして而 ̄シテ後 教(をしへ)を受(うく)へし
予答に詞(ことば)なく即 ̄チ筆を執て此篇をなし
名て根南志具佐といふ釈迦(しやか)の鳩(はと)の卵(かい)
老荘(らうそう)の譫言(たわこと)紫式部が空言(うそ)八百に比(ひ)
すべきにはあらざれども只人情を論ず
るにおいては彼も一時なり是も一時なり
安本元年霜月三十一日
天竺浪人誌
根南志具佐一之巻
公無_レ渡_レ河公竟渡_レ河堕_レ河而死当_二奈_レ公何(こうかをわたることなかれこうついにかをわたるかにおちてしすまさにこうをいかんすへき)_一と
詩(からうた)に作しは見ぬ唐土(もろこし)の古(いにしへ)夫(おつと)の水に溺(おほれ)て死たるを
なんかなしみに堪(たへ)ざる妹子(わぎもこ)の歎(なけき)とかやされば宝
暦十あまり三の年水無月の頃荻野八重桐
となんいへる俳優人(わざをきひと)の水に入て死たる事世の取
沙汰のまち〳〵にしてそれと定たる事を知人
なし其由て来る処を尋に皓々(かう〳〵)の白を以て
世俗の塵埃(ぢんあい)を蒙んやと憤(いきとほり)て泪羅(べきら)に沈(しつみ)し屈(くつ)
原(げん)が流(たぐい)にもあらず竜宮の玉を取んと海底(かいてい)に飛
入て命を捨たる蜑人(あまひと)にも異(こと)なり此世にも
あらぬ世界の極楽(ごくらく)と地獄(ちごく)の真中(まんなか)に閻魔(えんま)大王
となんいへるやんごとなき方ぞまし〳〵ける此大
王三千世界を順(まわり)し給ふてなれば十王を始として
朝廷(てうてい)の臣下数もかぎらずそれ〳〵の役を司者(つかさどるもの)
多しされば人間の世渡 士農工商(しのうこうしやう)の各 隙(ひま)なき
も断(ことはり)ぞかし閻魔王宮も昔はさのみ閙敷(いそかわしく)もあら
ざりしが近年は人の心もかたましくなりたるゆゑ
様々の悪作る者多く日にまして罪人(ざいにん)の数(かず)かぎ
りもあらざれば前々より有来の地獄にては中々
地面不足なりとて閻魔王こまり給ふ折を窺(うかい)
山師共は我一と内証より付込役人にてれん
追従(ついしやう)賄賂(まいない)などしてさま〳〵の願を出し極楽
海道(かいどう)十万億土の内にてあれ地を見たて地蔵(ぢぞう)
菩(ほさつ)の領分 茄子畠(なすびばたけ)の辺までを切ひらき数
百里の池を堀 蘇枋(すほう)を煎(せん)じて血(ち)の池をこし
らへ山を築(つき)ては剣(つるぎ)の苗(なへ)を植(うゑ)させ罪人をはた
く臼(うす)も獄卒(ごくそつ)どもの手が届かざれはとて水車を
仕懸(しかけ)させ焦熱(せうねつ)地獄には人排(たゝら)を仕かけ其外
叫喚(きやうくわん)大叫喚(だいきやうくわん)等活(とうくわつ)黒縄(こくじやう)無間(むげん)地獄等の外に
さま〳〵の新 地獄(ちごく)をこしらへて岡場所(おかはしよ)地獄と
称し三途川(さうづかわ)の姥(ばゝ)も一人にてはなか〳〵手かまはり
得ぬとて久敷地獄に堕(おち)居たりし浅草(あさくさ)の一つ家
の姥 安達(あだち)が原の黒塚姥(くろづかはゝ)堺町の筍(たけのこ)姥其外 娑婆(しやば)
にてよく婦(よめ)をいぢり継子(まゝこ)を憎(にくみ)たる悪姥どもの
罪(つみ)を御 赦免(しやめん)あり三途川の姥の加 勢(せい)に入て段々地
獄も広(ひろ)まりければ彼山師共また〳〵願を出し何
とそ新地獄町の大屋に成度との願しかし餓鬼(かき)
道(どう)の分は掃除(そうじ)代が上らざれ節句銭(せつくせん)を二百文
づゝに御定下され度と願は或は舌(した)を抜(ぬく)鋏(はさみ)の入口
鉄の棒(ほう)火の車の請おひ釜も新敷仰付られ候
よりは古(ふる)地獄にて底(そこ)のぬけたるを取 集(あつめ)て鋳
懸(かけ)させ竹の根を堀 灯心(とうしん)も蠟燭屋の切屑(きりくず)を御
買上になさるゝが至極 下直(けしき)に付候少々の事にても
地獄の年数は仮初(かりそめ)にも百万 劫(こう)などゝ久々の事
なれば塵(ちり)積(つもつ)て山師共の謀(はかり)又は三途川の古着(ふるぎ)
を一人にて座に仰付られば其かはりには獄卒(ごくそつ)衆
中 樗蒲一(ちよぼいち)に御まけなされ虎(とら)の皮のふんどし
を質(しち)に御置なさるゝとも随分 利安(りやす)に仕らんさあ
る時は惣地獄の御うるほひにも相成申べしと
【挿絵】
己が勝手は押かくしお為ごかしに数通の願事
地獄の沙汰も銭次第 油断(ゆだん)せぬ世の中とぞ知
られける閻王もさま〳〵の政(まつりこと)を聞せられければ少
の暇(いとま)もなきをりふし獄卒ども地獄の地の字の
付たる高提灯(たかてうちん)を先に立一人の罪人を引立来
れり閻王はるかに御覧あれば年の頃廿斗の
僧の色白く痩(やせ)たるに手かせ首かせを入腰のま
はりに何やらんふくさに包(つゝみ)たるものをくゝり付
てぞ有ける此者いかなる罪(つみ)にてか有と尋給へは
かたはらより俱生神(くしやうじん)罷出て申けるは此 坊主(ぼうす)は
南瞻部州(なんせんぶしゆう)大日本国江戸の所化(しよけ)なるが堺町の
若女形瀬川菊之丞といへる若衆の色に染ら
れて師匠(ししやう)の身代からくれない錦(にしき)の戸張は道具(たうぐ)
市にひるがへり行基(きやうぎ)の作の弥陀如来(みだによらい)は質(しち)屋の
蔵へ御 来迎(らいかう)若衆の恋のしすごしに尻(しり)のつまら
ぬ尻がわれて座敷 牢(らう)に押込られしたふかいな
く己(おの)が身を宇津の山部(やまべ)の現(うつゝ)にも逢(あは)れぬ事を苦(く)
に病てむなしくあの世を去けるがだんまつまの
苦(くるしみ)にも忘(わすれ)得ぬは路考が俤(おもかげ)なりとて此処まで
も身をはなさずアノ腰(こし)に付たるは鳥居清信が
画(ゑがき)たる菊之丞が絵姿(ゑすかた)なり若気とは云ながら師
匠親の目をかすめたる科(とが)一々 鉄札(てつさつ)に記置(しるしをき)たり
しかしながら今時の坊主表むきは抹香(まつかう)くさい
貌(かほ)しながら遊女狂ひにうき身をやつし亀を
明神 葱(ねぎ)を神主などゝ名付取喰ふから見れば
坊主の優童(やろう)狂ひは其 罪(つみ)軽(かるき)に似たれば剣(つるぎ)の山
の責(せめ)一等を許(ゆるし)彼(かれ)が好(このむ)処の釜(かま)いりに仕らん
と窺(うかゞへ)ば閻王以の外 怒(いから)せ給ひいや〳〵彼が罪(つみ)軽
に似て軽からず都(すべ)て娑婆(しやば)にて男色といへる事
有よし我甚 合点(がてん)ゆかず夫婦(ふうふ)の道は陰陽(いんやう)自(し)
然(せん)なれば其はづの事なれども同じ男ををか
すは決(けつし)て有べからざる事なり唐土(もろこし)にては
久しき世より有て書経(しよきやう)には頑童(くわんどう)を近る事
なかれといましめ周(しゆうの)穆王(ぼくわう)は慈童(じとう)を愛(あい)してより
菊座(きくざ)の名始り弥子瑕(びしか)董賢(とうけん)孟東野(もうとうや)が類(たくひ)
また日本にては弘法(こうほう)大師 渡天(とてん)の砌(みきり)流沙川(りうさかわ)の川
上にて文殊(もんじゆ)と契(ちきり)をこめしより文殊は支 利(り)
菩(ぼさつ)の号を取弘法は若衆の祖師(そし)と汚名(おめい)を残(のこ)し
熊谷の直実(なをさね)は無官の太夫 敦盛(あつもり)を須摩(すま)の浦(うら)
にて引こかしハリハドツコイなされけるとうたはれ
牛若は天狗にしめられ増賀聖(そうかひじり)の業平(なりひら)後醍(こたい)
醐帝(ごてい)の阿新(くまわか)信長(のぶなが)の蘭丸(らんまる)其名も高尾(たかを)の文(もん)
覚(がく)は六代御前にうつゝをぬかしいらざる謀反(むほん)
をすゝめこみ頼朝(よりとも)のとがめを受(うけ)しより娑婆(しやば)
にて尻(しり)の来るといふ詞(ことば)始れり但馬(たじま)の城(き)の崎(さき)
箱根(はこね)の底倉(そこくら)へ湯治するもの多きは皆此男
色の有ゆゑなり昔は坊主計がもて遊し
故にや痔といふ字は疒(やまい)冠(か)に寺といふ字なり
しかるに近年は僧俗(そうそく)押なへて好こと甚以 不(ふ)
埒(らち)の至りなり今より娑婆世界にて男色
相 止(やめ)候様に急度申渡べしとの勅命(ちよくめい)皆々はつ
とお請を申けるが十王の中より転輪王(てんりんおう)進出(すすみいて)
て申けるは勅(ちよく)定を返し奉るは恐(おそれ)多(おゝ)きに似たれ
ども思ふ事いはでやみなんも腹(はら)ふくるゝわざ也
仰の通り男色も亦 害(かい)なきにはあらずしかは
あれども其 害(かい)女色に比(ひ)すれば至て軽くし
て
中〱同日の談(だん)にあらず譬(たとへ)は女色はその甘(あまき)こと
蜜(みつ)のごとく男色は淡(あはき)こと水のごとし無味(むみ)の
味は佳境(かきやう)に入ずんば知がたし是は畢竟(ひつきやう)大王の
若衆御 嫌(きらい)なるがゆゑ上戸の餅(もち)屋をやめさせ
度と申がごとし其上 娑婆(しやば)の評判(ひやうばん)を余所(よそ)なが
ら菊之丞が絶色(せつしよく)なる事兼てよりかくれなけれ
はせめて此世の思ひ出に絵姿(ゑすがた)なりとも見まほし《割書:シ|》
此義は何とぞ御免を蒙たしと願へば閻王は不
機嫌にて蓼(たで)喰ふ虫も好(すき)〳〵とは其方が事なり
然れどもたつての願もだしがたし絵図を
見る事は勝手次第たるべししかしおれは若
衆を見るは嫌(きらい)なれば絵の有内は目を閉(とち)て見ま
じき程に早とく〳〵と御目を閉させ給へば彼
罪人が持たりし姿絵を柱に掛けるに清(きよき)如(ことは)_三
春柳含(しゆんりうの)_二初月艶似(しよけつをふくむがことくゑんなることは)_三桃花帯(とうくわの)_二曉煙(きゆうゑんをおぶるににたり)その姿(すかた)の
あてやかなる事ゑもいはれざれは人々は目もは
なさずはつと感(かん)じて暫(しはらく)は鳴(なり)もやまず誠(まこと)や
婆婆にてうつくしきものは天人の天降(あまくたり)たるといへ
どもそれは畢竟(ひつきやう)遠が花の香(か)なり此国の極楽
にては几巾(たこ)を登す同然(どうぜん)に常(つね)に見る天人なれ
ば美(うつく)しいとも思はす路考とくらべて見る時は
閻魔王の冠と餓鬼(がき)のふんどし程の違ひあり
聞しにまさる路考が姿(すがた)古今 無双(ぶそう)の器量(きりやう)
かなと十王を始として見る目は目玉(めたま)を光らし
【挿絵】
かぐ鼻(はな)は鼻をいからし其外一座に有あふたる
牛頭馬頭(ごづめづ)阿防羅刹(あほうらせつ)まで額(ひたい)の角(つの)を振(ふり)立て
感(かん)ずる声止ざりければ閻王覚へず目をひらき
御覧しけるに越(こよ)なふあてやかなるに心 動(うこき)初
笑しことはどこへやら只 茫然(ほうぜん)と空蝉(うつせみ)のもぬけ
のごとくになりて覚ず玉座(きよくさ)よりころび落
給へば皆々 驚(おどろき)いたき起(おこ)し奉れば漸正気付せ
給ひため息(いき)をほつとつき扨〳〵かた〳〵が見る
前 面目(めんぼく)もなき事ながら我思はずも此絵姿
のみやびやかなるに迷(まよい)たる心を何と遍照(へんぜう)が歌
のさまなる我ふるまひ扨つく〳〵と按(あん)ずるに古
より美人の聞え数もかぎらぬ其中にもまた
ならぶべき人もなし西施(せいし)がまなじり小町が
眉(まゆ)楊貴妃(やうきひ)か唇(くちびる)赫奕姫(かくやてひめ)が鼻筋(はなすじ)飛燕(ひえん)が腰(こし)
つき衣通姫(そとほりひめ)の衣裳(いしやう)の着(き)こなしひつくるめたる
此 姿(すがた)桐(きり)は御 守殿(しゆでん)山丹(ひめゆり)は娘盛(むすめざかり)と瞿麦(なてしこ)のなどゝ
は並(なみ)〳〵の事花にも月にも菩薩(ぼさつ)にも又ある
べきともおもほえずまして唐日本の地にかゝる
もの二度生ずべきにあらざれば我も是より
冥府(めいふ)の王位を捨(すて)娑婆に出て此者と枕(まくら)をかわ
さば王位の貴(たつとき)も何かはせんと御目の内もしど
ろにてうかれ出んとし給ふ処に宗帝(そうてい)王かけ
出御 袖(そで)をひかへにがり切て申けるはこはけし
からぬ大王の御 振舞(ふるまい)わづか一人の色におぼれ
此冥府の王位を捨(すて)娑婆(しやば)に出て人間にまじ
わり給はゞ地獄極楽の政(まつりごと)は執行者(とりおこのふもの)もなく善
悪を正ずべき所なければ三千世界の衆生は
何を以て教(おしへ)とせんやかゝる貴き御身をば優童(やらう)
買(かい)と成果(なりはて)給はゞ極楽に満(みち)々たる金の砂は忽
に堺町の有(ゆう)となりいくら有とも使(つかい)足らず
は金のなる木がわしやほしいと悔(くやむ)段に成ては
極楽の先生 釈迦如来(しやかによらい)の黄金(わうごん)のはだへまで潰(つぶし)
に掛(かけ)て下金(したがね)屋へ売てやり地蔵菩(ぢぞうほさつ)は長太郎坊
主同然に子共のなぶりものと落(おち)ぶれびんが鳥
は両国橋の見せものとなり天人も女衒(ぜげん)の手に
渡り三途川の姥はのり売姥と変(へん)じ仁王は
辻竹輿(つじかご)かくやうに成行かば地獄極楽 破滅(はめつ)せん
は目(ま)のあたりなるに其気の付ざる御年ばいにも
あらずまた譬当世を見習て蝙蝠(かうもり)羽織に
長 脇指(わきざし)髪(かみ)は本田に銀ぎせる男娼買(やらうかい)と
見せ掛ても色のとれる御 顔(かほ)にてもましまさ
ず昔 海老蔵(ゑびぞう)が景清(かけきよ)の狂言(きやうげん)にて御姿を似せ
しさへ娑婆の者共はおぢおそるゝに其御姿
にてぶらつき給はゞうさんな者と召捕(めしとら)れ大屋を
詮議(せんぎ)せらるゝ時大屋は釈尊(しやくそん)名主は大日と
云たりとも証拠(しやうこ)に立者もなければ無縁法(むえゑんほう)
界(かい)の無宿(むしゆく)仲ケ間へ入られて憂目(うきめ)を見給はん
は案(あん)の内それとも御 得心(とくしん)なくは此 宗帝(そうてい)王御
前にて腹(はら)かつさばき申べし御 返答(へんとう)承らん
と席(せき)を打て諌(いさめ)ける処に平等(びやうとう)王しづ〳〵と
立出申されけるは宗帝王の諌言(かんげん)は比干(ひかん)か胸(むね)
をさかれ呉子胥(ごししよ)が眼(まなこ)をぬかれ木曽の忠太が
義仲(よしなか)を諌(いさめ)て腹(はら)切たるにもをさ〳〵おとるべか
はあらねども日頃御 偏意地(かたいぢ)の大王 一旦(いつたん)仰出さ
れたる事は変(へん)じ給はぬ御 気質(きしつ)一杯の水を以
車薪(しやしん)の火は救(すくい)がたしいか程に諌(いさめ)給ふとも馬
の耳の風牛の角の蜂(はち)とやらでさして御為に
もなら山のこの手柏(てかしわ)の二面(ふたおも)に男とも見え女と
もみめよき路考が姿(すかた)故に此 冥府(めいふ)を捨給はん
とは世上の息子の了簡(りやうけん)にして地獄極楽の主
たる大王の智と云ふべきにあらす是非〳〵
御 望(のぞみ)とある事ならば使をつかはし召捕(めしとり)て
参んに何条事の有べきや何れもいかにと
申されければ一座の人々口を揃(そろへ)平等(ひやうどう)王の評(ひやう)
議(ぎ)甚道理に当(あたつ)て砕(くだ)る大王も尤と聞れければ
いさや路考を召捕に遣すべき使を詮儀(せんぎ)せら
れけるに泰山(たいさん)王申されけるはそれ人生れては定(ぢやう)
業(ごう)にあらざれば此土へは来らざる習なりいざ〳〵
定業帳を詮義あるべしとて取出させつく〳〵
とくり返して申されけるは午の霜月佐野川市
松未の七月中村助五郎 腫物(しゆもつ)にて死すべし
とは有とも菊之丞か命はいまだ尽べき時節
にあらず御使を遣されたりとも彼国には伊
勢八幡を始として彼か氏神王子の稲荷(いなり)なん
ぞとて四も五も喰はぬ手あひにて此界をも
直下(ちよつか)に見下すおへない親父が沢山(たくさん)に守り居
れば中〱表立ての御使にては存もよらず此義
いかにと申されければ初江(しよこう)王進出て申けるは
それこそ安事なんめり愛岩(あたご)山の太郎坊 比良(ひら)
山の次郎坊などに申付なば忽(たちまち)抓(つかむ)て参んこと
いとやすし誰(たれ)かある天狗ともを召寄よと呼
はり給へば五官王しばしと押とめいや〳〵此評
議宜かるまし情を知らぬ天狗ども力にまか
せ引抓(ひつつかむ)でもし疵(きず)付ては悔(くやん)で返らずそれより
疫神(やくじん)を遣さるゝが近道ならんと申さるれば変(へん)
生(ぜう)王かぶり打ふりイヤ〳〵疫病神(やくびやうがみ)といへどものふ
さんころり山椒味噌(さんしよみそ)と手 短(みしか)に殺(ころす)事はなりがた
し大陽経(たいやうけい)から段々伝経(でんけい)をしている内には大
王御待遠なるべければ疫病神は御無用たるべし一向
それより近道は今世上に沢山なる医者(いしや)ども
に申付れば一ふくにてもやり付る事疫神
などのおよぶべき所にあらず此使は医者共
に申付んと申さるれば皆尤とうなづき先よく殺
医者は誰々ならんと評定ありけるに一向文盲
なる医者はこはがつてめつたなる薬はもらず
何見せても六君子湯(りつくんしとう)益気湯の類一腹の
掛目わづか五分か七分の薬にて白湯(さゆ)に香煎(かうせん)
も同前つまる所は一ふくで何分ツヽのわりを以
謝礼(しやれい)をせしめる計にて毒(どく)にもならず薬にも
ならざれはそろ〳〵干(ほし)べりのするは格別(かくべつ)急に
殺(ころす)ことは成がたし小文才のある医者は人を
殺が商売なれば一ふくにても験(しるし)あるべしと申上
れば閻王 暫(しはらく)御 思案(しあん)ありイヤ〳〵近年の医者ども
は切つぎ普請(ぶしん)の詩文章ても書おぼへ所まだ
らに傷寒論(しやうかんろん)の会(くわい)が一へん通り済(すむ)やすますに
自(みつから)古方家或は儒医(しゆい)などゝは名乗れども病
は見えず薬は覚えずに漫(みだり)に石膏(せきかう)芒消(ぼうせう)の類
を用て殺(ころす)ゆゑ死て此土へ来るもの格別(かくへつ)に色
も悪(わる)く痩(やせ)おとろへて正真の地獄から火を貰(もらい)
に来たと云ふやうな形(なり)になる事是皆当世
の医者共己が盲(めくら)はかへりみず仲景(ちうけい)孫子邈(そんしはく)
張子和(ちやうしわ)など同じやうに心得て鸕鷀(う)の真似(まね)を
する烏(からす)なればかあいや路考も薬毒(やくどく)に中(あたり)て死
たらば花の姿も引かへて火箸(ひばし)に目鼻(めはな)と痩(やせ)お
とろへば呼寄てから詮(せん)もなし何とぞ無事に
取寄て互(たがひ)ちん〳〵ちがひの手枕(たまくら)に娑婆(しやば)と冥途(めいど)
の寐物語(ねものかたり)縁(ゑん)につるれば日の本の若衆の肌(はだ)を富(ふ)
楼那(るな)の弁(べん)舎利弗(しやりほつ)が智恵(ちゑ)目蓮が神通(じんづう)をか
りてなりとも片時(へんし)もはやく呼寄(よびよせ)て朕(ちん)が思ひ
をはらさせよとしほ〳〵として宣(のたま)へばさしもの
十王 方便(てたて)に尽もはや我々が智恵(ちゑ)も中橋(なかばし)
なれは此上は修羅道(しゆらどう)へ使を立 太公望(たいこうぼう)孔明(こうめい)
韓信(かんしん)張良(ちやうりやう)孫子(そんし)呉子(ごし)武則(たけのり)義経(よしつね)正成(まさしげ)道鬼(とうき)
が類の軍師(ぐんし)どもを召れ御 評議(ひやうぎ)然べしと申上
れば末(ばつ)座より色至て赤(あかく)眼(まなこ)の光 鏡(かゞみ)のごとく口
耳のきわまで切て首(くび)有て形なきもの出る
を見れば人の一生の事を見届て帳に記す横(よこ)
目役見る目と云る者なり閻王の前にすゝみ出
かた〳〵の御評議御尤には候得ども是式の事に
修羅道(しゆらどう)へ人を遣し軍師どもを召れんことは
此界の恥辱(ちぢよく)といふべし其上彼等が智謀(ちほう)計略(けいりやく)
にて此方の智恵(ちゑ)を見すかされなばいかなる謀
をなして小夜嵐(さよあらし)の騒動(そうとう)以後太平の地獄
界 再(ふたたび)乱世となるならば上閻王より下 獄卒(ごくそつ)
に至までの難義なれば軍者を御 招(まねき)は御無用
たるべし私は人のかたに居て善悪を規(たゞす)か役
目なれば人々心に思ふ事をも明白に是を知
れり菊之丞を初として其外の役者ども船遊(ふなあそび)
に出べききざし有事兼てより存たり此
虚(きよ)に乗て謀(はかり)給はゝやわか御手に入ざらん哉と
聞より大王悦び給ひそれくつきやうの事な
めり水辺の事なればいそぎ水府(すいふ)へ使を立
竜王を呼寄よ畏(かしこまり)候とて数多(あまた)の鬼の中より
足疾鬼(そくしつき)とてまたゝく内に千里行て千里
戻(もどる)地獄の三度仲ケ間へ仰付られければ兎角(とかく)
する間もなく八大(はちだい)竜王の惣頭(そうかしら)難陀竜王(なんだりうわう)
参内(さんだい)と披露(ひろう)させ衣冠(いかん)正しき其よそおひ頭(かしら)
に金色(こんじき)の竜をいたゞき瑪瑙(めのう)の冠 瑠璃(るり)の纓(ゑい)
珊瑚(さんご)虎珀(こはく)の石の帯(おび)玻璃(はり)の笏(しやく)瑇瑁(たいまい)の履(くつ)異(い)
形(きやう)異類(いるい)の鱗(うろくづ)ども前後をかこみ参内あり
御 階(はし)の本にひれ伏ば大王はるかに御覧あり
珍しや竜王只今召こと余の義にあらず此
大王うそ恥しくも心をくだく恋人は南瞻部(なんせんぶ)
州(しゆう)日本の地に瀬川菊之丞と云ふ美少年あり
是を我手に入れんためさま〳〵と評議せしに
彼菊之丞近日船遊に出るとの事ゆゑ水中は
汝(なんぢ)が領分(りやうぶん)なれば急ぎ召捕来るべしとありけれ
ば竜王は恐入(おそれいり)勅(ちよく)定の趣いさい畏り奉る私 支配(しはい)
の者どもには鰐(わに)鯊魚(ふか)を初として水虎(かはたらう)水(かは)
獺(をそ)海坊子(うみほうず)なんど人を取こと妙を得て候へば此者共に
申付急に召捕差上て宸襟(しんきん)をやすめ奉んと事も
なげに勅答(ちよくとう)あれは大王 怡悦(いゑつ)まし〳〵て然は菊之丞が来迄
は奥の殿に引篭(ひきこもり)天人どもに三弦(さみせん)弾(ひか)せてなぐ
さまん此砌に罪人(ざいにん)どもが見へたりとも大抵(たいてい)軽
は追返し重きやつは先六道の辻の溜(ため)へ打
込で置べしまた最前(さいぜん)の坊主め菊之丞に身
を打し事初は憎(にく)しと思ひしが朕(ちん)が心にく
らぶれば若い者の有そふな事なれば再(ふたゝび)娑(しや)
婆(ば)へ返(かへす)べししかし此後菊之丞買ことは法度
たるべし弁蔵松助菊次なんどを初として
其外湯島神明に至るまで外の者は免許
なるぞと勅定ありて御 簾(れん)さつとおりければ
竜玉は水府に帰り皆々退土したりけり
根南志草一之巻終
根南之久佐二之巻
抑狂言の濫觴(らんしやう)を尋に地神五代の始 天照太(あまてらすおほん)
神此日の本を治(おさめ)給ふに御弟 素戔(そさの)嗚尊御 性質(うまれつき)
甚きやんにてましませば何事も麻布(あざぶ)にて様々
どうらくをなし給ふ太神(おはんかみ)是を愁(うれひ)給ひてあの通
の安本丹にては行末心もとなしとて色々御□
見ありけれども久しいもんしやソリヤないぴいなと
とて請付給はず後にはいろ〳〵の悪あがき長じ
けれは大神(おほんかみ)慍(いかり)まして天石窟(あまのいはば)に入まして磐戸を
閉て篭(こもり)給ふ故に六合(くに)の内 常闇(とこやみ)にして昼夜の相代(わいため)
をも知らず初の程は行灯挑灯にても用を
弁しけるが何が家々にて昼夜不断とほす事
なれば俄(にわか)に蝋燭油の切もの次第に直段(ねたん)は
高間が原神の力にも自由にならぬは金銀な
れば中以下にては挑灯とほすことなどもならさ
れば馬士の神 車(くるま)引の神などはあられぬ所へ引
かけて神ンたゝきに扣(たゝき)合 神(かん)抓(つかみ)に抓(つかみ)合町々小路〳〵
にて喧嘩(けんくわ)のたゆる隙(ひま)もなしされども闇(やみ)夜の
盲(めくら)打 誰(たれ)相手と云ふ事も知れず公(おほやけ)へ持出して
もくらかりに牛つないだ様にて是非のわかちも
付かたければ先世の中の明るく成まては名主の神
大屋の神へ御預との事なり扨また世間のつき
あひ等は麁 服(ふく)にても目に立ねば始未(しまつ)にはよけれ
ども或はいつ何日に御出合申へしといふ事も
正真の闇夜(やみよ)の鉄炮(てつほう)にてあてどもなく物を洗(あらふ)
ても火であふるより外は干(ほす)べき手たてもあらされ
は士農工商(しのうこうしやう)の神々 業(わさ)を勧る事もならす中に
も色里にてはいつを夜みせと時も知れねば物
日なとゝいふ事もなく花の時やら灯篭(とうろう)やらわけ
もなくなりゆき客も初の程はしつほりとして
結句能なとゝて来るものも多かりしが次第に
世間かまびすしくなりけれは後には遊者も
なく太夫格子さんちやより河岸女郎に至
までさしも多かりし馴染(なじみ)の客も科戸(しなど)の風の
天(あま)の八重雲を吹はなつことのことく繁(しけ)木が本
を焼鎌(やいかま)の敏鎌(とかま)を以て打 掃(はら)ふ事のごとくこと
とふ者もあらざれば忘八(くつわ)夫 婦(ふ)は頭 痛(つう)八百や
りて若い者なとを呼寄(よびよせ)コリヤマアとふしたらよ
かろふと四人 額(ひたい)に皺(しは)をよせ八の耳をふり立
て色々 評(ひやう)議の詮(せん)もなく口に諸々の噂はすれ
とも目に諸(もろ〳〵)の客を見す借(さかり)の有茶屋船宿は
払給へ清(きよ)め給へとせかむへき相手もなく牽頭
が貰ふた紙花も坎艮震巽(かんごんしんそん)の卦(け)に当たとの
悔言(くやみごと)其外上下 押(おし)なへて勝手によいといふものは
只 鼠(ねつみ)と朝寝好(あさねすき)の男より外にはなし是ては
世間さゝほうさになりてたまるまいと八 百万(をよろつ)の神
天(あま)ノ安(やす)ノ河辺(かはべ)に会(たちつどひ)て色々評義ありけれども
さして尤らしき事もきこえす或は石匠(いしや)に入
札させ天窟屋(あまのいはや)を切開んといへはイヤ〳〵若 太神(おほんかみ)
怒(いかり)給ひて飛去給はゝ甚 難渋(なんしう)なるへしと評義
さらに一 決(けつ)せさりし処に近松氏の祖(とをつをや)思兼神(おもひかねのかみ)
進出て宣ひけるは中々外の事にて御機嫌は直
給ふまじ太神常に狂言を好給へば岩戸の前
にて狂言を初なは極て岩戸を開かせ給ふへし
と申けれは皆々至極尤なり是は慥(たしか)に当(あたり)そふな
趣向(しゆこう)なりとて扨(さて)役者をそ撰(ゑらま)れける先立役 荒(あら)
事角かつらにての一枚看板(ちまいかんはん)手力(たちから)雄神(をのかみ)丹前(たんせん)
所作事やつし色(いろ)事師には天児屋命(あまつこやねのみこと)敵(かたき)
役には太玉命(ふとたまのみこと)わけて其頃名も高き黒極上々
吉女房方娘方おやま所作事引くるめて若女
形のてつぺん天鈿女命(あまのうすめのみこと)其外居なり新下り
惣座中残ず罷出第四番目まて仕御目にか
けまするとのはり紙明日 顔(かほ)見せと聞つたへ
諸見物山のごとく詰懸(つめかく)れば芝居の内より茶
屋の門々それ〳〵のひいきの定紋付たる挑灯
は星(ほし)のごとく天香(あまのかく)山の五百筒(いをつ)真坂樹(まさかき)を植(うへ)て気(け)
色(しき)をかざり常(とこ)世の長 嗚鳥(なきとり)を吸ものにして呑(のみ)
掛(かく)れは常闇(とこやみ)の世も明(あけ)たる心地神々はいさみをなし
思ひ〳〵の積(つみ)物 天神組(てんじんくみ)地神組と左右にわかち
花をかざりきらを尽(つくし)けるかいつあくるともなく
約束の刻限(こくけん)に成ければ木戸口はどや〳〵もや〳〵
錐(きり)を立るの地もなく誠に天地 開闢(かいひやく)以来かゝる
大仕組はあるまいと知るも知らぬも老たるも
若きも我一との人 群集(くんしゆ)式三番も終りお定
の口上も相済けれは是より天浮橋瓊矛日記(あまのうきはしさかほこにつき)
一番目より段々狂言に実(み)かいり程なく第
三番目に至て天児屋命(あまのこやねのみこと)は磤馭盧(おのころ)丸本名
伊弉諸尊(いさなきのみこと)の役 天鈿女命(あまのうすめのみこと)は傾城浮橋(けいせいうきはし)本名
伊 弉冊尊(さなみのみこと)つもり〳〵し揚代(あけたい)三白両の金の代
に天瓊矛を揚屋か方へとられしを太王命
は大戸之道尊(おほとのぢのみこと)の役にて両人の瓊矛(さかほこ)を詮議し
給ふ検使(けんし)の役此処にて検使のつよさ両人の愁(うれひ)
の所諸見物は感(かん)に堪兼(たへかね)イヨおらが鈿女(うすめ)のよ
イヨ児屋(こやね)様 太玉(ふとたま)様など桟敷(さじき)も下も声々に
暫(しばらく)鳴(なり)もしづまらす此時 天照太神(あまてらすおほんがみ)聞し召
て下地は好なりたまられず御手を以て磐戸(いはと)
を細目(ほそめ)に開て是を窺(みそなは)す折よしと三人(みたり)の尊(みこと)
立寄て岩戸を明んと手をかけ給へば太神(おほんがみ)は
たてんとし給ふ互(たがい)にえいやと引力 勝負(しやうぶ)は更(さら)
に付ざりけり時に向の切幕(きりまく)より暫(しばらく)々と掛声(かけごへ)
あり太神(おほんがみ)御声うるはしく今 朕(ちん)が岩戸(いわと)をた
てんいやたてさせじと争(あらそふ)ところに暫(しばらく)と留て
出たは何者なるぞと宣ふ内 拍子木(ひやうしぎ)俄(にわか)にくわた〳〵
〳〵大 薩摩尊(ざつまのみこと)浄瑠璃(しやうるり)をかたり給へは切幕(きりまく)
をさつと明(あけ)柿(かき)のすはうに大太刀はき市川流の
貌(かほ)のくまどり鬼かイヽンニヤ神かムヽヱイ手力雄尊(たちからをのみこと)
だモサアとせりふに味噌を八百万(やをよろづ)程上てつか〳〵
と立寄何の苦(く)もなく岩戸を取てつまみ砕(くだき)
天照太神(あまてらすおほんがみ)を引出し奉る中臣神(なかとみのかみ)忌部神(いむべのかみ)端(しり)
出之縄(くめなわ)を引渡す日の神出させ給ひければ
昔のごとく明るくなり人の面しろ〳〵と見え
しより芝居を見て面白(おもしろ)やといふ事は此時よりぞ
始りける扨また同じ神代に彦火々出見尊(ひこほゝでみのみこと)の
太先元(たゆふもと)にて火酢芹命(ほのすそりのみこと)など狂言興行あり
けれども金元(かねもと)なかりし故に赭(そぼに)とて赤き土
を手にぬり貌(かほ)に塗(ぬり)て勤られしかども一向に
入もなくて太夫元の名代もつぶれける又 翰林(かんりん)
葫蘆集(ころしう)なとを考れば古は神楽(かぐら)とも云しを
聖徳(しやうとく)太子神楽の神の字の真中(まんなか)に墨打を
して秦河勝(はだのかはかつ)に鋸(のこきり)にて引割(ひきわら)せ是を名付て
申楽(さるがく)といふ其後の人 申(さる)の字の首(くび)と尻尾(しつぽ)とを
打切て田楽(でんがく)と号して専(もつはら)行れけり其後は田の
字の囗(かこみ)をとりて十楽などゝも名付べきを永
禄の頃 出雲(いづも)のお国といへる品者(しなもの)江州の名古屋
三左衛門となんいへるまめ男と夫婦となり歌舞(かぶ)
妓(き)と名をかへ今様の新狂言を出す夫より千
変万化(へんばんくわ)に移(うつり)かはり江戸は江戸風京は京風
と分れ物の名も所によりてかはるなり浪華(なには)
の芦屋道満(あしやどうまん)か伊勢座から名古屋の繁昌(はんじやう)安芸(あき)
の宮島 備中(びつちう)の宮内 讃(さぬ)岐の金昆羅(こんひら)下総の
銚子(てうし)まで行渡らぬ所もなく三歳の小児も
団十郎といへばにらむことゝ心得犬打童も
ぐにやつく事は富十郎なりと覚ゆされは太
平の世の翫(もてあそひ)人を和するの道にして孟子にいわ
ゆる世俗の楽(がく)たりともまた捨(すつ)べきにはあらず
しかはあれども高貴の人 自(みつから)其わざを学び
烏帽子(ゑほし)の緒(を)も掛(かく)る顔(かほ)を紅(べに)白粉(おしろい)にて塗(ぬり)よ
ごし政(まつりごと)をも談(だん)ずべき口にてせりふなど吐(はき)
出してみづから楽とおほゆるは片はらいたき
事なり或 愚(おろかなる)人我死て先の生は松魚(かつを)になり
度といへるを傍(かたはら)の人聞て何故 松魚(かつを)になり度
やといへば松魚はうまきものなればなりといへる
に同じ松魚も喰ふてこそ味あるべけれ我 松(かつ)
魚(を)になりて人に喰れては我はうまくはあるまじ
狂言も役者にさせて見るはよし自(みつから)是をする
とも面白はあるまじきことなれとも楽はまた
其中に有馬筆人形まわしや狂言にて日を
暮す貴人の心の楽とする処のひれつなる事
は我心に問て知べし曽子(そうし)は飴(あめ)を見て老を
養んことを思ひ盗跖(とうせき)は是を見て錠(ぢやう)をあけん
ことを思ふ下戸は萩(はき)を見てぼた餅を思ひ
歯なしは浅漬(あさつけ)を見て蔊菜卸(わさひおろし)を思ふも
皆人々の好処へ情の移(うつる)が故なり好(すき)こそ物
の上手なりとて親好(おやすき)は孝行の名を上主好は
忠臣の名を残す是等の好は積(つむ)ことをいと
はす其余の事は好なりとて心をゆるす時は害(かい)
をなすこと少からず食は体(たい)を養ふ物にして
過(すくる)時は命をそこない酒は愁(うれひ)をはらふといへ
ども内損(ないそん)の愁(うれひ)そのまぬ先の愁にまされり
火事がこわひとて一日も火を焚(たか)ずしては逗留(とうりう)
【挿絵】
のならぬ浮世(うきよ)なれば兎角(とかく)得失(とくしつ)はみな
其用る
処にありと知るべし芝居も勧善懲悪(くわんぜんちやうあく)の
心にて見る時は教(おしへ)ともなり戒(いましめ)ともなれども
是に溺(おぼる)る時は其 害(かい)少からず或はまた人の妻
女の櫛筓(くしかうがい)に役者の紋を付て頭(かしら)にいたゞくを涎(よたれ)
たらして見て居る亭主(ていしゆ)の鼻毛(はなけ)三千丈たはけ
によつてかくのごとく長(ながし)と李白(りはく)に見せたら詩に
も作そふな親玉(おやたま)も世に多し扨また役者も昔
は名人多かりしが寄(よる)年の引 道具(どうく)には拍子木(ひやうしぎ)
の相図もいらずそろ〳〵あの世へせり出し道具
蓮(はす)の台(うてな)へ早替(はやがわり)してより堺町ふきや町木挽
町三方の芝居に飾海老(かざりゑひ)なく狂言の骨(ほね)もぬ
けたか屋の高助を始として名人の名をむ
なしく印(しるし)の石にとゞめしより又名人と呼るゝ
人の希なるは何ごとぞやされば諸芸(しよげい)押なべ
て昔の人よりおとれるは近世人の心 懦弱(だじやく)にして
小利口(こりこう)にして大 馬鹿(ばか)なる故なり昔の役者は
師に随て随分其 業(わざ)を伝へ昼夜(ちうや)心を用たる
ゆゑ名を揚(あげ)しもの多し近年の役者は師
匠と云ふも名字を貰ふ計にて山上(さんじやう)参りの
権大僧(こんだいそう)都(つ)の官(くわん)にのぼる様に心得て気と給金(きうきん)
計が高く成て修行(しゆぎゆう)すべき芸(けい)は学(まなぶ)す兎角
女に思ひ付るゝを第一とし我より目上なるを
も非(ひ)に見なし味噌を上ればよいことゝ心得て
作者の詞(ことば)をも用ず仮(たとへ)一花(いつくわ)の思ひ付にて評判(ひやうばん)
を取といへとも其おとろへの早きこと鉄炮(てつほう)の
玉に帆(ほ)を掛(かけ)たるがごとし是皆心を用る事 疎(うとき)
が故なり今は昔沢村小伝次といへる若女形 河(かわ)
内(ち)の藤井寺の開帳へ参りて小山といふ処に
宿しけるが小伝次曰一日 竹輿(かご)にゆられて血暈(ちのみち)
がおこりしといへるを連(つれ)にて有ける竹中半
三郎小松才三郎尾上源太郎など笑ていわく
いかに女形なればとて男に血暈(ちのみち)とはと腹(はら)をかゝへ
けるを其座に西鶴(さいくわく)も居合けるか大に感(かん)して
曰 稚(おさなき)より形(なり)も詞(ことば)も女のごとくならんと日頃に
たしなみしより仮初(かりそめ)の頭痛(づつう)を血暈(ちのみち)と覚え
しは扨々しほらしき事なりといへるとなり実(け)に
其 業(わさ)を専一に勤るものは皆々かくのごとくあり
たきものなり然ば敵(かたき)役は常(つね)に人をいじめ或は
芝居でするごとき悪工(わるたくみ)をして日に二三度も
本に殺(ころさ)れても見るやと理屈(りくつ)いふへけども是又
左にあらず悪き事は似せる事 易(やす)し譬(たとへ)芝
居でなくとも悪人になるは何のぞうさもな
き事なり只善に移(うつ)る事は勤ずんばなりが
たし殊に男にて女と見せる事は至て心を用
ずんば上手には成がたし小伝次がたしなみ誠
に感(かん)ずべき事なんめり近年は若女形に
て舞台(ぶたい)へ出たる処はやさしくも見ゆれども
常の身持はけふもあさつても鮫鞘(さめさや)の大脇
指をぼつこみうでまくりして茶碗(ちやわん)で清左(せいざ)を
もぢりちらし無上にたれをかきさがしまわ
した跡でのはりこみ悪たい舞台(ぶたい)て
見た時の仕打(しうち)とはお月様とひし餅下駄と
人魂(ひとたま)程違ふたるよし仮(たとへ)一応評別よくとも
名人の名を得る事には至りかたかるべしかゝる
中にも蓮葉(はらすば)の濁(にごり)にしまぬ玉の姿(すかた)瀬川菊
之丞となんいへる若女形あり此人先菊之丞が
実生(みせう)にはあらかねの土の中より堀(ほり)出したる
分根(わけね)なるが二葉の時よりも生立(おひたち)野菊の類に
あらずと評判は高作(たかつくり)器量(きりやう)は外に並(ならび)夏菊と
もてはやされ今三ケ津に此歳にして此 芸(けい)なし
との是沙汰末頼もしき若者にてぞ有ける
頃しも水無月の十日あまりわけて今年は
去し頃 霖雨(りんう)の降(ふり)つゞきて俄(にわか)に照(てり)あがり
たる跡なれば暑(しよ)はいつよりも強(つよく)風見は作付
たるがごとく草は画(ゑかけ)るに似たり道行人は汗と
なりて消なんかと苦(くるしみ)犬の舌(した)は解(とけ)て落んかと
疑(うたか)ふ人々暑をさけん事をのみはかりけり
菊之丞も我家にありて暑(あつさ)をなん苦(くるしみ)居ける
処に同し若女形荻野八重桐来りけるが
同座の勤といひ共に戴(いたゝく)紫(むらさき)ぼうしのゆかりの
色も有中なれば心置べきにしもあらずそ
こらを三保の松ならで羽衣(はころも)をぬひて掛(かけ)ざほ
の掛かまいなく打解(うちとく)れば菊之丞が妻は馳走(ちそう)
ぶりと後(うしろ)から扇(あふぎ)の風も既(すで)にそよ〳〵深川にて人
なれし者なれば葛水もつめたい所へ心を付て
のもてなし一つ二つの物語も半(なかば)は暑(あつさ)の噂なるが八
重桐が云けるはわけて今年は暑もつよき故 涼(すゞみ)
船の多き事是までになき賑(にぎは)ひなり幸此 砌(みぎり)は
芝居も休(やすみ)の事なれば一日出なんはいかにと云ふ菊
之丞曰我も兼て其 望(のぞみ)ありながら事繁(しげき)に
まぎれて打過ぬればいざや一日出て遊んとの催(もよほし)
然らば連をも誘ふべししかしあまり大勢
もそう〴〵しければとて夫より来 ̄ル十五日と日を
定て鎌倉平九郎中村与三八なんどへ使して
いひものしけるに何れもしかるべしとの返事
なればいよ〳〵十五日 早朝(そうてう)よりときはめ船中
の事などつど〳〵に約(やく)して八重桐は我家に
ぞ帰りける
根南志草二之巻終
【裏表紙】
根奈志具佐 下
根奈志具佐三之巻
去程に竜宮城には先達て閻魔(ゑんま)大王の勅命
を蒙りければ急ぎ菊之丞を召捕べき評定
あるべしと諸の鱗(うろくず)ども列を正して相詰ければ
竜王仰出さるゝは我閻魔王の幕下(ばくか)に属(しよく)し此
水中界の主となり多の鱗(うろくず)を養ふ事皆大
王の御恩なればかゝる時節に忠義を尽さずんは
いつの世にかは御恩を報じ奉んやしかはあれど
も世界をへだてゝの事なれば容易(たやす)く取り
得る事かたかるべし若此度の御用を仕損じ
なば其 祟(たゝり)は三途川の川ざらへか極楽の御 修(しゆ)
覆(ふく)など仰付られては近年は押なべて金魚
銀魚の手はまはらずほう〴〵より緋(ひ)鯉にせつ
かれ世間のしびも白魚のひしことつまり
し時節なれば甚難義たるべし若 逆鱗(げきりん)つ
よき時は我々此水中を離(はなれ)ていかなる所へか
追立られんもし三十三天の内などへ左遷(させん)など
とある時は道中にて皆々 枯魚(ひもの)となるべければ
仮初(かりそめ)ならぬ一大事急き菊々丞を召捕(めしとる)へ□思
案あるべしとの仰一の上座に坐し居たる鯨(くじら)ゆう
〳〵と立出申けるは仰の通り御上の御大事此時
なり私義は身不 肖(せう)ながら家がらたるを以て代々
大老職相勤是に並居る鰐(わに)鯊魚(ふか)なんども家老
の座に連りしびまぐろなどは用人を勤むれば
彼等とも内々評議致せし処 所詮(しよせん)人界の様子
委く聞届たる上ならでは謀(はかりこと)は出まじく存付手下
の者共の内にて才覚(さいかく)ある者どもを忍びに遣し
置たれば定て様子相知れなんと申詞も終らぬ
処へ御注進と呼はり〳〵真黒(まつくろ)になりてころ〳〵と
こけ出るは本庄辺に住居する業平蜆(なりひらしじみ)にてぞ
ありける竜王は御声高く彼等ごとき下郎たりと
も甚急ぎの事なれば直に聞べきとの御諚 蜆(しゞみ)
恐れ入て口を明(あけ)私儀人界へ忍びの役目を承り
籠(ざる)の中へはかり込れ人の肩(かた)にかつがれ方々と
歴(へ)廻り大抵(たいてい)人界の様子承りて参たり先私罷
通りし所は処々の新道 裏店(うらdな)が第一なれば大名小
路は勿論(もちろん)通り筋などの様子は存ぜず先始参り
し所にて何かは知らず私をかつぎし男一升十五
文と申せば歳(とし)の頃三十計の女房立出五文にまけ
ろと云ふかつきし男腹を立とつぴよふずも
ない盗物ては有まいし半分 殻(から)てもそふは売
らないと悪たいついて立出れば跡(あと)にて女房さし
も小美(こうつくし)い貌(かほ)しながらえいかと思ふていけすかない
こてれつめそんな悪たいはうぬがかゝにつけろと
はり込声のほの聞(きこへ)てもかつぎし男は聞ぬ貌し
て蜆や〳〵と売て通ればとある格子作(かうしつくり)の内に
かなきつた声ではなたれ娘が三 弦(せん)をぞ弾(ひき)居た
る此竜宮界にては琴(こと)三弦(さみせん)などは能衆ばかりの
翫(もてあそひ)かと思ひしにかゝる少き暮(くらし)にて娘に三弦 弾(ひか)す
とは扨々人間と云ふものはおごりしものかなと
思ふ内にきひらの帷子(かたひら)着(き)て小紋羽織を手に
提た男来りてお娘(むす)はいよ〳〵やらしやるつもりに
相談はきまりましたか一昨日もいふ通り向は国家
の御大名お妾の器量(きりやう)えらみ中ぜいで鼻筋(はなすし)の
通た豊後(ふんご)ふしを語(かたる)のがあらばとの事爰なお娘(むす)
をすりみかきしたらいけそふなものかと思ふ殊
に先様御好の豊(ふん)後節はなるなり□やらしやる
なら文 字(し)に頼で弟子分にして貰ひ済せる様
にしませふ支(し)度金は八拾両世話ちんを二わり引
ても八々六拾四五両の手取もし若殿ても産(うん)て
見やしやれこなた衆は国取の祖父さ祖母さま
なれは十人 扶持(ふち)や二十人ふちは棚(たな)に置た物取より
はやすい事いよ〳〵やらしやる合点(がてん)かといへば夫婦(ふうふ)は
よろこひイヤモ御 深切(しんせつ)なおせわの段々どれかゝ小半(こなから)
買ふて来ふと仏壇(ふつたん)の下戸 棚(だな)からはした銭とり
出しかんなべさげて足も空(そら)どぶ板をふみぬきながら
裾(すそ)をまくつて走り行かつきし男は付込で御祝に
蜆(しゞみ)買しやれと云を聞よりもし我等も売れては
なるまいと大勢を押退(おしのけ)て籠(さる)の底(そこ)へかゞんてちい
そふなつて聞居けれは女房は杯を洗(あらい)ながらけふ
の祝は蜆では済されぬかはやきても買ふとの事故
かつぎし男ふせう〳〵にふりかたけ又二三丁程行て
四 辻(つぢ)を左へまかれば今度はそこら大さわき大とろ
ほうめと抓合(つかみあい)組んずこけつの人くんしゆ格(かう)子は
めり〳〵皿鉢はぐわら〳〵手 桶(おけ)の輪(わ)がきれて水が飛
は畳からは黒 煙(けふり)腕(うて)に彫物(ほりもの)した男ども大はだぬきに
成てのさわぎ聞た処が姦夫(まおとこ)出入初は今も切か揬(つく)か
と見る内にイヤ親分(おやふん)しやの割(わり)を入るのと兎や角(かく)と
云ふ内に酒五升とけんどん十人前と下らぬ文言な
誤(あやまり)証文一通で討果(うちはたす)ほどの出入がついくにや〳〵とむつ
折して我等をかつぎし男めも近付(ちかづき)かして仲ケ間
へ入 茶碗(ちやわん)てしたゝか引掛(ひつかけ)て千鳥足(ちどりあし)にて帰がけ馴染(なしみ)
の内へ立寄れば死だ息子の七 回忌(くわいき)とて天 窓(たま)に輪(わ)
の入た道心がきやり声をはりあげて鉦(かね)たゝいて
百万 遍(べん)世帯仏法(せたいふつほう)腹念仏(はらねぶつ)豆腐(とうふ)のくつ煮に干(ほし)大
根のはり〳〵て済せば蜆(しじみ)はいらぬとはねられてかつき
し男腹を立あたけたいないま〳〵しいと帰りに川へ
さらへ込みしを幸と干汐につれて息を切て帰り
しと語もはてぬ処へ背に角をおふて一文字に成
て来るものは拳螺(さゝえ)にてそありける是も忍びの役
人なれば竜王見給ひ人 間界(けんかい)の様子いかに〳〵とせめ
給ふ其時さゞえにじり出て申けるは私は小田原町から
通り筋を一へん廻り候が先 珍(めつら)しきは石町の角に朝(てう)
鮮(せん)人 行列(きやうれつ)附の看板(かんはん)をおひたゝしくかさりたて売子
大勢にて売あるき又 珍説(ちんせつ)は旦那(たんな)のねつた膏薬(かうやく)
売(うり)が奥州の相馬にて主の敵(かたき)を討しとの取沙汰よ
り外さして替りたる事も承らずと申上れば竜王
大にいかりをなし汝等 評議(ひやうぎ)は何としてケ様の役に
立ず共を忍びには遣せしそ此方の入用は菊之丞が
船遊(ふなあそび)の日限(にちげん)なるに其事は聞すして役にも立ぬ事
どもを見て帰りしとていかめしそふに申段言語
同断につくいやつ是と云ふも家老用人共か面々の
身勝手計を考へて下々の難儀はかへりみず鰮(いわし)や
すばしりの類を沢山(たくさん)してやろふと計心がけて役
儀をおろそかにするゆへかゝる大事に魚らしきもの
もやらすさゞえや蜆をやりし段以の外の不届と
鱗(うろこ)をさか立 怒(いか)り給へは其時 鯨(くじら)鰭(ひれ)をうごかし仰
御尤には候得共遣べきもの詮議(せんぎ)致せど他の者は
水を離(はな)れては働(はたらく)こと相ならねは水を出て息(いき)の長
ものを撰(ゑら)出せし処に御用に立ざりし段不届千万
急度申渡べし今一人忍ひに入しは兼て上にも
御存の竜蝦(かまくらゑび)なり年罷寄たれども酒はそこぬけ
ぴんしやんとはねる所が当世のひんぬきなりとて
留守(るす)居役相勤れば元日より人間にまじはり諸寄
合 無尽会(むじんくわい)吉原(よしわら)堺(さかい)町 岡場所(おかばしよ)を初兎角向ふへ廻
りたがり年の暮の浅草市まで年中人にすれ
るが役目なれは定て聞届参んと申上る折から
竜蝦(かまくらゑひ)只今罷帰候と案内させ例(れい)のことく真赤(まつか)にな
り腰(こし)をかゝめて立出れは竜王御覧じ様子いかにと
尋給へばさん候私儀は堺町からふき屋町 楽(かく)屋新
道よし町辺へ入込能々様子承り候処来れ十五日
菊之丞を始として荻野八重桐なんど船遊びに
出るよし微塵(みぢん)毛頭(もうとう)相違なしと詞少に申上れば竜王
甚悦び給い流石(さすが)留守居役を勤る程あつて世間
の穴を能知つて堺町とは気が付たり神妙の働(はたらき)
と御 褒美(ほうひ)に預て髭(ひげ)喰そらしてうづくまる竜王
鰐(わに)鯊魚(ふか)を近く召れ此度の役目汝等罷向ふべし
と有ければ両人ハツトひれ伏申けるは凡(およそ)人を取事私
どもにつゞくものなし海中の儀にて候はゞいなみ申
べきにあらねども船遊と承れば両国永代の
辺なるべければ私共力におよびかたし虎の勢強
といへども鼠を捕(とる)事 猫(ねこ)におとるの道理 譬(たとへ)ば最上
の智者たりともつかひ処悪き時は却て其智の
出ざるかごとし是は余人に仰付られしかるへしと
申上れば竜王 暫(しばらく)御思案あり然ば海坊主(うみぼうす)に申付
べしとて召出されけれは油揚(あふらあげ)にて真黒(まつくろ)にふとり
たるが白帷子(しろかたびら)に紋呂(もんろ)の衣(ころも)五条の袈裟(けさ)をかけ
珊瑚(さんご)の珠数(じゆず)をいと殊勝(しゆしやう)げにつまぐり罷出て申
けるは私儀仏第子となり身には三衣を着し口に
仏名を唱へて厭離穢土(ゑんりゑど)懇求浄土(ごんぐじやうど)此界の衆生
ともは火宅にあらぬ水宅をのかれて南無 網(あみ)
の目にすくいとられ往生の素懐(そくわい)をとげる様にと
導(みちびく)こそ出家の役目なれかゝる事など勤べき身
にしもあらねども近年は私にかぎらす諸宗と
も皆々風俗悪くなり出家の身持に有まじき
栄耀栄花に暮す故中々定りの布施(ふせ)もつ
にては遊女狂ひお花の元手重箱で取寄る肴代
に不足なれば葬礼(とむらい)をかき入石塔を質(しち)に置ても
思ふ様にまはらざればもの云ぬ仏をだしに遣ふて
愚痴(ぐち)無智(むち)の姥(うば)かゝをたらしこみこらすれば仏に
【挿絵】
なると経文にもなきうそ八百をつきちらし堂(どう)の
寄進(きしん)釣鐘(つりかね)のほうがなどいひ立衆生をたふらか
すゆへにやいつとなく化物(ばけもの)仲ケ間へ入られ姫路に
おさかべ赤手ぬぐいと一口に謡るゝ事仏の教に
有べき事にもあらざれども御上にも能御存の上
からは隠べきにもあらずしかし他所の御用ならば
人間をたぶらかすは坊主共の得手ものなれば早速
御請申上べけれど此度の御用には心苦き事の侍る也
其故は涼船(すゞみぶね)の往来する両国永代の辺には見せもの
師共甚多く唐鳥(からとり)熊(くま)女 碁盤(ごばんむすめ)娘なども古(ふるく)孔雀(くじやく)
にも入がなければ犬にかるわざをさせ甘藷(さつまいも)に笛
まで吹せる程(ほど)の者共何がな珍しき物見出さんと
鵜(う)の目 鷹(たか)の目にてさがし求れば私などのやう
なる異形(いぎやう)の者あの辺へ貌(かほ)出しせば忽(たちまち)にからめと
られ憂目(うきめ)を見んは案の内なりもとより出家の
事なれば死る命はいとはねども大切の御用間違
ん事本意なく覚ゆれば余人に仰付らるべし
縁(ゑん)なき衆生は度(ど)しがたし仮(たとへ)寺を開とも此儀
は御 辞退(したい)申上んと魚溜りへぞ引退く当時諸人に
敬(うやまは)れ智識(ちしき)と呼るゝ海坊主さへ御 辞退(したい)申上からは
我参んといふもの一人もなき処に奥の方に鈴(すゞ)
の音していとなまめける姿(すかた)にて立出るを見れば
頰(ほう)高く鼻(はな)小〱背はひきゝ腹(はら)ふくれたるはまが
ふ方なき乙姫(おとひめ)に召使(めしつかはる)るおはしたのお河豚(ふぐ)なり
諸歴々(しよれき〳〵)の並居る真中(まんなか)おめる色なく立出竜王の
前に畏(かしこま)り最前(さいぜん)からの御 評議(ひやうぎ)を一々あれにて聞やん
すれば大切のお使に皆様こまりなさんすよし竜王
様の 御 案(あん)もじが御笑止さに姫(ひめ)ごぜの身で大胆(だいたん)な
がらわつちが思案を申上ます世の人 毎(こと)にわつち
をば植木屋の娘か何ぞのやうに毒じや〳〵と云ふ
らされ腹か立て頰(ほう)をふくらせばおふく〳〵と笑
れしが災(わさはい)も三年と今度の御用を承り君が情に
妾が百年の命を捨菊之丞が腹へ飛入て連(つれ)来
んはほんに〳〵心に覚へがありやすと白歯(しろいは)をむき
出し口をすぼめて申上れば竜王は思案の体 傍(かたはら)に
ひかえたる棘(た)鬣魚 鰭(ひれ)を正してしつ〳〵と立出
かやうに申せば物知り貌に似たれども僕(ほく)儀は何に
よらず祝儀の席をはづさず仁義礼智のはしくれ
も覚へしとて儒者の数に加へらるればかゝる折から
差扣んも尸位素饗(しいそざん)にて候へば覆蔵(ふくぞう)なく申上ん
惣してむかしは人間も質朴(しつほく)にありし故 毒(どく)と
いふものは喰ぬ事と心得河豚を思るゝ事 蛇蝎(じやかつ)の
ごとくなりしが次第に人の心 放蕩(ほうとう)になりゆき毒と
知て是を食す人に君たる方是を憂ひ給いて
河豚(ふぐ)を喰ふて死たる者は其家 断絶(たんせつ)とまで律(りつ)を
たてヽ上仁を好ども下義を好まずふくや〳〵と
大道を売歩行煮売店にも公(おほやけ)に出置事上を
かろんずるの甚しきといひ父母より受得たる身(しん)
体(たい)髪膚(はつふ)を口腹(こうふく)の為に亡さん事五 刑(けい)の類三千にし
て罪不孝より大なるはなしと云ふ聖人の教に
そむくこと天命のかるゝ所なし剰(あまさへ)河豚なき時は
外の魚をふぐもどきと名付て喰ふ事歎かは
しき事なり古人の詞にも牢(ろう)を画て其内に坐せ
ずとて仮(かり)にもけがれたる名は嫌ふことなり非礼見
ることなかれ非礼聞ことなかれと申ことを知ら
ざる世上の文盲(もんもう)なるものは是非もなし小文才有
男或は人に毒(どく)だちなどを教る医者(いしや)なんどに好ん
で食ふものあり是等は一向食をむさぼる犬猫の
ごとしかく乱たる風俗なれば菊之丞も河豚(ふぐ)は好
なるべけれども天の時を以て申さば今水無月
の半にて河豚(ふく)を喰ふ時ならざれば此御評議御無
用ならんと申上れば竜王もせんかたなく無用の長
詮議(せんぎ)に時うつるとも所詮(しよせん)埒(らち)は明まじければ此上は
此竜王一人自身立向ひ雲を起し雨を降(ふら)し菊
之丞を引抓(ひつつかん)で閻魔王へ奉んと波を蹴立(けたて)て立給ふ
一座の鱗(うろくす)前後をかこい鶏(にはとり)をさくに何ぞ牛の刀を
用給ん今一御 評議(ひやうぎ)と留ても留らず前後左右を踏(ふみ)
飛し黒雲を起し出給ふ処に御門に扣へたるもの
つゝと出御腰をむづとだくふりほどかんとし給へ
とも中々 容易(たやすく)動(うこき)得す御所の五郎丸にては
よもあらじ何者なるそ爰(こゝ)をはなせとふり
むき給へば天窓(あたま)に皿(さら)を戴(いたゞき)たる水虎(かつは)にてぞ有ける
竜王は御声高く己(おのれ)下郎の分として推参(すいさん)至極
と御手をふり上ケ打んとし給ふ処を大勢の鱗(うろくす)
ども左右の御手にすがり付御とゞめ申せしは水虎(かつは)
が君への忠義なれば悪くばし聞し召れそ先々
御座に御直りと無理に引立もとのごとく御座に
なをせば竜王猶も怒り給ふを水虎(かつは)御前ににじ
り寄 天窓(あたま)の水もこぼるゝばかり涙(なみだ)をはら〳〵と
ながし下郎の身をかへり見ず無礼せしも寸志の
忠義事にのぞんで命を捨るは臣たる者の職分
なり是に並居る海坊主(うみほうず)など日頃過分の知行を
給わり身には錦繍(きんしゆう)をまとひ網代(あじろ)の輿(こし)に打乗(うちのり)
御 菩提所(ほだいしよ)の上人のとあほがれてもスハ君の御大事
にのぞんでは弁説(べんせつ)を以て我身をかこふ不忠者私
は漸御門番を相勤 塵(ちり)より軽(かるき)足軽なれども
忠義においては高知の方にもおとるへからず
寺坂が昔を思召あてられて此度の御大事拙者に
仰付られかしと思ひ込で願ふにぞ竜王面を和げ
給い彼が申分といひ力量といひ用に立べき奴(やつ)
なれば此度の役目申付んと我も頓(とゝ)より気の付
さるにはあらねども彼は若衆好の沙汰あれは
猫にかつをの番とやらて心にくゝ思ひしかども只
今の忠義にめて大事の役目申付る天窓に水の
つゞかんたけ随分ぬかるな早急げと仰をうけし
水虎(かつは)が面目(めんほく)飛がごとくに走行
根奈志具佐三之巻 終
根奈志具佐四之巻
行川の流(なかれ)はたへすしてしかももとの水にあらず
と鴨(かも)の長明か筆のすさみ硯の海のふかきに残(のこる)
すみだ川の流清らにして武蔵と下総(しもつふさ)のさかい
なればとて両国橋の名も高くいざこと問むと
詠じたる都鳥に引かへすれ違ふ舟の行 方(へ)は秋
の木の葉の散浮(ちりうかふ)がごとく長橋(ちやうきやう)の浪に伏(ふす)は竜の
昼寝(ひるね)をするに似たりかたへには軽業(かるわざ)の太鞁(たいこ)雲
に響(ひゞけ)ば雷(かみなり)も臍(へそ)をかゝへて逃(にげ)去 素麺(そうめん)の高盛(たかもり)は
降(ふり)つゝの手爾葉を移(うつし)て小人島の不二山(ふじさん)かと思
ほゆ長命丸の看板(かんばん)に親子 連(つれ)は袖を掩(おほ)ひ編(あみ)
笠(がさ)提(さけ)た男には田舎侍(いなかさむらい)懐(ふところ)をおさへてかた寄 利(り)
口(こう)のほうかしは豆と徳利を覆(くつがへ)し西瓜(すいくわ)のたち
売は行灯の朱(あけ)を奪(うば)ふ事を憎(にくむ)虫の声々は一荷
の秋を荷ひひやつこい〳〵は清水 流(ながれ)ぬ柳陰(やなぎかげ)に立
寄 稽古(けいこ)じやうるりの乙(おつ)はさんげ〳〵に打消(うちけさ)れ五十(いがゝ)
嵐(らし)のふん〳〵たるはかば焼の匂ひにおさる浮絵(うきゑ)を
見るものは壷中(こちう)の仙を思ひ硝子細工(ひいどろさいく)にたかる群(くん)
集(しゆ)は夏(なつ)の氷柱(つらゝ)かと疑(うたが)ふ鉢植(はちうへ)の木は水に蘇(よみがへり)はり
ぬきの亀(かめ)は風を以て魂(たましい)とす沫雪(あはゆき)の塩からく幾
世餅の甘たるくかんばやしが赤前だれはつめられ
た跡所 斑(まだら)に若盛(わかもり)が二階座敷は好次第の馳走(ちそう)
ぶり灯篭(とうろう)売は世帯(せたい)の闇(やみ)を照(てら)しこはだの鮓(すし)は
諸人の酔(ゑい)を催す髪結床(かみゆいとこ)には紋を彩(いろどり)茶店には
薬缶(やくわん)をかゝやかす講釈師(かうしやくし)の黄色なる声玉子〳〵
の白声あめ売が口の旨(うまき)榧(かや)の痰切(たんきり)が横なまり灯(ほゝ)
篭草(づき)店は珊瑚樹(さんごじゆ)をならべ玉蜀黍(とうもろこし)は鮫(さめ)をかざる
無縁寺の鐘(かね)はたそかれの耳に響(ひびき)浄観坊(じやうくわんぼう)か筆
力はどふらく者の肝先(きもさき)にこたゆ水馬(すいば)は浪に嘶(いなゝき)
山猫は二階にひそむ一文の後生心は甲に万年の
恩を戴(いたヽき)浅草の代参りは足(あし)と名付し銭のはた
らき釣竿(つりさほ)を買ふ親仁は大公望(たいこうばう)が顔色(かんしよく)を移《割書:シ|》
一枚絵を見る娘は王昭君(わうせうくん)がおもむきに似たり
天を飛 蝙蝠(かうもり)は蚊(か)を取ん事を思ひ地にたゝずむ
よたかは客をとめんことをはかる水に船か〳〵の自
由あれば陸(くが)に輿(かご)やろふの手まはしあり僧あれ
ば俗あり男あれば女あり屋敷侍の田舎(いなか)めける
町ものヽ当世 姿(すがた)長櫛(ながきくし)短羽識(みしかきはおり)若殿(わかとの)の供はびいど
ろの金魚をたづさへ奥方の附々は今 織(をり)のきせ
る筒(づヽ)をさげもゝのすれる妼(こしもと)は己(おのれ)が尻(しり)を引ずり
渡る歩行(かち)のいかつがましきは大小の長に指れた
るがごとし流行医者(はやりいしや)の人物らしき俳諧師(はいかいし)の
風雅(ふうが)くさきしたゝる〳〵てぴんとするものは色有
の女妓(おどりこ)と見へぴんとしてしたゝるきものは長局(ながつほね)の
女中と知らる剣術者(けんしゆつしや)の身のひねり六尺の腰の
すはり座頭の鼻(はな)歌御用達のつぎ上下浪人の
破袴(やぶれはかま)隠居の十徳姿役者ののらつき職(しよく)人の
小いそかしき仕事師のはけの長き百姓の鬢(びん)の
そゝけし芻蕘(すうきやう)の者も行 薙菟(ちと)の者も来るさま〳〵
の風俗色々の貌つき押わけられぬ人 群集(くんじゆ)は
諸国の人家を虚(むなしく)して来るかと思はれごみほこり
の空に満るは世界の雲も此処より生ずる心地ぞ
せらる世の諺(ことわざ)にも朝より夕まで両国橋の上に
鎗(やり)の三筋たゆる事なしといへるは常の事なんめり
夏の半より秋の初まで涼(すゞみ)の盛(さかり)なる時は鎗(やり)は
五筋も十筋も絶(たへ)やらぬ程の人通りなり名にし
おふ四条河原の涼(すゝみ)なんどは糸鬢(いとびん)にして僕(でつち)にも
連べき程の賑(にぎ)はひにてぞ有ける又かゝるそう〳〵
しき中にも恋といへるものゝあればこそ女太夫に
聞とれて屋敷 中間(ちうけん)門の限(かきり)を忘れ或はしほ
らしき後姿(うしろすがた)に人を押わけ向へ立まれば思ひの
外なる貌(かほ)つきにあきれ先へ行たる器量を誉(ほむ)
れば跡から来る女連(をんなつれ)己が事かと心得てにつと笑
もおかし筒の中から飛出る玉屋が手ぎは闇夜(やみよ)
の錠(ぢやう)を明る鍵(かぎ)屋が趣向ソリヤ花火といふ程こそ
あれ流星(りうせい)其処に居て見物是に向ふの河岸(かし)
から橋の上まで人なだれを打てどよめき川中
にも煮売の声々 田楽(てんがく)酒諸白酒 汝陽(ぢよやう)が涎(よだれ)
李白(りはく)が吐(へど)劉伯倫(りうはくりん)は巾着(きんちやく)の底(そこ)をたゝき猩々は
焼石を吐出す茶舟ひらだ猪牙(ちよき)屋根舟屋
形舟の数々花を飾る吉野が風流(ふうりう)高尾には
踊子(おどりこ)の紅葉の袖(そで)をひるがへしえびすの笑声
は商人の仲ケ間舟坊主のかこひものは大黒にて
の出合酒の海に肴の築島(つきしま)せしは兵庫(ひやうご)とこそ
は知られたり琴(こと)あれば三弦(さみせん)あり楽(がく)あれば雌子(はやし)
あり拳(けん)あれば獅子(しゝ)あり身ぶりあれば声色(こわいろ)あ
りめりやす舟のゆう〳〵たるさわぎ舟の拍子(ひやうし)
に乗て船頭もさつさおせ〳〵と艪をはやめ
祇園(ぎおん)ばやしの鉦大皷どらにやう鉢のいたづら
さわぎ葛西(かさい)舟の悪(わる)くさきまで入乱たる舟いがた
誠にかゝる繁栄(はんゑい)は江戸の外に又有べき□もあ
らず去程に菊之丞が仕出し舟荻野八重桐鎌
倉平九郎中村与三八なんどは芸(げい)はもとより珍し
からずさわぎも又うるさし役者の舟遊に三弦(さみせん)
浄(じやう)るりを翫(もてあそぶ)は学者の書を講じ出家の経を
読(よみ)米つきの杵(きね)をかつぎ大工の手斧(ておの)を腰に
さして花見遊興に出るがごとくなればとていと
静(しづか)に酒 酌(くみ)かはし人のさわきを見て歩行は月
夜に挑灯(てうちん)のいらぬと同し道理にて見らるゝ
者も恩に着せず見る者は心遣もなくさりと
は又能 慰(なくさみ)なり一日あそこ爰と漕(こぎ)廻りけるが
いざやさわがしき所を離(はなれ)て遊んとて船を
三股(みつまた)てふ処へこぎ寄て四方の気色を見渡
せば南は蒼海(そうかい)漫々(まん〳〵)として雲と海との色も
さやかには見へわかず行かふ帆(ほ)は蝶(てう)の飛かふが
ごとく安房(あは)相模の海にそふて出たるは只一筆にて
画(ゑがき)たるに似たり西は箱根大山なんぞも幽(かすか)に見へわたり
けふは水無月其日なればかの望(もち)に消(け)ぬれば其夜ふり
けりと詠したる富士(ふじ)の高根(たかね)もいとしるく近きあた
りは人の家居のみ多くして民の竈(かまど)の夕煙(ゆふけふり)たなび
き渡りさしもに広(ひろき)武蔵野も人の住わたらぬ
処もなく草より出て草に入昔の月に引かへて
軒(のき)より出て軒に入ともいふべき風情道行人は
只 蟻(あり)なんどの行かふがごとく見へ渡ればさながら仙
境に入たる心地なんして覚へずも舷(ふなばた)をたゝきいと
しめやかに諷たるに舟屋かたの塵(ちり)もちり空行(そらゆく)雲
もたゞよひぬともいふなる人々は興に乗じて香包
取出して一炷くゆらせいとしづかにたのしみける
がいざや中洲の辺へ行て蜆とらんと皆々小舟に乗
移菊之丞日我は案じ掛し発句あれば跡より
【挿絵】
行んとて一人舟にぞ残居たりける頃しも水無月
の中の五日日は西山にかたむき月代(つきしろ)東にさし
出て水の面 漣漪(さゝなみ)立ていと涼しく頃日の暑も
忘るはかり別世界に出たる思ひをなしければ
菊之丞硯取寄てかく
浪の日を染直したり夏の月
となん書しるして黄昏(たそがれ)の気色能も云かなへ
たりと独(ひとり)笑(ゑみ)をふくみ吟し返しける折から何ち
ともなく
雲の峰から鐘も入相
とほの聞へければ菊之丞は不思 議(き)の思ひを
なし何人かわかゝるしほらしきわきをなんせし
とあたりを見廻せば一葉(いちよう)の舟に梶取(かんどり)もなく若
き侍の只一人笠ふか〳〵と打かつぎ釣竿をさし
のべて余念(よねん)もなき体なり扨は只今の脇は
此人にこそ有けんと思へば心ばへ奥床(おくゆか)しく船ばた
より打ながむれば彼男もふりあをのきしを能
見れば年の頃二十四五計にして色白く清らなる
が路考を見てにつと笑し面ざしに包(つゝむ)にあまる恋
衣(ころも)胸(むね)に思ひの十寸鏡(ますかゞみ)正目(まさめ)には見もやらず水
に移れる俤(おもかげ)をやゝ見とれたる其風情さすが
岩木にあらされば我 ̄レ思ふ人の捨がたくやゝ打
ながめ居たりしが互に云出る詞もなく打しも
風のそよと吹ければ彼男ふりあをむきて
身は風とならはや君か夏衣
と吟しければ菊之丞取あへず
しばし扇の骨を垣間見
是より少しほころびて彼男舟さし寄(よせ)菊之丞
が舟につなぎ捨て打のりつゝ日の暮てより
越(こよ)のふ涼しくなりたりなんどゝよそ事にいひ
ものすれば菊之丞は手づから銚子杯なんどたづ
さへ来り先程ふつゝかなる口ずさみにやんごと
なき御脇給はりしより只人ならず見参らせ
たり一 樹(しゆ)の陰(かけ)一 河(が)の流(なかれ)も一かたならぬゑにし
となん聞侍りたり何国の人にてましますそや御名
ゆかしと尋れば我は浜(はま)町辺に住るものなり夏
の間は暑をさけんため人なんどもつれず我
一人小舟に棹さし比風景を楽(たのしみ)とせりしかるに
けふ思はずも君が姿(すがた)を垣間(かいま)見しより思ひは
はれぬ天雲(あまくも)のゆくら〳〵と釣舟の浪にたゞよふ
梶枕(かぢまくら)一夜の情 有磯海(ありそうみ)の深心を明し合はゞ此
世の願足なんとて路考が手を取よりそへはさす
が上なき粋(すい)ながら向ふよりは思ふ事のいとふか
く我もまた此人ならではと思ふ心のおもはゆく
詞はなくて銚子取つゝ杯をさし寄れば彼男丁
と請てつゝと干て路考にさす呑ではさしさし
てはのみ合もおさへも二人なれば数々めぐり
逢ふことも結(むすぶ)の神の引合せ夜もはや五つむつ
ごとの雲となり竜とならんと月夜 烏(からす)を心の
せいし互のちぎり浅からずこけるともなく
寝るともなく互の帯の打とけし二つ枕のさゞ
め言いかなる夢を見しかいざしらず
根奈志具佐四之巻終
根奈志草五之巻
定(さだめ)なき世と人ごとにいへども世の定なきよりは
只定なきは人の心にてぞ有ける古人 春宵(しゅんしやう)
一刻値千金(いつこくあたいせんきん)とめつたに高ばれば又 浮世(うきよ)を三
分五厘と捨売(すてうり)にする男もあり然ども春宵
一刻に千金出して買たわけもなく三分五厘
に売て仕舞ふ出来合の浮世もなしいかに
口から地代の出ぬものなればとて出る侭のいひたい
事つまる処は能も悪もいひなし次第の浮世
にて浮世の定なきは人の心の定なきなり聖(せい)
人も父母の国を尻(しり)引(ひつ)からげて去給ふは魯国(ろこく)
広といへとも馬の合た相手なきゆゑと見へたり
また程子(ていし)に逢て蓋(きぬがさ)をかたむけ途(と)中にてしび
りの切る程長咄しは初対面(しよたいめん)から心の合たるが故
なり心合ざれば親子兄第も仇敵(あたかたき)のごとく心が合
へば四海みな兄分ともなり若衆ともなるとは
酸(すい)も甘(あまい)も喰て見たる詞なりされば今 評判(ひやうばん)
随(ずい)一の路考なれば誰(たれ)か一人 望(のそま)ざるものなからんや
皆 能(よい)器量(きりやう)とゆひ綿(わた)の紋を見てさへ心 動者(うごくもの)
多しされども独(ひとり)も手に入 ̄レる者なきにいかなれ
ば彼男 俄(にわか)の出会にてかゝるさまに手に入れし
は誠に此道の氏神ともいふべし程なく二人は
起(おき)あがりて何かは知らず手水などせしさまい
と心にくしまたもとの座に直りて酒 酌(くみ)かはせ
し体何となう始のほどよりは一入(ひとしほ)打とけてぞ
見えける月も漸さしのぼり船中は昼(ひる)のごとく
川風そよと吹渡て夏去秋の来たる心地いと
興あるさまなりけるに彼男路考が顔(かほ)をつれ〳〵
と打守り初は物かなしき体なりしが猶たえ
かねし思ひの色外にあらはれ涙(なみだ)をはら〳〵と流(ながし)
ければ菊之丞すり寄て何とてかく物思はせ
給ふ体のましますやといと念頃(ねもころ)に尋れども
彼男は猶さらにさしうつむきとかうの詞も
涙(なみだ)より外いらへなし路考も心済ざれば扨はわ
らはが心いき御気に染(そま)ぬ事もや有けんかく打
とけし中に何とてものを包(つゝみ)給ふやと打うら
みたる体なりければ彼男涙をおしぬぐひか
ほどに深(ふかき)御身の志を仇(あだ)になしていはぬもつらし
武蔵鐙(むさしあぶみ)かゝる情の其上にわらはが心の気に染
ぬかとの一言 胸(むね)にこたへて覚ゆれば子細をあかし
侍るなり必々 驚(おとろき)給ふべからず我実は人間
にてはあら波(なみ)くゞり水底(みなそこ)を家と定て住(すみ)なれ
し水虎(かつは)といふものなりと聞より路考はあきれ
けるがいかなる子細にてあるらんと心をしづめ聞
居たれど思はずぞつと寒けだちすみ〳〵も
見らるゝ心地なりけれども漸に胸(むね)押(おし)しづめ
心の内にとなへごとなどして猶も様子をそ聞
居たりける彼男は貌(かほ)押拭ひ我かく人間の姿と成
て来りしわけを語るべし故有て閻魔王御身
を深く恋したひ何とぞ冥途(めいど)へつれ来れ
【挿絵】
と我々が地頭(ぢとう)難陀(なんだ)竜王へ勅定(ちよくぢやう)下り竜宮
にて色々評義有ける処を某命に懸て申
上漸と此役目を承り何とぞ御身を連(つれ)行ん
と忠義一図の謀(はかりこと)乗捨(のりすて)し船を盗(ぬずみ)かく侍の姿(すがた)
と変(へん)じ神変(じんべん)を以 俳諧(はいかい)の句などを吟(ぎん)じ近寄
て御身を引立水中へ飛入んと兼てよりはか
りしが思はずも御身の器量(きりやう)に心まよひわりなき
恋をいひ懸しに君が情の深縁(ふかみどり)松に千年(ちとせ)と
藤浪(ふぢなみ)の思ひまとひし恋衣 互(たがい)の帯(おび)の打とけし
其むつごとのわすられず又の逢瀬(あふせ)と兼言(かねごと)の
兼て工(たくみ)し我心もきのふに替(かはる)飛鳥川(あすかかわ)淵(ふち)と
瀬川の君ゆゑに我身を捨(すつ)る覚悟(くご)なれば是
より我は竜宮へ帰とも菊之丞を取得事
中々力およばすと申上なば竜神より罪(つみ)せられん
は案の内昔も乙姫(おとひめ)病気の時 猿(さる)の生胆(いききも)の御用
に付 水母(くらげ)に仰付られしをいはれぬ口をしやべ
りし故竜神のいかりをを請 筋骨(すしほね)ぬかれ
てかたわとなり恥(はぢ)を残せしためもあり我
は其上大勢の鱗(うろくず)ともの並居る中にて広言 吐(はき)
しことなれば何面目にながらへん山林(さんりん)へも身を
なげて死る覚悟(かくご)と極たり君を助(たすけ)てそれ故
に死る我身は本望ながら死れば忽(たちまち)生をか
へあさましき姿とならはさぞやあいそも尽(つき)給ん
其上また世の人は死して未来(みらい)と契れとも
君は閻王の寵(てう)を請(うけ)我は又はかなくも畜生(ちくせう)
道に落行(おちゆけ)ば相見る事もなりがたし薄(うすき)えに
しと思ふほど胸(むね)の水のとけやらず必々死だ
跡にて一へんの御ゑかうも君が口より語るなら
未来(みらい)の苦(く)げんものかるべし去ながら我死す
とも竜宮城にはさま〳〵の手だれあればかま
へて水辺へ出給ふへからすと事さま〳〵と物
がたり又なみだにぞむせび入路考も袂(たもと)をし
をりしが御身の上の物語始て聞て驚入(おどろきいり)たり
生(せう)をかゆるとは云ながらためしなき事にもあら
ず唐土(もろこし)にては非情(ひじやう)の梅さへ其 精霊(せいれい)美人と成
契(ちぎり)をこめしと聞伝ふ日のもとにては安部の
保名(やすな)狐(きつね)と夫婦の契(ちきり)をなせば何かはくるしか
りそめながら枕かはせし其人を我身のかは
りに死なせてはわらは情の道立ず其上我は
閻王のしたひ給ふと聞からにとてものがれぬ
命なれば是非々我を連行(つれゆき)て御命全ふし
給ふべしといひつゝ立て舟ばたより飛入んと
する処を彼男いたきとめお志は嬉しけれど
も今御身を殺しては流石(さすが)いやしき畜生(ちくしよう)ゆゑ
情(なさけ)を仇(あた)にて報(ほう)ぜしと世の取沙汰をせらては
我身ばかりの恥(はぢ)ならす国に残せし親兄第
一門までの恥辱(ちぢよく)といひ其上玉の顔(かんばせ)を底(そこ)の藻(も)
屑(くす)となさん事見るに忍(しのひ)ぬことなれば必はやま
り給ふまじ我さへ死ばことおさまるいや主(ぬし)
を殺(ころし)てはわらは情の道立ずと互(たがい)に命 捨(すて)小(を)
舟死を争(あらそふ)折からにやれ待給へと声をかけ
立出るは荻野八重桐なり二人は驚(おどろき)飛のかん
とするを両手にて押しづめ必さわぎ給ふべ
からず最前(さいぜん)蜆(しゞみ)取んとて中洲(なかず)まで行けるが
酔(ゑひ)つよくして堪(たへ)がたく小舟に乗(のり)て立帰お二
人の閨(ねや)の内いぶかしくは思ひしが邪魔(じやま)せんもい
かゞなりまたは様子も聞んものと舟のあなた
に身をひそめ始終の様子は聞たるぞやかげ
ろふの夕を待夏の蝉(せみ)の春秋を知らざるさへ
命を惜(おしむ)習(ならひ)なるにお二人の死を争ふとは扨々
やさしき事ながら路考どの御事は閻魔王恋
したひ給ふと聞ばとてものがれぬ命なり去なが
ら見ぬ恋とある事なれば某を身かはりに立
路考どのを助(たすけ)てたべ何故の身替と御 不審(ふしん)は
有べきか路考どのには能御存我荻野の
系図(けいづ)といふは元祖荻野梅三郎より親八
重桐に至まで代々名代の女形にて三ケ津に
て人に知られ上方にては座元迄を勤しゆゑ
隠(かくれ)なき家筋なり然るに我父八重桐 浮世(うきよ)を
はや〱去ける時某はまだ三歳母の懐(ふところ)にいた
かれて知るべの方へ身を忍(しのひ)しに五の歳母に別(わかれ)
たよる方なき孤(みなしご)にて乞食(こつじき)非人(ひにん)とゝもなるべき
を路考どのの親菊之丞どの我親とのした
しみありとて不 便(びん)を加へ我を養ひ産(うみ)の子
も同前にお乳(ち)やめのとゝかしづきて漸人と成
し頃より小歌 三弦(さみせん)扇(あふき)の手身ぶり声色(こわいろ)さま〳〵
に教(おしへ)給ひて人となし幸我に子もなければ家を
も継(つが)すべけれども其方我家を継(つぐ)ならば
荻野の名字たえはてば先祖の跡(あと)とふ人なし
とて我を親の八重桐が名に改(あらため)こなたをむかへて
養子とし兄弟と思へとある呉(くれ)々の御詞今我
不肖(ふせう)の身ながらも三ケ津の舞台を踏(ふむ)こと
親にもまさる大恩は養(やしない)親とも師匠(ししやう)とも
一かたならぬ情ぞや今はのきはにも枕元(まくらもと)に招(まねき)
寄せ我身はかりか菊次郎まで名人の名を残
せば死る命は惜からねど心にかゝるは吉二が事
何とそ其方我にかはり吉二を守り立二代目
の菊之丞といはせてくれよと涙(なみだ)を流せし末期(まつご)
の詞心こんにしみ渡り命にかへても後見し
名を上させ申べし御 気遣(きつかひ)あられなと聞てにつ
こと打笑ひ此世を去せ給ひしを思ひ出すも
涙ぞやまだ幼(よう)少の路考殿せわにせしは恩返し
父御(ちゝご)に習し芸(げい)の秘伝(ひでん)も五年以前に又 伝授(てんじゆ)
次第に名高く見物も路考〳〵と評判(ひやうばん)は我身
の名を上るより悦しさは百そうばい評判を
取度ことに位牌(いはい)に向ひくり言の自慢(じまん)も師匠
の末期の詞忘れ置ぬ我 寸志(すんし)しかるに今日の
入わけにて路考どのを死なせては師匠への言
わけなく二つには又瀬川の名字 断絶(だんぜつ)させては
本意ならず我は死すとも子もあれば荻野
の名字は絶(たへ)まじければ五ツの歳より守立られ
親にもまさる師の大恩 報(ほう)ずるは今比時必々
妻子の事見捨ずせわを頼入心にかゝるは是ば
かり閻魔王へ行たりともこなたの器量(きりやう)にく
らぶれば雪(ゆき)と墨絵(すみゑ)の鷺(さぎ)をからす云くろむる
は舞台の功返す〳〵も路考との身持大事に酒
過さず世上の評判 落(おとす)まいとひたすら芸(げい)を修(しゆ)
行(ぎやう)して親にも伯父(おぢ)にもまさりしといはるゝ程に
なり給ふが草葉の陰(かけ)は思ひ出といと念頃に語
にぞ二人もなみだにくれながら菊之丞はとり
すがり親に別れて其後はさま〳〵の御 教訓(きやうくん)浅(あさ)
からず思ひしに身にかはらんとの御詞生々世々
忘れはおかじ去ながら御恩ある御身をころし
何とて我身をながらへん是非此身を ̄イヤ我
を ̄イヤ某と三人か死を争ふてはてしなき折
から平九郎与三八船頭など蜆(しゞみ)なんどをとり
もたせどや〳〵と立帰れば三人あはてる其中に彼
男は影(がけ)のごとくきえて行衛は見へざりけり菊
之丞はいましばしといふもいはれぬ他人の中
水面を見やる折から八重桐は覚悟(かくご)をきは
めやぐらの上よりざんぶりと水中に飛入れば
ばつと立たる水けふりかたみに残るうたかた
の泡(あは)と消行(きえゆく)玉の緒(を)の絶(たへ)てはかなくなりゆけば
船中 俄(にはか)にさわぎたち八重桐 入水(しゆすい)と声々にい
へどこたへもあらし吹なみの間に〳〵そこ爰と
さかせどさらに詮(せん)もなし菊之丞は涙(なみだ)ながら明(あけ)
ていはれぬ身の上の生(いき)ては義理も立がたしと
ともに入水と覚悟(かくご)の体(てい)何の様子も知らねども
此体に驚て平九郎 押留(おしとゝめ)尤そこの催(もよを)せし船
遊とは云ながら八重桐が入水せしは畢竟(ひつきやう)怪俄(けが)
の事といひ我々とても此船中一所にありし
事なればこなた一人のとがにあらす公へ申上兎
なりとも角なりとも皆々一所なるへしと与
三八船頭 諸(もろ)共に詞を尽て留れば明ていはれぬ
胸の内いたはしなみだしきなみのそこよ爰よ
と大舟の思ひ頼て求れど姿も水のつれなく
もいづこに流(なかれ)夜(よる)の雨のふりかゝりにし憂事(うきこと)
を神に祈(いのれ)どせんすべの渚(なきさ)におりて玉鉾(たまぼこ)の道
をたどりて若草の妻(つま)にかくぞと告(つげ)ければ
消(きゆる)ばかりの露の身は置所さへしら波の跡な
き人を恋しとふされば古歌にも汭潭(いりぶち)に偃(ふし)
たる公(きみ)をけふ〳〵と来んと待らん妻がかなしも
と詠ぜしも我身の上とかきくどく歎(なげき)は浜(はま)の
真砂(まさご)にてかきつくされぬ筆の海聞人袖を
ぞしをりけり
根南志具佐五之巻 大尾
爰に爪(つめ)とらす髪(かみ)ゆはず朽葉衣(くちばころも)
に世をのがれたる人あり自 天竺(てんじく)浪
人と称す此人 横(よこ)ぐわへに草をかんで
其毒気一角となる其長さ三
寸ばかり其角 額(ひたい)にあらず頭(かしら)に
あらず常(つね)は 唇(くちひる)に隠(かくれ)て見へず
といへども今此根南志草を味ふ
におよんで其角長きこと三 丈(たけ)
あまり彼を破(やぶり)是をつんざく
抑々薬や毒にあらずしてまた
何ぞ
房持さず山に住人跋
【裏表紙】
【参照資料:国会図書館デジタルコレクション>帝国文庫>第22編・風来山人傑作集>根無草後編 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1882565/102】
●模範解答付きコレクションは、国会図書館が公開する翻刻本を参照資料として、自分で答え合わせをしながら翻刻を進めることができるコレクションです。
●参照する翻刻本では、かなを漢字にしたり、濁点や句読点を付加するなど、読みやすさのために原書と異なる表記をしている場合があります。入力にあたっては、「みんなで翻刻」ガイドラインの規則に従い、原書の表記を優先し、見たままに翻刻して下さい。
●参照する翻刻本と原書の間で、版の違いなどにより文章や構成が相違する場合があります。この場合も原書の状況を優先して翻刻して下さい。
【表紙】
根南志艸後編 一
【右丁】
【空白】
【左丁】
序 【丸印】
風-来山-人登 ̄リ_二万-国 ̄ノ之東-側(ガハ) ̄ニ_一
観 ̄テ_二娑-婆 ̄ノ大(オホ)-劇(シバ)-場(ヰ) ̄ヲ_一有_下小 ̄ナリトスルノ_二舞-台(ブタイ) ̄ヲ_一
之志_上於 ̄テ_レ是 ̄ニ以 ̄テ_二紅毛(ヲランダ) ̄ノ千里鏡(トホメガネ) ̄ヲ_一
観 ̄ル_二冥(メイ)-途(ド) ̄ノ楽(ガク)-屋(ヤ) ̄ヲ_一仰 ̄ギ_二 天堂(ゴクラク) ̄ニ_一俯 ̄シ_二 地
【右丁】
獄 ̄ニ_一啖(クワセ)_二抹(マツ)-香(コウ) ̄ヲ於/閻(エン)-魔(マ) ̄ニ_一披(カブセ)_二犢鼻(フンドシ) ̄ヲ
干地-蔵 ̄ニ_一倒(サカシマニシ)_二舎(シヤ)-利(リ)-弗(ホツ) ̄ガ智嚢(チエブクロ) ̄ヲ_一振(フルフ)_二
富(フ)-楼(ル)-那(ナ) ̄ノ弁-舌 ̄ヲ_一 三 ̄タビ摩(ナデヽ)_二仏(ホトケ) ̄ノ面(カホ) ̄ヲ_一始 ̄テ
知_二黄-金 ̄ノ膚(ハダヘ) ̄ナルコトヲ_一嘆 ̄メ曰地-獄 天堂(ゴクラク)
金(カネ)次(シ)-第(ダイ) ̄ト矣退 ̄テ著 ̄シテ_二 一-書 ̄ヲ_一寓 ̄ス_二言 ̄ヲ
【左丁】
八重桐(ヤエギリ) ̄ニ_一間(コノゴロ)聞 ̄テ_三柏-車薪-水/御(サソハルヽ) ̄ト_二
無常(ムシヤウ) ̄ノ風 ̄ニ_一継 ̄テ為(ツクツテ)_二比 ̄ノ編 ̄ヲ_一以 ̄テ伝 ̄フ_二諸(コレヲ)
借本屋(カシホンヤ) ̄ニ_一 二-子 ̄ノ追-善莫 ̄シ_レ大 ̄ナルハ_レ焉 ̄ヨリ
此 ̄ノ編 ̄ヤ也掛 ̄ケテ_二 一 ̄チ-枚(マイ)看(カン)-版(バン) ̄ヲ_一而行 ̄レン_二
於三 ̄ン箇(ガ) ̄ノ津(ツ) ̄ニ_一矣明-和戌子秋
【右丁】
寝惚先生/陳奮翰(チンプンカン)撰
【左丁】
上におろし
自序
味噌(みそ)を上(あげ)るとは。自慢(じまん)といへる東都(とうと)の
俗言(ぞくげん)なり。謹(つゝしん)でその言(ことば)の意(こゝろ)を考(かんがふ)るに。
口豆(くちまめ)がかうじ〳〵て話(はなし)の塩(しほ)にいひ出せる
より起(おこ)れり。さればしるも知らぬも此
味噌を漏(もる)ることなし。唐(たう)の親父(おやぢ)は。天徳(てんとく)を
予(われ)に生(な)せりと理屈(りくつ)臭(くさ)ひ玉(たま)味噌を上れば。
天竺(てんぢく)の謊(うそ)つきは。唯我(ゆいが)独尊(どくそん)と頭(あたま)がちの
【右丁】
脳(なう)味噌を上。汨羅(べきら)に沈(しづ)みし偏屈(へんくつ)
者(もの)が。身(み)の皓々(かう〳〵)たるといふより白味噌に思
ひ付ば。引込思案(ひきこみじあん)の世間(せけん)しらずが。郷里(きやうり)の
小人(しやうじん)に腰(こし)を折まじといへるは。これ五/斗(と)味
噌の始(はじめ)なるべし。予/嘗(かつ)て根無草を著(あらは)す。
塩加減(しほかげん)の薄(うす)味噌なるも当世(たうせい)の口に叶(かな)ひ隣(となり)の
糁汰(ぬかみそ)馥(かうば)しからんと評判(へうばん)四方(よも)に隠(かく)れなく遠近(えんきん)
より尋(たづね)来り。これを鬻(ひさく)こと三千/部(ふ)に
【左丁】
余(あま)れりとて。書肆(しよし)の歓(よろこび ) 斜(なゝめ)ならず。
爰(こゝ)ぞ駄(た)味噌の上どころと。又/筆(ふで)を採(とり)て
後編(こうへん)を著(あらは)し。株(くひぜ)を守(まもり)て兎(うさぎ)を獲(とらへ)ば。
よき吸物(すいもの)の献立(こんだて)ならんと。真赤(まつかい)な
赤(あか)味噌に神儒仏(しんじゆぶつ)のざく〳〵さく汁(じる)。
教(をしへ)のはしくれにもならんかと。いらざる
世話(せわ)を焼(やき)味噌に微意(びい)あることを記(しる)せ
ども。牛(うし)の糞(ふん)やら胡麻(ごま)味噌やら。
【右丁】
そのわかちなき人には。味噌を敷(しき)たる
灸(きう)のごとく。応(こたえ)ること少(すく)なからんと。高慢(かうまん)の
鼻(はな)檑槌(すりこぎ)のごとく。天狗(てんぐ)出立(でたち)の味噌/尽(づく)しとホヽ敬(うやまつて)白(もうす)。
明和五年子の顔見世。柿(かき)の衣(ころも)に兜巾(ときん)篠懸(すぐかけ)。
風来山人/切幕(きりまく)より。暫(しばらく)と声/掛(かけ)て。世上の作者(さくしや)の
鼻をひしぐ
【葉の中に 古今独歩】【角印 我慢坊印】
【左丁】
根無草後編一之巻
偽(いつは)りのなき世なりせばいかばかり人の言(こと)の葉(は)
嬉(うれ)しからましされば卵(たまご)の方(しかく)と娼妓(じよらう)に實(まこと)なきのみ
ならず仏法に方便(はうべん)あれは軍法(ぐんはう)に計策(はかりこと)あり浮世
に追従(ついしやう)軽薄(けいはく)あれは参会(であひ)に座(さ)なりおはむきあり
虚言(うそ)あればてれんあり偽あれは手くだありだますと
いひこんたんといひ文(あや)なすといひ懸(かけ)るといふ手(て)
尓於葉(におは)の違(たが)ひはあれとつまる所は引くるめて謊(うそ)
で丸めた世の中に只偽ならぬもの迚(とて)は産(うま)れた者の
死(しぬ)ることにて北州(ほくしう)の千年/蜉蝣(かげろふ)の夕(ゆふべ)長き短(みしか)き
限(かぎり)あれども貴(たつと)きも賎(いや)しきも賢(かしこ)きも愚(おろか)なるも猫(ねこ)も
飯鍬(しやくし)もおしなべて此道をもるゝことなしされども人
情(じやう)の浅はかなる門松(かどまつ)は冥途(めいど)の旅(たひ)の一/里塚(りづか)とも
気はつかで無上(むしやう)に新春の御慶と寿(ことぶ)き懸棘(かけ)
鼈魚(だひ)も魚の死骸(しがい)と悟(さと)らねばめつたに目出度もの
とのみ覚え熨斗(のし)蚫を顛倒(かへせ)はしのと読(よま)れ四の字
をきらへば五の字にもごねるといへは油断(ゆだん)ならずいざ
や其/死(しん)で行先々を尋(たづぬ)るに釈迦(しやか)の工夫(くふう)の大狂言
切落しから落の来る万代(ばんたい)不易(ふえき)の当り劇場(しばゐ)地獄(ちごく)
極楽/数多(あまた)ある中に六道の街(ちまた)となんいへるは繁(はん)
花(くわ)いはん方もなく車穀(しやこく)撃(うち)人肩(しんけん)摩(すり)弘誓(ぐぜい)の船
宿/川岸(かし)に招(まね)けは紫雲(しうん)の逵肩輿(つじかご)通 ̄リに遮(さへぎ) ̄リ五々
の菩薩(ぼさつ)のめりやすは楓紅(ふうこう)露友(ろゆう)がおもむきをうつし
呵責(かしやく)の鬼の催但(さいそく)は日なしの親方(おやかた)火の車をめぐ
らし蓮花(れんげ)の大屋/店賃(たなちん)を債(はた)れば脱衣(だつえ)の老婆(ばゞァ)
勧化をせつく実(げに)や現在(げんざい)を見て過古(かこ)未来を
しり明樽(あきだる)を見て沢庵漬(たくあんづけ)を思ふ油断せぬ世の
中なれは三途(さんづ)川の遠干潟(とほひかた)に数(す)千丁の土手(どて)を
築(つき)出し白波(しらなみ)変(へん)じて平地となれは国に懸出(かけだ)しを
するがことく後々(ごゝ)末代に至るまで其益すくな
【右丁】
芥子味噌(からしみそ)鼻(はな)の穴(あな)迄ぬけめなき鉄門(てつもん)屋か仕出(しだ)
し料理(りやうり)しゆんかへの筍(たけのこ)には石女(うまずをんな)に燈心(とうしん)をあてがひ
硯蓋(すゞりぶた)の蓮根(れんこん)には極楽のねだをはづす死手(しで)
の薯蕷(やまいも)三/途(づ)の川/鱒(ます)八寒(はつかん)地獄(ぢごく)の煮凍(にこゞり)に西
の河原の地蔵/焼(やき)好(このみ)次弟/飲(のみ)しだい夜の内から
の人/群集(くんじゆ)是ぞ此地の名物と詞の塩に銭
出して辛(から)ひ浮世に甘(あま)き族(やから)も暮(くれ)を限に立
帰(かへ)れは跡は人声も浪(なみ)の音のみして更行(ふけゆく)夜
半のそよ〱風に草木もおのつから居眠(いねふり)をそ
ゆる星の光(ひかり)かすかなる闇路(やみぢ)はるかに声立て
【左丁】
迷(まよ)ひ子の焔魔(えんま)様ァ〱と証(かね)太鼓(たいこ)の音/哀(あわれ)げ
に小/提灯(てうちん)の明 ̄リを頼うそ物/淋(さみ)しき三途川の
辺(ほと) ̄リ西を東南を北と立別れ尋つかれて追々
にとある結縷原(しばはら)を目印に赤鬼黒鬼/斑(まだら)鬼/棕色(とびいろ)
正官緑(もえぎ)碁盤島(ごばんしま)五色八色さま〴〵の貌形(かほかたち)一角(いつかく)
両角一/眼(がん)二眼/牛頭馬(どづめ)頭あほう羅殺(らせつ)なん
ど異類(いるい)異形(いぎやう)の獄卒(ごくそつ)とも一ッ所へ寄集(よりあつま) ̄リ是
程にさがしても焔魔様のお行方(ゆくへ)しれず地
獄極楽/創(はじまり)て終(つゐ)どない且那の亡命(かけおち)尋に
出るこちとが難儀(なんぎ)と口々にわめきちらし振廻 ̄ス
【右丁】
【挿絵】
【左丁】
【挿絵】
【右丁】
頭(あたま)の数々角目立とは是なるへし地獄の果(はて)で
もなひ智恵(ちゑ)ふるふ社長(なぬし)戸頭(ごにんぐみ)と思しき鬼しか
つべらしく正中(まんなか)に居並ひ扨々/毎(まい)日/丁々(てう〳〵)の
いかひやつかい昔と違(ちか)ひ地獄極楽ともに近年
の大/不景気(ふけいき)日にまし死て来る人はふへるそう
〱縁鬼道(がきどう)斗(ばかり)へも遣(やら)れねば日々(にち〳〵)の喰潰(くひつぶ)し段々
米は貴(あがつ)て来る粥(かゆ)喰(くは)してもつゞかれぬに娑婆で
欠(あくび)の序(ついで)ながら申した念仏を恩(おん)に着せ百味(ひやくみ)の飲(おん)
食(じき)かはかしおりうぬらが夫妻(めうと)相対(あいたい)の内証(ないしやう)事を
大そふらしく一蓮(いちれん)たく生と契りましたかゝアが
【左丁】
跡から成仏(じやうぶつ)いたし格別(かくべつ)尻(しり)か大ひから出来合(できあい)の
蓮台(れんだい)ではほうがへしも成ませぬ蓮台をひろげると
もお臀(いど)の方を削(けづる)ともお指図なされて下さりま
せと願(ねが)ふやら菩薩達(ぼさつたち)の箔(はく)の置替(おきかへ)天人衆を釣(つり)
下(さげ)る道具立(だうぐだて)の大物入物又地獄の責(せめ)道/具(ぐ)も請(うけ)
負(おひ)方で高ばる故近年御勝手/不如意(ふによい)の只中
焔魔様の無分別(むふんべつ)捨置(すておい)ては三千/世界(せかい)が暗(くら)
闇(やみ)に成事じやと十王様のとちめん棒(ぼう)ふ
つてわいた地獄の騒動(さうどう)毎日毎夜尋ても
まだにお行/方(へ)しれざること旁(かた〳〵)いかゞ思はるゝと
【右丁】
小首(こくび)かたむけ問掛(とひかゝ)れば又跡の月頃/田舎(いなか)から
山出しと見えて荷持瘤(にもちこぶ)の跡しやちこばつた
黒鬼(くろおに)の長助大/勢(ぜい)の中/遠慮(ゑんりよ)もなくそれ様
達(タチヤ) ̄アどふ思ふておんじやり申焔魔様の亡(かけ)
命(おち)とは ̄ヲヤてんこちもなひ肝(きも) ̄サアがでんぐりかへるに ̄ヨ
大方年内の借金(しやくきん)につまり申て逐電(ちくてん)をし申
されたか毎日さがせと影(かげ) ̄サアも見え申さなひ扨(サアチヤ)
うらゝ迄が宿なしに成申は悲(かな)しいこんだと
流涕(りうてい)こがれてとこぼへ申と譬(たとへ)に違ぬ鬼の目
に涙(なみだ)ぐんで物語(ものがた)れば額(ひたい)をぐつとぬき上(あげ)さか
【左丁】
やき延(のび)たがつたり天窓(あたま)腕(うで)に彫(ほり)物した赤
鬼の八兵衛/懐手(ふところで)してずつと出つがもないこつ
とらが身代(しんだい)でも五両三両の借金にせつかれ
内外で済ぬこんなら高が砂利(ざり)をつかむと
思へは借る時の地蔵顔なす時の且那の面(つら)だ
貸(かし)た奴(やつ)がのたまく云や横ぞつぽうはりのめす
に素(ずだい)気の短(みじか)い且那殿がふぎに亡命(かけおち)される
とはあて事もなひ外聞(かいふん)を失(うしな)つておいら迄が
顔が立(たゝな)なひ何(なん)のこんだ咄(はな)しの様(やう)なとめつた
にりきめばそはからねそ〱上方(かみがた)の産(うま)れと
【右丁】
見へて西瓜(すいくわ)に蝿(はい)のとまつた様な髪の曲(まげ)は
寝(ね)てもそんぜぬ勘弁(かんへん)こと白/鬼(おに)はよごれめ見
え黒鬼は弱(よは)からふと地の太(ふと)き伊勢島(いせじま)鬼/不(ふ)
思儀(しき)そふな顔つきにてわしらはとんと呑(のみ)
込(こま)ぬわひの焔魔様の身代はゑら ̄アいもんじや
さかいでいくら借金が有た迚ちつと始末(しまつ)な
さつたらつゐ直(なほ)りそふな物(も) ̄
ンじやわいなこふ
いへばわしがのが少(ちゆつさい)了簡(れうけん)の様なれどひどふ積(つも)り
て代物(しろもの)の随分(ずいぶん)利口(りこう)に付やふに菩薩達(ぼさつたち)の
黄金(わうごん)の膚(はたへ)も御堂前の出来/合(あい)同前/倭鉛(とたん)
【右丁】
鍍金(めつき)で間を合せ極楽へ毎日の仕出も百味(ひやくみ)の飲(おん)
食(じき)理(ことはり)いふて仕掛(しかけ)で壱/匁(ゑん)五/分(ふん)膳(ぜん)ぐらいで済(すみ)そ
なもの其上でまだ不足なら沙婆中へふれ
を廻し六道 銭(せん)に新鋳(しんふき)の富四銭(すもんぜに)を入させ無間(むけん)
地獄の蛭(ひる)を止(やめ)て壱歩礼にて三/百(びやく)両の富を突(つか)
せ畜生道(ちくしやうどう)で馬市をはじめ剣(つるき)の山を一丁目か
柳原へはこんでも一方は防(ふせ)がれるに焔魔様は
味(あぢひ)な了簡わし等(ら)はとんと呑込ぬわひのと
茶粥(ちやかゆ)の腹(はら)の減(へり)をもおぼへす上方/理屈(りくつ)いひ並(なら)
ぶれば鬼/仲満(なかま)ても口を利(きゝ)殺鬼(さつき)といへる通り者
【右丁】
銀煙管(ぎんきせる)脂下(やにさかり)にくはへ唐(たう)ざらさのじゆばん腕(うで)
まくりに本田あたま打振(うちふり)て ̄イヤ親玉(おやだま)の亡命
は金(かね)でなしの色(いら)事/目玉光(めだまびかり)の赤/面髪(つらひげ)むしや
の口広(くちびろ)で見掛に似ぬ近惚(おかほれ)天人衆の奇麗(きれい)
事に頗(はゝ)いきのいちやつき羽衣じめのちよんの
間おれこましのからだおも宿(やど)上りもずい流(なが)し
そこで大日腹を立(たて)焔州(えんしう)には似合(にやは)ぬ身持と尻(しり)
われのぐつとこまりずいにげのぐひはづし
推量(すいりやう)違ひ中の丁/打(うつ)て置(おけ) ̄チヨンとそゝり立れは
鼠(ねつみ)色のへんてつに東坡巾(たうばきん)かぶりしはすかん
【左丁】
ひんの宗匠鬼(そうしやうおに)朝鮮扇(てうせんおふき)しやにかまへ ̄イヤ《割書:〳〵|》大王
の亡命は中々左様の事ならず紀(き)の貫之(つらゆき)が
古今(こきん)の序(じよ)に絵に画(かけ)る女を見て心を動(うごか)す
がごとしとは僧正(そうじやう)遍照(へんじやう)が歌(うた)の評判(ひやうばん)それは昔(ひき)の
筆の跡かゝるためしを目のあたり眉目(みめ)容(かたち)類(たく)
ひなき瀬川菊之丞が絵姿(えすがた)に焔魔大王/現(うつゝ)を
ぬかし竜神(りうじん)に勅定(ちよくぢやう)ありし一部/娘終(しじう)の
委(くわし)い事は根無艸(ねなしぐさ)に書(かき)しるし世上(せじふう)に隠(かく) ̄レ
なみ〱ならぬ其/恋人(こひびと)を思ひ川/流(ながれ)て末(すへ)
の逢(あ)ふ瀬(せ)あらばと待(まち)わび玉ふ折からに龍(りゆう)
【右丁】
神(じん)の下知(げぢ)を請手/下(した)の水虎(かつぱ)が働(はたらき)にて伴(ともな)ひ
来 ̄ル路考が姿(すがた)聞しには似も付す存の外の不(ふ)
器量(きりやう)に一座大にあきれ果(はて)定(さだめ)て訳(わけ)の有磯(ありそ)
海(うみ)不/覚(かく)を取(と)りし其/様(やう)子/包(つゝ)まず白状(はくじやう)仕(つかまつ)れと水(かつ)
虎(ぱ)を御/吟味(ぎんみ)有けるに己(おの)が心に覚有/疵(きづ)持(もつ)足(あし)
の気味/悪(わる)く御白/洲(す)にひれ伏(ふし)〱誤(あやまり)入たる有様
よりかつぱと伏(ふす)といふ事は此時よりぞ初(はじまり)ける
され共/漢子(きやつ)も去(さ) ̄ル者にて詞をかざり鷺(さぎ)を烏(からす)
いひくろめんと浄頗梨(じやうはり)の鏡に掛(かけ)ての詮議(せんぎ)故
のがれぬ所と覚悟(かくご)して路考が情(なさけ)に大事を忘(わす)れ
【左丁】
萩野(おぎの)八重桐(やえきり)といふ女形を身替(みがわ)りに連(つれ)来(きた)れる
こと有の儘(まゝ)なる白状(はくじやう)に焔王(えんわう)甚(はなはた)怒(いか)らせ玉ひ三千
世界(せかい)を司(つかさど)る此大王を茶にしおるは言諸(こんこ)道断(だうたん)につ
くき奴(やつ)と忽(たちまち)水虎(かつぱ)を蹴殺(けころ)し給ふしたが娑婆
にて死だ者は此所へ来れども此所で死だ者は
行所がない故に魂(たましゐ)娑婆へ迷(まよ)ひ行人のからだ
を仮初(かりそめ)に男色(なんしよく)千人/切(ぎり)の馬鹿(ばか)を尽(つく)すも皆
此/水虎(かつは)の亡魂(ぼうこん)の障礙(しやうげ)をなすとしられたり
それより年を重(かさ)ねても焰王今に熱(ねつ)さめず
路考をごがれ玉へとも定業(でうごふ)にあらざれは大王の
【右丁】
【挿絵】
【左丁】
【挿絵】
【右丁】
御/威光(いくわう)ても呼寄(よびよせる)事/叶(かな)はぬ故いつそ娑婆へ尋行(たつねゆか)
んと思ひ詰(つめ)ての亡命(かけおち)ならんと始終(しじう)の咄(はなし)を聞居(きゝゐ)
たる茶色の鬼が図(つ)に乗(のつ)ておれも御用に撰(えり)出
され去年 今年(ことし)の堺町(さかいてう)節分(せつぶん)の夜のにくまれ
役もいやと鯔(いわし)の臭(くさゝ)をこらへ狗骨(ひいらぎ)で目をつく〲と
路考に見とれし贔屓(ひいき)の証拠(しやうこ)赤鬼白鬼黒鬼の
と昔から定法の仲(なか)まをはつれおれ一人か路
考/茶(ちや)鬼 ̄コレ見よ虎(とら)の皮(かは)の犢鼻(ふんどし)褌に金糸(きんし)
でゆひ綿(わた)縫(ぬは)せたはおらも首(くひ)だけ浜村(はまむら)屋今
三(さん)ヶ(が)津(のつ)の希(まれ)者/鼻(はな)の高い天狗(てんぐ)仲満(なかま)鞍馬(くらま)山
【左丁】
の太郎坊/愛宕(あたご)山の治郎坊/湯(ゆ)の山の有馬(ありま)坊/羽(は)
黒山(くろさん)の出羽(では)坊を始(はじめ)として贔屓(ひいき)の連中山の手
から下町(したまち)はいふに及ばす蝦夷(えそ)松前(まつまへ)の果(はて)までも
路考を引(ひか)ぬ者(もの)なければ且那の惚(ほれ)たも無理ならす
と口々/評儀(へうぎ)に社長(なぬし)のいらち咄(はなし)がかふじて長休(ながやす)み
あんまりたばこ呑(のみ)過(すご)し男倡(かけま)の地獄見るやうに尻(しり)から
焔(ほのふ)出ぬ先に ̄サア最(もう)一息(ひといき)尋て見よふ ̄コリヤ尤と
大勢が立さはぐ最中(さいちう)に急脚(ひきやく)子と見えてすた
〱走(はし)り色/真黒(まつくろ)にふすもり顔(がほ)真(ま)一文字に
行/過(すく)るを獄卒(こくそつ)共引とゞめ我々(われ〳〵)に理(ことはり)なしに
【右丁】
何国へ通るととかめられ誰(たれ)とはおろか忝(かたしけな)くも
薬研(やけん)堀に隠(かく)れなき不動明王(ふどうめうわう)を見しらぬかと
市川/流(りう)て白眼(にらみ)付れは獄卒(こくそつ)共うろたへて能々(よく〳〵)
見れば不動様/後光(ごくわう)の火焰(くわえん)がござらぬ故頭巾
着(き)ぬ大黒同前見/違(ちがへ)しとのわび言に不動明
王打うなづきおれが急足(ひきやく)に来りし様子(やうす)は今朝(けさ)
浅草(あさくさ)の観音殿(くわんおんとの)から呼(よび)におこされ焔魔様
か蔵前の出店にかくれて御座らしやる潜(ひそか)に
迎(むかひ)をよこす様にと地獄へ飛脚(ひきやく)がやり度(たい)が参り
の多い時/節(せつ)故/寺内(しない)ても人/少隙(すくなひま)で居る久米(くめ)
【左丁】
の平内は見る通りおもたいからだ急(いそ)ぐ間には
合(あい)にくい雷(かみなり)や風の神では通り筋(すじ)の小言(ここと)も気の
毒(とく)そちの小豎(こぢよく)をやつてくれ ̄ヲツト心得たんぼ
道(みち)安(やす)うけ合に請合(うけやり)て制叱迦衿朔羅(せいたかこんがら)に行(ゆけ)と
いへば近年は地獄でも若衆(わかしゆ)の沙汰が物窓(ふつそう)なれば
酢(す)の蒟蒻(こんにやく)のといやがる故しやうことなしに自身(じしん)
の捷歩(ひきやく)三途(さんつ)川を歩行渡(かちわた)り先祖代々(せんぞたい〳〵)持伝(もちつた)
へし脊中(せなか)の火焔(くわえん)を微塵(みしん)にして大事の後(こ)
光(くわう)株仕舞(かぶじまい)徳はいかひで不動そん見/違(ちかへ)しも
無理ならず焰魔のどやがしれたれば外をさが
【右丁】
すに及(およぶ)まひと聞て皆々色を直し去(さり)とは
いかひ御/苦労(くろう)様/安(やす)い仏に楽(らく)をさせ御/自身(じしん)
の急足(ひきやく)とは本 ̄ンの次第(したい)ふどう明王(めうわう)娑婆(しやは)の若
衆にうつほれて路考しやうどにうかれ出る
これも他生(たしやう)のゑんま様/迷(まよ)ひ子の焔魔様と
へちまな地口(ぢぐち)口々に鉦(かね)ちやん〱と打鳴(うちな)ら
し蔵前さして尋行(たづねゆく)
根無草後編一之巻終
【左丁】
【記載なし】
【裏表紙】
【表紙】
《題:根無草後編 二》
根無草後編二之巻
【右丁】
【左丁】
根無草後編二之巻
それ造化(ざうくわ)のかぎりなき小見(しやうけん)をにてはかるべからず
田鼠(でんそ)化(け)して鶉(うづら)となり雀(すゞめ)水(みづ)に入て蛤(はまぐり)となり童(でつ)
奴(ち)変(へん)じて伴当(ばんとう)となり嫁(よめ)化(け)して姑(しうとめ)となる漆(うるし)
蟹(かに)を得(え)て泥(どろ)のごとく海参(なまこ)藁(わら)を得て水のごとく
大戸(じやうご)酒(さけ)に呑(のま)れて酒風漢(のたまく)となり少年(むすこ)倡妓(じよらう)
にたらされて飄客(うてんつ)と成/千変万化(せんべんばんくわ)のかぎり
なき張華(ちやうくわ)も博物(はくぶつ)の看板(かんばん)をおろし東坡(とうば)も
相感志(そうかんし)の店をたゝむ爰(こゝ)に市川雷蔵なる
者あり此者の変化(へんくわ)定(さたま)りなき其(その)源(みなもと)を尋(たつぬ)
【右丁】
れば父(ちゝ)は代々/瓢象(ひさかた)の都(みやこ)の方に隠(かく)れなく富(とみ)
さかへぬる武家(ふけ)に仕(つか)へて渡部(わたなべ)義兵衛となんいふ
人(ひと)なりしが朋輩(はうばい)の連坐(まきぞへ)にて浪々(らう〳〵)の身と成ける
より老たる母と妻子(さいし)をも養育(はなくまん)手次(たつき)にもと
住(すみ)なれし都(みやこ)を離(はな)れうき数々(かず〳〵)に大津の町の
わび住居(ずまゐ)弓馬(きうば)の道(みち)は廻り遠(どほ)く外に営(いとな)むべき
業(わざ)なければ絵の事は先(まづ)素人(しろうと)ながらつい出来易(できやす)
き所の名物(めいふつ)げほうのあたまへ階子(はしご)掛(かけ)ても我(わが)
身(み)の上(うへ)の下り坂(さか)主(しう)持(もた)ぬ身の一徳と浮世(うきよ)は軽(かろ)き
瓢単(へうたん)で押へる鮧(なまず)のぬらりくらり犬(いね)のくわへて
【左丁】
引あるく先士(ざとう)の坊の褌(ふんどし)さへしまりなき世渡(よわたり)
のいつ果(はつ)へき事にしもあらず其上に民之進(たみのしん)と
て一人の忰(せがれ)あり容貌(ようはう)百人(ひやくにん)にすぐれ心さとくし
て滞(とゝこふ)らず手習学問/槍(やり)兵法(へやうはう)遊芸(ゆうげい)迄も器(き)
用(よう)なれば末々は能(よき)主取(しうどり)をもさせんとて江戸の
稼(かせぎ)を心掛て薄(うす)々用意は有ながら老たる母
女房なんどのしらぬ吾妻(あづま)の長旅(ながたひ)を如何(いかゞ)有ん
と思ひすごし一日/過(すぎ)二日過早三年の月日さ
へ立寄べき方もなく有附(ありつく)べき主人/迚(とて)も
なが〱の浪人/住居(ずまゐ)母女房も気毒かりいつそ
【右丁】
江戸へ出て見てはと思ひ立は立(たち)ながら兎(と)して角(かく)し
てと隙取内思ひ掛(がけ)なく母の中風/旅立(たびたち)どころにも
有ばこそわけて義兵衛は孝行なる男にて看(かん)
病(びやう)に手ぬけもなくあなたこなたの医者よ祈祷(きとう)
よと心遣ひもとより手(て)薄(うす)き身代(しんだい)なれば諸方に
穴(あな)も秋の末より冬(ふゆ)の半(なかば)に打つゞき義兵衛も脊(せな)
に廱(よう)を発(はつ)し初(はしめ)は母の病苦(へやうく)の障(さは)りと隠(かく)して
も隠(かく)しとぐべき病(やまひ)ならず段々と腐入(くさりいれ)ば中々(なか〳〵)
一通りにて快気(くわいき)しがたしと下地(したぢ)せつなき其上に
又(また)此(この)才覚(さいかく)にかてゝくわへ少も所縁(ゆかり)有(ある)方(かた)は段々無
【左丁】
心もいひ尽(つく)し貯(たくはへ)し兵器(ぶく)諸什器(しよとうく)指(さし)がへの大小の
反(そり)はなけれどまげ仕舞(しまひ)夫婦が着(き)がへ夜(よる)の衾(ふすま)
後は銅壷(どうこ)茶鈴(ちやかま)まで売代(うりしろ)なし漸(やう〳〵)残る物/迚(とて)
は四人が口をとぢ蓋(ふた)の破鍋(われなべ)にさへ金気もなく
せつなき余りの一寸のがれ高利の金をかりそめ
にも足元(あしもと)を見ては猶物の哀(あわれ)をしらぬ族(やから)日夜(にちや)
朝暮(てうぼ)の詰催促(つめさいそく)義兵衛は重(おも)き病気の上母の
耳(みゝ)へ入まじと断(こてはり)いふ程(ほど)責(せめ)かけられ詞の剣(つるき)理(り)
づめの槍先(やりさき)千騎(せんぐ)万騎の敵よりも防ぎ兼たる
浪々(らう〳〵)の身を悔めば女房の心遣身をそがるゝ
【右丁】
よりせつなけれども智恵才覚にも出来(でき)がたき
金が敵(かたき)の世の中なれば只しみ〲と明暮(あけくれ)に年
の寄(よる)より外はなし或夜母のすや〱寐入(ねいり)しを
窺(うかゝ)ひ義兵衛女房に向(むかつ)て申けるはいかなれば我々(われ〳〵)
程/果(くわ)報/拙(つたな)き者あらじ京都にて勤(つとめ)し時も何の
仕落(しおち)なき身ながら朋輩(はうばい)のまきぞへにて御晦(おんいとま)給
はりしそれゟかゝる浪人/住居(ずまゐ)仕(し)つけぬ業(わさ)の世
渡りも今の難儀にくらぶればうしと見し世ぞ今は
恋(こひ)しき母の病気/我(わが)腫物(しゆもつ)剰(あまつさへ)其上に四百四病(しひやくしびやう)
にまさるといふ貧(ひん)の病(やまひ)身にせまり耆婆(ぎは)扁鵲(へんじやく)が薬(くすり)
【左丁】
ても生延(いきのひ)られぬ我おとろへ今日(きふ)の医者の詞にも
母の病気も中風なり我種物も腐つよくいづ
れも人参(にんじん)の力ならでは中々療治なりがたし
外へ見せよとにげらるれど其日の煙(けふり)立(たて)兼て知(し)る
通の体なれば死たる者が蘇(よみがへり)枯木(かれき)に栄(はな)の発(さけ)ば
とて人参(にんじん)のことは扨置(さておき)毎日毎夜の催促(さいそく)に最早
いふへき詞も尽(つき)貧苦(ひんく)の上に我大病手がま
はらねば母人の看病(かんべやう)までが疎略(そりやく)に成不孝の罪(つみ)
もおそろしければ我は今宵(こよい)腹(はら)切(きつ)て相果(あいはて)ん我
死たりと聞(きく)ならば貸方(かしかた)にてもあきらめて催促
【右丁】
にも来るまじ左すれば貧苦(ひんく)と我看病二ッのなん
ぎを助(たすか)りて母壱人の肴病しとげいかなる人
にも身をまかせ奉公(ほうこう)宮仕(みやづかへ)をしてなりとも忰(せがれ)を
守立(もりたて)人となし家の名字(めうし)を継(つか)せてくれ頼置は
是斗(これはかり)といふ内も腫物(しゆもつ)の痛(いたみ)熱(ねつ)の往来(わうらい)胸(むね)迄(まで)
せき来(く)る無念の涙(なみた)痰咳(たんせき)とともにむせび入(いれ)
ば女房夢の心地(こゝち)にて薬(くすり)あたへつ抱(たき)かゝへ漸(やう〳〵)咳(せき)
をさすりしづめ母の目や覚(さめ)んかと声(こゑ)をも立ず
ないじやくりして夫の顔をうらめしそふに打
ながめつゝいかに難儀のかさなればとて日頃(ひころ)にも
【左丁】
似(に)ぬ不了簡今/自減(しめつ)し給はゝ母御(はゝご)も生(いき)ては居(ゐ)
玉ふまじわらはもながらへ居(ゐ)らるべきかさすれば可隣(かわいひ)
民之進は誰か残て人となさんさはいふものゝいかな
れば貧苦といふも程有んに其日の煙も立兼
て昨日(きのふ)も薬は貰(もらひ)ながら煎(せん)ずべき薪(たきゞ)なければわら
はが髪(かみ)の中を剃(そり)漸(やう〳〵)少の価(あたい)にて買調(かひとゝのへ)し落
葉(ば)さへ涙にしめりもえ兼る寒気つよき此
時節夜の物なく火の気もなく姑御(しうとめご)といひ御前
の大病次第に暮(つの)る苦(くる)しみを病(やむ)目より見
る目のせつなさ人参で癒(なを)ると聞ばせめて此
【右丁】
身が若(わか)かりせば君(きみ)傾城(けいせい)に身を売てもしやう
模様(もやう)もあるべきにそれさへも叶(かな)はぬ因果(いんくわ)天道
にも仏神にも見かぎられたる身の上と夫婦
手に手を取合て忍(しの)ぶにあまる泣声(なきごゑ)を初
よりつく〴〵と寝(ね)たふりにて聞居(きゝゐ)たる民之
進が子心にも堪兼(こらへかね)て泣出(なきいだ)せば夫婦は驚きい
かゞせしぞと尋ながらも様子聞ての事なる
かと心遣ひかきりなし民之進もせきくる涙(なみた)明(あか)さ
ば猶しも苦(く)の上ぬりとこはい夢(ゆめ)見ておそは
れしと何気(なにげ)なく取なす内夜明烏の声諸
【左丁】
共母の目も覚(さめ)ければ薬よ湯よと女房の心遣
哀(あわれ)なりともいふはかりなし其日も終日(ひめもす)民之進
は独(ひとり)しみ〴〵泣居(なきゐ)たれども何となすべきてだ
ても出ず此上頼は神仏の力ならんと稚(をさな)心に
思ひ付/暮(くれ)にまぎれて内を抜 ̄ケ出あたりの
淵(ふち)にて垢離(こり)を取所も名にし逢坂の関の明
神へ裸(はだか)参り神前に打伏て死ふといふ父
の命祖母の命諸共に金さへ有ば助(たすか)るとや
何/卒(とぞ)金を調(とゝのへ)て病苦(びやうく)貧苦を救(すく)はせ玉へ
夫(それ)も叶はぬものならば一寸も動(うご)くまじ爰
【右丁】
にて我(われ)を蹴殺(けころ)してたび給へと脇目(わきめ)もふらず
祈(いのり)けるが頃しも冬の半(なかば)なれば次第に夜陰(やいん)の空(そら)
寒(さむ)く雪吹(ふゞき)交(まじ)りに吹風は身内を切がごとくな
れども固(もとより)気丈の生(うま)れつきに一心の誠をあら
はし少もたゆまずこたゆれども寒気/五臓(ござう)に
しみ渡(わた)りからだは氷(こほり)のごとくなれば何かは以(もつ)てた
まるべき正気(しやうき)を失(うしな)ひ打たほれしは目もあてられ
ぬ次第なり折節(おりふし)近所(きんじよ)にて心易き柏屋(かしはや)の長右衛門
といふ人/牙郎(きもいり)宿願(しゆくぐわん)の事有て此宮へ詣(まふで)けるが
此体(このてい)を見て介抱(かいほう)し羽織を脱(ぬい)で打着(うちき)せあた
【左丁】
りの家に伴ひ行/巨燵(こたつ)に暖(あたゝ)め薬をあたへさま〴〵
といたわりければ漸(やう〳〵)に心付けるが又かけ出して行ん
とするを人々とゞめ様子を問(とへ)ば右のあらまし物語此
上はいか様なる奉公にも身を売て家内の難儀す
くひ度(たき)との稚(をさな)心有あふ人も感(かん)に堪(たへ)長右衛門も哀
とは思ひながら年端(としは)も行ぬ稚(をさな)き者(もの)年季(ねんき)奉公
に出たりとも高のしれたる給(きう)金也いつそ宮川町
へ身を売て男倡(やらう)奉(ぼう)公に行ならばいつかどの金
にもなるべしとつど〱にいひ聞すれば相/応(おう)の金
にも成父母の難儀をすくふならば身は八ざきに
【右丁】
さかれ生膽(いききも)をぬかるゝともさら〱厭(いと)ふ所存に
あらずと流石(さすが)日頃の気/質(しつ)程(ほど)有て悪(わる)びれもせ
ぬいひぶん長右衛門/呑込(のみこん)で民之進を人に送(おく)らせ
わづか三里の道なれば其身は宿へも帰らずして
直(すぐ)に京都へ急(いそ)ぎ行されは孺(じゆ)子の井に入んと
するを見ては惻隠(そくいん)の心ありといふ親父の寝言(ねごと)
野夫(やぼ)ならず斯(かく)て民之進は宿に帰れば家内は
案(あん)じ居けれども立願の訳(わけ)いひくろめ其夜も
過て翌(よく)朝より長右衛門を待居(まちゐ)ける孝行ふかき心の
内けなげにも又/哀(あはれ)なりけり程なく昼にも至り
【左丁】
ければ長右衛門か案内にて京都の子供屋扇屋藤助
義兵衛か内に入来れは民之進出むかひ二人を伴(ともな)ひ
内に入父母の前に手をつかへ祖母様と申父上
の久々の御病気貧/苦(く)にせまり父上の死ふと覚
悟(ご)し給ふを寝(ね)たふりにて聞たりしが子の身と
してはうか〱と聞ていられぬ命の瀬戸せめて
廿年(はたち)にもなるならば仕様/模様(もやう)も有べけれ共/若(じやく)
年の私故外になすべき手だてもなく是(これ)なる長
右殿を頼(たのん)で宮川町へ奉公に参り度(たふ)御座り
ますると涙(なみた)と共に願ふにぞ祖母も夫婦も思ひ
【右丁】
よらねば顔と顔とを見合てとかふの詞も出ざれば
長右衛門引とりてない習(ならひ)でもござらねば ̄マアそふでもして
身の代で諸方の借金をもつくのひ人参でも調て
心ながふ養生(ようじやう)なされいいつも闇(やみ)ではない習(なら)ひわし
が請に立からは金さへ出来 ̄リヤ何時でも請返さふと
自由(しゆう)な事御子息の孝行を無にせまいと思ふ故
夕 ̄アから夜も寝(ね)ずに京へ六里のたて通し
兼て懇意(こんい)の親(おや)方故諸事しめくゝりして置(おき)た
れば判さへ出来れば金渡さふと詞に付て扇屋も
長右殿の咄(はなし)に違(ちが)はす孝行といひ器量といひ目
【左丁】
の内に見処(みどころ)あれば此子は一はねはねふと思へ
ば飛(とひ)つく程(ほど)慾(ほし)いから六年切て百両と金子の
包(つゝみ)さし出せば父は涙(なみだ)の顔を上何れもの
御世話/忰(せがれ)が孝行/過分(くわぶん)にはござれ共/拙者(せつしや)も故
有る武士の浪人いかに貧苦(ひんく)にせまり果(はて)病気
難儀なれば迚(とて)天にも地にも只(た) ̄ツタ一人(ひとり)のおひ先(さき)
有忰を売て其/身(み)の代(しろ)で命をつなぐは我
子の肉(しゝむら)を食(しよく)する同前/先祖(せんぞ)へ対(たい)して云訳(いひわけ)
なく犬猫(いぬねこ)にもおとりたれば譬(たとへ)砂(すな)をかみ餓(うへ)
死(しぬ)ともは決(けつ)して相(あひ)ならずと得心(とくしん)すべき
【右丁】
気色(けしき)もなし民之進もしほれ居(ゐ)しが父の詞
を聞(きく)よりも傍(そば)なる脇指(わきざし)ぬきはなし切腹(せつふく)
と見るよりも皆々/驚(おどろ)きいだき止(とむ)れば祖母
も行歩(ぎやうぶ)は叶(かな)はねども共々(とも〴〵)に這(はひ)よりて短(たん)
気(き)をするなどふなりともそちが望(のぞみ)にまかせんと
取々になだむればどふで生(いき)て詮(せん)なき命祖母
様や父上(ちゝうへ)の御難儀を見んよりは死(しな)せて
たべとかこち歎(なげ)けば父も涙の目を押(おし)のご
ひ氷(こほり)の魚(うを)雪(ゆき)の筍(たかんな)其孝行にもおとるまじ
日頃(ひごろ)一徹(いつてつ)短慮(たんりよ)なりと呵(しか)られし程有て十二
【左丁】
や三の子心にて年に似(に)合ぬ丈夫(しやうぶ)の魂(たましゐ)此上
は留(とめ)ても留らじ汝(なんち)が望に任(まか)すべし去な
がら此年迄/養育(やういく)せしは主人を見立奉
公させ世に出さんとこそ思ひしにふがいな
き親(おや)故に年端(としは)も行で苦労かんなん不便(ふびん)
の次弟とふるふ手を長右衛門が介抱(かうほう)にて証(しやう)
文(もん)に印形(いんぎやう)すれば祖母と母とは左右(さゆう)にすがり
涙(なみだ)ながらに髪かきなで思ひつゞけし数々(かず〳〵)の
胸(むね)にせまりて詞なし二人も哀(あはれ)にくれ
ながら用意の竹轎(かご)をさし寄(よせ)させ民之進を
【挿し絵】
【右丁】
いたわり乗(の)せ名残(なごり)は尽(つき)じとそこ〱に
暇乞(いとまごひ)して立帰る跡のなげきいはん方なし
かくて果(はつ)べき事ならねば彼(かの)身の代にて
大医(たいい)をむかへ価(あたい)の貴(たか)き人参を用ひ残方
なき養生(やうじやう)に母の病も全快(ぜんくわい)し義兵衛も
程なく平癒(へいゆ)しけりこれ偏(ひとへ)に民之進が世(よ)
に類(たぐゐ)なき孝心の天(てん)に通(つう)ぜし故ぞかし彼(かの)
唐土(もろこし)の郭巨(くわくきよ)てふ人母の為(ため)に子を埋(うづ)
まんとして金の釜(かま)を堀出(ほりいだ)せしに類(たぐい)等(ひと)し
き孝行なりそれよりも民之進は宮川町
【左丁】
へ引/移(うつ)り昔の武芸(ぶげい)引かへて三絃(さんせん)小哥(こうた)舞(まひ)
の手なんど日数(ひかず)もたゝで覚(おぼへ)ければ嵐(あらし)玉柏(たまかしは)と
名(な)をかへて四条の劇場(しばゐ)へ出(いだ)しけるが卞和(べんくわ)が
玉(たま)磨(みがゝ)れては瓦石(ぐわせき)と類(たぐ)ひすべきにあらねば
全盛(ぜんせい)つゞく者もなく江戸よりも聞伝(きゝつた)へ段(だん)
〱の云入(いひいれ)に親方の相談(さうだん)極(きはま)り堺町(さかいてう)へ下(くだ)り
けるがわけて其頃押なべて男色(なんしよく)盛(さか) ̄ンの時
節なるに梅(むめ)のずあいのすんとして態(わざと)ならぬ
色香(いろか)あるは東(あつま)の人(ひと)の気象(きしやう)に叶(かな)へば風流(ふうりう)の客(きやく)
前後を争(あらそ)ひ色子の内も評判つよく元
【右丁】
服して海老蔵(えびざう)が弟子(でし)と成(なり)栢延(ほくえん)の一字を貰(もら)
ひ俳号(はいごう)を栢車(はくしや)と名乗(なの)り村上彦四郎の荒(あら)
事(ごと)より次第〱に評判よく上方よりも招(まね)
かれて当(あた)りを取(とる)其内に初の名は遠慮
ありとて雷蔵(らいざう)と改名(かいめい)し再(ふたゝび)江戸へ下(くだ)りて
より益(ます〳〵)贔屓(ひいき)の人多し此人/常(つね)の詞にも
我(われ)は仕合悪してかゝる身となりたれば形(かたち)
は武門(ぶもん)に返(かへ)りがたく共心はなどか昔(むかし)の武士
を忘(わすれ)んやと其/志(こゝろざし)古( いにしへ)の朱家(しゆか)劇孟(げきもう)がおもむ
きを移(うつ)し物ごと至て正/直(じき)にて任侠(じんけう)をこの
【左丁】
み剣(つるぎ)を愛(あい)し弱(よは)き人には下れども強(つよ)き者
には一寸も引ず酒を飲(のみ)角力(すまひ)をすき又/拳(けん)の
上手にて世上にならぶ者(もの)もなしされば段(だん)〱
評判よく当(あた)り狂言多き中にしのぶ売(うり)あ
かん平(べい)総角(あけまき)の助六なんど類(たぐ)ひなき大入に
て世上の評判/楽屋(がくや)のもてなし取わけ女
中の贔屓(ひいき)つよく雷蔵〱とはやし立(たて)仕出(した)し
団扇(うたは)櫛笄(くしかうがい)三升の中へ雷(らい)の字を付たるは
屋敷も町も嬉(うれ)しがり鳴(なる)雷(かみなり)はこはがれども此雷
はかわゆかり抓(つか)まれたがるも多かりき爰に
【右丁】
又色事師/坂東(ばんどう)彦三郎/薪水(しんすい)といふ者(もの)有
先の彦三郎が実子(じつし)にて稚名(をさなな)を菊松と
なん呼(よび)けるが父(ちゝ)薪水(しんすい)泉下(せんか)の客と成てよ
り菊松(きくまつ)父の名を継(つい)で二代の彦三郎らと成
にけり元来(くわんらい)父彦三郎はくれ竹の伏見(ふしみ)の
里の産(うま)れにて是(これ)も武士(ぶし)の枠なりしが故
有て役者と成/舞台(ぶたい)も武道(ぶどう)を専(もつはら)とし実
の実といふ仕内(しうち)にて真(しん)の上手(しやうず)ともてはや
され家老職(からうしよく)のおも〱しさ其頃/続(つゞ)く役
者もなし然(しか)るに薪水四十に至(いたり)て子なき
【左丁】
事をうれへけるが人の教(おしへ)にまかせつゝ隅田川(すみだがわ)の
竜神(りうしん)へ三七日の通夜(つや)をして祈(いのり)出(いだ)せし申子
は即(すなはち)後(のち)の薪水なり実やびんがは卵(かいこ)の中
より其声/衆鳥(しうてう)にまさるとかや薪水子役
より愛敬(あいそう)つよく若衆形にて大入を取/僧(そう)
俗(ぞく)男女心をうごかし扇(おふぎ)牙杈差(やうじさし)煙袋(たばこいれ)哥(うた)発(はつ)
句はいふに及ばず薪水が手で墨を付ても
兒女子(むすめこども)の嬉(うれ)しがること義之(ぎし)が墨/蹟(せき)定家(ていか)の
色紙にもまされり父は堅(かた)きを仕(し)にせとし後
の薪水は初より色事師の名代にて舞
【右丁】
台の風(ふう)はかはれども常の行跡(かうせき)父にもまさり
贔屓(ひいき)の人々/招(まねけ)ども等閑(なをざり)にては茶屋へも行ず
若(もし)拠(よんどころ)なく行時(ゆくとき)はいつも袴(はかま)を脱(ぬが)ざる故/客(きやく)
も却て窮屈(きうくつ)がる程行義正しき生質(うまれつき)に
て流石(さすが)昔のあづさ弓引かたの女中なんどは
雁(かり)の便(たより)を求(もとめ)ては玉の緒(を)の絶(たえ)なんとかこち人
目の関(せき)を忍(しのび)兼つゝしたひ来るも多かりしが
自然(しぜん)と柳下恵(りうかけい)が行(おこな)ひに等(ひと)しくみたりなる
事/怪我(けが)にもなし女はつれなしと恨(うらむ)れども
其/守(まも)りの堅(かた)き事大人/君子(くんし)も恥(はち)ぬへし初
【左丁】
薪水/孤(みなしこ)にて親類(しんるい)迚(とて)もあらざれは尾上梅幸
を親(おや)と頼又此/栢車(はくしや)が男気を見込兄弟分の
約(やく)をなし雲と成雨とならんと契(ちぎ)りしが元
服の後も交(まじは)り絶へず実(じつ)の兄弟より睦(むつま)し
いかなる過去(くわこ)の約束にや戌の秋より雷
蔵は何となふ煩(わつらひ)出(た)し押て勤(つとめ)は勤ながら
次第に気分(きぶん)悪(あし)ければ亥(い)の二月より舞台
を引て養生(やうじやう)しけるを薪水も日々行て看
病おこたる事もなしされ共さらに快気(くわいき)も
見えず次第におもる病(やまひ)の床贔屓の方にも聞
【右丁】
伝そこの立願(りうぐわん)かしこの祈祷(きとう)様々(さま〳〵)心を尽せども
其(その)験(しるし)も見えざりけり
根無草後編二之巻《割書:終|》
【左丁 空白】
【裏表紙】
【表紙】
《題:祢奈志具左後編 三》
【右丁 空白】
【左丁】
根無草後編三之巻
かやうに候は市川の雷蔵にて候/我(われ)久々(ひさ〳〵)の
病気(べうき)にて医療(いりやう)手を尽(つく)すといへども更(さら)に快気(くわいき)
もなかりし処に此程浅草の観世音(かわんぜおん)を念(ねん)じ
奉(たてまつり)ける験(しるし)にやいつに勝(すぐ)れて快(こころよく)覚( おほへ)候程に御礼
の為(ため)浅草に参詣(さんけい)せばやと存候/浮世(うきよ)の夢(ゆめ)
も短夜(みじかよ)のまだ晴(はれ)やらぬ雲井の月心の駒(こま)
を引立て法(のり)の為には蔵/前(まへ)の焔魔堂(えんまどう)にぞ
着(つき)にけり〱浅草迄は程遠し爰(こゝ)にていざ
や休(やすま)んとて堂のかたへに蹲踞(うづくまり)暫(しば)し念珠(ねんじゆ)し
【右丁】
居ける所(ところ)に拝殿(はいてん)俄(にはか)に物音して昼のごとく照り
渡(わた)り焔王(ゑんわう)中央(ちうわう)に座し給へは左右に十王/列(れつ)を
正(たゞ)し表(おもて)の方には獄卒(こくそつ)共/数(かず)もかぎらす並居(なみゐ)
たる焔魔大王御/声(こゑ)高(たか)く是(これ)迄心を尽(つく)せども
恋の叶(かな)はぬ業腹(こうはら)まきれ朕(ちん)闇雲(やみくも)に亡命(かけおち)し
て此所に至(いたり)し心は堺町をぶつこはし玉(たま)をこつ
ちへ引さらはんと心はやたけにはやれ共日本は
神国(しんこく)にて伊勢八幡/王子(わうじ)の稲荷おへない手相(てあい)
が多けれは漫(みだり)に他領(たりやう)へ踏込(ふみこみ)がたし乾道(わかしゆ)の事
は教法(けふぼう)大師(たいし)の支配(しはい)なれば呼寄て申付よと転(てん)
【左丁】
輪王の心付尤に思ふ故/広野(くわうや)へ呼に遣はせしが
定て使(つかひ)帰(かへ)りつらんと勅定(ちよくぢやう)あれば転輪王(てんりんわう)さん
候/教法(けうほう)が儀は幸(さいわい)と大師河原の別業(しもやしき)に逗留(とうりう)
せし由承り御/次(つぎ)迄/召寄(めしよせ)置(おき)たりそれ〱
と呼次(よびつけ)は香(かう)の衣(ころも)に九/条(じやう)の袈娑(けさ)御衣(ぎよい)の袂(たもと)の香
を残(のこ)す縹帽子(はなのぼうし)の花々しくいとも殊勝(しゆしやう)に着
座(さ)あれば焔王近くと招(まね)かせ玉ひ汝(なんぢ)を召事(めすこと)
余(よ)の儀ならず聞も及ばん此(この)大王(だいわう)見(み)ぬ恋(こひ)に
身をやつす御坊(ごぼう)は名高き若衆の開基(かいき)此(この)
道(みち)一派(いつぱ)の祖師(そし)なれば諸分(しよわけ)功者と聞及ふ何
【右丁】
卒(とそ)路考(ろこう)を手に入る魂膽(こんたん)は有まひかと惚(ほれ)
々として勅定あれば教法の詞を待(また)ず宗帝(そうてい)
王(わう)居丈高(ゐだけだか)に成て毎日(まいにち)毎夜/諌(いさめ)ても金言(きんけん)
耳(みゝ)に逆(さか)馬の指つまりたる御所存哉三千
世/界(かい)の其中には日本といひ唐といひ天
竺(ちく)阿蘭陀(おらんだ)をはじめとして数万(すまん)の国々ありと
いへども皆それ〱の司(つかさ)有て国を治(おさ)め民(たみ)を教(をしへ)
万(ばん)国太平を楽(たのし)むこと皆(みな)上(かみ)一人(いちにん)の徳によれりさ
れば古/唐土(もろこし)にて呉王(こわう)剣(けん)をこのまるれば民(たみ)きづ
つく者多く楚王(そわう)女の腰(こし)の細(ほそ)きをすけば宮(きう)
【左丁】
女に餓死多かりしも上(かえ)の好(このむ)所/下(しも)必(かならず)随( したが)ふなら
ひ君(きみ)は世界(せかい)の惣司(そうつかさ)にして過去(くわこ)現在(げんざい)未来まで
の差悪(ぜんあく)を正(たゞ)し給ふ大切の御身を以て稚子(をさなご)
の小路(こうじ)がくれ二才(にさい)野郎(やらう)の抜参(ぬけまい)りのごとく地獄(ぢごく)
を逐電(ちくてん)し玉ふさへ沙汰(さた)の限(かぎ)りの事なるに
寝(ね)ても起(おき)ても若衆の噂(うはさ)一ッ穴の狐(きつね)とやらで
教法迄を呼寄(よびよせ)て言語道断(こんごどうだん)の御しかた是に
居(ゐ)らるゝ教法大師(けうぼうだいし)も広野(くわうや)へ入定(にふしやう)めされて以(この)
来(かた)まだに戯家(たわけ)がやまぬかして動(やゝもすれ)ば石芋(くはすのいも)石蛤( くはすのかひ)
で人をちやかし古河(こが)では水でじやうだんをはじめ
【右丁】
役(やく)にも立ぬ臼(うす)の目を切(きり)折々(をり〳〵)は堺町/葭(よし)町通ひ
もめさるやら坊 ̄ン様忍ぶは闇(やみ)がよい月夜には
あたまがぶらりしやらりと諷(うたは)る天地/自然(しぜん)の女
色(しよく)さへ淫(おぼ)るゝ時は身をしくじり家を失ひ国を亡
す況(いわんや)男色の無理/非道(ひどう)なること耳の穴へ食
を喰(くひ)煮茶鑵(くわんす)で味噌(みそ)を摺(する)がごとしかゝる不埒(ふらち)
を行(おこな)ひながら此宗/一派(いつは)の洪匠(こうしやう)とあをがれ蜜(みつ)
教(けう)とやら夕河岸(ゆふがし)の阿字本(あじほん)不生(ふしやう)の脊(せ)こし膾(なます)
酢(す)の過た衆生(しゆしやう)を化す上(うは)べ計(ばかり)の見せかけに
て葛西(かさい)舟の船頭/雪隠(せついん)の神(かみ)の末社(まつしや)も同前
【左丁】
巳がなくは我々もかゝる憂(うき)目は見まいぞと此一宗
の新発意(しんぼち)が祖師のあたまを叩(たゝく)といふも実(げに)尤と
覚ゆる也いそぎ教法を追(おひ)まくり広/野(や)山と黄蜀(ねり)
葵根店(ぎだな)を片時(へんし)も早く破却(はきやく)して痔病(ちやみ)の愁(うれひ)を
除(のぞく)べし《割書:ソレ〳〵|》と下知すれば転輪王押とゞめ宗帝
王の詞は皆/理屈(りくつ)と申物にて大道(だいどう)をしるの理に
あらずえん焔王の御身持/諌(いさむ)るは臣下の道とは申なが
ら譬(たとへ)は雷火(らいくわ)に水を掛れば其火ます〱さかん
なれ共合せ火をなす時は其火却て消(きゆ)るがごと
し浮世に此理を知らぬ者人のすること皆/非(ひ)に
【右丁】
見え独(ひとり)嗔恚(しんい)を燃(もや)しつゝ世をうらむる族(やから)も多し
又教法の若衆/好(ずき)は其人の一癖(いつへき)にて道を害(がい)す
るに至(いた)るべからずなくて七癖(なゝくせ)といふ諺(ことわざ)あり王
済(せい)が馬癖(ばへき)和嶠(くわきやう)が財癖(さいへき)杜預(どよ)が左伝(さでん)慈鎮(じちん)の倭歌(わか)
盛親僧都(じやうしんそうづ)の芋魁(いもがしら)宗祇(そうき)法師の髪(ひげ)を愛(あい)せし
も皆人々の癖ぞかし志(こゝろざし)尋常(よのつね)にして癖大なる
者は癖の為(ため)にとろかされ志大にしてなみ〱の
癖ある者何ぞ癖の為に志を奪(うばゝ)れんや大師
の若衆を愛するは一には癖二には糟糠(さうかう)も腹(はら)に
みつれば八珍(はつちん)をかへり見ず未世の坊主男色に
【左丁】
て事を済せ女/犯(ばん)の害(がい)をまぬかれしめんと遠き
を慮(おもんはか)る権(ごん)者の心不学無/術(じゆつ)の輩(ともから)の容易(たやすく)しる
所にあらずと詞を放(はなつ)て云/返(かへ)せば初江王(しよこうわう)すゝ
み出転輪王の詞面白ししかし坊主は左(さ)も有ん
が女色をいましめぬ俗人(ぞくじん)の男色を好事/甚(はなはだ)以て
其意得ず大王も只今より路考が事を思ひ
切/是(これ)より三谷通ひと出掛(でかけ)土手をしつぽり雪(ゆき)
の鷺(さぎ)只一人は用心いかゞ我等(われら)御供仕らんそれ
郭(くるは)通ひの風流(ふうりう)なる宿の出入に人目を忍(しの)び
家業(かげう)のいとまに我身を窃(ぬす)む或は兜篭(かご)或は船
【右丁】
黄帝(くわうてい)車を製(せい)すれ共四ツ手の軽(かろ)き案じは出
ず梶原(かぢはら)逆櫓(さかろ)を争(あらそ)へ共/猪牙(ちよき)の早きに心付す
末世の手まはし浮世の才覚/腰(こし)のすはり櫓(ろ)の
手練(しゆれん)飛鳥(ひてう)と成て雲に入ざれは射(い)る矢(や)と成て
空(くう)をしのぐかと疑(うたが)ふ舟かろく人/重(おも)く動(うご)け
ばうごき鎮(しづ)まればしづまる潮(うしほ)引ては橋杭(はしぐゐ)長く
月出ては登ること早し火縄(ひなは)箱にくゆれば吸(すひ)がら
舷(ふなばた)をたゝく声は聞へず往来(ゆきゝ)の人目は届(とゝ)く左右
の河岸(かし)椎(しゐ)の木は屋根をしのひで高く首尾
の松は波(なみ)をくゞりて栄(さか)ふ竹町の渡十文字に過
【左丁】
駒形(こまかた)の堂(どう)斜(なゝめ)に見渡す遠きもの自(おのづから)近(ちか)づき近
き物/忽(たちまち)遠ざる程なく盧崎(いほざき)真乳(まつち)山/三圍(みめぐり)の
鳥居/恨(うら)めしそふに覗(のぞ)けば洲(す)の上の葦(あし)心有 ̄リ
げに招(まね)く今戸橋/少(ちいさ)しといへども通る人ゟ
くゞる人多く堀の舟宿多しといへども出る舟
あれば入舟あり懸方燈(かけあんどう)水を照(てら)せば提燈(てうちん)の火
は土手に映(えい)ず道哲(どうてつ)の鉦(かね)耳をすませば煙(けふり)の
臭(にほひ)鼻(はな)をつらぬく金なき男は無常(むじやう)を観(くわん)ず
れども時めく人は遊(あそは)ぬが損(そん)也と悟(さと)る草(くさ)青々(せい〳〵)
と萌(もえ)出ては心/殊更(ことさら)春めき月/咬々(かう〳〵)と照ては
【右丁】
其/俤(おもかげ )益(ます〳〵)ゆかし蛍(ほたる)かすかに飛(とん)では別世界の
風/涼(すゞ)しく雪(ゆき)ちら〱と落(おち)ては酔/覚(ざめ)の顔(かほ)心地
よし野路(のじ)の風景(ふうけい)佗(た)に異(こと)なるを見れとも見
えず聞ども聞(きこ)えず衣紋坂(えもんざか)大門口人の風俗常
にあらざれば我心/我(われ)にあらず仙人も通を失ひ石仏(いしほとけ)
もうかれ出る衣装(いしやう)の伊達(だて)あたまの物/好(ずき)三人/一般(いちやう)
ならざれば万人亦同しからずしる人あればしら
ぬ人あり見ぬふりあれば見せるふりあり侍合(まちあい)の
辻(つじ)中の町/大道(だいどう)直(なをふ)して髪(かみ)のごとく料理(りやうり)潔(いさぎよふ)して
玉のごとし茶屋の饗応(もてなし)牽頭(たいこ)の洒落(しやれ)小戸(げこ)は
【左丁】
茶漬(ちやづけ)に正/体(たい)をあらはし底(そこ)ぬけは先(まづ)底を入る
垣間見(かいまみ)の隣座敷(となりざしき)は見し玉簾(たまだれ)の内ぞ床敷(ゆかしく)
行過(ゆきすぐ)る道中には乙女(おとめ)の姿(すがた)しばしとゞめよと
思ふ挑灯(てうちん)寸(すん)をはづれて大く定紋紙にあまつ
て目立つ花美(くわび)を極(きはむ)る繍(ぬひもの)には鳳凰(ほうわう)も文彩(ぶんさい)を
恥(はぢ)照(てり)を撰(えら)べる瑇瑁(たいまい)には名玉(めいぎよく)も光輝(ひかり)を失ふ
道筋(みちすし)糸をはゆるがごとく足音/節(せつ)を打に似(に)
たり禿(かぶろ)のさはやかなる新造(しんざう)の花やかなるやり
ての一くせ有/顔色(がんしよく)も芝蘭(しらん)の室(しつ)に入て自(おのづから )香(かふば)
しき常の嫗(おうな)とはたがへる様におもほゆるもおかし
【右丁】
江戸町京町/前後(せんご)に在(あつ)て各(おの〳〵)左右二町に分(わか)れ
すみ町亦其中にはさまれて独(ひとり )南(みなみ)一町にかた
よる五丁町の名/遠近(ゑんきん)に伝(つた)へ夜店(よみせ)の気色(けしき)古(こ)
風(ふう)を変(かへ)ず身仕舞(みじまい)済(すん)で鈴(すゞ)の音聞へ日/暮(くれ)て
後/格子(かうし)賑(にきは)ふ座は位を定め衣装(いしやう)は新古を
わかつ油煙(ゆゑん)天に登(のぼ)り三絃(さみせん)地に響(ひゞ)き文は
誰(たか)為に書(かき)囁(さゝやき)は何事をかいふ地廻りの下駄(げた)鼻(はな)
哥(うた)と共に去(さ)りはむきの町人新吾左と伴(ともな)ひ
来 ̄ル老爺(おやぢ)あれば少年(むすこ)あり医人(いしや)あれば先士(ざとう)あ
り野夫(やほ)あれば通(とお)り者ありどらは尽(つく)す始終(しじう)
【左丁】
の気僧(きそう)は忍(しの)ぶ借(か)り着(ぎ)の紋頭巾(もんづきん)は一むれの闇(やみ)
を生(しやう)じ編笠(あみがさ)一片(いつへん)の山を画(ゑが)く種々(しゆ〴〵)の出立さま
〲の風俗/波(なみ)のごとく寄(より)雲の如(ごと)く集(あつま)る人の
心/各(おの〳〵)異(こと)に物/好(ずき)亦/一般(いちやう)ならず目本に惚(ほれ)れば
口/元(もと)になづみ鼻筋(はなすぢ)に見/込(こめ)ば靨(えくぼ)に打込(うちこみ)莠(はぐさ)
と苗(なへ)と蒸石(えんせき)と玉(たま)と何(いづ)れをか捨(すて)何(いづ)れをか残(のこ)
さん初会(しよくわい)の杯(さかづき)おもむき古く給(たべ)えせぬも久し
いもの也/作法(さはう)を崩(くづ)さず位を落さず座を
明(あけ)ず囁(さゝやか)ずさはぎの柏子(ひやうし)に乗ざること岡場所(おかばしよ)
の企(くはだて )及(およぶ)べきにあらず料理出/床(とこ)おさまり来(く)る
【右丁】
事おそく待(まつ)事/長(なが)し引 ̄ケ四 ̄ツの折声(ひやうしぎ)ほの聞(きこ)
ゆれば廊下(らうか)の足音耳に響(ひゞ)き茶屋は迎(むかひ)の刻(こく)
限(げん)を約(やく)し男僕(をとこ)来りて油をつぐ隣(となり)の口舌(くぜつ)
よそのむつ言(ごと)浦(うら)山しき風情(ふぜい)ありて待は久し
き物にぞ有けりの小哥の文句(もんく)も身にこたへ
 ̄モフ来そふな物しやといふ狂言も思ひ出す
上草履(うはぞうり)の音扨こそと待ば夫にはあらで行過
たるも本意(ほい)なく亮隔(しやうじ)【竹冠に隔】の明は是(これ)なんめりと
思へば新造(しんざう)来りて厨櫃(たんす)を鳴(なら)らすもにくし長ふ
なり短(みじか)ふなり右に寝(いね)左に起(おき)咽(のんと )乾(かわい)て手を
【左丁】
ならせば了鬟(かぶろ)の返事(へんじ)もなが〱しき夜を独(ひとり)
かも寐んかといと心/細(ぼそ)し欠(あくび)し伸(のび)し心気/労(つか)
れて纔(ゑいやつと)来りたばこくゆらすも亦思はせぶりなり
初会(しよくわい)の遊(あそび)は莟(つぼめ)ける花の色を含(ふくみ)て日を待つがごとく
谷(たに)の報春鳥(うぐいす)枝(えだ)に来て声を出さらるに似(に)
たりかゝる内なん九郎助/稲荷(いなり)もいまだ講中
とは思はず出雲(いづも)の神も先当座帳に記(しる)す
なるべし行に解(とけ)通(かよ)ふに馴染(なじみ)白き糸の染(そま) ̄ル
にたとへ陽気(やうき)に物の暖(あたゝま)るがごとく茶屋にむかへ
大門におくり先座(せんざ)の委細臣細(いさこざ)新造の人身(ひとみ)
【右丁】
【挿し絵】
【左丁】
【挿し絵】
【右丁】
御供(こくう)させども貰(もら)ひもめれども来る愈思へば愈思
はれ可憐(かあい)がれば又がられ連(つれ)あれば行一人も行く
異見(いけん)いふを野夫(やぼ)と見くだし馬(むま)の合たを粋(すい)
なりと思ふ惣仕舞は門帷(のれん)をおろし居(ゐ)つゞけは
浴室(ふろば)を覚(おほ)え雪(ゆき)の旦(あした)の小/鍋(なべ)立(だて) ̄ニは了鬟(かぶろ)向(むか)ふの
人を呼(よ)ひ雨(あめ)の夜のしつぽり酒には内の女郎
追々(おい〳〵)に集(あつま)る語(かたり)尽(つく)して帰ると思へと別(わか)れになれば
詞/残(のこる)がごとく逢(あは)ねばならぬ用ありと呼(よは)れて行(ゆけ)ば
又/左(さ)のみ外に用なし枕(まくら)の定紋ほくろの命
箸(はし)紙/客(きやく)の替名をしるせば文には己(おの)が本名(ほんめう)を
【左丁】
あらはし昔を明し約束(やくそく)をかたり神に誓(ちか)ひ仏に
祈(いの)り或は指(ゆび)或は爪(つめ)実(まこと)と見える虚(うそ)あれば虚より
出る実もあり若(もし)飛鳥川(あすかがわ)の淵瀬(ふちせ)定らず月
草のうつろふ色あれば捕手(とりで)待/伏勢(ふぜぜい)おこり
羽織さかれ髪(かみ)切(き)られ男は女の操(みさほ)を守れば女に
男の意気地(いきぢ)あるも実(げに)此里のならはせなり物
日の約束(やくそく)夜具(やぐ)の敷初(しきぞめ)袖留(そでとめ)つき出し身請の
祝儀物を貰てやり手と呼(よば)れ角(つの)なくて牛(ぎう)と
いはる台(だい)は喜(き)の字(じ)に定(さたま)り豆腐(たうふ)は山屋に名
高し袖の梅巻せんべい漬(つけ)菜/昆布巻(こふまき)甘露(かんろ)梅
【右丁】
群玉庵(ぐんきよくあん)は河漏(そば)に名をなし最中(もなか)の月は竹村
に仕(し)出す小買(こがい)の浅漬(あさづけ)茶碗の煮豆(にまめ)宵の文蛤(はまくり)
夜明(よあけ)の按摩(あんま)世に並(ならび)なく外に類なし遊の興(かう)
多き中にも大黒舞のいさましき灯篭(とうろう)の花
〲しき二日/七種(なゝくさ)蔵開(くらびら)き初午(はつむま)涅盤(ねはん)事おさ
め上己(じやうし)潅仏(くわんぶつ)衣更(ころもがへ)端午(たんご)七夕(しつせき)孟蘭盆会(うらぼんゑ)八朔
重陽えびす講いのこ餅(もち)つき浅草市/桜(さくら)の
風流(ふうりう)月見の趣向(しゆこう)善(ぜん)尽(つく)し美(び)を尽(つく)す一時の
栄花(えいくわ)に千歳(ちとせ)をのべ白髪(はくはつ)忽(たちまち)黒きに変(へん)ず
世に譬ふべき楽(たのしみ)あらんやかゝる風流を知(し)らす
【左丁】
して若衆を愛(あい)し玉ふ事は夏(なつ)の虫氷をしらす
乞食(こじき)の女房/搗立(つきたて)の餅を喰(くは)ざるにひとし ̄サア
返答(へんとう)を承(うけたまはら)んと席(せき)を叩(たゝい)て演(のべ)らるゝ
根無草後編三之巻《割書:終|》
【見返し】
【裏表紙】
【表紙】
《題:ねなしくさ後編 四》
【右丁】
【空白】
【左丁】
根無草後編四之巻
初江王の弁舌(べんぜつ)に焔王を初として一座大きに
驚(おどろ)き入/詞(ことば)を出す者もなし其時大師/莞爾(くわんじ)と
して曰/鮑魚(はうきよ)の肆(いちぐら)臭(くさ)き事を覚えす蓼(たで)の
虫/葵(あふひ)にうつらず女色に淫(おぼ)るゝ輩(ともがら)は我男
色の貴(たつと)きを知らずそれ男女の交(ましは)りは陰(いん)
陽(やう)自然(しぜん)の道理にして大倫(たいりん)の根元なれば
いきとし生(いけ)る者此道にもるゝことなし然るに
末世に至てはかゝる貴き男女の道を切売
にして遊所と名付人の心を蕩(とろかす)より家を傾(かたむ)
【右丁】
け国をかたむく其/災(わざはい )少(すくな)からず我これを慮(おもんはかり)て
男色の淡(あは)きを以て其災を減(げん)ぜしむるは塩茶
にて渇(かはき)をとゞめむかへ酒にて宿酒(ふつかゑひ)を醒(さま)す又男色
の上品(じやうひん)なるは劇場(しばゐ)の地を専(もつはら)とすこれ亦/楽(がく)
の余風(よふう)にて人を和(くわ)するの器(どうぐ)となり悪を懲(こら)し
善を勧(すゝ)め欝(うつ)を散(さん)じ憂(うれひ)を忘(わす)れ太平に
居て乱世(らんせい)の趣(おもむき)をさとり安きに座して危(あやう)
きの理を知り愚夫(ぐふ)も仁義(じんぎ)のはしくれを聞
き児女子(じじよし)も古人の姓名(せいめい)を覚ゆ実(じつ)に治世
の玩(もてあそ)びなり抑(そも〳〵)芝居のさかんなる二丁町の賑々(にぎ〳〵)
【左丁】
敷(しき)中村座市村座外記座辰松肥前/椂(のぜう)軒(のき)を
ならべ入を争(あらそ)ふわけて哥舞妓両座を以て
根元(こんげん)とし大/劇場(しばゐ)と称(しやう)す顔見世入替り定(さだまつ)
てより役者附四方に散し世界(せかい)定めはなし
初/読初(よみぞめ)稽古(けいこ)惣ざらへ下 ̄リの乗込(のりこみ)一座の
さはぎ酒酒を飲人人にたかる雪霜の夜の寒
きを忘(わす)れ一/陽(やう)来復(らいふく)先此地より初る紋看板(もんかんばん)
には甲乙(かうおつ)を顕(あらは)し絵姿(ゑすがた)芸(げい)のあらましを
しらしむ提灯(ちやうちん)連(つらなつ)て定紋まばゆく行灯(あんどう)
争(あらそつ)て趣向(しゆこう)を尽(つく)す左右の埒鮓(らちすし)のごとく押
【右丁】
前後の群集(くんじゆ)桃(もゝ)を盛(もる)に似たり行んとすれ
ども人/分(わか)らす退(しりぞか)んとすれども顧(かへりみる)に隙(ひま)なく
押(おさ)れて動(うご)きもまれて止(とゞま)り気/頭(かうべ)に登(のぼ)り足地
を踏(ふま)ず贔屓(ひいき)のきをひ手打の連中(れんちう)ひろめの
悦巾(てのごひ)歪( よこちよ)にかぶり我慢(がまん)の弓張/筋違(すじかひ)に提(ひつさげ)虎(とら)
のごとく翶狼(かけりおほかみ)のごとく叫(さけ)び十里の谽谺(こたま) ̄ヨイ《割書:〳〵〳〵|》
と響(ひゞ)き帰(かへり)の礼義(れいぎ)お目出度と騒(さは)ぐ積(つみ)物
峨々(がゞ)として山よりも高く張札/翩翻(へんぽん)と
して雪のごとく瓢(ひるがへ)る迎(むかひ)の提灯/烈缺(いなづま)を欺(あざむ)
き二階(にかい)のさはぎは雷(らい)の落(おつ)るかと疑(うたが)ふどぶ板
【左丁】
厚(あつ)ふして足音高く抜露地(ぬけろぢ)狭(せま)ふして小便
流る東西の街(ちまた)南北の道筋/碁盤(こばん)のごとく
又/蜘手(くもて)に似たり来る人行人止る人/貸食(にう)
者(り)は煮(にる)にいとまなく売擔子(つじうり)は逵(つじ)にむらがる
橋は群集の人にたはみ川は蹴上(けあげ)の流塵(ごみ)に
埋(うづ)む一番/太鼓(たいこ)は八声に先立三/番叟(はさう)は明(あけ)るを
待す木戸の仕着せ/揃(そろひ)の定紋/手巾(てのこひ)長ふ
して頷(おとかひ)に余(あま)り扇/大(おほ)きふして招(まね)くに便(べん)
なり仕切場(しきりば)留場/桟敷(さじき)番半畳中売火縄売
衣装(いしやう)目立/鬢(びん)光り勢(いきほ)ひ猛(もう)に声高し貴賎(きせん)
【右丁】
老若(ろうにやく)僧俗(そうぞく)男女/胸(むね)さはぎ魂(たましゐ)飛足を空になして
脇(わき)目をふらず衆星(しうせい)の北辰(ほくしん)に共(むか)ひ河水(かすい)の
海に朝(てう)するに似たり上桟敷下桟敷内/簾(みす)
太夫新/格子(かうし)場所の善悪手筋を求(もと)め茶
屋の云込前後を競(きそ)ふ毛氈(もうせん)の紅葉(もみぢ)衣装
の花/羅漢(らかん)の人は俵(たはら)のごとく重(かさな)り舞台
の透間(すきま)は蝿(はい)のごとくたかる向桟敷土間桟敷
切落し追込なんど分(ふん)に応(おほ)し好(このみ)にしたがふ
膝(ひさ)と膝(ひざ)肩(かた)と肩人気/蒸(むし)火縄くゆり番附
つらね新/浄瑠璃(しやうるり)饅頭(まんちう)煎茶(せんちや)おこし米
【左丁】
蜜柑(みかん)弁当(へんたう)酒肴/無遠慮(ぶゑんりよ)に越(こへ)大/股(また)にまたぎ
割込(わりこみ)は近所の膝(ひざ)を痛(いた)め烟草(たはこ)は隣(となり)の羽織
をこがす袖と袖との色事にはつたりのやき
もち騒々敷(さわ〳〵しく)足を踏(ふま)れし諠譁(けんくわ)には留場(とめば)来
りてかつき出すしらせの撃拆(ひやうしぎ)替名(かへな)の読立(よみたて)
幕(まく)明(あい)てより殊更(ことさら)にどよみ花道の出端(では)手打(てうち)
の祝儀下 ̄リ役者の謁見(めみえ)にはひろめの取なし贔(ひい)
屓(き)を願(ねが)ひ座附の口上玉を連(つら)ぬ家々の芸(けい)得
手〱の所作(しよさ)頭(あたま)の物/好(ずき)天下に流(なが)れ衣装(いしやう)の
仕出し都鄙(とひ)に伝(つた)ふ音曲(おんきよく)は呂律(りよりつ)を極(きわ)め鳴(なり)物
【右丁】
は柏子(ひようし)を尽す作者の趣向(しゆこう)道具の見え故(ふるき)を
温(たづね )新(あたら)しきを工 ̄ミ或は勇(いさ)み或は戯(たはむ)れ或は笑(わら)ひ
或は愁(うれ)ふ諸見物の心々/響(ひゞき)の声に応(おう)ずる
がことくりきめばりきみ泣(なけ)ば泣(なき)私(ひそか)に感(かん)じ顕(あらは)に
誉(ほめ)はづみのかけ声人/並(なみ)の ̄ヤンヤ鼻毛(はなげ)延(のび)涎(よだれ)
流るしつぽりのぬれ事には女中の上気(じやうき)耳(みゝ)を
熱(あつ)がり老女も昔(むかし)に還(かへ)らまほしと思ふ着替(きかへ)
ては媚(こび)を争(あらそ)ひのべ鏡(かゝみ)は化粧(けはひ)を補(おぎな)ふ東の上は
てら〱と輝(かゝや)き西のうづらは興(かう)を催(もよほ)す舞
台の出這入(ではいり)ちよんの間盃/手折(てを)れる花のあたり
【左丁】
に目立水の月/影(かげ)所を定めず追々(おひ〳〵)に跡出
てより程なく正月二の替り嘉/例(れい)の曽我(そか)
に種々(しゆ〴〵)の持込春狂言曽我祭り土用/休(やすみ)秋
狂言又顔見世の入替り環(たまき)の端(はし)なきがごとく
年々歳々人同じからず茶屋の混雑(こんざつ)勝手(かつて)
の騒(さは)ぎ下女/飛(とん)で八百屋に至り魚ながしに
踊(おど)るかまどに陽炎(かげろふ)もえ出れば擂盆(すりはち)地下に
雷を発(はつ)し剉刀(はうてう)に電光(いなつま)あればいり鳥/鍋(なべ)に
液雨(しぐれ)の声あり四季の気色(けしき)目前にあらはれ
はからずして仙境(せんけう)に入かと疑(うたが)ふ二/階(かい)はれやかに
【右丁】
して間取/無造作(むざうさ)に割(きりめ )正(たゞしく)して器物(きぶつ)潔(いさぎよ)し
茶屋のむかひ送(おく)りの提灯(てうちん)編笠(あみかさ)面(おもて)を覆(おほ)ひ
振袖(ふりそで)地を払(はら)ふ縁(みどり)の髪(かみ)雪の脛(はぎ)小袖きらび
やかにして往来(ゆきゝ)の目を驚(おどろ)かし足音しとやか
にして待人の胸(むね)に響(ひゞ)く追々に来り程々
に座す気どりは旭(あさひ)の昇(のぼ)るがごとく風情(ふせい)は
若竹のうるはしきに似たり小哥/勇(いさみ)ありて
三絃(さみせん)俗(ぞく)ならず酒はづみ興(けう )闌(たけなは)にして舞(まひ)の
身ぶり狂言のおもむき旃檀(せんだん)は二葉より香(かうば)
しく蛇(じや)は一寸にして其気を得るぽんぱち
【左丁】
火まはし道具まはし八べ衛〱八/兵衛(びやうえ)地口
どぐわんす羅漢(らかん)舞(まひ)蔭絵(かげゑ)声色(こはいろ)中返(ちうがへ)り男は
女は獅子(しし)ちよきりちよ投壷(とうこ)の矢数/拳(けん)の変(へん)
化(くわ)蛇(へび)は蛞蝓(なめくぢ)にまけ里長(なぬし)は狐に誤(あやま)る我を
忘(わす)れ人を忘れ童(わらんべ)に還(かへ)り愚(ぐ)に及ふ臨気(りんき)
応変(おうへん)千変万化/遊(あそび)の骨髄(こつずい)に入/騒(さは)ぎの妙
所に至る或は通(かよ)ひ或は馴染(なじみ)こつそりと
逢(あひ)しめやかに語(かた)るいやみなくいちやつかず意(い)
気地(きち)あり拍子(ひやうし)あり己(おのれ)を立るの計策(はかりこと)少く
末を契(ちぎ)るの慾(よく)もなし傾城(けいせい)は甘(あま)き蜜(みつ)の
【右丁】
ごとく串童(わかしゆ)は淡(あは)きこと水のごとし甘きものは味
尽つきは無味(むみ)の味(あぢはひ)を生ず倡妓(ゆうぢよ)の実は慾(よく)より
出/優童(わかしゆ)の実(じつ)は義より出/鳳凰(ほうわう)孔雀(くじやく)雉(きじ)鶏(にわとり )雌(めとり)
は雄(をとり)の見事なるにしかず倡子(ゆうぢよ)女妓(おどりこ)町屋形
女は男娼(わかしゆ)の美(び)なるに及ばずまして二丁町
の他に勝(まさ)れる花の都(みやこ)の錦(にしき)を分(わけ)ては柳桜(やなぎさくら)
の艶(たへ)なるを撰(えら)び浪花江(なにはえ)に身をつくしては
よしあしの品(ひん)をさがす千人の中より百人
をすぐり百人より又一人を出す名代の小偶(わかしゆ)
古今(ここん)絶(たへ)ず此地の繁花(はんくわ)四時をわかたず二月の
【左丁】
瓜九月の独活(うど)寒中の筍(たけのこ)には孟宗(もうそう)のお袋(ふくろ)
小言を云やみ四方(よも)が仕似せの沃泉水(たきすい)には
美濃の孝子も荷嚢(きんちやく)をたゝく福山の河漏(そば)
虎屋の菓子/家橘(かきつ)盛府(せいふ)が油店雷蔵おこし
鹿(かの)子餅月々に流行(はやり)日々に弘(ひろま)るうかれては
暮るを覚えず騒(さは)ひでは明るをしらず元気(げんき)を
引立/積欝(せきうつ)を散(さん)ず不老(ふろう)延年(えんねん)の薬(くすり)たりとも
いかでかこれに勝(まさ)るべけんや彼利に入りし倡妓(ぢよらう)
買の陰症(いんしやう)の傷寒(しやうかん)に類(るい)せると日を同して語る
べからずかゝる繁花の其中に三ヶの津にて一人
【右丁】
と呼(よば)れし菊之丞が其/容貌(すがた)誉(ほむ)るにも詞なく
譬(たとへ)んとするに物なし䭐(だんご)のお仙小指をくわへ
銀杏(いてう)のおかんはだしにて逃(にげ)雪渓(せつけい)が花鳥も
色を失(うしな)ひ春信(はるのぶ)も筆を捨(すつ)帽子(ぼうし)に瀬川の名目(めうもく)
あれば染物に路考茶あり路考(ろかう)娘弓町路
考似たるに名付/美(うつく)しきに譬ふ我此/一派(いつは)
開基(かいき)以来かゝる器量(きりやう)は見初なれば焔王のこが
れ玉ふもゆめ〱僻(ひが)事と思ふべからずと教法
大師の弁説に一座も大に感(かん)心し大王猶し
もうかれ給ひ扨々餅は餅/匠(や)とやらさすが男(わか)
【左丁】
倡(しゆ)の祖(そ)師程有て驚入たる諸/分(わけ)の功者(こうしや)迚
もの事に御坊を頼路考を迎(むかひ)に遣はすべし
早々用意とせかせ給へば倶生神(くしやうじん)かぶり打
ふり ̄イヤ《割書:〳〵|》それは宜(よろ)しからずかゝる名代の
若衆好を路考が迎に遣はされんは焼鼠を狐
に預け猫に佳蘇魚(かつほぶし)の番とやらにて必定(ひつちやう)
しくぢりの基(もとひ)なり既(すで)に以先達て竜神に
勅(ちよく)定ありしに若衆好の水虎(かつぱ)めを迎に
やりし不/調(ちう)法故あつたら玉を取にがし只
今に至る迄地獄のさはぎと成したること前
【右丁】
車(しや)の覆(くつがへ)るをみす〱も教法を遣はされんは
以の外の誤(あやまり)也只今大師申通り天下に一人
の器量(きりやう)にて四角四面の大王さへ恋こかれ給ふ
からは誰(たれ)をやりても忽(たちまち)惚(ほれ)木乃伊(みいら)取とて木(み)
乃伊(いら)と成は憶(おく)万/劫(ごう)をふる迚も容易(たやすく)御手に
入まじければ此以後の懲(こら)しめの為竜神を
呼/寄(よせ)て罪(つみ)に行ひ玉はずんば焔王の政道(せいとう)暗(くら)き
に似たり即水中の惣/司(つかさ)難陀(なんだ)竜王の幕下(ばつか)
此浅草の川上隅田川の竜神を召給ひて
急(きつ)度御/吟(ぎん)味有べし ̄ソレ《割書:〱|》との早使/足疾鬼(そくしつき)
【左丁】
に引立られ隅田川の竜神/参内(さんたい)あれば
焔王/怒(いかり)の御声高く先達て路考がこと難陀
竜王に申付しに不吟味なる取/計(はからい)故/水(かつ)
虎(ぱ)めか大しくじり汝(なんぢ)此川筋を守りながら
しらず顔(がほ)にて打過しは言語同断(ごんごだうだん)の仕かた
なれば其/罪(つみ)汝一人に帰(き)す早く刑罰(けいばつ)に処(しよ)
すべしと仰の下より獄卒(ごくそつ)共/鉄(てつ)の棒(ぼう)を
ふり立〱竜神を取まはし既にかうよと
見えければ傍(かたへ)に居合す雷蔵が椽側(えんかは)よりあゆ
み出/暫(しばら)く〱と声を掛(かけ)ずつと出て獄卒
【右丁】
【挿絵】
【左丁】
【挿絵】
【右丁】
を取てつきのけはりとばし竜神を後(うしろ)に
かこひ焔魔王をはつたと白眼(にらみ)東夷(とうい)南蛮(なんばん)北(ほく)
狄(てき)西戎(せいじう)四夷八/荒(くわう)天地/乾坤(けんこん)の其間あるべ
き者の知らざらんや長病にて痩(やせ)たれど
も海老が譲(ゆづり)の暫役(しばらくやく)天幸まがひの焔魔殿
鬼瓦からつりを取あてこともなひしやつ面(つら)
で身の程しらなひ色ぜんさく傍(そは)から見る
目かぐ鼻(はな)のいはれぬちよこざい出かしだて
おらが若衆の産神(うぶすな)の竜神までを呼出
ひていじめる所へぴつかりとひかりに出かけ
【左丁】
た雷蔵がぐわた〱鳴(なり)の荒(あら)事にうぬらが臍(へそ)の
用心しろと飛/掛(かゝつ)て大王のがんづか抓(つかん)で
投(なけ)付れば ̄ソレのがすなと取/巻(まき)を取てはなげ
のけつかんでは十王みじんの鬼つぶて当(あたる)を
幸/踏(ふみ)ちらしすつくと立し夢(ゆめ)覚(さめ)て雷蔵
は病の床(ゆか)冷汗(ひやあそ)流(なが)してうなさる声/妻(つま)を
はじめ病家(ひやうか)の人々様々に今抱(かいはう)すれば漸(やう〱)に
正気と成いとくるしげなる息(いき)をつぎ我(われ)長
病のつかれにてまどろむともなき其内に
不思儀なる夢を見しとて始終(しじう)の様子物語
【右丁】
これぞ正しく我/命(めい)の終(おは)るべき時(とき)至り焔魔
の庁(ちやう)に至といふ仏の告(つげ)と覚えたりしる通
り幼(よう)少よりうき艱難(かんなん)の世の中を渡(わた)りくら
べてしるといふ河波(あは)の鳴戸のなみ〱なら
ぬしんぼうしとげ世の人の贔屓(ひいき)に預(あづか)り
世話(せは)に成りし恩(おん)もおくらで果んこと返す〱も
口惜(くちおし)し二には兼(ね)てより我は此身で朽果(くちはつ)る
とも忰(せがれ)を守り立人となし父の名字(めうじ)をつが
せんと思ひし事も水の泡(あは)是ぞよみぢの障(きは)
りぞと涙と供に物語れば妻や子供はしやくり
【左丁】
上とかふの詞も出ざれば薪水は力を付/尤(もつとも)病
は軽(かろ)からねど死(しぬ)るといふにも極(きはま)るまじ薬の
効(かう)仏神の力を頼給ひツゝ心しづかに養生(やうじよう)
あれ譬(たとへ)お命(いのち)終(おは)るとも我らかくて有からは
跡(あと)の案(あんじ)はし玉ふまじと念頃(ねんごろ)に力をそゆれ
ばいと嬉(うれ)しげにうなづきて何かいはんともが
けども舌(した)強(こはば) ̄リて声出ず漸に筆(ふで)をとり
て辞世(じせい)の一首(いつしゆ)かく計(ばかり)
終(つゐ)にゆく道(みち)とはしれど子規(ほとゝぎす)
なきつる方にむかふ極楽(ごくらく)
【右丁】
市川栢車と書終り四十四歳を一/期(ご)とし
明和四年亥四月中の二日子の下刻(けこく)眠(ねむ)るがごと
き臨終(りんじう)に人々夢の心地にて前後不/覚(かく)の
歎(なげ)ぎの体(てい)目もあてられぬ次第なり扨有
べきにしもあらざれば野辺(のべ)の送(おく)り取おこなひ
所縁(ゆかり)有/菩提所(ほだいしよ)なれば下谷の常林寺(じやうりんじ)に葬(ほうむり)て
蓮華院(れんげいん)詠行(ゑいかう)信士(しんじ)と書(かき)しるす印(しるし)の石は朽(くち)
せねど贔屓の人の涙(なみた)の雨朽ぬ袂(たもと)はなかり
けり
根無草後編巻之四《割書:終|》
【左丁】
【空白】
【裏表紙】
【表表紙】
《題:根南之久佐後編 《割書: 終|五》》
【右丁】
【空白】
【左丁】
根無草後編巻之五
万(よろづ)のことはたのむべからずと吉田の法師が
筆(ふて)の跡(あと)頼(たのみ)にならぬ娑婆(しやば)世界(せかい)さしも
日頃/健(すこやか)なりし市川栢車世を去(さ)れば
世上の驚(おどろ)き大かたならず遠近(ゑんきん)親疎(しんそ)の
差別(しやべつ)なく或(あるひ)は惜(お)しみ或は歎(なげ)きわけて
贔屓(ひいき)の婦人(ふじん)なんどは思ひ乱(みだ)れて泣(な)く涙(なみだ)
雨とふらなん渡(わた) ̄リ川水まさりなばかへり
来るかになどゝかこてども三 ̄ン途(つ)の川に川/留(どめ)
なく死手(して)の関(せき)の戸/閉(とさゝ)ねば反魂香(はんごんかう)の煙(けむり)
【右丁】
さへ仇(あた)に立行月と日の七日(なぬか)〱の訪弔(とひとむら)ひ
諸事(しよし)薪水が身に引/請(うけ)事故なく取まか
なひ殊(こと)に忰(せかれ)雛(ひな)蔵は父栢車が稚立(をさなだち)に
ひとしく怜俐なる生質(うまれつき)にて育(そだち)も賎(いやし)し
からざれば先祖(せんそ)の家名(かめい)を継(つか)せんとて父
の伝(つた)へし業(ぎやう)を止させ頼母(たのも)しき人引とり
て教訓(けうくん)残る方もなし其外/稚(をさな)き娘
なんども所縁(ゆかり)の方に宮仕(みやづかへ)天道人を
殺(ころ)さずにて皆それ〱にかた付けりされば
南山(なんざん)雲(くも)起(おこ)れば北山(ほくさん)雨/下(くた)るの習にて翌年(よくねん)
【左丁】
の春の頃より薪水も気のかたにてとこ
悪しきとも覚えねども只何となふ心重
く次第に形容(かたち)痩(やせ)おとろへ盗汗(ねあせ)朝熱(てうねつ)
痰咳(たんせき)に薬(くすり)に鍼(はり)よ四花(しくわ)患門(くわんもん)祈祷(きとう)立願
残る方なくさま〴〵に養生(やうじやう)すれども中々
快気(くわいき)の体(てい)にも見えず其身も所詮(しよせん)生(いき)ら
るべき病とも覚えねば後世(こせ)の営(いとなみ)おこた
らず兼(かね)てより聞(きけ)るにも仏/出世(しゆつせ)の本懐(ほんくわい)
を妙法蓮華経と名(なづ)け法華の八軸(はちぢく)は
八/葉(よう)を表(ひやう)し四/要品(よつほん)の中には普門(ふもん)品
【右丁】
を咽喉(のどくび)とし観音(くわんおん)薩埵(さつた)の妙(めう)智力(ちりき)三十
三/身(しん)無量(むりやう)の容(かたち)を標(あらは)し南方/於帝(おて)庭(て)
古天(こてん)の広小路(ひろこうじ)補陀落(ふたらく)の切通(きりどほし)にて種々(しゆ〳〵)
の手づまをはじめ玉ふ就中(なかんづく)聖(しやう)観音は
餓鬼(がき)道にての化主(けし)の助と呼(よば)れ衆生(しゆしやう)
済度(さいど)の方便(はうべん)には豆と徳利(とつくり)の妙を
やらかし一紙(いつし)半銭(はんせん)の手の内にはむしやら
くしやらの大明神■(ふん)■(か)■(ろ)■(り)■(きや)■(とわ)■(か)【梵字】
ととなへて掌(たなごゝろ)より甘露(かんろ)をふらし餓
鬼/趣(しゆ)に施(ほどこ)し給ふ故/大慈(たいじ)観世音と申
【左丁】
なり金竜山(きんりうさん)浅草寺(せんさうじ)に安置(あんち)し給ふ因(いん)
縁(ゑん)は推(すい)古/天皇(てんわう)の御宇(ぎよう)に当(あたつ)て桧熊(ひくま)浜(はま)
成武成(なりたけなり)とて兄弟の漁父(きよふ)有けり憂(うき)世
渡りの網(あみ)の中より顕(あらは)れ玉ふ尊像(そんざう)に
して古今の霊験(れいげん)いちじるく日頃/念(ねん)じ
奉ればましてかゝる時節(じせつ)なれば普門品を
念/誦(しゆ)して懇情(こんせい)少も怠慢(たいまん)なし頃し
も皐月(さつき)初つかたいとゞ短(みじか)き終夜(よもすがろ)寝(ね)る
隙(ひま)もなきなか〱の看病(かんびやう)に労(つか)れ果(はて)
妻をはじめ病家の人々/眠(ねむ)らじとは
【右丁】
思ひながら皆それなりに打こけて跡(あと)
の様子は白川の夜舟/漕(こく)てふ鼾(いびき)の音に
薪水は目を覚(さま)し読(よみ)かけし経(きやう)にかゝり
一心(いつしん)称名(しやうめう)観世音(くわんぜおん)菩薩(ぼさつ)即時(そくじ)観其(くわんぎ)音声(おんじやう)
皆得(かいとく)解脱(げだつ)と念じつゝ信心(しんじん)おこたることぞ
なきされば水晶(すいしやう)大陽(たいやう)の火をよび水/清(きよ)
ふして月/影(かけ)をうつす気にむかへ心に
まねき思ひ〱て止(やま)ざれば鬼神(きしん)告(つぐ)るの習
にて異香(いきやう)四方(よも)に薫(くん)じ音楽(おんかく)の声聞之渡
れは薪水不思儀の思ひをなしふりさけ
【左丁】
見れば大空(おほぞら)より浅草の観音/忽然(こつぜん)としく
顕(あら)れ給ひこれへ〱と招(まね)き玉へは薪水/夢(ゆめ)
の心地(こゝち)にて病の床(ゆか)を立出れば自然(しぜん)と病
苦(く)も覚えすして行ともなく歩行(あゆむ)ともな
くと有所に随(したか)ひ行菩薩御手をのべ給ひ
かたへなる卯の花の雪にまがふを手折(てをら)せ
玉ひそれ世の人の口ずさみに我(わが)大悲(だひ)
の力(ちから)にては枯(か)れたる木に花/咲(さく)とのみ一/筋(すじ)
に覚えたるは皆/凡俗(ぼんぞく)の迷(まよひ)なり生ずべき
時節(じせつ)に生じ枯(かれ)へき時節に枯ることは
【右丁】
天地自然/定(さたま)れる数(すう)にて破境(はきやう)重(かさね)て照(て)ら
さず落花(らくくわ)枝に上(のぼ)りがたし釈迦(しやか)達摩(たるま)
顔回(がんくわい)孔子(こうし)深山(みやま)烏(からす)も白鷺(しらさぎ)ものかれがた
きは此道なり悟(さと)れば安く迷(まよへ)ばくらき生死
二の道にうとく私(わたくし)の法を立得手勝手の
教をもうけ皆/己(おの)が田へ水をひく不埒(ふらち)の
族(やから)多き故世上の俗人/益(ます〳〵)愚にして箸(はし)
のこけたも神子(みこ)山伏/屁(へ)を放(ひつ)たるにも
加持(かぢ)祈祷(きとう)奇妙(きめう)の呪咀(ましない)卜筮人(うらやさん)一犬(いつけん)吠(ほへ)
て万(ばん)犬吠/応(きく)といへばきくかと思ひ祈祷
【左丁】
を頼の不養生より身を失ひ家を亡(ほろぼ)
す心だに誠(まこと)の道に叶(かな)ひなば祈らずと
ても神や守(まもら)んとの教(おしへ)の哥は丘(きう)之(が)祷(いのること)久(ひさ)
矣(し)といふ孔子(こうし)の詞(ことば)に符合(ふがう)せり人は天
地の霊(れい)なれども私の雲に覆(おほは)れ人欲(じんよく)
の雨風はげしき故/災(わざはひ)を生じ病を生
ず事に臨(のぞん)で祈といふは人欲の私をし
りぞけ浮雲(ふうん)を払(はらつ)て清(せい)天を望(のぞ)むこれ一
心の誠より其本にかへるなり譬(たとへ)は此/卯(う)の
花の白きは花の持まへにて天より授(さづ)
【右丁】
かる色なれとも人家の垣根(かきね)に咲時は風塵(ごみ)
埃(ほこり)の為によごれ煙にふすぼり灰(はい)に穢(けが)
さる息(いき)にて払(はら)ひ水にて洗(あら)へば本の白き
にかへれとも願くは初よりよごさぬやうに
気を付れば穢(よごれ)を払ふ煩(わづら)ひなしよごれを
払ふを頼(たのみ)にしてよごるゝをかまはぬ
故 ̄スハといへば狼狽(うろたへ)まはり ̄ソリヤ御祈祷よ立
願よとせつなひ時の神だゝき地黄(ぢわう)を頼の
不養生袖の梅を楯(たて)につひて内損(ないそん)をする
がことし彼(かの)観音の力を念(ねん)せば火阬(くわきやう)変成(へんじやう)
【左丁】
池刀尋(ちたうじん)段々(だん〳〵)壊(ゑ)と説(とか)れしは釈尊(しやくそん)一時(いちじ)の方
便にて実(まこと)の観音を説(とく)にあらず正法(しやうばう)に
奇特(きどく)なし飯縄(いづな)放下(ほうか)の類にはあらず何
そや業慾(ごうよく)無慙(むざん)の祈祷者の云(こと)を巧(たくみ )偽(いつはり)
をもうけ謝礼(しやれい)をむさぼる族(やから)を頼て凶(けう)
事(じ)を祈病を退(しりぞけ)んとするは開帳場(かいちやうば)にて
巾着切(きんちやくきり)に紙入を預(あつけ)るに似たり又人の名
をなし事をなすは草木の花さき実(み)のる
にひとし牙(きば)ある者には角(つの)なく重弁(やへ)の花
に実/少(すくな)きは造化(ぞうくは)といへる伴当(ばんたう)の入合せたる
【右丁】
【挿し絵】
【左丁】
【挿し絵】
【右丁】
算用(さんよう)なり汝が花は二葉より人に優(まさ)れる
栄名(ゑいめい)ありしは早く咲ば早く散(ち)る花の譬(たとへ)
と思ふべしさきに栢車か病中に我
を念ずること切(せつ)なりし故/浮(うき)世のはかなき
有様をしめし生死の道を悟(さと)らしめん
と焔王だも煩悩(ぼんなふ)のまよひまぬかれがたき
をしらせ人の楽(たのし)み多き中に虚(うそ)を売(うり)
実(まこと)を買(かう)吉原堺町の面白きこと世になら
ぶべきものなく人の心をとろかせども皆
是/一睡(いつすい)の夢(ゆめ)の楽(たのしみ)なることを示(しめ)し栢車
【左丁】
がよみぢの迷ひをはらせりいざや薪水
汝(なんぢ)が命(いのち)久しからざる因縁を語(かた)り聞さん
汝が父彦三郎四十に及て子なきことを愁(うれ)
へ隅田(すみだ)川の竜神にたんせいをぬきん
でゝ祈るといへとも天より授(さづけ)し子/種(たね)な
き故竜神の力にも叶はず去りながらあ
まり切(せつ)なる志(こゝろざし)にめで竜神/自(みづから )形(かたち)をわかち
汝が母(はゝ)の胎内(たいない)にやどり出生(しゆつしやう)せし子は其
方なり去によつて汝が体(からだ)は隅田川の竜
神とは一体(いつたい)分身(ふんじん)の姿(すがた)なり栢車が夢中(むちう)
【右丁】
にしらせしごとく隅田川の竜神/無失(むしつ)の
罪(つみ)にしづみ其/科(とが)のがれがたき事あり
是(これ)竜神の飛行(ひきやう)自在(じざい)大小/変化(へんくわ)の妙
術(じゆつ)も死べき時節はまぬかれがたく去 ̄ル四月
五日の夜天人の五衰(ごすい)とて多(おほく)の天人/甍(いらか)
をならべ作り立たる家々の忽(たちまち)一時の灰塵(くわいじん)
となる其/砌(みきり)竜神も煙(けむり)に巻(まか)れ焼死(やけしん)で
其/尸(しかばね)世に残り竜の頭(あたま)と評判(ひやうばん)せしは焔王
の命(めい)にそむき路考が代(かは) ̄リに八重桐を連行(つれつき)
し水虎(かつぱ)が科のとばしり故に相/果(はて)し
【左丁】
隅田川の竜神の遺骨(ゆいこつ)也と思ふべし
竜神死ては程もなく汝が命/終(をは)るべきは
極(きはま)れる命数(めいすう)なりといふかと思へば忽にかき
消(けす)ごとく失(うせ)給ふ薪水はぼう然(ぜん)と元(もと)の
病の床の内夢ともなく現(うつゝ)とも思ひ掛(がけ)な
き教(おしえ)を請(うけ)心のまよひ晴行(はれゆけ)ば病の苦痛(くつう)
はなけれどもとても必死(ひつし)の症(しやう)なれば次第〱にをとろ
へて辞世(しせい)一句艶なるや我はめいどへ花あやめ
明和五ツ戌子(つちのへね)の歳五月四日の暁(あかつき)に終(つゐ)に空(むな)しく成にけり
戒名(かいめう)は妙果院(めうくわいん)薪水(しんすい)日成(につせい)と深川の浄心寺(じやうしんじ)に石(いし)の印(しるし)
【右丁】
いちじるく贔屓の参詣(さんけい)絶間(たえま)なし嗚(あゝ)呼/時(とき)
なる哉(かな)命(めい)なる哉さしも名高き栢車薪
水二年の内に故人(こじん)となり劇場(しばゐ)も何か
物足らぬ風情(ふぜい)にていかほの沼(ぬま)のいかにせん
と世上のいさみうすかりしが楓葉(ふうよう)衰(おとろへ)て
慮橘(りよきつ)花/発(ひら)く習(ならひ)にて当(たう)顔見せの入替り
より若手(わかて)の役者新下り花を競(たくら)べ色を
争(あらそ)ひ木戸の大入世上の評判(ひやうばん)一時の煙(けふり)
となりたりし吉原も建(たて)つゞき日々に
繁昌(はんじやう)いやまして美麗(びれい)昔(むかし)に十/倍(ばい)せり
【左丁】
人間(にんげん)万事(ばんじ)塞翁(さいおう)がうまれた時は裸(はたか)にて又
死時(しぬとき)もはだかなり飲(のめ)めや諷(うたへ)や一寸先は
闇(やみ)の夜に鳴(なか)ぬ烏(からす)の声聞ば拾(ひろい)ぬ先の金
ぞ恋(こひ)しきかやうのたわけ世に多(おほ)きも実(げ)に
太平(たいへい)の御代の春事もおろかやかゝる世に
住(すめ)る民とて豊(ゆたか)なる君(きみ)の恵(めぐみ)ぞありがたき
〱
根無草後編五之巻《割書:大尾|》
【右丁】
【空白】
【左丁】
跋
鶏が鳴/吾妻(あがつま)はやと千早振神の教の和事(やわらぎ)
より相聞(いろごと)の根に通ひ由縁(ゆかり)ある江戸紫の
冶郎(やらう)帽子(ぼうし)はことにその色香も深からず
やとりわき此道の聖(ひじり)とあふぐ市川瀬川の
両流はその源遠くその末広して流をくみ取
人多ければ浪速(なには)のみつと聞とにつけて芦町の
よしあしをいはず花房町のあたなる散(ちり)の
わかれには酒島のわきかへる胸(むね)をこがし底倉(そこくら)
【右丁】
の温泉(ゆ)のそこひなき淵に身を沈むるとも
と思ひ入たる意気知(いきぢ)のをゝしさ男気の
いきはり有是に増る情(なさけ)やはあるはしきや
し郎女(をんな)のなからひは久方のひさしいもので
舊衣(ふるころも)の事ふりにたれば朝夕の飯(をもの)を調る
が如く是を包丁の人料理の家とはいかでか
いはん山鳥の尾の長らしき河漏麺(そばきり)の淡(あじ)
薄(なき)をめで隼(はや)人の薩摩なる金栗(あはもり)酒の酷(ひん)
烈(としたる)をもてはやすこそは風流(みやびと)のしわざなる
【左丁】
べき学(まなひ)のに窓に気を屈(つめ)て古文(しかくなじ)をよみ烏几(つくえ)の
上に筆を曲(かゝめ)て篆隷(めゝず)を書を文人書家と
いふもみな是なりがたきを楽として醴(あまざけ)の如
をすてゝ水の如きにしたがふならずや今や
時太平に治る 御代の春しごと遊魚(くらげ)なす
のらりくらりの遊の道はながいも有ばみじか
いも百(もゝ)たらぬ八百屋の縁の下より多く宝(ほう)
引の糸の千条(ちすじ)にわかれ紋付の数の百箇(もゝ)に
替が如く坪皿(つぼざら)のそこはかなく二乗(あげづゝ)をくひ
【右丁】
瓜造(うりつくら)にはあらぬ独楽(こま)の詐(てめ)も有めれど是等
はみなうまさけの蜜(みつ)をねぶらせて終にはう
つはぎに剥(はぎ)とられ裸菟(はだかうさぎ)のきりめに塩のしむ
うきめ見んよりはしかし此道の左祖(かたうど)して春は
よふ〱曙白くなり行比より評判記を待受
品定の九品十体の月旦(へうばん)評に二の替三の替
の未来記を思ひ量(はかり)顔見せにお取越の正月
して時ならぬ花を咲せたるは玉だれの小/瓶(がめ)
の中の乾坤(よのなか)もかうかしらず三千世界に外
【左丁】
にはないぞや古人のいへる狂言(けうげん)綺語(きご)も法の
声と空海師(くいかいし)の蒼海(あをみのはら)よりひろき真言秘密
のをしへ在原の朝臣の童すがたになづみし
岩つゝじの和哥什(やまとうた)を初として代々の
哥集に撰み入られしも松帆物語の見るに
ゆかしきみな此道の器(うつはもの)なるをや先に根無
草の冊子の行河の水のまに〱大邦(よのなか)に流
行しに今続て出る物は衆妙門(たへなるかど)の教にもと
づける成べし今々見るべしあら金の地を走る
【右丁】
犬じもの久方の天をかける鳥の類ひは雌雄(めを)
相交る心のみ有て童子を相おもふ道をし
らず是を思へば今/艶冶(わかしゆ)の情をすてゝ僻(ひが)事
なりあらぬ外道(げどう)なりとそしる輩は人の面
は有ながら獣の心なりといはゞいかゞはせん
あに人として鳥にしかさるべけんや
明和戊子のしはす足をそらにする夜来
春をはま町のやとりに大蔵千文しるす
【左丁】
【太線囲】
嗣出書
【罫線】
当世智嚢抄 《割書:全部五冊|》近刻
【罫線】
虚実山師弁 《割書:全部五冊|》近刻
【罫線】
金神論《割書:前編|後編》 《割書:全部五冊|》近刻
【罫線】
明和六己丑正月吉辰
書肆《割書:江戸神田下白壁町|》岡本利兵衛【角印】
【裏表紙】
【参照資料:国会図書館デジタルコレクション>日本衛生文庫>第2輯>夜船閑話 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935569/114】
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【帙の表紙 題箋】
《題:夜船閑話》
【帙を開い様子 背】
夜船閑話
【資料整理ラベル】
294.3
Ha
【帙表紙】
夜船閑話
【帙の内側 開いた様子 白紙】
【冊子の表紙 題箋】
《割書:白隠|禅師》夜船閑話
【右丁 手書きメモ】
読万巻之書不如
°一貫之要°修
贈岩重契
辱知漏舟居士
明治十二年九月上旬
【ラベル 横書き】
記念文庫
萩原汎愛
294.3 Ha
北海道帝国大学
附属図書館
NO 144257
【左丁】
夜船(やせん)閑話(かんなの)序(しよ)
窮乏菴(きゅうほふあん)主(しゆ)饑凍(きとう)選(せんす)
宝暦(ほうれき)丁丑(ていちう)の春(はる)長安(ちやうあん)の書肆(しよし)友松堂(ゆうせうたう)何某(なにかし)とかや
聞(きこ)へし遠(とふ)く草書(さうしよ)を裁(さい)して吾(わ)が鵠林(こうりん)近侍(きんじ)の
左右(さゆう)に寄(よ)せて云く伏(ふ)して承(うけたまは)る老師(らうし)の古紙(こし)
堆中(たいちう)夜船閑話(やせんかんな)とかや云へる草稿(さうかう)あり書中(しよちう)
多(おゝ)く気(き)を錬(ね)り精(せい)を養(やしな)ひ人の営衛(ゑいゑ)をして
充(み)たしめ専(もつは)ら長生(ちやうせい)久視(きうし)の秘訣(ひけつ)を聚(あつ)む
【右丁】
謂(いは)ゆる神仙(しんせん)錬丹(れんたん)の至要(しよう)なりと是故(このゆへ)に世(よ)の
好事(こうず)の君子(くんし)是(これ)をおもふ事 荒旱(こうかん)の雲霓(うんげい)の
如し偶(たま)〳〵雲水(うんすい)の徒侶(とりよ)竊(ひそ)かに伝写(てんしや)し来る
あるも秘重(ひちう)し珍蔵(ちんざう)して人おして見せしめず
天瓢(てんひやう)むなしく櫃(ひつ)におさめて匿(かく)したるが如(こと)し
願(ねかは)くは是を梓(し)に寿(いのちな)がふして以て其 渇(かつ)を慰(い)
せん聞く老師 常(つね)に人を利(り)するを以て老後(らうこ)
を楽(たの)しみ給ふと若(もし)夫(それ)人に利あらば師 豈(あ)
【左丁】
に是を吝しみ給はんやと二虎(にこ)含(ふく)み来て師に呈(てい)
す師 微(ひ)〱として笑ふ此において諸子 旧書(きうしょ)櫃(き)
を開(ひら)けば草稿(さうこう)蠹魚(ときよ)の腹(はらの)中に葬(ほうむ)らるゝ者 中(なか)葉(ば)
に過(すぎ)たり諸子即ち訂正(ていせい)伝写(でんしや)して既(すで)に五十 来(らい)
紙(し)を見る即ち封裹(ほうくは)して以て京師(けいし)に寄(よ)せん
とす予が馬歯(はし)一日も諸子に長(ちやう)たるを以て其
端(たん)由(ゆ)を書(しよ)せん事を責(せ)む予も亦 辞(し)せずして
出す云く師 鵠林(こくりん)に住(ちう)すること大凡四十年 鉢(ほ)
【右丁】
嚢(のう)を掛(か)けしより以来(このかた)雲水(うんすい)参玄(さんけん)の布(ふ)衲子(のつす)纔(わづ)
かに門 閫(こん)に跨(またが)れば師の毒涎(どくゑん)を甘(あま)なひ痛棒(つうほう)を
滋(うま)しとして辞(し)し去(さ)る事を忘(わす)るゝ者或は十年或は
二十年鵠林〻下の塵と成事も亦 総(そう)に顧(かへり)みざる
底あり尽(こと〳〵)く是 叢林(さうりん)の頭(つ)角(かく)四方の精(せい)英(ゑい)なり
各(をの)〳〵西東五六里が間に分(わか)れて旧(きう)舎(しや)廃(はい)宅(たく)
老院(らうゐん)破(は)廟(びやう)借(かり)て以て菴(あん)居の処として清(せい)苦(く)す
朝 艱(かん)暮 辛(しん)昼 餒(たい)夜 凍(とう)口に投(とう)する者は菜葉(さいよう)
【左丁】
麦麩(ばくふ)耳に触(ふ)るゝ者は熱喝(ねつかつ)詬罵(くめ)【垢は誤】骨に徹(てつ)する
者は嗔拳(しんけん)痛棒(つうほう)見る者 顙(ひたい)を攅(あつ)め聞者 肌(はたへ)
汗(あせ)す鬼神(きしん)もまた涙(なんだ)を浮(うか)へつべく魔外(まけ)も
また掌(たなこゝろ)を合わせつべし其初め来る時は宋玉(そうきよく)
河妟(かあん)が美貌(びほう)有て肌膚(きふ)光 沢(たく)凝(こ)れる膏(あぶら)の
如くなる者も久しからずして恰(あたか)も杜甫(とほ)賈島(かとう)
か形容(けいよう)枯槁(こかう)顔色(がんしよく)憔悴(せうすい)するが如く或は屈(くつ)子に
沢畔(たくはん)に逢(あ)ふか如し参玄 軀命(くみやう)を顧(かへりみ)さる底
【右丁】
の勇猛(ゆみやう)の上士にあらざるよりんば何の楽(たの)しみ
有てか片時(へんし)も湊泊(そうはく)する事を得んや是故に
往(おう)〻に参窮(さんきう)度(と)に過き清 苦(く)節(せつ)を失する族(やから)
は肺(はい)金いたみかじけ水分 枯渇(こかつ)して疝 癖(へき)塊(くはい)
痛(つう)難治の重 症(しやう)を発(はつ)せんとす是を憐(あわれ)み是
を愁(うれい)て師不 予(よ)の色有る者連日乍ち忍(にん)俊(しゆん)
不 禁(きん)にして雲(うん)頭(とう)を按下(あんけ)し老婆(らうは)の臭乳(しうにう)を
絞(しぼ)つて是に授(さつく)るに内観の秘訣(ひけつ)を以(もつ)てす乃(いまし)ひ
【左丁】
云く若(もし)是参禅 弁道(へんとう)の工士心火 逆(ぎやく)上し身心 労(らう)
疲(ひ)し五内 調和(じやうくは)せざる事あらんに鍼(しん)灸(きう)薬(やく)の
三つを以て是を治せんと欲(ほつ)せば縦(たと)ひ華陀(くはだ)扁(へん)
倉(そう)と云へとも輙(たやす)く救(すく)ひ得る事 能(あた)はじ我(われ)に
仙人 還(げん)丹の秘訣(ひけつ)あり你が輩(とも)がら試(こゝろみ)に是を
修(しゆ)せよ奇功(きこう)を見る事 雲霧(うんぶ)を披(ひら)ひて皎(かう)日を
見るが如けん若し此 秘(ひ)要(よう)を修せんと欲せば
且(しば)らく工夫(くふう)を拋下し話頭を拈放(ねんほう)して先
【右丁】
須らく熟(しゆく)睡(すい)一 覚(かう)すべし其 未(いま)だ睡(ねむ)りにつ
かず眼(め)を合せざる以前に向て長(な)かく両 脚(あし)を
展(の)へ強(つ)よく蹈(ふ)みそろへ一身の元気(けんき)をして臍(せい)
輪(りん)気海(きかい)丹田(たんてん)腰脚(ようきやく)足心の間に充(み)たしめ時〻
に此 観(くわん)を成すべし我此の気海(きかい)丹田 腰脚(ようきやく)足
心総に是我が本来(ほんらい)の面(めん)目〻〻何の鼻孔(ひこう)かある
我此の気海丹田総に是我が本分の家郷(かきやう)
〻〻何の消息(せうそく)かある我が此の気海(きかい)丹田総に
【左丁】
是我が唯心(ゆいしん)の浄土〻〻何の荘厳(しやうこん)かある我が此の
気海(きかい)丹田総に是我が已身の弥陀〻〻何の
法をか説(と)くと打返(か)へし〳〵常に斯(か)くの如く
妄想(もうざう)すべし妄想の功果(こうくは)つもらば一身の元気(けんき)
いつしか腰脚(ようきやく)足心の間に充足(しうそく)して臍下(さいか)瓠(こ)
然(ぜん)たる事いまた篠(しの)打ちせざる鞠(まり)如けん
恁麼(いんも)に単ゝに妄想し持ち去て五日七日 乃(ない)至(し)
二三七日を経(へ)たらむに従前の五 積(しやく)六 聚(じゆ)気(き)
【右丁】
虚労(きよらう)役(ゑき)等(とう)の諸 症(しやう)底を払(はらふ)て平癒(へいゆ)せずんば
老僧(らうそう)が頭(かうべ)を切(き)り持ち去れ此において諸子 歓喜(くわんぎ)
作礼して密(みつ)〻に精修(せいしゆ)す各〳〵悉(こと〳〵)く不 思議(しぎ)
の奇功(きこう)を見る功の遅速(ちそく)は進修の精麤(せいそ)に依(よ)る
といへども大半皆 全快(ぜんくはい)す各〳〵内 観(くはん)の奇功を
讃嘆(さんたん)して休(や)まず師の曰(いは)く你が輩(ともがら)心病全快
を得て以て足れりとする事なかれ転ゝ治(じ)
せは転ゝ参(さん)ぜよ転ゝ悟(さと)らば転ゝ進(すゝ)め老僧
【左丁】
初め参学(さんがく)の時難治の重病(ぢうびやう)を発(はつ)して其 憂(ゆう)
苦(く)諸子に十 倍(はい)せり進退(しんたい)惟(これ)谷(きは)まる尋常(よのつね)心にひ
そかに思惟(しゆい)すらく生(い)きて此 憂愁(ゆうしう)に沈(しづ)まん
よりは如かじ早く死(し)して此 革嚢(かくのう)を捨んには
と何の幸(かう)ぞや此の内 観(くはん)の秘訣(ひけつ)をつたへて
全快(せんくはい)を得(ゑ)る事今の諸子の如し至人の云く
此は是 神仙(しんせん)長生不死の神術(しんじゆつ)なり中下は世(せい)
寿(じゆ)三百 歳(さい)なるべし其 余(よ)は計(はか)り定むべか
【右丁】
らず予則ち歓喜(くわんぎ)に堪(た)へず精修 怠(おこた)らざる者(は)
大凡三年心身次第に健康(けんかう)に気力次第に勇(ゆう)
壮(さう)なる事を覚(おほ)ふ此において重(かさ)ねて心に竊(ひそ)
かに謂へらく縦(たと)ひ此真修を修(しゆ)し得て彭祖(ほうそ)
が八百の歳時を保(たも)ち得るも唯(たゞ)是一箇 頑空(ぐはんくう)
無智の守(しゆ)屍(し)鬼(き)ならくのみ老狸(らうり)の旧窠(きうくは)に
睡(ねむ)るが如し終に壊滅(ゑめつ)に帰(き)せん何が故ぞ今既
に独(ひと)りも葛洪(かつこう)鉄拐(てつかい)張華(ちやうくは)費(ひ)張が輩(ともが)らを
【左丁】
見ず如かし四弘(ぐ)の大誓を憤起(ふんき)し菩薩(ほさつ)の
威儀(いぎ)を学(まな)び常に大 法施(ほつせ)を行し虚空(こくう)に先(さきだ)
つて死せず虚空に後(をく)れて生せざる底の不
退(たい)堅固の真法身を打 殺(せつ)し金剛(こんがう)不 壊(くはい)の
大仏身を成就(じやうじゆ)せんにはと此において真正 参(さん)
玄(けん)の上士両三 輩(はい)を得て内観と参禅(さんぜん)と共
に合せ並(な)らべ貯(たくは)へて且(か)つ耕(たか)へし且つ戦(たゝか)ふは
蓋(けだ)し茲(こゝ)に三十年年〻一 員(いん)を添(そ)へ二 肩(けん)
を増(ま)し得て今 既(すで)に二百衆に近かしその中間
方来の衲子 労屈(らうくつ)疲倦(ひけん)の族(やか)ら或は心火 逆(きやく)
上し正に発狂(はつけう)せんとする底を憐(あはれ)み密(ひそ)かに
此内観の至要(しよう)を伝授(でんじゆ)し立所に快癒(くはいゆ)せし
め転ゝ悟(さと)れは転ゝ進(すゝ)ましむ馬年今歳 古希(こき)
に越(こ)へたりと云へども半 点(てん)の病患(びやうゆう)なく歯(し)
牙(げ)全(まつた)く揺落(ようらく)せず眼耳(かんに)次第に分明にして
動もすれば靉靆(あいたい)を忘(わす)る毎月両度の法施(ほつせ)
【左丁】
終に怠倦(たいけん)せず請に佗(た)方に応(おう)じて三百五百の
海衆を聚会(しゆくはい)して或は五旬七旬を経(きやう)に録に
雲(うん)水の所望(しよもう)に随(したがつ)て胡説(うせつ)乱道(ろんどう)するは大凡
五六十会に及ぶと云(い)へども終(つい)に一日も罷講(はこう)
斎(さい)を鎖(とさ)さず身心 健康(けんかう)気力(きりよく)は次第に二三
十歳の時には遥(はる)かに勝(ま)されり是皆 彼(か)の内
観(くはん)の奇功に依(よ)る事を覚(おぼ)ふ住菴(ちうあん)の諸子 各(をの)
〳〵悲泣(ひきう)作礼して云(いは)く吾(わ)が師(し)大 慈(じ)大 悲(ひ)願(ねがは)
【右丁】
くは内観の大 略(りやく)を書(しよ)せよ書して留(と)めて後(こう)
来(らい)禅(ぜん)病 疲倦(ひけん)各が輩(ともがら)の如き者を救(すく)へ師即ち
頷(がん)す立処に草稿(さうかう)成る稿中何の説(と)く処ぞ
曰く大凡生を養(やしな)ひ長寿を保(たも)つの要(ようは)形(かたち)を
錬(ね)るにしかず形を錬るの要神気をして
丹田(たんでん)気海(きかい)の間に凝(こ)らさしむるにあり神 凝(こ)る
則(とき)は気 聚(あつま)る〻〻る則は即ち真(しん)丹成る丹 成(な)る
則は形(かたち)固(かた)し形固き則は神(しん)全(まつた)し神全き則(とき)は
【左丁】
寿(いのちな)がし是仙人九 転還丹(てんげんたん)の秘訣(ひけつ)に契(かな)へり須
らく知るべし丹は果(はた)して外物(けふつ)に非(あら)ざる事
を千万 唯(たゞ)心火を降下(かうか)し気海(きかい)丹田の間に
充(み)たしむるに有(あ)るらくのみ住菴(ぢうあん)の諸子(しよし)此
心要を勤(つと)めてはげみ進(すゝ)んで怠(をこた)らずんは禅(ぜん)
病(ひやう)を治し労疲(らうひ)を救(すく)ふのみにあらず禅門向
上の事に到(いたつ)て年来 疑団(きたん)あらむ人〻は大ひに
手を拍(はく)して大笑する底の大 歓喜(くはんき)有らむ
【右丁】
何が故ぞ月高して城影尽く
惟時宝暦丁丑孟正廿五蓂
窮乏菴主飢凍炷香稽首題
【左丁】
夜船閑話
山野 初(はじ)め参学(さんがく)の日 誓(ちか)つて勇猛(ゆみやう)の信心(しん〳〵)を
憤発(ふんはつ)し不 退(たい)の道情(どうじやう)を激起(げきき)し精錬(せいれん)刻苦(こくく)
する者 既(すで)に両三霜 乍(たちま)ち一夜 忽然(こつぜん)として
落節(らくせつ)す従前多少の疑惑(ぎわく)根(ね)に和(くは)して氷(ひやう)
融(ゆう)し曠劫(くわうごう)生死(せうじ)の業(わざ)根底(こんそこ)に徹(てつ)して漚滅(おうめつ)す
自ら謂(おもへ)らく道ち人を去(さ)る事 寔(まこと)に遠(とふ)からず
古人二三十年是何の捏怪(ねつくはい)ぞと怡悦(いゑつ)蹈舞(とうぶ)を
【右丁】
忘(わす)るゝ者 数月(すげつ)向後(こうご)日用を廻顧(くはいこ)するに動静(どうぜう)の
二 境(きやう)全(まつた)く調和(しやうくは)せず去就(きよじゆ)の両 辺(へん)総に脱洒(だつしや)
ならず自(みづか)ら謂(おもへ)らく猛(たけ)く精彩(せいさい)を着(つ)け重(かさね)て
一回 捨命(しやめい)し去んと越(こゝにお)ひて牙関(げくはん)を咬定(こうぢやう)し
雙眼(さうがん)睛(せい)を瞪開(とうかい)し寝食(しんしよく)ともに癈(はい)せんとす
既(すで)にして未(いま)だ期月(きげつ)に亘(わた)【亙は本字】らざるに心火(しんくは)逆上(ぎやくしやう)し
肺金(はいこん)焦枯(しやうこ)して雙脚(さうきやく)氷雪(ひせつ)の底(そこ)に浸(ひた)すが如
く両耳(りやうに)渓声(けいせい)の間を行くが如し肝胆(かんたん)常(つね)に
【頭部欄外の朱書き】
大凡豪気盛ナル
人処世ノ際大抵此
ノ病アリ此病ヨリ
然ル後真ノ豪傑
ト云フベシ也然ラハ則チ
病ハ天与ノ幸ナリ
【左丁】
怯弱(こにやく)にして挙措(こそ)恐怖(けうく)多く心神 困倦(こんけん)し寐(み)
寤(ご)《振り仮名:種〻|しゆ〳〵》の境界(きやうがい)を見る両 腋(ゑき)常に汗(あせ)を生じ
両 眼(がん)常に涙(なみだ)を帯(を)ぶ此(こゝ)において遍(あまね)く明師(めいし)に
投(とう)し広(ひろ)く名医(めいい)を探(さぐ)ると云(い)へども百 薬(やく)寸(すん)
功(こう)なし或(ある)人曰く城の白河の山 裏(うら)に巌居(かんきよ)
せる者あり世人是を名(なづ)けて白幽(はくゆう)先生と
云ふ霊寿(れいじゆ)三四 甲子(かつし)を閲(け)みし人居三四里
程(ほど)を隔(へだ)つ人を見る事を好(この)まず行(ゆ)く則(とき)は
【右丁】
必(かなら)ず走(はしり)て避(さ)く人其 賢愚(けんぐ)を弁(べん)ずる事なし
里(さと)人 専(もつは)ら称(しやう)して仙人とす聞く故の丈山氏(ぢやうさんし)
の師範(しはん)にして精(くはし)く天文(てんもん)に通(つう)じ深(ふか)く医道(いどう)
に達(たつ)す人あり礼(れい)を尽(つく)して咨叩(しこふ)する則(とき)は稀(ま)
れに微言(びげん)を吐(は)く退(しりぞ)ひて是を考(かんがふ)るに大ひに
人に利ありと此(こゝ)におゐて宝永(ほうゑい)第七庚寅
孟(もう)正中 浣(くはん)竊(ひそ)かに行纏(あんてん)を着(つ)け濃東(ぢやうとう)を発(はつ)し
黒谷を越(こ)へ直(たゞ)ちに白川の邑(ゆう)に到(いた)り包(ほう)を茶(さ)
【左丁】
店(てん)におろして幽か巌栖(かんせい)の処を尋(たづ)ぬ里人 遥(はる)か
に一枝の渓(けい)水を指(ゆびさ)す即(すなは)ち彼の水声に随(したがつ)て
遥かに山渓に入(い)る正に行(ゆ)く事里ばかりに乍(たちま)
ち流(りう)水(すい)を蹈断(とうたん)す樵径(しやうけい)もまたなし時に一
老夫(らうふ)あり遥かに雲煙(うんゑん)の間を指す黄白(くわうはく)にし
て方寸 余(よ)なる者あり山気に随て或は顕(あら)はれ
或は隠(かく)る是幽か洞口(とうこう)に垂下(すいか)する所の蘆簾(ろれん)
なりと予即ち裳(もすそ)を褰(かゝ)げて上(のぼ)る巉巌(ざんがん)を蹈(ふ)
【右丁】
み蒙葺(もうじやう)【注①】を披(ひら)けば氷雪 草鞋(さうあい)を咬(か)み雲露(うんろ)衲(のう)
衣(ゑ)を圧(を)す辛汗(しんかん)を滴(したし)て苦膏(くかふ)を流(なが)して漸(やうや)く
彼の蘆簾(ろれん)の処に到(いた)れは風致(ふうち)清絶(せいぜつ)実に物
表に丁(てい)々たる事を覚(おぼ)ふ心魂(しんこん)震(ふる)ひ恐(おそ)れ肌(き)
膚(ふ)戦栗(せんりつ)【注②】す且(しば)らく巌根(いはね)に倚(より)て数息(しやそく)する
者数百 少焉(しばらく)あつて衣を振(ふる)ひ襟(ゑり)を正(たゞ)して
畏つ〳〵鞠躬(きつきう)して簾子(れんし)の中を望めは朦朧(もうろう)
として幽か目を収(をさ)めて端坐(たんざ)するを見る蒼髪(さうはつ)
【左丁】
垂(たれ)て膝(ひざ)に到(いた)り朱顔(しゆがん)麗(うるはし)ふして棗(なつめ)の如し大布
の袍(ほう)を掛(か)け輭(なん)草の席(せき)に坐せり窟(くつ)中 纔(わず)かに
方五六 笏(こつ)【注③】にして全(まつた)く資生(しせう)の具(ぐ)無(な)し机(きやく)上
只 中庸( よう)と老子と金剛般若(こんがうはんにや)とを置(を)く予
則ち礼(れい)を尽(つく)して苦(ねんご)ろの病因(びやういん)を告(つ)げ且ッ救(すく)
ひを請(こ)ふ少焉(しばらく)幽眼(ゆうがん)を開(ひら)ひて熟々(つら〳〵)視(み)て徐(じよ)々
として告(つ)げて曰く我は是山中半死の陳(ちん)人
樝栗(さりつ)を拾(ひろふ)て食(くら)ひ糜鹿(びろく)【注④】に伴(ともな)つて睡(ねむ)る此
【注① 「蒙葺」は「蒙茸」ヵ】
【注② 「戦栗」は「戦慄」とも】
【注③ 「笏」は「尺」の意。読みは「しやく」ヵ】
【注④ 「糜鹿」は「麋鹿」ヵ】
【右丁】
外 更(さら)に何をか知(し)らんや自ら愧(は)ず遠(とふ)く上人の
来望(らいぼう)を労(ろう)する事を予則ち転ゝ【注①】咨叩(しこう)して
休(や)まず時に幽 恬如(てんじよ)として予が手を捉(と)らへて精(くは)
しく五内(ごだい)を窺(うかゞ)ひ九 候(こう)を察(さつ)す爪甲(さうこう)長きる【注②】半
寸 惨乎(さんこ)として顙(ひたい)を攅(あつ)めてつげて云(いは)く已哉(やんぬるかな)観理(くはんり)
度(と)に過(す)き進修節を失して終(つい)に此(こ)の重症(ぢうしやう)を
発(はつ)す実に医治(いじ)し難(がた)き者は公の禅病(ぜんびやう)なり
若(も)し鍼灸薬(しんきうやく)の三ッの物を恃(たの)んで而(しかう)して後(のち)
【左丁】
に是を救(すく)わんと欲(ほつ)せは扁倉(へんそう)力をつくし華陀(くはだ)
顙(ひたい)を攅(あつ)むるも奇功(きこう)を見る事 能(あた)はじ公今 既(すで)
に観理(くはんり)の為に破(やぶ)らる勤めて内観の功を積(つ)ま
ずんば終(つい)に起(た)つ事(こと)能はじ是彼の起 倒(とう)は必(かな)
らず地に依るの謂(いゝ)なり予が曰く願(ねがは)くは内
観の要秘を聞かん学(まな)びがてらに是を修(しゆ)せん
幽 粛(しゆく)々如として容(かたち)をあらため従容(しやうよう)として
告て曰く嗚呼(あゝ)公の如きは問(と)ふ事を好(この)むの士(し)
【注① 「転ゝ」の読みは「うたゝ」】
【注② 「る」は「事」ヵ。明治19年の後印は「長(なかき)こと」と有り】
【右丁】
なり我(わ)が昔(むか)し聞(き)ける処を以て微(すこ)しく公に
告んか是 養生(ようじやう)の秘訣(ひけつ)にして人の知(し)る事 稀(ま)
れあり怠(をこた)らずんば必ず奇功(きこう)を見(みん)久 視(し)も又
期(ご)しつべし夫大 道(とう)分(わか)れて両儀あり陰陽(ゐんやう)
交和(かうくは)して人物 生類(なる)先天の元気中間に黙運(もくうん)
して五臓(こぞう)列(つらな)り経脈(けいみやく)行わる衛気(ゑいき)営血(ゑいけつ)互(たがひ)に昇(しやう)
降(がう)循環(しゆんくはん)する者 昼夜(ちうや)に大凡五十度 肺(はい)金は牝(ひん)
蔵(ぞう)にして膈(かく)上に浮(うか)び肝木(かんぼく)は牡蔵にして膈
【左丁】
下に沈(し)づむ心火は大 陽(やう)にして上部に位(くら)ひし
腎(じん)水は大 陰(いん)にして下部を占(し)む五 臓(ぞう)に七神あり
脾(ひ)腎(しん)各(をの)〳〵二神を蔵(か)くす呼(こ)は心 肺(はい)より出て
吸(きう)は腎肝に入る一呼に脈(みやく)の行(ゆ)く事三寸一吸に
脈の行く事三寸 昼夜(ちうや)に一万三千五百の気(き)
息(そく)あり脈一身を巡行(しゆんきやう)する事五十次火は軽(けい)
浮(う)【注】にしてつねに騰昇(とうせう)を好み水は沈重(ちんぢう)にして
常に下流を務(つと)む若(もし)人 察(さつ)せず観照(くはんせう)或は節
【注 「浮」の振り仮名「う」は「ふ」ヵ。明治19年の後印は「ふ」と有り】
【右丁】
を失(しつ)し志念或は度(ど)に過(すぐ)る則【注①】は心火 熾衝(しせう)し
て肺(はい)金 焦薄(しやうはく)す金母 苦(く)るしむ則は水子 衰減(すいげん)
す母子 互(たがい)に疲傷(ひしやう)して五位 困倦(こんけん)し六属 凌奪(りやうたつ)
す四大 増損(そうそん)して各(をの)〳〵百一の病を生す百 薬(やく)
功を立する事 能(あた)はず衆医(しゆい)総に手を束(つ)かね
て終に告(つぐ)る処なきに到(いた)る蓋(けだ)し生を養(やしな)ふ事は
国(くに)を守(まも)るが如し明君(めいくん)聖主(せいしゆ)は常に心を下に専(もつはら)
にし暗君(あんくん)庸主(ようしゆ)は常に心を上に恣(ほしいまゝ)にす上に
【頭部欄外の朱書き】
之ヲ医書ニ徴シ之
ヲ自身ニ記ヌ【又ヵ】入房
ノ明日此ノ境界多
シ呵々
【左丁】
恣(のしいまゝ)にする則は九卿権に絝(ほ[こ])【注②】り百 僚(りやう)寵(ちやう)を恃(たの)んて曽(かつ)
て民間(みんかん)の窮困(きうこん)を顧(かへりみ)る事無し野に菜(さい)色多く
国 餓莩(がひやう)多し賢良(けんりよう)濽(ひそ)【注③】み竄(かく)れ臣民(しんみん)瞋(いか)り恨(うら)む
諸侯(しよこう)離(はな)れ叛(そむ)き衆夷(しゆい)競(きそ)ひ起(をこ)つて終に民 庶(しよ)を
塗炭(とたん)にし国脈(こくみやく)永く断絶(たんぜつ)するに到(いた)る心を
下に専(もつは)らにする則は九 卿(けい)倹(けん)を守(まも)り百僚 約(やく)を
勤(つと)めて常に民間の労疲(ろうひ)を忘るゝ事無し農(のう)
に余(あ)まんの粟(あは)あり婦(ふ)に余まんの布有て群(くん)
【注① 「則」の読みは「とき」。他同】
【注② 「絝」は「誇」の誤ヵ。読みは「ほこ」で「こ」脱ヵ】
【注③ 「濽」は「潜」の誤ヵ】
【右丁】
賢(けん)来り属(ぞく)し諸侯(しよこう)恐(おそ)れ服して民(たみ)肥(こ)へ国(くに)強(つよ)く
令に違(い)するの烝(ぢやう)民なく境(さか)ひを侵(をか)すの敵国(てきこく)
なし国 刁斗(ちやうと)の声を聞く事なく民 戈戟(くはげき)の
名を知らず人身もまた然(しか)り【注①】至人は常に
心気をして下に充(み)たしむ心気(しんき)下に充つる
則は七凶内に動(うご)く事なく四 邪(じや)また外より
窺(うかゞ)ふ事 能(あた)はず営衛(ゑいゑ)充ち心神 健(すこや)かなり口ち
終に薬餌(やくじ)の甘酸(かんさん)を知らず身終に鍼灸(しんきう)の
【左丁】
痛痒(つうよう)を受(う)けず【注②】庸流(ようりう)は常に心気(しんき)おして上に
恣(ほしいまゝ)にす上に恣にする則(とき)は左寸の火右寸の金を
剋(こく)して五 官(くはん)縮(ちゝ)まり疲(つか)れ六親苦るしみ恨(うら)む
是故に漆園(しつゑん)曰く【注③】真人の息(いき)は是を息するに
踵(くびす)を以てし衆(しゆ)人の息は是を息するに喉(のんと)を
以てす【注④】許俊(きよしゆん)が云く蓋(けた)し気 下焦(かしやう)に在る則は
其息 遠(とふ)く気上焦に有る則は其息 促(しゝ)まる
上 陽子(やうし)が曰く人に真(しん)一の気有り丹田(たんてん)の中
【注①から注②の間の各文字の右傍に朱の「◦」有り】
【注③から注④の間の各文字の右傍に朱の「ヽ」有り】
【頭部欄外の朱書き】
豪傑戦地ニ居ル
平生ノ如キ之ナリ
以下真修ノ境ニ
入ル尋常ノ書ヲ
視ルト異ナリ楼ニ
登リ静坐シテ読
ムベシ
【右丁】
に降下する則は一陽また復(ふく)す若(もし)人 始陽(しやう)初復
の侯(こう)【注】を知(し)らむと欲(ほつ)せは暖気(たんき)を以て是が信(しん)と
すべし大凡(をゝよそ)生を養(やしな)ふの道上部は常に
清涼(せいりやう)ならん事を要(よう)し下部は常に温煖(をんたん)な
らん事を要せよ夫(それ)経脈の十二は支(し)の十二に
配(はい)し月の十二に応(おう)じ時の十二に合す六 爻(かう)変(へん)
化(くは)再周(さいしう)して一歳を全(まつと)ふするが如し五 陰(いん)上
に居し一陽下を占(し)む是を地 雷復(らいふく)と云(い)ふ
【左丁】
冬至(とうし)の侯(こう)【注】なり真人の息は是を息するに踵(くびす)
を以(もつ)てするの謂(いゝ)か三 陽(やう)下に位(くら)ひし三陰上に居す
是を地天泰(ちてんたい)と云ふ孟(もう)正の侯【注】なり万物発生(ばんもつはつしやう)
の気(き)を含(ふく)んて百 卉(き)春化の沢(たく)を受(う)く至人元
気おして下に充(み)たしむるの象(しやう)人是を得(う)る
則は営衛(ゑいゑい)充実し気力 勇壮(ゆうさう)なり五陰下に
居し一陽上に止(とゞ)まる是を山地(さんち)剥といふ九月
の侯【注】なり天是を得る則は林苑(りんゑん)色(いろ)を失(しつ)し百
【注 「侯」は「候」の誤ヵ】
【右丁】
卉 荒落(あれをち)ず是 衆(しゆ)人の息は是を息するに喉(こう)を
以(もつ)てするの象(しやう)人是を得(う)る則は形容(けいよう)枯槁(こかふ)し
歯牙(しげ)揺(よ)う落(らく)す所以(このゆへ)に延寿(ゑんじゆ)書に云く六陽
共の尽く則是 全陰(ぜんいん)の人 死(し)し易(や)すし須らく
知(し)るべし元気をして常(つね)に下に充(みた)しむ是生
を養(やしな)ふ枢要(すふよう)なる事を昔(むか)し呉契初(こかいしよ)【注①】石台
先生に見(まみ)ゆ斎戒(さいかい)して錬丹(れんたん)の術(じゆつ)を問(と)ふ先(せん)
生(せい)の云く我に元玄真丹の神秘(しんひ)あり上々の
【左丁】
器(き)にあらさるよりんは得て伝(つた)ふべからず古(いに)しへ
黄来(こふせい)子【注②】是を以て黄帝(こうてい)に伝ふ帝(みかど)三七 斎戒(さいかい)して
是を受く夫(それ)大道の外に真丹(しんたん)なく真丹の外
に大道なし蓋(けだ)し五 無漏(むろ)の【注③】法あり你ぢの六 欲(よく)を
去(さ)け五官各〳〵其 職(しよく)を忘(わす)るゝ則は混然(こんぜん)たる本源(ほんけん)
の真気(しんき)彷彿(ほうふつ)として目前(もくぜん)に充(み)つ是 彼(か)の大白
道人の謂(いは)ゆる我が天を以て事(つかふ)る所の天に合
する者なり孟軻氏(もうかし)の謂(いは)ゆる浩然(こうせん)の気(き)是を
)【注① 「契」の振仮名「かい」は「けい」の誤ヵ】
【注② 「黄来子」は「広成子」の誤ヵ。「広(廣)→黄」「成→来」の誤記ヵ。広成子と黄帝の故事が有り】
【注③ 「五無漏の」の各文字の右傍に朱の「◦」有り】
【頭部欄外の朱書き】
◦
昔梁武帝此ノ
義ヲ誤リ会シテ
后妃ノ■ヲ受妻
アルモノ誤ル可ラ
ス
【■は「女+病」 「嫉」ヵ】
【右丁】
ひきいて臍輪(せいりん)気海(きかい)丹田(たんてん)の間に蔵(をさ)めて歳月(さいげつ)を
重(かさ)ねて是を守て守一(しゆいち)にし去(さ)り是を養(やしなふ)て無
適(てき)にし去て一 朝(てう)乍ち丹竈(たんそう)を掀翻(けんほん)する則は
内外中間八 紘(かう)四 維(ゆい)総是一 枚(まい)の大還丹此時に
当て初て自己(じこ)即ち是天地に先(さきた)ッて生ぜず
虚空(こくう)に後れて死(し)せざる底の真箇(しんか)長生(ちやうせい)久(く)
視(し)の大 神仙(しんせん)なる事を覚得(かくとく)せん是を真正 丹(たん)
竈(そう)功成る底(そこ)の時節(じせつ)とす豈(あ)に風に御(きよ)し霞(かすみ)
【左丁】
に跨(また)がり地(ち)を縮(ちゞ)め水を蹈(ふ)む等の鎖末(さまつ)【注①】たる幻事(けんじ)
を以て懐(くはい)とする者(もの)ならんや大 洋(よう)を攪(か)ひて酥(そ)
酪(かく)【注②】とし厚土を変(へん)じて黄金とす前 賢(けん)曰く丹
は丹田なり液(ゑき)は肺(はい)液なり肺液を以て丹田に
還(か)へず是故に金液還丹といふ予か曰く謹(つゝし)ん
で命(めい)を聞いつ且(しは)らく禅観(ぜんくはん)を拋(なげ)下し努(つと)め力めて治するを以て期(こ)とせん恐るゝ処は李士才(りしさい)が
謂(いは)ゆる清降(せいがう)に偏(へん)なる者にあらずや心を一
【注① 「鎖末」は「瑣末」とも】
【注② 「酪」の振仮名「かく」は「らく」の誤ヵ】
【右丁】
処に制(せい)せは気血(きけつ)或ひは滞碍(たいけ)する事なからむか
幽 微(び)々として笑(わらつ)て云く然(しか)らす李氏(りし)いはずや
火の性は炎(ゑん)上なり宜(よろ)しく是を下らしむ
べし水の性(しやう)は下れるに就(つ)く宜しくこれを
して上(のぼ)らしむべし水上り火下る是を名(なづ)けて
交(かう)と云ふ交る則は既済(きせい)とす交(まじは)らざる則は
未済(ひせい)とす交は生の象(しやう)不交は死の象なり
李家(りか)が謂(いは)ゆる清降(せいがう)に偏(へん)なりとは丹渓(たんけい)を
【頭部欄外の朱書き】
既済未済ハ元
麿呂之証ス
【左丁】
学(まな)ぶ者の弊(へい)を救(すく)わんとなり古人 云(いは)く相火上り
易(やす)きは身中の苦(く)るしむ所水を補(をきな)ふは火を制(せい)
する所以(ゆゑん)なり蓋(けだ)し火に君相(くんさう)の二 義(ぎ)あり君
火は上に居して静(せい)を主(つか)さどり相火に下に処
して動(どう)をつかさどる君火は是一心の主なり
相火は宰輔たり蓋(けだ)し相火に両般あり謂(いは)
ゆる腎(じん)と肝(かん)となり肝(かん)は雷(らい)に比(ひ)し腎(じん)は竜(りやう)に
比(ひ)す是故に云ふ竜(りやう)をして海底(かいてい)に帰(き)せしめは
【右丁】
必(かなら)ず迅発(しんはつ)の雷(らい)なけん但し雷(らい)をして沢中(たくちう)に
蔵(かく)れしめば必ず飛騰(ひとう)の竜(りやう)なけん海(うみ)か沢(たく)か水に
あらずと云ふ事なし是相火上り易(やす)きを制(せい)
するの語(ご)にあらずや又曰く心(しん)労煩(ろうはん)する則は
虚(きよ)して心(しん)熱(ねつ)す心 虚(きよ)する則は是を補(ほ)するに
心を下して以て腎(じん)に交(まじ)ゆ是を補と云ふ既(き)
済(せい)の道なり公 先(さき)に心火 逆(ぎやく)上して此 重痾(ぢうあ)を
発(はつ)す若(も)し心を降(かう)下せずんば縦(たと)ひ三 界(がい)の
【左丁】
秘密(ひみつ)を行(ぎやう)し尽(つく)したり共 起(た)つ事 得(ゑ)じ且(か)つ又(また)
我(わ)が形(ぎやう)し摸(も)道家 者(しや)流に類(るい)するを以(もつ)て大ひに
釈(しやく)に異なる者とするか是 禅(ぜん)なり他日打発せ
は大ひに笑(わら)つべきの事 有(あ)らむ夫(それ)観(くはん)は無観を
以て正観とす多観の者を邪(じや)観とす向きに
公多観を以て此 重症(ぢうしやう)を見る今(いま)是を救(すく)ふに
無観を以てすまた可(か)ならずや公 若(も)し心炎(しんゑん)
意火(いくは)を収(をさ)めて丹田及ひ足心の間におかば胸(けう)
【右丁】
膈(かく)自然(しぜん)に清涼(せいれう)にして一 点(てん)の計較思想(け[い]きやうしさう)なく一
滴(てき)の識浪情波(しきろうぜうは)なけん是 真観(しんくはん)清浄観(しやう〳〵くはん)なり
云ふ事なかれしばらく禅(ぜん)観を扰下(ほうげ)【注】せんと
仏の言(い)はく心を足心におさめて能(よ)く百一の
病(やまひ)を治(じ)すと阿含(あこん)に酥(そ)を用(もちゆ)るの法あり心の
労疲(ろうひ)を救(すく)ふ事尤 玅(みやう)なり天台(てんだい)の摩訶止觀(まかしくはん)
に病因(びやういん)を論(ろん)ずる事 甚(はなは)だ尽(つく)せり治法を説(と)く
事も亦(また)甚だ精密(せいみつ)なり十二種の息(そく)ありよく
【左丁】
衆病を治す臍輪(せいりん)を縁して豆(とう)子を見るの法
あり其大意心火を降(かう)下して丹田(たんでん)及び足心に
収(をさむ)るを以て至要(しよう)とす但病を治(ぢ)するのみにあら
ず大ひに禅観(ぜんくはん)を助(た)すく蓋(けだ)し繋縁(けいゑん)諦真(たいしん)の
二 止(し)あり諦真(たいしん)は実相(じつさう)の円(ゑん)観 繋縁(け[い]ゑん)は心気(しんき)を
臍輪(せいりん)気海(きかい)丹田の間に収(をさ)め守(まも)るを以て第一
とす行者(ぎやうじや)是を用(もちゆ)るに大ひに利(り)あり古(いに)しへ
永平(ゑいへい)の開祖師(かいそし)大 宋(そう)に入て如浄を天童(てんどう)に
【注 「扰下」は「抛下」「放下」ヵ】
【右丁】
拝(はい)す師一日 密室(みつしつ)に入て益(ゑき)を請(こ)ふ浄曰く元
子 坐禅(ざぜん)の時き心を左の掌(たなこゝろ)の上におくべしと
是 即(すなは)ち顗師(かいし)の謂(いは)ゆる繋縁(けゑん)止の大 略(りやく)なり
顗師 初(はじ)め此の繋縁内観の秘訣(ひけつ)を教(をし)へて其
家兄(かけい)鎮慎(ちんしん)が重痾(ぢうあ)を万死(ばんし)の中に助(たす)け救(すく)ひた
まふ事は精(くは)しくは小止観の中に説(と)けりまた
白雲(はくうん)和尚曰く我つねに心をして腔(かう)子の中に
充(み)たしむ徒(と)を匡(たゞ)し衆(しゆ)を領(りやう)し賓(ひん)を接(せつ)し
【左丁】
機(き)に応(おう)じ及び小 参普説(さんふせつ)七 縦(じう)八 横(おう)の間において
是を用(もち)ひてつくる事なし老来 殊(こと)に利益(りやく)多(おゝ)き
事を覚(おぼ)ふと寔(まこと)に貴(たつと)ぶべし是 蓋(けだ)し素問(そもん)に
みゆる【注①】恬澹虚無(てんたんきよ)無なれば真気(しんき)是にしたがふ
精神(せいしん)内に守(まも)らば病(やまひ)何(いづ)れより来らむ【注②】といふ語(こ)
に本(もと)づき給ふ者ならむか且(か)つ夫(それ)内に守(まも)るの
要(よう)元気をして一身の中に充塞(じうそく)せしめ三百
六十の骨節(こつせつ)八 万(まん)四千の毛窮(もうきやう)一 毫髪(がうはつ)ばかりも
【注①から注②の間の各文字の右傍に墨の「◦」有り】
【頭部欄外の墨書き】
恬澹虚無
【右丁】
欠缺(かんけつ)【注】の処なからしめん事を要(よう)すこれ生を養(やしな)ふ至要(しよう)なる事を知(し)るべし彭祖(ほうそ)が曰く和神(くはしん)
導気(とうき)の法 當(ま)さに深(ふか)く密室(みつしつ)を鎖(と)ざし牀(ゆか)を
案(あん)じ席(せき)を煖(あたゝ)め枕の高(た)かさ二寸半正身 偃臥(ゑんくは)
し瞑目(めいもく)して心気を胸膈(けうかく)の中に閉(と)ざし鴻毛(かうもう)を
以て鼻(ひ)上につけて動(うご)かざる事三百息を経(へ)て
耳(みゝ)聞(きく)処なく目見る処なく斯(かく)の如くなる
則は寒暑(かんしよ)も侵(を)かす事 能(あた)はず《振り仮名:蜂■|ほうたい》も毒(どく)する
【注 「欠」と「缺」は新字旧字の同字であるが、ママとする】
【■は「蠆」ヵ】
【頭部欄外の朱書き】
每日午睡ノ前ニ
試テ自然ニ佳
眠アラン
【左丁】
事能はず寿(ことぶ)き三百六十歳是 真(しん)人に近(ち)かしと
又 蘇内翰(そたいかん)が曰く已(すで)に飢(う)へて方に食(しよく)し未(いま)だ飽(あか)ず
して先止む散歩逍遙(さんほせうよう)して務(つと)めて腹をして空(むなし)
からしめ腹(はら)の空(くう)なる時に当(あたつ)て即ち静室(じやうしつ)に入(い)
り端坐黙然(たんざもくせん)して出入の息(いき)を数(かぞ)へよ一息より
かぞへて十に到(いた)り十より数(かぞ)へて百に至り百ゟ
数へ放ち去て千に至りて此身 兀然(ごつぜん)として
此心 寂(じやく)然たる事 虚空(こくう)と等(ひと)し斯(かく)のごとく
【頭部欄外の朱書き】
息ヲ数フルノ法ハ
呼カ吸カノ一ヲ数
フベシ呼吸共ニ数レ
ハ益ナシ還テ労
多シ
真修ノ法ハ坐臥
行住ノ別ナシ然
ルニ始メハ密室静
坐ヲ由トス
【右丁】
なる事 久(ひさし)ふして一息おのづから止(とゞ)まる出でず
入らざる時此息八 万(まん)四千の毛窮(もうきやう)の中より雲(くも)
蒸(む)し霧(きり)起(をこ)るが如く無 始(し)劫来(こうらい)の諸病(しよびやう)自(をのづか)ら
除(のぞ)き諸障(しよしやう)自然(しぜん)に除滅(じよめつ)する事を明悟(めいご)せん
譬(たと)へば盲人(もうじん)の忽然(こつぜん)として眼(め)を開(ひら)くが如けん
此時人に尋(たづ)ねて路頭(ろとう)を指(さ)す事を用(もち)ひず只
要す尋常言語を省略して爾(なん)ぢの元気を
長養(ちようやう)せん事を是故に云(い)ふ目力を養(やしな)ふ者
【左丁】
は常に瞑(みやう)し耳根(にこん)を養(やしな)ふ者は常に飽(あ)き心気
を養ふ者は常に黙(もく)すと予が曰く酥(そ)を用るの
法得て聞ひつべしや幽が曰く行者(ぎやうじや)定(てい)中四大
調和(てうくは)せず身心(しん〳〵)ともに労疲(ろうひ)する事を覚せば
心を起(をこ)して応(ま)さに此 想(さう)を成(な)すべし譬(たと)へば
色香(いろか)清浄(せうじやう)の輭蘇(なんそ)鴨卵(わうらん)の大ひさの如くなる
者 頂(てう)上に頓在せんに其 気味(きみ)微妙(みみやう)にして
遍(あまね)く頭顱(づろ)の間をうるをし浸々として潤(じゆん)
【右丁】
下(か)し来て両 肩(けん)及び双臂(さうひ)両 乳(にう)胸膈(けうかく)の間
肺肝(はいかん)腸胃(ちやうい)脊梁(せきりやう)臀骨(とんこつ)次第に沾(せん)注し将ち
去る此時に当て胸(けう)中の五 積(しやく)六聚 疝癖(せんへき)塊痛(くはいつう)
心に随(したがつ)て降(かう)下する事水の下につくがごとく
歴(れき)々として声(こへ)あり遍身(へんしん)を周流し双脚(さうきやく)を
温潤(おんじゆん)し足心に至て即ち止(とゞ)む行者 再(ふたゝび)応(ま)
さに此観を成(な)すべし彼の浸々として潤下
する所の余(よ)流 積(つ)もり湛(たゝ)へて暖(あたゝ)め蘸(ひた)す事
【左丁】
恰(あたか)も世の良医(りやうい)の種(しゆ)々 玅(みやう)香の薬物を集(あつ)め是
を煎湯(せんたう)して浴盤(よくばん)の中に盛(も)り湛(たゝ)へて我が臍(せい)
輪(りん)已下を漬(つ)け 蘸(ひた)すが如し此観をなすとき
唯心(ゆいしん)所現(しよけん)の故に鼻根(びこん)乍ち希有(けう)の香気を
聞(き)き身根(しんこん)俄(には)かに玅好の輭触(なんそく)を受(う)く身心 調(てう)
適(てき)なる事二三十歳の時には遥(はる)かに勝(まさ)れり此
時に当て積聚(しやくしゆ)を消融(せうゆう)し腸胃(ちやうい)を調和し覚
へず肌膚(きふ)光沢(こうたく)を生ず若(もし)其 勤(つと)めて怠(をこた)らずん
【右丁】
は何(いづ)れの病(やまひ)か治せざらむ何れの徳(とく)かつまさらん
何れの仙か成せざる何れの道(みち)か成ぜざる其 功(こう)
験(げん)の遅速(ちそく)は行人の進修の精麁(せいそ)に依(よ)るらく
のみ走始め丱(くはん)歳の時多病にして公の患(うれ)ひに
十 倍(ばい)しき衆医(しゆい)総に顧(かへり)みざるに到(いた)る百端を
窮むといへども救(すく)ふべきの術(じゆつ)なし此(こゝ)において
上下の神祇(しんぎ)に祈(いのり)て天仙の冥助(めうぢよ)を請(こ)ひ願(ねが)ふ
何の幸(さいは)ひぞや計(はか)らず此の輭酥の玅術を
【左丁】
伝受(でんじゆ)する事を歓喜(くはんき)に堪(た)へず綿(めん)々として精
修す未だ期月(きげつ)ならざるに衆病大半 銷除(しやうぢよ)す
爾来(しかしよりこのかた)身心 軽安(けいあん)なる事を覚(おぼ)ゆるのみ痴々(ちゝ)兀(こつ)
々月の大小を記せず年の潤余(じゆんよ)を知らず世念
次第に軽微(けいひ)にして人 欲(よく)の旧習(きうしう)もいつしか忘れ
さるが如し馬年今歳何十歳なる事もまた
知(し)らず中頃端由有て若丹【注①】の山中に濽遁(せんとん)【注②】す
る者大凡三十歳世人 都(すべ)て知る事なし其中
【注① 「若丹」は、別本では「若州」とあり。「丹」は「州」の誤記、又は「若狭丹後」の意ヵ】
【注 「濽」は「潜」の誤ヵ】
【右丁】
間を顧(かへりみ)るに恰(あたか)も黄粱半 熟(じゆく)の一 夢(む)の如し今
此山中無人の処に向て此 枯槁(ここう)の一 具(ぐ)骨を放
て太布の単衣(たんゑ)纔(わず)かに二三片を掛(か)け厳冬(げんとう)の寒
威綿を折(くじ)くの夜といへども枯腸(こちやう)を凍損(とうそん)する
にいたらず山粒すでに断(た)へて穀(こく)気を受(う)けざ
る事動もすれば数(す)月に及ぶといへども終に
凍 餒(たい)の覚へもなき事は皆此観の力らならずや
我今既に公に告(つぐ)るに一生用ひ尽(つく)さゞる底(てい)の
【左丁】
秘訣(ひけつ)を以(もつ)てす此外更に何をか云(いは)んやと云て目を
収(をさ)めて黙坐(もくざ)す予も亦(ま)た涙(なみだ)を含(ふく)んで礼辞(れいし)す
徐々として洞口(とうこう)を下れば木末(こずへ)纔(わず)かに残陽(さんやう)を
掛(か)く時に屐声(げきせい)の丁々として山谷に答(こた)ふる
あり且(か)つ驚(おどろ)き且つ怪(あやし)んで畏(をそれ)つゝ【注】回顧(くはいこ)すれば
遥(はる)かに幽が巌窟(がんくつ)を離(はな)れて自(みづか)ら送り来(きた)るを
見る即ち曰く人 跡(せき)不到の山 路(ろ)西東分ち難(がた)
し恐(をそら)くは帰客(きかく)を悩(なやま)せん老夫(らうふ)しばらく帰程(きてい)
【注 「ゝ」は「〳〵」ヵ。明治19年の後印は「畏づ〳〵(振り仮名無し)」と有り。別本は「畏(お)づ畏(お)づ」と有り】
【右丁】
を導(みちびか)んと云て大 馰屐(くけき)【注①】を着け痩鳩(そうきう)杖をひき
巉巌を𨂻(ふ)み嶮岨(けんそ)を陟(のぼ)る事 飄( ひやう)々として坦途(たんと)
を行くが如く談笑(たんせう)して先 駆(く)す山路 遥(はる)かに
里 許(ばかり)を下て彼 渓(たに)水の《振り仮名:所 ̄に|ところに》到て即ち曰く此の流水
に随(したが)ひ下らば必ず白川の邑(ゆう)に到(いた)らむと云て
惨然(さんぜん)として別(わか)る且(しば)らく柴立(さいりつ)して幽か回歩(くはいほ)
を目送するに其 老歩(らうほ)の勇壮(ゆうさう)なる事 飄然(ひやうぜん)
として世を遁(のが)れて羽 化(け)して登仙(とうせん)する人
【左丁】
の如し且つ羨(うらや)み且(かつ)敬(けい)す自 恨(うら)む世を終るまで
此等の人に随逐(ずいちく)する事 能(あた)はざる事を添々【注②】と
して帰(かへ)り来て時々に彼の内観を濽修(せんしゆ)【注③】する
に纔(わす)かに三年に充(み)たざるに従前の衆病 薬餌(やくし)
を用ひず鍼灸(しんきう)を仮(か)らず任運に除遣(しよけん)す特(ひと)り
病を治するのみにあらず従前 手脚(しゆきやく)を挟(はさ)む
事得ず歯牙(しげ)を下す事得ざる底の難信(なんしん)
難透難解難入底の一着子根に透り底
【注① 「馰」は「駒」の誤ヵ】
【注② 明治19年の後印は「除々」とあり。別本は「徐々」とあり】
【注③ 「濽」は「潜」の誤ヵ】
【右丁】
に徹(てつ)して透得過して大 歓喜(くはんき)を得る者大凡
六七回其余の小 悟(ご)怡悦(いゑつ)《振り仮名:𨂻舞|とうふ》を忘るゝ者 数(かず)を
しらず玅喜の謂(いは)ゆる大悟十八度小悟数を
知(し)らずと初て知る寔(まこと)に我を欺(あざむ)かざる事を古(いに)
しへ二三緉の襪(べつ)を着くといへども足心常に
氷雪(ひやうせつ)の底に浸(ひた)すが如くなる者今既に三冬
厳寒(げんかん)の日と云へども襪せず炉(ろ)せず馬歯(ばし)既に
古稀(こき)を越(こ)へたりといへども指すべき半 点(てん)の小
【左丁】
病もまたなき事は彼(か)の神術(しんじゆつ)の余勲(よくん)ならんか
云(い)ふ事なかれ鵠林(こうりん)半死の残 喘(ぜん)多少無義
荒唐の妄談(もうたん)を記取して以て佗(た)の上流を誑惑(わうわく)【注①】
すと是 宿(つ)とに霊骨(れいこつ)有て一槌に既に成する
底の俊(しゆん)流の為めに設(もふ)くるにあらず《振り仮名:■鈍|ぐどん》【注②】予が
如く労病(ろうひやう)予に類ひする底看読して子細に
観察(くはんさつ)せば必ず少しき補(をぎな)ひならんか只恐る別
人の手を拍(はう)して大笑せん事を何か故ぞ馬 枯(こ)
【注① 「誑惑」の読みは「きょうわく」。振り仮名は「枉惑(おうわく)」との混同ヵ】
【注② 「■」は「癡」ヵ。振り仮名は「愚鈍(ぐどん)」との混同ヵ。明治19年の後印は「■鈍(ちどん)」とあり。別本は「癡鈍(ちどん)」とあり】
【右丁】
萁(き)を咬(か)んで午枕(こしん)に喧(かま)びすし
惟時
宝暦《振り仮名:《割書:丁》丑|七》孟正二十五蓂
京都寺町通六角下 ̄ル町
友松堂小川源兵衛刊行
【見返し】
【以下朱記】
史ヲ読ムノ法ハ一事ヲ記スル数事ヲ記スル二如カス一世之興敗ヲ観ル百世ノ
成衰ヲ洞観スルニ如カス経ハ則之ニ異ナリ数経ヲ解スル一経ヲ知ルニ如カス一経
ヲ知ル一句ヲ得ルニ如カス故ニ孔門一貫ヲ唱ヘ釈教文字ヲ立ズ然ラハ則経史ハ
別カ曰。否。一即一切、々々即一、得否如何ト顧而已此書本無瑕ナリ敢テ朱
豪ヲ吸テ盲評瞎論ス蓋シ大兄ノ速得ヲ欲スルナリ朱書若シ《見せ消ち:■■|》盲評
ナリト知レバ朱書ヲ去ルベシ此経若シ■【道ヵ】ニ中ラザレバ経ヲ捨ツベシ其狼籍【藉】ノ罪
ハ大兄ノ赦ス所ナリト信ス 漏舟再識
【右丁】
【前コマと同じ】
【見返し】
【左下隅の折り返しに墨書あり】
【裏表紙】
延寿撮要
【参照資料:国会図書館デジタルコレクション>日本衛生文庫>第6輯>延寿撮要 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935573/127】
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延寿撮要総目録
養生之総論
〇言行篇
一四時昼夜之動静
一導引按摩
一行立坐臥
一喜怒哀楽
一視聴笑語
一二便
一衣著
一浴沐
一抜白髪去爪甲
〇飲食篇
一飲食適中
一五味
一朝暮食法
一飲食之慎
一合食禁
一月禁
一飲酒之慎
一喫茶之慎
〇房事篇
一陰陽和合
一慾不可早
一泄精有限
一房事雑忌
一慾有所避
一交会忌日
一求子息
延寿撮要
養生之総論
黄帝問_二 ̄テ岐-伯_一 ̄ニ曰 ̄ク余聞 ̄ク上-古之人 ̄ハ春秋皆-度_二百-歳_一 ̄ニ而動
作不_レ衰 ̄ロヘ今時之人 ̄ハ年至_二 ̄テ半百_一 ̄ニ而動作皆衰 ̄ウ時-世異-耶(カ)
人-将 ̄タ失_レ ̄フ之 ̄ヲ耶岐-伯対 ̄テ曰 ̄ク上-古之人其知_レ ̄ル道 ̄ヲ者 ̄ハ法於陰
陽和-術数-食-飲有_レ節 ̄ツ起-居有_レ ̄リ常不_レ妾作_レ ̄ル労 ̄ヲ故 ̄ニ能 ̄ク形 ̄チ与
_レ神 俱(トモニ)而尽 ̄シ終 ̄ル其天-年今時之人不_レ然 ̄ンセ也以_レ ̄テ酒 ̄ヲ為_レ漿 ̄ト以
_レ妾為_レ常 ̄ト以慾謁_レ ̄シ其精_一 ̄ヲ以耗-散 ̄シ其-真 ̄ニ不_レ知 ̄ラ持-病不_レ時御
神務_レ ̄シテ快其心逆於生薬故半百衰 ̄テ也云云
右の本文をあんするに上古の人は無為無事
にして自然に養生の道に合す中古にいたり
て人の智慧盛にして善悪をわかち名利を専
とし衣服をかさり酒色をこのみ形神を労
す故に天年をつくさすしてはやくほろふ黄
帝の時さへかくのことしいはんや今の世
をや道に入といひてあなかち山林に入世を
離るのみにあらす朝夕世俗にましはりても
言行さへ道にかなひぬれはすなはち道に入
人也少壮の時より常に道をきかはいかてか
道にいたらさらむしかるに養生の道いろ〳〵
云は千言万句約していへは惟これ三事のみ養
神気遠色慾節飲食也此事易簡なれとも人これ
をきかすもし聞人あれとも其身に行ふこと
なし少壮の時気血盛実なるゆへに酒色を
恣にし身心を労しても忽ち所に病にいたら
さるによて寿算の損減するをしらす中年の
後漸おほえて命をのへん事を求む日暮て道
をいそくにことならす人の寿をいふに天元
六十地元六十人元六十三六百八十年の寿を生
れ得るといへとも摂養道にたかひぬれは日
日月々に損減して夭枉をいたす精気かたか
らさる者は天元の寿減す起居時あらす喜怒
常ならさる者は地元の寿減す飲食節あらさる
者は人元の寿減す故に保養の道少より壮に
いたり壮より老にいたるまてかくへから
す聖人治未乱而不治巳乱治未病而不治巳病云云
既に病と成て後はよく医療すといへとも全
くいゆる事かたし未病の時治療するを養
生者といふへし孫真人云人年四十以後美薬当
不離於身云云誠に中年の後は気血をやしなふ薬
常にもちふへし但平補の薬食を用へし峻補
を用へからす又強て補薬をこのむへからす
薬は邪をせめかたふく所を平にする者也生
れつかさる気力を薬にて生する事風なきに
波を起すなるへし洞神真経曰養生以不損為延
年の術云云補陽の剤を過し用れは真陰耗減して
瘡痬淋渇の疾生す補陰の剤を過し用れは胃
の気虚冷して飲食消しかたく大小便たも
ちかたし又衆病積聚起於虚云云中下焦虚するに
よて心腹満悶する事ありしかるに虫を殺し
積を消する薬を用て重て中気を耗損す又す
こし風寒の邪に感して発散の薬を服する
事度度に及へは腠理空疎にして自汗盗汗出て
外邪いよ〳〵入やすし又おもく邪に感せ
は皮膚にある時はやく薬を服して汗を発す
へきに其時怠て病骨髄に入て後薬を求む十
に一も愈事なし扁鵲桓公の故事思あはす
へし只邪の軽重をわかたん事を要とす是よ
りさき養生の書あまた異朝よりきたるとい
へとも俚俗の者たやすくわきまへかたし
故に古今の書を互見し萃を抜要を撮て倭俗の
辞にて是をのふ庶幾田父里嫗にいたるまて
あまねく此道を聞て常におこなひつヽしみ
身心安楽にして寿域にいたらむことを
〇言行篇
一四時昼夜の動静
夫人の一身は天地のことし頭のまろきは天
にかたとり足の方なるは地にかたとる眼は
日月毛髪骨肉は山林土石呼吸は風血液は河海四
肢は四時五臓は五行六腑は六律かくのことく
皆天地かたとるゆへに起居動静天地にし
たかふを要とす日出て動作し日入て休息
すへし又春夏は天地の気のほりうかひて草
木の花葉も武盛し虫獣も飛動す秋冬は天地
の気くたりしつみて草木も根に帰し鳥獣
も巣穴に入人も其ことく春夏は形をも動し神
気をもうかはしめ秋冬は形をも静にし神
気をもしつましむへしかくのことくなら
は気血和順にして筋骨の病生すへからす然る
に今の人夜は深更にいたるまていねすして
昼は巳午の時まてふす剰飲食して後又睡臥し
又春夏陽気の時室に入て昼寝し秋冬陰気の時
山野に出て鳥獣を猟て形を労し風寒をい
とはす是誠に諸病の生するはしめなり
〇春は夜臥て早くおきひろく歩して神気を生
せしむへし
〇夏夜は臥て早くおき気を散すへし怒ことな
かれ
〇秋は早く臥て早くおき神気を収歛せしむ
へし
〇冬は早く臥てをそくおき必日ののほるを
待へし志を伏せしむへし
〇夏もし甚寒く冬もし甚熱する事あるは
不正の気といひて天地の気のあしき也此時
外に出て是をあたれは時気をやむ也つゝし
むへし
〇炎暑の時日にあたる事なかれ涼しき所に坐
すへし又甚涼しく風のとをる所に居へ
〇冬寒の時外に出て寒にあたるへからす又炭
火にあたりて甚熱すへからす汗を出すへ
からす
〇冬夏によらす俄に大風震電して天地のくら
くなるは諸竜鬼神の行動する也其時外に出
て是にあたるへからす室に入て戸をとち
焼香して心をしつめ是をさくへし
一導引按摩
夜半の後或は五更或は時にかゝはらす無事
閑坐空腹の時帯をとき衣をくつろけ腹中の
濁気を微々に呵出する事九通或は五六通其後
心をしつめ目を閉て歯をたゝく事三十六遍
すへし神をあつめ牙根をかたくする也其後
大指の背にて目のまかしらましりを拭こと
九度すへし目を明にして風をさる也又鼻の
左右をおしする事七度次に両手を摩合せき
はめて熱せしめ口鼻の気を閉て面を摩すへ
し皺を去て面に光ある也又耳根耳輪を摩す
へし聾を治する也其後舌にて唇齗㬽をすり
津唾口中にみつれは呑こと三度一口を三次に
のみて三口を九次にのむへし虫を殺し虚
を補ふ也又常に唾を吐へからす唾は身のう
るほひと也腎の根源に帰る尤おしむへき
もの也又左右の手にて腰をうち又足のうら
涌泉の穴を摩すへし気血を流通し風湿を
去て腰脚の病なかるへし
一行立坐臥
〇朝起て床よりくたるには左の足を先にく
たすへし万事吉祥也
〇朝おきて口を瀬に先塩少許口中に入牙歯を
すり手の中に吐出して眼をあらひ其後温湯
にて面をあらひ口をすゝくへし常にかく
のことくすれは老年にいたりても牙根堅眼
明也但人によるへし血のすくなき虚眼には
よろしからす又常に目を開て面をあらふ
事なかれ目渋て明を失する也又常に熱湯に
て口を瀬へからす牙を損す
〇朝起て髪をけつるに櫛数百余おほくけつる
をよしとす又不時にも梳へし風をさり気
を流通し目を明にする也
〇朝起ていかる事なかれ
〇朝起て錢財をかそふへからす
〇朝起て空腹に尸を見事なかれ臭気鼻に入て
毒となるしゐて見へきならは酒をのみて後
みるへき也
〇早朝に空腹にして路に出るには生薑を煨し
て少許口中に含へし霧露におかされす又飯
を食し酒をのめは瘴気をさる也昔早朝に
霧の中に三人同行す一人は空腹一人は粥を食
す一人は酒をのむ空腹の者は死し粥を食す
る者はやみ酒をのむ者はすくやか也酒の性
は風寒霧露をふせき邪気をさる故也但大に
酔へからす
〇暮て形を労役する事なかれ
〇暮て霧露をみる事なかれ
〇臥床は高して湿気なきをよしとす又せはき
所に臥へし広けれは坐中に風生し寝中に
おそはるゝ事おほし
〇坐臥の辺に□あらはきひしく寒へし賊風
脳にあたれは頭風をやみ寿短
〇臥て風にあたる事なかれ扇をつかふ事な
かれ
〇寝所の頭の辺に火炉を置へからす頭重く目
赤く脳癰発する也
〇凡春夏は東に枕し秋冬は西に枕すへし常
に北に枕すへからす
〇菊花の枇頭痛を治し目を明にす一説にく
しくすれは脳冷と
〇枕の内に麝香の臍一つをけは邪悪の気をさ
けて悪夢を見すをそはれす
〇臥時雄黄一塊身に帯れはをそはれす又深山に
行に雄黄一塊五両のおもさ身に帯れは悪蛇ち
かつかす一説に雄黄を焼て衣を薫すれは毒
虫ちかつかす
〇灯を照して臥へからす神魂安からす
〇虎豹の皮の上に睡へからす神魂驚也又虎豹
の毛瘡に入は毒となる也
〇夜悪夢かたるへからす鬼神の事かたるへ
からす皆神魂安からす
〇星月の下に裸にて臥へからす
〇臥て魘てものいはすは足の跟并大指の甲の
辺をいたむほとかむへし高声に急に喚へ
からす灯を照すへからす初より灯あらは
其まゝをくへし
〇雷鳴の時仰に臥へからす
〇塚墓の傍に坐臥すへからす
〇夜路を行時歌叫ことなかれ
〇常に膝をかゝめてよこさまにふせは気力
をます覚時足をのふへし仰に足をのへて
臥はをそはるゝ事おほし又冬は足を伸
て臥へし一身俱に暖也
〇臥て両足をならへされは夢泄の患なし
〇寝起て風にあたる事なかれ
〇夜ふさんとする時塩湯にて口を瀬へし牙を
かたく腎気をます
〇眼さめて水をのみて又眠へからす腹中にか
たまりを生する也
〇飽満して即臥へからす積聚と也気痞となり
腰痛となる
〇汗おほく出て裸にて臥へからす中風となる
〇数日の旅行には屋の角によりて足をかゝ
めて臥へし次の日足すくます
〇昼眠へからす元気を損す但夜中寝さる事あ
りて神気労せは昼といふともしはし臥
へし
〇臥時必口を閉へし口を開て臥は気失し邪
悪口より入也
〇常に食後に温水にて口を瀬へし歯の疾なく
口臭からす熱湯にて瀬へからす歯を損する
なり
〇常に北に向て坐すへからす
〇夏冷床に坐臥すれは疝気を発す冷物を枕に
すれは眼くらくなる
〇夏熱したる石に尻かくれは瘡を生す
〇大寒大熱大風大霧の時は室に入て是を避へし
〇夏頭面を露にして臥へからす
〇冬頭面を覆て附へからす
〇冬夜臥て厚衣を覆て太暖なる時は睡覚て必
目を開て毒気を出すへしかくのことくすれ
は目の疾なし
〇久しく立は骨をやふる久しく行は筋をや
ふる久しく坐すれは肉をやふる久しく臥は
気をやふる
〇常に坐するに日に背事なかれ
一喜怒哀楽
〇喜楽きはむへからす魄をやふりて恍惚す
れは也
〇おほく怒へからす甚いかれは気逆し血乱
鬢髪焦筋痿て労となる食時いかれは食胸中
に滞る
〇常に思慮すくれは気胸中に鬱滞して痰とな
り腷噎翻胃となる食時思慮すれは食消し
かたし
〇久しく優れは肺気を損して労となり背
いたむ
〇女人憂思哭泣甚しけれは気結して月水少く
体痩内熱せしむ
〇悲哀の事あれは神魂離散す久けれは脇痛筋
痿皮毛悴面の色あしくなる也
〇恐怖甚しけれは筋骨痿弱し精をのつから
漏下す或は狂乱す
〇大驚は神魂安からす
〇甚愛すへからす甚憎へからす
一視聴笑語
〇眼に悪色を見事なかれ耳に悪声を聞事なか
れ
〇目を極て物を見事なかれ
〇遠を見事なかれ
〇久しく見事なかれ
〇細字を見事なかれ
〇日光を見事なかれ
〇金色白色赤色皆眼力を損す青黒の屏風眼によ
ろし
〇端午の日血物を見事なかれ
〇虹蜆に指さすへからす
〇魚鳥獣の油灯に点すれは眼を損す
〇早旦に悪事をきかは其方に向て三度唾はく
へし
〇灯火口にて吹けすへからす
〇麝香鹿茸に細虫あり齅へからす虫鼻に入脳
に入て害をなす
〇臘月の梅花齅へからす鼻痔を生す
〇おほく笑事なかれ神気傷て恍惚し或は
腹痛す
〇多言することなかれ気を損す
〇行歩の時語へからす気を失す語へき事あら
はしはらく足をととめてかたるへし
〇夜臥て言語すへからす
〇食時言事なかれ
〇臥てうたふ事なかれ
〇朔日に笑へからす晦日に歌へからす
〇冬至の日言事なかれ人の問事あらは答へし
自言事なかれ
一二便
〇凡飽満しては立て小便し飢ては坐して小便
すへし
〇小便をいきつめは足膝冷
〇大便をいきつめは腰痛眼渋
〇小便を忍れは淋病をやむ或は腰膝冷痺す
〇大便を忍れは痔をやむ
〇大小を忍て飲食し或は行歩し或は馬に
のれは胞転の病となり小腹痛大小便通せす
甚しけれは死す
〇日月星に対して大小便すへからす
〇夜西北に向て大小便すへからす
〇神仏の堂廟にて大小便すへからす
一衣著
〇春氷いまた□さる間は衣の上を薄く下を厚
くすへし春衣を薄くすれは食消せす頭痛
する也
〇凡衣は寒にさきたちて著熱にさきたちて
ぬくへし
〇衣は甚厚をこのます皮膚甚暖なれは汗出
やすくして却て邪に感しやすし又はな
はた薄衣にして皮膚冷れは肺邪を受て清涕
出甚しけれは咳となる
〇汗大に出は衣をかふへししめりたる衣を久
しく著すれは瘡疥生し大小便利せす
〇頭を露にして風寒にあたるへからす咳痰
頭風を発す又厚綿にて厚綿にて頭をつゝむへからす
脳中熱して頭痛眩暈する也
〇酒に酔汗出て韈を脱して風にあたれは脚
気中風となる
一沐浴
〇頻に髪あらふへからす形痩体重なる也
〇頻にゆあふる事なかれ血凝気散する也
〇飽満してかみあらふ事なかれ飢てゆあふ
る事なかれ
〇沐浴しては少飲食を進へししからすして臥
は心虚して夢おほく汗出也
〇沐浴していまたかはかさるに眠へからす
〇午より後髪あらふへからす
〇目疾の人かみあらふへからす常にしけく
髪あらへは目を損す
〇女人月水の時髪あらふへからす
〇汗出て冷水にて浴する事なかれ
〇夫婦同室にて沐浴すへからす
〇酔いまた醒さるに冷水にて面を洗は面に瘡
生す
〇冷水にて頭をあらへは淋病をやむ
〇ふさんとする時温湯にて足を洗へし常にか
くのことくすれは脚気の疾なし
〇刀をときたる水にて手をあらへは瘡癬を生
す
〇遠行に熱する時冷水にて面をあらへは鳥皯
を生す
〇炎暑の時冷水にて足洗へからす
〇雪中に行歩し来て熱湯にて足を洗へからす
〇冬寒にあたりて寒いまた散せさるに熱湯
にて浴すへからす
〇毎月晦日に浴し朔日に沐すへし万事吉祥
なり
〇正月一日五木湯にて浴すへし髪黒く又疾を
去五木とは桃柳桑槐楮也一説には青木香を五
木と云と元日に小便を取て腋気をあらへは
愈也
八日沐浴すれは災難を去
十日亥の時沐浴すれは疾を去
〇二月六日八日沐浴斎戒すへし
八日戌の時沐浴すれは身軽し
上の丙の日髪あらへは疾愈
〇三月六日申の時頭を洗は官に利あり
六日酉の時沐浴すれは厄を禳
七日寅の時の浴酉の時の浴皆財を得る也
廿七日沐浴すへし
〇四月四日未の時沐浴すへし
七日髪あらへは大に富
九日酉の時浴すれは命をのふ
〇五月一日日中に沐浴すへし身光ありて万事
吉祥也
〇六月一日髪あらへは疾を去災を禳
六日沐浴斎戒すへし一説に六月六日沐浴すれ
は腋気生すと
七日沐浴すれは疾を去災を禳
八日廿一日廿七日右に同
〇七月二十二日髪あらへは髪白からす
二十五日浴すれは長命也又二十五日早食の時
沐浴すれは道に進へし
立秋の日浴する事なかれ皮膚あれかはく也
〇八月三日浴すへし
七日髪あらへは聡明也
廿日浴すへし
廿ニ日卯の時沐浴すれは災を去
〇九月廿日沐浴斎戒すれは万事吉祥也
廿日鷄三唱の時沐浴すへし
廿八日浴すへし
〇十月一日沐浴すへし
十八日鷄初鳴の時沐浴すれは長命也
〇十一月十一日沐浴する事なかれ
十五日夜半の後沐浴すれは憂畏の事なし
十六日休浴へし
〇十二月一日沐浴すへし
二日浴すれは災を去
八日沐浴すれは罪をのかる
十三日夜半に沐浴すへし
十五日沐浴すれは災を去
廿三日髪あらふへし
〇枸杞湯にて沐浴する日
正月一日 二月二日 三月三日
四月八日 五月一日 六月廿七日
七月十一日 八月八日 九月廿一日
十月十四日 十一月十一日 十二月三十日
毎月此日枸杞の煎湯にて沐浴すれは身光沢に
して無病無老也
一抜白髪去爪甲
正月四日早晨に白髪を抜へし
甲子の日白髪を抜て晦日に井華水をくみて
服すれは鬚髪白からす
寅の日白髪を焼へし
〇二月八日白髪を抜へし
〇三月十一日十三日右に同
〇四月十六日右に同
〇六月十九日廿四日右に同
〇七月廿八日右に同
〇八月十九日右に同
〇九月十六日右に同
〇十月十日十三日右に同
十一月十日十一日右に同
十二月七日右に同
右の日鬢髪の白をぬけはなかく生せす
〇凡寅の日手の爪をきり午の日足の爪をきる
へし
〇飲食篇
一飲食適中
扁鵲曰安身之本必資於食不知食宜者不足以存
生云云
世俗右のたくひを見て命は食にありと云て
強て食するをよしとす大なる誤也あかす飢
さる程に食すへし又食物の宜とよろしか
らさるとを弁て益なき物をはおほく食すへ
からす禍従口出病従口入云云
一五味
経曰謹和五味骨正筋柔気血以流腠理以密長有
天命
右の本文のことく五味を和して用へし一味
二味偏に濃をきらふへし
酸おほけれは脾を傷て肉䐢
鹹おほけれは心を傷て血泣色変
甘おほけれは腎を傷て骨痛歯落
苦おほけれは肺を傷て皮枯毛落
辛おほけれは肝を傷て筋急爪枯
〇時節をかんかへて味に増減すへし
春七十二日は酸を省して甘を増
夏七十二日は苦を省して辛を増
秋七十二日は辛を省して酸を増
冬七十二日は鹹を省して苦を増
四李各十八日は甘を省して鹹を増
是常食の法也もし病あらは変に応すへし
一朝暮食法
〇黒豆緊小にして円者毎日早晨に井華水にて
三七粒呑へし老にいたりても視聴をとろへ
す
〇早朝に粥を食すへし胃の気暢津液生す
〇常に食後手にて面及腹を摩すへし津液流通
せしむ
〇脕飯をひかゆれは命なかし
〇脕飯の後庭に出て静に歩すへし
一飲食の慎
〇少飢時早く食を進へし甚飢れは胃の気耗
減もし甚飢事ありて後食せは飽まて食すへ
からす胃の気よはき故に食消しかたし
〇生冷の者をおほく食すへからす
〇炙物□物煮物甚あつきをはしはらくさまし
て食すへし甚熱すれは歯を損し血脈を
やふる
〇魚鳥獣の肉を食し畢ては必口を瀬へし歯の
むしはまむことを恐るれは也
〇肉物に人の汗かゝりたるをは食すへからす
疔瘡を生する也
〇自死の者の肉を食すれは疔瘡生す
〇諸の脯米の中に置たるは毒あり
〇一切の肉物に銅器を蓋へからす汗の滴かゝ
れは毒となる
〇銅器の煎湯飲へからす声を損す
〇麺を煮たる湯飲へからす麺毒湯にある也麺
を食して毒にあたらは萊菔を食して解す
へし
〇華瓶に華をたてたる水毒あり
〇吐逆の後冷水を飲へからす消渇する也
〇乱髪食物に入を食すれは瘕となる
〇茅屋の漏水脯にかゝるを食すれは瘕となる
〇簷の雨萊にかゝれは毒あり
〇鼠猫犬蜂等のけかしたる物を食すれは悪
瘡生す
〇生菓久しくなりて損したるをは食すへ
からす
〇蕈紋なく毛なく并煮て熟せさる皆毒あり
〇瓜頭の二あると帯のにあると水に沈と皆毒
あり
〇冬瓜霜かゝりて後毒あり
〇瓠子脚気に禁す
〇胡瓜脚気虚腫に甚禁す
〇熟瓜眼をくらくす老人に禁す瓤に毒あり
〇茄子甚冷にして瘡を発し目を損す虚冷の
人食すへからす
〇芹赤色なるは毒あり
〇自己の本命の者の肉并父母の本命の肉食すへ
からす魂魄飛揚する也
〇一切の脳毒あり
〇一切の魚の尾毒あり
〇下痢の人魚を食して病甚は危し
〇魚鮓の内に誤て髪入たるを食すれは人を殺
す
〇鯉の頭に毒あり又背の両筋の黒血毒也
〇鯉病後に食すへからす腹中にかたまり物あ
る人食すへからす
〇鯽脚気に禁す春鯽の頭を食すへからす
〇鮎鬚の赤と目の赤と毒あり
〇河㹠大毒あり誤て食すれは人を殺す
〇鷄子風を動し気を動す食すへからす
〇黒鶏の首の白き毒あり
〇鷄雉丙午の日食すへからす
〇鶉四月以前食すへからす
〇夏は陰気内に伏す冷物を食すへからす冷物
を食すれは霍乱する也殊に夏氷を食すへか
らす
〇五六月沢中の停水飲へからす其内に魚鼈の精
ありてのみいるれは鼈瘕となる
〇夏暑にあたり来て水を飲へからす
〇冬寒にあたり来て熱湯を飲へからす先暖な
る室入てしつかに寒を散すへしいまた散せ
さるにあはてゝ熱湯をのみ熱物を食し
及温湯に入て浴すへからす
〇日蝕月蝕の時飲食すれは牙そ損す
一合食禁
〇兎肉と白鷄と同食すれは黄病を生す
〇兎肉と生薑と同食すれは霍乱す
〇兎肉と芥子と同食すへからす
〇猪肉と生薑と同食すれは大風を発す
〇猪肉と蕎麦と同食すれは熱風を発して眉鬚
落
〇馬肉と生薑と同食すれは咳嗽を生す
〇牛肉と韮と同食すれは黄病を発す
〇鶏卵と韮と同食すれは瘡を生す
〇鶏卵と魚肉と同食すれは心中に瘕を生す
〇野鷄と鮎魚と同食すれは癩瘡を生す
〇野鷄と鯽魚と同食すれは瘡を生す
〇雉と菌と同食すれは痔を生す
〇雉と胡桃と同食すれは痔下血心痛を発す
〇雉と蕎麦と同食すれは寸白虫を生す
〇鴨と胡桃と同食すへからす
〇鶉と菌と同食すれは痔を生す
〇鯉と紫蘇と同食すれは癰疽を生す
〇鯉と小豆と同食すへからす
〇鯉と麦醬と同食すれは咽に瘡を生す
〇鯽と芥子芥葉同食すれは黄腫す
〇鯽と糖と同食すれは疳を生す
〇鮓と小豆と同食すれは消渇す
〇魚膾と蓼と同食すへからす
〇魚膾と大蒜と同食すへからす
〇小蝦と糖蜜と同食すれは暴下す
〇糖と韮と同食すへからす
〇糖と竹筍と同食すへからす
〇楊梅と生葱と同食すへからす
〇棗と生葱と同食すへからす
〇棗と蜜と同食すへからす
〇枇杷と炙肉熱麺と同食すれは黄疽を発す
〇柿と蟹と同食すへからす
〇栗と生肉と同食すへからす
〇薺菜と麺と同食すへからす
〇茶と韮と同食すれは耳聾
〇麺を食して後酒を飲へからすもし飲へくは先
山椒の粉の入たる酒一盞のめは害をなさす
〇白酒を飲ては諸の甘物をいむへし
〇白酒を飲て韮を食すれは病増す
〇白酒と生肉と同食すれは寸白虫を生す
〇酒後に紅柿を食すれは心痛を発す
〇酒後に芥子を食すれは筋骨をよはくす
〇酒後に胡桃を食すれは嘔血せしむ
〇粥を食して後白湯をのめは淋病を患
一月禁
〇正月 虎 狸 生蓼 生葱 梨
〇二月 兎 狐 鶏卵 蓼子 梨 蒜
初九日魚をすへからす
庚寅日魚を食すへからす一説には三月庚寅と
〇三月鶏卵葫蓼鳥獣之五臓百草一説には三月三
日鳥獣之五臓并一切菓菜五辛芹等を食すへ
からすと
〇四月 鷄 雉 鱔 蛇 五辛
初八日百草を食すへからす
〇五月 鹿 韮 肥濃 煮餅
端午日一切の菜并鯉魚を食すへからす
〇六月 羊 雁 鴨 沢水
〇七月 雁 生蜜 蒪菜 □実
〇八月 鷄 雉 蟹 生蜜 生薑 葫 芹菜 生菓
〇九月 犬 蟹 生薑 甜瓜
〇十月 熊 猪 薤 山椒
〇十一月亀 鰕 吽一切著甲之物陳脯鴛鴦生菜薤
〇十二月 牛 猪 亀 蟹 著甲之物 鱔 薤 葵菜
一飲酒之慎
凡酒の性は熱のほる事をこのむ気を散風寒
霧露の気をふせくおほく用ひ久しく用れは
腸腐胃を燗かし髄を費し筋を弱神を傷寿
を短す素問曰酒気盛而慓悍腎気日衰云云常に酒
を過す人は経脈虚して手足力なく腎気衰也
〇神仙に酒を禁せさる事は気めくらす故也
しかれとも過し用へからす
〇卯の時の酒のむ事なかれ
〇酔て即臥ことなかれ瘡腫積聚を生する也
〇酔て食を過し気をいかる事なかれ瘡を生
する也
〇酔中に冷水をのめは手顫也
〇酔臥て風にあたれは酒風となる
〇酔たる時并汗出時人あふかるゝ事なかれ偏
枯の中風となる
〇銅器に酒を入て一夜過たるをはのむへから
す
〇葡萄の架の下にて酒のむへからす
〇晦日に大に酔ことなかれ
〇暮年に大に酔事なかれ
一喫茶之慎
茶の性は微寒気を下し頭目を清し痰熱
をさり渇をやめ食を消し小便を利し眠
をすくなくす熱飲に宜し冷飲すれは痰を
聚
少食するに宜し多飲すれは身の脂を去て
痩也下焦虚冷の人服すへからす
〇空心の茶尤禁すへし殊に塩を加れは直に腎
に透て虚冷せしむ只食後に一二盞用れは食熱
を去て脾胃にあたらす
〇精汁もりやすき人小便たもちなき人茶を禁
すへし
〇食後に茶をのまされは食消しかたく腹中か
たまりを生す
〇酒後茶をのまされは眼黒花を生すと又一説
に酒に酔ていまた醒さるに大に渇するに
よて茶をのめは酒毒引て腎に入腰脚重痺
小腹冷て痛と
〇房事篇
一陰陽和合
黄帝曰一陰一陽之謂道偏陰偏陽之謂疾
右の本文のことく夫婦は天地のことし和合
の道なけれは春夏ありて秋冬なきかこと
し弧陽独陰なれは心動して労病となる又夫
婦の交合は子孫を相続せんかため也しかる
に世俗遊興の道になして乱に精をもらし
すつる事尤おしき事なり腎精は一身の根
源たり根絶すれは茎葉かふくことく腎精虚
耗すれは形体憔悴して年にさきたちて老す
甚しけれは筋骨痿弱して諸病のはしめ
となる既に病と成て後補腎薬を用て治して
十に一二を救ことまれ也未病の時腎精をた
もつ事養生の第一也古人云服薬千朝不如一夜
独宿
一慾不可早
古の法に男子は十六にして精通すといへと
も必三十にして娶女子は十四にして月水至
といへとも必廿にして嫁すと近代は十六
十四の数にさへいたらすして嫁娶をなす
故に男子は腎の源虚耗して労瘵となり女
子は血の道破損して帯下の病となる
一泄精有限
古人の法に人年廿なる者は四日に一度もら
せ卅なる者は八日に一度もらせ四十なる者
は十六日に一度もらせ五十なる者は廿日に一
度もらせ六十以上は精を閉て泄すへからす
是大法也生つきよはき人は少壮の時も稀に
泄すへし形気盛にてよく飲食するものは六
十の後もしゐてこらふへからす久しく
もらさゝれは瘡腫を生す必年の数にかゝは
るへからす只人の衰旺にしたかふへし形気
盛実の人ありて七十の後も交合を絶せす然
して身病なく剰子を生する事あり是は天元
の寿過度にして腎気余ある人也常の人に
あらす然に常の人それにならひて年老て交
合をこのみ命頓に絶す悲哉
〇真陰精汁はたとへは灯盞の油のことし一度
もらさされは灯火の油を増かことし
〇精汁をもらして女人にあたふれは子を生
す我身にとむれは我命をつく子孫を生せん
ための交合さへ強て行へは虚羸して病とな
るいはんやむなしく遊興にすつる事お
しむへきかな
〇和合の道ありといふともみたりに精をもら
すへからす又既にもれんとするにいたり
ておしてたもては本へもかへらす中途に
滞て便毒瘡腫なる
一房事雑忌
〇飽食して房事すれは血気乱て便血し腹痛す
〇大に酔て房事すれは血脈みたれ男は腎水耗減
し女は月水滞て悪瘡を生す
〇怒て気いまたしつまらさるに房事すれは瘡
癤を生す
〇恐懼して房事すれは自汗盗汗出て労病となる
〇遠行労倦して房事すれは形痩つかれて労
となる
〇小便をこらへて房事すれは淋病を生す
〇灯火を照して房事すれは命を損す
〇房事して汗出風にあたれは内風となる
〇竜能麝香の入たる薬を服して房事すれは
真気耗散す
〇陰茎なゆるによて丹石の剤を服して房事
すれは腎水枯竭て消渇淋病となるみず
〇おほく葫を食して房事すれは肝気を傷て
目をやむ也
〇眼疾の人房事すれは内障となる
〇時疾いまた平愈せさるに房事すれは舌出て
死す
〇金瘡いまた全愈さるに房事すれは血乱て
瘡の口やふれ血なかる或は□となり反張と
なる
〇女人月水いまた絶せさるに房事すれは男女
ともに一身黄色にして痩或は皮膚白駁を生す
一慾有所避
〇大寒 大熱 大風 大雨 大霧 雷電 虹蜆
地動 日蝕 月蝕 以上此時房事すへからす
〇日月星の下神仏の堂廟竃厠の傍塚墓の辺にて
房事すへからすおかす者は人神を損し寿
算を減すもし胎をうけれは其子不仁不孝に
して病おほし
一交会忌日
朔日 上弦《割書:八日|》 望日《割書:十五日|》下弦《割書:二十三|日》二十八日
晦日 庚申 甲子 丙丁 本命の日
〇正月 立春 三日 十四日 十五日 十六日
〇二月 二日 春分
〇三月 九日
〇四月 立夏 四日 八日 四月は皆慎へし
〇五月 夏至 五日 六日 七日 十五日
十六日 十七日 廿五日 廿六日 廿七日
五月は斎戒して房事を絶へし
〇六月 十六日
〇七月 立秋
〇八月 秋分
〇九月 廿日
〇十月 一日《割書:一本には|十日》 立冬十月は専慎へし
〇十一月 冬至 廿五日
〇十二月 十日 二十日
以上の日房事犯へからす違反や婚姻をや
一求子息
凡子の生する事夫婦無病にして血気和順な
れはよく懐妊す男子常に乱に房労して精気
堅固ならす或は常に漏精し或は夢もり
或は精汁うすくして水のことくひえて氷
のことくなれは孕ことなし又女人気血虚
羸して月水滞子宮に閉塞て妊ことなし壮
盛無病の女に交会して子を求へし
〇月水既に止て一日より三日にいたるまで子
門ひらく此時交合すれははらむ事あり四日
を過してはましわりてもはらむ事なし
又一説に月水止て後一日三日五日に胎をうく
れは男となり二日四日六日に胎をうくれは
女となると
〇既に懐妊しては房事をとをくすへし臨
月におかせは或は横生逆産となり或は胎
死となる
〇懐妊の間は辛辣の物を食せす恚怒の心を生
せす常に善言を聞善事を見善事を行ぬへし
かくのことくなれは子生てかならす福寿
忠孝也
此書者《割書:僕|》在関左之日偏州下邑之者不知養生之道
不幸而致夭横故愛憐之心最深仍検査延寿之数供聚
枢要之語名之以延寿撮要為便見聞以倭字書之旋
洛之後此一巻沗歴
□覧何幸加焉伏希広領華夷普授士民人人長保仙
寿規祝不浅也謹以記歳月云爾
慶長巳亥立夏之節 法印玄朔
【白紙】
【裏表紙】
【帙表紙】
【題箋】
《題:食事養生解》
【参照資料:国会図書館デジタルコレクション>日本衛生文庫>第2輯>食事戒 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935569/102】
●模範解答付きコレクションは、国会図書館が公開する翻刻本を参照資料として、自分で答え合わせをしながら翻刻を進めることができるコレクションです。
●参照する翻刻本では、かなを漢字にしたり、濁点や句読点を付加するなど、読みやすさのために原書と異なる表記をしている場合があります。入力にあたっては、「みんなで翻刻」ガイドラインの規則に従い、原書の表記を優先し、見たままに翻刻して下さい。
●参照する翻刻本と原書の間で、版の違いなどにより文章や構成が相違する場合があります。この場合も原書の状況を優先して翻刻して下さい。
【帙背題箋】
食事養生解 一冊
【帙表紙題箋】
《題:食事養生解》
【ラベル:京大図書/富士川本/シ/202】
【ラベル:富士川本/シ/202】
【表紙題箋】
《題:食事養生解》
【前見返し】
【右頁】
蘭山百寿翁編《割書:版元》須原屋茂兵衛
《題:食婬養生解(しよくいんやうじやうかい) 全》
《割書:クイモノト、マジワリニテ、マメニナガイキスルヲ、サトスフミ》【食淫養生解の左ルビ】
食事と媱事は人間の平生に有て命を保(たも)ち子孫を相続する
根本(もと)なり能(よく)度(のり)を守る人は無病(むびやう)にして百/歳(さい)の寿をたもつ
しか有といへ共もし人/欲(よく)に任せて度を失ふ時は忽(たちまち)病(びやう)しん
或は夭死(わかしに)をなす近世の人々とかく病身と夭死(わかしに)の多(おほ)く小児(ことも)
虚弱(よわき)なるは全く媱食をゆるがせに心得て度を失ふ故なりと
かや此/書(ほん)は人の生を養ひ寿(いのち)を天然(てんねん)に終らしむる実に至宝(しいはう)の書也
【左頁】
自叙【印】
人_之夭_寿 ̄ハ也天《割書:也》。而得 ̄テ_二 天-然 ̄ヲ_一斃 ̄ルヽ_者 ̄ハ
命_也焉。孟-子 ̄ノ曰。知_レ命 ̄ヲ者 ̄ハ不_レ立_二乎
巌-牆_之_下 ̄ニ_一。桎-梏 ̄シテ死 ̄スル_者 ̄ハ非 ̄スト_二正-命 ̄ニ也。
以 ̄テ_レ是 ̄ヲ観 ̄レハ_レ此 ̄ヲ。不 ̄シテ_レ養_二其_身 ̄ヲ_一疾 ̄メル_者何 ̄ゾ問 ̄ン_二
正-命 ̄ヲ_一乎。上-古 ̄ハ養 ̄フニ_レ身 ̄ヲ以 ̄ス_二無-欲 ̄ヲ_一。故 ̄ニ有_下
【右頁】
煉_二紅-雪 ̄ヲ_一之_僊_上。今 ̄ヤ_也損 ̄フニ_レ身 ̄ヲ以 ̄ス_二酒_色 ̄ヲ_一。
故 ̄ニ羨 ̄ム_下歴_二 六-甲 ̄ヲ_一之老 ̄ヲ_上。非_命【非-命ヵ】豈 ̄ニ啻 ̄ニ巌-
牆桎-梏 ̄ノミナラン哉。《割書:下-愚》思 ̄テ_レ之 ̄ヲ不_レ止。蛍-雪
之間。誌 ̄シテ_二其_意 ̄ヲ_一為 ̄ル_二小_冊 ̄ヲ_一。【小-冊ヵ】一 ̄ハ曰_二食_事_
戒 ̄ト_一。一 ̄ハ曰_二婬_事_戒 ̄ト_一。非_二臆-説私- 論 ̄ニ_一。総 ̄テ
出 ̄タリ_二于儒-医_之_経 ̄ニ_一。自-他予 ̄シメ以 ̄テ_レ道 ̄ヲ制 ̄シ
【左頁】
_レ情 ̄ヲ。無 ̄ク_二嗜-欲虚 ̄シ_レ胃 ̄ヲ。房-欲虚 ̄スル_レ腎 ̄ヲ之弊_一。
而保 ̄チ_二 上_寿百_年 ̄ヲ_一【上-寿百-年ヵ】以 ̄テ_二 天-然 ̄ヲ_一終 ̄ラハ_レ身 ̄ヲ。乃 ̄チ
何 ̄ノ_福 ̄カ如 ̄ンヤト_レ之 ̄ニ乎云 ̄コト_爾 ̄リ
文化乙亥孟夏
高井伴寛述
【角印:伴寛】【角印:蘭山】
【右頁白紙】
【左頁】
食事戒 編目
(一)往古(わうご)食物(しよくもつ)素朴(そはく)なる事
(二)海浜(かいひん)に在(ある)もの山谷(さんこく)の長寿(ちやうじゆ)に及(およば)ざる事
(三)酒を飲(のむ)戒(いましめ) (四)食養生(しよくようじやう)常(つね)にある事
(五)古(いにしへ)食(しよく)を以(もつ)て病(やまひ)を治(おさむ)る事
(六)脾胃(ひゐ)磨(いしうす)のごとき弁(べん)(七)食傷(しよくしやう)脾胃虚(ひゐきよ)の別(べつ)
(八)五味(ごみ)に因(よつ)て五蔵を傷(やぶ)る弁(べん)
【(漢数字)は丸数字】
(九)聖人(せいじん)食事(しよくじ)の慎(つゝしみ)論語(ろんご)を証(しよう)す
(十)毎日(まいにち)の食(しよく)を節(せつ)【左ルビ「ほどよく」】にすべき事
(十一)乳味(にうみ)を以(もつ)て子(こ)を育(そだつ)る心得(こゝろえ)
(十二)婦人(ふじん)妊娠(にんしん)食物(しよくもつ)の禁(いましめ)
(十三)四足(しそく)を食(しよく)する戒(いましめ)
(十四)異薬(ゐやく)奇品(きひん)を用(もちゆ)べからざる戒(いましめ)
(十五)諸食(しよしよく)喰合(くいあわせ)品目(ひんもく)
目終
【左頁】
食事戒
東武 高井供寛思明著
天地(てんち)生類(しやうるい)を蒸出(むしいだ)し。又/是(これ)が為(ため)に其(その)食(しよく)を生(しやう)ぜ
しむ。造化(ざうくわ)の濃(こまやか)なる不測(ふしき)自然(しせん)の至妙(しめう)也。されば
乾坤(けんこん)のあいだに生(しやう)ずる人畜(じんちく)。鳥獣(てうじう)【左ルビ「とりけもの」】魚鼈(ぎよべつ)【左ルビ「うほかめ」】より
蚤(のみ)蚊(か)蟻(あり)螻(けら)の細小(こまか)なるまて。其/生(しやう)あればその
食(しよく)あり。しかうして食(しよく)は性命(せいめい)【左ルビ「いのち」】を保(たも)つの根元(もと)。食(しよく)
すれば活(いき)。食(しよく)せざれば死(し)す。実(じつ)に死生(しせい)の預(あづか)る所。食(しよく)
より大なるはなし。いにしへ山谷(さんこく)に栖(すめ)るは果実(くわじつ)【左ルビ「このみ」】を
採(とり)。鳥獣(てうじう)を獲(え)て食(しよく)とし。海浜(かいひん)【左ルビ「うみはま」】に住(すめ)るは海藻(かいさう)を
取/魚鼈(ぎよべつ)を漁(すなどり)て食(しよく)とす。人みな飢(うへ)来て食(くら)ひ
渇(かつ)して飲(のみ)。飽(あき)て止(やむ)。珍羞(ちんしう)美味(びみ)の饌(せん)なく。宿食(しゆくしよく)
飽満(はうまん)の欲(よく)なし。人寿(にんしゆ)百/歳(さい)天年をもつて
終(おふ)。聖賢(せいけん)つぎ起(おこり)て民(たみ)に火食(くわしよく)することを教(おし)へ
【左頁】
給ひ。はじめて食物(しよくもつ)を烹焼(にやき)せり。はるかに下(くだ)り
世の中/奢美(しやび)【左ルビ「おごり」】にして。人の食物(しよくもつ)も時とともに
おしうつり。卑賎(ひせん)【左ルビ「いやしき」】も厚味(かうみ)を思ひ。匹夫(ひつぶ)も美(び)
食(しよく)に飽(あく)。いにしゑの素朴(そはく)なること。殷(ゐん)の紂王(ちうわう)
象牙(ざうげ)の箸(はし)を用(もちひ)られしを見て。賢臣(けんしん)奢(しや)【左ルビ「おごり」】
侈(し)なりと諫(いさめ)止(とゞ)む。今(いま)をもつて思へは。一天/万(ばん)
乗(じよう)の君(きみ)として。箸(はし)に象牙(ざうげ)を用(もち)ひたりとて。
【右頁】
いかばかりのこととせん。しかれども君子(くんし)は遠(とを)きを
慮(おもんはかり)て是(これ)を制(せい)す。其ながれはたして上を学(まな)ぶ
下におし移(うつ)り。銀(しろかね)をのべ。一角(うんこふる)を磨(すり)て箸(はし)とする
にいたる。徒然草(つれ〳〵ぐさ)に平宣時朝臣(たいらののぶときあそん)。最明寺殿(さいみやうじどの)の
許(もと)へ夜話(よばなし)に来給ひ。酒の肴(さかな)なかりしに。下々を
起(おこ)さんもとて。みづから台所(だいどころ)に至(いた)り。棚(たな)の隅(すみ)より。
小土器(こがわらけ)に味噌(みそ)のつきてありしを尋得(たづねえ)て。究竟(くつきやう)
【左頁】
なりとて持(もち)来/肴(さかな)にして心よく数献(すこん)酌(くま)れしと
あれば。此/時代(じだい)すら今のごとくにはあらざりし。人々
厚味(かうみ)美饌(びせん)を用(もち)るに至(いた)つて。却(かへつ)て食(しよく)に傷(やぶ)ら
れ。短折夭寿(たんせつようじゆ)【短折夭寿の左ルビ「わかじに」】の憂(うれへ)多(おほ)し。されば鳥獣(てうじう)魚鼈(ぎよべつ)
は。古(いにしへ)も今も同(おな)じく。時とともにおしうつる
奢(おごり)もなき程に。山に行斃(ゆきたをれ)たる獣(けもの)もなく。
海(うみ)に浮流(うきなが)れたる魚(うほ)もあらず。ひとへに猟人(かりうど)
【右頁】
の矢炮(しはう)【左ルビ「やたま」】漁者(ぎよしや)の釣網(かうもう)【左ルビ「つりばりあみ」】に遇(あふ)て命(いのち)を殞(おと)す。人と
して命(いのち)を保(たも)つべき食(しよく)の為に。かゑつて命を
縮(ちゞむ)るは。鳥獣(てうじう)にも劣(おと)れりと。魚介(ぎよかい)もこれを
笑(わらふ)べし。慎(つゝしま)ざるべけんや
○今も深山幽谷(しんさんゆうこく)に住(すみ)。淡薄(たんはく)の麁食(そしよく)して能(よく)
動(はたら)くものは。身/健(すくやか)にして病(やまひ)なく。海辺(かいへん)に在(あつ)て
厚味(あつみ)の魚(うほ)に飽(あく)ものは。こゝに及(およば)ず。貴人(きにん)高位(かうゐ)
【左頁】
の美味(びみ)を嗜(たしめ)るは必(かなら)ず病(やまひ)多(おほ)くして。寿(じゆ)を長(なが)く
すること希(まれ)也。さればにや。諺(ことわざ)にも。長寿(ちやうじゆ)の人は
山に在(あり)といへり。いにしへの仙術(せんじゆつ)を得(え)て。虚空(こくう)に
飛行(ひぎやう)し。数(す)百歳の寿(ことぶき)を保(たも)てるも。先(まづ)山に入(いつ)て
修行(しゆぎやう)す。仙(せん)は僊(せん)也。人/遷(うつり)て山に入(いる)の義(ぎ)也/穀(こく)を
食(しよく)せず木(き)の実(み)榧(かや)の実(み)を食(しよく)とし。草露(さうろ)に咽喉(のんど)
を潤(うるほ)す。漸々(ぜん〳〵)慣(ならつ)て性(せい)となり。意(こゝろ)を煉(ねる)に随(したがつ)て。
【右頁】
霧(きり)【雾】霞(かすみ)を食(しよく)し宇宙(うちう)【左ルビ「おほそら」】の気(き)を食(くらつ)て飢(うへ)ず脱然(だつぜん)と
して化(け)して仙(せん)となる。神仙伝(しんせんてん)列仙伝(れつせんでん)等(とう)に出る
所/皆(みな)是(これ)也。今/適(たま〳〵)木食(もくじき)の僧(そう)が。身心(しん〳〵)堅固(けんご)に長(ちやう)
寿(じゆ)するを見るごときこそあれかゝる捨身(しやしん)の修(しゆ)
行(ぎやう)を遂(とぐ)る人のなければ。後(のち)の世(よ)に絶(たえ)て仙(せん)と云
ものなし
○夏(か)の禹王(うわう)の時/儀狄(ぎてき)と云人/始(はじめ)て酒(さけ)を製(せい)
【左頁】
せしより。数千歳(すせんさい)の今(いま)に至(いたつ)て。和漢(わかん)貴賤(きせん)と
なく。是(これ)を嗜(たしむ)もの多(おほ)し。少しく用(もち)ひて常(つね)に気血(きけつ)
を廻(めぐら)し。暑(しよ)を凌(しの)ぎ寒(かん)を避(さけ)。憂(うれへ)を忘(わす)れ心を楽(たのしま)
しむ。慶事(けいじ)に用(もち)ひて席(せき)を賑(にぎわ)し。交歓(かうくわん)に用(もちひ)て
親(したしみ)を深(ふか)ふし。又/老者(らうしや)【左ルビ「としより」】に益(ゑき)あり。前(ぜん)漢(かん)書(じよ)食(しよく)貨(くわ)
志(し)に。塩(しほ)は食肴(しよくかう)の将(しやう)。酒(さけ)は百薬(ひやくやく)の長(ちやう)たりといへり。
しかるに嗜(たしみ)て量(りやう)【左ルビ「はかり」】を過(すご)し。飲(のみ)て度(と)を超(こゆ)るときは。
【右頁】
酔狂(すいきやう)【左ルビ「えいくるふ」】の失(しつ)少(すくな)しとせず。是(これ)が為(ため)に公務(こうむ)を怠(おこたり)。事を
差(たが)ひ。色情(しきじやう)を熾(さかん)にし。心を迷(まよわ)し。家(いへ)を忘(わすれ)身(み)を
傷(そこな)ふ。諺(ことわざ)に始(はじめ)は人/酒(さけ)を飲(のみ)。中ごろ酒(さけ)酒を飲(のみ)。終(おわり)
には酒(さけ)人を飲(のむ)とは。かゝる族(やから)を云し也。故(かるがゆへ)に古(いにしへ)の聖(せい)
人(じん)酒礼(しゆれい)を立(たて)給ふこと。礼記(らいき)に出たるごとし。和漢(わかん)共に
大事(だいじ)に臨(のぞん)では。酒(しゆ)禁(きん)【「禁」の左ルビ「いましめ」】厳(おごそか)なること宜(むべ)なるかな。
敬謹(けいきん)【左ルビ「つゝしみ」】を思ふ人には。酒乱(しゆらん)酔狂(すいきやう)の所業(しよぎやう)こそ
【左頁】
あらね。剛飲(がうゐん)のために。吐血(とけつ)中風(ちうぶ)内傷(ないしやう)の諸症(しよしやう)を
発(はつ)し。臓腑(ざうふ)を腐爛(ふらん)し。百年の命(いのち)を一旦(いつたん)に
縮(ちゞ)む。又/愚(おろか)ならずや
○飲食(ゐんしい)消化(せうくわ)して血液(けつゑき)となり。一身(いつしん)を周流(しうりう)【左ルビ「めぐりなが」】して
河水(かわみづ)の止(とゞまら)ざるにひとし。気(き)此内に生(しやう)じ。其/血液(けつゑき)は
気(き)をもつて順(めぐ)り。気血(きけつ)互(たがい)に相/立(たつ)もの也。臓腑(ざうふ)
あつて。日々の食物(しよくもつ)を分利(ぶんり)【左ルビ「わかつ」】し。能(よく)消化(せうくわ)し。九ツの
【右頁】
竅(あな)《割書:耳目鼻口|前後便穴》あつて其物を泄(もら)すゆへ。痰(たん)唾(つわ)涙(なみだ)涕(はな)
両便(りやうべん)となり其/余(よ)眼(め)にもみへず。惣身(そうみ)の腠理(あせのあな)ゟ
霧(きり)のごとく泄(もれ)去(さり)て住(とゞまら)ず滞(とゞこほら)ざるゆへ。其/精粋(せいすい)潔(いさぎよき)
血液(けつゑき)となつて。身体(しんたい)堅固(けんご)なれども。若(もし)人/安佚(あんいつ)【左ルビ■■「やす」ヵ】
を好(このめ)ば。清(きよ)き血液(けつゑき)漸々(せん〳〵)に不潔(ふけつ)となり。気(き)も
又/閉塞(へいそく)【左ルビ「とちふさぐ」】して。百病(ひやくべう)の因(ゐん)【左ルビ「よりところ」】となる。されば食事(しよくじ)
の養生(ようじやう)は常(つね)にあるべく。病(やあひ)を得(え)ての後(のち)のことに
【左頁】
あらず。食(しよく)は人の性命(せいめい)を保(たも)つの元(もと)なれば。平常(へいぜい)
の慎(つゝしみ)第一なり。むかしは毎日(まいにち)の食(しよく)に定(さたま)れる数(すう)なく。
高位(かうゐ)貴官(きくわん)。上に在(あつ)て民(たみ)を治(おさむ)るものは。一日に
二/度(ど)も食(しよく)し。農夫(のうふ)賤民(せんみん)【左ルビ「いやしきたみ」】の下に立(たち)て。耕耘力(かううんりよく)【左ルビ「たかやしくさぎる」】
役(えき)するものは。一日に四/度(たび)も五度も食(しよく)す。男子(なんし)の
起居(ききよ)しけぎは数度(すど)食(しよく)し。婦女(ふぢよ)の起居(たちゐ)繁(しげ)から
ざるはしからず。今(いま)も田夫(でんふ)農家(のうか)には此/風(ふう)あること也。
然(しか)るにいつの比(ころ)よりか。毎(まい)日三/度(ど)づゝ食(しよく)すること。貴(き)
賎(せん)男女(なんによ)の通例(つうれい)とはなれり。しかれば其三/度(ど)の
食(しよく)。大率(おほむね)の量(りやう)を定(さだ)め。腹(はら)に足(たる)を期(ご)として。必(かなら)ず
飽満(はうまん)すべからず。食(しよく)過(すぐ)る時は起居(ききよ)懶惰(らんだ)になり。身
を動(つかわ)ざれば。食(しよく)いよ〳〵消化(こなれ)ず。病(やまひ)をなすの始(はじめ)
なり。大/食(しよく)宿食(しゆくしよく)は云も更(さら)也。不時(ふじ)の食(しよく)冷物(れいぶつ)。
強(こわ)きものを食(しよく)し。脾胃(ひゐ)を損(そこな)ふて医薬(ゐやく)を用(もちゆ)
【左頁】
るの後(のち)。食養生(しよくやうじやう)をなすは甚(はなはだ)遅(おそ)からずや。病(やまひ)は
口(くち)より入(いる)と云/諺(ことわざ)も理(ことわり)也。されば口(くち)を守(まも)ること瓶(かめ)の
ごとしともいへり。たま〳〵大酒(たいしゆ)大食(たいしよく)を常(つね)にして。
長寿(ちやうじゆ)なる人もなきにあらず。是(これ)は生得(しやうとく)堅固(けんご)
の人にて。動作(どうさ)をよくし。大度(たいと)寛褣(くわんよう)万事(ばんじ)に
憂(うれへ)なく。気(き)を滞(とゞこほ)らすことなきの人はかくのごとし。
衆人(しうじん)の及(およ)ぶ所にあらずとしるべし。喜怒哀楽(きどあいらく)【左ルビ「よろこびいかりかなしみたのしみ」】
【右頁】
愛(あい)悪(お)欲(よく)の七/情(じやう)は。重(おも)きも軽(かろ)きも隔(へだて)なき人情(にんじやう)
なれども。是(これ)も又/中庸(ちうよう)に見へたるごとく。其ほど
あるべきことにて。其/情(じやう)を過(すぐ)る時は。気(き)これが
ために結(むすぼふ)れ。かの血液(けつゑき)の周流(しうりう)【左ルビ「めぐり」】を滞(とゞこほ)らしむ。
人の世(よ)に立(たつ)は。百/般(はん)の世事(せじ)あつて心を労(らう)
すること常(つね)に多(おほ)し。能(よく)決断(けつだん)して分処(ぶんしよ)すべき
こと。是(これ)も又/養生(ようじやう)の第一たるべきものなり。
【左頁】
血液(けつゑき)潔(いさぎよく)。気(き)穏(おたやか)なれば。百邪(ひやくじや)犯(おか)すことならずと知(し)る
べし
○古(いにしへ)は食(しよく)を以て病(やまひ)を治(ぢ)す。このゆへに孫真人(そんしんじん)が
いわく。医者(いしや)は先(まづ)病源(びやうげん)を暁(さとり)て。其/犯所(おかすところ)を知(し)り。
食(しよく)をもつて是(これ)を治(ぢ)し。食療(しよくりやう)愈(いえ)ず。然(しかう)して
後(のち)薬(くすり)に命(めい)せよと。されば歴代(れきたい)の名医(めいゐ)。飲食(ゐんしい)
をもつて調治(てうち)【左ルビ「とゝのへおさむ」】せずと云ことなし。今/薬(くすり)の人を
【右頁】
薬(くす)することを知(しつ)て。食(しよく)の人を薬(くす)することをしら
ざるは。医(ゐ)の道(みち)の衰(おとろへ)たる也といへり
○人の脾胃(ひゐ)は。たとへば磨(うす)のごとし。脾(ひ)は五蔵(ござう)の一ツに
して瓜(ふり)の状(かたち)のごとく。上(かみ)に有。胃(ゐ)は六/府(ふ)の一ツにして。
下に有。脾(ひ)の府(ふ)を胃(ゐ)とは云也。脾(ひ)の蔵(ざう)と胃(ゐ)の
府(ふ)と累(かさな)り。磨(うす)の旋(めぐり)て物を末(こ)にするごとく。
運動(うんどう)して胃中(いちう)の飲食(ゐんしい)を消化(せうくは)【左ルビ「こなす」】す。而(しかう)して又
【左頁】
人身(じんしん)の元気(げんき)は胃(ゐ)の気(き)也。胃(ゐ)の気(き)の存亡(そんばう)は。
食飲(しよくゐん)の調(てう)不調(ふてう)に在(ある)也。食飲(しよくゐん)を調(とゝのふ)れば。諸蔵(しよざう)
其/堅固(けんご)にして。諸邪(しよじや)犯(おか)すことなく。適(たま〳〵)犯(おか)せども。
軽(かろ)しとす。若(もし)食飲(しよくゐん)調(とゝのほ)らざれば。脾胃(ひゐ)損(そこな)ひ傷(やぶ)れ。
或(あるひ)は食積(しよくしやく)。或(あるひ)は腹痛(ふくつう)。或(あるひ)は嘔吐(あうと)。或(あるひ)は瀉(しや)【泻】痢(り)等の
諸症(しよしやう)を生(しやう)じ。諸蔵(しよざう)是(これ)より傷(やぶ)れ。諸邪(しよじや)是(これ)より
起(おこつ)て重病(ちうびやう)をいたす。是(これ)ゆへに脾胃(ひゐ)は人身(じんしん)の
【右頁】
要(かなめ)にして。存亡(そんばう)のあづかる所也
○食傷(しよくしやう)と脾胃虚(ひゐきよ)と似(に)たれども。異(こと)なる所以(ゆえん)は。
一旦(いつたん)に食(しよく)に傷(やぶ)られて病(やむ)ものは。吐瀉(としや)あれば治(ぢ)し
易(やす)く。食(しよく)のために脾胃(ひゐ)を虚(きよ)するものは。治(ぢ)するに
難(かた)し。医書(ゐしよ)に吐瀉(としや)の前(まへ)に腹痛(ふくつう)し。吐瀉(としや)して
後(のち)に。腹痛(ふくつう)減(げん)ずるものは食滞(しよくたい)也。若(もし)吐瀉(としや)して後(のち)。
腹痛(ふくつう)するは。脾胃虚(ひゐきよ)也といへり。みづから是(これ)を分別(ふんべつ)
【左頁】
して医療(ゐりやう)を受(うく)べし。老人(らうじん)と小児(せうに)は食気(しよくき)消化(せうくは)
しがたく。硬(かた)きもの。強(こわ)きものを食(しよく)すれば。其/性(しやう)
を消(け)さず直(たゞち)に便(べん)に下(げ)す。脾胃(ひゐ)又/傷(いたみ)やすし。別而(べつして)
平常(へいぜい)の心得(こゝろえ)あるべし。惣(そう)じて生(せい)【左ルビ「なま」】冷(れい)【左ルビ「ひへる」】乾(かん)【左ルビ「ほす」】硬(かう)【左ルビ「かたし」】の食(しよく)は。
胃(ゐ)を損(そこな)ふて消化(せうくわ)せずと知るべし。
○夏月(かげつ)は別(べつ)して。食飲(しよくゐん)に心を用(もち)ゆべし。其時/諸虫(しよちう)【蟲】
多(おほ)ければ。食物(しよくもつ)にも毒虫(どくむし)のふるゝことあり。又は
【右頁】
温熱(をんねつ)に食物(しよくもつ)饐(かわり)やすし。不正(ふせい)の食(しよく)俄頃(にわか)に人を
傷(やぶ)り。吐瀉(としや)せず。即時(そくじ)に命(いのち)を殞(おと)すこと間(まゝ)多(おほ)し。
又/炎書(ゑんしよ)を苦(くるし)むとも。猥(みだり)に冷水(ひやみづ)を飲(のむ)べからす
○酸(すき)ものを多(おほ)く食(しよく)すれば。脾(ひ)を傷(やぶ)り。甘(あまき)もの
を多(おほ)く食(しよく)すれば。腎(じん)を傷(やぶ)り。苦(にがき)ものを多(おほ)く
食(しよく)すれば。肺(はい)を傷(やぶ)り。辛(からき)ものを多(おほ)く食(しよく)すれば。
肝(かん)を傷(やぶ)り。鹹(しわはゆき)ものを多(おほ)く食(しよく)すれば。心(しん)を傷(やぶ)る。
【左頁】
是(これ)五味(ごみ)の五臓(ざう)に剋(こく)【尅】するもの也。又/酸(すき)を多(おほ)く食(くらふ)
ものは。肉(にく)損(そん)じ。唇(くちびる)【脣】掲(そり)。筋(すぢ)病(やみ)て。小便(せうべん)淋閉(りんへい)【左ルビ「とづる」】す。
甘(あまき)ものを多(おほ)く食(くら)へば。胸腹(きようふく)満悗(まんもん)し。骨(ほね)病(やみ)。髪(かみ)
落(ぬけ)。肉(にく)緩(ゆるま)り。虫(むし)動(うごく)。苦(にがき)を多(おほ)く食(くら)へば。皮(かわ)槁(かれ)。毛(うぶけ)抜(ぬけ)。
脾胃(ひゐ)塞(ふさが)り。嘔吐(あうと)せしむ。辛(からき)を多(おほ)く食(くら)へば。神虚(しんきよ)し。
心気(しんき)洞(うつろ)になり。筋(すぢ)急(しま)り爪(つめ)枯(かれ)汗(あせ)出(いづ)。鹹(しわはゆき)を多(おほ)く
食(くら)へば。血脈(けつみやく)【脉】凝(こり)渋(しぶ)り。顔色(がんしよく)変(かわ)り。咽(のんど)渇(かわく)。是(これ)五味(ごみ)の
【右頁】
五蔵(ござう)を傷(やぶり)て。外にあらはるゝもの也
○聖人(せいじん)は常(つね)に食(しよく)を慎(つゝしみ)給ふこと。小児(せうに)も読(よみ)て知(し)る
べき論語(ろんご)を釈(しやく)すること左(さ)のごとし
食(いひ)は精(しらげ)を厭(いとわ)ずとあるは。穀(こく)を舂(つき)精(しらげ)ること粋(くわし)【粹】き程。
脾胃(ひゐ)を養(やしな)ふがゆへ。奢(おごり)とせず。膾(なます)は細(ほそき)を厭(いとわ)ずとは。
唐土(もろこし)に牛(うし)羊(ひつじ)魚類(うほのるい)を聶(ほそびき)て膾(なます)に製(つくる)。成(なる)たけ
細(ほそき)を善(よし)とす。是(これ)美食(びしよく)を好(このむ)にあらず。人に害(かい)有
【左頁】
がゆへなり
食(いひ)饐(い)して餲(かわり)。魚(うほ)餒(あざれ)て肉(にく)敗(やぶれ)たるは食(くらわ)ずとは。飯(めし)の
熱湿(ねつしつ)に傷(やぶ)れ。魚(うほ)爛(たゞれ)肉(にく)の腐(くされ)たるは。人を損(そこなふ)故也
色(いろ)の悪(あし)きは食(くらわ)ず。臭(か)の悪(あし)きは食(くらわ)ずとは。いまだ
敗(やぶ)れざれども。或(あるひ)は色(いろ)変(へん)じ。あるひは臭(にほひ)つきたるは。
人を害(かい)せんことを恐(おそ)るゝ也
飪(じん)を失(うしなへ)るは食(くらは)ず。時ならざるは食(くらわ)ずとは。飪(じん)は烹(に)調(とゝのへる)
【右頁】
なり其/節(ほとよき)を失(うしな)ふ。生烹(なまにへ)の食物(しよくもつ)脾胃(ひゐ)を敗(やぶら)ん
ことを恐(おそれ)て也。五穀(ごこく)の能(よく)成(みのら)ざる。果実(くわじつ)のいまだ熟(じゆく)
せざる。皆時に及(およば)ざる也。穀(こく)も果(このみ)の類(るい)も。其時来ら
ざれば能(よく)成(みのら)ず。克(よく)熟(つへ)ず。然(しか)るに商民(しやうみん)利(り)を競(きそ)ふ
がゆへ。我先(われがち)に時ならざるを出(いだ)す。人みな是(これ)を珍(めづら)
しとて求(もと)め。価(あたゐ)尊(たつと)きこと。常(つね)に倍(ばい)するを厭(いとわ)ず。
世俗(せぞく)に走(はしり)ものと号(がう)して奔走(ほんそう)す。しかも味(あぢわい)未(いま)た
【左頁】
満(みた)ず人に害(がい)あり。飲食(ゐんしい)もと其/品(しな)を賞(しやう)し。其/味(あぢ)
を楽(たのしむ)ためにあらず。一身(いつしん)を養(やしな)ふためなるをしら
ざるなり
割(きりめ)正(たゞ)しからざれば食(くらわ)ず。其/醤(あへしほ)を得(え)されば食(くらわ)ずとは。
聖人(せいじん)は造次(そうし)にも正(たゞしき)を離(はなれ)ず。切目(きりめ)かならず方正(はうせい)
ならんことを好(この)む。斜(ゆがみ)て切(きり)たるものを食(くらわ)ず。醤(あへしほ)は
日本(につほん)にたとへば。生魚(なまうほ)を食(しよく)するに。酸味噌(すみそ)。あるひは
【右頁】
煎酒(いりざけ)を用(もちゆ)るごとし。各々(おの〳〵)其/塩梅(あんばい)の宣(よろしき)処を得(うる)をよし
とす。得(え)ざるは食(くらは)ず。これらは。あへて人に害(かい)あるに
あらねども。正(たゞ)しきを好(この)んで。食物(しよくもつ)を仮初(かりそめ)にし
給わざるをいへる也。むかしは食物(しよくもつ)を調(とゝのへ)るに。塩(しほ)と
梅(むめ)とを用(もち)ゆ。是(これ)をもつて今(いま)も塩梅(あんばい)の字(じ)を用(もちゆ)るは。
尚書(しやうしよ)説命(ゑつめい)に。若(もし)和羹(くわかう)を作(つくら)ば。爾(なんぢ)は惟(これ)塩梅(ゑんばい)と有。
殷(ゐん)の高宗(かうそう)。賢臣(けんしん)傅説(ふゑつ)に命(めい)ぜらるゝ詞(ことば)にて羹(あつもの)を
【左頁】
調(とゝのへ)るに塩(しほ)過(すぐ)れば鹹(しほからく)梅(むめ)過(すぐ)れば酸(すし)塩梅中(ゑんばいちう)を得(え)て
味(あぢわひ)なす。臣(しん)の君(きみ)に左右(さゆう)して補導(たすけみちび)き徳(とく)をなす
こと。是(これ)に同(おな)じければ。これを以(もつ)てたとへられし也。
肉(にく)多(おほ)しといへども。食(しよく)の気(き)に勝(かた)しめずとは。人
の食(しよく)は穀(こく)を主(しゆ)とすれば。何菜(なんさい)の膳(ぜん)に向(むか)ふとも。
其/分量(ぶんりやう)穀(こく)気(に)に勝(かた)ざるやうにする也
唯(たゞ)酒(さけ)は量(はかり)なけれども乱(らん)に及(およば)ずとは。酒(さけ)は人の為(ため)に
【右頁】
歓(よろこび)を合せ。酔(えふ)を期(ご)として止(やむ)べきなれば。予(あらか)じめ
量(りやう)の限(かぎり)をなさず。血気(けつき)を乱(みだら)しむるに及(およば)ず
沽酒(かふさけ)市脯(かふほじゝ)は食(くらは)ずとは。肉(にく)を切(きり)て乾(ほし)たるを脯(ほじゝ)と云
此一/条(てう)は。軽(かろ)き者には及(およば)ざることなれども。孔子(こうし)程
の分限(ぶんげん)にては。家(いへ)に酒(さけ)を製(つく)らしめ。乾(ほし)たる肉(にく)も。
家(いへ)に製(せい)するを用(もち)ひ。市(いち)に売(かふ)【賈ヵ】を用(もち)ひ給ず。その
清潔(せいけつ)【左ルビ「きよくいさぎよし」】ならず。しかも人を傷(やぶら)んことを恐(おそ)るゝゆへ也
【左頁】
薑(はじかみ)を撤(すて)ずして食(くら)ふとは。生姜(しやうが)は神明(しんめい)を通(つう)じ。
穢(けがれ)を去(さる)ゆへ。常(つね)に食(しよく)し給ふ。しかれども貪(むさぼり)食(しよく)する
にあらず。其/節(ほどよき)にかなふゆへ。多(おほ)く食(くらわ)ずとあり
此外/古人(こじん)飲食(ゐんしい)にむかへば。其/品(しな)毎(ごと)に少(すこし)計(ばかり)を膳(ぜん)の
かたはらに置(おき)。往古(わうご)始(はじめ)て人に宣(よろ)しき飲食(ゐんしい)【左ルビ「のみものくいもの」】を為
の人を祭(まつり)て。其/本(もと)を忘(わす)れざる心を表(へう)し。其/後(のち)に
食(しよく)す。孔子(こうし)も蔬食(そしい)菜羹(さいかう)とて。麁菜(そさい)の膳(ぜん)に
【右頁】
むかひ給ひても。かならず祭(まつり)給ふこと。斎如(さいぢよ)とつゝしみ
給ふとあり。又/食(しよく)する時に語(ものかたら)ず。寝(いぬ)る時に言(ものいわ)ず。
とて聖人(せいじん)は心を存(そん)して他(ほか)あらず。食(しよく)するに
当(あたり)て食(しよく)し。寝(いぬ)るあたつて寝(いぬ)る。言語(げんぎよ)すべき
時にあらざれば也。又/孔子(こうし)病(やまい)ある時。魯(ろ)の上卿(しやうけい)
季康子(きかうし)。使者(ししや)をもつて薬(くすり)を饋(おく)る。礼(れい)におよそ
食(しよく)を賜(たま)ふ時は。先(まづ)嘗(なめ)て後(のち)に忝(かたしけなき)を拝(はい)す。然(しかる)に
【左頁】
孔子(こうし)拝(はい)してこれを受(うけ)。使者(ししや)に向(むかつ)て薬性(やくせい)果(はた)して
我(わが)病(やまひ)に応(おう)ずるや。其/宣(よろしき)所(ところ)にいまだ達(たつせ)ず。かるがゆへに
嘗(なめ)ずと宣(のたま)ひけり。拝(はい)して受(うく)るは礼(れい)也。嘗(なめ)ざるは
病(やまひ)を謹(つゝしみ)給ふ也。其/旨(むね)を告(つげ)給ふは直(ちよく)也。以上は
聖人(せいじん)の飲食(ゐんしい)を慎(つゝしみ)給ふ所。万世(ばんせい)の法(はふ)とすべき
ものなり
○不正(ふせい)の食(しよく)は都(すべ)て不潔(ふけつ)【左ルビ「いさぎよからず」】の血液(けつゑき)を生(しやう)じ。正(たゞし)き
味(あぢわひ)は。清(きよ)き血液(けつえき)となつて身(み)を養(やしな)ふ。されば常々(つね〴〵)
食物(しよくもつ)の慎(つゝしみ)ふかく。毎日(まいにち)の餉(かれい)も節(ほどよく)し。身(み)を動(はたらか)ば。
身体(しんたい)健(すくやか)にして。無病(むぎやう)延命(えんめい)ならんこと疑(うたがひ)有べからず。
たま〳〵風寒(ふうかん)暑湿(しよしつ)の障(さゝわり)有とも。何程(なにほど)のことか
あらん
○乳味(にうみ)あつて子(こ)を育(そだて)ん婦人(ふじん)は。勉(つとめ)て己(おのれ)が食(しよく)に
心を尽(つく)すべし。其/子(こ)をして無病(むべう)ならしむべき。第(だい)一
【左頁】
の慎(つゝしみ)これにしくことなし。上(うへ)つがたには其事あれども。
下には其/慎(つゝしみ)なく。乳味(にうみ)に化(くわ)しては。諸食(しよしよく)其/毒(どく)あらず
などゝ。愚昧(ぐまい)の私意(しゐ)をもつて。食物(しよくもつ)に能毒(のうどく)を
撰(えらは)ず。其/乳味(にうみ)を与(あた)へ育(そだつ)るゆへ。自然(しぜん)と病者(びやうじや)に
なす。小児(せうに)は乳味(にうみ)を食(しよく)として成長(せいちやう)なす。其/母(はゝ)
の悪食(あくしよく)。乳味(にうみ)に出ずと云ことなし。胎毒(たいどく)を生(しやう)じ。
麻疹(ましん)【左ルビ「はしか」】痘瘡(とうさう)【左ルビ「もがさ」】軽(かろ)からず。或(あるひ)は壮(さかん)なるに従(したがつ)て。積聚(しやくじゆ)
【右頁】
痰症(たんしやう)疳症(かんしやう)等(とう)の諸病(しよびやう)を蓄(たくわ)ふ
○婦人(ふじん)妊娠(にんしん)の間/別(べつ)して食物(しよくもつ)を慎(つゝしむ)べし
兎(うさぎ)を食(くら)へば。缺脣(みつくち)の子(こ)を産(さん)す
山羊(やまひつじ)の肉(にく)を食(くら)へば。子(こ)病身(びやうしん)なり
鶏卵(たまご)乾魚(ほしうほ)を食(くら)へば。其/子(こ)瘡(かさ)多(おほ)し
桑椹(くわのみ)鴨(かも)を食(くら)へば。倒子(さかご)を産(うむ)
雀(すゞめ)を食(しよく)し酒(さけ)を飲(のめ)ば。其/子(こ)性格(せい)婬乱(ゐんらん)にして恥辱(はぢはつる)こと
【左頁】
なからしむ
鶏(にはおとり)の肉(にく)と糯米(もちごめ)とを食(くら)へば其/子(こ)寸白(すんはく)を愁(うれ)ふ
雀(すゞめ)の肉(にく)豆醤(とうしやう)【左ルビ「しやうゆ」】を食(くら)へば其/子(こ)䵟黯(かんてん)【左ルビ「ほう?りこ」】を生(しやう)ず
鼈(べつ)【左ルビ「おほがめ」】の肉(にく)を食(くら)へば其/子(こ)頂(うなぢ)長(なが)し
驢肉(ろにく)【左ルビ「うさぎむま」】を食(くら)へば誕生(たんじやう)月を延(のば)す
氷醤(ひようしやう)を食(くら)へば絶産(ぜつさん)す
騾肉(らにく)を食(くら)へば難産(なんざん)せしむ
【右頁】
以上/達生録(たつしやうろく)に見へたり
○獣(けもの)の肉(にく)を食(くら)ふこと。好(このむ)べきにあらず。漢土(かんど)にては。
貴賤(きせん)常(つね)に食(しよく)すること。其国の風俗(ならわし)なれば害(かい)も
あるべからざれども。是(これ)がゆへにや。癰(よう)を発(はつ)し。
疽(そ)を憂(うれふ)るもの又/多(おほ)し。我(わ)が日本(につほん)も上/古(こ)はしらず。
今(いま)の時を以てみれば。血気(けつき)壮(さかん)にして肉食(にくしよく)する
ものは。潔(いさぎよ)からざる血液(けつえき)を蓄(たくわへ)。多(おほ)く腫物(しゆもつ)を生(しやう)じ。
【左頁】
泥亀(すつぽん)白鳥(はくてう)を食(しよく)して。頭瘡(づさう)を生(しやう)じ。又は逆上(ぎやくじやう)して
毛髪(もうはつ)ぬけ。疥癬(かいせん)を発(はつ)するあり。壮年(さうねん)にして
猪鹿(ちよろく)を食(しよく)し。何(なに)の害(がい)を覚ずといへども。年を経(へ)
て癰(よう)を病(やむ)もの少からず。唯(たゞ)老人(らうじん)の足腰(あしこし)冷(ひゆ)るに。
少しく用(もちゆ)るは。又/妨(さまたぐ)べからず。けだし四足(しそく)をもつて。
神道(しんたう)に穢(けがれ)の日数(ひかず)を唱(とな)へ。諏訪明神(すはみやうじん)より箸(はし)を
うけ。食(しよく)すれば。穢(けがれ)なしといひ。又は同(おな)じ四/足(そく)の内に。
【右頁】
兎(うさぎ)のみは穢(けがれ)なしと。是(これ)らの説(せつ)は。真理(しんり)におゐて当(あたら)
ざるに似(に)たれども。世俗(せぞく)の意(こゝろ)に任(まか)せて可(か)なり
○世俗(せぞく)に人の好(このま)ざるものをこのんで食(しよく)し。興(きよう)
なりとすれば。衆(しう)みな嗔物食(いかものぐゐ)也と歎称(たんしよう)【左ルビ「ほむる」】す。命(めい)
をしらざるの族(やから)にして。論(ろん)ずるに足(たら)ず。すべて
菌(きのこ)などには。名(な)もしれざるあつて。人を傷(そこな)ふこと
多(おほ)ければ。軽率(けいそつ)【左ルビ「かる〳〵しく」】に食(くら)ふべからず。後悔(かうくわい)するに詮(せん)なし。
【左頁】
又/病(やまひ)あつて湯薬(たうやく)を用(もちゆ)るにも。異物(ゐぶつ)奇品(きひん)を好(この)む
べからず。近来(きんらい)は種(しゆ)々の異薬(ゐやく)舶来(はくらい)して。木乃伊(みいら)
サルボウのことき蕃語(ばんご)【左ルビ「ゑびすことば」】を唱(とな)へ文字(もんじ)すら知(し)れざる
もの一(いち)二(に)ならず。紅毛(をらんだ)より携(たづさへ)渡(わた)るもの殊(こと)に多(おほ)し。
其/製(せい)其/性(しよう)。更(さら)に弁(わきま)ふべからず。たとへ其/効(かう)倍(ばい)すと
いふとも。能(よく)々子細(しさい)にすべし。神農氏(しんのうし)百草(ひやくさう)を嘗(なめ)て
本草(ほんざう)を作(つく)り。日本(につほん)には少彦名命(すくなひこのみこと)《割書:五条天神|是なり》医薬(ゐやく)の
道(みち)を弘(ひろ)め給ひ。其/土地(とち)に生(しやう)ずる人は。其/土地(とち)に
産(さん)する薬品(やくひん)をもつて。病(やまひ)を治(ぢ)すべきこと理(り)の常(つね)
なり。但(たゞ)し紅毛(をらんだ)の外科術(げくわしゆつ)委(くわ)しければ。学(まな)んで
こゝに用(もちゆ)るごときは。広(ひろ)く他(た)の美(び)を容(いれ)て。我(わ)が
美(び)をなすの事。元来(もとより)病(やまひ)を療(いや)すは。草根(さうこん)木朮(もくぢゆつ)【左ルビ「きのね」】
皮(ひ)【左ルビ「かわ」】にて足(た)れること。聖賢(せいけん)の正(たゞ)しき教(おしへ)也。いかんぞ
遠(とふ)く奇異(きゐ)なるを求(もとめ)ん。殊(こと)に火葬(くわそう)せし人の
【左頁】
膏脂(かうじ)を取(とり)。又/髑髏(どくろ)を末(こ)にし。霊天蓋(れいてんがい)と号(がう)し。
薬(くすり)に用(もちゆ)るごときは。人を以(もつ)て人に食(はま)しむるの理(ことわり)にて。
孟子(もうじ)に獣(けもの)相(あい)食(はむ)すら。且(かつ)人/是(これ)を悪(にく)むと。是等(これら)
のことをば何(なに)とか論(ろん)ぜられん
○神農(しんのう)の本草(ほんざう)。時珍(じちん)の綱目(かうもく)に出るごとく。惣(すべ)て
天地(てんち)の間に生(しやう)ずるもの。能毒(のうどく)あらざるはなし。
しかるに茶(ちや)は常(つね)に喫(きつ)し。塩(しほ)は日用(にちよう)の食(しよく)を離(はなれ)ず。
【右頁】
誰(だれ)か是(これ)を毒(どく)といわん。其/塩(しほ)をもつて茶(ちや)に投(たう)じ。
ひとしく食(くら)ふ時は。腹中(ふくちう)に入て宜(よろし)からざること。賊(ぬすびと)
を駆(かつ)て。家内に入るがごとしと。医書(ゐしよ)に見へたり。
たとへば焔硝(ゑんせう)一味(いちみ)にては能(よく)することなきも。口(くち)
薬(ぐすり)に製(せい)すれば。炮(たま)を走(はしら)しむ。平味(へいみ)なるものも。
二物(にぶつ)相(あい)ならびては。毒(どく)となること有。薬種(やくしゆ)を
配剤(はいざい)して。或(あるひ)は補(ほ)【左ルビ「おきなふ」】。或(あるひ)は瀉(しや)【左ルビ「くだす」】。其/功(こう)数(す)端(たん)なる
【左頁】
みな此/理(ことはり)なり。
○合食(がつしよく)すべからざる品(しな)荒増(あらまし)左に記(しる)す《割書:○は大毒の印》
饂飩(うんどん)に西瓜(すいくわ) 鯉(こゐ)に胡椒(こしやう)又は小豆(あづき)
枇杷(びわ)に蟹(かに) 木瓜(ぼけ)に梅(むめ)
楊梅(やまもゝ)に炒豆(いりまめ)《割書:○》 金柑(きんかん)に蕃薯(さつまいも)
馬歯莧(すべりひゆ)に胡椒(こしやう) 鰻魚(うなぎ)に西瓜(すいぐわ)《割書:○》又は木瓜(ぼけ)《割書:○》又は酢(す)
緑豆(やえなり)に榧子(かやのみ) 商陸(やまごばう)に芹(せり)
【右頁】
泥鰌(どぢやう)に萆薢(ところ) 螺(にし)に昆布(こんぶ)
狸肉(たぬきのにく)に蕎麦(そば) 麦門冬(ばくもんどう)に鯽(ふな)
厚朴(こうぼく)に昆布(こんぶ)又は塩梅(しほむめ) 薊(あざみ)に甘草(かんざう)
蕎麦(そば)麺(めん)に胡桃(くるみ)又は西瓜(すいくわ)又は楊梅(やまもゝ)
甜(まくわ)瓜に蘿摩実(かゞいも)《割書:○》 蝮蛇(まむし)に梅醋(むめず)《割書:○》
枝柿(えたがき)に躑躅(つゝじ) 莽苣(たうちさ)に胡椒(こしやう)
田螺(たにし)に番椒(たうがらし) 橐吾(つわ)に砂糖(さたう)
【左頁】
蝦(ゑび)に緑青(ろくしやう) 鯽(ふな)に砂糖(さたう) かじかに甘草(かんざう)
鰻魚(うなぎ)に梅醋(むめず) 草石蚕(ちよろぎ)【蠶】に諸魚(しよぎよ)
土茯苓(さんきらい)に青菜(あをな) 《割書:茶 昆布 川魚|油気【日本衛生文庫は「油菜」】》
地黄(ぢわう)に大根(だいこん)又は葱(ねぎ) 河豚(ふぐ)に煤(すゝ)を忌(いむ)
醴(あまざけ)を飲(のん)で湯(ゆ)に浴(いる)べからず
蕎麦(そば)を食(くらつ)て湯(ゆ)に浴(いる)べからず
食事戒 終
【後見返し】
【裏表紙】
《題:年寄之冷水曽我 完》
【参照資料 国会図書館デジタルコレクション>続帝国文庫>第34編・黄表紙百種>年寄冷水曽我 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1882644/417】
●模範解答付きコレクションは、国会図書館が公開する翻刻本を参照資料として、自分で答え合わせをしながら翻刻を進めることができるコレクションです。
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【右丁】
寛政五
【左丁】
序
古(ふる)きを以(もつ)て新玉(あらたま)の春(はる)狂言(きやうげん)曽我(そか)の趣向(しゆかう)も。
亦(また)久(ひさ)しい文選(もんぜん)の鴬(うくひす)は。做(なら)はぬ戯作(けさく)を仕(し)ならひ。
智者(ちしや)の辺(ほとり)の童(わらんべ)の。翫(もてあそひ)とせん事(こと)。其(その)頬(つら)の皮(かは)の厚(あつさ)は。
千牧張(せんまいばり)の凧(たこ)に等(ひと)しく其(その)圧(おし)の強(つよ)きは。破魔弓(はまゆみ)の
弦(つる)に似(に)たり。されど引(ひく)にひかれぬ。矢先(やさき)の光陰(くはうゐん)
甘泉堂(かんせんだう)が楯催足(たてざいそく)。需(もとめ)に応(をう)して与之(これをあたふる)は。是(これ)を的(まとう)の
秀句(ぢぐち)にして。あたる不中(あたらざる)は。旹(とき)の運(うん)か希(こひねがわく)は《割書:アタリ引|》
題 芝 全 交
【右丁】
【上段】
さても
曽我
兄弟(けうたい)の
父(ちゝ)のあだを
むくいしは
建久(けんきう)四年
五月下じゆ
んそれより
せいそうつ
もりて去ル
寛政四年
子年迄に
凡六百年
にぞ相あた
りけるその
ついぜんの
きやうげんと
いつぱそが
兄弟
をはしめ
そのときにくわゝりし
人々はのこらすとしは
六百なにかしといふごく
らうじんの人々なれば
【左丁】
【上段】
中〳〵かたきをうつのすべつたの
ころんだのどうめいつたかう
めいつたのというやうなげんきは
なしめがわるくなるやらこしが
かゞむやらはがぬけるやうみづ
ばながでるやらびらうなからしゝ
ばゝいびたれをせぬばかりがめつけ
ものなれ共されど六百年この
かたつとめきたりしことなれば今
さらほかの事もならずあり
きたりののりより公つるがおか
さんけいかたきやくじつ事しの
六七人もすをふだいもんで
おる所をとしがよつてかみしも
をきるもふじゆうなくらい
くたれたかたぎぬはかりいゝわけの
ためかたへひつかけつへをつい
たりじゆずをもつたり
ひよろ〳〵してやう〳〵
いでしはさいこくじゆん
れいのやどにまごつくが
ごとしとしよりの事なれば
はのない人もおゝければ物いゝ
せりふもわかつたりわからなんだりする
【右丁】
【中段】
おれかみゝの
ことをいのりお身たちの
物いゝのわからぬのか
むにや〳〵というなのりが
だいぶあるたゞし
【下段】
のりかり
ばゝアは
あつたる
のりより
ぢゝいは
めづら
しい
さくしやが
しらないのか
あやしいわい
ナ二
かんぬしかたにて
いつこんくまんとは
むかしの事
むめぼしでちやを
のまんかた〳〵
まいれ
しんがいの
あら二郎
【左丁】
【中段】
御所の黒弥五
むにや〳〵
どふか
お十ねんでも
でるよふだ
【下段】
むにや〳〵
いつの次郎
すけかぬ
かぢはら
平次かげ
たか
あん
ざいの
弥七郎
む
にや
〳〵
ちばのすけつねたね
によこらずあいちめ
ましてごさる
むにや〳〵
【右丁】
【上段】
のりより公つるがおかへさん
けいにつきくどうさへもんすけ
つねもしゆつしのところ
これも六百いくつという
らうじんなればでるが
きぶしやうになりて
ころり〳〵とねてばつかり
いけるゆへしよらうといゝ
たてゝみやうだいとして
せがれ犬ぼう丸きれいな
わかしゆというところが
六百十七八たかさごの
ぢさまからひだらをとる
ほどのぢゝいわかしゆお
やのいゝつけた口上も
物おぼへがなければみんな
わすれてしまひあふみ
やわたもそれよりとし
うへなればこいつはなをお
ぼへずなんの事でこゝへ
きたのかねつからわからす
のりよりほんぎやくにて
よりともをなきもの
にし工藤さへもんを
【左丁】
【上段】
いちみさせんという所
なれどそんな事は三
百年はかりもあとに
たかひにわすれてし
まい今はたゞたいきだの
こしがいたいのやれめん
どうだのとそんな事
ばつかりいつてなんの
おちやとうにも
ならす
ときにいぬほう
てめへはもふ六百
十七になるか
はやいもんだこの
ごろまでちゝをのんで
いたつけそれじやア
小藤太も六百五十二三で
あらうやはたも六百三
四十であらうおいらも
六百三十二だかぢはら
六百二十六つねたね
六百四十三なんのこつた
弐朱がぜにをかうよふだ
イヤハヤとほうもねへ
【右丁】
【中段】
むすこなんの
事でこゝへきた
おいらア
わすれて
しまつた
なんだ
か
しらぬが
めんとう
だ
なんまみ
だぶ〳〵
【下段】
さへもんすけ
つね
しよろうが
ぬけた
と
もつとも
〳〵
ちゝ
すけつね
しよらうに
つきそれから
なんとか
いふの
だつけ
サア
口上を
わすれ
た
それから
なにさ
【左丁】
【中段】
にやむ
〳〵で
こさり
ますから
にやむ〳〵で
ござります
あふみ
やはたともに
はがぬけけるゆへ
ものいゝたなぎやうを
よむごとし
【下段】
ア〳〵
なんとか
いつた
つけ
これは
まあ
きかねへ
ぶんに
なさつ
て
下
さり
ませ
【右丁】
【上段】
三浦のかたかいは工藤さへもんに
たよらんと今やうはるごまの
やくにんにてあれ〳〵はるこまが
みゆるばくにてこの鶴がおかへ
いりこむところなれどこれも
六百十八九のむすめなれば
大は ̄アへはるごまのとんだり
はねたりのしよさ所ではなし
かさいねんぶつにておたすけ
おどりもいゝやつとの事にて
ひよろ〳〵しながらよう〳〵
いでしがふところよりかり
ばのゑづをおとしてかぢ
はら黒弥五にみあらはされ
どつこいとみへになりて
たてになるところをそんな
事はむかしの事くはいちう
からおとしたはたけの
かはにつゝんたにぎり
めしきんざんしみそに
むめほしを
ひかるくるみに
したやつを
おとしければ
【左丁】
【上段】
なるほど
としがよる
ほどいぢが
きたなく
なる
さふで
たが
いに
たけの
かはの
つゝみ
をめが
けて
たてに
なりしが
みんな
ひよろ〳〵
してねつ
からやくに
たゝす
【右丁】
【下段】
おのやれ今としが
三百だにわかくはその
にぎりめしくはずに
おこふ
か
アヽ
こし
いたや
イヤどつこいこいつは
よつばいにはい
ねばならぬ
むに〳〵じや ̄ア
ねへが
ぢゝいと
ばゝ ̄アが
はつた
とさ
このぢゝい殿たちは
よからしねへ
それは
はこねの
きやう
しつへの
【左丁】
【下段】
おだんぎを
きゝにゆく
べんとうで
ごぎるよ
ナニ
はこねのべん
とうだ
さすれば
はこねの
べつとうと
いう
ぢづちであらふ
サア〳〵
べんとうは
なつとうと
むめ
ぼしでは
ねへか
アヽ
せつなやにぎりめしはきが
あれどたてなものをよこにも
ならぬおれがなりはもんぜきさまの
かへりにどぶへおちたよふだ ̄アヽ
こしいたや
【右丁】
【上段】
扨も和田の一もん
九十三ぎの大さかもりありしが
いつれも六百からうへのとし
よりなれば酒をのんでいさ
もふなぞといふいきなこ
ともできずそのうへ肴も
はにあはぬものばかりで
くはれずいつその事に
九十三人のねん仏かうが
よからうとやわらかな
だんごぼた餅あま酒
なぞをたんとしこんで
六字づめのせめねん仏
ときむねあまざけに酔(よい)
けるや何思ひだしたか
かたきすけつねが事を
へつついへくべておいた
さつまいもの事を思ひ
だしたよふにいつさんに
かけだす所をさうわか
いものゝやふにはかけださ
れずひよろり〳〵と
はいずりだすを
めさひなもとめるのは
いきがきれてめんどう
うつちやらかして
【左丁】
【上段】
おきけるがおさたまり
のやくまはりしやう
事なしのふしやう〴〵
さかをもだかの
よろひをかたてゞ
さしあげたのは
わかいときの事やう〳〵からだをもつて
でるがいゝ ひきほんの
てぶらでか けだせばつう
まへてひくと こもなくふん
どしのさがりを
つらまへ
うんと
ひつぱる
ひやうし
ぶうと
なつたる
その
おとは
なんの
おとかは
しらね共
きんたまを
ひつはれよこにず
とんところびしはきせん上下
おしなべておもしろくもなん共な
いとかんぜぬものこそなかりけれ
【右丁】
【下段】
こへさあへいなふんどしを
せうへつはつちや ̄ア
けんたまがついあぎやら ̄ア
ヱテへ〳〵
きんたまがつりあがつたから
そこでもつてからに
せんきめがぐう〳〵
いう
これをひつたと
おもつち ̄ア
きのどくたと
ときむねへの
まけおしみを
いう
【左丁】
【下段】
ひつたな〳〵
こいつはくさい
ずり
びき
だ
あさいな
くさ
いな
かさ
い
なに
こや
しを
かけたにほひだ
それではかないあん
せんへくさい
ゑんめい
へこく
じやう
じゆう
だ
ぢゝい一 ̄チばん
とまつてくんさるなら
かたじけなすびの
かうのものこまかく
きつたらくはれそふな
もんだ
【右丁】
【上段】
おにわう新左衛門はこよひ八 ̄つ の
かねをあいつに三百両という金か
なけれはさかおもだかのよろひも
うけかへされず又とうとのゝ
お身うけの金も八 ̄ツのかねが
あいすさすれは六百両という
金がなければ御兄弟の大
もうも水のあは新左衛門か
身のなんきしんたいこゝに
きはまつたかはてなんとした
ものであらふ ̄ナアとかうらいや
のおやぢという身でうでを
くんでにらんだきり六百
年があいだひかたまつたよふ
にしていけつゆへそんなむづ
かしいでいりは四五百年あ
とにわすれてしまひう
つりひよんとしていたりけるが
女郎やのほうでもおなじく
わすれてしまひしか
どふしておもひたし
たかきうにおもひ
だして両ほうから
しりがくる
【中段】
いかにとしが
よつたとて
あまりせはしい
六百年が間 ̄ニ
どうできる
もん
た
はて
そんな
事も
あつたか
の
サア〳〵
八 ̄ツのかねを
六百ねん
まつた
金をだした〳〵
【下段】
しちといふ
ものは
八つききりで
ながすはづだ
六百年か
あいた
利あげも
せす
どふ
またれる
ものか
利はかり
一万
二千両
くつ
た
二 ̄タ月
ばかりは
まけてやらう
ちよつと入 ̄ルがへにして
かせなとはけつして
ならぬよ
【左丁】
【上段】
鬼王新左衛門は六白年めで
六百両のしりがきたれども
ぜにで六百のくめんもできず
女ぼう月さよとそふだん
すればこれも六百ねんが間
むちうでとしをとりければ
やつぱりそのしぶんの
廿四五のきどり大いそへ
身をうりおしゆうの
なんぎをすくひたいと
めだかじや ̄アあるめへし
てがるくすくふきに
なつてゐる
とんだ事をいふばゝ ̄アどんだ
六百廿四五になるものが
どふしてつとめが
なるものか
たなうけさへ
いやがつて引
とらねへ
【下段】
六百年があいだ
はだをぬいでうで
を
くんでいて
よく風をひか
なんだ二百年
ばかりあとに
くしやみをふたつし
たとおもつゝ
が
あのときに
すこしひいた
きみだわへ
酒ごもたるの
よろひはたく
あんじぶんで
なければ二百
ぐらいでは
かわふそふ
な
もんだと
らうも
して
むちやを
いふ
【右丁】
【上段】
鬼王ぢゝいむかで小ばんか
なんだかしれすどふしたか
三百日両くめんしてさつそく
大いそへゆきとうにあいて此
事をよろこばせんと思ひの
ほかとうも六百年たつ事
なればいつかすぽんとわす
れてしまひすけなりと
いふいろ男がたしかあつ
たよふにもあり又
なかつたよふにもありと
さかやのかりをちやら
まかすよふな事を
いふ
おや〳〵すけなりさんと
やらがわたしか身受を
するとかへすれば六百年
めでぼんのうのおこし
なんしたそふさばから
しいどふせふのふわつちや ̄ア
ほんにいまじや ̄アそんな
きはおさんせんのらいへ ̄ン
ばつかりおたのみ申て
いんすものを
【下段】
それじや ̄ア
三百両か
むだになつ
た
そんならさか
おもだかのよろ
ひをうけ
やふか
たゞし
梅がへにかして
利を
とろうか
それでも
むかしが
おゐらんしたたる〳〵
くびをふつていふ所
大いそのとら
はりこのとらの
ごとし
【左丁】
【上段】
そがのどう三郎は時宗が
かたゟるけはい坂のせう〳〵ら
所へ文づかひにゆきしが
折ふしせう〳〵もきやくが
あつてあふ事ならず
どふぞしていゝまをみて
文をわたしたいものと
くるは中をいつたりき
たりあつちへぶら〳〵
こつちへぶら〳〵百年
ばかりつい立しが
それでもたれにか
文をとゞけるはづだ
くらいはうす〳〵おぼへて
いたりしがせう〳〵に
やる事はとふにわす
れてそれから又あつ
ちいぶら〳〵こつちへ
ぶら〳〵あつちいぶら〳〵
こつちへぶら〳〵あつちい
うろ〳〵こつちへうろ〳〵
あつちへぶら〳〵こつちへ
ぶら〳〵こんな事ばつかり
して六百年ぶらついてゐる
【下段】
おら ̄アなんで
ふみをもつてぶら〳〵
してゐるかしらん
おれがきのせいか
たいぶ
としが
よつた
よふだ
内へかへりたい
もんだが内も
どこだつけか
わすれて
しまつた
【右丁】
【上段】
そがきやうだいの
ものどもは六百
年もたつ事
なればかたき
工藤か事も
わすれて
しまい
のかりんとして
いたりしがこ
としきうに
おもひだし
すけつねにたよ
らんとあさひなを
たのみ
今やう
おんあぼきやの
こんりうに
身をやつし入こみ
しがくどうが
ほうはかりかたの
事なればなを
わすれてしまい
あさいなもご
しやうのために
【左丁】
【上段】
おんあぼきや ̄アの
せはをやくごらごらふと
ぶつしやうふく
ろにふくろと
まげものに米を
いつはいせんぞ
代々の名百人ばかり
かきつけいまや
おそしとまつてゐる
かたきやくじつ
事しともにごじやう
いつさんまいのぢゝい
たちみんな壱文ツヽ
やるきになる
たいめんのまゝ
万人かうの
ごとし
【右丁】
【下段】
かわずの子だといふから
あかがいるなら妹が
かんの薬に
しやうと
おもつたら
人で
こざる
アハゝ〳〵
なにさ
小べん ぢゝいはたがいの
事かくいふ
すけつねも
たいめんのさかづき
へ
みつぱなを
おとすまい
ものでもない
ハテめつらしいたい
めんじや ̄ナア
なんとしうくは〳〵と
きこへよふ
【左丁】
【下段】
なにすけつね兄弟の
ものはあのとをりの
としよりながひせりふの
あいだちよろ〳〵と小べんに
たちますがそこはりやう
けんして
やつて
くんされ
【右丁】
《割書:かけ|あい》対画(たいめん)のせりふ
〽(十郎) 夫(それ)建立(こんりう)の御詠歌(こゑいか)に曰(いわく)ぢゝばゝの恵(めぐみ)も深(ふか)き厠器(おかい)から
膀瓶(しびん)へたれる小便(せうへん)を〽(五郎)こらへ〳〵て十八町(しうはつちう)丑(うし)の年(とし)迄(まで)だら〳〵と
〽(十郎)待(まち)に待(まつ)たる泪汁(なみだちる)眼汁(めしる)鼻汁(はなしる)《振り仮名:水■|みつぱな》【氵+肺】〽(五郎)《割書:サアそれからなん|とかいふのだつけ》
《割書:わすれた ̄アヽなにさ ̄アヽなんとかいつたマアちよつと小べんにいつて|こやふ ̄ムウヽとそれから ̄アヽとなにさ ̄ヲヽおもひだしたそれ〳〵》
こらへじやうなき年寄(としより)の寒(さむ)さに一倍(いちはい)うぢくさと
〽(十郎)うづみくるみ紙蒲団(てんとくじ)炭(すみ)もかはずのしやう
事(こと)なし〽(五郎)合(あはせ)て三 ̄ケの三 百店(ひやくたな)くしやみ二間(にけん)の
奥行(おくゆき)から〽(十郎) 風(かせ)を引(ひき)まどへつついへ
にや ̄アがばゝしたしらぬ面(つら)〽(五郎)よくも
おゐらが御親父(ごしんふ)を浅草様(あさくささま)のかへる
さに〽(十郎) 椎実(しいのみ)三匁(さんもん)一袋(ひとふくろ)孫(まご)にも暮(くれ)の
十七日〽(五郎) 市(いち)のみやげは大隠居(おゝゐんきよ)〽(十郎)二の
【左丁】
やかましい婆(ばわ)への念仏構(ねんぶつかう)の銭(せに)までも
〽(五郎)取(とつ)たり飲(のん)だりをんあぼきや ̄アべらぼう
工藤(くどう)の蛇(へび)ぢいぬらりくらりと鱣屋(うなぎや)の
百万遍(ひやくまんべん)をくるやふに珠数(しゆず)がねつから
まはらぬは《割書:サアこんどはおれかがわすれてしまつた|それからなにさなんとかいふのだつけ》《割書:としがよつてさつぱり物をぼへがね ̄エおれも小べんがしたくなつた|ちよつとひよぐつてこよふそれからなにさ ̄アヽめんどうだいゝ》
《割書:かげんにまん八を|やらかそふ》珠数(しゆず)がねつからまはらぬはそこらで
ぢいさんたのみやすなんまいだんぶつなんまいだ ̄ソリヤ
なんまめだんぶつなんまめだ《割書:こいつはおもし|ろくなつた》〽《割書:ソレ|》なんまい
だんぶつなんまいだ〽《割書:ハア|》 なんまめだんぶつなんまめだ
 ̄ハアなんまいだ ̄ア〳〵《割書:ハア|》なんまいだ ̄ア〳〵〳〵〳〵〳〵
 ̄ハなんまい〳〵〳〵〳〵しやん〳〵〳〵〳〵〳〵みだぐはんに
しくどくびやうどうせいいつさいどうほつぼたいしん
 ̄ホヽうやまつてもふす〽《割書:なんのこつたまた小べんか|もるよふになつた》
【右丁】
【上段】
お十夜のゑかうのすんだやうに
せりふもしまい ̄サアおやの
かたきなのれ〳〵といわれて
工藤はいつかわすれていつ
かうおほへず大晦日の
ばんにおもひがけにいふるい
かりをとられるよふに
おもつてゐる
マアまたつたへそんな事も
あつたかのはてなそん
ならあのぢゝいたちの
おやをわしかころして
しよりやうをとつたのたの
はてわかいじふんといふものは
てんこちもないわるいたづらを
するもんだきのどくな事を
したどふするもんだわしも
六日四五十だあろう
いのちのをしい事も
ないうたれて
やりませふが
いまきうでは
すこしこまりの
すじだ
【左丁】
【上段】
五月下じゆん
ふじのかかやて
うたれよふ
それまでは
わすれぬよふに
あかぎつくりの
たんとうとかり
ばのきつてを
身がはりにあづ
けておかふと
しちやをくどく
よふな事を
いふ
この時むね
そこかかんにんだ
おつこさへか
いかにとしかよつて
せはしいとてなぜ
三ぼうを
こはした
そりや ̄アまだ
正月のくいつみに
つかうのた
【右丁】
【下段】
それはさぞざねん
びんしけん
まちかね山の
ほとゝぎすた
らふと
六百年あとの
あたらしい
しやれを
いふ
【左丁】
【下段】
めり〳〵〳〵
みしや
〳〵〳〵
右
さんぼうの
こはれる
おとなり
なにさしびれがきれたから
とつつらまつてたとふとおもつてつい
こはした ̄ヲヽこはすんでにのめらふと
した
【右丁】
【上段】
鬼王新左衛門は
いかにとしか
よつて物を
わすれるとて
此ごろ
いろ〳〵な
くろうをした
事はさつばりとわすれまた
まじり〳〵としていたりけるかある
さむきばんに月さよばゝ ̄アとふたり
ぞうすいをくしらへかつぶしを入て
くふとて兄弟のものからあづかりし
あかぎつくりのたんとうをわすれて
しまひたなへほうりあげて
おきしがいゝかつぶし小刀と
おもひあかぎづくり
にてかつふしをかきかり
ばの切手は付木のあつ
いのだと思ひ火うち
ばこへさじいこんでうつ
ちやらかしてをくとしが
よるととんだ事を
するもん
だ
【左丁】
【上段】
そがのどう三郎は
きつねにばかされた
やうにうろ〳〵して
ゐるところをだれか
とんだ物おぼへの
いゝ人がきへは
せう〳〵が所へ
ときむねが
文のつかいに行
のだはやくいか
つしやいときを
つけられ六百
年めでけは
いざかの仲
の丁でいゝやつとめぐりあひ
文をわたしてためいきをつくスウ〳〵〳〵
〳〵
しやう〳〵も六百十七八の
しんぞうたゞ口のうちで
むぐ〳〵むぐ〳〵と
くりをぬすんで
くうよふなよみ
よふをする
ついのかむろかた〳〵が六百十二 ̄ツヽ
どふかせなかへきうをすへるよふだ
【右丁】
【下段】
どつからだしたか
そのかつふし小刀は
よさそふたふるかね
かいにうつてかい
かへるがよひ
月さよも
かつぶしをかくは
下手とみへて
めつたむしやうに
あらがきにする
【左丁】
【下段】
わつちや ̄ア
六百年すぎ
たまつくろな
お文だから
しんらんまの
おふみだと
思つてよつ
ほどおありがた
かつた
せう〳〵しうし
ごもんとゝ
みへたり
【右丁】
【上段】
京の須郎すけとしは
友切丸の刀せんぎのため
あげまきの介六となり
くるはへ入くみひげの
伊久がもちし事をしりて
とりかへさんとけんくはを
しかけそれぎりで六百年
たつたからこれもなんの
事だかたがひにわすれ
うぢついてばつかり
ゐてなんのおちや
とうにも
ならず
そのかはりに
けんくはをしかけて
六百ねんたつたは
小べんをしかけて
六百年たつぼと
せつなくなし
《割書:|伊久》
としより二かいへ
あからずにはへ
おりるになんぞ
ぶら〳〵とへを
ひらんや介六
【左丁】
【上段】
のちにめをふと
いつたところが
六百年こふして
ゐる事もね ̄エ
《割書:|介六》
おれが此くるはへ
くるとば ̄アへ
たちのつへで
やらいをいわせ
はなのあなへ
せがき舟を
けこむ
はへ
《割書:|あけまき》
 ̄アイぢゝいの
女房にや ̄ア
ばゝ ̄アがなりやんす
信久さん ̄ニア
そふ思つて
下さんせ
てん〳〵むき〳〵
思ひおして
いゝたひ事
ばつかりいつて
ねつからおもしろくなし
【右丁】
【下段】
かんてら門とみへとしがよつて
御てら門ばんにもならず
あさがを
せんべい
六百年が
あいだ
しめり
かへつて
うまくも
なん
とも
なし
介六なぜおら ̄ア
あたまへげたを
あげてこふして
いるだらふどふも
思ひだされ
ねへ
【左丁】
【下段】
さればなぜだか
そがの十郎
白ざけうりと
なり
くるはへ
入こみしが
あんまり
たわけ
で
あきれて
こまつて
ゐる
【右丁】
【上段】
たらないさん
用のぜにを思ひ
だすやふにみん
ながあたまを
わりしておもひ
だしたところが
友切丸せんぎの
ためいきうが
さしたる一 ̄トこし
こそ友切丸に
さうゐないと
せんぎしけるが
伊久もかたき
やくなぞといふ
事はいつの事六
百六七十のらう
しんなればねこの
やふになりてうつ
かりとしていける
ゆへいつか友切丸は
人にとられはり
ぬきのほん〳〵となる
わきざしととりかへ
られた事は夢にも
【左丁】
【上段】
しらずこんな
めんどうな事は
としがよつては
こんがうすく
なつていやた〳〵と
たかひにむちやに
してしまう
此ときあげまき
こふまきに
あてられ
はちまきを
してしらん
かをゝして
ゐる
松まきで
しアヽをおしなから
ミゝたらいへ
あげまきを
する
【右丁】
【下段】
かんへら門とへみゝが
とをくなつてこんなでいりは
めんどうがりしらんかを〳〵してゐる
さし
こんでぬく
 ̄ソレぼん
またさす
それほん
それさす
ほん
なか〳〵
おもし
ろい
もんた
【左丁】
【下段】
友切丸と
おもつたら
松谷
どんの
とも
さし
丸た
あさかをせんべい
あけまきかまきつつに
むねかわるくなり
かたまきせんへいと
なり
かたくなつて
これもしらぬ
かを〳〵して
ゐる
【右丁】
【上段】
そのむかしは
やのね五郎と
いつてときむねも
やのねをみかき
しかいまはとしか
よつてそんなけん
きはなしこしやう
たいしや金ほしや
おちぶつさまの
りんとうを
こゝをせんとゝ
とのこをにけて
みかいてこそは
いゝにける
上留理
大薩摩
下ぼん三又
した
らふん
三味線
岡﨑
わら衆は
【左丁】
よいじよろ
しゆの
はし
まつた
とき
上るり
太夫これも
六百いくつと
いふとしより
はもぬけて
くへもたゝず
なにいふか
ねつから
わからず
〽さゆほぢよに《割書:引|》
しよがの五よふ
ちにきむねは《割書:引|》
ぺつちやくちや
ぺつちや〳〵くちや〳〵〳〵
ぐにや〳〵ばく〳〵
にやむ〳〵〳〵てゝんてん〳〵〳〵〳〵
上るりいつまでもこんなことば
つかりいつてとめどなし
【右丁】
【下段】
のとからたんか
せりたしにてくつた
ものをあけしやうじ
一本もはのねい五郎
きたならし
くつて
とふも
なら
す
【左丁の看板】
《割書:上歯も|下歯も》歯之無五郎(はのねいごらう)
【右丁】
【上段】
さてもそか
兄弟のかたき
うちは五月
下しゆんの
やくそくなれと
としよりの事
なれはそれも
わすれて
しまいその
うへとしか
よるとあにも
かもせはしく
なればまた
四月の上
しゆんほとし
きにもかつほも
でぬうちに
もふかたきうちの
はしりをやらかさんと
きやうたいすけつねが
ねところへおしよせしは
【左丁】
【上段】
なんの事はない
ねんぶつかうの
かへりにびやう人
みまい ̄ニゆく
よふなり
御所の五郎丸
六百四五十の
よたかのすか
たとなり時むね
を
つらまへる
とんだ所に
よたかゞゐる
こゝ ̄ニおさいせんの
あまりか八文あり
それぎりだよたか
小やうをこのみと今川
にもあるからあのしびんの
小へんでものまつし
わしらはみゝはとをし
なんだかしれぬがにげよふ
【右丁】
【下段】
すけつね〳〵
おきろ〳〵
おきるかいや
ならねて
いさつし
なんなら
こんとの
事
しやう
めん
とうた
それはいゝが
しびんをひつくる
かへしてあたまを
小へんたらけに
した
此あたま
小べん無用と
いふふだを
たてぬのが
こつちも
ぶねん〳〵
【左丁】
【下段】
大藤内としかよつて
犬のやふにはつてにける
これてたくかんでもすると
きやんぬし〳〵となくせんきた
【右丁】
草ぞうしのしまひの
はてのつかぬを夢に
するといふはさりとは
つまらぬ事と思ひ
しがこれなき事に
あらずすでに此そがの
しゞうゆめなりさすれば
ある事なり人は六のすう
をもつて賀(か)をしゆくす
六白年をすぎし春
きやうげんも夢の
うちといへとそかの
賀なり荘子(さうし)の夢も
蝶(てう)鳥(とり)と化(か)さはくちの夢を
さまさんため仙家(せんか)の狂言
ゆめが賀か賀か夢かむちう
もんもう夢作者なんにも芝の
いもつ ̄つ ほりこれも二日のはつ夢の
さむるとおもへはいつみやははんもと
つきせぬはるこそめでたけれ
兄第のぢい屋たちどふして
こんなにワク〳〵なりましたか
これはおつて申上へり候
【左丁】
【見返し】
【裏表紙】
御誂染長寿小紋
【参照資料:国会図書館デジタルコレクション>日本名著全集 江戸文芸之部>第11巻・黄表紙廿五種>御誂染長寿小紋 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1018497/356】
●模範解答付きコレクションは、国会図書館が公開する翻刻本を参照資料として、自分で答え合わせをしながら翻刻を進めることができるコレクションです。
●参照する翻刻本では、かなを漢字にしたり、濁点や句読点を付加するなど、読みやすさのために原書と異なる表記をしている場合があります。入力にあたっては、「みんなで翻刻」ガイドラインの規則に従い、原書の表記を優先し、見たままに翻刻して下さい。
●参照する翻刻本と原書の間で、版の違いなどにより文章や構成が相違する場合があります。この場合も原書の状況を優先して翻刻して下さい。
【右丁】
御誂染長寿小紋
【左丁】
命(いのち)といふ字(じ)は誰(た)が書(かい)た。素服(しろむく)ぬいで見せさんせ。嗚呼(あゝ)あんまはり
けんへきも。百万両(ひやくまんりやう)の分限者(ぶげんしや)も。大切(たいせつ)なは命なり。しんそ命を総(あげ)
角(まき)も。助六(すけろく)がために苦労(くろう)をすれば。命をちゞむることあり命あつ
てのものだねなれば。金をのばさんより命をのばさんにしかじ。
命(めい)は食(しよく)にあり。餺飥餅(ぼたもち)は棚(たな)にあり。命(いのち)は養生(ようじやう)にあり。養(よう)
生(じやう)は心(こゝろ)にあり。一心命(いつしんいのち)の花繍(いれぼくろ)。のろくなるのはいらぬもの。長(ながく)
てわるいが鼻(はな)の下(した)。ながくてよいが命なりけりさよの中山 餳(あめ)
の餅(もち)より甘口(あまくち)な。此(この)草紙(さうし)をみて笑(わら)ふて命をのばし玉へと。
筆(ふで)の命(いのち)毛(げ)なが〴〵しく。かきつけ侍(はべ)り
享 和 二 年 壬 戌 春 山 東 京 伝 戯 記【印】
【右丁】
【上段】
ぜにかねにも
かへられぬもの
はいのちなり
よの中に大
せつなるもの
をいのちから
二ばんめといふ
さすれば命
ほどのたから
はなしその
いのちといふ
ものどこから
でるぞといふ
にてんちざう
くわの神お
ほくのいのち
を仕入てと
ほり天の一丁
めにみせをい
だしていの
ちのといや
をし玉ふ
【下段上部】
そうくわの神古
今人のいのちのた
なおろしをし給ふ
〽神代のじぶんはむ
しやうにいのちがながいから
かんじやうにてまがとれる
〽ひこほゝでみの
みことはさるが六十三万七千
八百九十二さいうがやふきあはせす
のみことは八十三万六千四十二さい
だこのやうなながいいのちは
おきどころにこまるくらしきが
たんとでゝはかんじやうが
ひきあはぬぞ
【下段下部】
いのちは人
ばかりにあら
ずちやう
るいちくるい
うほむし
けらさう
もくに
いたるまで
それ〳〵に
仕入あり
つるかめの
ながきいの
ちぶゆう
のいちごの
みじかき松
のちとせ
あさがほのひ
とさかりみな
さだまりのい
のちなり
【左丁】
【上段】
○木火土
金水の五
ぎやうはいの
ちのばんとう
なりこの五
人にていのち
をうけもちに
してしはいする
ゆへにすべて人
のいのちは木火
土金水のばん
とうもちなり
一人かけても
いのちまつた
からず
〽いのちの仕入
ふちやうがついて
かたなかけのやう
なものにかけてある
【中段】
〽日月の
ものさし
にて命
のなかみし
かをはかる
【下段】
〽はんくわのちは
人のやうじやう
がわるうござ
ればたふんみ
じかい命が
うれます
とかくな
がいいのち
はいなか
むきで
ござり
ます
【右丁】
【上段】
いのちといふものふとくじやうぶにみへ
てもみじかきありほそくて
よわ〳〵したるにもながき
ありみかけにはよらぬ
ものなり
〽一代のまもりほんぞん
わがあづかりの子の
うまれるたびにいの
ちのとんやへきたり
玉ひそれ〳〵の
いんゑんにしたがひて
あるいはながくあるい
はみじかきいのち
をかいとりてさ
づけ玉ふすこ
しもゑこひ
いきはなされ
ずとかくなが
みしかはさだ
まれるいんゑん
なり
〽いのちばか
りはうりかい
にならぬと
いふはもつと
もなりいの
ちをうりかひ
【中段】
〽八まんさまおうま
にてかいにき玉ふ
【下段】
〽ふげんぼさつきをつけ玉ふ
小象(こぞう)よそのさげている
命をだいしにもてふと
くじやうぶ
なやうでも
ほつき
りと
おれ
るぞ
〽はやの勘午にさ
づけるいのちは三尺
にたるかたらず
てよいしなの
やのおはんにさ
づけるいのち
【左丁】
【上段】
にし玉ふは
かみほとけ
ばかりなり
〽おとこのいのち
は二十五と四十二
女の命は十九
と三十三
これらは
やくどしと
いゝて人が
きらふゆへ
にねたんや
すし八十八
はよねのまもり
とて人がめで
たかるゆへねたん
高直なり七十八
十の命もよい〳〵
になりこしがぬ
けたりてあしが
きかなんたりろう
もうしたりすれ
ばいきているかひも
なきゆへたとへいのち
がながくてもこれら
はこれらはひけもの
にてねだんかくべつ
やすし
【中段】
〽ずいふん
たけのながひ
じやうぶなしま
がらのよいいのち
がほしひ
〽七十 古来(こらい)
まれなり
と申せバ七十 こくう
よりいしやうの ぞうぼ
いのちはたし さつ
なうごさり
ます
〽こくう
ぞうさまはこ
くうにおねぎりなさるでこまるぞ
【下段】
を一尺四寸
八百屋お七
にさづける
いの
ちを
一尺五寸
もらひ
たいと
ふどうさ
まはん
ゑりか
そで口
をかふ
きど
り
なり
【右丁】
【上段】
とうぼうさくが命は九千丈うらしま太郎は
八千丈三浦大介百六丈みなこれ天より
さため玉へる今命にてかみほとけのおさい
かくにとものびちゞみのできにくきもの
はいのちなりしかしながら善をなせ
ばみじかきもながくなり悪を
なせばながきもみじかく
なるとかく一心のもちやう
にてのびちゞみも又
なきに
あらず
〽とうぼうさくが
命はやりのごとし
うらしま太郎が
命はだいがさの
ことし三から
のおほすけ
が命はた
てがたのごとし
此三いろはおもて
たちたる大せつ
なだうぐなり
いのちもまた
人のために
大切なだう
ぐなりがてんが
〳〵
【中段】
〽おれがいのちを
やりにたとへたは命
をだいじにしろやりばなしにするなと
いふことた
【下段】
ほうそか命はくじらざし
にて七百丈ばんくわいがい
のちはかづさもめん
にてじやうなし
ながいも
あれば
みじ
かいも
あるは八百や
のゑんのし
たと人の
命なり
【左丁】
【上段】
ばくやがいかぎももちてに
よりながいいのちをきづかり
て其もちての手をきが
わかければちらとでおれ
たりさきをちゞめたりする
ことありこれみないつ心の
もちやうあしくまたはふ
やうじやうなるか災なり
いのちといふものはたとはゞ
いあいぬきのかたなのごとし
たいじのいのちをこしに
さしてたかいところへあ
しだはいてのほり
ながい命をぬいて
ふりまはすやうな
ものなれば命ほど
あぶなきものはなし
わるくするとふみ
はづしていのちを
うしなふことあり
ようじんせすんば
あるべからず
【中段】
〽命をかへす
はんぶんくらい
用なら此あいだ
そりやそこで
もいのちが
おしいとおつ
しやるあそ
こても命が
おしいとおつ
しやるこりや
やつとうか〱
していのちを
ぼうにふるな
【下段】
〽はいやい
さやうで
こざい
〽いのち
のかま
には
んのお
もり
あり
〽きどあいらくといふやつがかさ
なるといのちをあぶなくする
だうぐ
なり
【右丁】
【上段】
いのちといふものは
ておきがたいしなり
一心のてをきがわるひと
いかほどなかき命を
さづかりてもわれと
わかでにちゞめること
ありいかりはらた
ちゆくいかはいゝよ
ろこびかなしみおし
いほしいのたぐひ
みないのちをちゞ
めるやくしやなり
〽おれが命と
思ふ此かへだのあはせ
をまげてかうかつほだ
まけさつせへな
【中段】
〽七十五日いきのび
やうとおもつてかふに
かたみとはきにかゝる
思ひきつて一ぽん
かうべい
〽せけをかむやうなかつほだ
一 ̄トきれがやかつて百に
つひている百まても
いきやうか
【下段】
〽それごらふがつ
いきてゐるいほだ
〽となりては
はつかつほで
いきのびるつもり
だがこつちどらは
ずのまずはら
よしはらでいのち
をのはすおれか
命はよくのひる
いのちたがとかく
子ともらがな
にかにつ
けておや
のいのちを
ちゞめをる
〽かゝアにはなげを
のばすとちがつて
命をのはすはてまが
とれる
【右丁】
【上段】
〽余をのばさんとて
きん〳〵をふんだんに
つかいうへなきたのしみ
をしてもしりのつまら
ぬことあればのはした
命かへつて十そうばいに
ちゝまることありくはず
ひんらくといふことわさも
ありせつちんの湯ごから
梅がゝをしたいこいふねて
月見をし土用まへにほとゝ
ぎすをきくほんすきに
はつかつをくはひせかき
ふねの夕すゞみ日れんき
のしばゐけんぶつせつたい
ぢやをすゝりなからやき
たんこをしてやりこはだの
こぶまきでどひろくをひ
つかけてもたのしみに二
いろはなしこゝろさへ
やすければいのちののび
ることあたかも小むめの
せたけたぬきのきん玉
当風にあてたりあめ
のごとし
【中段】
〽梅がへも
かつたわいナア
とししていはぬはしち
はよつぼどおくましき
ものとみへたり
〽けふはよくいのちが
のびやしたしたが
おまへももふ五十
ぢかいせへか
ところ〴〵いのち
にしわがより
やした
ひのしを
かけ
や
しやう
【下段】
〽かつさんおめへの
命は
あわの
やうだ
いうに
こんな〳〵
【右丁】
【上段】
よの中に命ほどだい
じなものはなけれども
そのいのちとつりがへ
なものはかねなり
かねとつふやつがゑて
は命にもおよふものにて
かねにいのちをとられた ̄ト
ことのむかしからかぞへつく
しがたし
〽命はながいほどがよけれ
どもとしよりて子なく
かゝろふしまもなきみに
てつけ〴〵とながいきする
も又みじめなものなり
これはひつきやう
命にてあしを
からめられる
だうりなり
〽わしがていしゆは
水くわしうりで
こがない〳〵といつ
てうりありき
とふ〳〵子がなく
てわしがこの
さまになりました
【下段】
〽命とつりがへにせねは
かねもちにはなられ
ぬたとへ命にかへて
もたゞほしいものは
かねだのはがふ
くりた
〽金にからみがかつ〳〵ごさ
るおやの金をつかふときは
かきやうむちうとひゞく
なりおのか金をつかふとき
はしじう滅亡(めつぼう)と
ひゝくなり正
じきりち
ぎの帳あい
はかくべつき
らくとかせく
なりきひて
おどろく人
もなし
【左丁】
【上段】
女はしうねんのふかきものにて
へびとなりじやとなりしたりや
しおほくだうじやう外のゑん
ぎでもみなさまごそんじのこと
なり女の一心のへびめがべにちよく
をなめたねこのやうにくれ
なひのしたをべろり〴〵と
だしかけぬりだんすの
びやうのやうなめを
ひからせときすてた
まるぐけのやうにの
たつて男の命を
とらんする
かるがゆへにう
つろゝき女を
ほめて命とり
めとは申すなり
〽すかぬことをは
いわしやんすいかになが
れのみじやとてもこゝろ
にふたつはないわいなと
ふるへごゑになつてほろ〳〵
とひざのうへゝこぼしたる
なみだはあたかもへびのたまごのごとしそこでつひには
男の命をとりおはんぬなんぼうかおそろしき物語(ものかたり)にて候
【下段】
けいせいは
よいから道
びをつかひて
よりつかず
きやくはあつ
くなりもふ
かへる〳〵と
いふところを
なんだへばか
らしいとあ
たまからのん
でかゝる
とかく
女は男
の命
とり
なり
【右丁】
【上段】
さけといふやつ
は人の命をけづ
るこがたななつ
ゆへにさけをの
むことをけづる
といふかつほぶし
のやせるもけづ
るゆへなりよう
じのほそく
なるもけづるゆへ
なり松いたのうす
くなるもけづるゆへ
なりかつほぶしもs
やうじも松いたもかけ
がへあり人の命には
かけがへなしけづつただけは
うまることなし
〽さけで命をけづるはこがた
なでけづるやうなものなれば
まだいのちのへるてまがとれ
るけれど女といふやつは男の舎
をけべるかんななればだんじの
うちに命がへるなりようじんす
べし女は命のてきやくなること
あたかも金にやきみそなめ
くじにしほ水かつはにわちう
【中段】
〽もふのめねへ
これだ
〳〵
【下段】
命をけづるとしりながらどふ
もさけがやめら
れねへどう
するもんだ
のみやうじん
さまへでも
ぐわんがけ
をしやうか
〽さあいゝえ
だもふ一つ
のめのわか
くさとし
玉へつぎす
てられた
かんざま
しはあ
けて
しまふ
がいゝ
はくはね
さけのあぢ
しらずだ
〽岩田の
〈すやまはよく
のめるぞ
【左丁】
【上段】
さんのごとし
〽此女中岩井喜代太郎が
ぶたいがほときて
うつくしき
うへにてが
たんとあれ
ば男の命
をけづること
つけぎや
のごことし
〽こんやは又うちでおかみ
さんとちわつておそひ
のかへたゞしおぢらしかへ
おかたじけ
などゝいはれる
たびに
命がけ
づれる
【下段】
〽いたをけづゝたかんなくずはまだ
たきつけにでもなるが命を
けづりたるかんなくづはたゞ
おいしやさまのやくだいと
なるのみなり
〽いづれ命(めい)
すうはさま
〴〵にある
がなかにもわ
づかのいのち
だまゝの
川〳〵
【右丁】
【上段】
道行(みちゆき)仇(あだ)
寝言(ねごと)夢(ゆめ)の
浮橋(うきはし)
あく玉がなにぞと人
のとひしときつうと
こたへてきへなまじ
ものおもはする秋
のくれむこう
とふるは清十か郎
じやないかかさや
さんかつ半七と
いひかわし
たることのは
もそりやかわい
のじやないにく
ふとんいまきり
かけたはあにさん
かあぶない〳〵の
ことなからおなかの
やゝもはやみつきは
つかあまりに四十両つ
かひはだして二分のこる
金より大じな此いのち
すてにゆくとはだいたんな
とんだちやがまじやないかいな
【左丁】
【上段】
やかわんとみせてほうかふり
むかしのことならばとのやうに
しやうもやうは
たつた川
高尾も
びくにも
いろの道
ふみまよ
うたる
こいの道
いんぐわ
じやね
いと柳
つながる
えんや
ぬへのを
のへびを
つかひて
これまで
もいきの
ひたのがと
くわかにこ
まん才三
におごま
さんしま
さんこんさ
んなるたんほ一寸
さきはまゝの川
つひの命のすて所いさかしこへといそぎゆく
【右丁】
【中段】
〽おまへはよい所へきが
つきなすつた命
をすてるさうだんは
まあ七八十ねんのば
しやしやう
忠臣水滸伝(ちうしんすいこでん)《割書:京伝作|かうへん五さつ》
当ねん出来うり出し申候
【下段】
〽此さくしやはみち
ゆきのゆめをみた
そうてもんくはあ
たかもねごと
のごとしだ
〽とてもわしは
すてねば
ならぬい
のち
所を
すて
ずにこゝ
から内へ
かへるほど
にそなた
はあとに
とゞまつ
てすてる
ともとう
ともしやれ
【左丁】
【下段】
○京伝店しんもの御ひろう
△定九郎くすべがみた
ばこ入品々
〽これはてあたりがはぶたへ
でようくんいろなるゆへ
にかくなづけ申候
△ゑんしう形(がた)
△ふつき形
△立身(りつしん)形
右御多葉粉入
しんもの此外品々
しんがたあり■■■■
にもめづらしき新
がたいろ〳〵あり
くわしく占しる
しがたし
【右丁】
【上段】
ある人さけにゑい
ひよろ〳〵しながら
川ばたをとふりふみはづ
して川へはまり命あや
うくそへたるところに
おりよくとん〳〵とうがら
しうつとふりかゝりあ
やうき命をひろいあ
けるからき命をひらう
といふことはこのとき
よりぞはじまりける
〽ひりりと
からいがさん
しよのこひよろ
りとながいはた
しかに人のあ
しであんがい
これは七いろ
とうがらし
ではなく
てなまへ
のごうさらしにni
〽あゝあぶ内(なひ)といふやつと
さんさけによつたと
みへるはへ
【下段】
〽からだはしづむ命はむかしばなしの
もゝのやうに
ながれて
ゆく
【左丁】
【上段】
〽命を玉のをそ
いひて命のほそ
きこといとのごと
ぐまた露(ろ)命と
いひて命のもろき
ことつゆのごとし
くものゐにあれた
るこまはつなぐと
もつなぎかねるは
命なり
〽いのちながげれば
はぢおほし四十に
してしなんこそめ
やすかるべけれとけんこう
ほうしのかきのこされしも
うべなるかなながいきをして
はぢおほきはひつきやう命
のためにくるしめらるゝがご
とし
〽一ツべつついのほそきけふりの
いとをもつてろめいをつなぐは
千ごくづみのふねをきぬ
いとでつなぐよりも
なほあやうし
【下段】
〽おれはなか〳〵
のちうにんも
のではない
ながいきの
ごうめんもの
だ
【右丁】
【上段】
命といふやつがとき〴〵
せんたくせぬとよくあかぼん
のうにけがれてあぶらやの
ぞうきんのごとくよごれ
つひには命がねぐたるもの
なりしかしいのちのせんたく
もあらひすぐせばてのかは
をすりむきないしやうが
ほころびてしんだいのぢ
あいがわるくなる
ものなればその
ほど〴〵をかんがへ
てせんたくすべし
かならずあらひ
すぐすべからす
〽こゝろにしは
みのこらぬやう
に命のせんたく
をするのだじゆ
ばんなら一もんぢ【がヵ】
のりですむが命
のせん
くには
小ばん金で
なければのり
【左丁】
【上段】
がきかねへ
【右丁】
【中段】
〽おやばか
らしいかぜを
ひきなんしやう
にへ
〽ゆやでふんどし
のせんたくする
きどりだぞ
【下段】
〽これがほんの金を
ゆみづのやうに
つかうといふのだ
なんときついか
〳〵
命のせん〱たく
とはいふものゝ
じつはふられた
はぢをすゝぎ
だすのさ
【左丁】
【上段】
ねた
〽さても見事や
ふりもよしはだ
かすがたのかはゆう
しさまのしめ
たるふんどしは
なにと申スふん
どしぞ
【下段】
〽ちりから
〳〵
すた
〳〵
ぼう
す
【右丁】
【上段】
命のせんたくもしす
ぐせばおほみそかに
かけとりがやろうの
とうがんぶねか五百
らかんのげんぞくし
たやうにつめかけせつ
かくひきのばした
命をいつときにちゞ
める
〽命のちゞむにも
いろ〳〵あり女ゆへに
命のちゞむをなり
ひらちゞみといひ金
もちのいのちのちゞ
むをふくらちゞみ
といひくいもので
いのちのちゞむを
したきりちゞみと
いひちやじんのいのち
のちゞむをすきやちゞ
みといひかすりばかり
とりたがる人のいのち
のちゞむをゑちごちゞみ
といふきぬちゞみもめん
ちゞみにもそれ〳〵にいわ
れあるべし
【下段】
〽まへのしう
つまんでこ
みじかく
りくつを
いわつせへ
だん〴〵あと
にりくつが
つかへている
〽せつかくのば
した命が
ろくろくびの
よあけがた
しぼりばなしの
まげゆわひ
さむいばん
のき玉の
ごとく
ちゞまつて
しまつた
かなしや
〳〵
【左丁】
【上段】
なめくじはかいるをおそれ
かいるはへびをおそれへびは
はなめくじをおそれきつね
はかりうどをおそれかりう
どはしやうやをおそれ
しやうやはきつねをおそ
るのみしらみのおやゆ
びをおそれるもみなこ
れ命がおしきゆへ也
さればむやくのせつしやうし
ものゝ命をとるべからず
〽はなしがめはなしうな
きはなしどりなど命
のおやにおんをかへし
たるためしおほし
〽そばからかめがこれ
すゞめ此いはゐにちつ
とおごりやれといへば
すゞめがおふさてがつ
てんじやありやせこりやせ
やつとせよい〳〵といつてうれ
しがるこれをなづけてすゞめ
おごりといふ
【下段】
〽あなたは命の
おやでごさり
ますとうれ
しなきに
めそつこう
なぎは
めそ〳〵と
なく
【右丁】
【上段】
くるまの命はくさびなり
あふぎの命はかなめ
からかさの命はろくろ
なりふうりんの命
はたんざくなりおや船
に命づなありたび
びとに命がねあり
いづれ命はたいせつ
なるものなりしかるに
こいはくせものにて
そのたいせつなる命
もこいゆへにはうしなひ
やすし思ふ男を命
にかけてきよみづの
ぶたひからとびおりる
もみなこいといふ
くせものゝしわざ
なりおそるべし
【中段】
〽まんいちぐはんのかなはぬときは
かはゝやぶれほねはみぢんになる
からかさにはふるぼねかひもあるが命の古(ふる)ぼねは何(なん)にもならぬ
【左丁】
【上段】
〽さむらいの命はたとへば
べんとうもちのべんとう
やりもちのやりのごとし
なぜといふにべんとう
もちのべんとうは
わがもつながら
わがものにあらす
やりもちのやりも
まさかのときは
だんなのもの
なりさむらい
の命はかねてきみへ
さしあげておく
命なればわが命にて
わがものにあらず
ことあるときは
命をまとにかけ
てはたらかねば
ちうぎの
人といわ
れ
ざる
なり
【下段】
〽ちうぎにならでは
すてぬ命とは加
右門がきんげんだ
〽命はだいじのもの
だがちうぎのた
めにはかるひ
よの中にちう
ぎほどおもひ
ものはないぞ
【右丁】
よの中にいしやほど大じの
わざはなしいしやは人の命を
あづかるものなればすこしも
ゆだんのならぬわざなり
〽おいしやさまみやくのこう
しやくをし玉ふ
〽りやうぢはだい一
にみやくの見やう
がかんじんでござる
しんつうのやまひで
をり〳〵むなさきで
ざつwa
くりwaばつたり
とどうきのうつ
みやくをなつけて
ひやうしみやくといふ
かみがたでははやみ
やくともいゝますこ
れはりやうぢのき
つかけがむつかしう
ござる又女中など
つよいみやくでおり〳〵
つかへるしやうのみやく
をなづけてみやくづかへ
といひますひやめしが
きつひどくでござる又
しやうによつてすこし
のうちにいろ〳〵かわる
【左丁】
【上段】
みやくがこさるこれをなづけてはやがはりのみやくと
いゝますかぜひきにひつかへしのみやくといふがあるこれは
はりをつなぎにうつていねばならぬ又ねつがつよくてこのばは
此まゝたちわかれんかた〴〵さらばなどとういことをいふをつらみやくともかたしやぎりの
みやくともいふにしづんでうつをくろみやくともだんまりのみやくともいひきびしくうつを
ちよん〳〵みやくといひます
〽おい
しや
のあづ
かつたる
命
名まへの
ふたが
ついてかべに
かけてある
〽此ごろは
びやうにん
がおほくて
あづかつ
た命
のおき所に
こまりますて
【下段】
〽きん〴〵を
人にあづけ
るにはきつ
としたし
やうにんを
たてしやう
もんをとら
ねばあづ
けぬに金
より大じ
な命を
いしやにあづ
けるにはたゞ
さじ一ぽんが
めあてなり
さりとはあぶ
なきあづけ
ものなり
【右丁】
【上段】
りやうけんが
わるいとわづかの
ことにはやまつて
命をうしなふ
ことありは
きやうふた
たびてらさ
ずらつくは
ふたゝびこんだ
にのぼらず
いちどすて
たるいのち
ふたゝ
びもどる
ことなし
〽わしが此さでゞ
命をすくつて
しんぜやうさで〴〵
あぶなひことじやと
きやうなときはぢ口
までがこじつけなり
〽しちのながれるはりあげも
できるが命のながれるしかたがない
【左丁】
いらざることをくにやんで
命をちゞむべからず命あつて
のものだねなりしんで
はなみのさくことなし
金のつるにありつゝも
金のなる木をもと
めるもなのたかく
なるもしそんの
はびこるもみな
命がながくなけ
ればだいじを
なしがたし
〽うれしや〳〵
おれもことし
八十八になるが
金のつるもだい
ぶんのびがみへる
なもことのほか
たかくなつててん
じやうへつきぬけそふだ
しそんもだいぶんはびこつたはへ
なるほどいのちがものだねだぞ
【右丁】
【下段】
みづゝ
ぱなの
ながれ
るは
すてる
がよし
命の
ながれ
るは
すく
ふが
いゝ
【右丁】
くは命がものだねなれば
とかく命がながくなけ
ればだいじはなしがたし
その命をながくする
にはよくいのちをやし
なふにしかじ命を
やしなふはさうもく
をやしなふ
がごとく
すべしつねにせいけん
のしよもつのしろみづ
ほとけのきやうもんの
せんじしるをかけて
りよくのあぶらむし
みやうもんのけむしを
さり心をもちひてやし
なへば命よくそだちのび〴〵
としてさいわひのはなさき
ふうきのみのりしそんの
ゑだはしげり千ざいの
老松のごとく
ときわの
大木となり
名木のほまれを
のこすことうたがひ
【左丁】
【上段】
なしゑだもさかへて
はもしげるちよのこ
おめでたやとは此こと
なり
〽せんどしよくわい
のみたてのとき客
の金をせしめんと
こたつのかげに
より玉ふこの
きやくにわかに
だいぞくと
なりへどをつき
てをならししん
ぞかふろとふざ
けしより客を
きやほと申
すとかや
〽それは老松
のもぢりこつ
ちは命といふ
じの松の木
がねづよくなつ
てどんなかせがふい
てもをれるきづかひは
ない〳〵つふりだ
【中段】
〽松はつらひとみな
おしやんすけれ
どな命のなが
いは松のこと
だ
【下段】
〽命といふ木はたがうへた
しろみづかけてみせ
さんせあゝあん
まりなと
此ぢい
さま
江戸ぶし
をもちつと
はうなつた
人なり
【右丁】
【上段】
命のくすりといふはわらつて
くらすほどのくすりはなし
此ゑぞうしをごらふじてわらひ
玉ふこどもしゆは命がのびて
ながくなり命のおきどころ
にこまり玉ひたこのやうに
命のしつぼをいとまき
にまいておくほどのこと
なりさればはつはるの御しん
もつおんとし玉にもこの
うへのめでたきさうしは
なしまことにゑんめい
長寿のけさくなり
こひやうばん〳〵
【中段】
清覚世
道人伝方
読書丸(とくしよくわん)《割書:一包代|一匁五分》【読書丸は四角囲み線】
きこんをつよくしものおぼへを
よくしがんりきをつよくしものに
たいくつしたるによし又うつきを
はらいきぶんをさわやかにすきにしやう
うつしやうの人用てよし又旅行にたくわへて
ゑきおほしくはしくはのうがきにあり
売弘所京伝店
【下段】
京伝戯作【京伝戯作は四角囲み線】
哥麿画
なかほど此本
は命ののびる
ほんだ
おかしい〳〵
あはゝ〳〵〳〵
〳〵
とわらふ
たびに
命が
のびる
やつさ
【参照資料:国会図書館デジタルコレクション>近松門左衛門全集>第五巻>栬狩劍本地 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1884347/251】
●模範解答付きコレクションは、国会図書館が公開する翻刻本を参照資料として、自分で答え合わせをしながら翻刻を進めることができるコレクションです。
●参照する翻刻本では、かなを漢字にしたり、濁点や句読点を付加するなど、読みやすさのために原書と異なる表記をしている場合があります。入力にあたっては、「みんなで翻刻」ガイドラインの規則に従い、原書の表記を優先し、見たままに翻刻して下さい。
●参照する翻刻本と原書の間で、版の違いなどにより文章や構成が相違する場合があります。この場合も原書の状況を優先して翻刻して下さい。
【帙の題箋】
紅葉狩釼【注】本地
【注 「釼」は『大漢和辞典』に記載なし。「剣」の異体字ヵ】
【ちなみに「つるぎ」の漢字は多くの種類があり、整理してみます。現在の当用漢字は「剣」です。元略字だったものです。この字の旧漢字で正字が「劍」。「劒・劎」は古字。「劔」は俗字。コマ1の資料整理票の書名欄の表記は「劍」か「剣」とあってほしいところ「釼」は多分(辞書に記載なし)俗字と思われます。】
【帙を開き伏せた状態】
【帙の背】
紅葉狩釼本地
【帙の表の題箋】
紅葉狩釼本地
【ラベル整理番号】
大国
655
【題箋】
紅葉狩釼本地
近松門左衛門
【下部貼紙横書き】
紅葉狩釼本地
近松門左衛門
【右丁 朱印下と蔵書印内】
655
3250
【左丁】
【以下本文と振り仮名のみの入力です。】
栬狩釼本地 近松門左衛門作
比は冷泉(れいぜい)ゐんの御在位(こざいゐ)の御代。
案和(あんわ)二年の春主上夜な〳〵御 悩(なう)
あり 有験(うげん)の高僧貴僧に仰せて
大法を修(じゆ)せられけれ共。其しるし更に
なかりけり。御なふはうしみつ計にて有けるが。
神泉苑(しんせんえん)の森(もり)の方よ□【りヵ】。黒雲一む□【らヵ】
【右丁】
来つて。御 殿(てん)の上におほへば必〽おび□【へヵ】
給ひけり。則 公卿(くぎやう)せんぎ有て定て変化(へんげ)
のわざ成へし。武士に仰せて警固(けいご)有べし
とて源平藤 橘(きつ)の兵を撰(ぜん)ぜられ上総(かづさ)
の介平の朝臣(あそん)惟茂(これもち)をぞ宿直(とのゐ)にゑら
ひ召れけり。抑此惟茂は桓武(くはんむ)天皇の
後胤(こうゐん。)高 望(もち)の親王(おゝきみ)に三代の末葉(ばつよう)。民(みん)
【左丁】
部卿兼忠の嫡(ちやく)男生年廿五歳。うす
紅梅(かうばい)に若草すったる狩衣(かりきぬ)。弓は重藤(しげどう)山
鳥の真羽(まば)の鏑矢(かぶらや)只一筋かいこふたり。郎
等の茨菰(おもだか)次郎 黄(き)糸の腹巻(はらまき)赤銅作(しやくとうつくり)
の打太刀。足 緒(を)ながにむすびさげ左 近(こん)の
陣(ぢん)のこなた成。桜の木かげにしきがはしかせ
月さへおそき雲井の庭(には)。衛士(ゑじ)のたく火の
薄(うす)けふり星(ほし)の光も朧(おほろ)夜や。じこく待 間(ま)
のかたねふりさはかぬ有様ふてき也。御 格子(かうし)たかく
明渡し内侍(ないし)命婦(みやうふ)のおもと人。上日の上達部(かんたちめ)
几帳(きちやう)の物見みすのつま。のぞきざゝめきあつ
はれゆゝしきころがらかな。此比召れし武士共
が誰か是に及ふべき。いか成 変化(へんけ)も恐(おそ)れんと
声もほのめくそらたき物。たてあかし【注】影(かげ)ほそく
すでに夜半(やはん)の時申し。宮中ふけて物すごし
刻限(こくげん)いたれば案(あん)のごとく俄に風おちいな光(びかり)
黒雲うづまき震動(しんどう)し。すはや御 脳(なう)と立さはぐ
惟茂ちつ共さはがす。雲間をきつとねめつく
れは形は四足のけだもの。つらは飛龍(ひれう)のごとく
ほのほを吹てぞひらめいたり。ひざ立なをし大
音(おん)上。 従(じゆ)四位下 上総(かんづさ)の修良(しゆれう)平(たいら)の朝臣(あそん)。惟茂
【注 立明し。たいまつのこと。】
と名乗つて鳴弦(めいけん)し。矢取て打つがひよつひき
はなせば手ごたへして。ひやうはつたとぞ当つたる
ゑたりやおふと矢さけびの声。 蟇目(ひきめ)は御殿(ごてん)の
桧皮(ひわだ)にとまり変化(へんげ)はおめきくるしんで。おつる所を
茨菰(おもだか)次郎むんずとくんでしばしが程。ねぢあふ足
音大地もとゞろく計也。茨菰名におふ功(こう)の者ひつ
かついて。どうとなげふせ打物ぬいて。さし通きりさば
かれ首はちうにまひあがり。四足つばさもさん
らんしこくうにとんでうせけれは。御脳 平癒(へいゆう)忽(たちまち)に
風おさまつてはるゝ夜の。廿日余の月きよく
夜の明たるがごとくにて。宮中悦び声々にいたり
や惟茂したりやおもだか。こゝんぶさうの弓取やと
いさみ賑(にぎは)ひ給ひけり。関白(くはんばく)教通(よしみち)公御はしにたち出
惟茂が弓箭(きうせん)の徳。ゑいかん浅からず将軍の官(くわん)に任(にん)
せらる。汝は葛(かつら)原の親王五代の孫(そん)。先祖(せんぞ)よしもち
将軍が武勇(ぶゆう)の余慶(よけい)をつぎしゆへ。余五将軍(よごしやうぐん)と
なのるべしとの宣旨(せんじ)成ぞとの給へは。惟茂左右の袂(たもと)
をひろげ。烏帽子(ゑぼし)を地に付 拝賀(はいが)の体(てい)めんぼく
あまつて見へにけり。爰に伊豫(いよ)の国のむしや所
太宰(だざい)の大弐 橘(たちばな)の諸任(もろとう)遠侍(とをさふらひ)に宿直(とのゐ)せしがゑ
しやくもなくつゝと出。是々惟茂 御辺(こへん)将軍せんじ
あれはとてお受申は心へず。将軍の職(しよく)といつは武
官(くはん)の棟梁(とうりやう)朝敵(てうてき)を征(せい)し。非常(ひぢやう)をいましむるを以(もつて)
規模(きぼ)とす。変化は当分さつたれ共あれ見よ。蟇(ひき)
目の鏑矢(かぶらや)御殿の桧皮(ひわだ)に射(ゐ)付たり。御殿にさび
矢を射(ゐ)つくるは天子にむかつて弓引道理。朝敵の
なすわさ天理を恐れず。弓矢の法もしらぬ愚人(ぐにん)
武士の司(つかさ)と成べきか。かゝる御 僉議(せんぎ)もなくふか〴〵との
将軍 宣旨(せんじ)御 政道(せいたう)のくらき事末代のそしり。勿体(もつたい)
なし〳〵と言(ごん)上すれは。諸卿(しよきやう)の面々げに是はことはりと
眉(まゆ)をひそめておはします。爰に侍(つき)所の預り鷹(たか)の巣(す)
の帯刀(たてわき)太郎 広房(ひろふさ)。瀧(たき)口の陣(ぢん)よりつゝと出。御 政道(せいたう)
くらしとは舌長(したなが)なる奏問(そうもん)。剰(あまつさへ)惟茂ゆみやの法を
しらぬとは。尤わぬしに似合たる難勢(なんぜい)。事をしら
ずは語つて聞せんよつくきけ。それ弓矢といつは
神武(じんむ)不殺(ふさつ)の威徳(ゐとく)を表(へう)し。物に疵(きつ)付 殺(ころ)さね共
弦音(つるおと)計にて。化生(けしやう)変化を亡(ほろぼ)す事。たとへば仏神
の札守にて悪魔(あくま)を払(はら)ふに事ならず。かたじけなく
も天照(てんせう)太神 天(あま)のかご弓羽ゝ矢をもつて。悪神
をしづめおはします此理をさして神通(じんづう)の鏑(かぶら)矢と
号(がう)し。仏道にては大 悲(ひ)の弓 智恵(ちゑ)の矢共さとる也。
凡大将たる身の弓は袋(ふくろ)釼(つるぎ)を箱に治(おさめ)ながら。東南(とうなん)
西北(せいぼく)の敵をしづめしりぞくる。一 帳弓(ちやうきう)の理に至るを
精兵(せいびやう)の射(ゐ)手共。又は文武(ぶんふ)両道の。弓取共是を名
付たり。見よ〳〵今宵の変化 惟茂(これもち)矢さきの疵(きづ)は
付す。只一矢に射(ゐ)て落(おと)し郎等に切とめさせたる。これ
もちの心底(しんてい)を察(さつ)するに射殺(ゐころ)すはやすけれ共。御殿
の棟(むね)に矢を射付 血(ち)をあやす恐(おそ)れを存し。矢の根(ね)は
そつとぬき捨(すて)たると覚えたり。証拠(せうこ)にはあの矢を
おろし見すべしと鞠垣(まりかき)の。棹(さほ)取のべてかりおとし見れは
詞にちがひなく。かぶら計に鏃(やじり)はなし惟茂ゑしやくし。
その矢の根是に有。惟茂が家の相伝(さうてん)弓矢の故(こ)
実(しつ)是御らんぜ。と鏑先の大 鳫俣(かりまた)くはい中より取出
せば。諸任(もろとう)一 句(く)に返答(へんとう)なくこぶしをにぎつて赤面(せきめん)す。
帝を始(はしめ)月卿雲客(けつけいうんかく)帯刀太郎が弓矢の評定(へうぢやう)。惟
茂がふるまひゆうにやさしき勇者共やと二たび
あつとぞ感(かん)ぜらる。天気猶もうるはしく関白重て
勅(ちよく)を蒙(かうふ)り。柳の五つ絹(きぬ)きたる官女(くわんぢよ)をいざなひ御 釼(けん)を
たづさへ出給ひ。惟茂がふるまひ仁義(しんぎ)の勇者と云つべし。
且神道にもたづさはり仏法をもうかゝふ事 。多能(たのう)は
君子(くんし)のはづる所 甚(はなはだ)かんじ思召。此御太刀は神代より
伝はりし平国(くにむけ)の御 釼(けん)とて。八幡宮の御母 神功皇后(じんぐうくわうこう)
異国(ゐこく)退治(たいぢ)の宝釼(ほうけん)也。然るに信州(しんしう)戸隠(とがくし)山に悪鬼(あつき)
化生(けしやう)し。民俗(みんぞく)をなやます由うつたふる。此度大内の
変化も正しく彼山の変化の余類(よるい)成べし。此太刀
を帯(たい)し戸隠山に駆(かり)入て悪鬼の根を立。国家 安(あん)
全(せん)の功(こう)を顕(あらは)し朝家(てうか)を守護(しゆご)し奉れ。且又汝にはいまだ
定まる妻なしとや。是こそ中宮の上わらは世継(よつぎ)御
前上より嫁(めあは)せ下さるゝ。此御太刀をみやげにて吉日ゑ
らひ送らるべし。いかにたけきものゝふも情に□□□【ゆがむヵ】梓(あづさ)
ゆみ。妹背(いもせ)の中に子をもうけ武勇(ぶゆう)を子孫(しそん)に伝へ
との。ゑいりよ也との給へは。惟茂は身に余り冥加(みようが)にあ
まる悦びを。何と奏(そう)せん詞もなく世継御前は嬉し
げに。見かはすめもと色ふかき御所の女中の花心。うらやむ
もあり妬(ねたむ)も有惟茂が矢さきには。変化は物か及び
なき内裏(だいり)上らうしとめしは。げに精(せい)兵の手きゝやと
其名をあげし〽九重や。柳桜を。こきまぜて。錦の
小路(こうぢ)の中納言 冬通卿(ふゆみちきやう)のひとり姫。珍瓏(たまゆら)君はかくれなき
公家(くげ)一ばんの美人草(びじんさう)。くさのゆかりの草むすび。彼惟
茂といつの間についことづてのかけ橋を。渡りぞめせし文
玉づさ恋の山々かさなりて殿御(とのご)よ妻よの約束(やくそく)を。
つき〳〵お部(へ)やの人ならで人にもらさぬねやのとや。
一条 表(おもて)の物見の亭(ちん)気のむすぼれも時津(ときつ)風。
はれやかに見渡し給ひ。なふ〳〵能(よい)日和(ひより)ではないかひの。う
つくしい男が空色(そらいろ)のうす物 着(き)て。にこ〳〵笑ふ様な気(け)
色(しき)東山も一目にて。惟茂様の吉田のおやかた。手に取
様に見ゆるれ共毎日 遠(とを)目に見る計。いつよびむかへ
て下さるやらもしお心が替(かは)つても。世間忍びのけいやく
なれば恨みいふてもはがきかぬ。ひとりしんきをやむ計。
四方の霞(かすみ)ははれたれどみづからが気ははれぬ。皆は心に苦(く)
がなふて浦山しいなとの給へば。さえだの局(つぼね)聞もあへす。
それは案(あん)じ過しと申物。仲人(なかうと)なしの御 契約(けいやく)世間へしれ
ぬと申せはとて。人にこそよれ惟茂様お詞といひ数通(すつう)の
お文。うそが有て能(よい)物かお大名成 高家(かうけ)也。此度だいり
のお手がら余五将軍(よごしやうぐん)に成給へは。関白様かどなたぞれ
き〳〵のお仲人で。表向(おもてむき)の云入の有は定(ぢやう)追付あれ
に。御祝言の御殿が立て御夫婦お顔をならへて。東山
の春秋をお庭に御らんなさるゝは今の事【注】。少いそ
【注 目の前迫ったこと。】
〳〵遊はせ。なんと腰元(こしもと)衆。あの景(けい)のよい吉田しら
川山。春はつゝじやわらび折。秋は栗(くり)などひろふたり
面白からふしや有まいか。いや申お局(つぼね)様。何よりかより
惟茂様の境内(けいだい)の松茸(まつたけ)が見事なげな。とにかくに
御 果報(くはほう)なお姫さまじやと笑ひける。姫君もにこ
〳〵とあれ人々。さきにから此 築地(ついじ)のまへいろ〳〵の。
進物持て行通ふけふはいか成 祝(いわひ)日ぞ。何事やらんと
の給へはあれも皆惟茂様への進上 内裏(だいり)の変化(へんげ)を退(たい)
治(ぢ)有将軍の位(くらゐ)にのぼり給ふ御祝義。御一家は申に及ず
公家武家のもてはやし。お出入 商人(あきんど)御用聞。職(しよく)人迄我も〳〵
と進上物。此中から引もきらずと云所へ五十計の使者男いため
付たる出立のひんとそつたる朱(しゆ)ざやの刀 赤(あか)がね作の月代(さかやき)に。
白髪(しらが)まじりの五たい付下人に持せし折紙の。御太刀一 腰(よう)金
馬代(ばだい)【注】四百石は見へ渡り慥(たしか)に武家(ぶけ)とぞしられけるそれ〳〵
【注 金馬代(きんばだい)=献上馬の代りとして贈った大判一枚。】
そこへ絹(きぬ)上下のなで付男。年比はい【注①】も卅一 字(じ)進上物も
哥のだいにつがいすへて持せたる山鳥の尾のしだりをの。長袖
なりと見す〳〵も公家衆よりの。お使者ならん。平樽かた
げてくる中間。是は武家(ぶけ)か公家(くげ)方か。されば樽が五升
樽(たる)御所方といふ心。公家衆で有ふか中間がやりおとがひ。【注②】
武家方でもあらふかと目利(めきゝ)する間にまたそこへ蟇(ひきがへる)に
似た魚五つ台(だい)に乗せたはありやなんぞ。あれは𫙠(ふぐ)と申
物五つならべた進上はお出入の呉服(ごふく)屋と。さいてからは
一寸もちがひはせまひと笑はるゝ。爰に一きはめにたつて
州浜形(すはまがた)の大 島台(しまだい)。松竹に鶴(つる)と亀(かめ)蒔絵(まきゑ)の文ばこ
紅(くれない)の。紐(ひぼ)なが〳〵とむすびあげ。仕丁(しちやう)二人が持舟にさな
がら〽祭(まつり)の荷ひ物。往来(ゆきゝ)も見返る折から橘(たちはな)の諸任(もろとうは)郁(いう)
芳門(はうもん)【注③】の番替り油の小路の四辻。馬をはたと乗かけ
たり。かちの者ひぢをはり。大道一はい是なんだ。はやく
【注① 年ごろばい=年かっこう。およその年齢。】
【注② 槍頤(やりおとがひ)=長くとがったあご。】
【注③ 平安京大内裏外郭門の一つ。】
持てかたづかずはふみくだいて捨べいと。すてに手をかけん
とす仕丁共びく共せず。《割書:ハテ|》かや〳〵とやかましい道がせば
くはのいて通れ。所も大内の女中世継御前より。余五(よご)
将軍(しやうぐん)惟茂(これもち)公への御進物。ふみくだかは首から先へ。出して置と
たつた一口にいひ返す。諸任くはつと腹を立《割書:ヤイヤイ|》。うぬらが
惟茂風聞たゝなし。其島だい打くだき青才六めらそれ
ふみ殺(ころ)せ。承ると歩(かち)若党(わかとう)どつとよれは仕丁共。無法者(むほうもの)を
相手にするはかつたいと棒(ぼう)打。此お屋形(やかた)頼ますと門のう
ちへかき入。御進物に疵(きづ)さへ付ねば面々はいひわけ立。いぬ
死すな《割書:サア|》こい〳〵と一さんかけて逃(にげ)てけり。よし〳〵いひ
かいなき下主めらかまふな〳〵。惟茂がつらをふむどうぜん
門内へこみ入て島だいをふみくだけ。ふみひしやげと下知(げぢ)
をなし乱(みだ)れ入らんとする所に。大 紋(もん)にゑぼしかけ大の男門
一はいにつゝ立て。より付者をひつつかみ〳〵弓手馬手へ
取てなげ。諸任が乗たる馬のむながいつかんでゑい〳〵〳〵
と二三間尻ゐにどうどねぢ付《割書:ヤイ|》見事馬にのつ
たれば定て武士のきつはしならん。眼(まなこ)が見えぬか法式を
存せぬか。錦(にしき)の小路の中納言殿の御屋形。かくいふは御家
の雑掌(ざつしやう)金剛(こんごう)兵衛 利綱(としつな)。すいさん至極(しごく)な御門に馬を乗
かけ下人原にふみ立させ。ぬつくりと懐(ふところ)手で見ていよふと
思ふか。《割書:サア|》下馬せうかせまいか。但引ずりおろさふかと手ぐすね
引てせめつくる。《割書:ヤア|》公家侍め。太宰(だざい)の大弐橘の諸任を
見しらぬか。禁中(きんちう)の宝釼(ほうけん)平国(くにむけ)の御太刀を拝領(はいりやう)
せんと。度々 奏問(そうもん)せし我願叶はず剰。心をかけし世継御
前迄惟茂に下され遺恨(ゐこん)ふかき惟茂が進物に。道をふさ
がれ悪口(あつこう)させ。此門内へかき入しを堪忍(かんにん)する諸任ならず。
是へ出してふみくたかせい。否(いな)といはゞ公家でも御所で
も乗こんで。やたい共に馬足にかけみぢんにするが《割書:サア|》
なんと。《割書:ハアヽ|》事おかし。馬の足にかけがへあらば一寸ても乗
入て見よ。《割書:ヲヽ|》所望(しよもう)ならば是見よと乗こむ馬のまへずね。
両手に取てこりや〳〵〳〵めよりたかくさしあぐれは。馬は
さんたをするごとく諸任はあをのけに。ころびをうつては
ね返しまつさか様にぞ落たりけり。顔(かほ)をしかめて。《割書:エヽ|》あ
ほう力のくげ侍。何をくらいこんだやらくらいだをれ覚へて
おれと。砂打ふるい腰(こし)をさすつて立帰る。跡からちが〳〵
ちんば馬見ぐるしかりける有様也。利綱とつと打笑ひ。御内の
者共此島だい。惟茂卿迄届申せといふ所へ。姫君いかれるかんばせ
にてまちや〳〵利綱。世継とやらいふ女惟茂様を。我物がほに
ほてくろい此長文。なんぼほうらいの島だいて祝ふても。相生
と契り置たは此玉ゆら鶴亀も引むしつて松竹もおつて
すちや。追出されうが殺(ころ)されうかおやかたへかけこんで。一足成共みづ
からが先へ嫁入(よめり)して見せうと。かけ出給ふをいだきとめて是姫君。
跡先何《割書:ン|》にも存ぜね共此体でかけこんでは。気 違(ちがひ)のさたに落
お家のお名お身の恥(はじ)。理が非に成と制すれ共。いや大事ない夫
ゆへの気違ひは女のうへに恥ならず。生をかへてもそはねば置ぬ
爰をはなせ利綱。やつてくれぬか利綱と声を上て泣給ふ。
金剛兵衛もてあつかひ。お局(つほね)はおそばにゐてかゝる大事をしらぬ
かと。ねめ付られてふるひ〳〵。もとひよつとした御 縁(ゑん)にてお文の通
路たびかさなり。惟茂様もこれもち様来世かけて夫婦の。やがて呼(よび)
むかよふのと神かけたお文にぎつてござるお姫様世つき御前お勅諚
にてお釼をみやげに。あすの晩(ばん)嫁入との文を見てお腹の立も
お道理といふてあつちは勅諚也。たかはぬおなごの了 簡(けん)どふした
物であらふやら。胸(むね)がいたひといひければ。金剛兵衛横手を打扨々
始て承る。惟茂程の弓取直筆の契約(けいやく)は。仲人より猶慥な
事。中納言の姫君を傾城遊女のごとく。よも一時のたはふれには
せられまじ。たとへ帝(みかど)より世継御前を給はる共錦の小路が娘。
玉ゆら姫とかき契り候と奏問(そうもん)するこそ道ならめ。長袖と
思ひあなどつたる仕かた。此利綱が有からはお家に疵(きづ)は付まじき。
《割書:サア|》御祝言は明晩半時成共此方のお輿(こし)を先へ入申さん然は姫君
御本望。此上に惟茂卿お心がはりか替らぬは脇(わき)からは見へぬことそれは
御夫婦しつほりと。おねまの勝 負(ぶ)に遊ばせと笑へは姫君たき立
計《割書:エヽ|》忝い。利綱様々様々じや。父上へも母上へもよい様に申てたも。《割書:アツア|》
去ながら盃(さかづき)事の最中に。世継御前が来たらはどふした物て有ふの。
《割書:ハテ|》何の事はない。赤まへたれをひつはらせ。はしり出て味噌(みそ)すらせ。釜
の下たかせたり世継の名をかへ台(だい)所の。食 継(つぎ)御前にしてくれんと
たはふれ。用意を〽俄事 既(すでに)其夜は。きさらぎ下旬花の三月
よけぬれは。皆吉日ぞ其外にいむは申の日 猿(さる)の顔(ほう)をしてよ
めりの御乗物御 輿(こし)ぞへには金剛兵衛。鶴亀か入たる対(つい)の挑灯(ちやうちん)供侍
が子持筋。追付 初(うゐ)子を御 懐妊(くわいにん)大原口にぞ着にける。金剛兵衛立
とまりなふ侍衆つく〳〵思案(しあん)をめぐらすにお輿をどつと持かけ。もし
違乱(ゐらん)有て姫君の御身の上いかゞ也某は二三町先へ参り事のやうを
はからはん。お乗物に気を付られよといひ捨て只一人。先に立てぞい
そぎける。はや法性寺(ほつしやうし)の四つの鐘はや瀬にひゞく賀茂川の。堤(つゝみ)の
影よりほうかぶりの男二人出ると見へしが挑灯持をはたと蹴(け)たおし。
挑灯みぢんにふみくだけばとこやみとこそ成たりけれ。供人是はと
さはぐ所に。爰かしこより数十人が足音して星(ほし)にうつろふぬき身の光
太刀を渡せ〳〵といふ声計。姿(すがた)は見えずめくら打に切まくれは《振り仮名:轆■|ろくしやく》【車+勺】
中間青侍すねをながれ腕(うで)を落されなむさんみけんしてや
られ胴骨(どうほね)腰骨(こしほね)こびん先。あいた〳〵痛(いた)手おはぬ者もなく
泣つわめいつ逃て行。姫君は乗物に生たる心地もなき悲しみの。
声をしるべに馳(はせ)あつまり太刀こそはとらず共。世継御前は是なるはと。
乗物手々に追取まき行方しらず落うせけり。金剛兵衛は五
六町行過見れは挑灯消て。人声遥に騒動(さうどう)すあら心えすきづかはし
と。息(いき)をかぎり足 限(かき)り走(はし)つて帰る夜 ̄ルの道。何かはしらずふみすべり
まあをのけにどうとふす。なむ三宝と起(おき)なをれば身もひ
つたり。土も石もぬれ〳〵と手にさはるあたゝまり。是は扨。たつた
今切たる血(のり)草葉もひたる計也。すは事こそと気もさはぎすべる
をふみとめ踏(ふみ)しめ。足にさはるをひつ抓(つかみ)すかして見れは。御家の挑灯
のちぎれ《割書:ハアヽ|》姫君をうばゝれた。《割書:エヽ|》利綱が一生のふかく。おのれ
何国迄とかけ出しが《割書:ハツ|》。我は狂気仕たそうな方角のわきまへなく。
どこをせうどに行事ぞ。先何者のわざならん。《割書:ムウ|》しれた世継御前
が妬(ねたみ)のわざ。《割書:イヤ|》諸任めがきのふの遺恨(ゐこん)と。思案する程気も混(こん)
乱(らん)分別いらぬ思案もない。京中九万八千 軒(けん)。一軒つゝさがせばとて取
かやさで置べきかと。北へ走れはみたらし川の川音の。しん〳〵としてあて
もなく東はたつた今来た道。先洛中をとかけ出す足本くらく
賀茂川の。ふかみにだんふとひたつたり。《割書:エヽ|》しなしたりとかけあがり裙(すそ)に雫(しずく)
のたるみなく。心計はせきのぼり行もはしるも同じ道。二三町の
間をいつゝもどつゝぐる〳〵と。さしもの利綱十方にくれ。物の見入
かばかされしかと歯(は)がみをなして。どうと座し。《割書:エヽ|》口 惜(おし)い〳〵と
石を取てかみくだき〳〵。無念涙にかきくれし。心の内こそ道理
なれ。かくては主君の云わけなしまだ〳〵つらをさらさんより。じがいせんと
ひざ立なをし向(むか)ふを急と見渡せば。《割書:ヤアヽ|》さがり松の松影に挑灯(ちやうちん)
ちらめき。人足あまた乗物もほの見ゆる。《割書:サア|》あれに極つた。一寸もや
らふかとめさすもしらずくらき夜に。道も畠(はたけ)もわかちなくもみ
にもふてぞ〽追かくり。世継御前は大内よりすぐに嫁入の行列(ぎやうれつ)。
【左丁は落丁ヵ・翻刻文は次コマ右丁】
功(こう)の武士さへ逃足にいはんやかひなき青女房。中間小者乗物捨皆
ちり〳〵に落うせけり世継御前は声を上 ̄ケ是はそも何ごとぞ何者
のしわざぞやたすけてくれよと泣給ふ走寄て《割書:ヲヽ》お道理〳〵。某が
有からは悲しい事はない。あれ月代(つきしろ)もあかつたり惟茂卿へも程ちかし。乗
物の一 挺(ちやう)などはひつかたげても参らふが。先お心をしつめられいさそろ
〳〵おかちでと。乗物の戸を明れば《割書:ヤヽ》こは。そなたは見しらぬ何者しや
と二度びつくりに魂(たましい)きへ。利綱も横(よこ)手を打こりやちがふた。《割書:エヽ》せくまい〳〵
【右丁】
功(こう)の武士さへ逃足にいはんやかひなき青女房。中間小者乗物捨皆
ちり〳〵に落うせけり世継御前は声を上 ̄ケ是はそも何ごとぞ何者
のしわざぞやたすけてくれよと泣給ふ走寄て《割書:ヲヽ》お道理〳〵。某が
有からは悲しい事はない。あれ月代(つきしろ)もあかつたり惟茂卿へも程ちかし。乗
物の一 挺(ちやう)などはひつかたげても参らふが。先お心をしつめられいさそろ
〳〵おかちでと。乗物の戸を明れば《割書:ヤヽ》こは。そなたは見しらぬ何者しや
と二度びつくりに魂(たましい)きへ。利綱も横(よこ)手を打こりやちがふた。《割書:エヽ》せくまい〳〵
【左丁】
と思へ共せいたそうな。口惜やと我身ながらも身にうろたへあきれて
空を見る顔(かほ)も。廿三夜のま夜中の月もきよろりと出にける。かゝる所
に匹夫(ひつふ)共七人計乗物かゝせ馳(はせ)来り。あれこそ金剛兵衛利綱。《割書:ヤイ|》うろ
たへ者。主の娘は此乗物此方に入用なし。世継御前と平国の御太刀所
望ゆへ。取ちかへてこつちも麁相(そさう)そつちも麁相。太刀の行衛は追て
の沙汰先此乗物とかへ〳〵すれは両方よし両徳渡せ〳〵と
わめきける。利綱大きにいさみ出やれ〳〵よふ来たなあ。此金剛兵衛を
宵(よひ)からよふうろたへさせ。すでにじがいをせんとした。姫君にうきめを
見せ。此上 臈(らう)に狼藉(らうぜき)したもをのれら故。返報(へんほう)せずにおかふか。
前に立たは太宰の大弐が郎等。児玉(こだま)の忠太と目利(めきゝ)したかへ〳〵とは
あたゝかな。金銀の両替も利をとられねは両替(りやうがへ)せぬ。豆板の児玉
首つりを取てかへんすとくはつと見出す両眼は。新吹のしろかねを
みがき。出せるごとく也。《割書:ヤア|》両替にどとはかば姫が胴骨(とうほね)打おつて。疵(きづ)
物をつかませよと引出さんとする所を。もと首つかんでぬつとさし上 ̄ケ
めのかるひわるがね。つぶしにせんといふまゝに石にかつはと打付れ
ば。かうべひしげてうせにけり。いで残るやつはらに極(こく)印打てとら
せんと。するりとぬいて二三人同じ枕に切たをせは。四方へばつとむら
〳〵雀(すゞめ)。鷲(わし)の蹴(け)立るごとくにて跡をも見せず〽逃うせけり。
立返つて乗物引寄しがいの上帯切ほどき〳〵。棒(ぼう)と棒とをしつかと
しめて結(ゆひ)合せ。引上見れは《割書:ヲヽ|》天秤針(てんひんはり)口かるめなし。こなたもおもひかな
たもおもひ主君の恋のおもにゝ小付。見捨ぬ義理は将のかた入□□□。
ゑいやつと荷ふてしゆく所に立帰る。四人のかたをひ□り
して六尺。〳〵又六尺。二条川原は石たかくだつくり。ぼつくり【注】まが
り道。車 大路(おほち)のまはり道今出川原くらま口。びしやもん
天も御 納受(なうじゆ)百足(むかで)の足取あしづかひ。引足五尺のび
足五尺一条大路柳原。やなぎがゆるぐ春の風乗物ゆら
すなゆるがすな。雲も霞(かすみ)もはい〳〵〳〵はやしのゝめの朝
烏(からす)雀(すゞめ)はちう〳〵忠臣の誠を。ちからにあらはせり
第二
范蠡(はんれい)西施(せいし)を湖水(こすい)に沈(しず) ̄メ。呉起(ごき)が妻を害(がい)せしも勇者(ゆうしや)の
おもんずへき道とかや。今度 橘(たちはな)の諸任(もろとう)狼藉(らうぜき)に及びし刻。平国(くにむけ)の
御太刀 紛失(ふんしつ)の事。永く平の御なをれと。洛中の口すさみ止(やむ)事
なく。惟茂卿の御館(みたち)には。老中 譜代(ぶだい)の御家人等気を失ひ色を
損じ。日々夜々に寄 集(あつまり)詮議(せんぎ)とり〴〵まち〳〵也。茨菰(おもだか)次郎 眉(まゆ)を
ひそめ。誠に主君惟茂大内の変化をたいらげ。弓箭(きうせん)の徳に
【注 「だっくり、ぼっくり」=道などがでこぼこしているさまを表す語。】
よつて御悩(なう)平愈(へいゆう)の恩賞(おんしやう)として。世継御前を宿の妻になしくだ
され。剰(あまつさへ)天下の重宝平国の御太刀迄。当家にくだし給はる事。弓
矢のほまれ時こそと御婚礼の日限も。急に急き待もふけし
かひもなく。思ひがけなき路次(ろし)の騒動(さうどう)彼御太刀も行衛なく。世継ご
ぜんも身の上あやうかりしかど。金剛兵衛とやらんが働(はたらき)にてつゝかなく。
則かれが館(たち)に忍びおはする由さりとは案(あん)に相違の事。世間の人口
且はお家の大事。此上は草を分ても。ふたゝひ御太刀をさがし
出す手だてこそあ□【らヵ】まほし。座中の面々 心底(しんてい)を残さす評義
有て然べしと。いわせもはてず客侍口々に。いやたゞ外をもとむる
にも及ず。必定橘の諸任我君に将軍をこへられ。へんしうのうへ
多年所望の御太刀。当家にわたり無念とは思へ共。腕叶はねば一戦
迄に及ばす。御祝言の供先にて狼藉【左ルビ:らうせき】仕かけどやくやまぎれに
御太刀も。盗取たるに疑(うたかひ)なし。何条事か有らんきやつが館(たち)におし
寄。門も塀もふみやぶつて込入御太刀 詮義(せんぎ)する計。もし手むかひ
せば太刀のかねのつゞかん程めつた切の一軍。つゞけや人々《割書:ヲヽ|》おもし
ろし尤と。爰にはらつと座を立は。茨菰大手をひろげ。あゝそこつ
なり旁(かた〴〵)しばし〳〵とをしとめ。橘の諸任がしわざと世上の噂。いづ
れもの了簡(れうけん)さる事ながら。世継御前の御 輿(こし)には鷹巣(たかのす)の帯刀
太郎。禁(きん)中しゆごの武士多 ̄キ中に一人にえらはれたる勇者。御太
刀を預 ̄ツ てひつそふたれば。諸任がきつてかゝればとてみだりに
おめ〳〵渡べき様なし。し□【かヵ】も彼帯刀その夜より行方なく。今に
ありかしれざるとは爰にふしんの有所。諸任が多勢にかこまれ
御太刀をうばゝれたるやひとつ。まつた此 騒動(さうどう)をかこ付に帯刀が欲(よく)
心気ざし。御太刀を盗(ぬすみ)ちくてんしたるや一つ。有無(うむ)の両義しれざる
中一戦に及ばんこと。禁裏(きんり)の聞え然べからず。涯分(がいふん)先鷹巣めを尋
出し首をふまへて白状(はくでう)せさせんに。御太刀の有所しれぬ事や
有べき。かまへてせくまい〳〵と。いさむ諸武士を押とゞめゆう〳〵と
座したるは。さすが茨菰知行高家老の思案(しあん)ぞ格別(かくへつ)成。かゝる所へ
沼田(ぬまた)の七郎御 白州(しらす)に畏。さても錦(にしき)の小路の中納言殿より御使
者として。執権(しつけん)金剛兵衛利綱の妹。梅の井と申女中君に直
の見参か。さなくば御家老おもだか次郎殿に。直談(じきだん)との義に候とぞ
申ける。おもだか暫(しばら)く思案し。中納言家の御使者ならば人もこそあれ
なまわかき女を使者とは。よし〳〵某直に対面(たいめん)せん。其使者
是へと座を改ゑもん〽つくろひ待宵や。いざよひ過の芘ゑくぼ
にたまる愛敬(あいきやう)は。花の粧(よそほ)ひほつそりすうはり柳の間の。らうか
づたひ。人中おめぬすり□【足ヵ】は。梅のながし枝梅の井と。えらはれしも
げにことはり也。茨菰立合。黄門公(くはうもんこう)の御使者梅の井殿とは御じぶん
の義候な。拙者は則おもだか次郎御口上の趣(おもむき)。いさゐ仰聞らるべし
と。さもいんぎんに両手をつき。まき舌(じた)の挨拶(あいさつ)に梅の井くつ〳〵と
吹出し。《割書:ア|》そうかたい御挨拶ではどうも御口上も申されず。尤かた
い御使者ならば十 面(めん)作つた侍衆もおほけれど。此梅の井が
参からは中納言様とは詞の品。誠は姫君玉ゆら様より使と申
せば使。お恨の品々おゆかしがる【注①】も第一。お咄も申せとて腰元衆
もおほき中に。梅の井まいれ。あいと申て参りしからは。ひつきやう
姫君の心をくんでのおもはく咄(はなし)。おまへも《割書:サア|》。其三つ指(ゆび)わりひざ
取置て。お姫様と惟茂様のたいこ持じやと思召せ。かたい顔(かほ)遊ばし
ても。色ごのみの惟茂様につかはるゝお人しや者。それ髭(ひげ)のかゝりが
すけべいの。べいの字成に見へますととんと扣(たゝい)て寄そへば。さすがの
おもだか挨拶なく。軍兵の評判聞たる外。耳なれぬ恋ばなし。
まじめに成こそおかしけれ。梅の井かさねて。じたい帝(みかど)さまが
見かど様。変化(へんげ)退治(たいぢ)の御ほうびなら。大国小国馬物具でよい
事を。世継御前とはいな物。よくは宣旨(せんじ)にもせよ惟茂様御 心(しん)
底(てい)さへかはらずは。玉ゆら姫と申て契約(けいやく)の妻有と。達(たつ)て御しん
しやくなさるゝに。いかな王様も押付わざはなされぬ筈(はづ)。根が
移(うつり)気な惟茂様跡先しらずぼか〳〵と【注②】。あだぼれして畏(かしこまつ)た
とお請合。案(あん)じても御 覧(らん)なされ。男ひとりに女房ふたりそも
【注① 見たがる・知りたがる・聞きたがる等、心ひかれゆかしく思う気持ちを言動に表す。】
【注② 勢いの盛んなさま。急であるさま。】
や杵(きね)一本に臼(うす)二つで。いかなこれもちも搗(つく)には少しんどうにこざん
しよ。此度 路次(ろし)の騒動(さうどう)も玉ゆら姫様の乗物を。世継御前と心へ
悪人共がひつかたげてはしるやら。わたしが兄の利綱もきのせく
まゝに取ちがへて。世継様の供先で楚忽(そこつ)の働。一かたならぬ大もめ。
事のおこりは皆惟茂様の不心中ゆへ。され共兄の金剛兵衛。なん
なら世継様もばい返し。おふた方共わたしがやしきに忍ばせ置参らせしが。
《割書:アヽ|》さすがは上人方案じたとは違(ちが)ふて。其むつまじさ中のよさ。琴
のつれ引ついまつの哥かるたもあふさか山のさねかづら。わるい所へ
気を廻しておふたりのこそぐり合。腰元衆の 囉(もら)ひ笑ひ。脇から
見ての見事さ。とふ共かう共いはれねど。悋気(りんき)妬(ねたみ)は女の役(やく)。そこ
ゐにどふした無 分別(ふんへつ)もと油断ならず。剃刀(かみそり)はさみもおそばに置
ぬわたしら兄弟が気くばり。生(なま)物二疋預つてかふいふ内も気
遣 絶(たへ)ず。若(もし)何れにても御身の上にあやまち有ては金剛兵衛は
せつふく。第一はお家の疵(きづ)。玉ゆらさまの仰を受て此うつふん云に来た
梅の井。おそらく恋の道の孫氏(そんし)呉子(ごし)。ぐんんばいふつて勝負(せうぶ)を
つけねば帰らぬ。世継御前も宣旨(せんじ)なれは嫁(よめ)入せねばきかぬ
気。玉ゆら様も契約(けいやく)なればいきりきつて嫁入する気。おふたりの
上らうを何かなしに。此御屋形へむかへ取て其うへて埒(らち)を明(あけ)さんせ。是
御 家老(からう)此通りお取次。きり〳〵お返事〳〵とさし付様にせがま
れ。おもだか次郎あたまをかきさりとは一世一 期(ご)のめいわく。第一われら
ゆみや打物取て。誰にまけんと存ぜね共色ことかつふつぶゑ手
なり。いづれにても若手の武士にお頼なされあいた〳〵あいたしこ〳〵
又れいの疝気(せんき)。おんじやくあぶつて来る間。暫くそれにと
偽つて。走 ̄リ入らんとする所を。どつこいやらぬと袴(はかま)にすがり。《割書:エヽ|》手の
わるひ御家老様。色事 不得(ぶゑ)手といふ下からうそつくすべはしつ
てじやの。余の取次で済ことなら。あつたら口に風ひかせて
こな様は頼まぬ。いやでもおふでもお取次ひとりわるくはふたり
づれ。手を引あふて出たら女夫じやといはふぞへ。いふたら大事は。
私も定る男はなしうき名がたゝばそれかぎり《割書:サア|》。こざんせと
手を取て引ずれば。したゝるいなんのまね。ひげぐちそらして
どうさんせかうさんせと。ひらたくたい口上がどふ主人へいはるゝもの。
一生の厚恩(かうをん)こらや〳〵とふり切て変化に恐(おそ)れぬおもだかも。
後(うしろ)を見せて逃つ。かくれつあなたへ追かけこなたへかゞみ。走廻つ
て後成。一間にぐはたと行あたり。襖(ふすま)につれておもだか次郎
あをのけにどうとこけ。起あがれば惟茂卿 見台(けんだい)にむか
わせ給ひ御 学問(がくもん)の最中(さいちう)。二人ははつと飛のいてせきめんしたる
計也。惟茂につこと笑はせ給ひ。さいぜんよりの有増(あらまし)聞たるぞ。
物がたきおもだかゞ取次しかぬるもことはり。お身は金剛兵衛が妹(いもと)
梅の井とや。兄利綱が働(はたらき)にて世継が身の上つゝがなく。玉ゆら
諸共かくまへ置たる由過分〳〵。我も飛立玉ゆら姫ゆかしさ
かぎりあらね共。平国(くにむけ)の御太刀 紛失(ふんしつ)したる事いかゞと詮義(せんぎ)の
最中。世間のとなへを憚(はゞか)りふみをもつても音づれず。女ごゝろに
恨(うらみ)とはさこそ〳〵。両人共に惟茂見はなし捨(すて)ん様はなし。追付玉
ゆら世継御前諸共我方にむかへ取。兄弟が苦(く)をはらさん。
《割書:サア〳〵|》帰つて二人の姫にかくとつげ。此ふみ見せて悦ばせと
手づから結(むす)ふ御文箱。しんくの糸の末ながき。妹背(いもせ)のしるしと
たびければ。梅之井悦び二つの文箱押いたゞき〳〵。又大将
の御 了簡(れうけん)は格別(かくべつ)じや。此文見せたら飛付て。玉ゆら様の玉の緒(お)も
きゆる計のお嬉しがり。お笑ひ顔(かほ)見る様なはやお暇(いとま)と御文
箱。両手におもきいもせ山。あゆむはかるきちよこ〳〵はしり
宿所を〽さしてぞかへりける。茨菰次郎跡見送り《割書:エヽ|》出過たる
女めかな。是我君。あのめらうが弁 舌(ぜつ)に廻され。御一生の
浮沈(ふちん)たる御太刀の詮議(せんぎ)はわきになし一人計か二人の姫君む
かへいれんなんどゝは。先此次郎めは呑こまず。急度御 心腹(しんふく)承は
らんといへは。惟茂卿あたりを見廻し。次には誰もおらぬか。小姓共 抔(など)
聞てはいぬか。是へ〳〵と膝(ひざ)もとに招(まね)き。女の恨(うらみ)妬(ねたみ)には身を忘れ。恥(はぢ)を思はぬ
ならひ太夫(だいふ)に二人の妻。少も心にかゝらぬ事。され共御太刀 詮(せん)
義の最中。梅の井とやらん先すかし返さんため。むかへとらんと口上
には偽つて。二通の文は同じぶんしやうに認(したゝ)めたり。兼々おとに語
ごとく。彼御太刀行廻つてもし諸任めが手に渡り。戸隠やまの
悪鬼 退治(たいぢ)。諸任にせんをこされては一人の恥辱(ちじよく)のみにあらず。
子々孫々ながく当家の瑕瑾(かきん)ならずや。さるによつて我ひそかに
やかたを忍び出。日本国中浦々島々海はろかいのたゝんづ程。陸(くが)地は
足をかぎりに都もとめ御太刀なきに極らば。一人戸隠山に分入
悪鬼の復中に葬(ほうむ)るゝか。首取て立帰るかけふや思ひたゝん。
あすや思ひ立べきと日をかぞへて闇然(あんぜん)たり。今日只今ほつそく
せん。世上は惟茂所労と披露(ひろう)し。留守を守つて帝都(ていと)のしゆご。
おこたり事なかれと御諚あれは横手を打。兼々さやうの仰
なれはかう申おもだかも御供とこそ存ぜしに。腰(こし)ぬけやくの
御留守思ひもよらずとかぶりふつてぞ申ける。いやさないひそ
おもだか。主従都を出しと聞かは大悪不道の諸任。いか成ことをか
仕出し朝家の御為家のため。後悔(こうくわい)有らんは必定(ひつじやう)也。汝が家に残る
こそ惟茂か身二つ有も同じなれど。主従心 隔(へだて)なくしたしみ
ふかき言葉の花。築(つき)山の紬【岫ヵ】道を裏門よりと出給へは。おもだか次郎
も力なく跡にとゞまり御後見送れば見帰つて主従互の
御名残。つきせぬ月の都の空中に隔て〽別れ路と。神な
らぬ身は白玉か。責て何ぞと我涙。とふ人もなきひとりね
のうき身もつらく世もつらき。世継御ぜん玉ゆら姫。男ほしいも
床しいも。同じ思ひの同じ身を。同じすみかにむつまじく。御哥
合草むすび。悪性(あくしやう)咄とり〳〵に。乱れし髪(かみ)を二面の鏡向ふ
〽粧ひ誰が為につくろふ影ぞ仇(あだ)【徒ヵ】人に。かく共つげよ。つけの櫛(くし)腰
もと二人がすく髪に。あたりもかほる梅かほる庭のこち風ふん〳〵と
心ときめく御すまゐ。かゝる所へ梅の井惟茂卿の門外より。走やら
こけるやら息を切て帰りしが。長廊下をぐはた〳〵〳〵障子(しやうじ)ひつ
しやりあけるやいなや。《割書:サア》戻(もどつ)た〳〵わし一代のちゑ袋。ふるなも
どきの上 唇(くちびる)咽(のど)のかきがね舌のつり緒(お)おとがひのおつる程。こつち
からもしやべるあつちからもしやべる。そうしてかふしてどふしてと。
やり羽子(はご)のつめひらきかきあつめた咄も有。《割書:ヤア|》息(いき)がきれる水一つと。
跡先いはず真中へべつたりとすはるにぞ。世継ごぜん玉ゆら姫
両方より立かゝり《割書:コレ|》梅の井。おやかたのしゆびきづかひな。惟茂様に
おめにかゝつてか。きしませずとはなしや早ふ聞たい〳〵。《割書:サア〳〵|》どふぞと
ゆすり立られ。梅の井といきほつとつぎ。《割書:エヽ|》あんまりびろ〳〵遊
ばすな。聞まいと有ても是がいはいで済物か。まあとんと主様に
直にあふたと思はんせ。そして恨の山々おふたりに成かはつて。たくしかけ
くなんなくこちの理潤にして。追付むかひの乗物おふたりながら
おやかたへ。迎ひ取てだいてねてかはいがろとのお返事。別してあ
なたの御念が入て。こしらへは何も入らぬお手道具より櫛笥(くしげ)より。
三百目入の地黄箱五六千も用意なされとの御口上。おふたり様へ
のお文箱渡しますると指出す。二人の姫君飛立計。忝ないと
嬉しいと余りの事に手もふるひ。夢ではないか玉ゆらさま。《割書:マア|》お前
から御らんなされませ。《割書:ハアテ》時宜(じぎ)のない事そもじ様からよましやんせ。
そんならいつそ一時にと。文箱あくるも恋人に大だかのむすび文。
まいる身よりの御すさみひらく間おそしとくり返し。読返し巻
返し見れ共むかひの輿(こし)とはなく。御太刀尋出さん為やかたをも
忍び出。野山の起(おき)ふし此世のあふせ定なし。死せば未来と計
にて玉ゆら姫の文章(ぶんしやう)も。世継御前の御すさみも同じつらさの
筆の跡。はつと計に胸(むね)ふさがりさしうつ。むいておはします。梅の井
あきれた顔付にて是姫様がた。おてき様の千話(ちは)文おふたりな
からおどつゝはねつ。お悦びて有ふときおひかゝつて戻つたに。
扨 ̄ツてもあてのちがふたあのすねくろしいお顔はい。世継様なんと
玉ゆら様こりやどふぞ。《割書:エヽ|》気がゝりなわけも聞せず。お意地(いぢ)の
わるい中からわたしが読(よん)で見て。はんだんなさふと御文箱とらんと
するを玉ゆら姫つきのけ。《割書:エヽ》なんじやの。我きげんのよいまゝに
さは〳〵〳〵〳〵かしましい見たふない。おきやいのとひんとふつたる顔ばせに。
梅のい猶も合点ゆかず。こりやまあどういふせんさく一さいわしは
のみこまぬ。世つぎさまけなお子じや。お文の通有様に読(よみ)成と咄
成と落つかして下さんせ。爰なお子もしぶといきり〳〵いはんせ
どふぞいのと。せゝくり寄てといかくり。世つぎこぜんは文の表つゝまず
あかさばこれもち様。御家出有しと口々に世間へしれてはお家
の御大じ。我身のだいじも此時とそらさぬふりにて。《割書:アヽ|》べしても
ない【注】ことを。何がそれ程聞たい追付むかひに乗物やる。それ迄は
まめでゐて随分きりやうあげておきや。女夫も〳〵二世三
世いとしいぞかはいぞと。したゝるい御文章我身でさへ恥しい。まし
て他人に是がまあつがもないことばつかりと。詞にまぎらし御文
箱へおさめ入んとし給ふにぞ。玉ゆら姫は此咄聞よりむねも
とき〳〵と。《割書:エヽ|》妬(ねたま)しや我方へは家出したりとうそついて。世継に
【注 べしてもない=たいしたこともない。】
乗かへくさつたか。人でなしのちく生と心にあまる腹立まぎ
れ。むめのゐか首筋取て引のけ世つぎごぜんのひざもとへ
どつかりとゐなをり。《割書:フウ〳〵|》今のは聞所。女夫も〳〵二世三世いとしい
かはいとかいて有が定じやの。《割書:アヽクド|》なんのうそいふ物ぞ。そもじ
様の文章にはどふかいてござんすと。とはれて玉ゆらせきめんし。
文の通あらはさは見捨られしと腰元共に笑はれてはちじよく
ぞと。心にそまぬけら〳〵と笑ひ。《割書:イヤ〳〵|》二世三世とは世間なみで
あさいこと。わたしが文には五世六世みろくの出世もかはらぬ女夫身ふし
がなへていとしいと。それは〳〵忝いうまいことじやとせかすにぞ。世つぎ御前
もせきのぼる悋気(りんき)のほむらに気を上て。《割書:エヽ|》我方へは他国するの太刀
尋るのと偽(いつわり)ごと。頼まれぬ男心いつそのことやぶれかぶれと玉ゆらの胸(むな)
づくししつかと取何身ふしがなへる程かはいとの文章か。面白し〳〵身
ふしがなようがしびれうが。惟茂様には此世継御前といふおか様が有ぞ
や。忝も仲人(なかうと)は帝(みかど)様りんげんは汗(あせ)のごとし。出て二度返らねば未来(みらい)かけ
ての我夫を。横どりせうとはあたゝか【注①】な。手柄(てがら)に成ならそふてみや
《割書:サア|》そやらぬかと声もわな〳〵身をふるはして責(せめ)かくれば玉ゆらも云
まけじとおんでもない【注②】ことそふて見しよ。綸言(りんげん)ごかしおいてたも。帝
の仰の汗よりもこつちの汗はしめあふて互の肌の汗雫。すふても
見ること成まい。此道計はけん付【注③】におせどおされぬ茨(いばら)の枝。名付計
のわかくさの【注④】下 紐(ひほ)一夜ときもせで。肌(はだ)のあぢはいしりぬいた此玉ゆら
をさし置夫婦とはどの口でむすぶの神も御せうらん。日月地に
落 駒(こま)に角はへ鼠が猫をくい殺(ころ)す。うき世に成たらしらぬこと。命
の内は姫ごせの一分立て【注⑤】立ぬいて。世間広ふそふてみしよ。《割書:アヽ|》あの口
はい云そみない顔付して。ほんにつべこへ〳〵とよいかげんてやみやらぬと。
はしやいだちよほ〳〵口つめつて〳〵つめり上て置ぞや。《割書:イヤ|》舌(した)ながし【注⑥】胸紐(むなひぼ)
からかく様にさへつめられぬ大じの身。そなたが仕付せうとはわが身つめ
つて人のいたさ。思ひしれと飛かゝり世継御前のかた先をほつかりとかみ付ば
《割書:アヽイタ|》もう堪忍(かんにん)せぬ腹立や口惜やと涙つらぬく玉くしげ。そばに有しを
【注① いい気なさま。ずうずうしくこしゃくなさま。】
【注② おんでもない=いうまでもない。】
【注③ 権付=権力にまかせて言動すること。】
【注④ みずみずしい、新鮮なものにかかる(妻、新(にひ)等)枕詞。】
【注⑤ 「一分(ぶん)立てる」=一身の面目を立てる】
【注⑥ 言葉が過ぎる。言い方が生意気である。】
幸とかんざしかうがい油つぼ。打付るやら踏(ふみ)わるやらやくたい更になかりけり。
梅のいを始腰元 端(はした)女。驚(おどろ)きさはぎ真(まん)中へ分入て。是はまあはした
ない。つかみ付の扣(たゝく)のとは下々の悋気(りんき)ごと。上つかたの有まいこと玉ゆら様
からおしづまり。世つぎ様御かんにん腰元中間へ此けんくは。もらひましたと
せなかをさすりすかしてもたらしても。いや〳〵けもない【注】かんにんせぬ。
はなしてぞん分いはしやいのと。泣さけびのび上り飛(とび)出〳〵し給へ共。腰
もと四方に取かこみ無理(むり)むたいに両手を取引つれ〽おくにぞ入にける。
玉ゆら姫は。只一人跡に残て立つゐつ畳(たゝみ)にかつはと身をなけふし
わつとさけびおはせしが。はかなの女の身や口先て云 勝(かつ)ても。世継御
ぜんは帝から。勅諚(ちよくぢやう)のふうふこちの契りは内證(ないしやう)ごと。どふこけても世継
めが大じの男を我物顔。とかくせんをこされぬ先おやかたへかけこんで。
惟茂様にひつたりとしがみ付てゐましよ。《割書:ムヽ|》よい思案と裾(すそ)かい取かけ
出てはかけ戻り。《割書:アヽ|》是ても世継が此世にあれは怨のあた。妬(ねたま)しやつら
にくやと。すつくと立つどふとゐつはがみはたゝきがた〳〵〳〵。今のまに
【注 気もない=とんでもない。】
世継めがしねがな〳〵天もおちよ地もさけよ。山も崩(くずれ)ておちかゝり世
つぎが五 体(たい)くだけよかし。につくし〳〵のみだれ髪。かもじほどけてちはやふる
悋気(りんき)の神はなき世 彼(かの)。庭(には)の植込(うへこみ)松杉も神木と観念(くはんねん)し。しんゐのかな
釘心のかなづち打 殺(ころ)したや殺したや。くしげ見れ共 刃物(はもの)はなし。《割書:エヽ|》何とせん。
是よ〳〵二面の鏡思ひ付たりあら嬉し。鏡は女の魂(たましい)武士のたちかたな。
本望とげん銘(めい)の物。ゑたりや嬉しと走よれは柳の髪も我涙も
共にはら〳〵はら〳〵〳〵腹立や此かゞみ。世つぎごぜんか朝夕にべに白粉(おしろい)の
ときみがき。粧(よそほ)ひ作て主の有男をね取第一のにくいやつは此鏡。みる
も恨のますかゞみと踏付。〳〵取て投(なげ)。是は又我姿見くもらぬ物を
かゞみ山。心ぞ霞(かすむ)悋気(りんき)の雲霧(くもきり)誰とぎたてん水銀(みづかね)の。水もらさじとち
かひてし地かねをあだに捨られし。此恨は生々世々つきせぬ物といか
ればいかり。笑へは笑ふ正 直(ぢき)の姿のかゞみまるく共れんぼのかどひし【注】忽に。剣【釼】
となして我念力思ひはらさで置べきかと。小脇にかい込 踊(おどり)出 築(つき)山の岩角
に。押当ては押戻し。恋と妬(ねたみ)と浮(うき)世のつらさ三つの袷砥(あわせど)しんゐのめらと。
【注 「角菱」=態度や言葉などが角ばっていること。】
生れてなれぬ力声庭も春風とう〳〵〳〵。共にゑい〳〵さら〳〵
さつとちるは桜か越路(こしぢ)の雪。顔は上気の高尾山もみち袋に置露や。
五つの指(ゆび)のいつのまに。枝さんこじゆにことならず。ねたは【注①】や付しとすかしみれば。
《割書:アヽ|》嬉し切 刃(は)【注②】も付たりかん将ばくや【注③】が名作も是には過しと押いたゞき。
奥をめがけてかけ出しがいやまてしばし大じの敵。一打に切やきれずや
ためしてみんと走寄。二かい余りの古木の梅。下へふつたる一枝は世継が
腕(かいな)と心に込。ゑいや《割書:ツ|》と打ばあやまたず。枝は中よりずつはときれ。念力
岩を通す成紅梅 血汐(ちしほ)と乱れたり。天晴(あつはれ)切 ̄レ物切入らん。いや〳〵此気色
を悟(さと)られし損(そん)じては無念也。だまし切にと上がへ下がへ押つくろひかみ撫(なで)付んと
鏡にむかへば《割書:アヽ|》こはこりや何《割書:ン|》じや。藪(やぶ)の後(うしろ)の松の木に六尺ゆたかの大男。
内を見込《割書:ン|》でねらふ体あり〳〵と移(うつ)《割書:ツ|》たり。玉ゆらきつと心付。南天(なつてん)林の木
影よりすかし見れは人音の。藪 垣(がき)廻つて泉水(せんすい)の板橋(いたはし)より忍ひ込。昼
中によもや盗人でも有まい。扨は世継めが此玉ゆらをかへり討に殺(ころ)さん
ため。頼めばとて頼るゝ蠅(はい)同前の下々。待て見よめに物見せんと猶も
【注① 寝刃(ねたば)=切れ味のなまった刃。】
【注② きりは=よく切れる刃】
【注③ 干将莫耶=中国、春秋時代の有名な刀鍛冶の名。干将は夫、莫耶はその妻だという。】
木影(こかげ)に身を忍ぶ。かく共しらず両人さゝやいてはうなづき合。奥をめがけ
て行所を玉ゆらかゞみ追取のべ。走 ̄リ かゝつて切付ればさしつたりと
ふり返り。両方より切りくる刀の光かゞみの影。でんくはう撃(げき)するごとく
からり〳〵と切結び。受つながしつしばしが程刀に向ふかゞみの刃。念力込 ̄メ
てはつしと打ば。真甲(まつこう)より立 割(わり)に二つに成てぞ卧(ふし)たりける。すきを
あらせず今一人 畳(たゝみ)かけて打太刀に。女力の手もよはりかゞみをからつと
打落され。逃入らんとし給ふを。さもしや上らうあまさじと。取てひつふせ
既(すでに)両手を捻あぐる。狼藉(らうぜき)者が入たるぞ出あへ〳〵とさけび給へは。金剛兵衛 戸障子(としやうじ)
蹴破(けやぶ) ̄リ飛で出。もとくびつかんで引上 ̄ケ どうど打付腰の骨(ほね)ゑいやうんと踏(ふみ)付。おのれ
つらを見しつた。諸任が郎等 猿胯(さるまた)与一よな。是姫君惟茂公は御太刀を尋ん
為ひそかに都を御出。此留主を伺(うかゞい)いか成 悪事(あくし)か仕出さん。御両人に用心いたせと
しつけんおもだか次郎只今しらせに参りし所。扨々こらへぜいなくはやまつた悪人
すぐに此足てふみ殺さうか。但恥をかいても生たいかぬかせ〳〵といへ共更に返(へん)
答(とう)せず。腰より鼻笛(はなふゑ)取出しふかんとするをひつたくり。《割書:ヤア|》扨は相図(あひづ)のふへか能物(よいもの)
くれた忝い。はなぶへの返礼(へんれい)は咽(のど)ぶへに受とれと。引起してさか手に取 息(いき)のつがひ
むな板を。続(つゞけ)様に七つ八つ突(つか)れてあへなくしゝてけり。相図(あいづ)のふへのかくし勢取
まかれてはことやかましし。打ちらして埒明んと垣(かき)にむかつてふへ取 直(なお)し。高音(たかね)を吹
て吹そらす諸任すはやしすましたり。時分はよしと十人計打つれてとつといる。思ひの外
に金剛兵衛が力士立はつと計にげてんしてすゝみ兼てひかへしが。《割書:エヽ|》口 惜(おし)くもし
損(そん)ぜし。某は無体(むたい)に込入世継ごぜんをばいとらん。金剛兵衛を討とれと云捨
おくに飛で入らんとする所へ。おもだか次郎ぬか〳〵と出諸任がむなくら取
て突(つき)のけ。《割書:ヤア|》珍しい諸任。世継ごぜんは勅諚によつて主くん惟茂のつまじや
人と存ぜしに。扨は御辺のおか様か。めでたい〳〵祝(いわ)ふて水を参らせんと。五尺計
掘入たる小山のごとき手水鉢(てうづはち)かろ〳〵と指上る。金剛兵衛声をかけ暫く候
おもだか殿。水祝より先御 祝言(しうげん)の夜の石のいわひ。我から先といふよりはやく。
八尺余りの立石ゑいといふてすつと上《割書:サア|》水からか石からか但水石一時かと。追廻し追
まくり声を合て投付れば。先にすゝみし十余人みぢんに成てそ失せにける。
さすがの諸任気を失ひ女房いらぬ女房も去(さる)。こつちもさる去とはゆるせ
と逃て行。あまさし物と金剛兵衛追かけ出ればおもだかをさへ。おもだかかくれば利
綱をさへこつちにけがのない上は。先何こともをん便〳〵茶びん茶 碗(わん)の割物かけ物。一所
に置はあぶな物世つぎ御前は主君のやかた。こつちの姫はこつちの御殿惟茂 帰洛(きらく)
遊(あそば)して。嫁入の前後は仕合しだいおねまのやりくり御きてん次第上十五日の長枕下
十五日のお手枕。談合次第と二人の姫を二人かせなかにしつかとあふせの夫(それ)迄はおさらば。さら
ば〳〵腰元はしたもめをくばれ。道の用心敵のすいさんふみ立。〳〵ふみちらす。落花(らつくわ)狼藉(らうぜき)
ゆるすなゆるさし。《割書:ヲヽ〳〵〳〵〳〵|》おふたは木男松の木 樫(かた)木。おはれし花は梅桜盛を。待てぞ別れける
第三
帰去来(かへんなんいざ)とて古郷(こきやう)へ遁(のが)れしは。彼天命を楽(たのしみ)て禄を捨
たり古人の心。鷹巣(たかのす)の帯刀太郎広 房(ふさ)は。去(さんぬる)世継御
前の婚礼(こんれい)に武士一人にえらはれ。御 剣(けん)の役を蒙(かうふり) ̄リ 【衍】ながら
太刀風に恐(おそ)れ。一番に逃(にげ)失せて。御太刀ともにゆきがた
なく洛(らく)中の物笑ひ。毎日 押(おし)紙 張(はり)札して狂哥(きゃうか)狂(きやう)句の
悪(わる)口に。落書(らくしよ)を立る門 柱(はしら)殊に逆鱗(げきりん)甚(はなはだ)しく。事 落居(らつきよ)
の間妻子 閉(へい)門。屋敷の口々 釘(くぎ)付にして戸びらに樫(かし)の木
丸太。十文字にやりちがへ大 釘(くぎ) 鉸(かすがい)うらかゝせ。ひつそぎ竹にて高
垣(かき)付。乱杭(らんぐい)打 ̄ツたる世の掟(おきて)見るめもいぶせくいま〳〵し痛はしや
北の方籠中の鳥のうき思ひ。一子房若の手を引て門の影
にてうかゝへは。往来(ゆきゝ)の貴賤(きせん)立つどひ。是々此屋敷が腰ぬけ侍。
鷹巣(たかのす)の帯刀太郎 閉(へい)門のざま見ぐるしい。あの落書(らくしよ)見よ〳〵と
ゆびざしあざけり読(よむ)哥に。恥しらず何国(いづく)で武士を帯刀が。
つらのかはむけ平国の太刀。出来た〳〵よい口にやりおつた。是見よ
爰にも又一首。鷹巣も鼠の巣(す)やら子をおゐて。穴浅まし
の親の逃ざま。鼠とはよふいふた御蔵より下されし。御知行盗の
米の封。舛落しにかゝらふぞと笑ひどよめき通りけり。聞に付
ても北の方悲し共口惜共思ひ乱れておはせしが。なふ房若。父御は
弓馬を嗜(たしなみ)て誉(ほまれ)有武士なれ共。弓矢の冥加につきはてかゝる
不覚を取給ふ。其恥を返り見てよもながらへてはおはすまし。され共
預りの御太刀は日本の名剣。尋出して惟茂卿へ渡たふおもへ共。
家は閉(へい)門とぢめられ譜代の郎等小者迄皆あなどりて逃
はしる一門家は不通なり。男とてはそもじばつかり三年立ば
十 ̄ヲ じやぞや。命をかけ身をくだき御太刀を取出し。父の恥すゝぎ
落書を立て笑はれた。親子の面をぬいでたも。早ふおとなに
したいなふとくどき給へは《割書:アヽ|》かゝさまなかしやんな。何の事其お太刀を取
出して。笑ふたやつらが首ぶち切 ̄ツ てくれうぞ。かゝ様おれは兵じや。
おれは樊噲(はんくわい)長【張】良じやと裙ひつからげかけ出る。いだきとゞめて《割書:ヲヽ|》
出かした〳〵。去ながらなんぼ心が功成共。門は釘付高い声もかな
はぬぞ。思へは妻の帯刀殿子迄けなげに産(うみ)付る。魂すはりし弓
取が其夜にかぎつておくれを取。諸万人の口の葉に。うたはれ給ふ
うらめしさよ。妻子の恥辱は思はずかと歎給へは房若も。かなしそふ
につく〳〵見て。おりや樊噲じやといふ顔に貝(かい)をつくる【注】そ哀成。
《割書:ヲヽ|》道理いとおしや。せめて御身に御 慈悲(じひ)くだり。罪(つみ)ゆるさるゝ為
【注 貝を作る=(泣き出す時の口つきがハマグリの形に似ているところから)べそをかく、泣き顔をする、意。】
なれば。万事家内をつゝしめと。親子一間に引こもり。いつを昼(ひる)
共夜もすがら。ねもせぬ夢に時さるゝ心の〽内ぞ痛(いた)はしき。
汨羅(べきら)の潭(ふち)も水あせてしづみもはてずなからふる。帯刀太郎ひろ
ふさは心の外の誤(あやまり)も。運の不 祥(しやう)に近郷の国伊吹山の片影にしるべ
もとめし隠家も浮には。たへぬ。身の成はて。妻子に一め対面し
御太刀の有かを語。とにもかくにもならばやと。やつし果たるやふれ蓑
身をしる雨【注①】はいとはねど。月にもはづる夜るの笠。梅が小路の
我宿の門に入らんと立寄ばこはいかに逆茂(さかも)木【注②】打て釘付に戸
じめたり。帯刀はつと。眼もくらみなむ三宝。代々 朝家(てうか)のかためと
して。武勇(ぶゆう)の名を得し親 祖父(おうぢ)のしかばね。名字に釘をうたるゝ
かと《割書:やゝ》涙くみ立たりしが。今は何をか期(ご)すべき門前にて腹(はら)かき切。
腸(はらわた)つかんで扉(とびら)に打付しなん物と。どうと座を組刀をすはと
ぬきけるがいや〳〵。我心 底(てい)をしる人なく身の置所なきまゝに。狂ひ
死にしたりなんといはれんは。一子房若が恥辱(ちじよく)よん所なし。妻子に
【注① 身を知る雨=わが身の上の幸、不幸を思い知らせて降る雨。】
【注② 逆茂木=敵の侵入にそなえて、とげのある木の枝を立て並べ、結び合わせて作った柵。】
所存(しよそん)を語る迄。しばしなからふ命共。心を隔(へだつる)る高塀(たかへい)の腰板(こしいた)
に刀を当。我家へ我身としてさながら盗賊(とうぞく)の。わざもけや
けき欅(けやき)板めつき〳〵と切やぶる。北の方 障子(しやうじ)を明(あけ)。耳(みゝ)をすまして
《割書:ヤア|》扨は盗人ごさんなれ。閉門(へいもん)の家女子わらべとあなどる共一打に
切とめて房若に手柄(てがら)させ。世上の聞にせん物と。長刀かいこみ
房若にそつとさゝやけば。どつこいやらぬ《割書:アヽ|》高い〳〵合点か。《割書:ムヽ〳〵|》う
なづき押肌(おしはだ)ぬぎ。高からげする足だけ【注①】も九寸五分をするりと
ぬき親子さし足 息(いき)をつめそろり〳〵とねらひよせ待かくるとは
白壁(しらかべ)を一尺余り切やぶり。身をほそめて這(はい)入かたちつらも
頭もひつつゝみ。ちぎれしとふのすかこも【注②】に。只みの虫の蠢(うご)めく
ことく書院(しよいん)をさして忍び入やり過してきたの方。長刀取のべ腰の
つがひをはらりとなげば。うんと計にかつはとふす。房若打物以
ひらいて飛かゝれは。やれ房若なつかしやと。むつくと起(おき)しを能々(よく〳〵)
見れば父の帯刀。《割書:ハアヽ〳〵|》と計に親子の人あきれて。詞もなかりけり。
【注① 足丈=足の高さ。脚のたけ。】
【注② とふの菅薦=スゲで編んだむしろ。「とふ」は「十編・十布・十符」と表記され、編み目が十筋もある幅の広い菅薦。「古くは諸国で産したが、中でも陸奥産のものは「とふの菅薦」とて和歌によまれている」とあります。】
やゝ有て帯刀。《割書:ヲヽ|》思ひかけぬは道理〳〵。妻子の手にかゝりしは。責(せめ)
ても天のめくみとしれ。かたるもめんほくなけれ共。某ふかくの名を
とる事 臆病(おくひやう)に似て臆病ならず。彼祝言の供先無二無三に
切かけしを。諸任がわざと心し。只一筋に御太刀を大事にかけ。
前後をわかず落程に物にさそはる心地にて。そこ共しら
ぬ山々を二三日はさまよひしか。漸(やう〳〵)夢(ゆめ)のさめたるごとく。始て驚(おどろ)く
かひもなし。此云わけは私ごと。五十歩をもつて百歩を笑ふとかや。逃るは
同じ逃る也。帯刀太郎広房かつらかひ拭(のこ)ふても出られずじがい
せばやといく度か柄(つか)に手をかけしが。日本 不双(ぶさう)の宝の御太刀。朽(くち)
はてん勿体(もつたい)なさ。浮世にまだ〳〵ながらふか心底思ひやつてたべ。
今は近郷の国伊吹山の麓(ふもと)。久作といふ土民(どみん)の家にかくまはれて
日を送る。此久作は御身もおぼへ有べし。先年家に奉公(はうこう)し。沢と
いふ腰元と密通(みつつう)して欠落(かけおち)せし。九郎といひしわつはかこと。むかしの
恩(おん)を忘れもせぬ。夫婦が誠頼もしく御太刀を預(あづけ) ̄ケ置く。《割書:サア|》片時(へんし)
もはやく房若をつれ行。太刀を受取惟茂に参らせ。始
終(じう)打あかし歎(なげき)なば仁心ふかき惟茂卿。品よろしく奏問(そうもん)あり
鷹巣の家を立。房若武門をつがん事 疑(うたがひ)なし。此ことくはしく
しらせ置心やすふ腹(はら)切らんと。非(ひ)人にやつし来りしにやしきは
釘付戸しめられ。塀(へい)切やふりし某を盗人と思ひ心はしかき
長刀。房若が働(はたらき)あつはれ帯刀が妻子成ぞ嬉しや死後(しご)に
案(あん)じもなし。やれ夜明も近付外へもれては詮(せん)もなしとゞめを
さいて一足も。急げ〳〵といふ声も喘(すだき)せぐりて玉の緒(を)も引入
ごとく見えければ。北の方涙にくれ。御太刀さへ有からは御身の
うへはいひ分(わけ)たつ。いかに姿かはればとておつとを見ちがへ手にかけて。
何とながらへあられふぞなふ房若。父の敵は母成ぞ寄てきれと
泣給へば。今はの眼をくはつとひらき。《割書:ヤイ|》うろたへ者。武士すたつた
おつとを指殺([さ]しころ)して。あの世 忰(せがれ)世にたてうといふ性念(しやうね)はなく。共
にしんで房若を誰がもり立て家はつぐ。今の間に夜があけ
御とがめの塀(へい)は切やふり。見ぐるしき此ざまを御所の役人 検非違(けびい)
使(し)共に見付られ。恥に恥(はぢ)をかさぬるが房若つれてはやい
そげ。詞をそむかば生々世々妻でない夫でないともだゆれ
ば。《割書アヽ:|》是々何 ̄ン の詞をそむかふぞ。房若おじやと出んとすれど
後がみ。思ひ切かねすみかねあふみの国がどつちやら。伊吹山
とは何国ぞと。口にくと〳〵くどきごと涙が足を引戻す。房
わかもうろ〳〵と戸じめし門を押て見て。爰が明ねば
出られぬとかこ付泣こそ哀なれ。《割書:エヽ|》塀のやぶれがめに見へぬ
かぐどんながきめとしかられて。なく〳〵くゞる四つばいはてゝ親しらぬ
ゑのころ【注①】や。母もつゞいて出給へはなふ〳〵是々。とゞめをさいてく
れぬかとゞめをさせとゞめをさせ。《割書:イヤ|》もうそれはゆるして下され
かし。なふ曲(きよく)もない【注②】苦痛(くつう)させんといふことか。夫婦のよしみ頼む〳〵と
くるしめば思ひ定て立帰り。刀おつ取涙ながら日比ねんずる
観世音(くはんぜおん)。われ世の中に有らんかぎりはたゞたのめ。御 誓願(せいぐわん)あや
【注① 犬の子。いぬころ。】
【注② つれない。情けない。】
またず一門 蓮(はちす)に道引給へ。なむあみだ仏と引 起(おこ)しとゞめをぐつと
さしもくさ。伊吹山へとこがれ行道たと。〳〵し《割書:エイ〳〵|》。手枕〳〵
かたたるござるにひと火すへたや切もぐさ。《割書:サンヤレ〳〵|》。のぼりか下りか
飛脚(ひきやく)文箱足に三 里(り)のたゆる間も。《割書:サンヤレ〳〵|》さんさつけやれ。
手杵(てぎね)かちきね気がるな男の。気もあさ〳〵につれそへば。
かくが心ももみぬきもぐさ。伊吹の里にむかしより。刈(かれ)共つきぬ
させもぐさ身 過(すぎ)は草の種(たね)ならし。夫婦 臼(うす)ばたに息やすめ。
なふ久作さま。こなたひとりは何してもゆるりつと過かねぬ身を持
て。女房子ゆへにかんぱうくづし浮くらう。去ながらまあ四五年。
あの万虎が十二三に成迄じや。持て出た果報(くはほう)でなん万両
もうけふやら。かねとて名ざして持ね共あの子があればこちや
かね持。あまり身体(しんだい)に気をもんで煩(わづら)ふて下さんなと。せなかさす
つていひければ。ほんにあのよな子をうむはかねうむとおなじ事。
そなたの胎内(たいない)は銀山じや。おれも随分(ずいぶん)せい出して。まひとり
ふたり掘(ほり)出さうそちも手の物 灸(やいと)して。山の腰(こし)あたゝめや久々
まぶがとぎれたに。少山入致さうか何と山はさからふて。しなだ
れよれはしなだれて。うそ恥らい昼(ひる)日なか女房の口からそれが
まあ。えやは伊吹のもぐさやが。女夫中 能(よい)くらしこそ所帯(しよたい)のくすり
もぐさなれ。是じやらくらもよいかげん。旅人衆が大勢門に立て
じや。おつとがてんと見世先にすゝみ出。いぶきもぐさの効能(こうのう)を
商(あきな)ひ口にぞのべにけり。凡(およそ)諸国に蓬おほしと申せ共もろこし
にては𣃕(きん)州四明が洞(ほら)。我朝にては当国江州伊吹山周の幽王
の吉例(きちれい)を以て。三月三日に刈(かり)始五月五日の露を請日にさ
にさらし月にほし。桑(くわ)の杵(きね)は男を表(へう)し柳の臼(うす)は女を表し陰陽(ゐんやう)和(わ)
合(がう)に搗(つき)ぬくもみぬく白もぐさ。今年 艾(もぐさ)ひねもくさ廿年から
百年迄代物わづか六 銭(せん)にて。人の命はあたひ疝気(せんき)や寸白
や万病の根(ね)を切もぐさ。臍(へそ)をふすべる薫臍(くんさい)もぐさ霜に
かじけし老木のふしの筋やはらくるむしもぐさ。まだいとけなき
児(ちご)桜花のちりけ【注①】や筋かい【注②】や赤(あか)子にすへてもあつからず。ちゑ
なひ子には智(ち)を生し子のなひ女中は子をはらむ。此もぐさの
ゐとくには時をゑらはず日をきらはず思ひ立日に人神(にんじん)なし。土
用【注③】八 専(せん)【注④】かまひなし前(ぜん)三後七つゝしみなし灸した夜ても恋
衣 夜着(よぎ)の下から手を入て。せゝり起(おこ)すにふつつかとひねりも
くさのなまやいと跡もうぐはす【注⑤】痛なし。引 灸(きう)【注⑥】禁(きん)灸【注⑦】たゝりなし
養生(やうじやう)やいと押(おし)やいとくすし入らずの御重宝捨るとおもふて
只六銭。巾着(きんちやく)のかはきり【注⑧】こらへれは年中の後薬(のちくすり)めしてござれと
売立る。弁舌(へんぜつ)からに上下の旅人 皆(みな)家〽づとにともとめけりあゆみほ
つれしわらんづ【注⑨】や。房若はすご〳〵とおしよぼからげ【注⑩】にやぶれ笠。見世
先に立やすらひ【注⑪】手をのばして。艾(もぐさ)の袋ひつつかめば万とらがはした
なく。あれとつさま乞食(こじき)がもぐさぬすむぞや。すりめやらぬととんて
おり小 腕(かいな)ねぢあげ。見世の物かけて取。道中の小 鳶(とんび)。かさねて爰へ
うせうかとあらき風にも当ぬ身を。握(にぎ) ̄り こふし七 ̄ツ八 ̄ツ うんといふほど
【注① 「ちりけ」或は「ちりげ」=灸点の名。項(うなじ)の下。ぼんのくび。子供の諸病には、ここに灸をすえる。】
【注② 「筋違」=背中の一部で、灸をすえる場所。小児の風邪や胃腸病予防に効果があるとする。】
【注③ 陰暦で、立春・立夏・立秋・立冬の前各十八日間の称。】
【注④ 八専=壬子(みずのえね)の日から癸亥(みずのとい)の日までの十二日間のうち丑辰午戌の四日を間日(まび)として除いた残りの八日をいう。】
【注⑤ 「うぐは(わ)ず」 「うぐう(燌)」は、灸のあとが腫れ、膿みただれること。】
【注⑥ 腫物、痔漏などの患部に蒜(ニンニク)・韭(ニラ)・生薑・味噌などを載せた紙を敷、その上に艾を置いて灸をし、紙を引き去って患部を温める方法。】
【注⑦ 体の、ある部分にすえると害やたたりがあるとして禁じられている灸。】
【注⑧ 皮切り=最初にすえる灸。】
【注⑨ 草鞋(わらじ)に同じ。「わらぐつ」の変化したもの。】
【注⑩ おしょぼからげ=着物の、背後の裾をからげ、下から帯に差し込むこと。】
【注⑪ やすらひ=気がすすまずぐずぐずしていること。】
たゝかれて。涙はら〳〵こほしながらいたいとだにも声立ず。いや盗(ぬすみ)は
せぬ母様の足いたい。あるかれぬと有ゆへに。やいと■(もら)ひに来た
はいや。こらへてくれとへつらわぬ。詞にすじやう顕(あらはれ)てめも当られ
ぬ次第也。女房見かねいとしやさんぐうかなする人。お袋はとこにぞ鞵(わらぢ)
か足をくふたか。艾ほしくばやらふかといたはれば。いやおきや〳〵。親を
だしにつかふは。物取のおくの手。《割書:ヤイ|》小ぢよく【注】。こんどは是をくらふかと。杵
ふりあぐれは旅人共《割書:アヽ|》是々。爰は我々が噯(あつかひ)。うそにも親とは
きどく也。こりや艾とらせんと一袋 投(なげ)出し。はやふ帰つてすへてやれ
と皆々通れば房若。大へいらしく押 戴(いたゞき)。いたさこらへて泣た顔せまいと
すれどないじやくり笠かたぶけて立帰る。門見廻して女房おつとを
招き。今の子を合思か。なんほうよごれやぶれても衣裳(いしやう)つきに
見所有。物いひの大やうさ目元口もと帯刀様にいきうつし。疑(うたかい)
もなき房若様とやらにまがひはない。おいとしやたてはき様今度
の恥辱(ちじよく)すゝがれす。都へ帰つて切腹する妻子が是へ来るならば。
【注 子供をののしっていう語。】
御太刀を渡し二たび家をつがせてくれとの御頼み。其御詞にちがは
ず若君うろたへ給ふ体(てい)。帯刀様は 御 切腹(せつふく )に極つた。追ついでおく様も
お供せうとかけ出る。《割書:アヽ|》是て〳〵此久作もそうは見たがさりな
がら。此の嚚(ひす)ひ【注】人心語りの有まい物でもなし。殊に預り置た宝
の御太刀。彼橘の諸任とやら望をかけ。是からおこつたさうどう
念にも念を入たがよい。旦那の妻子に 極(きはま )れはもぐさのふくろに
隠(かく) れもない。久作都て御出なされう。惣じて 此事 隣(となり) かぎつ
て 隠密(おんみつ)。 ざは〳〵して近所にふしん立られな。 けさから【右:どふやら】もう〳〵と
頭痛(づつう) であたまがくだける。旅人はなし日はくれるとのうれん
はづし 看板(かんばん) 仕廻。見世かた付て 蔀(しとみ) をおろし一ね入して 汗あせ してくれう。
門口しめて用心しやと 頭巾(づきん) 鉢巻(はちまき) 高枕。こりや万とら。房若の
帯刀のと国人にいふまいぞ。ねむたそうなめもとじやだいてね
よふと引よせて。うん〳〵うめいてひつかぶるもめんふとんのうら 表(おもて) 。
背戸(せど) かどしめて女わざ。夜なべ取つく 行燈(あんどう) の。光 ̄リ もほそき忍び
【注 ひすい ずるい。心がひねくれている。】
声。久作は爰か都からきた明てたもと。表をひそかにたゝくおと
応(おう)と答(こた)へてかけ出る。ふとんの下から裙(すそ)ひつとらへ。米やか味噌
屋か留守じやといへ留守じや〳〵と引とむる。《割書:エイ|》物 負(おふ)た覚へは
ないとふり切て門口の。とらやおそしと走出なふおくさまかおゆかしや。
おいとしやさいぜん此お子をそれ共存ぜす。慮外(りよくわい)致せし勿体(もつたい)なや
とすがり付は北の方。むかしにも似ぬ此有様身のうき時の人頼み。
恥しさよと計にて涙に。くれておはします。《割書:ヲヽ|》お力ないは御尤
され共大事の此わこ様お気ばししなせ給ふな折ふし夫は風心地
先々是へと痛(いた)はりてぬき捨わらぢ洗足の。床(ゆか)は簀(すの)子のわら葺(ぶき)
や。洩(もり)て袂(たもと)に露霜も奥の間にこそ請しけれ是久作殿聞
てか。かゝ様親子御お出なされた。ちよつとおまへゝ出られぬか。ヲヽ聞
てはゐたがどふもあたまがあがらぬ。熱(ねつ)がつよふて気がちうをとぶ様
な。随(すい)分御 馳走(ちそう)〳〵といひ捨ふとん引かつく。《割書:アヽ|》時もときの煩ひ
やとおくに出れは北の方。なふ久作の病気とはさぞやそもじの
気あつかひ。高きもひくきも女のならひ。妻子□□□□□□□□【のうへは我身にも。】
かへて心をいたむるぞや。是に付ても帯刀殿そなた夫婦の心
ざし。くれ〳〵も悦びてあへなきさいごをとげ給ふ。預おかれし
宝の御太刀此子に持せ。惟茂卿へ参らせ父の家をつがせてたべ。
世が世ならば御身立に頼るゝこそ道ならめ。返つてたのむ身
と成し。哀と思ふてたもやとてさめ〳〵と泣給へは。《割書:アヽ|》冥加(めうが)ない。こし方
の御 厚恩(かうをん)。久作もいひかいなき商(あきな)ひは致せ共。背にかはらぬ
男気。ふうふが命を投(なけ)打ても御世に立でおかふか。お屋形を出し時
身に持た子も成人いたし。房若様のよいおとぎ御世にお出
なされての。家老殿にして下されませ。《割書:アヽ|》おとなし様に。おめがかた
い少お休(やすみ)あそばせ。何ぞお裙(すそ)に置ましよと。恥ぬ心のおく
そこを明ていぶきの山おろし。落くる軒(のき)の月受てふさわかは
ふら〳〵と。いねぶりこけしあぢきなさ北の方も旅づかれ。咄
ね入の袖枕前後も〽しらずふし給ふ。痛(いた)はしやすきまの風も
【虫損部は東京藝術大学附属図書館蔵本を参照し注記】
いとはれしに。夜寒(よさむ)を何とせんたゞ物恐れながらと打きせ〳〵。
我身は次の片角(かたすみ)に子の有中は男にも。常が丸ね【注①】をけふは猶
帯引しめてぞ卧(ふし)にけり。阮【既】燈(ともしひ)【灯】 半点(はんてん)して。三 更(かう)にともなふ鐘(かね)
の声。深夜(しんや)の雲に埋(うつも)れて。四方に人音しづまりたる。久さく
そつと起(おき)出そろり〳〵とあたりを見廻し。奥をのぞいてさし足
に雨戸の枢(くるゝ)かけかねを。しめて廻す帯刀女房が口に手を当。
鼻息(はないき)伺(うかゞふ)こせうの粉 薬研(やけん)鍔(つば)の二尺一寸するりとぬき。奥をさし
て入所をむつくと起(おき)て女房膝ふしにしがみ付ふつても引ても
はなさばこそ。片足とびにやの内を引ずり廻れはついて廻り。戸
棚(だな)の角にどうど引すへ是此ぬき身は何 ̄ン じや。熱気におかされ
た体でもない。お主様の寝(ね)所へ誰を切刀ぞ。《割書:ヤイ|》やかましい
音ぼね【注②】立な。《割書:エヽ|》しおふせて後にいはふと思ひしに。こりや太宰 ̄ノ
大弐諸任公より内通有。帯刀に預 ̄リ置平国の。宝の太刀
持参するにおゐては。領分(りやうぶん)伊豫(いよ)の国の内 桑村郡(くわむらこほり)三十町を。永代
【注① まるね=まろね。(丸寝)・・・帯も解かないで着物を着たままで寝ること。】
【注② 音骨=声】
扶持(ふち)せられんとの契約(けいやく)。かう近道に持て来た仕合。此刀でふさ
わかをしてやつて。今のまに黒縁(くろぶち)の乗物にのせるそ。老入の栄(えい)
花迄此比 思案(しあん)しめおいた。声立てめをさますなだまれ〳〵と
つゝと立。先待てくだされと引すへて興(けう)さめ顔。ため息(いき)ついてゐたりしが。
やゝ有て涙をはら〳〵とながし。情なやいつの間に魂(たましい)が入かはつたぞ。お主様
の御 厚恩(かうおん)七年はまだきのふけふ。よもや忘れは有(さつしやる[朱書き])まい。ふたりが不義の
忍び合あの万とらがおなかにやどり。身はおもふ成と云お家の法度を
そむくといひ。親請人のめいわく子はをろそうかながそうか。ふたりが
首は縊(くゝら)ふかと内 玄関(けんくはん)の外絆(とつなぎ)に。なは迄かけたをおぼへてか。それにお主
のじひ心おく様のめ【あヵ】ひけんにて。お袖の下よりかねいたゞき夫婦つれ
てお家を走(はしり)。あの子を悦ひ三人の命。生ながらへたは誰が影ぞ。
わしやけふか日迄お主の方へ。足をむけてもねぬはいの。たがいの
性念(しやうね)見とゝけていひかはした程にもない。きたないさもしい心 根(ね)や
持仏(ぢぶつ)にこざる如来様。つい木のされと思ふてかわしやなんにも
しらね共。地 獄(ごく)も此世に有そうなむくひがなふてかなはふか。
女房子かはいが定(ぢやう)ならは分別しかへて下されと。夫の膝(ひざ)にもたれ
ふし。声をたてじと我袖を口に。くはえてしめなきにかこち。くどく
ぞ不便成《割書:エヽ|》馬鹿(ばか)律義(りちぎ)な。仕 替(かへ)るふん別こつちにないわごりよ【注】が
分別出なをせとつゝ立はつきはなしよい〳〵そつちの分別極まれば
わしも思案極たと。膳棚(ぜんたな)の包丁(ほうちやう)追取我子の万虎引 起(おこ)し。
心もとに指あつれば《割書:ヤレ|》女め気ちがひめ。恨が有らは口でぬかせ。科(とが)
もせぬ子に刃物(はもの)を当。大事の子にけがさせたら堪忍(かんにん)せぬとね
めつくる。女房涙せきくれど。にくいながらも夫の悪事。高声も
せず。かこち泣。なふ科(とが)せぬ者は殺(ころ)さぬとは。御身も見ごとしつてか。
我子大事と思ふ程人の子は猶大事。殊に御 恩(おん)のお主の子殺
してそもや其 報(むく)ひ。我子にあたらで有物か此子がゆく末
お主の罰(ばち)。ういつらい報ひ見せうより一思ひに今 殺(ころ)す。皆御身の
悪心からお主と我子を右左の両手で殺と同じこと是。包丁と
【注 わごりょ(我御寮)=対等もしくはそれ以下の相手に対して親しみを持って用いる語。そなた。】
思ふてかこなたの心の剣(つるぎ)ぞや。《割書:サア|》房若様から殺(ころ)しやるか此子から殺
そうか。生としいける身の上に命を大事とする故に。あつい灸(やいと)も
堪忍するくすりあきなふ魂(たましい)に。あくまが入かはつたか地ごくの迎ひか
ゆかしいか。むごい悲しい心やと声を立ねはめで恨む。うらみはおつと
思ふは主人歎一つを二筋に。こほす涙は組(くみ)糸をたぐり。出すがごとく也。
久作はつと得心(とんしん)【注】し。《割書:アワヤ|》そうじや誤た。お主は根本こちとは枝
葉。根さへかれねば枝葉は立。お主がもとじや合点したぞ女房共。
《割書:ムウ|》あまり急なおれ様 真実(しんじつ)の発起(ほつき)か。《割書:ハテ|》木石ならぬ久作。てき
めんの道理を聞て合点せいで能(よい)物か。未来迄たすかるいけん
女房と思はぬ善知識(ぜんちしき)と。手を合すれは嬉しさの猶も涙にむせびし
が。かまへて〳〵其心を跡へ戻(もと)して下さんな。されば〳〵。我身ながら
此心めがじゆうにならぬ。少も心に油断(ゆだん)させず善はいそげあす早(さう)
天。都へお供惟茂卿を頼むべし。御両人のかご二 挺(ちやう)お太刀持する
人足今宵からやくそくせう。御身もやすんで七 ̄ツに出立の用
【注 「とくしん」の誤記】
意しや。それなら早ふ戻(もど)つてや。《割書:ヲウ|》火の用心よふしやと門の戸明て
跡を又。さすとは見へしかたを波。足も音なく見かくれて縁(ゑん)の下
にて這(はい)入ける。見るよりぞつと身もふるはれ扨も〳〵恐ろしや。
得心(とくしん)も偽り。かゝる邪見(じやけん)の悪人に。夫婦の枕をならべたる。我も
さき世の因果(いんくは)の業(ごう)。破れかぶれ奥様にしらせ。いつそわれて出
よふか《割書:イヤ〳〵|》年月かさねし我夫。罪に落すも本意でなし。やるかた
しらぬ我身やと。むせ返り〳〵ふししつむこそむざんなれ。さては
簀(すの)子の下から突殺(つきころ)さふといふたくみ。《割書:エヽ|》罰(ばち)もむくひもかみわけぬ。
愚痴(ぐち)共悪共恐ろしや浅ましや。とかく我子をかはりに立我も
死んて見せたらは。恥入て悪をひる返しお主のために成へしと。おもひ
定て万とらをねながらそつとだき起(おこ)せは。昼の跑(あがき)に草臥(くたびれ)て
たはい性念(しやうね)も長 欠(あくび)。母にじつといだき付を。いだきしめ。先年万年と思へ
共さだまる業(ごう)は詮方(せんかた)なし。房若さまにかはつてそなたの命を母
にたも。時にはとつさまのどうよく心もひる返り。お主様へは御奉公
未来(みらい)ではのゝさま【注】に。ほめらるゝぞと身をそへてせくりあげて
歎(なげき)しが。おそなはつては詮(せん)なしとそつと立てあゆめ共。畳(たゝみ)もう
すき竹すの子下へしられじ聞せじと。火焔(くはゑん)の渕(ふち)の薄(うす)こほりふむ
かと計わな〳〵〳〵。ふるふ足を漸(やう〳〵)にしづめ。我子をそつとおくの間
の親子のそばにねさせ置。我身は房若だき取てそろり〳〵と
いざりのく。跡のたゝみをつらぬきて氷のきつ先つきぬき。〳〵ひら
めいたり。ひらり〳〵と火にうつろひ。万とらがみゝのきは枕もとは《割書:ア|》
は《割書:ア|》あぶなや。今迄は刃物(はもの)持なげがすなと。世話やいた物かわい
げに剣の山に捨るかと。思へばめもくれ冷汗(ひやあせ)に心も。きゆる計
なり。刀の切さき万とらがせぼねに突当(つきあて)。むないたかけてつら
ぬかれ。ぎやつと計にそり返れはめもあてられず身もちゞみ。
しらずに殺(ころ)すてゝ親と見てゐて殺す母親と。つれない親
を持た子やと。思へはぜんごも打 忘(わす)れ母はわつとさけぶ声。北のかた
驚(おどろ)き起(おき)あがつてなふ悲しや。房若が殺された久作なふとさはぎ
【注 幼児語。すべて尊ぶべきものをいう語。】
給へは。是々申其久作が悪心からなすわざ。され共房若様は
つゝがなし。殺されたは我子の万とら。くはしきしさいは申されずまづ
奥様此お子つれ。早ふ爰を落給へ。《割書:ヲヽ|》心へたと懐(くわい)中のまもり刀
房若に。さゝする間に女房 戸棚(とだな)の封(ふう)捻(ねじ)切。是此袋はたからの
お太刀是が大事渡します。《割書:ヲヽ|》合点と太刀袋追取出んとする
所へ。縁の下より久作 危神(やくじん)のあれたるごとく飛で出。《割書:ヤア|》罪(ざい)人共
昔はむかし今は今。主つらひろぐがふがわるい。面々の立身づく
義理も仁義も入物か。飼(かい)かふ犬に手をくはれ女めゆへに子を
殺した。其上に此太刀ぬつくりと渡さふかと飛けつてひつ
たくる。女房すかさずつかみ付申おくさま。此お太刀は此女房が跡から
持て追つかふ。辻(つじ)迄のいて待たつしやれ。早ふ〳〵と気をせけば。
心えたりと親子の人はしつて表に出給ふ。夫婦太刀を引合
夫は片手。女は両手太刀を下にひつすへ。久作ゑせ笑ひ。おのれ
がよし千人力あればとてこりや。此脇指て腕(うで)ぶしをきり
おとすが放(はな)さぬか。なふ命捨た此女 腕(うで)切らるゝをいとはふか。八年
九年つれそふて其様な根性(こんじやう)と。しらなんだが口おしい。いとしひ
かはいひ子を殺さば。邪見(じやけん)の角もおれふかと。かはいや万とらに
むだ死にさせた悲しやな。大事の子を殺させて男でもなん
でもない。あつたら月日をそなたの様なむごいこはい恐(おそ)ろしい。浅
ましいちく生とはだをふれて腹が立と。顔を見上つ見おろし
つ恨てにらむめの中に涙の。海を湛(たゝ)へけり《割書:エヽ|》あたやかましいと
ふり上て。右の腕(かいな)を肩(かた)口よりはらりずんと切落す。左の手は猶はなさす。
これ異国(いこく)の眉間尺(みげんじやく)【注①】とやら首を討れて。剣の先くひ切ふくんで本望を
とげしと聞。唐(から)日本も同じ人女で社(こそ[朱書き])有ふつれ。五たいの内一寸でもつゞいた所
に魂(たましい)こもり。此太刀は渡さぬと云より早く左の腕(かいな)切おとせば。飛ついて
紐(ひぼ)付にしつかとくひ付。うなりうめいて引たりけり《割書:ハアヽ|》徳利(とくり)子は見たれ共徳利
女房今 見始(みはしめ)。腕(うで)なしのふりずんばい【注②】とは此こと。すしな女の酢(す)徳利とつきはなして。
ほそ首水もたまらず【注③】打おとす。首は太刀にくひ付ながら両眼くはつと舞
【注① 古代中国の説話に見える勇士のあだ名。】
【注② ふりずんばい(振飄石)=竿の先につけた糸に小石をつけて遠くへ振り飛ばすもの。】
【注③ 水も溜らず=刀剣であざやかに切ること。】
上り夫をおつ立追廻り太刀の鞘(さや)にて打立る。音は千声万声の 碪(きぬた)
をおくる夜嵐の空物すごき雲に入。つばさの有がごとくにてこくうにかけり
失にけり。かく共しらずおやこの人待かねて立帰り。内を見れば女房のむ
くろはあけに横たわる。なむ三宝とめもくらみあきれはてゝ立給ふ。久作
も半 狂乱(はんきやうらん)。《割書:ヤア|》愚人(ぐにん)夏(なつ)の虫。おのれらゆへに女房子をよふ殺させた。かたき
とらんと切かくるもふ叶はぬ是迄と。房若は縁(ゑん)の下。北の方は門の口逃
出れは追返し。はしり【注】の下竈(へつい)の影夢におはるゝ心地して。かくるゝに所
なく納戸(なんど)をさして逃入れば。久作二人を見失ひ爰や。かしこと尋るゝ足も。自(じ)
業(ごふ)自縛(じばく)の因果(いんくは)歴然(れきぜん)おのれが刀に切さきし。すの子の破れに両足
ぐつと踏こんたる。ぢごく落しと云つべしぬかん。ひかんともがきすがきのなはしまり。
竹のそげにて脚(すね)の肉(にく)熊手にかいて取ごとく。くるしむ所を下にかくれし
房若。守刀取なをし。股(もゝ)もこぶらも覚たり〳〵。覚ておれをよふぶつた
切たりそいだりつき通され《割書:ヤレ〳〵》いたいは〳〵。あんまりむごいゆるしてくれと泣
さけぶ。北の方走出 脇指(わきざし)もぎ取。切つついつの恨の太刀。房若も顕(あらはれ)出
【注 台所の流し。】
づた〳〵に切さいなむなぶり殺しののたれ死。天のにくしみ
主人のばち。妻子の罰も一時に報(むく)ひの剣ぞ心地よき。今は
是迄これよりは頼むは仏神天道次第。いそかれふさわかいざ
給へ母上。親はそれたか鷹(たか)の子の心はとや出の大鷹【注】 鶻鳫(はやぶさ)。
取 靏(つる)取 白鳥(はくてう)取。手に取小 鷹(たか)手なれだり。やがて名を取
知行(ちぎやう)取ほまれを取と気逸物(きいちもつ)。心計はいさめ共。身は落草(おちくさ)
に影(かげ)隠(かく)す返つてきじと鷹の巣(す)や都の古巣(ふるす)に帰りけり
第四信濃くだり
今年わたりの。きやらではないがとめてねまきの
一かさね。ねまきの。とめて。とめてねまきの一かさね。
ともにかさねて二かさねいざやしなのゝ雪国の。雪
のはだへをあたゝめて。同じちぎりをかさねんと。世 継(つぎ)御
前も玉ゆらも。心おれあふ花の枝。つゑにきりつゝ。
たび衣。世のうゐつらいしらぬ身は。うしろづよしや後
【注 「とやでのたか(鳥屋出の鷹)」=鳥屋ごもりの後、羽も抜けかわって鳥屋を出る元気のいい鷹。】
には。金剛(こんがう)兵衛 茨菰(おもだか)次郎つはものふたりつるゝとは誰
も成まい。まねてみや。まねて都の町の中。さながら
〽人め恥しと笠かたぶけて。杖つきののゝ字やたれが
手ならひに。いろはちりぬるあはた山。候へく候に見えたるは
雪折。竹のかげやらんわらやのけふり一筋を。候へく候によみ
なして。玉づさつもるせき守に。小町おどりのなりふり残す。
霜(しも)の小きくの狂(くる)ひ咲(さき)狂ひ咲。嵐(あらし)に狂ふ秋の空雲に。
うもれてかすか成三井のお寺はあれとかや彼秀郷
と中よしの龍宮かいのおと姫の。人の待よひわかれ
ぢは。いかにせよとの鐘(かね)の声つがもながらの山つゞきこずへ
まばらに染なして。のこんの月のもん所。木の葉(は)衣の
もやうよくしやんと立たるみかみ山。いつかひよくのとこの山。
すそは萩(はぎ)原小松原待とたがいふた妻戸。をあけて。
月に枕。の宿かした。宿かしは木の森(もり)ならで。あはづの
森にやすらひてそれから。さきを見渡せば。沖のかも
めや磯辺(いそべ)のちどり。羽(は)音さびしきさゞら波きけばさな
がら。夜の雨。たが中立の。文づかひ。花にをりはへ行 鳫(かり)も。
爰の気色(けしき)をわすれかたゝにおち返り。飛かふつばさほの
〳〵と帆(ほ)かけてはしる。とも船も恋の道かやかぢをたへ。
ゆくゑしらはのやばせに渡る。からろのひやうしがかくり。
ころり。から衣。打出(うちで)のはま打出て。見ればゆきゝの袖
しけく人や見しらん見られじと。笠をそらせてよそめ
ふる。空にはにじの。色どりて花のゑ付の。鏡山。顔にほ
や〳〵秋の日の。さして誰とて恥もせず。かまひはせね
ど旅(たび)なれぬ身はとりなりもなをさんとみだけし髪(かみ)の
柳かけしばし。立より給ひしに。是もやつれし旅人の
七つ計のおさなひの手を引あゆみつかれしは母ぞと見えし
柞原(はゝそはら)。木影(こかげ)にお休みなされしは都人と見参らす。ちか比
そさう【注】な事ながら。余五将軍(よごしやうぐん)惟茂(これもち)様は御在京にて
ましまする。若御存しもさふらはゞをしへてたべとそ尋ける。
金剛(こんけう)兵衛心付。そも何ゆへに尋給ふ。則我々は惟茂の
郎等共。あなたはいづれも御れん中。主君(しゆくん)惟茂は公用
有て信州(しんしう)へ下かうに付。只今いづれもくだる折から用事
あらば同道せん。誰人成ぞと問ければ。扨は聞及し
旁(かた〳〵)にてましますか。我妻は御太刀ゆへ身をはたし世を
さりて羽かびしほれし鷹のへをふさ若とは
此子が事。おなさけあれや人々よ。扨は聞及ぶ
たてわき太らうの妻や子か。いざともなはんいたはしや。
あわれみ給へもろともに。おなじくしほる袖の
露。野路のしのはら。わけゆけはぢんばにつゞくお
のゝしゆく。なじまぬなかもとひとはれすれつもつ
れつ。〽すりはりのとうげはるかに見おろせば今こそ
【注 粗相】
秋にあふみぢの。めいしよ〳〵をそのまゝに。こすいにう
つすうつし絵とうつして人にかたる迄。我あふぎにも
かしははらあふ夜の夢はいつ迄も。さまさで見ばや
さめがゐの水はせかれてよどむ共。我はとゞめじふはの
せき。たび行人も立わかれ。いなばの山や。みやぢやま
草木もそめしあさぎぬの。きそのみさかに
さしかゝりしなのぢ。にこそ〽つきたまふ
面白や比は長月はつか余り。四方のこずゑも色々
ににしきを色どる夕しぐれ。ぬれてや鹿のひとり
なく声をしるべの狩衣(かりころも)げにおもしろきけしきかな。
花のふゞきの雪ならではらはぬ袖につもりては。五色の
雪とふる紅葉。わけつゝ行は錦(にしき)着(き)て家に帰ると。
人や見るらんと。朱買臣(しゆばいじん)がむかしを読(よみ)し。哥の心に
似たるぞや。それはもろこし会稽(くはいけい)山爰は信州(しんしう)戸隠(とんかく)【?】
山。今惟茂が身にたぐへのぞみをかなへ二度都に帰るべき。
しるしを染てますらをか。やたけ心の梓(あつさ)弓。ゑびらの矢さへ
紅葉して。ともにそめ羽とならの葉の。帝の御めには。龍田
川の秋のゆふへにしき共御覧有。渡らば中や絶(たへ)なんと。
おしみ給ひし御 製(せい)も有。又は古言の。花をふんではおなじ
くをしむ花もみぢ。たへず紅葉 青苔(せいたい)の地。ふまではゆかん
方もなしあら。〳〵面(海道)白やな。行ももみぢ葉 戻(もど)るももみぢ
葉。こゝろをそむるも。もみぢ葉。もみぢ葉(は)の影にや
どれは。雨にもあらず。雪にもあらず。まして露霜 霰(あられ)にあ
らず。乱れて吹おろし袂(たもと)にはらり烏帽子(ゑぼし)にはらり。
はらり〳〵。はら〳〵はつと。風のよせたる朽葉(くちば)落葉の色
も珍らし。《割書:ハアヽ|》聞しにまさつてけはしき山かな。たにふかく。岸
高く。屏風を立たるごとく成に。櫨(はぢ)楓(かへで)蔦(つた)紅葉(もみぢ)。紅錦(こうきん)
繍(しう)の山 黄纐纈(くはうかうけつ)の林(はやし)。錦上(きんしやう)に花をしくとはかやうのことをや
申つらん。《割書:ヤ》是成紅葉の下枝に盃(さかづき)をかけ。かなへの下に落葉かき
よせ薪となしてくゆらせ。酒あたゝむる此ふせい。林間(りんかん)に。酒
をあたゝめて紅葉を焼(たく)といふ。詩(し)の心をうつせしは詩人(しじん)か哥人か
扨は又。恋する人のたのしみか。花に鶯(うくひす)紅葉に鹿(しか)。こぶに
山桝(さんせう)恋に酒。げにさけは曲物(くせもの)更にゑこそこらへね。絵(ゑ)に
かく鶴(つる)も酒に舞(まひ)。蓑(みの)を酒にもかへしそかし。主は誰共
しらね共風流人のなすわざ。とがめはあらじ立寄てくまふか。
《割書:ヤア|》むかふの紅葉の木影(こかげ)を見れは。さもやごとなき上らうの
紅葉にたはふれ遊覧(ゆうらん)有。此人々の酒なんめり。よし誰にも
せよ上らうの。深山がくれの紅葉狩。かた〳〵すいさん叶(かな)ふましと。
道を隔(へだ)て山影の。岩のかけぢを過行は。〽げになふ虎渓(こけい)を
出し賢人(けんじん)も。なさけは捨ぬ盃をいかでか見 捨(すて)給はんと。いふ声遠く
いつの間に姿(すがた)は爰に忍ぶ摺(すり)。乱れをゆるす竹の葉の。便(たより)に
立寄給へかし。〽思ひよらずや数ならぬ。深山(みやま)にたてる木の下露
しづくもならず御 免(めん)あれ〽情しらずや一 樹(じゆ)の影。一 河(が)のながれを
汲酒も。縁(ゑん)あれはとて引とむる〽ひかるゝ袖も〽ひかふる我
も〽さすが岩木にあらざれは。心よはくも立帰る。所は山路のきく
の酒何かは。くるしかるべき。〽およそ酒には威徳(いとく)有。うれへを
払ふ玉はゝき。詩を釣(つる)つり針思ふことなくおることなし。ことさら。
秋の葉の。色汲かはす山水に。弓矢は何の御ためぞ思ひ付たり
此山に。鬼すむ成といひなすを。誠と心へたいらけんためな。恐ろし
やそれは人のそらこと。又は御身のそらみゝかそもや鬼すむ。
山ならば女をたすけ入べきか。誠や鬼のこもるは安達(あだち)が原
の黒塚(くろづか)。葎(むぐら)生(お)ひてしぐれる宿(やど)の。うれたきに。かりにも
鬼の。すだく【注①】成とは。むかし男のこはざれ【注②】に。女を鬼との捨
ことば。普天(ふてん)の下 卒土(そつと)の中 何国(いづく)か鬼のすみかならん。弓
をも矢をも打折て。捨させ給へまれ人よ。《割書:アヽ|》〽しばらく。
さやうの義にてはなし。落来る鹿(しか)を射(ゐ)とめんための弓矢
【注① 多数が群がる。】
【注② 「強戯れ)=悪ふざけ。】
ぞうよ〽扨は御身は狩(かり)人か〽狩(かり)人ならねば射(ゐ)ぬ物か。花
ふみちらす鶯(うくひす)をうたんといひし人も有。猿丸(さるまる)太夫か悲(かな)しみし。
色よきもみぢをふみちらす鹿ゐとめんための弓ぞとよ。異(ゐ)
国の楊雄(よゆう)は百歩に柳の葉をたれて。百矢をはづさず
空とぶ鳫(かり)を射ておとす〽それは柳〽是は栬〽それは鳫
かね〽是はさをしか。名を聞よりもいで物見せんさおしか
とて。はいたる沓(くつ)をふんぬいで大口のそばたかく。狩衣(かり)の袖を
うつかたぬいて。紅葉の木影(こかけ)にねらひ寄て。よつひきひやう
どゐはやと思へ共。仏のおしへの殺生戒(せつしやうかい)をばやふるまし。
打とけて酒をくまふよ〽おもしろや劉伯倫(りうはくりん)がもて遊(あそ)び。
今爰に汲やくめ〽晋の七 賢(けん)がたのしみ〽かさねて爰に汲
やくめ。〽是成山水の岩ほにかゝる瀧(たき)の白糸くるり〳〵と。
山もめくるや雲もくる〳〵。めぐる盃(さかづき)数も忘るゝ我身
も忘(わす)れて酔(ゑひ)心地。只おもしろいよの木の葉のいろより
お顔のもみぢ。紅葉たかふより柴めさんか。ぢんやじやかうは
もたね共。匂ふてくるはたき物。おはら木。〳〵。おはら木かは
い〳〵黒木めさんか。峠(とうげ)の茶屋で。だんごばしかふな。松の木
はだをそろりと撫(な)で。其手でだんこを。まろまかす〳〵。まん
丸まる〳〵丸やのかもじがまん丸けな顔て。月見よとお
しやる。かとやのかもじはまつ四角な顔で。火燵(こたつ)にあたろ。
ながいさゝぎが花はみじかふてみじかい栗(くり)の。花のながさよ花
のながい小てんぐ。しこのばいこのけち〳〵。爰を明さい明ずは戻
ろ。はいたる太刀に露がうく〳〵くはんこや〳〵。したんにたるほゝ《割書:エイ|》。はら
〳〵にはら〳〵は。きり〳〵〳〵しつちよん〳〵。ちやうりやうふりやう
らりつろゝ。とうらいりやろらりつろゝちやうらにひよ〽よろり
〳〵とよろほひ卧(ふし)たる枕のうへに。らい火みたれて天地もひゞ
き。酒もかなへもほのほと成て梢(こずへ)にさはぐ山おろし。かん
やうきうの煙(けふり)の中に〽不思議や今迄有つる女。とり〳〵化生(けしやう)の
鬼形(ききよう)とへんしおろか也惟茂。大内にて我けんぞくを矢先
にかけし其恨。みぢんになさんと踊(おどり)かゝるを太刀ぬきそばめ。
切はらへ共事共せず。かうべをつかんであがらんとす引おろしてつ
かんとす〽山谷一どに鳴動(しんどう)して雲きりくらきその中に。月共
なく星共なく一団の野火(やくは)顕(あらは)れ出。こがね作の太刀一ふり
紅葉の枝にかゝると見へしが。此太刀みづからぬけ出て。鬼神
のうへにはためき渡りひらめきかゝつて〽追散らし追はらふ
剣(つるぎ)の光 紅葉(かうよう)八葉みほこのはさき。やいばのけんそう威力(ゐりき)に
恐(おそ)れて飛行を失(うしな)ひ〽朝日に霜と消(きへ)行鬼神。剣は
鞘(さや)におさまる山風。梢(こずへ)に其まゝ残りし太刀のかざりの
金玉。紅葉のてり葉もかゝやき渡つて山路の草木かくや
くたり〽惟茂ぼうぜんとしてあら浅ましや我ながら。無明(むみやう)
の酒の酔(ゑひ)心 現(うつゝ)共なき変化(へんけ)の形(かたち)。あらたなりける利剣(りけん)の徳
と。梢をみれは有つる太刀のましますそや天のさづくる名
剣ならん嬉しやとらんと立よれは〽なふ〳〵其太刀な取給ひ
そ。それには運の候そや〽扨はおことは此太刀の主成か〽いや此
女が身にそひはつる物ならねと。我身はかろき水のあは。うか
むはおもき水鳥のお主のためとうきせをふみ。心をくだき
くるしむる。ひとつの望有太刀を。人手に渡し参らせは。思ふ
お主の出世(しゆつせ)の日を。いつかはみほの松原に天の羽衣(はころも)ぬすまれし。
彼天人の浮思ひはねなき鳥のことくにて。天上せんにも
羽衣なし。地にまたすめは下男也とやせんかくや詮方(せんかた)も。涙の
露の玉かつら。かさしの花もしほ〳〵と。三づに迷(まよ)ふとつたへきく。
其天人の五 蓑(すい)より人間に八 苦(く)有。ましてや女は五 障(しやう)の雲。
三従の霧(きり)ふかきにしたかふべき夫にはなれ。いとしかなしとそ
だてつる子を失(うしな)ひし芦辺(あしべ)の鶴。よしあし二つに迷ひぬる。
来世のやみをいかゞせんと只さめ〳〵とぞ泣ゐたり〽にげなき
賤(しづ)の女の身心えがたき詞のすへ。扨は一つの望(のぞみ)とは価(あたい)がほしいと
いふ事な。我こそかくれもなき余五将軍平の惟茂。価(あたい)は
望にまかすべし〽うたての事なの給ひそ。あまたの命にかへし
太刀。たとへ千金万金も命にあたひの有べきか。のぞみとは
影たのむ。譜代(ふだい)のお主の身のうへと。いひさしてこそ歎けれ。
〽猶もふしんは晴(はれ)やらす我も太刀を尋る身。おことが主人の氏
名乗妻や子の身のうへくはしくかたれとの給へは〽とはれてかくと
かたるにもいとゝお主の櫨(はぢ)紅葉(もみぢ)色に出すもつゝましく。わき
てそれとは伊吹山。蓬に麻(あさ)の夫婦の中。あたりにちかき不
破(は)のせき。人めの関をしのぎこしもとは互(たがひ)の忍ひ合。狂ひ合たる
から猫(ねこ)の。お主の膝(ひざ)もとなつかしく。御 恩(おん)をいつかおくらんと身こそ
まつしき暮しにも。心をすくに世をわたる。竹の子は猶おやま
さり鳶(とび)が産(うん)だる鷹(たか)の羽の。はがひの下に立返り奉公(はうこう)さ
せんおとなになれと立年月もたくりくる。三 ̄ツ で髪置五 ̄ツ で袴(はかま)
着。六 ̄ツ で寺入あげる手本の数々は。七 ̄ツ いろはの手よは七つ。
撫(なで)つさすりつなでし子の花のゑかほの。あひらしさ父と。母と
がたのしみは。吉野 初瀬(はつせ)の花見にも。おとるまいぞやまさるぞや。
おとるましきとそだてあげ志賀(しが)のからさき一 ̄ツ 松外にならびも。
なかりしに。てうあひあまつて我妻の主人の子をきり殺(ころ)し。我子の
末の栄花(えいぐは)にせんと悪心たゝむうらめしや。いんくは〳〵のおない年この
手かしはの二面。一葉をわけて身かはりに立を夢にもしらはの刃。
はかなや親の手にかゝり胸(むね)のあたりを。さし通し指通さるれば気も
魂も。きへ〳〵と成 果(はて)し其 俤(おもかげ)の身に添(そひ)てながき闇路(やみぢ)に。迷ひし也かゝる
歎(なげき)に沈(しつみ)しも哀お主を世に立て。つみをつくりし夫の後世ひごうのしにのみ
とり子も。母がしゆらをもたすからん願ひの糸は一筋と。玉をつらぬく涙の露
〽見れはしほるゝ惟茂卿〽山の紅葉も一しほに〽歎の色をや添ぬらん〽心よ
はくて叶はしといかに女。おことが歎も不便ながら。惟茂が尋る太刀はのぞみ
をかくる人おほし。何者かうばひ取何者の手にわたりしやらん。其 主(ぬし)の名を聞
ては望かなはん様もなし。太刀を改(あらため)ことをたゞし奏問(そうもん)してゑさすへし。都へ
尋来れやと太刀を取てぞ出給ふ〽走かゝつてたちもぎ取小 脇(わき)に
かい込。なふ心つよやつれなや。ほまれ有主君ならば大音上てなのらん物。
ふかくを取しお主の名 何(なに)面目(めんぼく)に名のれとや。園(そのを)に植(うへ)ても紅の色にもそれ
としろしめせ。願ひ叶はぬ其中は此太刀我身はなさぬとよ
〽げに〳〵是もことはり也。扨日本には名剣おほし。此太刀の銘(めい)
太刀の威徳(ゐとく)。聞及びてもしつはらめ語れきかんと仰けり〽さ
れは主君の物語。御太刀の御本地聞 伝(つた)へし趣(おもむき)を。あら〳〵語申べし。
剣の本地
先あしはら大日本。神武三ふりの宝剣有。一つは天の
はぎり共。又は十握(とつか)の剣(つるぎ)共申。大和の国 石上(いそのかみ)の御神
体に立給ふ。又一ふりは八雲たつ。八 股(まだ)の蛇(おろち)が尾さきより
顕(あらは)れし天の村雲の宝剣。そさのおの尊(みこと)ぎをん
牛頭(ごづ)天王の御剣なり。今一ふりはそさのおの尊の御子。
日吉山王 権現(ごんげん)共。三輪(みわ)の明神共おかまれたまふ。
大あなむちの尊の御剣。事もおろかや是。此。この御太
刀にてまします也それより代々の帝(みかど)に伝はりて。人王
十五代の姫みかど。神功皇后(しんぐうくわうぐう)神風や天てらす。太神宮の
告(つげ)によつて。新羅(しんら)のゑびすを討べしと。御身もさすが只なら
ぬこもち月の中空に韓国(からくに)さして。責(せめ)入給へは。中臣のいかつ
の臣。吉備(きび)のかもわけ両大将。兵船軍船凡三万八千 艘(ぞう)。順(じゆん)
風に帆(ほ)を上てさながらゆう〳〵平地を行。扨 皇后(くぁうぐう)の御座船は。
楯籏弓。鑓鉾鎧かふと腹巻をかざり立。〳〵錦をつゝんで
つゝみ立たる屋形には襴(らん)のとも綱(つな)綾(あや)の帆を上きぬ笠 御(み)笠
せい〳〵と。あをきが原の波間より。住吉の神 楫(かぢ)を取。龍女は
みちひの玉をさゝげ。けい〴〵りうしやをさきとして。八尺(やひろ)の鰐(わに)
やしやちほこや。鯛(たい)にすゞきに鱧(はも)鰹(かつを)。あらゆるうろくす鱗(うろこ)をな
らべ。君が御舟をしゆごしつゝ。三日三夜はみつばの征矢(そや)とふ鳥より
猶はやく。七千余(よ)里を漕(こぎ)渡り百済(はくさい)国の大 湊(みなと)ふうとうの津(つ)にぞ
御船つく。百済王伝へ聞。小国なれ共日本の神軍。士卒(しそつ)の力を
はげますべしと金城。鉄城四百余か所にかきならべせきるいせきたい
山のごとく。鉾(ほこ)先そろへ矢先をみがいて待かくる〽日本せいは事共
せず船を洲崎(すさき)に乗捨〽のり捨〽乗すて〽乗なし駒(こま)
の手綱をかいくつて。鞍こす波を乗すかしむかふ波をさんづに
さがり。一 鞭(むち)くれてさつ〳〵と乗はなしのりうかめ。むかふのきしに
あがるも有。又は遠矢にゐておとす。矢先はふる雨 降(ふる)あられ
おめきさけんで戦ひしは百獣の洞の中虎のかけるにことな
らず。敵(てき)も味方も入乱れ。切つきられつ追つまくつゝ
鎧(よろひ)の袖を。汗(あせ)にひたしてやれ。扨さて〳〵〳〵〳〵。《割書:ホヽ〳〵〳〵〳〵|》暫時(ざんじ)
の隙もなかりけり。されば日本神力の。住吉現し給へは。八百
万神七千余社 籏(はた)の手に顕(あらは)れ出。神明かぶら矢(や)射(ゐ)かけ
給へは。此太刀おのれとぬけ出て。ひらりひら〳〵切立〳〵三十
余ケ(よか)度の。戦(たゝか)ひに味方は討れず手もおはず《割書:ヲヽ。〳〵〳〵〳〵|》
新羅(しんら)百済(はくさい)高麗(かうらい)国の。あらきゑひすを爰に追つめかしこに
おひ。追つめ〳〵責(せめ)ほろほして。帰る波風やす〳〵と。正八幡をうみ給ふ。
扨こそ三国和合(わがう)して。龍宮城(りうぐうじやう)より嫁(よめ)君めとり狛(こま)の冷人(れいじん)舞楽(ぶがく)を
奏(そう)しくれは〽あやはの二人の織(をり)姫きたりんりんず。きんらん
どんすを織ひろめ。詩書(ししよ)礼楽(れいがく)の道ひろき。聖(ひじり)のふみも渡りきて。
上にめくみのまつりごと万民徳にうるをひて。風雨(ふうう)随時(ずいじ)に治(おさま)る事
此御太刀の威徳(いとく)ぞとて。太平国の文字によつて平国の。御剣と申奉る。
実有がたや是ぞ我尋る太刀。のぞみをかなへ得さすへし。たのむ
主君の名乗はいかに〽今は何をかつゝむへき侍所の預(あつかり)鷹巣(たかのす)の
帯刀太郎 広房(ひろふさ)。主君の若君房若殿 麓(ふもと)にたゝずみおはし
ます。今爰にさそふべし世にたてゝたべ惟茂卿〽正八幡もせう
らんあれ此 契約(けいやく)はたがふまし〽嬉しや有がたや。今は迷ひの霧
はれて〽さとりにいれや戸隠(とがくし)山〽山かせ〽谷風さ。さ。さつとし
て。木の葉かくれをよく見れば形(かたち)は。秋の露きへ。〳〵として
かんはせ木すへに莞爾(かんじ)たり〽房若親子二人の姫。二人の郎等
いざなひてたがよぶこ鳥そことなく。分入給へば惟茂卿。たがひに
始終(しじう)の物語〽房若が父帯刀は勅勘(ちよくかん)の者なれば。奏問(そうもん)経(へ)ん
も事むつかし。惟茂が家臣(かしん)として過分の所領(しよりやう)を安堵(あんど)せん。元服
くはへ名を改。鷹巣の小太郎 広文(ひろぶん)と名乗べしと御諚有。はつとかうべ
を地に付て悦の色浅からぬ〽女が首は嬉しげにゑみをふくみし
梢(こずえ)の色。もみじもをなじ形見ぞと。請たる袖の広文が。末たの
もしく頼み有此御太刀の御威光に金剛兵衛が金剛力。おもだか
二郎と仁王力。戸隠山の大明神天の岩戸を天の原。取てなげたる
手力雄(たちからお)其大力くはゝつて。鬼神忽亡ひ失せ八嶋の外に波もなく。
のゝめき渡り雲井の空へ。やがて二度帰洛せんなむやとがくし大明神。はやく
瑞相見せしめ給へと一心に御祈誓有扨こそ。広文成長して。頼光
に奉り酒呑どうじを退治有。源平両家の宝の太刀せうこも
今も末代も。ためしすくなき御神力と紅葉を。ぬさとぞ奉る
第五
賢者(けんしや)を得(ゑ)たる渭水の狩にたとへは恐れ紅葉 狩(がり)。宝剣を求(もとめ)しも
自の徳によつて也。太宰の大弐諸任。思ひ立旨有て戸隠山に
せこを入。我身は山の半腹にしきがはしかせ休らひける。せこの大ぜい
かけ来り昼前より只今迄。狩暮仕候へ共しゝ猿うさきは存もよらず。
野鼠一疋出申さず。弁当たへた手前も有いかゞはせんとぞ申ける。諸
任打笑ひ《割書:ヲヽサ|》其筈〳〵。しる通り当山には鬼神すんで人間をさへ取
くらふ。うさき狸をいけておかふか某山狩とは偽り。汝等にかくといはゞ腰をぬかして
一人も。供する者は有ましと思ひ山狩とは触たれ共。誠は鬼神 退治(たいぢ)成と
いふよりせこ共ふるひ出し。後を見ては前へ出前へ〳〵とこみ出ける。扨そろふ
たる臆病者。某数年願ひをかけし。平国の御太刀惟茂か拝領し。恋こ
かれたる世継御前迄かれに下され。かた落の御沙汰と思へ共。上へ恨も
申されす。そのうへに此山鬼神退治の勅諚。何もかもかれにしまけ
ては諸人につらも合されず。鬼神退治と有からは出立も有へきに。おさめ
過た惟茂かすはう長袖長袴で。毎日山を廻ると聞。諸任が下心鬼は
付たり惟茂退治の合点《割書:サア|》侍から足軽中間奉公とは此度。命を主に
くれたと思ひ。惟茂とひつくんで指ちがへ。此無念をはらさせよ頼む
〳〵といひけれは。せこの者共猶ふるひ鬼とはいへどめに見ぬ事。第一
すかぬは惟茂。其上に金剛兵衛おもだか次郎なふいやゝ。鬼にかな棒惟茂
にぼた餅。さい〳〵てなみたべ付た《割書:ハアヽ》悲しや。俄に虫くいばがいたんできた。
お暇申上ますと一人逃て立けれは。持病の中風がおこつたと口をゆがめ
て立も有。当月老母 産(うみ)月の《割書:ヤ|》。今日は我等がおぢ桓武(くはんむ)天皇の命日の。
なむさん跡の煮売(にうり)屋の。銭忘れたやつてこふ。旦那(たんな)寺の長老が欠落(かけおち)しられた。
船頭(せんどう)がやねから落た馬子が川へはまつた。何 ̄ン のかのとかこ付に皆々はつし逃にけり。
郎等(らうとう)楠辺(くすべ)の平蔵立あがり《割書:ヤレ|》臆病(おくびやう)者。一足ても立さらば一々首を討べきと
よばつても聞入ず。あれ御らん候へ残らす落失せ主従(ししゆ)二人鬼住山にあんかんとして
手 柄(から)にならず。あやまつては御ちじよく。麓(ふもと)へ一先さがりあれかしといへは《割書:ヲヽ|》我もさ
は思へ共。さいぜん麓にて金剛兵衛とおもだか次郎がちらりつと見へたれは此道下るは
無用心おく山は又鬼の気遣。今では鬼と惟茂と両方に敵がふへて来た。
どふぞ脇(わき)道は有まいかと。夕日も年もかたふきて。七十余りの柴(しば)人の。腰もねぢ
れし山道を。たゝぼくほく〳〵あゆみくる。こりや〳〵おやち。何と此山にわき道はない
か。鬼がすむとはいへ共。定て劫(こう)へた熊かいのしゝかを。鬼と云なす物ならん有
やういへと有けれは。扨々々。疑(うたがひ)ふかいお侍必油断なさるゝな。有時は女共成有時は
ちつほけな小坊主(ばうず)で出ることも有。時によつては鼠衣にづだ袋道心者共
顕るゝ。彼 世話(せわ)に申鬼に衣といふ事は此山からおこつたげな御用。心とそこたへける。
さすがの諸任聞たびにびく〳〵〳〵して。《割書:サア〳〵|》どふぞきづかいない道があらば教てくれ。
《割書:サア》そこが変化(へんげ)の通(つう)力。けふ来た道があすはなく。きのふ迄ない大石が夜の間
にぬつと出来るやら。大木かはへ出山入を迷(まよ)はずやら。道とて更に定まらず
《割書:ヲヽ》こはいこと〳〵。去ながら忝い余五将軍惟茂様。鬼神退治なさるゝよし国中の
悦び。是をねたんで。橘の諸任とやら。惟茂様をねらふとの風説。此諸任めを
見付次第。打ころいてのけうと国中のわかい者。手くすね引て待かけると。いはせ
も果すむなぐらつかんでどうど投(なげ)《割書:ヤイ|》ちいめ。うぬは惟茂に何 ̄ン ぞ囉(もら)ふたな
あ。此諸任を見しつて。きづかひさせて笑はん為の偽り。誠鬼のすむ山におのれは
何 迚(とて)柴(しば)を刈(かる)。但うぬは鬼の一門か。有様云すは踏殺(ふみころ)すとはつたとにらんで責(せめ)つくる。《割書:ムヽ|》
いか様御ふしん尤鬼神に横道(わうだう)なし迚。当山とがくし大明神の氏子の分は指(ゆび)もさゝす返
つてしゆご致ゆへ。氏子にわるふあたれはめのまへにあたをなす。惣して氏子にかぎらす
山を住家(すみか)の山人柴でも木でも肩に置て通れは。夜るても昼ても恐なしとぞ
語ける。主従㒵を見合こりやかうも有ふ事。《割書:ヤイ|》ぢいめ。此しば身かかたける。おのれは
道の案内(あんない)先へ立て失せおれと。乗取てかたぐれば。《割書:エイ|》おまへがおかたげなさるゝか。《割書:アヽ|》
是は御太儀な。慮外ながらお先へ参ますと。樵路(せうろ)に肩を休たる。年のこうとて
山人が。鬼にとられし荷ひこぶ麓をさして。〽下りける。房わかは只一人長かたなの一本ざし。
股引かるき山づたひ母うへ追かけなふ房若。云事聞ずにとこへ行。姫君達のお伽(とぎ)はせず。
おとな衆とおなじ様に山へのぼつて何をする。戻らぬか房若と引とめ給へは是かゝ様。なぜ
房若とおつしやる。わしが名は小太郎広文もうおとなじや。鬼神退治のお供して。鬼の子
ても殺さねは父の恥かすゝがれぬ。やつて下されかゝ様と踏(ふみ)しまれば母うへも《割書:ヲヽ|》けなげな
事よふいふた。ちゝごを無事で置まして今の詞をきかせたい。悦ひ給はん物を迚
又嬉しきも涙成。諸任は坂中にておもだか次郎に追立られ。峯共わかず逃
のぼり。草にやかくれん土にや入らんとうろたゆる。小太郎は味方と心へ是なふ〳〵と呼
かくる。諸任見付なむ三宝。早鬼が顕たと地にくひ付てぞ卧いたる。親子の人も
興さまし。《割書:アヽ|》是々麁相な。そなたはそも誰人ぞ。こちは鬼ではないわいの。顔上て念を入
これよふ見やと笑ひ給へは。《割書:イヤ
》念入て見るに及ませぬ。有時は小坊主有時は女とお化なさるゝ
由。お噂とつくと承る。一時に二色は御念入程めいわく。鬼神退治致は平の惟茂。我等はけつく
其惟茂を亡(ほろほ)す橘の諸任。お恨請ん覚なし助給へとふるひける。おやこめぐはせおと
に聞諸任。父のるらうもきやつ故久作一家がほろびし遺恨(いこん)鬼より大じの敵ぞと。心
さかしき小太郎大音上《割書:ヤイ〳〵|》。己を橘の諸任とは我通力でしつている。惟茂殺すは己(おのれ)を
頼まず。鬼一口にかんでやる。どうでも己が太刀かたなの指様。此鬼共を退治するつら付じや。
待てをれがり〳〵とかんでくれよ。うたがはしくは誠の姿を顕(あらは)そか。わん〳〵〳〵と云けれは。《割書:アヽ〳〵|》
どふよくなこと御意なされな。退治する気みじんもなし。たち刀がきづかいならはこれ御らん
あれと大小からりと投(なげ)出す。おやこ追取するり〳〵とぬきはなしおろか也諸任。誠は我
こそ帯刀太郎広房が一子房若丸。惟茂将軍の家臣と成。元服して高巣の小
太郎広文。父の恨世の敵めのまへ主君に敵するやつ。あますましきと両方より打て
かゝれは。諸任しゝのいかりをなし。ひらりとはつしひらりとぬけ。かいくゝつて北の方を小脇にかいこみ
太刀もぎ取。寄な世忰(せがれ)め一討と八方払ふきつ先にさうなくも寄つかず。母は悲しみ声を上。我
を捨て早逃よ。大しの身じやとあこがるゝあやうかりけるまつさい中。金剛兵衛おもだか次郎。
敵の郎等 楠辺(かすへ)平蔵をひつつかみ。打立〳〵来りしがやれでかいた小太郎。しつはと討小太郎と
力を付ておがみ打。胴は一つに二人の太刀。平蔵がかうべより十文字にそ切 割(わつ)たり。諸任
是はと見返る間に小太郎すざさずつゝと入り。たゝみかけ〳〵。太刀打おとし。まうつむけ
にたゝきふせのつかつて。《割書:ヤイ|》なこなりや今じや〳〵と。むな板を。ゑぐりくり〳〵首打落し
《割書:アヽ》よい気味しやと笑ひしは。天晴(あつはれ)武功の親ぞんと母は悦びかきりなし。両人悦ひお手
柄〳〵。鬼の首同前の高名弥君の御仕合。麓へさがつて先御らんに入られよ。母御
の満足。さこそ〳〵といひけれは。されは御 推量(すいりやう)なされませ。あの親程な諸任を。鬼に成
てたました云廻しの弁舌(べんぜつ)。後には人も売ましよと笑ふて〽打つれさがりけり。金剛
おもだか息をつき。扨何 ̄ン てもないやつによつほとの骨折たり。かんじんの鬼にあふた
時くたびれては詮もなし。暫(しばら)く休息(きうそく)せまいと。十かい余りの榎(ゑのき)の古根(ふるね)横たは
つてこけむせり。《割書:ヤア》くつきやうの休所と両人あげ足腰打かけ。心そろひしふてき
者。鬼神退治は事共せず世間咄 恋咄(こひはなし)。是に酒が有てはと紅葉をながめ
ゆう〳〵と気をのはしてぞ休ける。不思議やこくうの霧(きり)の中うす引ごときしはが
れ声。何物なれは推参な。足をのはしてまとろむ所ひざの上てやかましい。
けちらしてのけうずやつとよばゝる声。ふり上見れは一丈計の鬼のつら。角は
柯木(かぼく)頭(かしら)は茅(ちかや)。まなこの光は饒鉢(にようはち)を打て付たることく也。二人太刀に手をかけ下を
見れはこはいかに。木の根と身へしは鬼のすね。朱(しゆ)ぬりの岩共いひつべくさすが
のもの共はつとせしか。《割書:ヤア》不行義(ふきやうぎ)な鬼殿。人のまへにすねをのばして見くる
しゝ。足かながふてくにならば切こまげてとらせんと。切つけんとする所を乗
せながらぬつと上。おうとおめくはね足に百間計けちらしてけすが。
ごとくに失せにけり。金剛兵衛すつくと立。是おもだか。さぞや鬼が心には
我々をけちらしたとおもふらめ。我々は又鬼のすねを下じきにしたからは。
勝負(せうぶ)は五分〳〵《割書:サア》。是からは鬼にも人にも気が出来て面白い。おく山ふかく
切入らんいざこいといふ所へ。そりさげ野郎(やらう)の小やつこが。だいなしの裙(すそ)ちりけ
迄又からふし山見へ申。 関(せき)内角内 可(べく)内よ。とつたりとらんかとら
藏よ。やつこ〳〵小やつこに。山の手やつこ〳〵ゑ。せき内角内可内よ。
とつたりとらんかとら蔵よ。やつこ〳〵小やつこに山の手やつこのふり出し
ておとりくるひてあそびけり。金剛おもだかめを見合せ。変化が我々
引て見るあなどつたるふるまひ。あつちからあなどらばこつちも鬼
をなぶり物。なぶり殺しにしてくれんと《割書:ヤア|》小りこうなやつこ殿是へ
とまねけばちよこ〳〵〳〵。爰へとよべばちよこ〳〵〳〵。扨もふつたり
まだふれ〳〵。おどる所をとびかゝり。うたんとすれはひしりととび。
きらんとすればはつときへ。かげろふいなづま水の月。めにさゑ
ぎつて手にとられすあきれ。はてゝ立たりし二人のかうべを
両手につかみ。すねはそらに引あぐる。切てもついてもたゞ雲水
を切ごとく。ふみとゞめふみしめても大ざうにひかるゝごとく。おぼへす
ちうに引あげらるれは。てんちにはかにしんどうして山河もさ
くることく也。聞とひとしく。これもちしやうぐん山上にかけあがり。
なむや八まん大ほさつと。心に念しかのくにむけの御剣
をぬいて。切はらひ給へは二人を天地にかつはと投(なげ)。剣に恐れて雲
井にあがるを。引おろしさし通し切ふせ給へは。其たけ一丈の鬼神の
正 体(たい)忽(たちまち)悪鬼をほろほし給ひ。ゐせい日に増(まし)所領(しよりやう)もまして。
二人の姫に数々の子孫はんしやう国はんしやう。民はんじやう
五こくふにようの大日ほん神と。君とのめぐみ有御代
に。すむこそたのしけれ
【裏表紙】
《題:十四傾城腹の内 全》
【参照資料:国会図書館デジタルコレクション>日本名著全集 江戸文芸之部>第11巻・黄表紙廿五種>十四傾城腹之内 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1018497/277】
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《割書:三馬|所撰》名作廿三部ノ内
十四傾城腹之内 全
【見返し】
【左丁】
自序
腹(はら)に心(しん)肝(かん)の父母(ふぼ)あり。惣領(さうりやう)の腎六(じんろく)。水(みづ)をへらす則(ときん)ば。
肺(はい)は頤(あご)で追(をは)れ。脾(ひ)は虚空(こくう)に高(たか)ぶる。十四 傾情(けいせい)。此(この)虚(きよ)に
乗(じやう)ぜば。手(て)のある奴(やつ)に。足(あし)を付(つけ)。各(おの〳〵)算用(さんよう)算談(さんだん)有。手(て)の三年(さんねん)
は年(ねん)一はい。足(あし)の算用(さんよう)三 里(り)の灸(きう)。手管(てくだ)にはめたる。大妙傾(だいめうけい)。足(あし)
の小陰(せういん)。大淫婦(たいいんふ)。手(て)の能(よう)ない釘(くぎ)の折(をれ)。足(あし)の能(よう)ない。大生酔(をゝなまゑひ)。手の
小便(せうべん)病目(やみめ)にぬり足(あし)の大用(だいよう)雪隠(せつちん)壷(つぼ)どつ経(けい)さつ経(けい)。をう浮雲(あぶな)。
ヱイやらやつと追止(をつとめ)た。何(なに)を留(とめ)た筆(ふで)を留(とめ)たと尓云
癸 丑 陬 芝 全 交
【右丁】
〖真(ま)向(むきに)成(なつて)嘘(う)言(そを)吐(つく)図(づ)〗【右から左への横書】
於乎(おや)
馬鹿(ばか)
羅之(らし)
井胴(ゐどう)
真像(しんせう)
【女性の図の右側上から】
○べつかう ○みゝが ○人の ○手が
のくし かいゝと かたを あると
しちに まち おさへ いひなんす
おいても 人が たら どうしやう
五両の きんす なを のう
つう用 よ して
うれ をく
しい もん
のう で
おす
○ほんに ○とんだ ○もゝを ○わつち
わつち ところへ 大きなのみが が
が 手を入 くつてにげて 上ざう
むねを なんす いきんすはな りは
うち はから にくいのう だれ
わつて しい とか
みせ をよし かわ
たい なんし つた
のう
【女性を前から見た図】
【女性の図の左側上から】
此かみで ○つむり ○此二の ○その子を
けふで が うで つらまへて
三日 かいゝと に くりや
もちんす こんなに ぬしの 用がある
いつそ 名が よ
ふけが ほつ
でんす て
あ
りん
す
○こゝを ○あんまり ○さんりは ○らうかをある
おして わらいん こゝへすへん いたらあしが
見なん したら すかへ つめたく
し はらが をやあつ なりんした
しやくが いたく からう あつためて
こんな なりん のふ おくんなんし
に した
はりん
した
【左丁】
〖後(うしろ)向(むきの)尻(しりを)抱(だいて)者 誤(あやまる)図(づ)〗【右から左への横書】
積(しやく)我(が)
痛(いたふ)押(をす)
宇(う)志(し)
呂(ろ)尾(を)
向(みきん)娼(しやう)
【女性の図の右側上から】
○よく人の ○みゝへおつ ○こちら ○じしんの
かみへさ つけてしん のうで 手でかゝねは
はるこだ ざうが にはほ ならぬ
きを付 なにか りもの ふみさ
てある いつて へきう
きや ゆく をすへ
たあと
があり
さ
○こんやは ○ヲヤしりに ○とんだ所へ
ないしよへ ほころびか すみとり
いつてこし きれて をおくのう
をかゝめね いんす 大きに
ばならぬ はづかしい けつま
ことが づいた
できん
した
【女性を後から見た図】
【女性の図の左側上から】
○此くしの ゑりもと ヱは此子は ○いま
のこりの からざう じれつ せなかを
かりをあす 〳〵と てい たゝいて
やるはづだ 水をかけ 此手で いつたは
とうしやう るやうだ あたまを だれた
の ゆふべのき 一ツはつて よう
やく人て やりたい じやう
ねないから のう たんを
かせを引 するのう
きさう
だ
○こしへ ○あいわつちが ろうかて
ちつと おいどはおゝきいのさ なにか
きうを いらぬおせわ ふみんし
すへやう た
ひへて どう
なら しやう
ねへ きみの
わるひ
【〖 〗は隅付き四角囲み線】
【右丁】
【上段】
すべてけいせいおいらんのことばに
ほんにわたしが□【むヵ】ねのうちを
ぬしにわつてみせたうおつす
わつちがこゝろいきはさうしや ̄ア
おつせん心がみせたいのうこといつ
てはらをわつてみせた所が心
といふものはしんのざうなり
うはへと心はとんたちがいかくの 〽さうゆふ
ことし 心とは
〽こんなやぼなあいさつを つゆ
するきやくはしりのけ しらず
までぬかれる
〽ほんにわたしがこれ
ほとにおもつてゐん
すものをつれない
ことをおつせんす
〽すかねへきやく人だ
けれどために
なる人だから
まづかうないて
をいてはつ午
でもくゝしつけ
ねばならぬ ̄アヽ
おかしいアハヽ
〳〵〳〵
ハヽ
〽きくなんし
となりにゐる
きやくじんが
おめへをきれ
てしまへさう
【左丁】
【上段】
したら女ほう
にしやうといゝ
やしたはなどう
せうのきれろも
すさまじい
さうしてゐなん
しぢきにいつ
てきんすいつそ
きがもめる
ばんだ
よう
はやく
いつて
きや
〽こんやの
やうにをり
の
わるいきやく
人の
おちやつたことは
なひ
これからてうづに
いつていせやの
きやくじんの
ほうへもかほを
ださねはならねへ
ばからしく
いそがしい
【右丁】
【中段】
〽これアノ子やてめへのう
よしあやさんの
ところへゐつて
のふ
わつちかもうしんす
どうぞおめへさんの
したぎをちよつ
と
かして
おくんなんし
と
いつて
かりて
きや
そつといゝやよ
ヱヽ此子は
へんじを
しやな
すかねへ
子だよ
【右丁】
【下段】
こゝろといふものはとん
だきのをゝいものにて
きやくの三四人も
おちやつたはんなと
はどうもいそかしく
てこゝろかてん〳〵
してならす心か
いつそもめるから
あくる日火のし
をかけてしはを
のばすこれを
きのばしといふ
きののひると
きは手あしも
のびをして ̄アヽ
ゆふべはくたび
れんした
などゝいふ
〽しんのざうは
いろあかく火に
かたどるすいくは
のかんばん
あんどうの
ごとし
心(しん)之(の)臓(ざう)
【左丁】
【下段】
〽しんのざうと
かいておかぬと
かふと
まち
がひ
ます
〽きくうら
さん一ツのませ
ておくんなんし
きゝなんしこんやは
いつそわるくおちやつて
きかもめんす此ちやわんで
くつとやつていきんしやう
なんぞそのさかなを一ツ
おくんなんし
〽わたし
か
きやく人は
よいに
かへり
ん
した
【右丁】
【上段】
心(しん)の臓(さう)のつきは肝(かん)の臓
なりかんのざうはかた
ちあをくして木に
かたどるしんのざう
めはらのうちのおや
玉にて惣せんせいなり
そこでかんのざうは
しんのざうのめし
つかひにてはんし
ばんたんはらの
うちのことはみな
かんのさうのうけなり
にてはらの中のばん
とうなりそこであさ
ばん三どのしよくじの
出入けふはちやをなん
ばいのんださけがい〱
たび小へんがなんど大
べんがいくたびくさめがい
くつあいのものにはさつま
いもが二本に大ころはし
が三本きもがいくつつ
ぶれていもをいくつくつ
たはなばしらがぐはんと
いつて目の中へぶよがと
ひこんだといふことまで
帳につけまいんばんからたか
ねると出入さん用をする
からはらのうらの
手やいはみなかんの
【左丁】
【上段】
ざうがしはいにて
たいていいそかしひ
ことではなしこれみな
しんのざうへのほう
こうなればほんの
肝臓(かんさう)あつて
ぜにたらずの
ほうなり
〽ひいぶくろはゑんめい
こぶくろといふき
どりにてなにか金
もちのふうをして
おとなしい身をし
たがる
〽しやくのむしはまつくろにてくろん
ぼうのやうなりはらのむしは
まつ白にてみゝずのふやけた
やうなものにてねんぢうぐ
なりしやなりとなまけて
ゐてなんぞといふとよくゐ
ぶるおとこなり
〽ゆふべはもしおやかたわしらは大きに
かぶりやしただいこおろしにき
ぜうゆをかけたやつをくはしつ
たから大あたりさけふもちと
かふりたいなどゝとかくゆすり
たがる
【右丁】
【中段】
〽それではさかなけかさつ
ばりないけふはおいらん
はしやうじん日と
みへた
【右丁】
【下段】
〽人の
きもといふものは
かんのざうに
ついてゐるもの
にて
かんのざうが
おそはさらす
に
ゐる
【左丁】
【下段】
けふはあさめしまへにしれつ
たいとてちやわんさけ
が一はいすゞり
ぶたにのこ
つたしゝ
たけが
一ツ
ゆふべふたぢや
わんへ入てのこし
た
めしへちやをかけ
これが二はい
たいがなづけ
とざぜん
まめこれか
あさめし
と
みへまし
た
【右丁】
【上段】
肝(かん)の臓(ざう)のつぎは腎(じん)の臓(さう)なり
じんのざうはかたちくろくして
水なりそれゆへ水ぶね
そのほかいれものこばち
なんでも水のはいり
さうなものへはやたらに
みづをくみこませからだ
のうちへうるほひをつけ
てゐるみづ屋なりしかも
かんのざうとはぢきにと
なりあはせにてべつ
してねんごろしんるい
どうぜんなりずい
ぶんみつをへらさぬ
やうにしやうばい
大せつにしてゐれ
どもきつくしんらう
くろうでもあるときや
またとんたことできを
もんだりふやうじやうな
ことがあるとさんやうの
ほかのみづかへるなり
あるとき一夜のうちに
じんのざうが所の水
よほとへりけるゆへ大
きにおどろきかんの
ざうひゐぶくろ
をよびさうだん
する
【左丁】
【上段】
〽かんのざうさまは御りんか
と申一ツ御はらのこと
なればさつそく
おとゞけ申ます
さくばんだんなしんの
ざうさまからなん
の御とゞけもござら
ぬにどういたしたる
此とをり水がへり
ましてござるひい
ぶ〱ろさまには
なんぞさくや水の
へりさうなものを
あがつたを帳めんに
御つけおとしかたゞし
くわへのにころばしを
たんとあがつたをおは
すれなどゝ申こと
ではござりませぬか
〽これはさう〳〵
うなぎさまご
ごぼうおゐどを
わたくしかたへ
ねかつて
うけ
とろふ
【右丁】
【下段】
〽これでもう一や此とをり
に
みづがへつてごらう
じろ
わたくしなどは
ぞんじがけない
あごではいを
おはねばなり
ませぬ
水屋の
たはこ
ぼん
どうも火が
もちかねる
【左丁】
【下段】
〽腎(じん)ざう
な
ことでは
ない
〽きも玉にこた
へると申せば
これ
ほど
の水の
へりではぜひ
こたへがあるはづ
で
ござるかとふも
これもみづものだ
しれないもんだ
【右丁】
【上段】
ほんのことかうそのことか
しらね共女の心のざう
はかたち女なり男の
しんのざうは男なり
しんのざうはちと
ないしやうにて水
をつかはねばならぬ
ことありしか又ざう
どもりへもいゝつけず
ない〳〵にてこれほど
のことをかくしてつか
わるゝをよもやしれ
まいとおもひのほか
しんのざうがかたの
水のへりやうことろ
けんにおよびければ
けらいながらもあとの
四ざうともがさげ
すむところ ̄ヲヽはづかしいどふ
しやうのとはつとおもつて
きもをつぶすとぢきにき
もたまにこたへきもがひゝつ
たくなつてはんぶん
つぶれる
〽おまへさまはきもが
つぶれましていもが
あかりたくはござり
ませんか
【中段】
〽かんの
ざう
らうしんな
ことを
いふ
【下段】
〽あれきもが
りう蔵が
たて
を
する
やうニ
つふれ
た
そな
た
たち
の
思ふ所
わがみ
ながら
も
おは
もじ
い
お
ひ
も
じ
いと
きゝ
ちがへ
まい
ぞ
〽さてこそ
しな
だるゝ
みしヤ〳〵〳〵
【左丁】
【上段】
心のざうはあとの四さう
共がつもる所もはつかしき
とて大きにしんらう
してゐる所にわるひ
ときにはわるひこと
ばつかりくる
ものにて折ふし
くれのことなり
しがくれのしま
い正月のもん日
あときのきもの
のあてまでも
たれさんには
これほとかれ
さんにはかうと
あてにした所
が一ときにへん
がへの文がきた
ればこんど
こそはきもが
ほんとうに
みんなつぶれどこから
くるとなしにきねや
ぼうがむねより
わきいだしむねの
うちは八人つきを
しけるゆへしんのざうが
上のほうへくつとつるしあがり
てんてこまひをぞはしめける
〽これてんてこまひのはじめなり
あんまりみずとよいものなり
【中段】
〽こんなくるしいしせつも
今くるほどにてん〳〵〳〵
〳〵
これからしやつ
きやうのくるひ
じや ̄アねへ▲
▲しやつ
きんの
くるひ
だ
〽むねがどき〳〵をどつて八人つきを
しけるゆへかんのざうへひゞきかんのざう
はぢしんのゆるやうにこはがつてうごき ゑへず
【下段】
〽とつき〳〵
ぶる〳〵
〳〵
〳〵
 ̄アゝまん
ざいらく
〳〵
〽まんざい
はらくか
しらぬが
女郎は
正月が
くるし
い
ぞ
【右丁】
【上段】
きやく人からことはりのふみが
きてむねが八人づきをして
おどりはつとおもつてきも
をつぶせしゆへじたいはんふん
つぶれかゝつてゐた所へこん
どはほんとうにまるてつぶ
し今まできものふとい
のがにはかにほそくなつて
やせおとろへみしや〳〵〳〵と
ひらつたくなつて
つふれ大きにわつらふきも
といふものはかんのざうの
わきについてゐてかんの
さうのやつかいものなれ
ばいろ〳〵かんひやうを
していたはる
〽こうつぶれきりに
なつてはおとこがたゝず
こしがたゝねへこれでは
あたりめへのきもより
ぢぎりの
きもが
つぶれる
〽わたしが
なりは
あかがいる
を
みるやう
だ
【下段】
〽それはあかかいると
いふもんではないそれ
はきもがでんぐり
かいる
いろがあを
がいる
とうか風でも
ひきがいる
と
いふもんだ
【左丁】
【上段】
むねがどき〳〵をとつてきもをつぶすや
いなやしやくのむしはつね〴〵人のわるき
やつなればこゝぞさいわいとむなさき
へぐつとさしこみいたのやうにつゝはつて
おいらんをくるしま せけるゆへさつ
そくとらやのげどく
こくぐはんしきんりうぐはん
だらすけまで
のみければさす
がのむしもくるし
がりあつちへくゞり
こつちへくゞり
いたませけるが
銀しん金しん
のはりを四五本
うちこまれげつふ〳〵
とさがりしはめざまし
かりけるしだいなり
〽なせこれがめざましゐかとふもきがしれず
〽はらのむしはをくびやうものにてしやくの
むしがせつかんにあふをみてむしをころし
てちいさくなりぐうのねもですにじつ
としてゐる
〽ぐわんやくのふる所はきのみじかい人が
ごをうつやうなり
〽ぐわんやくこぐすりのどの
あなよりあめあられとふり
くだる
【中段】
〽けいぷう
ぐう〳〵〳〵
ごろ〳〵〳〵
〽けいぷう
〳〵
【下段】
〽げんとくさんのはりは
いたひはりだ ̄アヽ
くるしい
〽ウヽ
こわい
ことかな
ぐわん
やくが
あた
まへ
あたる
あいた
〳〵
〳〵
【右丁】
【上段】
心のざうないしやうにて水を
つかいへらしたるうへにこんどの
ことにていよ〳〵しんらうし
てきをへらしじんの
ざうが水はこんな
へつてしまひ大病
となりけるゆへ今は
心のざうもきの
どくにおもい女ぼう
をみるやうにけらい
ながらもかいほうしてやる
〽又心のざうにちい
さくついてゐかざう
にあたらしきといふ新
の字をかきて新ざう
といふざうありこれ
心のざうののゝ字を
ぬきたるものにて
としをへて心のざう
となるとどのか十四けいに
あれどこれはあんまり
ずざんにしてとるにも
たらずそれでもさう
かいてあるからこゝに
いだすけつしてさく
しやのせつなべで
くさきことには
あらず
〽うと〳〵とこんな
大きなゆめがここ
からでるかいたはしい
【左丁】
【上段】
ゆめは五さうのわづらひと
いへるにちかいなくしんの
さううつら〳〵ときの
へるやうなこわい
ゆめはかりみる
大きなぬま
よりくわいの
とろほう
いでゝ
じんの
ざうを
はきて
水を
みんな
しほり
とる
〽いやじんざうに
わたせヱゝ
こゝろこゝ
にあら
されは
みれともゆめなり
くわへともそのわけ
やいをしらすとう
たへり
何か一こう
わからぬしやれ
をいふこゝが
ゆめなり
【右丁】
【中段】
〽かんのさうひいふくろまい日みまいにくるあなたのひねのうちは
わたくしどもづよくそんしておりますたしか
あばらぼねに肴のほねが二本たつておりました
〽ひいかんの二ざう日〽なるほどこれは大きな
【下段】
〽みづからが
むねのうちなら
くわし
こふても
あかりは
なさり
なせぬ
か
【左丁】
【下段】
ゆめかのとうりてたもちつと
大きくみるとおいらはいどころが
ねへ
〽みづからか
むねのうちを
すいりやう
して
たも
〽ひやう人の
ねている内
はあこて
はいお
おはすに
ゐるから
そはで
しんざう
うちはで
はいを
おつてやるなり
〽《割書:それはい 〳〵|それはい〳〵》はいではないむまを
をゝよふた
【右丁】
【上段】
じんのざうは水が
のこらすへりきり
て日々かんしよく
やせおとろへけれは
今ははらの中
にてこくうに
火かたかぶりはら
ぢうをきほひ
まはり五さう六
ふをあつくさせて
けんくはをしかけ
やけのやん八といふ
わるものとなり
はら中かこまりはてる
〽これ ̄へゝ
おれを
たれたと
思ふおら ̄ア
やけのやん八
さんといつて
火のほうしや ̄ア
たかい男だはら
ちうておれを
しらねへものは
ねへうねめが
はらでもてん
もんはらでもひろこうぢに
とをつたもんたなんのこつたへ
はらしのやうな
【中段】
〽こうあらふ
とおもつて
火のやうじん
をしてゐた
【下段】
〽わしは
これわ
かいしゆ
へよを
わたし
しんき
よした
もの
しや
そのやう
に火
とく
いわぬ
もの
じや
〽くやしくば水を
たしておれを
けしてみろ
水はあんめい
〽おぢいかあめ
なら水あん
めへもうる
八文もうる
【左丁】
【上段】
さけのすきなものゝはらの
ひいぶくろのわきにさけが
五升も三升もはいるとつ
くりのやうなものがあつて
それへみんなはいつて
しまふといふにちかひ
なしおいらんのはら
のうちにあめいろ
のとつくりがありて
ちうやのむさけがこれへ
みなおさまりはらのうち
のさかやのやうなものなり
きも玉はつぶれてよりこの
かたきもがほそくなつて
わつらひけるゆへいろ〳〵
りやうぢせしがさけをのみ
〳〵すればきもがふとくなる
ものときいてまい日とつくりが
みせへきていさけをのみければ
だん〳〵きもづふとくなり
いまではさかやにかりができても
とうするもんだしやくきんで
くびあしはもげめへしなどゝ
いけしやア〳〵ときもかふとく
なつている
〽のどにぐい〳〵むしといふ
むしがあつて人のさけを
のむのをみてはぐひ〳〵と
してのみたがる
ぐう〳〵
【下段】
〽ゆふべはいつたのは
けんびしだそれ〳〵
どう
だ
〳〵
〽あたまから
むまひ〳〵と
のむはみす
じや ̄ア
ねへがおれと
うはばみ
だらう
【右丁】
【上段】
腎(じん)のさうのつぎは肺(はい)のざうなり
はいのざうはいろ白くして金にかた
どるしかも心のざうをとりまいて
まもるやくなり心のさうは此はいの
ざうがうちのまん
なかに大きなつら
をしてすはつてゐ
て人ばつかりつかふやつなり
そこではいのさうかしやう
ばいはばんじこへをはつする
やくにて上るりても長うた
でもおちやつぴいでもお
しやべりでもみんなこの
はいのざうからだす
ことなればこれははら
のうちでのけいしや也
そこでたんがおこつて
もせきをせくのも此
おとこがゝりなりじん
のざうが水かへりしゆへ
はいのざうはむしやうに
ごほり〳〵とせきをせい
てちうやにたんがこらへた
らいにはんぶんほどつゝ
いでけるゆへしやうばい
の上るり長うたも
かたられずけいこもや
すんでいた所へおいらん
のふやうじやういしやへ
かくうなといわしつた
なすびのなまづけと
【左丁】
【上段】
さといもをかくしてかいに
やつてくいけるゆへ大きに
たんにあたりたんはおそ
ろしくをこつてあばれ
だしけいこしよを
ぶちこはす
〽のどのあなよりさと
いもとなすのなま
づけばら〳〵おち
てたんのあた
まへあたり
たんは大きに
せきこんで
おこる
〽むしどもは
あいだ〳〵に
ぐう〳〵と
うなりて
みたがりはい
のざうが所へ
かとうぶしの
けいこにきかゝりしが
たんかおこつて上るりができ
ないとたんをなだめる
〽これおれもしやくのむしだ
一ばんげつといつてしづまつて
下さいさういつてむしをつぶすきか
〽これはあん
まり
たんきと
いふもんだ
【右丁】
【中段】
〽いかにたんでもそんなに
からんだことをいふ事は
ねへそれではおれがつらは
たゝないでもいゝがこへが
たゝぬつふれきりだ
〽じたいせきの
でる所へきさま
かさうおこつて
は
たまらぬ
ごほん〳〵〳〵
ごほり〳〵
うふ〳〵〳〵
けん〳〵
〳〵
〽とがもないおれになすび
やらうやいもやらうが
あたつたりさはつ
たりするでいり
はねへいき〳〵
【左丁】
【中段】
かつてん
しねへ
〳〵
【右丁】
【下段】
〽これさ
なすひ
そんな
にたん
にさはら
ぬ
【左丁】
【下段】
それ
たから
はら
を
たつ
〽これさ
じやう
たん
を
いや
んな
わう
だんに
なら
ア
【右丁】
【上段】
火はだん〳〵はらの
うちをたかぶり
てあるきのちには
おへなく人がわるく
なりてつくいのこと
くくわつきつよく
あつくなりしゆへ
きたものを一まい
ぬぎ二まいぬぎ
だん〳〵ぬいでいま
はじゆばんのやう
なもの一ツきてくはゑん
のすがたになりさかどつくりが
みせへきてさけをのんでぶう〳〵
をいふ
〽のどのあなのぐい〳〵
むしこれもとつくりがみせへきて
あしなしのさけをのみたがり
ゑこぢわるくこはりたがる
〽そのそのあたまのとつくりを一はい
いきたいひやてもいゝよかんは
おれか火でかつてにしべい
〽これおやかたわしはぐい〳〵
むしののど平といふ
もんだ一はいのま
せて下さい
ぜには此
ころに
やらう
【下段】
〽おまへは
あんまり
むしの
いゝこと
を
いひ
なさる
それ
ぐひ〳〵
むしでは
ないわしかみせの
あふら虫
だ
〽かんしや
はゐながら
めいしゆを
のむてい
しゆはいな
がらめいわく
する
【左丁】
【上段】
きも玉はまい
日酒をのんで
とんだきもがふ
とくなり火も
だん〳〵たかぶり
て人がわるくなり
今はいぐひ〳〵むし
三人ともにわるもの
となりいゝやわせ酒屋
があたまにのせける大じのさろ
とつくりをひつたくりて
きたり三人さけをあばれ
のみにしてはら中をあばれ
あるく今まではかいらんがひや
ざけがすきでとつくりの中
のさけはひやでばつかりあり
しか火があたまにてかんを
してのむからあたらず
〽おれもあたまでかんをして
さけばつかりのんてゐても
つまらぬはるからやけんほり
のふどうへくはゑんほうこう
にすんで一ねんくるしむとこの
しやくせんはぬけらア
〽ちいさい子がさかやきをするやうた
きかつまるこのころあたまをほして
をいたからよくもへるはづた
〽しれつたいはやくあたまをもや
さつせいぢびやうのぐい〳〵がをこつた
【下段】
もちつ
と
さう
して
ゐや
れ
あと
で
てめへ
のあた
まで
ちやを
わかして
もらひ
たい
【右丁】
【上段】
さて肺のざうのつぎは脾のざう
なりこれはきいろにして大なり
すなはちひいふくろのことなり
されど脾のざうと胃(い)のふと
二ツあわせてひいといふ脾は一切
のしよくもつをこなすやく胃はしよくを
うけとるやくにてあさばんのくいものをみん
こゝへ入てこなすからはらの内
のうまいものやなり夜〳〵通り
丁へ出るやたいみせのやうなもの也
じんのざうの水がへつてより
此かたおいらんはうなぎとたまこ
をまい日くひそのよちつとでも
水のましさうな
ものをむしやうに
くいこみけるゆへ水
はましてじんのさう
はくわいきしけるが
あんまりくいこんだ
ゆへひいぶくろが
すこしいたみや
ふれかゝりしゆへ
心のざうきのとく
がる
〽あんまりやぶれの
大きくならぬ内
に心のざうひい
ぶくろのやぶれを
こそくつてやるじん
きよがなをつたら
又ひいきにおや〳〵
【左丁】
【上段】
どうしやうのふ
〽ひいぶくろのうちのわかい
もの脾蔵胃蔵の
二人まい日のしよく
もつをこめをつく
やうにこなして大ちやう小ちやうの
けいへわたしてやる大ちやうへおつるは
大べんとなり小ちやうへおつるは小べん
となりてくだるこれ下り米をつくよふなり
ひ蔵い蔵ひい〳〵〳〵といつて
はたらく今のよにせつないのを
ひい〳〵といふのは此いわれなり
〽これからむめぼしの
たねのまるのみと
たこのあしを二本
こなさねば
ならぬ
〽きのふのだんごは
はやくこなれたが
けふのぼた
もちは
あがり
かねる
うるのま
ぢつた
せいか
【右丁】
【下段】
〽これかほんの
ひいきよの
ひきだをし
やぶれ
かぶれ
と
いふもんだ
〽あたまの
やぶれをねつ
てもらうは
心もちの
いゝもの
だ
ちと
ねむ
けが
きた
【左丁】
【下段】
〽おれが名もひざう
とはぜにのねへ名だ
【右丁】
【上段】
扨 心(しん)肝(かん)肺(はい)脾(ひ)命門(めいもん)と
つゞくことにてめいもんと
いふははらの中の大門口の
やうなものにてよしはら
では大門したつはらでは
めいもんにて一さいのくひ
ものがてたりはいつたり
するなりおいらんはき
もがつぶれてより
此かたいもがくひ
たいとてむしやうに
いもをくふ中にも
さつまいもをたんと
くわれければはら
のむしにあたりて
かぶりけるゆへはん
ごんたんをのみ
ければ大きにさつ
まいもとたてやい
めいもん口にて大
げんくわとなり
てしよくたいし
けるゆへ五ざう六ふ
それけんくわよと
うへをしたへと
ひつくりかへり
めいもんをうち
て大きに
さわく
〽けんくわ〳〵
ぬいた〳〵
かち〳〵
【中段】
はんごんたんのむしころし
でやへ〳〵さじをぬいて
おれをころしたたしか
にへたいしやの
もつた
さじだ
〽さきから此本を
みるに丸やくさと
いもなすびどもは
みんなしやうでかいて
あるになぜてめいと
おれは人
げんに
かいて
あつ
て
けんくはを
するのだ
ノウ
〽さればさ
そこがはらの
うちのことは
しれぬもんだ
【下段】
〽イヤいもく
まいぞ
なんと
あんまり
あたらし
からふ
がや
【左丁】
【上段】
大ちやうけい小ちやうけい
ははらの中にとなりやつ
てゐるものにてそくにいふ
百ひろのことなりなにか
さつまいもとはんこんたん
とたてやつてよりむしやう
にあけたりくたしだりし
けるゆへのどのくり〳〵の
のどほとけがだいなしに
そんじまたくだるほう
では大ちやう小ちやうの百
ひろが大小べんのうけ
もちなればこれも
あんまりくだりすき
て百ひろをたいな
しわるくしいまは
のどぼとけと
百ひろのりやう
ちさいちうなれ
ば大ちやうほう小ちやうほう
のどほとけ百ひろのこん
りうにあるく
〽のどの
痰(たん)へ
おさめ
たてまつる
なみだによらい
こんりう
【下段】
〽けふもあし
の
ほうまて
てうど
二里あるいた
もう
一里の
ことだ
しりへ
まいらふ
【右丁】
【上段】
大へんは大ちやうより大べんどうへをり
小べんは小ちやうよりぼうくわうけい
にわたりこれよりいばりくたる此ほう
くわうけいといふはぞくにいふ小へん
ぶくろのことにてことにふじんの
ぼうこうにはいろ〳〵ありまづ
おいらんのはつとめぼうこう
それから下女のかめしたき
ほうこうかゝ ̄アのでるのか
うばほうこうば ̄アさん
なんぞはやといぼうこう
むすめのてるのが
めかけぼうこう
そこで小へんぐみ
といふこともなき
にしもあらず今は
うなきたまごのせい
にてしんの水たく
さんになりはら中
が水たらけになりし
かばほうくわうけい
小やうしけくなり
たかふりたる火のあたまへしたゝか
小へんをしかけければ
じう〴〵じは〳〵と
火はきへてしまふ
〽又すげのくろやきにした
のはしやくのむしのねを
きるといふことにてかん
のさうすげがさのくろ
【左丁】
【上段】
やきをもつてしやくのむ
しをたいじする
〽のどのぐい〳〵むしは
いくらさけをのんで
も〳〵ぐびつゝやつに
てのらにはめんどう
がりてとつくりへくび
をつゝこんでのまんと
する所をとつくり
の口ぐい〳〵むしが
のどぶへにしつかり
とくらいつきむし
をくいころす
〽なむさんとつ
くりわうじやう
だ
た ̄ア引
【右丁】
【下段】
〽みづからがてうずをしかけてたれころさん
おもひしつたる
ちゝ〳〵じや〳〵〳〵
じや ̄ア〳〵〳〵
〽此所小べんむやうと
いふふだをたさぬが
おれがぶねんだ
 ̄ハテぶねんた
ナア
これは
むねんのぬけ
よ
〽こいはおなごの
しやくのたねと
いふがわがその
つらでは
おそれいる
【左丁】
【下段】
〽とつくりへ
ゆひを
つつこんで
ぬけねへ
とは
ちがう
ぞ
どうだ
〳〵
【右丁】
【上段】
はらのうちにしやうじぼねといふこうらいや
じまのやうなほねありすげがさのくろ
やきにてしやくのむしはきへけるが
とうしたかそのかさ
のやくとくがのこり
しやうしほねのほね
がらみとなりて
いくらひつはつて
もこれがとれかね
大きになんぎ
するこれきやく
人のをいてゆき
しかたにやかた
あての所にかう
やくをはつた
あとがある
〽かさのほねがらみ
になりしゆへもの
いゝがはなにひつかゝりて
はなのしやうじかしたへ
おちるはなのせう じは
ちいさなせうし にて
火がたかふつ
たじぶん
はなの
あなをだい
なしにす
ほらせける
ゆへまつくろくすゝび
やふれておちる
【下段】
〽みり〳〵〳〵つよくひつぱるとほねがおれる
ほね
おり
そん
だ
〽なむさんはなの
せうじがおちる
しやうじせんばん
ふが〳〵〳〵
〽はなははいのざうがうけもち
にてあたまへせうじがおちてあながあく
【左丁】
【上段】
かさはほねがらみとなりとれかね 〽さては
けるゆへ上手ないしやにかゝり これだ
ごほうたんのくだしをのみ な
けれはかさはみなこな〳〵に めうだ
なりてほねをはなれ大 〳〵
ちやう小ちやうがうけ
もちのあなよりたき
の水のおちるかことく
くだつてしまふはな
のせうじもひとり
でにはなへはまり
もとのごとくしやん
としたいはなと
なりのこらず
やまいのねを
きりてしまう
〽はらのうちにどての 〽私もちい
やうな所ありそれより さくなつて
たきのおちるごとく きがつ
やまいくたる俗にこれ まる
をとてつはらといふ
〽きも玉はさけを
のみて大きにふ
とくなつて人が
わるくなりしゆへ
五ざうどもに大き
にしかられちいさく
なつてどてつばら
のわきにかたく
なつてゐる
【下段】
〽此ごろ
ふくろへ
だいぶん
大ふくが
はいつた
と
おもつた
が
〽ちとかさ
のんだる
のを
はい
けん
いた
さう
十四 経(けい)情(せい)その任脉(にんみやく)の人からによつて 芝全交戯作
こんにやくのでんがくでさけをのんでも
大に督脉(とくみやく)のつく事あり
いはんやをまんまにおいてをや
一さいのくつたりのんだり
おさまる所はひいぶくろに
してまことにそくさい
ゑんめいぶくろとうや
まふべきはひいぶくろ也
ことにおいらんはつとめの
うちのかんにんぶくろ
かたついたさきでもし
じうおふくろさまと
あがめられ金ふくろ
をたんともちて年〳〵
はる袋をおくらばいかはかり
めてたしとなんの
こんなへちまのかはの
だんぶくろなくさ
ざうしなれと
御子様かたの御ひいきを
もつてふくろ入の本とも
ならばはんもと
つる屋が
大仕合めてたふ
一ッ打ましやう
しやん〳〵〳〵
【破損部分は「東京大学学術資産等アーカイブポータル 十四傾城腹之内」を参考とした】
【裏表紙】
《割書:不破伴左衛門|名古屋山三》昔語稲妻表紙 一
【参照資料:国会図書館デジタルコレクション>帝国文庫>第4篇・京伝傑作集>昔話稲妻表紙 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179162/9】
●模範解答付きコレクションは、国会図書館が公開する翻刻本を参照資料として、自分で答え合わせをしながら翻刻を進めることができるコレクションです。
●参照する翻刻本では、かなを漢字にしたり、濁点や句読点を付加するなど、読みやすさのために原書と異なる表記をしている場合があります。入力にあたっては、「みんなで翻刻」ガイドラインの規則に従い、原書の表記を優先し、見たままに翻刻して下さい。
●参照する翻刻本と原書の間で、版の違いなどにより文章や構成が相違する場合があります。この場合も原書の状況を優先して翻刻して下さい。
《割書:嘉永|新板》増補(ぞうほ)書翰(しよかん)大成(たいせひ)《割書:大冊|全部一》 《割書:いつれの本屋にも御座候間|御 手寄(てより)にて御もとめ可被成候》
此(この)書(しよ)は前板(ぜんはん)書翰(しよかん)大成(たいせい)の増補(ぞうほ)にして四季(しき)の贈答(そうたふ)はいふに
及(およ)ばず諸(しよ)商売用(しやうばいよう)の掛引(かけひき)種々(いろ〳〵)入組(いりくみ)たる文章(ぶんしやう)に至(いた)るまで
御家(おいへ)の書筆(しよひつ)をえらひ之取懇に書著(かきあらは)し頭書(かしらがき)には日用(にちよう)
要字 万(よろつ)字尽(じつくし)証文(しようもん)手形(てかた)案文(あんうん)書状(しよじやう)并 ̄ニ箱目録等(はこもくろくたう)一切(いつさい)
纏物(もの)の心得(こゝろえ)諸礼(しよれい)図式(ずしき)吉書始(きつしよはじめ)七夕(たなばた)詩歌(しいか)仮名
和字の濫觴五性人名尽商売往来其外日
夜(や)有益の事どもを数多(あまた)あつめいつれも絵を
まじへて専重宝たらしむ実に諸家必用
随一の用文章なり 価五匁八分定
東山八景
みわたせはひかしやまのはるのけしきや
きをむはやしにふくあらしは山市の晴嵐と
うたかはれ河原おもてのまさこのいろは
江天の暮雪もかくやらむおもしろの花の
みやこやちしゆのさくらにしくはなし
賀茂川のなかれのすゑにゆくふねは遠浦
の帰帆かさえわたる清水寺のかねのこゑ
煙寺の晩鐘のひゝきそれしら川のすさきに
つはさの散乱すは平沙の落雁ともひつへし
さてれうせむの月かけは洞庭のあきのゝ
これにはよもまさらしさてまた漁村の
夕照はつりたれてあけまきにあそふものを
香つくし
六十一種の名香は法降寺東大寺逍遥みよしの
紅塵枯木なか川法華経はなたちはな
やつはし園城寺似たり不二のけむりは
あやめ槃若鷓鴣あを梅楊貴妃とひ梅
たねかしまみをつくし月竜田もみちの賀
斜月白梅千鳥や法華老梅や重かき
花の宴はなの雪名月賀蘭子卓橘はな散里
丹霞はなかたみ上はかをり須磨あかし十五夜
隣家夕時雨たまくら有明雲井くれ
なゐはつせ寒梅ふた葉早梅霜夜たなはた
【挿絵】
不破伴ざゑもん
稲妻(いなつま)の
はじまり
見(み)たり
不破(ふは)の関(せき)
荷翠
なご家山三
傘(からかさ)に
ねぐら
かさふよ
ぬれ燕(つばめ)
其角
ゆふくんかつらき
傾城(けいせい)の
賢(けん)なるは此(この)
柳(やなぎ)かな
其角
ねさめしのゝめうすくれなゐうすくも
のほり馬とかく伽羅のけふりといのちの君は
とめてもいく夜いくよとめてもとめあかぬ
右東山八景香尽二曲はむかし室町に花の御所を
いとなまれし頃京童のうたひし小歌となむそのゝち
はるか過て堺の僧高三隆達といふ者ふしはかせを
あらためかへてうたひしよりなへて隆達ふしと
いふとそ此草紙の時代に因あるをもてこゝにしるしつ
【挿絵】
僊風道骨
○梅津嘉門(うめづのかもん)
咲匂ふ
梅津の川の
花さかり
うつる鏡の
かけもくもらず
為家卿
【挿絵】
胚姧逞慾
○不破(ふは)道犬(だうけん) 伴左衛門(ばんざゑもん)父(ちゝ)
其角
あの声で
石蜴(とかげ)
くらふか
時鳥(ほとゝぎす)
回雪飛僊
○白拍子(しらびやうし)藤波(ふぢなみ)幽魂(いうこん)
鬼貫
骸骨(がいこつ)の
うへを
粧(よそ)ふて
花見哉
喰物(くひもの)も
みな
水くさし
魂祭(たままつり)
嵐雪
【挿絵】
水寒陰薄
○六字(ろくじ)南無右衛門(なむゑもん)
ゆふだちや
細首(ほそくび)ちうに
大井川
宗因
画足蛻皮
○丹波国(たんばのくに)因果娘(いんぐわむすめ)
蛇くふと
きけば
おそろし
雉子(きじ)
の声(こゑ)
芭蕉
【挿絵】
守節握符
○貞婦(ていふ)磯菜(いそな)
言水
花瓜(はなうり)や
絃(つる)をかしたる
琵琶(びわ)の上(うへ)
天機心匠
○浮世(うきよ)又平(またへい)重起(しげおき)
大津 絵(ゑ)の
筆(ふで)のはじめは
何仏(なにぼとけ)
芭蕉
【挿絵】
裂石穿雲
○佐々木(さゝき)桂之助(かつらのすけ)国知(くにとも)
其角
七月や
暮露(ぼろ)
よび入て
笛(ふえ)を聞(きく)
又平(またへい)妹(いもと)於竜(おりう)
夜動昼蔵
○銀杏前(いてふのまへ)
うぐひすや
鼠(ねずみ)ちりゆく
閨(ねや)のひま
其角
【挿絵】
非風非幡
○旧家怪(ふるいへくわい)
水風呂(すいふろ)の下や
案山子(かゝし)の
身(み)の終(をはり)
丈草
昔話(むかしがたり)稲妻(いなつま)表紙(ひやうし)総目録(そうもくろく)
巻之一
一 遺恨(いこんの)草履(ざうり) 二 風前(ふうぜんの)灯火(ともしび) 三 胸中(きやうちうの)機関(きくわん)
四 荒屋(あばらやの)奇計(きけい)
巻之二
五 厄神(くわじんの)報恩(ほうおん) 六 因果(いんぐわの)小蛇(しやうじや) 七 呪詛(しゆその)毒鼠(どくそ)
八 夜(あんや)の駿馬(しゆんめ)
巻之三
九 辻堂(つぢとうの)危難(きなん) 十 夢幻(むげんの)落葉(らくえふ) 十一 断絃(だんげんの)琵琶(びは)
巻之四
十二 修羅(しゆらの)大鼓(たいこ) 十三 霊場(れいぢやうの)熱閙(にきはひ) 十四 仇家(きうかの)恩人(おんじん)
巻之五 上冊
十五 孤雁(こがんの)禍福(くわふく) 十六 名画(めいぐわの)奇特(きどく) 十七 雪渓(せつけいの)非熊(ひゆう)
十八 花柳(くわりうの)□(さや)当(あて)
同 下冊
十九 刀剣(たうけんの)稲妻(いなづま) 二十 積善(しやくぜんの)余慶(よけい)
以上
通計二十回
総目録終
昔話(むかしがたり)稲妻(いなづま)表紙(ひうし)巻之一
江戸 山東京伝編
一 遺恨(いこん)の草履(ざうり)
今(いま)は昔(むかし)人皇(にんわう)百三代。後花園院(ごはなぞのゝいん)の御宇(きよう)。長禄(ちやうろく)年中(ねんぢう)。足利(あしかゞ)義政(よしまさ)公(こう)の時代(じだい)。
雲州(うんしう)尼子(あまこ)の一族(いちぞく)に。大和(やまと)の国(くに)を領(りやう)す。佐々木(さゝき)判官(はんぐわん)貞国(さだくに)といふ人ありけり。
兄弟(きやうだい)二人の男子(なんし)をもてり。兄(あに)は桂之助(かつらのすけ)国知(くにとも)といひて。今年(ことし)二十五才なり。
弟(おとゝ)は花形丸(はなかたまる)とて十二才なり。兄(あに)は先妻(せんさい)の子(こ)弟(おとゝ)は後妻(かうさひ)の蜘手(くもで)の方(かた)といふに
出生(しゆつしよう)したる子(こ)なり桂之助(かつらのすけ)の伯父(おぢ)に蔵人(くらんど)貞親(さたちか)といふ人あり是(これ)則(すなはち)判官(はんぐわん)
貞国(さだくに)の弟(おとゝ)なるゆゑに一万町の分地(ぶんち)を与(あた)へ同国(とうこく)平群(へぐり)に。別館(べつくわん)を造(つく)りて
すゑおきけるが。一人の娘(むすめ)をまうけ。先(さき)だつて夫婦(ふうふ)ともに身(み)まかりけり。その
息女(そくぢよ)容顔(ようがん)美麗(ひれい)なるが。成長(せいちやう)の後(のち)。桂之助(かつらのすけ)の内室(ないしつ)となり。名(な)を銀杏前(いちやうのまへ)
といふ夫婦(ふうふ)中むつましく。ほどなく男子(なんし)誕生(たんじやう)あり。其(その)名(な)を月若(つきわか)といひて。
今年(ことし)七才にぞなりぬ。其(その)比(ころ)義政公(よしまさこう)。京都(きやうと)室町(むろまち)に新館(しんくわん)を営(いとなみ)て花(はな)の御所(ごしよ)
と号(ごう)し。兼(かね)て花車(きやしや)風流(ふうりう)を好(この)み玉ひ。近仕(きんし)の士(もの)も列侯(れつこう)の子息(しそく)のうちより。
美男(びなん)を撰(えら)びて召(めし)つかはれけるが。桂之助(かつらのすけ)兼(かね)て美男(びなん)のきこへあるにより。此(この)
撰(えら)びに入て京都(きやうと)にめされ。右近(うこん)の馬場(ばゝ)の旅館(りよくわん)に住(すみ)。室町(むろまち)の御所(こしよ)に通(かよ)ひて
勤(つとめ)けり。此度(このたび)桂之助(かつらのすけ)にしたがひて。上京(じやうきやう)したる家士(いへのこ)は。執権(しつけん)不破(ふは)道犬(だうけん)一子(いつし)。
不破(ふは)伴(ばん)左衛門 重勝(しげかつ)。長谷部(はせべの)雲六(うんろく)。笹野(さゝの)蟹蔵(がいぞう)。藻屑(もくつの)三平(さんへい)。土子(つちこ)泥助(でいすけ)。犬上(いぬかみ)
雁八(がんはち)等(ら)なり。去程(さるほど)に桂之助(かつらのすけ)妻子(さいし)は国(くに)に残(のこ)しおき其(その)身(み)独(ひとり)長(なが)々 在京(ざいきやう)し。御所(ごしよ)
勤(つとめ)の気欝(きうつ)つもりけるにや。頃日(このごろ)は病(やまひ)がちになりて折(をり)々 悩(なや)みければ。一時(ひととき)家士(いへのこ)
等(ども)。桂之助(かつらのすけ)が前(まへ)に集(つどひ)。何(なに)がな殿(との)の欝結(うつけつ)を慰(なぐさむ)る事(こと)もやと評議(ひやうき)しけり。さて
当家(たうけ)の重宝(ちやうほう)に。巨勢(こせ)の金岡(かなおか)が画(ゑがき)たる。百蟹(ひやくがい)の図(づ)とて。百種(ひやくしゆ)の蟹(かに)をかきたる
絵巻物(ゑまきもの)あり室町殿(むろまちとの)兼(かね)て古書画(こしよくわ)を好(この)み玉ふにより。御聞(おんみ)に達(たつ)し。御覧(ごらん)
あるべきよし命(めい)ぜられければ。国元(くにもと)より。名古屋(なごや)三郎左衛門が一子(いつし)。名古屋(なごや)
山(さん)三郎 元春(もとはる)。彼(かの)巻物(まきもの)を携(たずさ)へてまかり上(のぼ)り。すなはち当(たう)館(やかた)に逗留(とうりう)して
ありけるが。兼(かね)て大殿(おほとの)申楽(さるがく)を好(このま)れけるゆゑ。山(さん)三郎 武芸(ぶげい)のいとま乱舞(らんふ)を学(まな)
びて扇(あふぎ)とりて名誉(めいよ)の者(もの)なりければ。皆(みな)々 口(くち)を揃(そろ)へて申しけるは山(さん)三郎
上京(しやうきやう)こそ幸(さいは)ひなれ。かれに一(ひと)さし舞(まは)せて御覧(ごらん)候へ。しかし彼(かれ)が舞(まひ)御国元(おんくにもと)
にては度々(たび〴〵)御覧(ごらん)ありし事(こと)なれは。相人(あいて)なくては興(きよう)あるまし頃日(このごろ)時(とき)めく
白拍子(しらびやうし)に。藤波(ふぢなみ)と申す女(をんな)あり。年(とし)は十七才のよし。歌舞(かぶ)吹弾(すいたん)の業(わざ)に
達(たつ)し。しかも類(たぐひ)まれなる美女(びぢよ)にて。古(いにしへ)の祇王(ぎわう)祇女(ぎぢよ)仏(ほとけ)なとにもをさ〳〵
をとらざる者(もの)にて候。彼(かれ)を召(めし)て山三(さんざ)が相人(あいて)とし。乱舞(らんふ)俳優(わざをき)を催(もよほ)し玉はゞ
いみじき観物(みもの)にて候はんと。伴(ばん)左衛門をはじめ。これをすゝめけるにぞ。桂之助(かつらのすけ)
大に喜(よろこ)び夫(それ)きはめて興(きよう)あらん。急(いそ)ぎ催(もよほ)すべしと命(めい)じければ。皆(みな)々かし
こみ候といひて退(しりぞ)き。つぐる日(ひ)彼(かの)藤波(ふぢなみ)。ならびに囃方(はやしかた)を召(めし)よせ。山(さん)三郎を
くわへて。乱舞(らんふ)俳優(わざおき)をさせ美々(びゞ)しく酒宴(しゆえん)をまうけて。大に興(きよう)を催(もよほ)し
けりかくて山(さん)三郎 藤波(ふぢなみ)かわる〴〵。種々(くさ〴〵)の舞(まひ)ありて後(のち)。酒(さけ)□(たうべ)の乱足(みだれあし)。西寺(にしでら)
の鼠舞(ねずみまひ)。無力(ちからなき)蟇(かいる)。無骨(ほねなき)蚯蚓(みゝず)の道行(みちゆき)ぶり。福広聖(ふくわうひじり)の袈袋求(けさもとめ)妙高尼(みやうかうに)の
繦緥乞(むつきこひ)などいふ。両人(りやうにん)立合(たちあひ)の俳俳優(わざをき)ありて笑(わら)ひを生(しやう)じ。終(をわり)にいたりて藤波(ふぢなみ)。
男舞(をとこまひ)といふ秘事(ひじ)を舞(まひ)ぬ。これは昔(むかし)後鳥羽院(ごとばのいん)の御宇(ぎよう)。通憲(みちのり)入道(にうだう)。讃岐(さぬき)
の磯(いそ)の前司(ぜんじ)といふ女(をんな)に。伝(つた)へたる舞(まひ)なり。金(きん)の立烏帽子(たてゑぼうし)。白(しろき)水于(すいかん)に紅(くれなゐ)の
大口(おほくち)はき太刀(たち)をおびて立舞(たちまふ)さま。誠(まこと)是(これ)。沈魚(ちんぎよ)落雁(らくがん)。羞月(しうけつ)閉花(へいくわ)の容(かたち)
あり。ひるがへす袖(そで)は鸞鳳(らんほう)の舞(まふ)にひとしく。歌(うた)うたふ声(こゑ)は頻伽(びんか)の囀(さへづる)がごとく
なれば。皆人(みなひと)感(かん)にたへ。奇妙(きみやう)の舞妓(まひひめ)やと。賞嘆(しやうたん)の声(こゑ)しばらくはやまざりけり。
此時(このとき)より桂之助(かつらのすけ)藤波(ふぢなみ)を恋(こひ)そめて。病(やまひ)はいづくへか去(ゆき)。只(たゞ)思(おも)ひ川(かは)の水(みづ)胸(むね)
にあふれて恋(こひ)の淵(ふち)となり。舞(まひ)を見るに事(こと)よせて。度々(たび〴〵)めしよせけるが。
つひに伴(ばん)左衛門がはからひとして。藤波(ふぢなみ)を桂之助(かつらのすけ)の妾(そばめ)にめしかゝへ。館(やかた)に
引(ひき)とりて給仕(きうし)させければ。桂之助(かつらのすけ)望(のぞみ)たりて最愛(さいあい)深(ふか)くめかしつかひ。かれが
妹(いもと)に於竜(おりう)とて。今年(ことし)十三才になる少女(しやうぢよ)のありけるを。これをも館(やかた)にめし
よせて。藤波(ふぢなみ)がそばづかひにさせぬ。藤波(ふぢなみ)も桂之助(かつらのすけ)が美男(びなん)なるにめてゝ
誠心(せいしん)を尽(つく)し。鴛鴦(ゑんおう)の契(ちぎり)浅(あさ)からざりしかば。桂之助(かつらのすけ)おのづから御所(ごしよ)の勤仕(きんし)おろ
そかになりぬ。されども佞臣(ねいしん)等(ら)はこれを幸(さいわひ)とし。昼夜(ちうや)かたわらをはな
れず。遊相人(あそびあいて)となりて。酒宴(しゆえん)婬楽(いんらく)にのみあかしくらせば。旨酒(ししゆ)珍膳(ちんぜん)席上(せきしやう)
にみち。郢曲(ゑいきよく)謳歌(あうか)室中(しつちう)にかまびすく。恰(あたか)も妓家(ぎか)娼門(しやうもん)の所行(しよぎやう)に似(に)て。
うたてかりける形勢(ありさま)なり。山(さん)三郎 逗留(とうりう)の間(あいだ)。此(この)為体(ていたらく)を見聞(けんもん)して。只(たゞ)
独(ひとり)胸(むね)をいため安(やす)き心(こゝろ)はせざりけり。しかるに伴(ばん)左衛門いつのほどよりか。
藤波(ふぢなみ)に恋慕(れんぼ)し。千束(ちづか)の艶書(ゑんじよ)をおくるといへども。藤波(ふぢなみ)は手(て)にもふれず。
尽(こと〴〵)くこれをもどして。一言(ひとこと)の返荅(いらへ)だにせず。伴(ばん)左衛門 一向(ひたすら)思ひとゞま
らず。折(をり)をうかゞひひまを見て。おどしつすかしつかきぐとく。藤波(ふぢなみ)はじ
めは彼(かれ)が恨(うらみ)憤(いきどほ)らん事をおそれて。心(こゝろ)一ツにをさめおきけるが。今はやむこと
を得(え)ず。桂之助(かつらのすけ)に艶書(えんじよ)を見せて。彼(かれ)かふるまひをつぶさに告(つげ)ぬ。桂之助(かつらのすけ)は
短気(たんき)の生(うま)れなるうへに。心(こころ)狂(くるは)しくなりたる時(とき)なれば。これを聞(きく)とひとしく
奮然(ふんぜん)として怒気(どき)天(てん)にさかのぼり。急(いそ)ぎ伴左衛門をめし出(いだ)し。かの艶書(ゑんじよ)
をくりひろげていひけるは。汝(なんじ)藤波(ふぢなみ)に不義(ふぎ)をいひかけ。数通(すつう)の艶書(ゑんじよ)を
おくる条(しやう)。罪科(ざいくわ)甚(はなはだ)重(おも)し。後日(ごにち)の見せしめに。我(われ)みづから手(て)をくだす
なりといひもあへず。白鞘巻(しらさやまき)を抜(ぬき)はなしければ。次(つぎ)の間(ま)にひかへたる
山(さん)三郎いそがはしく走出(はしりいで)。袖(そで)にすがりて押(おし)とゞめ。詞(ことば)を尽(つく)してなだめける
にぞ。やう〳〵刀(かたな)をおさめ。しかるうへは汝(なんぢ)にめでゝ一命(いちめい)をたすけ。長(なが)く勘当(かんだう)す
なりとて。かたはらに命(めい)じて。伴(ばん)左衛門が大小をもぎとらせ。庭上(ていしやう)に引(ひき)おろさ
しめければ。伴(ばん)左衛門は一言(いちごん)の分説(いひわけ)なく。只(たゞ)打(うち)しほれてぞ伏(ふし)居(ゐ)たる。桂之助(かつらのすけ)
山(さん)三郎を顧(かへり)み。汝(なんぢ)上草履(うはぞうり)を以(もつ)て。伴(ばん)左衛門が面(おもて)を打(うち)。辱(はづかし)めを与(あた)へよと
命(めい)ず。山(さん)三郎 頭(かしら)をさげ。御憤(おんいきどほり)はうべなれども。さすがに彼(かれ)は。執権職(しつけんしよく)を
仕(つかまつ)る道犬(だうけん)が児子(せがれ)にて候へば。この侭(まゝ)御いとまつかはされくだされかしと願(ねがふ)を。
聞入(きゝいれ)ず。いな〳〵彼がごとき人畜(にんちく)は面(おもて)に糞汁(ふんじふ)をそゝぐとも飽(あき)たらず。とく〳〵
打(うて)よ。たゞし我(わが)命(めい)を背(そむく)かと。いきまきつゝいふ。山(さん)三郎おそれいりおふせを背(そむく)
には候はねども。傍輩(はうばい)の因身(よしみ)武士(ぶし)の情(なさけ)に候へば。辱(はづかしむ)るにしのびず。押(おし)て願(ねがひ)
奉(たてまつ)るといはせもはてずいな〳〵何の宥免(ゆうめん)あらん。汝(なんぢ)若(もし)打(うた)ずんばともに
【挿絵】
佐々木(さゝき)桂之助(かつらのすけ)
怒(いかり)て家士(かし)名古屋(なごや)
山(さん)三郎に命(めい)じ上(うは)
草履(ぞうり)をもつて
不破(ふは)伴(ばん)左エ門が
面(おもて)を
打(うた)しむ
おりう
桂之助
なごや山三
不破伴左エ門
勘当(かんだう)なり。打(うつ)べきや打(うつ)まじきや。返答(へんたう)せよと。せきにせきて詞詰(ことばづめ)し
ければ。山(さん)三郎しかるうへは是非(せひ)に及(および)候はず。いかでか違背(いはい)仕るべきとて。
袴(はかま)のくゝり引(ひき)あげ。上草履(うはぞうり)をとりて庭(には)にをり立(たち)。庭下駄(にわげた)をならして。
飛石(とびいし)をつたひ。伴(ばん)左衛門が傍(そば)にちかづき。厳命(げんめい)なればせんすべなし。かならず
恨(うらみ)玉ふなと。耳(みゝ)ちかくいひきけて。草履(ぞうり)をあげ。面(おもて)をかけて一打(ひとうち)うち。
退(しりぞか)んとするを。桂之助(かつらのすけ)椽先(ゑんさき)に出(いで)て一見(いつけん)し。あな手弱(てよわき)ぞ山(さん)三郎。数(かづ)なく
打(うち)て辱(はづかし)めよとあふせければ。やむことを得(え)ず立(たち)もどり。又しと〳〵と連打(つゞけうち)
に打(うち)けるにぞ。伴(ばん)左衛門が鬠(もとゆひ)弗(ふつ)ときれ。鬢髪(びんはつ)乱(みだ)れて見るにしのびぬ
形勢(ありさま)なり。桂之助(かつらのすけ)呵々(から〳〵)と打笑(うちわらひ)。みな〳〵彼(かれ)を見よ。こゝちよき見物(みもの)にあら
ずや。はや引出(ひきいだ)して後門(うらもん)より追払(おひはら)へと命(めい)ず。やがて奴僕等(しもべら)割竹(わりだけ)を
とりて庭(には)づたひに出来(いできた)り。いざ〳〵とて追立(おひたて)ければ。伴(はん)左衛門しぶ〳〵
立(たち)あがりて。しづかに衣服(いふく)の塵(ちり)を打払(うちはら)ひ。山(さん)三郎を尻目(しりめ)ににらみていて
ゆきぬ。これぞ遺恨(いこん)の起(おこ)りとは後(のち)にぞ思ひ知(し)られける。かくて後(のち)山(さん)三郎。
しば〳〵諌言(かんげん)をもちひけれども。桂之助(かつらのすけ)露(つゆ)ばかりも聞入(きゝいれ)ず。佞臣等(ねいしんら)は
山(さん)三郎をとほざけんと計(はかり)。一向(ひたすら)あしくとりなすにより。桂之助(かつらのすけ)山(さん)三郎を
召出(めしいだ)し。百蟹(ひやくがい)の巻物(まきもの)御覧(ごらん)すみなば。此方(このはう)より別人(べつじん)を以(もつ)てもとすべし。
汝(なんぢ)が役目(やくめ)すみたるうへは。いたづらに在京(ざいきやう)せんも親人(おやびと)のおぼす所(ところ)いかゞなり。
とく〳〵帰国(きこく)いたすべしとあれば山(さん)三郎 心(こゝろ)ならずといへども君命(くんめい)もだしがたく。
俄(にはか)に行装(たびよそほひ)をとゝのへて国元(くにもと)へまかりくだりぬ。しかりしより後(のち)は。誰(たれ)憚(はゞか)る者(もの)
もなく。室町(むろまち)の御所(ごしよ)へは重病(ちやうびやう)と披露(ひろう)して出仕(しゆつし)をやめ。日夜(にちや)の酒宴(しゆえん)
糸竹(いとたけ)の調(しらべ)に。春(はる)の日(ひ)も暮(くれ)なんことを花(はな)におしみ。秋(あき)の夜(よ)も短(みぢか)しと
月(つき)にかこち。更(さら)に本性(ほんしやう)はなかりけり
二 風前(ふうぜん)の灯火(ともしび)
爰(こゝ)に又。此(この)旅館(りよくわん)をあづかる家士(いへのこ)に。佐々良(さゝら)三八郎といふ。忠臣(ちうしん)無二(むに)の者(もの)
ありけり。兼(かね)て妻子(さいし)をおびて当(たう)館(やかたの)中(うち)に住(すみ)けるが。山(さん)三郎 帰国(きこく)の後(のち)
は。桂之助(かつらのすけ)の身持(みもち)益(ます〳〵)あしく成行(なりゆき)けるを深(ふか)く悲(かなし)み。主君(しゆくん)の前(まへ)に出(いて)て
諌(いさめ)けるは。虚病(きよびやう)をかまへ玉ふのみならず。旅館(りよくわん)に妾(そばめ)をめしつかひ玉ふ放佚(はういつ)
無慙(むざん)の御行跡(おんふるまひ)若(もし)室町(むろまち)御所(ごしよ)にきこえなば。ゆゝしき大事(だいじ)。御家(おんいへ)にも
かゝはることにはんべり。こひねがはくは藤波(ふちなみ)にいとまをつかはされ。御身持(おんみもち)を
あらためくださるべしと。何(なに)の憚(はゞか)る所もなく。おもふむねをのべて。しば〳〵
諌言(かんげん)せしかども。桂之助(かつらのすけ)耳(みゝ)にも聞入(ききいれ)ず。日をおひて悪行(あくこう)つのりければ。
三八郎 熟(つら〳〵)おもひけるは。かくばかり詞(ことば)を尽(つく)し理(り)を糺(たゞ)して諌(いさめ)まうすに。御聞(おんきゝ)
入(いれ)なきうへはせんすべなし。これ畢竟(ひつきやう)藤波(ふぢなみ)が色香(いろか)に迷(まよ)ひ玉ふゆゑなれば。
【裏表紙】
《割書:不破伴左衛門|名古屋山三》昔語稲妻表紙 二
彼(かれ)あらん限(かぎ)りはいかに諌(いさめ)申すとも悪行やむべからず。根(ね)をたちて葉(は)をから
すの道理(だうり)なれば。折(をり)をうかゞひ藤波(ふぢなみ)を殺(ころ)し。おのれ腹(はら)かきやぶりて死(しす)るに
しかじ。科(とが)なき女(をんな)を殺(ころす)は情(なさけ)なしといへども。御家(おんいへ)にはかへがたし。越(ゑつ)の范蠡(はんれい)
西施(せいし)を呉湖(ごこ)に放(はな)ちたる例(ためし)もあるものをと。つひに心(こゝろ)を決(けつ)し。よき折(をり)も
がなと思ひ居(ゐ)たるに。一夜(あるよ)時(とき)ならぬ夜嵐(よあらし)の烈(はげ)しきを幸(さいは)ひとし。身軽(みがる)に
打扮(いでたち)て奥庭(おくには)にしのび入(いり)。樹木(じゆもく)の茂(しげり)たる所(ところ)にかくれて。藤波(ふぢなみ)が部屋(へや)
に下(さが)るを待(まち)居(ゐ)たり。藤波(ふちなみ)はかくとは露(つゆ)しらず。子(ね)すぐる比(ころ)殿(との)の前(まへ)を
退(しりぞ)き。ほろ酔(ゑひ)の機嫌(きげん)にて。みづから手燭(てしよく)をてらし。濃紫(こむらさき)の小袖(こそで)のつま
とりあげて。長(なが)き廊架(らうか)を歩(あゆ)み来(く)る。三八郎かくと見るより氷(こほり)なす刀(かたな)を
抜(ぬき)そばめ。今(いま)を盛(さかり)に咲乱(さきみだ)れたる山吹(やまふき)躑躅(つゝじ)。早咲(はやざき)の燕子(かきつばた)花(はな)を踏(ふみ)ちらし
やり水(みづ)の流(なが)れそばたちたる。庭石(にはいし)を飛越(とひこへ)て。廊架(らうか)の手(て)すりの下(した)を
【挿絵】
佐々木(ささき)の家士(かし)
佐々良(さゝら)三八郎
忠義(ちうき)の為(ため)
白拍子(しらびやうし)
藤波(ふぢなみ)を
殺(ころ)す
さゝら三八郎
藤波
つたひ藤波(ふぢなみ)が跡(あと)をつけて。今(いま)や斬(きら)ん〳〵とつけねらふ。藤波(ふぢなみ)は何(なに)の心(こゝろ)もなく
歩(あゆ)みけるが。此(この)時(とき)一命(いちめい)の終(おは)るべき宿世(すくせ)の因果(いんぐわ)にやありけん。風雨(ふうう)ます〳〵
つよく爛熳(らんまん)たる庭木(にはき)の桜(さくら)を吹(ふき)ちらして。吹雪(ふゞき)のごとく散(ちり)かゝり。手(て)
燭(しよく)を颯(さつ)と吹(ふき)けして忽(たちまち)真(しん)の闇(やみ)となる。嗚呼(あゝ)彼(かれ)が命(いのち)の危(あやう)さもげに風(ふう)
前(ぜん)の灯火(ともしび)なり。藤波(ふぢなみ)進退(しんたい)を失(うしな)ひて心(こゝろ)たゆたひける所(ところ)に暗(くらき)裏(うち)に剣(つるぎ)の
光(ひか)り電光(でんくわう)石火(せきくわ)と閃(ひらめ)きければ驚(おどろ)きて逃(にげ)ゆかんとするを。三八郎をどり
かゝりて斬(きり)つけたるが。暗中(くらがり)なれば目当(めあて)ちがひて空(くう)を斬(きる)。これはと又 斬(きる)
剣(つるぎ)の下(した)をくゞりぬけて。猶(なほ)逃去(にけゆか)んとしけれども。余(あま)りに驚(おどろ)き。身(み)うち
わなゝき足(あし)なへぎて走(はし)ることあたはず。夢路(ゆめぢ)に迷(まよ)ふごとくなり。三八郎は
息(いき)をこらし。あたりを探(さぐ)りて立(たち)まはり。めつた斬(きり)にきりけるにぞ。藤波(ふぢなみ)
振袖(ふりそで)の袂(たもと)を斬落(きりおと)され。危(あやう)く身(み)は避(のがれ)たれども。目前(めさき)に剣(つるぎ)のひらめく
たび〴〵胸(むね)冷(ひえ)。魂(たましい)きへて。黒暗地獄(こくあんぢごく)の罪人(ざいにん)が。剣樹(けんじゆ)にのぼることならず。三八郎は
ひまとりて。仕損(しそん)ぜまじと心(こゝろ)せかれ。衣(きぬ)にとめたる蘭麝(らんじや)の。薫(かほ)る方(かた)を心当(こゝろあて)
に。うかゞひすまして斬(きり)つけたれば。手(て)ごたへして呀(あ)とさけぶ。仕(し)すまし
たりとたゝみかけてきるにぞ。あはれむべし藤波(ふぢなみ)。たまきはる声(こゑ)とゝもに。
のけさまになりて。背後(うしろ)なる杉戸(すきど)はづれ。おしになりて噇(どう)と倒(たふ)る。時(とき)に
奥深(おくふか)くたてたる。灯火(ともしび)の光(ひか)りもれ来(く)るに乗(じやう)じて。その形勢(ありさま)を見るに。
無慙(むざん)やな左袈裟(ひだりげさ)に斬(きり)さげられ。鮮血(なまち)泉(いづみ)のごとく湧(わき)流(ながれ)て。身(み)うち
朱(あけ)に染(そま)り。手足(てあし)をもがき。歯(は)をかみならして苦(くるし)む体(てい)。見る目(め)もあて
かねたり。三八郎せめて苦痛(くつう)をさせじと思ひつゝ。乗(のり)かゝりて吭(のんどふえ)にとゞめの
刀(かたな)をさしとほす。嗚呼(あゝ)悲哉(かなしいかな)。嗚呼(あゝ)痛哉(いたわしいかな)。十七 歳(さい)を一期(いちご)として。黄泉(よみぢ)の
鬼(ひと)となりにけり。かくて三八郎 袖(そで)引(ひき)ちぎりて血刀(ちがたな)にまき。肌(はだ)おしくつ
【挿絵】
藤波
さゝら三八郎
おりう
其二
ろげ。已(すで)に腹(はら)につきたてんとせしが。俄(にはか)におもひなほしけるは。いな〳〵今(いま)
死(し)すべき命(いのち)にあらず。人の見とがめぬこそ幸(さいはひ)なれ。不破(ふは)道犬(だうけん)が為体(ていたらく)
お家(いへ)を乱(みだ)すべききざしあり。これよりすぐに出奔(しゆつほん)し。権(しばし)命(いのち)をながらへて。
よそながら主君(しゆくん)の目代(めじろ)となり。彼(かれ)が悪意(あくい)を見あらはし。其後(そのゝち)此(この)藤波(ふぢなみ)が
所縁(ゆかり)の者(もの)の。恨(うらみ)の刃(やいば)にかゝりて死(しな)んこそ武士(ぶし)の道(みち)なるべしと。心(こゝろ)をさだめ
て死骸(しがい)にむかひ。忠義(ちうぎ)の為(ため)とはいひながら。科(とが)なきおことを無代(むたい)に殺(ころ)
せし。不便(ふびん)さよ。やがて此(この)身(み)も刃(やいば)にかゝり。冥途(めいど)において分説(いひわけ)せんと掌(て)を
合(あは)せ。南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)〳〵と。口(くち)の裏(うち)に回向(ゑかう)して。退(しりぞ)き出(いで)んとしたる折(をり)しも。
藤波(ふぢなみ)が妹(いもと)の於竜(おりう)。姉(あね)の下(さが)りのいつより遅(をそ)きを案(あん)じ。むかひの為(ため)手燭(てしよく)を
ともして何(なに)の心(こゝろ)もなく此(この)所(ところ)まで来(き)かゝり。三八郎と顔(かほ)見合(みあは)せ。此(この)血(ち)しほ
はとおどろきて。声(こへ)たてければ。三八郎 手(て)ばやく刀(かたな)の□(みね)打(うち)に。手燭(てしよく)をはつ
しと打落(うちおと)し。吻(ほ)とため息(いき)つきもあへず。又 庭(には)つたひに逃出(にげいで)けるが。深夜(しんや)と
いひ夜嵐(よあらし)ます〳〵烈(はげ)しければ。誰一人(たれひとり)これを知(しる)者(もの)なかりけり。かくて三八郎
我家(わがや)にかへり。妻(つま)礒菜(いそな)にしか〴〵の事(こと)を語(かた)り。いそがはしく。身支度(みじたく)して。
たくはへの金子(きんす)を懐(ふところ)にし。おのれは今年(ことし)十二才になる楓(かへで)といふ娘(むすめ)をせおひ。
妻(つま)には七才になる栗(くり)太郎といふ男子(なんし)をおはせ。夫婦(ふうふ)しのびやかに
後門(うらもん)より逃出(のがれいで)けるが。四方(しはう)暗々(あん〳〵)として東西(とうざい)を弁(へん)ぜず。雨(あめ)はやゝつよく降(ふり)
て篠(しの)をつかぬるがごとくなれども。雨衣(あまぎぬ)をだに身(み)につけねば。濡衣(ぬれぎぬ)足(あし)に
まとひつきて歩(あゆ)みがたく。素足(すあし)なれば道(みち)ぬめりて心(こゝろ)のみ前(さき)に走(はし)り
身(み)はあとへ引(ひか)るゝこゝちし。おぼへず背後(うしろ)を顧(かへりみ)れば。怪哉(あやしいかな)心火(しんくわ)ぱつと燃(もへ)
上(あか)り藤波(ふぢなみ)が姿(すかた)かげろひのごとくあらはれて。行(ゆく)をやらじと引(ひき)とゞむ。
三八郎 此(この)時(とき)身(み)うちぞつと冷(ひへ)とほりけるが。刀(かたな)を抜(ぬい)て斬払(きりはら)ひ妻(つま)の
手(て)をとりゆくむかふへ。又ぱつと炎(ほのほ)燃(もへ)て。藤波(ふぢなみ)が姿(すがた)すくと立(たち)。なほもやら
じとさゝへたり。妻(つま)子(こ)の目(め)には見へねども。三八郎が目前(めさき)にはまぼろしの
ごとくつきまとはり。此(こゝ)にあらはれ彼処(かしこ)に立(たち)て。斬(きれ)ど払(はら)へど立さらず。勇気(ゆうき)
烈(はげ)しき三八郎も。身(み)うちしびれ足(あし)なへぎて走(はし)ることあたはず。妻(つま)の
礒莱(いそな)ももろともに。たぢ〳〵と引(ひき)もどされ。髪(かみ)も乱(みだ)れもすそも破(やぶ)れ。
身体(しんたい)すくみて倒(たふ)れしが。やう〳〵心(こゝろ)を励(はげま)して。百歩(ひやつぽ)ばかりも逃去(にげゆく)時(とき)。
烈風(れつふう)颯(さつ)とおろし来(き)て。大粒(おほつぶ)の雨(あめ)つぶてを打(うつ)がごとく降(ふり)かゝり。一団(いちだん)の心火(しんくわ)
あとを追(おひ)て飛来(とびきた)り。見る〳〵空中(くうちう)にて二つにわかれ。一つは娘(むすめ)楓(かへて)が懐(ふところ)に入(いり)。一つ
は栗(くり)太郎が懐(ふところ)にいりぬ。是(これ)乃(すなはち)藤波(ふぢなみ)が死霊(しりやう)。兄弟(きやうだい)の児等(こどもら)につき恨(うらみ)を報(むくゆ)る
一端(いつたん)なり。かくて夫婦(ふうふ)こけつまろびつ。たゞ走(はし)りに走(はし)り。辛(からう)じて遥(はるか)に逃(にげ)
のび先(まづ)身体(しんたい)恙(つゝが)なきを喜(よろご)びけり。此(この)時(とき)にいたりてやう〳〵風雨(ふうう)おさまり
雲(くも)はれて朧月(おぼろづき)さし出(いで)。草(くさ)の緑(みどり)に影(かげ)うつるを便(たより)に北山(きたやま)を過(すぎ)杉坂(すぎさか)を上(のぼ)り
あまりに息(いき)たゆければ。茂林(もりん)のうちにいり。夫婦(ふうふ)背上(せなか)より両人(ふたり)の子(こ)を
おろして岩(いはほ)の上(うへ)に尻(しり)かけ濡衣(ぬれぎぬ)をしぼり。清水(しみつ)に咽(のんと)をうるほしなとして
権(しばし)やすらひ居(ゐ)たる折(をり)しも。坂(さか)のうへより若(わかく)うつくしき女(をんな)ちらし髪(かみ)素足(すあし)
にて。ぬかり道(みち)をびしよ〳〵と歩(あゆ)み来(き)ぬ。よく〳〵見れば何(なに)にかあらん煙(けふり)の
やうにて。壁人(かげぼうし)のことく。人(ひと)の形(かたち)したるもの。女の前(さき)に立(たち)。糸(いと)のやうなる手(て)を
あけてさしまねく。まねけば女 足(あし)をはやめて歩(あゆ)む。まねかざれば女 立(たち)
とゞまり。頭(かうべ)を傾(かたふけ)て物(もの)をおもふさまなり。女 立(たち)とゞまればかの怪物(あやしきもの)。又 手(て)を
あげてさしまねくかくしつゝも女。旧(ふる)榎(ゑのき)の下(もと)にいたり権(しばし)たゝずみてさめ〴〵
と泣(なき)居(ゐ)たるが。かの怪物(あやしきもの)梢(こずゑ)をゆびさせば。女あふぎ見(み)てうなづき。なほさめ〴〵
と泣(なく)涙(なみだ)梢(こすゑ)の雫(しつく)とおちかゝる。怪物(あやしきもの)又 榎(ゑのき)の枝(えだ)をゆびさし。物(もの)打(うち)かくる仕方(しかた)を
【挿絵】
佐々良(さゝら)三八郎
藤波(ふぢなみ)を殺(ころ)し
妻子(さいし)を具(ぐ)して
逃(のがれ)ゆく途中(とちう)
にて首(くび)縊(くゝる)
女(をんな)を救(すく)ふ
むすめかへで
妻いそな
さゝら三八郎
すれば。女うなづき前後(あとさき)を顧(かへりみ)つゝ。やがて腰帯(こしおび)を解(とき)。木(き)の枝(えだ)に打(うち)かけたり
三八郎 妻(つま)とゝもに。木蔭(こかげ)の暗所(くらきところ)にあり。此(この)為体(ていたらく)を見て暗(ひそか)に思ひけるは。
彼(かの)怪物(あやしきもの)は世(よ)にいふ死神(しにがみ)なるべし。首縊榎(くびくゝりゑのき)などいふものありて。前(さき)に縊(くびれ)死(し)し
たる者(もの)の亡魂(ばうこん)。樹下(じゅか)にとゞまりて。死神(しにがみ)となり。人をいざなひて縊(くびれ)しむと。世(よ)
の語柄(かたりぐさ)には聞(きゝ)つれども。眼前(まのあたり)見るはこれがはじめなり。我(われ)忠義(ちうぎ)の為(ため)とは
いひながら。罪(つみ)なき藤波(ふぢなみ)を殺(ころ)せし事(こと)。みづから悲(かなし)み愁(うれふ)る事(こと)深(ふか)し。せめて此(この)
女(をんな)をたすけて藤波(ふぢなみ)が冥福(めいふく)をもとむる種(たね)ともなし。怨魂(えんこん)をなだむる便(たより)とも
なしてんとおもふうち。彼(かの)女(をんな)西(にし)にむかひて掌(て)を合(あは)せ念仏(ねんぶつ)数遍(すへん)となへ
ほど〳〵縊(くびれ)死(しな)んとするを。やれまてしばしと声(こへ)かけて走(はしり)り出(いで)。背後(うしろ)より抱(いだ)
きとゞむ。女はおもひかけざる事(こと)なれば打驚(うちおどろき)。ゆゑありて死(しな)ねばならぬ者(もの)
なれば。はなして死(しな)せてよ折角(せつかく)思ひきりつるものを。二度(にど)のおもひさする人
よとつぶやきて又 縊(くびれ)んとするをしかととゞめ。一命(いちめい)を失(うしなは)んと思ふほどなれば。
定(さだめ)て迫(せまり)たる事(こと)ならんが。まづ其(その)縁故(いはれ)を語り候へ。若(もし)我(わが)力(ちから)に及ぶ事(こと)ならば。
力(ちから)を尽(つく)して救(すくひ)たく思ふなりといふ。女(をんな)情(なさけ)深(ふか)き詞(ことば)を聞(きゝ)。何方(いづく)の御方(おんかた)かは
知(し)らざれども誠(まこと)に慈悲(じひ)深(ふか)きおふせなり。さりながら其(その)故(ゆへ)を語(かた)るとも。とても
生(いき)ながらへがたき身(み)なれば。此侭(このまま)に見捨(みすて)て御通(おんとほり)くだされかしといふ。三八郎
かさねていひけるは。見ず知(しら)ずの者(もの)なれば。卒爾(そつじ)に語(かたり)玉はぬはうべなれど。世(よ)の
常言(ことはざ)に膝(ひざ)とも談合(だんかう)せよといふ事(こと)あり。何(なに)にもあれつゝまず語(かた)り候へかしと
誠心(せいしん)面(おもて)にあらはれければ。女 権(しばし)思案(しあん)し左(さ)ばかり深(ふか)き御心(おんこゝろ)を無下(むげ)にせん
もいかゞなれば。一 通(とほり)語(かた)りはべらん。妾(わらは)は此辺(このへん)に住(すむ)武士(ぶし)の浪人(らうにん)の妻(つま)なるが。家(いへ)
貧(まづし)きによりさきだつて先祖(せんぞ)伝来(でんらい)の物(もの)を。金(きん)二十両に質入(しちいれ)したるを。夫(をつと)の
妹(いもと)なるもの聞(きゝ)およびてこれを愁(うれ)ひ。二十両の金子を合力(かうりよく)しくれつる
ゆへ今宵(こよひ)妾(わらは)に彼(かの)質物(しちもつ)を受(うけ)もどしまゐれと。夫(をつと)いひつけ侍(はべ)るにより。金子
を懐(ふところ)にして出(いで)たるが。途中(とちう)にて盗人(ぬすびと)に出(いで)あひ残(のこ)らず奪(うば)ひとられ侍(はべ)り。合力(かうりよく)
したる妹(いもと)の手前(てまへ)といひ。夫(をつと)に対(たい)して分説(いひわけ)なく。面(おもて)を合(あは)せがたければ縊(くびれ)死(しな)ん
と覚悟(かくご)をきはめ候なりと。愁(うれひ)の色(いろ)を面(おもて)にあらはして語(かた)りければ。三八郎
始終(しじう)を聞(きゝ)。それなれば死(しぬ)るにおよばず。幸(さひは)ひ某(それがし)少々(しやう〳〵)の路銀(ろきん)を携(たづさ)へたれば。
其(その)金(かね)の数(かづ)ほど合力(かうりよく)いたすべしこれにて質物(しちもつ)を受(うけ)もどし候へとて。金子
二十両 出(いだ)して与(あた)へけるが。女これをうけず誠(まこと)に御慈悲(おんじひ)の深(ふか)きは骨身(ほねみ)にとほ
りておぼゆれども。所縁(ゆかり)もなき御方(おんかた)より。金子をまうしうけしと夫(をつと)に語(かたら)
ば。かへりて快(こゝろよく)存(ぞん)じ候まじさりとて語(かた)らざれば夫(をつと)を欺(あざむく)に似(に)て。女の道(みち)□□ち
はべらず。いづれの道(みち)にも死(しな)ねばならぬ身(み)の因果(いんぐわ)今宵(こよひ)に迫(せま)り候といひて。
おつる涙(なみだ)滝(たき)のごとし。三八郎 其(その)詞(ことば)を感(かん)じて。もつともと点頭(うなづき)。懐中(くわいちう)の金子
を財布(さいふ)ながら取出(とりいだ)し。かの金をひとつに入(いれ)て地上(ちしやう)におとし。某(それがし)誤(あやまり)て此(この)金(かね)を
こゝにとりおとしつるを。おん身(み)はからず拾(ひろひ)たり。凡(をよそ)道(みち)におちたるを拾(ひろ)ひ。其(その)
主(ぬし)の出(いで)たるとき其(その)物(もの)をわかち与(あた)ふるはなき例(ためし)にあらねば。おん身(み)二十両の
金子をうくるとも恥(はぢ)ならず。某(それがし)又 与(あた)ふるとも恩(おん)ならずと。理(り)を尽(つく)して与(あた)へ
けるにぞ。女 感涙(かんるい)とゞまらず。おん身(み)のごとき大慈悲(だいじひ)の人は。世(よ)に又とある
べからず。よも凡人(ぼんじん)にては候まじ。観音菩薩(くわんおんぼさつ)権(かり)に身(み)を現(げん)じて。妾(わらは)を救(すくひ)玉ふ
ならめといひ。掌(て)を合(あはせ)て再三(さいさん)拝(をが)み。しかるうへは権(しばし)此(この)金(かね)を借用(しやくよう)いたし。後日(ごにち)
此(この)身(み)を售(うり)てなりとも。返(かへ)しまゐらせん。そも御身(おんみ)はいづくの御方(おんかた)にて。
御姓名(ごせいめい)は何(なに)とまうし候ぞ。妾(わらは)が夫(をつと)の姓名はと。いはんとせしを三八郎。
いそがはしくとゞめ。いな〳〵其(その)姓名(せいめい)あかし玉ふな。某(それがし)が姓名(せいめい)もいふまじ。素(もとより)返(へん)
済(さい)をうくるこゝろにあらず。おん身(み)の夫(をつと)の名(な)を聞(きゝ)我(わが)名(な)を語(かた)ればおのづ
から。恩(おん)を著(き)。恩(おん)に著(き)するの理(ことはり)にて某(それがし)が意(い)にあらず。深夜(しんや)といひ旅人(りよじん)の身(み)
殊(こと)に足弱(あしよわ)を伴(ともなひ)道(みち)をいそげば。ひまどりがたし。御縁(こえん)もあらばかさねて相(あひ)
見(まみ)ゆべしといひすてゝ。もとの木蔭(こかげ)に走(はし)り入(いれ)ば。女は涙(なみだ)を流(なが)しつゝ。金を
押(おし)いたゞきてとりをさめ。しばらく跡(あと)を伏拝(ふしをがみ)もと来(き)し道(みち)へ急(いそ)ぎ去(ゆき)ぬ
三 胸中(きやうちう)の機関(きくわん)
さても右近(うこん)の馬場(ばゞ)の館(やかた)におきては。其夜(そのよ)藤波(ふぢなみ)が妹(いもと)於竜(おりう)。姉(あね)の死骸(しがい)を
見(み)つけて大に驚(おどろ)き。声(こへ)たてゝよばゝりければ。侍宿(とのい)の武士等(ぶしら)馳(はせ)集(あつま)り。
大に騒動(そうだう)し。いそがはしく主君(しゆくん)の前(まへ)に出(いで)て。しか〴〵と告(つげ)きこへければ。
桂之助(かつらのすけ)あはてまどひて那裏(かしこ)に到(いた)り。藤波(ふぢなみ)が死骸(しがい)を点検(てんけん)して。且(かつ)驚(おどろ)
き且(かつ)悲(かなし)み。何者(なにもの)の所為(しよゐ)なるやと疑(うた)ひ。先(まつ)於竜(おりう)をめして事(こと)の様(やう)を問(とひ)けるに
佐々良(さゝら)三八郎が殺(ころ)したるよしを告(こく)る折(をり)しも。笹野(さゝの)蟹蔵(かにそう)いそかはしく
馳来(はせきた)り。百蟹(ひやくがい)の巻物(まきもの)紛失(ふんじつ)いたし候と申す。桂之助(かつらのすけ)益(ます〳〵)驚(おどろ)き。館中(くわんちう)をこまや
かに穿鑿(せんさく)あるに。三八郎 家財(かざい)は捨(すて)おき。妻子(さいし)を携(たづさへ)て逃去(にげさり)。長谷部(はせべの)雲六(うんろく)
も出奔(しゆつほん)の体(てい)なりと申しけれ。ばさては彼等(かれら)両人いひ合(あは)せて。百蟹(ひやくがい)の巻(まき)
物(もの)を盗取(ぬすみとり)たるを。藤波(ふぢなみ)に見とがめられ。せんかたなく害(かい)し去(さり)たるにうたがひ
なし。足弱(あしよわ)をともなひたればよも遠(とほ)くは走(はし)るまじ。追人(おひて)をつかはしはやく
捕(とら)へしむべしと命じけるにぞ。四方(しはう)に手分(てわけ)して追行(おひゆき)けり。かくて翌(よく)
朝(ちやう)にいたり。追人等(おひてのもの)立(たち)かへり。いづくへ逃去(にげさり)候やらん。影(かげ)だに見へずと告(つげ)けれ
ば。桂之助(かつらのすけ)只(たゞ)あきれたるばかりなり。これさへ不盧(ふりよ)の騒動(そうどう)なるに。取次(とりつぎ)の
侍士(さふらひ)まかりいで。御国元(おんくにもと)より。執権(しつけん)不破(ふは)道犬(だうけん)自身(じしん)にのぼられ。只今(たゞいま)著(ちやく)
駕(が)いたされ候と告(つぐ)る。桂之助(かつらのすけ)眉(まゆ)をしはめ先(さき)だつて何(なに)の沙汰(さた)もなきに。
道犬(だうけん)みづから上京(じやうきやう)せしは。いとも心得(こゝろえ)ざる事(こと)なり。何事(なにごと)やらんと心安(こゝろやす)からず。
待(まち)居(ゐ)たるに程(ほど)なく不破(ふは)道犬(だうけん)旅装束(たびしやうぞく)の侭(まゝ)にてうち通(とほ)る。そのさまいかに
となれば。惣髪(そうはつ)の頭(かしら)に素雪(そせつ)をいだゝき。しはみたる額(ひたひ)に老(おひ)の波(なみ)をたゝへ。高(かう)
年(ねん)といへども身躯(しんく)すくよかにして。奸佞(かんねい)の面(おもて)野狐(やこ)のごとく。貪欲(とんよく)の眼(まなこ)
皂雕(くまたか)に類(るい)し。相貌(さうばう)きはめて。兇悪(きようあく)なり。笹野(さゝの)蟹蔵(がいぞう)。藻屑(もくづの)三平(さんへい)。土子(つちこ)泥助(でいすけ)。
大上(いぬがみ)雁八(がんはち)等(ら)。四人の者(もの)も。跡(あと)につきてまかり出(いで)ぬ。桂之助(かつらのすけ)道犬(だうけん)に対面(たいめん)し。
先(まづ)別事(べつじ)をいはず。俄(にはか)の上京(じやうきやう)何事(なにごと)やらん気(き)づかはしとおふせければ。道犬(だうけん)気(き)
の毒顔(どくがほ)にいひけるは。火急(くわきう)の上京(じやうきやう)別義(べつぎ)に候はず。ちかごろ君(きみ)御身持(おんみもち)あし
く。旅館(りよくわん)におはしながら白拍子(しらびやうし)を召抱(めしかゝへ)て妾(そばめ)となし玉ひ。しかのみならず
虚病(きよびやう)をかまへ。佚遊(いつゆう)宴楽(えんらく)に日(ひ)を費(ついや)し。御所(ごしよ)の勤仕(きんし)をおこたり玉ふよし。
官領職(くわんれいしよく)。浜名(はまな)入道(にうだう)殿(どの)の御聞(おんきゝ)に達(たつ)し。擯斥(ひんせき)すべきよし御内意(ごないい)あり。
若(もし)しかせずんば。御家(おんいへ)にもかゝはり其(その)罪(つみ)大殿(おほとの)の御身(おんみ)にもおひ玉ふべき
よしなれば。せんすべなく。御勘当(ごかんだう)との御事(おんこと)なり大殿(おほとの)御自筆(こじひつ)の罪(ざい)
状(じやう)御覧(こらん)あるべしといひて懐中(くわいちう)より一通(いつゝう)の状(じやう)をとり出(いだ)してさしおけば。桂之助(かつらのすけ)
とりあげて読(よみ)もおはらず。胸(むね)ひしとつぶれて大に後悔(こうくわい)し。只(ただ)さしうつふきて
言(ことば)なし。道犬(だうけん)かさねていひけるは。笹野(さゝの)蟹蔵(がいぞう)。藻屑(もくづの)三平(さんへい)。土子(つちこ)泥助(でいすけ)。犬上(いぬがみ)
雁八(がんはち)等(ら)四人の者(もの)。君(きみ)の御傍(おんそば)にありなから。御諌(おんいさめ)もせずかへりて放埒(はうらつ)を
すゝめ申たる条(じやう)。其(その)罪(つみ)軽(かる)からず。切腹(せつふく)をもおふせつけらるべきはづなれども。
大殿(おほとの)の御慈悲(おんじひ)を以(もつ)て。後門(うらもん)より追払(おひはら)へとの厳命(げんめい)なりと云渡(いゝわた)しければ。
四人の者(もの)はなげ首(くび)してぞよわりける。道犬(だうけん)又いはく。只今(たゞいま)御次(おんつぎ)にてうけ
たまはれば。佐々良(さゝら)三八郎。長谷部(はせべの)。雲六(うんろく)といひ合(あは)せ昨夜(さくや)百蟹(ひやくがい)の巻物(まきもの)を
盗(ぬす)み。御妾(おんそばめ)藤波(ふぢなみ)とやらんを殺(ころ)し逃去(にげさり)たるよし。さある内乱(ないらん)の起(おこ)るも。
総(すべて)是(これ)君(きみ)の御行跡(おんふるまひ)よろしからざるがゆゑなり。かの巻物(まきもの)は御家(おんいへ)の
重宝(ちやうほう)といひ。いまだ室町御所(むろまちごしよ)の御覧(ごらん)も済(すま)ざるよし。若(もし)是等(これら)のこと
此うへおん聞(きゝ)に達(たつ)しなば。いかなる御咎(おんとがめ)あらんもはかりがたし。御痛(おんいた)
はしくは候へども。とく〳〵御立退(おんたちのき)候へかし。後日(ごにち)某(それかし)身(み)にかへても。御(ご)
帰参(きさん)あるやう取(とり)はからひ申すべし。只(たゞ)恙(つゝが)なくおはしまして時(とき)の
いたるを待(まち)玉へ。かの女の死骸(しがい)は縁者(えんじや)を召叫(めしよび)て引渡(ひきわた)し候べしと
いひて。先(まづ)おのれが家来(けらい)に命(めい)じて四人の者(もの)を追払(おひはらは)せければ。桂之助(かつらのすけ)
もせんかたなく。打(うち)しほれつゝ出去(いでゆき)ける。心(こゝろ)のうちおもひやられて
哀(あわれ)なり。かくて道犬(だうけん)藤波(ふぢなみ)が縁者(えんじや)をよび。死骸(しがい)ならびに妹(いもと)於竜(おりう)
を引渡(ひきわた)し。館(やかた)の財宝(ざいほう)雑具(ざうぐ)をとりおさめ。(けらい)おのれが家来(けらい)をとゞめて
守(まも)らせ。たゞちに帰国(きこく)をいそぎけり
○後(のち)〳〵此時(このとき)の子細(しさい)を聞(きく)に。是(これ)皆(みな)道犬(だうけん)が奸計(かんけい)より出(いで)たる事(こと)
なり。近曽(ちかごろ)由理之助(ゆりのすけ)勝基(かつもと)。浜名(はまな)入道(にうだう)両官領(りやうくわんれい)確執(くわくしつ)となり。入道(にうだう)
勝基(かつもと)を打亡(うちほろぼ)さん結構(けつかう)専(もつはら)なりけるが。兼(かね)て不破(ふは)道犬(だうけん)浜名(はまな)入道(にうだう)
に内通(ないつう)して媚諂(こびへつらひ)官領(くわんれい)の権威(けんい)をかりて。奸計(かんけい)を施(ほどこ)し。佐々木(さゝき)の
家(いへ)を奪(うば)ひ。浜名(はまな)の味方(みかた)につかんと約(やく)し。児子(せがれ)伴(ばん)左衛門 其(その)余(よ)
蟹蔵(がいぞう)等(ら)にいひふくめて。桂之助(かつらのすけ)に放埒(はうらつ)をすゝめ。密々(みつ〳〵)浜名(はまな)に
告(つげ)。内意(ないい)をいはせて勘当(かんだう)をうけしめ。わざと蟹蔵(がいそう)等(ら)四人の者(もの)
を追払(おひはらひ)て。一家中(いつかちう)の心(こゝろ)をゆるさせ。伴(ばん)左衛門とゝもに他所(たしよ)にかくまひ
おき。何(なに)不足(ふそく)なく扶助(ふぢよ)して。おのれが目代(めじろ)とし。内外(ないぐわい)より事(こと)を
計(はから)んたくみなり。只(たゞ)おのれ等(ら)が一ツ心(こゝろ)よりいでたるは。伴(ばん)左衛門 藤波(ふぢなみ)
に恋慕(れんぼ)したると。雲六(うんろく)が巻物(まきもの)を盗(ぬすみ)て逃去(にげさり)たると。此(この)二ツのみ
なりとぞ
【挿絵】
桂之助(かつらのすけ)放佚(はういつ)無慙(むざん)の
行跡(かうせき)あるにより
勘当(かんだう)すべきよし
官領職(くわんれいしよく)の内意(ないい)あり
執権(しつけん)不破(ふは)道犬(だうけん)
上京して其(その)事(こと)を
つたへ笹野(さゝの)蟹蔵(がいぞう)
等(ら)四人を
後門(こうもん)より
追払(おひはら)ふ
不破道犬
桂之助
土子泥助
さゝの蟹蔵
もくづ三平
犬上雁八
四 荒屋(あはらや)の奇計(きけい)
山城国(やましろのくに)葛野郡(かとのこほり)松尾(まつのを)の近(ちか)きに。梅津(うめづ)の里(さと)梅津川(うめづかは)といふあり。ともに古(こ)
歌(か)に詠(ゑい)じたる所(ところ)なり。そのかみ元享(げんかう)の頃(ころ)此(この)里(さと)に梅津(うめづ)豊前(ぶせんの)左衛門(さゑもん)
清景(きよかげ)といふ人ありけり。此(この)所(ところ)の領主(れうしゆ)にて。家(いへ)富(とみ)栄(さかへ)たる武士(ぶし)なりける
か。其頃(そのころ)月林(げつりん)大幢(たいどう)国師(こくし)。洛北(らくほく)岩蔵(いはくら)の庵室(あんしつ)におはすを深(ふか)く尊信(そんしん)し
法名(ほふみやう)を是球(ぜきう)と称(しやう)じ。領所(れうしよ)のうちを附与(ふよ)して禅刹(ぜんせつ)とす。今(いま)の大梅(たいばい)
山(ざん)長福寺(ちやうふくじ)といふは乃(すなはち)是(これ)なり。清景(きよかげ)の墓(はか)今(いま)に此(この)寺(てら)にあり。扨(さて)此(この)清景(きよかげ)の
子孫(しそん)に梅津(うめづの)嘉門(かもん)といふ者(もの)あり。累代(るいたい)此(この)里(さと)に住(すみ)けるが漸(しだい)々に零落(れいらく)し
今(いま)嘉門(かもん)が時(とき)にいたりて益(ます〳〵)困窮(こんきう)す。嘉門(かもん)年(とし)いまた初老(しよろう)にいたらず。
聡明(そうめい)聚(しゆうに)秀(ひいで)胆力(たんりき)人(ひと)に過(すぎ)。世(よ)に希有(けう)の英雄(ゑいゆう)なり。曽(かつ)て六韜(りくとう)三略(さんりやく)に眼(まなこ)
をさらして。軍略(ぐんりやく)の妙所(みやうしよ)をきはめ。弓馬(きうば)鎗刀(そうとう)のたぐひ。武芸(ぶげい)の奥儀(おはうぎ)
を暁(さと)し。天文(てんもん)地理(ちり)神機(しんき)妙算(みやうさん)進退(しんたい)懸引(かけひき)の道(みち)。其(その)理(り)を得(え)ざるといふ
ことなし。そのゆゑに英名(ゑいめい)かくれなく。高禄(かうろく)を与(あた)へてめし抱(かゝへ)んと。懇(こん)
望(ばう)の諸侯(しよこう)おほかりけるが。名利(みやうり)に屈(くつ)するをきらひて仕官(しくわん)をのぞまず。
常(つね)に松尾山(まつのをやま)にのぼり。採薬(さいやく)して薬店(やくてん)にひさき。細(ほそき)煙(けふり)をたて清貧(せいひん)をまも
りて。いさゝかも奢(おごり)の心(こゝろ)なく。一人の老母(ろうぼ)に孝行(かう〳〵)を尽(つく)し。姿(すがた)も斬髪(だんはつ)にや
つし。いとまには先祖(せんぞ)清景(きよかげ)大幢(たいどう)国師(こくし)より伝来(でんらい)の禅味(ぜんみ)をあまんじ。
世(よ)に諂(へつ)らはぬ暮(くら)し。実(じつ)に一世(いつせい)の賢士(けんし)とは知(し)られぬ。母(はゝ)も又 賢女(けんぢよ)にて。今(いま)の
世(よ)やうやく治平(ぢへい)といへとも。仕(つか)へさすべき明君(めいくん)なしと心(こゝろ)を決(けつ)し。嘉門(かもん)が名利(みやうり)に
屈(くつ)せざるを喜(よろこ)ひ。てづから布(ぬの)を織(おり)て日々(ひゞ)の費(ついへ)にかへ。いさゝかも貧苦(ひんく)を愁(うれひ)ず
暮(くら)しぬ。しかるに頃日(このごろ)彗星(けいせい)あらはるゝにより。諸人(しよにん)心安(こゝろやす)からず吉凶(きつきよう)を弁(べん)ずる
者(もの)なかりけるが。一夜(あるよ)嘉門(かもん)椽先(ゑんさき)に立出(たちいで)。かの星(ほし)をあふき見(み)。母(はゝ)をまねきて
いひけるは。抑(そも〳〵)我(わが)朝(ちやう)に彗星(けいせい)あらはれたる事(こと)。皇極(くわうきよく)天皇(てんわう)の御宇(ぎよう)。蘇我(そが)の入鹿(いるか)
叛乱(ほんらん)の時(とき)。始(はじめ)て此(この)星(ほし)あらはれしより。今(いま)にいたるまて一度(ひとたび)も祥端(しやうすい)なること
なし。凡(をよそ)彗(けい)に五ツあり。其(その)色(いろ)蒼(あをき)ときは王候(わうこう)破(やぶ)れて天子(てんし)兵革(ひやうかく)に苦(くるし)み。赤(あかき)
ときは凶賊(きようぞく)起(おこ)りて国人(くにうど)安(やす)からず。黄(き)なるときは女色(によしよく)害(がい)をなす。白(しろき)ときは将(しやう)
軍(ぐん)叛(そむい)て兵乱(ひやうらん)大に起(おこ)る。黒(くろ)きは水(みづ)の精(せい)にて。洪水(こうずい)河(かは)に溢(あふれ)て五穀(ごこく)登(みのら)ずあれ
見玉へ此度(このたひ)の彗星(けいせい)。其(その)色(いろ)蒼(あをき)に黄(き)をおびたり。まさしく是(これ)牝鶏(ひんけい)晨(あさなき)して
婦女(ふぢよ)権(けん)を奪(うばひ)。天子(てんし)兵革(ひやうかく)に苦(くるし)み玉ふ前兆(ぜんちやう)にて候はん。母人(はゝびと)はいかゝおもひ
玉ふやらんといへば。老母(ろうぼ)点頭(うなづき)。我(われ)もとくにその心(こゝろ)つきぬ。花(はな)の都(みやこ)狐狼(こらう)の
伏土(ふしと)とならんこと遠(とほ)からじ。はやく此(この)所(ところ)を去(さ)り山林(さんりん)にかくれて兵乱(ひやうらん)を
避(さく)るにしくべからずといひけるが。此後(このゝち)果(はた)して応仁(おうにん)の大乱(たいらん)起(おこ)りぬ母子(ぼし)
両人の先見(せんけん)誠(まことに)是(これ)あきらかなりといふべし。此頃(このころ)由理之助(ゆりのすけ)勝基(かつもと)浜名(はまな)
入道(にうたう)両(りやう)官領(くわんれい)なりしが。勝基(かつもと)は浜名(はまな)が婿(むこ)にてしたしきうへ子(こ)なきゆゑ。浜名(はまな)
が子(こ)を養(やしなひ)けるが。勝基(かつもと)実子(じつし)出来(いでき)ければ。其(その)養子(やうし)を僧(そう)とす。これより両家(りやうけ)
碓執(かくしつ)となり。浜名(はまな)勝基(かつもと)を打亡(うちほろぼ)し。おのれひとり権威(けんい)をほしいまゝにせん
と欲(ほつ)し。密々(みつ〳〵)野伏(のぶし)浪人(らうにん)どもを召抱(めしかゝへ)けるが。嘉門(かもん)が軍略(ぐんりやく)に達(たつ)したる事を
聞(きゝ)および。召抱(めしかゝへ)んと使者(ししや)を以(もつ)ていひ入(いれ)けり。嘉門(かもん)は兼(かね)て入道(にうだう)が行跡(ふるまひ)をにく
み居(ゐ)たるうへに。使者(ししや)ののぶる所(ところ)専(もつはら)官領職(くわんれいしよく)の権威(けんい)をふるひ。無礼(ぶれい)の詞(ことば)おほ
かりければ。嘉門(かもん)心中(しんちう)に憤(いきどほり)。招(まねき)に応(おう)ぜさるのみか。かへりて入道(にうだう)が日来(ひごろ)の
不道(ふたう)をかぞへてさみし辱(はづかし)め。きびしくいひはなちけるにそ。使者(ししや)面目(めんぼく)を
失(うしな)ひほう〳〵の体(てい)にて立帰(たちかへ)り。入道(にうだう)に嘉門(かもん)がいひつる様(やう)を。あからさまに
告(つげ)きこゆ。入道(にうだう)聞(きゝ)もあへず大に憤発(ふんはつ)し。やをれにくき腐(くされ)儒者(じゆしや)めかな。
憂目(うきめ)を見せて後悔(こうくわい)させんと。家来(けらい)岩坂(いはさか)猪之(いの)八といふ荒男(あらしを)に。大力(だいりき)の
組子(くみこ)二十 余(よ)人を撰(えらび)与(あた)へ。彼奴(きやつ)も智謀(ちぼう)武術(ぶじゆつ)に秀(ひいで)たる者(もの)なれば。若(もし)手(て)にあま
らば首(くび)にして持(もち)かへれと命(めい)ず。血気(けつき)にはやる猪之(いの)八かしこみ候と答(こた)へ。
小具足(こぐそく)に身(み)をかため。彼奴(きやつ)たとへ楠(くすのき)が智(ち)をたくはへ。義経(よしつね)の早業(はやわざ)を得(え)たり
とも。痩浪人(やせらうにん)の分際(ぶんざい)何程(なにほど)の事かあらん。黄土小屋(はにふのこや)を踏(ふみ)つふし首(くび)すぢつかみ
ゐてかへらんと広言(くわうげん)吐(はけ)ば。思慮(しりよ)もなき組子等(くみこども)いさみすゝみて相(あひ)したがひ
梅津(うめつ)の里(さと)へ急(いそぎ)ゆく嗚呼(あゝ)嘉門(かもん)が身(み)のうへ危(あやう)かりける次第(しだい)なり此(この)時(とき)
宵闇(よひやみ)の夜(よ)なりけるが。猪之(いの)八 等(ら)嘉門(かもん)が家(いへ)に近(ちか)づく比(ころ)。月影(つきかげ)あがりて
明(あきらか)なり。嘉門(かもん)は灯下(ともしびのもと)に書(しよ)を読(よむ)壁人(かげぼうし)。あかり障子(しやうじ)にうつりてたしかに見(み)ゆ。
しで打(うつ)砧(きぬた)の音(おと)するは老母(ろんぼ)の手業(てわさ)とおぼし。猪之(いの)八 等(ら)は竹林(たけやぶ)のうちに
身(み)をひそめ。権(しばらく)便宜(ひんぎ)をうかゞひ居(ゐ)たるに。嘉門(かもん)宿鳥(ねぐらのとり)の鳴(なき)さはぐを聞(きゝ)つけ。
あな笑止(しやうし)や我(わが)推量(すいりやう)にたがはず。命(いのち)しらずの愚人(ぐにん)ども。我家(わがや)を襲(おそふ)とおぼへ
たり。いで皆殺(みなごろ)しにしてくれんぞと。灯火(ともしび)ふきけして其後(そのゝち)音(おと)もなし。猪之(いの)八
これを聞(きゝ)。にくき奴(やつ)めがいひごとかな。はやく搦捕(からめとり)て手柄(てがら)にせよ者(もの)どもと
下知(げぢ)しつゝ。先(さき)にすゝみて門外(もんぐわい)より声(こへ)高(たかく)。これは官領職(くわんれいしよく)の厳命(げんめい)をかうふり。
嘉門(かもん)をめし捕(とらん)ため岩坂(いはさか)猪之(いの)八むかふたり。いそぎ門(もん)をひらき。尋常(しんじやう)に
縄(なは)かゝれとよばゝれば。障子(しやうじ)のうちに呵々(から〳〵)と笑(わらふ)声(こへ)し。汝等(なんぢら)がごとき鼠輩(そはい)
はおろかたとへ。浜名(はまな)入道(にうだう)みづから数百騎(すびやくき)を以(もつ)て攻(せむ)るとも更(さら)におそるゝ所(ところ)
なし。嘉門(かもん)が居宅(ゐたく)は鉄壁(てつへき)石門(せきもん)要害(やうがい)堅固(けんご)の城郭(しやうくわく)も同然(どうぜん)なり。命(いのち)おし
くは頭(かうべ)をおさへてはやく逃(にげ)かへれとあざけりいふ。猪之(いの)八 等(ら)大に恕(いかり)。門(もん)を
ひらかんとするに堅(かたく)とざしたり。しやもの〳〵しと力(ちから)をきはめてぐつと
押(おす)に。ほぞゆるまりてくつろぐを。ゑいやつと踏破(ふみやぶ)り。大勢(おほぜい)一度(いちど)にこみ入て。
椽(ゑん)の上(うへ)に飛上(とびあが)り。障子(しやうじ)をさつとひらけば。一間(ひとま)をへたてゝ梅津(うめづの)嘉門(かもん)
【挿絵】
梅津(うめづの)嘉門(かもん)彗星(けいせい)を見(み)て
治乱(ぢらん)興亡(きようばう)を論(ろん)じ
奇計(きけい)を施(ほどこ)して
捕人(とりて)を皆(みな)
殺(ごろし)にす
萌黄(もへぎ)薫(にほひ)の腹巻(はらまき)のうへに。金紗(きんしや)の道服(だうぶく)を著(ちやく)し。金作(こがねづくり)の円鞘(まるざや)の太刀(たち)を
はき。手(て)に文曲(ぶんきよく)武曲(ぶきよく)の二 星(せい)を画(ゑがき)たる軍扇(ぐんせん)をとりて床机(しやうぎ)にかゝりたる
形勢(ありさま)。志気(しき)堂々(とう〳〵)威風(いふう)凛々(りん〳〵)として。いかにも一個(いつこ)の英雄(ゑいゆう)と見へたりけり
老母(ろうぼ)はふるびたれども。摺箔(すりはく)の昔模様(むかしもやう)の袿衣(うはきぬ)を壷折(つぼをり)て著(ちやく)し。雪(ゆき)をあざ
むく白髪(しらが)をたれ。玉(たま)だすきかけてかい〴〵しく打扮(いでたち)。銀(ぎん)の蛭巻(ひるまき)したる長刀(なぎなた)
を小脇(こわき)にかいはさみて。傍(かたはら)にひかへたる姿(すがた)。老木(おいき)の梅(うめ)にいにしへの薫(かほり)残(のこ)りて
奥(おく)ゆかし。左(ひだり)の方(かた)に千金弩(せんきんど)と称(しやう)じて。一発(いつはつ)数(す)十の箭(や)を飛(とば)す兵器(へいき)を
すゑ。右(みぎ)には近頃(ちかごろ)蛮国(ばんこく)より渡(わた)り。磐石(ばんじやく)をも打砕(うちくだ)く火術(くわじゆつ)の具(ぐ)。五六 挺(てふ)
筒先(つゝさき)をそろへてならべたり。勢(いきほひ)こみたる組子等(くみこども)飛道具(とびだうぐ)に心(こゝろ)おくれ。
すゝみかねたるを見て猪之(いの)八 声(こゑ)を励(はげま)し。賦甲斐(ふがひ)なき者(もの)どもかな。わづか
に嘉門(かもん)一人の外(ほか)はかよわき老女(ろうぢよ)なり。たとへ三面(めん)六 臂(ぴ)ありとも。いかでか
数々(かづ〳〵)の箭玉(やだま)をはなつことあたはんや。見せかけばかりの兵具(ひやうぐ)おそるゝ
にたらず。はやくよりて搦捕(からめとれ)。若(もし)とり逃(にが)さば我(われ)々が越度(おちど)なりと下知(げぢ)
するにぞ。組子等(くみこども)げにもさりと思ひ。我先(われさき)とあらそひ飛(とび)かゝらんと
したる所(ところ)に。嘉門(かもん)軍扇(ぐんせん)をあげて一(ひと)あふぎあふげば。兼(かね)て用意(ようい)の焰硝(ゑんせう)
縄(なは)に灯火(ともしび)うつり。綱火(つなび)となりて五六 挺(てふ)の火術(くわじゆつ)の具(ぐ)。一度(いちど)に発(はつ)し。其(その)
ひゞき大雷(たいらい)のごとく。数(かづ)の鉄丸(てつぐわん)飛出(とびいで)て。前(まへ)にすゝみたる組子(くみこ)十 余(よ)人
打倒(うちたふ)され。煙(けふり)のうちにのたり伏(ふ)す。老母(ろうぼ)は長刀(なぎなた)の鐏(いしづき)を以(もつ)て弩(いしゆみ)を一(ひと)つき
つけば。数(す)十の箭雨(やあめ)のごとく飛(とび)かゝりて。組(くみ)子を残(のこ)らず射伏(いふせ)たり。
猪(い)之八は手(て)ばやく畳(たゝみ)を盾(たて)にして箭玉(やたま)をのがれ。逃出(にげいで)んとしたるに
忽(たちまち)板敷(いたしき)磊落(ぐわら〳〵)とひるがへり。深(ふか)き落(おと)し穴(あな)のうちに噇(がう)とおちいり。底(そこ)にうゑ
たる剣(つるぎ)に身(み)をつらぬかれ。朱(あけ)に染(そま)りて死(し)してげり。嘉門(かもん)かねて是等(これら)の
かまへをなしおきたるゆゑいかなれば。これまで近国(きんごく)他国(たこく)の諸候(しよこう)の
請待(しやうだい)に応(おう)ぜざれば。若(もし)おのれが器量(きりやう)をねたみ。不意(ふい)を襲(おそ)ふ者(もの)あらん
をふせがん為(ため)なるが。果(はた)して此度(このたび)不慮(ふりよ)の難儀(なんぎ)をまぬがれたり。さて
嘉門(かもん)老母(ろうぼ)にむかひ。今宵(こよひ)のことを聞(きか)ば浜名(はまな)入道(にうだう)益(ます〳〵)怒(いかり)。多勢(たせい)を以(もつ)
てとりかこまばのがるゝてだてなかるべし幸(さいわひ)母人(はゝびと)兼(かね)て山林(さんりん)に身(み)を避(さけ)
て生涯(しやうがい)無事(ぶじ)を計(はかり)玉はん御心(おんこゝろ)あれば。今宵中(こよひのうち)に此(この)所(ところ)をのがれ去(さる)に
しかじ。母人(はゝびと)はいかゞおぼすやらんといふ。老母(ろうぼ)その意(い)に同(どう)じ。母子(ぼし)両人
いそがはしく身支度(みじたく)して。雑具(ざうぐ)は其侭(そのまゝ)すておき。先祖(せんぞ)伝来(でんらい)の兵(へい)
家(か)の秘書(ひしよ)。大幢(たいとう)国師(こくし)の法語(ほふご)一巻(いつくわん)のみを嘉門(かもん)が懐(ふところ)にし。老母(ろうぼ)を背負(せおひ)
て。いづくともなくおちゆきけり
巻之一終
【裏表紙】
《割書:不破伴左衛門|名古屋山三》昔語稲妻表紙 三
昔話(むかしがたり)稲妻(いなつま)表紙(びやうし)巻之二
江戸 山東京伝編
五 厄神(くわじん)の報恩(ほうおん)
扨(さて)も佐々良(さゝら)三八郎は。妻子(さいし)を具(ぐ)して丹波(たんば)の国(くに)にいたり。大江山(おほえやま)の麓(ふもと)。穴(あな)
太(ふ)の里(さと)にかくれ住(すみ)けるが。少々(しやう〳〵)のたくはへも。日(ひ)々の費(ついへ)につかひすて。別(べつ)になりわひの
便(たより)もなければ。みづから山畑(やまばた)をたがやし。仕馴(しなれ)ぬ業(わざ)の辛苦(しんく)にたへず。妻(つま)礒菜(いそな)は
当国(とうこく)の名産(めいさん)なる藺莚(いむしろ)を編(あみ)。市(いち)にひさきてわづかの価(あたひ)をとり。夫婦(ふうふ)とも
かせぎにして。両人(ふたり)の児等(こどもら)を育(そだて)。権(しばし)月日(つきひ)をおくりぬ。しかるに三八郎
おもへらく。忠義(ちうぎ)の為(ため)とはいひながら。罪(つみ)なき藤波(ふぢなみ)を殺(ころ)せし事。かへす〳〵も
不便(ふびん)なり。後(のち)に聞(きけ)ば。若殿(わかとの)御勘当(ごかんどう)をうけられ。御行方(おんゆくへ)なくなり玉ひつるよし。
我(わが)心(こゝろ)づくしも藤波(ふぢなみ)が非業(ひごう)の死(し)もみな水(みづ)の泡(あは)。かいなき事(こと)となれり。せめては彼(かれ)が
冥福(めいふく)を得(う)る種(たね)にもと農業(のうぎやう)の片手(かたて)にも。念珠(すゞ)をはなさず。たえす
念仏(ねんぶつ)をとなへければ。里人(さとひと)異名(いみやう)をつけて。六字(ろくじ)南無(なむ)右衛門とよびけるを
みづからも世を忍(しの)ぶにはよき名(な)なりとおもひて。つひに実名(しつみやう)としたりけり
さて又 後(のち)々聞(きけ)ば。藤波(ふぢなみ)を殺(ころ)したる夜(よ)。金岡(かなをか)の筆(ふで)百蟹(ひやくがい)の図(づ)の絵巻物(ゑまきもの)
紛失(ふんじつ)し。長谷部(はせべ)の雲六(うんろく)と計(はか)りて。盗取(ぬすみとり)たりと沙汰(さた)ありつるよし盗人(ぬすびと)の
立田(たつた)の山(やま)に入(いり)て。おなじかざしの穢(けがれ)たる名(な)を得(う)ること。豈(あに)恥(はぢ)ざらんや。渇(かつ)すれ
ども盗泉(たうせん)の水(みづ)を飲(のま)ず。熱(ねつ)すれども悪木(あくぼく)の陰(かけ)に息(やすま)ずとこそ聞(きく)ものを。
いかにもしてかの巻物(まきもの)をたづね出(いだ)し。汚名(おめい)をすゝがばやと兼(かね)ておもひ。一ツには
奸臣(かんしん)不破(ふは)道犬(たうけん)が悪意(あくい)を見あらはして。お家(いへ)の禍(わざわひ)の根(ね)をたち。藤波(ふぢなみ)が
縁者(ゑんじや)に出会(しゆつくわい)して。恨(うらみ)の刃(やいば)にかゝり。死後(しご)の名(な)を清(きよ)くすべしとおもひさだめ。
折(をり)々 面(おもて)をかくして大和(やまと)の国(くに)にいたり。或(あるひ)は京都(きやうと)にいたりて便宜(びんぎ)をうかゞひぬ。
かくてある日(ひ)。大和(やまと)より京(きやう)に赴(おもむく)とて。木津川(きづがは)の渡船(わたしぶね)に乗(のり)けるに。船中(せんちう)乗合(のりあひ)の
うちに。一人(いちにん)の老女(ろうぢよ)あり。紅裏(もみうら)の昔模様(むかしもやう)のふるびたる小袖(こそて)に。松皮菱(まつかはひし)の紋(もん)つけ
たるを着(ちやく)し。さゝやかなる包(つゝみ)を三輪(みつわ)くみたる腰(こし)につけ。細(ほそ)き竹杖(たけづえ)にすがりたるが。
頭(かしら)は佐野(さの)の白苧(しろそ)を乱(みだ)せるがごとく。身(み)うち枯木(かれき)のやうに痩(やせ)がれたれど。人品(ひとがら)は
さまで賎(いや)しからず。紫(むらさき)の小袖(こそで)着(き)たる女(おんな)の船中(せんちう)にあるを。深(ふか)くいみきらふ
さまにて。袖(そて)をおもてにおほひて。片(かた)すみにひそまり居(ゐ)たり。ほどなく船(ふね)向(むかふ)の
岸(きし)につき。南無(なむ)右衛門 衆人(しゆうじん)とゝもに岸(きし)にのぼり。かの老女(ろうちよ)と後(あと)におくれ前(さき)に
すゝみて行(ゆき)けるに。此時(このとき)紅日(こうじつ)西(にし)に落(おち)て。天色(てんしよく)已(すで)に晩(くれ)なんとす。なむ右衛門
草鞋(わらぢ)のひもをむすぶひまに。かの老女(ろうぢよ)は遥(はるか)に行過(ゆきすぎ)たるが。樹木(じゆもく)おほひかゝりて
ほの暗(くら)き所(ところ)を過(すぐ)る時(とき)。四五 疋(ひき)の犬(いぬ)出来(いできた)りてとりまき。頻(しきり)に吠(ほへ)てほど〳〵
くらひつかんとす。老女(ろうちよ)杖(つへ)をあげて打(うて)とも去(さら)ず。なほも飛(とび)かゝらん形勢(ありさま)なり。
【挿絵】
六字(ろくじ)南無右衛門(なむゑもん)
木津川(きづがわ)の渡(わたり)にて
老女(ろうぢよ)の危難(きなん)を
すくふ
六字子なむ右衛門
老女
なむ右衛門
ろう女
かゝる難義(なんぎ)を見かねて。なむ右衛門 走(はし)りつき。犬(いぬ)どもを打(うち)ちらして。老女(ろうぢよ)を見るに。
深(ふか)くおそれたるにや。地(ち)にたふれ伏(ふし)て息(いき)もたゆげなれば。介抱(かいほう)してさま〴〵
いたはりけるに。やゝ正気(しやうき)になり。いづくのおん方(かた)かはしらされども。かゝる難義(なんぎ)を救(すく)ひ
玉はるかたじけなさよ。此(この)御恩(ごおん)かさねて報(むくひ)はべらんと。あつく礼(れい)をのぶれば。南無(なむ)
右衛門 打聞(うちきゝ)て。さばかり厚(あつ)き詞(ことば)をおさむるにゆゑなし。とてもの事(こと)に京(きやう)の
町(まち)まで送(おく)り行(ゆき)まゐらすべしとて。相伴(あひともな)ひ。三条(さんじやう)の四ツ辻(つぢ)にて東西(とうざい)に別去(わかれさり)ぬ。
さて南無(なむ)右衛門は。一月(ひとつき)ばかり京都(きやうと)にとゞまり。百蟹(ひやくがい)の巻物(まきもの)を尋(たつ)ねけるが。
その留主(るす)の間(あいだ)。一子(いつし)栗(くり)太郎 此時(このとき)年(とし)八 才(さい)なりしが疱瘡(はうそう)をやみ。母(はゝ)礒莱(いそな)が
辛労(しんらう)おほかたならず。皰瘡(もがさ)の神(かみ)の棚(たな)をまうけ。赤(あかき)幣束(へいそく)。狭俵(さんだわら)。張子(はりこ)の達(だる)
磨(ま)木兎(みゝづく)すら。起臥(おきふし)に心(こゝろ)をつけ。茜(あかね)の頭巾(づきん)すら針(はり)とることを忌(いみ)て。隣家(りんか)の
手(て)をかり。紅火燭(べにびそく)の朱(あけ)をうばふ。紫(むらさき)の色(いろ)は更(さら)なり。詞(ことば)の禁忌(きんき)火(ひ)のよしあし。
食物(しよくもつ)のさし合(あひ)まで。よろづに心(こゝろ)をもちひ湯尾峠(ゆのをとうげ)の孫杓子(まごじやくし)。鮓荅(へいさらばさら)の呪(まじなひ)
など。よきといふことは皆(みな)仕(し)つくして。看病(みとり)けるが。いとおもき皰瘡(もがさ)にて。熱気(ねつき)
つよく目(め)をひきつけて。今(いま)もたえいるかとおもふこと度(たび)〳〵なり。ほどなく出痘(しゆつとう)
にいたり。面上(めんしやう)総身(そうしん)すきまもなく発瘡(はつそう)しければ。かくては命(いのち)も危(あやう)し。
時(とき)も時(とき)折(をり)も折(をり)とて。夫(をつと)の留主(るす)なるぞ便(たより)なき。こはいかにせんと当惑(たうわく)し。
けふやあすやと帰(かへ)りを待侘(まちわび)。娘(むすめ)楓(かへで)を日(ひ)にいく度(たび)か。村口(むらくち)につかはしてうかゞは
すれど。帰(かへる)かげだに見へずといへば。益(ます〳〵)愁(うれひ)ぬ。皰瘡神(もがさのかみ)の機嫌(きげん)あしきにや。
栗(くり)太郎 足(あし)ずりしてなきさけび。小豆枕(あづきまくら)をなげうち。人形(にんぎやう)の腕(かいな)ひきぬき
などしてあれ出(いだ)し。さま〴〵にこしらへなぐさむれど泣止(なきやま)ず。殆(ほとんど)もてあましたる
折(をり)しも。なむ右衛門 一月(ひとつき)ぶりにて家(いへ)にかへる。磯莱(いそな)喜(よろこ)び出(いで)むかひて。まづ栗(くり)
太郎が事(こと)を語(かた)るにぞ。なむ右衛門 気(き)づかひ。いそがはしくやぶれ屏風(ひやうぶ)を
ひきあけて。様子(やうす)を見(み)るに。今(いま)までなきさけびて。もてあましたる栗(くり)太郎。なむ右衛門
を見(み)て礼(いや)正(たゞ)しく座(ざ)をつくり。手(て)をつきていひけるは。こはおもひかけざる事(こと)かな。
此(この)家(いへ)はおん身(み)の宅(たく)にて此(この)小児(しやうに)はおん身(み)の子息(しそく)にて候か。これは前(さき)の月(つき)木津(きづ)
川(かは)の渡場(わたしば)にて。危難(きなん)を救(すくひ)たまはりし老女(ろうぢよ)にてはべり。我(われ)実(まこと)は疱瘡(ほうそう)の神(かみ)なる
が。我輩(わかともから)犬(いぬ)をおそるゝ事(こと)人(ひと)に過(すぎ)たり。我(われ)しばらく京都(きやうと)にありて。痘瘡(もがさ)を
やましめたるが。四五日さき当国(とうごく)にうつり。おん身(み)の家(いへ)ともしらず。こゝに宿(しゆく)し。
此(この)小児(しやうに)につきて疱瘡(ほうそう)をやましめぬ。元来(ぐわんらい)此(この)児(こ)難症(なんしやう)にて。今(いま)一 両(りやう)日を
過(すぐ)れは落命(らくめい)すべき所(ところ)なるに。危急(ききう)の節(せつ)おん身 帰宅(きたく)したまひしは。畢竟(ひつきやう)
此(この)児(こ)の命(いのち)つよき処(ところ)なり。前(さき)の日(ひ)の厚意(こうい)を報(むくゆ)るは此時(このとき)なり。我(われ)とみに
立去(たちさる)べし。我(われ)去(さ)れば疱瘡(はうそう)速(すみやか)にかせおちて平癒(へいゆ)すべきなり。此(この)すゑとても
おん身(み)の族(やから)の家(いへ)には立(たち)よらすまじ。しるしなくては此度(このたび)のごとく誤(あやまる)ことあるべし。
おん身(み)の姓名(せいめい)はいかにと問(とふ)にぞ。なむ右衛門その実名(じつみやう)を告(つく)れば。しからば
鮑貝(あわびがい)のうちにさゝら三八 宿(やど)とかきつけて簷(のき)にかけおき玉へ。その目(ま)
じるしある家(いへ)には。我(われ)は勿論(もちろん)ともからの者(もの)をも立(たち)よらすまじ。はやいとま
申すなりといひおはり。栗(くり)太郎 悶絶(もんぜつ)してたふるゝと見へしが。老女(ろうぢよ)の姿(すがた)
けふりのごとくあらはれ。外(と)のかたへ走(はし)り出(いで)てきへ失(うせ)ぬ。礒菜(いそな)栗(くり)太郎を
抱(いだ)き起(おこ)せば。不思議(ふしぎ)や疱瘡(ほうそう)俄(にはか)にかせおちてあとだになく。気力(きりよく)常(つね)の
ごとくなりけるにぞ。夫婦(ふうふ)奇異(きい)の思(おも)ひをなし。とみに笹湯(さゝゆ)をかけ。赤飯(せきはん)を
調(ちやう)じて。神(かみ)おくりし。なのめならず喜(よろこ)びけり。抑(そも〳〵)痘瘡(とうそう)の日数(につすう)は。三日(みつか)発熱(はつねつ)。
三日 出痘(しゆつとう)。三日 起脹(きちやう)。三日 貫膿(くわんのう)。三日 収靨(しうゑん)。これ常数(じやうすう)なるに。栗(くり)太郎が
痘瘡(もがさ)かく俄(にわか)にかせおちたるは。全(まつた)くかの神(かみ)のたすけにて。南無(なむ)右衛門が
好意(かうい)深(ふか)かりしむくひなりと。此事(このこと)を伝(つた)へ聞(きゝ)人(ひと)みな感(かん)しあへりとぞ。さて
【挿絵】
南無右衛門(なむゑもん)
一子(いつし)栗(くり)太郎
疱瘡(はうそう)を
やむ
いそな
栗太郎
かへで
なむ右衛門
栗(くり)太郎がもがさ。平癒(へいゆ)して喜(よろこ)ぶ間(ま)もなく。再(ふたゝび)又(また)一つの災(わざはひ)ぞいできにける
磯菜(いそな)ある夜(よ)灯(ともしひ)をたて鏡(かゞみ)にむかひて髪(かみ)をとりあげつるに。鏡(かゝみ)のうちに
藤波(ふぢなみ)が顔(かほ)あり〳〵とうつりて。おそろしきさまなれば。あなやといひて背後(うしろ)を
かへり見れば。毬(まり)のごとき心火(しんくは)窓(まど)をこへて飛(とび)さり家(や)のむねのあたりにて。から〳〵と
笑(わら)ふ声(こゑ)す。磯菜(いそな)はたまらずのけさまにたふれて。其侭(そのまゝ)絶入(たへいり)ぬ。南無(なむ)
右衛門あはてふためき抱(いだ)き起(おこ)して。醒薬(きつけくすり)など与(あた)へけるにぞ。やう〳〵いきかへり
けるが。これより心気(しんき)日(ひ)々によはりて。ものもすゝまず。色(いろ)あをざめて痩(やせ)おとろへ。
日(ひ)に異(け)におもりていつ怠(おこた)りはつへうも見えず。なむ右衛門まづしき
中(なか)にも。良薬(れうやく)をもとめて与(あた)ふるといへども。とかく藤波(ふぢなみ)がいかれる顔(かほ)目(め)さきに
さへぎり。其度(そのたび)々にもだへ苦(くる)しみ。ほど〳〵命(いのち)もあやうく見へぬ。此時(このとき)娘(むすめ)
楓(かへで)は十三才。栗(くり)太郎は八才なれども。兄弟(きやうだい)ともに年(とし)に似(に)ず。すぐれて
かしこき生(うま)れにて。殊更(ことさら)世間(せけん)にまれなる孝子(かうし)なれば。母(はゝ)の病(やまひ)を
ふかく悲(かなし)み。兄第(きやうだい)枕方(まくらべ)あとべにつきそひて。しばしも病床(びやうしやう)をはなれず。
かはる〴〵もみさすりなとし。心(こゝろ)を尽(つく)してぞ看病(みとり)ける。かゝる病人(ひやうにん)あり
ながら。一日(いちにち)もなりはひをせざれば。煙(けふり)を立(たて)かぬる身(み)なれば。せんすべなく。なむ
右衛門は病人(びやうにん)を兄第(きやうだい)の子(こ)どもにあづけおき。其(その)身(み)はたがやしに
出(いで)て。わづかに日雇(ひよう)のあたひを得(え)て。其日(そのひ)をおくる心(こゝろ)の苦(くる)しさ。いかばかり
ならん量(はかり)想(おもふ)べし。夜(よ)にいたればなむ右衛門 家(いへ)にありて看病(かんびやう)すれば。
兄第(きやうだい)の子(こ)ども等(ら)。此(この)うへは仏神(ぶつじん)の力(ちから)をたのみ奉(たてまつ)るより外(ほか)なしといひ
あはせ。ふたり手(て)をひきあひ。毎夜(まいや)穴太寺(あなふでら)の観音(くわんおん)にはだしまいりして。
南無(なむ)大悲(だいひ)観音菩薩(くわんおんぼさつ)。我(われ)々が一命(いちめい)をとり給ひ。何(なに)とぞ母(はゝ)の病苦(びやうく)を
救(すくひ)玉へと祈念(きねん)し。三七日が間(あいだ)まうでけるに。仏(ほとけ)も孝子(かうし)の誠心(せいしん)を
感(かん)じ玉ひけるにや。満願(まんぐわん)の夜(よ)より。母(はゝ)の病(やまひ)やうやくおこたり。一月(ひとつき)ばかりの
うちに全快(ぜんくわい)し。気力(きりよく)かへりて前(まへ)よりもなほ盛(さかん)になりぬ誠(まことに)是(これ)孝行(かう〳〵)の
㓛徳(くとく)大なるるゆゑなりかし
○孝子(かうし)の物語(ものがたり)のついでに記(しる)して。世(よ)の童子(どうじ)にしめすことあり。明心(めいしん)
宝鑑(ほうかん)といふ書(しよ)に。我(われ)親(おや)に孝行(かう〳〵)なれば。子(こ)も又 我(われ)に孝行(かう〳〵)をなす
ものなり。おのれ既(すで)に不孝(ふかう)なれば。子(こ)も又なんぞ孝行(かう〳〵)ならん。われ
孝順(かうじゆん)なれば。又 孝順(かうじゆん)の子(こ)を持(もつ)なり。此(この)事(こと)疑(うたがは)しく思(おも)はゞ。簷(のき)より点々(はつ〳〵)
滴々(てき〳〵)と落(をつ)る雨(あま)しづくを見(み)よ。とく〳〵と落(おつ)るつぼをたがへずといへり。されば
我(われ)父母(ふぼ)の老後(ろうご)を安穏(あんおん)ならしめば。我(われ)も又 老後(ろうご)安穏(あんをん)なること疑(うたがひ)なし
○又 世範(せいはん)といふ書(しよ)におよそ人(ひと)の子としては。身(み)をおわるまてすこしも
父母(ふぼ)の心(こゝろ)にそむかず。孝道(かうたう)をつくすべきなり。父母(ふほ)身(み)まかりてのちも。
其(その)霊(れい)に対(たい)して。存生(ぞんじやう)にいひおかれたることをそむくべからず。
いかほど孝道(かうたう)をつくすとも。おのれが幼少(ようしやう)の時(とき)。父母(ふほ)の愛(あひ)念(ねん)
撫育(ふいく)の恩(おん)をば報(ほうす)ることなりがたし。世間(せけん)の孝道(かうだう)をつくすこと
あたはざるもの。他人(たにん)の小児(しやうに)を育(そだて)あぐるその情愛(じやうあひ)の厚(あつ)きを
見(み)て。父母(ふぼ)の苦労(くろう)を思(おも)はゞ自(おのづから)悟(さと)るべしといへり。古(いにしへ)より孝(かう)を尽(つく)し
て天(てん)のめぐみをかうふり。あるひは立身(りつしん)出世(しゆつせ)して高禄(かうろく)の人(ひと)となり。
或(あるひ)は運(うん)をひらき千金(せんきん)を得(え)富貴(ふうき)の身(み)となりたる例(ためし)。あげてかぞふ
べからず。又 不孝(ふかう)にして天(てん)の罰(ばつ)をかうふり。病苦(びやうく)貧苦(ひんく)をうけ。悪(あく)
獣(じふ)毒虫(どくちう)に害(がい)せられ。雷(らい)にうたれなどして非命(ひめい)に死(し)したる例(ためし)も
又すくなからず。されば幼(いとけなき)ときより。孝道(かうだう)は人倫(じんりん)第一(だいいち)の道(みち)
決定(けつぢやう)の役儀(やくぎ)といふ。道理(だうり)をよく〳〵わきまへて少(す)しも父母(ふぼ)の
おふせをそむかず。朝夕(あさゆふ)恭敬(きようけい)おこたらず。一生(いつしやう)安穏(あんをん)ならしむるやうに
心(こゝろ)がくべき事(こと)ぞかし
六 因果(いんくわ)の小蛇(しやうじや)
かくて後(のち)は南無(なむ)右衛門が家内(かない)。無事(ふじ)に打過(うちすぎ)けるが。一日(あるひ)なむ右衛門
たがやしに出(いで)けるに。草(くさ)むらの裏(うち)より。丈(たけ)三尺(さんじやく)ばかりの蛇(へび)いでゝ蟇(かいる)をくわへ。
ほど〳〵のまんとす。なむ右衛門これを見(み)て。蟇(かいる)をたすけまほしく。いかに
蛇(へび)よ汝(なんぢ)我(わが)為(ため)にその蟇(かいる)をゆるせかし。さあらば我(わが)娘(むすめ)を汝(なんぢ)に与(あた)ふべきぞといひ
けるに。蛇(へび)此(この)ことばを聞入(きゝいれ)たる体(てい)にて。蟇(かいる)を放(はなち)さらしめ。もとの草(くさ)深(ふか)き所(ところ)にかくれ
入(いり)ぬ。さて農業(のうぎやう)をはりて家(いへ)に帰(かへり)けるに。其日(そのひ)の夜半(やはん)の比(ころ)。娘(むすめ)楓(かへで)俄(にわか)に発(はつ)
熱(ねつ)して苦(くる)しみ。声(こへ)たかくうめきければ。両親(りやうしん)おどろきて目(め)をさまし。いそ
がはしく抱起(いだきおこ)して見れば。恠哉(あやしいかな)小蛇(しやうじや)楓(かへで)が腹(はら)にまきつき。かま首(くび)をたて。
舌(した)を吐(はき)てうごめくさま。おそろしなどもおろかなり。礒菜(いそな)これを見て身(み)の毛(け)
いよだち。泣声(なきこゑ)になりて早(はや)く取捨(とりすて)やりてよといふ。なむ右衛門いはて。我(われ)昼(ひる)ほど
蛇(へび)蟇(かいる)を呑(のむ)を見(み)てたすけまほしく。若(もし)蟇(かいる)を放(はなち)やらば我(わが)娘(むすめ)を与(あた)ふべしと
いひけるが。此(この)蛇(へび)我(わが)戯(たわふれ)を実(まこと)として来(きさ)れるに疑(うたがひ)なし戯言(けげん)はすまじきことなり。
凡(およそ)蛇(へび)は婬心(いんしん)ふかきものと聞(きゝ)しか。眼前(がんぜん)にかゝる奇恠(きくわい)を見る不思議(ふしぎ)さよと。
いひつゝ蛇(へび)をひきはなち。䉂(ふご)のうちに入て携(たづさ)へ去(ゆき)。大江山(おほゑやま)の谷底(たにそこ)に捨(すて)て
かへりけるに。其(その)つぐる夜(よ)。ふたゝび楓(かへで)発熱(はつねつ)して苦(くる)しみ。いつの間(ま)にかまた蛇(へび)
来(きた)りて。腹(はら)に巻(まき)つく事(こと)前(まへ)のごとし。なむ右衛門 益(ます〳〵)怪(あやし)み。此うへは殺(ころ)しすつべし
と思(おも)ひ。蛇(へび)は首(かしら)に魂(たましい)あり。よく首(かしら)を砕(くだ)かざれば生(いき)かへるものと兼(かね)て聞(きゝ)ければ。かの
蛇(へび)をとりはなちて。平(ひら)みたる石(いし)の上(うへ)におき。斧(おの)の脊(みね)をもつて首(かしら)を微塵(みちん)に
打(うち)くたきけるか。血(ち)しほさつと飛散(とびちり)て。傍(あたり)に居(ゐ)たる栗(くり)太郎が。面上(めんしやう)に
かゝるとひとしく。呀(あ)とさけびて倒(たふ)れたり。なむ右衛門 蛇(へび)を捨(すて)て抱(いだ)き起(おこ)せば
栗(くり)太郎が両眼(りやうがん)に。蛇(へび)の血(ち)しみとほりたる様子(やうす)にて。痛(いたみ)堪(たへ)がたしとて
おめきさけびぬ。礒菜(いそな)もいそぎまどひて介抱(かいほう)するに。しばしありて
やう〳〵泣止(なきやみ)けるが。両眼(りやうがん)ひらく事(こと)あたはず。見(み)る〳〵瞼(まぶた)たかくはれあかりぬ。
なむ右衛門は死(し)したる蛇(へび)を携(たづさ)へゆき。遠(とをき)所(ところ)に捨(すて)てかへりけるが。いまだ
かへらざるさきに蛇(へび)又 来(きた)りて巻(まき)つくこともとの如(こと)し。なむ右衛門 気(き)をいらち
此度(このたび)は焼殺(やきころ)さばやと。火中(くわちう)に投(とう)じけるが。しばしありて火中(くはちう)を飛出(とびいで)。また
巻(まき)つきぬ。かくさま〴〵にして取捨(とりすて)んとすれども。蛇(へび)の執念(しうねん)いと深(ふか)くして。しばしも
はなれず。後(のち)にはせんかた尽(つき)て。其侭(そのまゝ)になしおきけるが。唯(たゞ)腹(はら)に巻(まき)つきたる
のみにて。別(べつ)に害(がい)をなす事(こと)なく。楓(かへで)もはじめのほどは我身(わがみ)ながらおそろしく
おもひけるが。後(のち)々は蛇(へび)に馴(なれ)したしみて。前生(ぜんしやう)の因果(いんぐは)とあきらめ。かへつて
愛念(あいねん)深(ふか)くなり。朝夕(あさゆふ)我(わが)食物(しよくもつ)をわかち与(あた)へ養(やしな)ひけり。蛇(へび)もよくなれて。食事(しよくじ)
の時(とき)にいたれば。懐(ふところ)よりかま首(くび)を出(いだ)してものうちくひぬ。扨(さて)栗(くり)太郎は蛇血(じやけつ)の
毒気(どくき)両眼(りやうがん)に入(いり)て眼疾(がんしつ)となり。さま〴〵療(れう)するといへども治(ぢ)しがたく。ついに
生(うま)れもつかぬ盲目(めくら)とぞなりにける。礒菜(いそな)左(ひだ)りに楓(かへで)をすゑ。右(みぎ)に栗(くり)太郎
をすへ。二人(ふたり)をつら〳〵顧(かへりみ)つゝいふやう。便(びん)なき子(こ)どもが形勢(ありさま)や。情(なさけ)なの神(かみ)仏(ほとけ)や。
楓(かへて)は世(よ)にたぐひなく。姿(すがた)美麗(びれい)に生(うま)れつき。たとひ女御(にようご)更衣(かうい)にたつるとも。
はづかしからぬ容儀(ようぎ)なるに。妖蛇(ようじゃ)に見こまれて。人(ひと)の交(まじは)りならぬ身(み)となり
栗(くり)太郎は生(うまれ)つきもきよらに。心(こゝろ)ばへもすぐれてかしこくありながら。おもひも
よらず。盲目(まうもく)となるうたてさよ。殊更(ことさら)兄第(きやうたい)ともに孝道(かうだう)ふかきものなるに。
などてかく薄命(はくめい)にはありけるぞや。いかなる宿世(すくせ)の因果(いんぐは)にて。かく災(わさわひ)の
かさなる事(こと)ぞとて。悲歎(ひたん)の涙(なみだ)にむせびければ。兄弟(きやうだい)の子(こ)どもあはてふためき。
【挿絵】
藤波(ふちなみ)が怨魂(えんこん)
小蛇(しやうじや)となりて
南無(なむ)右衛門が
娘(むすめ)
楓(かへで)が腹(はら)に
まとひつく
いそな
かへで
なむ右衛門
くり太郎
なむ右衛門
左右(さゆう)よりとりつきて。背を撫(なで)さすり。共(とも)に涙(なみだ)をおとしつゝ介抱(かいほう)するに。いとゞ
悲(かな)しさまさりけり。なむ右衛門 目(め)をしばたゝき。我(われ)つら〳〵おもふに。藤波(ふぢなみ)が
怨念(おんねん)子(こ)ども等(ら)をなやまし。我等(われら)夫婦(ふうふ)におもひをさせて。宿恨(しゆくこん)を
報(むくゆ)るにうたがひなし。かれ一点(いつてん)の罪(つみ)なくして殺(ころさ)れたれば。深(ふか)く恨(うらむ)も理(ことわり)なり。
三代(さんだい)相恩(さうおん)の主君(しゆくん)のためにせしことなれば。たとひ子(こ)ども等(ら)をとり殺(ころ)さるゝ
とも悔(くゆ)べきにあらず。礒菜(いそな)歎(なげ)くな我(われ)は少(すこ)しも悲(かな)しからずと。歎(なげ)きを胸(むね)に
おしかくしていへば。兄弟(きやうだい)の子(こ)ども等(ら)口(くち)をそろへ。父(ちゝ)うへののたまふ所(ところ)うべなり。
忠義(ちうぎ)の為(ため)にしたまひし其(その)報(むくひ)ときけば。たとひ我(われ)々が身(み)はいかほどの憂目(うきめ)
を見るとも。露(つゆ)ばかりもいとふべきにあらず。母人(はゝびと)よ深(ふか)くなげきたまひて。又(また)も
病(やまひ)をひきいだし玉はるなと。年(とし)に似合(にあは)ぬ理発(りはつ)の詞(ことば)。孝心(こうしん)ふかき
けなげさに。大丈夫(だいしやうぶ)のなむ右衛門も。胸(むね)ひしとおしふさがり。おぼへずこぼるゝ
涙(なみだ)を拳(こふし)をもつておしぬぐひ。歎(なげき)を見(み)せぬ武士形気(ぶしかたぎ)の心のうち。おもひ
やられてなほ哀(あわれ)なり。かくて又しばらく月日(つきひ)をおくりけるが。栗(くり)太郎 盲目(まうもく)
のことなれば。一生(いつしやう)を過(すご)す世(よ)わたりの種(たね)には。琵琶(ひは)を学(まな)ばせ。琵琶法師(びはほうし)
となさば。のち〳〵は高官(かうくわん)にもすゝみ。貴人(きにん)のそば近(ちか)くめさるゝ事(こと)も
あるまじきにあらす。せめては生涯(しやうがい)安穏(あんをん)の計(はかりごと)をなしつかはすべしと思ひ
つき。頭(かしら)を剃(そら)しめて名(な)を文弥(ぶんや)とかへ。磯菜(いそな)をつけて京(きやう)にのぼせ。其比(そのころ)音曲(おんきよく)
を以(もつ)て名高(なたか)く聞(きこ)へし。沢角(さはつの)検校(けんきやう)のもとにつてをもとめて母子(ぼし)ともに奉公(ほうこう)
させ専(もつはら)琵琶(びは)を学(まなば)せけり
七 呪咀(しゆそ)の毒鼠(どくそ)
扨(さて)も大和(やまと)の国(くに)佐々木(さゝき)の館(やかた)におきては。判官(はんぐわん)貞国(さだくに)。子息(しそく)桂之助(かつらのすけ)を
勘当(かんだう)して後(のち)。銀杏(いてふ)の前(まへ)月若(つきわか)母子(ぼし)を。平群(へぐり)の下館(しもやかた)に移(うつら)せ名古屋(なこや)
三郎左衛門。同(おなしく)山(さん)三郎 父子(ふし)を。守役(もりやく)として付(つけ)おかれぬ。扨(さて)桂之助(かつらのすけ)の継母(けいぼ)。蜘(くも)
手(で)の方(かた)といふは。志(こゝろざし)毒悪(どくあく)にして。かねて桂之助(かつらのすけ)夫婦(ふうふ)をにくみいかにもして
桂之助(かつらのすけ)を失(うしな)ひ。実子(じつし)花形丸(はながたまる)を。家督(かとく)にせまほしと思(おも)ひ居(ゐ)けるが。思(おも)ひよらず
桂(かつら)之助 勘当(かんだう)の身(み)となりたれば。心中(しんぢう)ひそかに喜(よろこ)び。もし又 月若(つきわか)家督(かとく)にならん
こともやとおもへば。何(なに)とぞしてかれ等(ら)母子(ぼし)を失(うしなは)んとたくみぬ。しかりといへども
かれ等(ら)には。忠臣(ちうしん)名古屋(なごや)父子(ふし)つきそひ居(い)て。片時(へんし)も心(こゝろ)をゆるさねば。いかにとも
せんかたなく打過(うちすぎ)けるが。不破(ふは)道犬(だうけん)奸智(かんち)ふかければ。蜘手(くもで)の方(かた)の心底(しんてい)
悪意(あくい)あることを見(み)ぬき。これ我(わが)大望(たいまう)をとぐるよき便(たより)なりとおもひ。一時(あるとき)蜘(くも)
手(で)の方(かた)に近(ちか)づき。好意(かうい)深(ふか)き体(てい)にいひなして探(さぐ)りこゝろ見(み)るに。果(はた)して月(つき)
若(わか)母子(ぼし)を矢(うしな)ひ。花形丸(はながたまる)を家督(かとく)にしたき望(のぞ)みなれば。道犬(だうけん)しかるうへは
何事(なにごと)も某(それがし)にまかせ玉へ。よきにはからひまいらせんとうけがひけるにぞ。蜘手(くもで)のかた
なのめならず喜(よろこ)びぬ。かくて道犬(だうけん)蜘手(くもで)の方(かた)と密談(みつだん)し。先(まづ)月若(つきわか)を呪咀(しゆそ)
すべきにきはめ。其比(そのころ)よく呪咀(しゆそ)の法(ほふ)を学得(まなびえ)たる。頼豪院(らいがういん)といふ修験者(しゆげんじや)を
ひそかにまねき。射物(しやもつ)をおほく与(あた)へてたのみけるに。貪欲(とんよく)深(ふか)きものなれば。速(すみやか)
にうけがひ。密室(みつしつ)にとぢこもりて修法(じゆほふ)にぞかゝりける。さるほどに平群(へくり)の下(しも)
館(やかた)には。銀杏前(いてふのまへ)月若(つきわか)母子(ぼし)両人(りやうにん)移住(うつりすみ)。名古屋(なごや)父子(ふし)これを守護(しゆご)して
ありけるが。月若(つきわか)はことし已(すで)に十一 才(さい)にぞいたりける。しかるに月若(つきわか)偶(ふと)病(やまひ)を生(しやう)じて
打臥(うちふし)。寝食(しんしよく)安(やす)からず。次第(しだい)に痩(やせ)おとろへ。良医(れうい)をえらび霊薬(れいやく)を与(あた)ふる
といへども。更(さら)にしるしなく。たま〳〵眠(ねぶ)ればおそはれおびゆること度(たび)々なり。
殊更(ことさら)怪(あやし)むべきは。深夜(しんや)にいたれば看病(かんびやう)の男女(なんによ)おぼへずねふりを生(しやう)じ。
鼠(ねずみ)おほく出(いで)て病床(びやうしやう)を飛(とび)めぐる。後(のち)には昼(ひる)も出(いで)て人(ひと)をもおそれず。しだい〳〵に
充満(じうまん)し。月若(つきわか)の髪(かみ)の毛(け)をくらひ。肉(にく)をもくひやぶり。頭(かしら)に毒瘡(どくそう)を発(はつ)して
痛(いたみ)堪(たへ)がたく。心気(しんき)日(ひ)をおひておとろへけり。母(はゝ)銀杏前(いてふのまへ)歎(なげき)悲(かな)しむことおほかた
ならず。神社(しんじや)仏閣(ぶつかく)に立願(りうぐわん)し。名僧(めいそう)知識(ちしき)の加持祈祷(かぢきとう)を乞(こふ)といへども。
妖鼠(ようそ)しりぞかず。益(ます〳〵)怪(あやし)きことのみおほかりけり。名古屋(なごや)父子(ふし)は昼夜(ちうや)病床(びやうしやう)を
はなれず。看病(みとり)けるが。三郎左衛門 山(さん)三郎にむかひていひけるは。我(われ)
曽(かつ)て酉陽雑組(ゆうやうざつそ)を見(み)るに。人(ひと)夜(よる)臥(ふす)にゆゑなうして髻(もとゞり)を失(うしな)ふ者(もの)鼠(ねずみ)の
妖(よう)なり。又 鼠(ねずみ)人(ひと)および牛馬(ぎうば)に着(つく)ことありて昼夜(ちうや)避(はなれ)ず。いかんともすることなし
といへり。若君(わかぎみ)の御客体(ごようだい)をうかゞふに。彼(かの)書(しよ)に記(しる)す所(ところ)の。尋常(よのつね)の妖(よう)
鼠(そ)とおなじからず。うたがふらくは呪咀(しゆそ)する者(もの)ありて障礙(しやうげ)をなすとおぼゆる
なり。汝(なんじ)心(こゝろ)をつけて怪異(けい)の出所(しゆつしよ)を見(み)あらはすべしといひければ。山(さん)三郎
某(それがし)も左(さ)こそ思(おも)ひ候なれとて。これより別(べつ)して心(こゝろ)をもちひ。寝殿(しんでん)の四方(しはう)に
眼(まなこ)をくばりて守護(しゆご)しけり。さて一夜(あるよ)丑(うし)三ツのころ。銀杏(いてふ)の前(まへ)をはじめ。
御手医者(おんていしや)。乳母(めのと)侍女等(こしもとら)もおぼへずねふりを生(しやう)じたるに。不思議(ふしぎ)や
丈(たけ)抜群(ばつぐん)の大鼠(おほねずみ)。行廊(ほそどの)の方(かた)より歩(あゆ)み来(きた)る。形(かたち)は常(つね)の鼠(ねずみ)にかはらずといへ
ども。其(その)おほきさは犬(いぬ)のごとく。すさまじき形勢(ありさま)なり。あなあやしやと
山(さん)三郎。刀(かたな)を携(たづさ)へつらづえつき。瞬(またゝき)もせず見(み)ゐたるに。かの鼠(ねづみ)いきほひ
こみて。若君(わかぎみ)の病床(びやうしやう)近(ちか)く飛来(とびきた)る。山三郎いそがはしく立上(たちあが)り刀(かたな)を抜(ぬき)。
まちまうけて丁(ちやう)ど切(きる)に。妖鼠(ようそ)はやく身(み)をおどらして剣(つるぎ)を避(さけ)。あかり障子(しやうじ)を
蹴(け)やぶりて。庭上(ていしやう)に走(はし)り出(いで)築墻(ついぢ)のうへに飛(とび)のぼる。山三郎 追(おひ)かけいで。手(て)
ばやく小柄(こづか)を抜(ぬき)とりて。はつしと打(うて)ばあやまたず。鼠(ねずみ)の額(ひたい)にずばとたち。鮮(せん)
血(けつ)たら〳〵と流(なが)れけるが。忽(たちまち)一道(いちたう)の煙(けふり)のごとき妖気(ようき)立(たち)のぼり。頼豪院(らいがういん)が
姿(すがた)髣髴(ほうほつ)とあらはれたり。山三郎さてこそ怪(あやし)き曲者(くせもの)と思ひつゝ。おどり上(あが)りて
頛額(まつかう)二つと斬(きり)つくる。頼豪院(らいかういん)閃(ひらり)と身(み)を避(さけ)。平形金珠(いらがたすゞ)をおしもみて。
【挿絵】
佐々木(さゝき)
桂之助(かつらのすけ)の
若君(わかぎみ)月若(つきわか)
妖鼠(ようそ)の
所為(しよい)にて
奇病(きびやう)を
わづらふ
月わか
いてふの前
なごや三郎左衛門
なごや山三
呪文(じゆもん)をとなふれば。忽(たちまち)暴風(ぼうふう)ふきおこり。庭(には)の樹木(じゆもく)の葉(は)をちらし。池水(いけみづ)を
巻(まき)あげ。寝殿(しんでん)大(おほい)に震動(しんどう)し。瓦落(ぐわら)々々(〳〵)と鳴(なり)どよみて。今(いま)も崩(くづるゝ)かとおも
はれけり。時(とき)に若君(わかぎみ)の声(こへ)として。あなや〳〵とおめき玉へば。大勢(おほぜい)の声(こへ)として
泣悲(なきかな)しみてかまびすし。聞(きく)にたへざる山(さん)三郎。那裏(かしこ)も気(き)づかひ。這裏(こゝ)も
去(さら)れず。ふたゝび刀(かたな)を打(うち)ふりてきらんとせしが。頼豪院(らいがういん)口(くち)より数(す)十の鼠(ねずみ)を
吐(はき)。その鼠(ねづみ)山三郎に飛(とび)かゝり。五体(ごたい)すくみてはたらかれず。あな口(くち)おし残念(ざんねん)
といひつゝ。又きりつくれば忽(たちまち)に。頼豪院(らいがういん)が形(かたち)きへうせて。唯(たゞ)雲(くも)霧(きり)の
とぢふさがりたるごとくにて。あやめもわかぬ庭上(ていしやう)に。只(たゞ)ひとり山三郎。挙(こぶし)を
にぎり歯(は)をかみならし。虚空(こくう)をにらみて立(たつ)たりけり。頼豪院(らいがういん)はあやうく
身をのがれたりといへども。山三郎が忠義(ちうぎ)一図(いちづ)に精神(せいしん)をこめたる手(しゆ)
裏剣(りけん)の疵(きず)治(ち)せずして。呪咀(しゆそ)の法(ほふ)忽(たちまち)に破(やぶ)れければ。おのづから若君(わかきみ)の
病(やまひ)日(ひ)を追(おひ)て怠(おこた)り危(あやうき)命(いのち)をたもちけり
八 暗夜(あんや)の駿馬(しゆんめ)
扨(さて)も蜘手(くもで)のかたは。頼豪院(らいがういん)の修法(じゆほう)破(やぶ)れ。月若(つきわか)快気(くわいき)のよしを聞(きゝ)て。大に
力(ちから)をおとし。此(この)うへはいかなる計(はかり)をもつてか。彼等(かれら)を失(うしな)ふべきと。道犬(たうけん)をめして
密談(みつだん)ありけるに。奸智(かんち)おほき道犬(だうけん)。少(すこ)しも屈(くつ)せず。再(ふたゝび)又(また)一計(いつけい)を生(しやう)じ。蜘手(くもで)の
方(かた)の耳(みゝ)につきてさゝやけば。蜘手(くもで)の方(かた)とくと聞(きゝ)。これきはめて妙計(めうけい)なり
と喜(よろこ)び。いつはりて重病(ちゆうびやう)の体(てい)をなし。ものくるはしきさまをなしければ。判官(はんぐわん)
貞国(さだくに)大におどろき。道犬(だうけん)をめして医療(いれう)のことを相談(さうだん)あるに。道犬(だうけん)申し
けるは。。奥方(おくがた)の御容体(ごようだい)をうかゞふに。たゞことならず。まさしく邪崇(じやすい)の所為(しよい)と
おぼへ候へば。たとひ耆婆(ぎば)扁鵲(へんじやく)が神方(しんはう)なりとも。薬(くすり)の力(ちから)をもつてすくひ
申すことはかなふべからず。近曽(ちかごろ)京都(きやうと)より下(くだ)りし。頼豪院(らいがういん)といふ修験者(しゆげんしや)。
安部(あべ)の晴明(せいめい)が金烏玉兎(きんうぎよくと)の神書(しんしよ)を家伝(かでん)し。卜筮(ぼくぜい)に妙(みやう)を得(え)たる
ものに候へば。かれをめしてうらなはせ。おん聞(きゝ)あれかし。幸(さいはひ)唯今(たゞいま)某(それがし)宅(たく)に参(まい)り
居(ゐ)候と申す。貞国(さだくに)これを聞(きゝ)それいそぎてめしよべとおふせけれは。道犬(たうけん)
かしこみ候とて。やがて私宅(したく)にいひつかはしけり。頼豪院(らいがういん)は額(ひたい)の疵(きす)やう
やく癒(いへ)。再(ふたゝひ)道犬(だうけん)が奸計(かんけい)にくみしけるが。召(めし)に応(おう)じて。貞国(さだくに)の目どほりに
まかりいでぬ。身(み)の丈(たけ)たかく眼中(がんちう)光(ひか)り。斬髪(ざんはつ)ちゞれてらほつのごとく。兜巾(ときん)
篠懸(すゞかけ)に。紅紗(こうしや)の衣(ころも)を着(ちやく)し。最多角(いらたか)の念珠(ずず)を袖(そで)くゝみに持(もち)。中啓(ちうけい)
の扇(あふぎ)を把(とり)。あたりもまばゆき金張付(きんばりつけ)の広坐敷(ひろざしき)に。おめずおくせず
坐(ざ)したる体(てい)。誠(まこと)にいかなる悪魔(あくま)をも。降伏(ごうぶく)すべき骨柄(こつがら)なり。貞国(さだくに)まづ
初見(しよけん)の挨拶(あいさつ)おはり。奥方(おくがた)の病体(びやうたい)を告(つげ)て卜筮(ぼくぜい)を乞(こい)れけるに。頼豪院(らいがういん)
恭(うや〳〵し)く卦(け)を敷下(しきくだ)し。孝(かんがへ)を施(ほどこ)していはく。奥方(おくがた)の御病気(こびやうき)。全(まつた)く呪咀(しゆそ)する
者(もの)ありて。苦(くる)しめ申すに疑(うたかひ)なし。今四五日を過(すぎ)なば。御命(おんいのち)危(あやう)かるべし。
若(もし)疑(うたがは)しくおぼし玉はゞ。御寝所(ごしんしよ)の庭中(ていちう)。艮(うしとら)の隅(すみ)の土中(どちう)三尺をほらせ
見たまはゞ。分明(ふんめい)なるべしといふ。貞国(さだくに)半信半疑(はんしんはんぎ)ながら。近仕(きんじ)の士(もの)に命(めい)じ
玉へば。近仕(きんじ)の士(もの)かしこにいたり。土中(どちう)をほらしむるに。果(はた)して一合(いちがう)の白木(しらき)の
箱(はこ)を得(え)て携(たづさ)へ来(きた)り。貞国(さだくに)にたてまつる。貞国(さだくに)これをひらき見るに。内(うち)に
大小二ツの藁人形(わらにんぎやう)ありて。すき間(ま)もなく釘(くぎ)を打(うち)たり。貞国(さだくに)大に驚(おどろ)きて。
頼豪院(らいがういん)が詞(ことば)を奇(き)なりとし。これ呪咀(しゆそ)にうたがひなけれど。別(べつ)に一物(いちもつ)も
なければ。何人(なにびと)の所為(しはざ)なるや。分別(ふんべつ)しがたしといはれけるに。頼豪院(らいがういん)膝(ひさ)を
すゝめ。凡(およそ)呪咀(しゆそ)の法(ほふ)には。願書(ぐわんしよ)なくてはかなひがたし。其(その)箱(はこ)これへといひて
箱(はこ)を取(とり)あげ。つら〳〵見て。やがて扇(あふぎ)の尻(しり)をもつて。箱(はこ)の底(そこ)をつきぬき
けるに。かさね底(そこ)にして其(その)うちより一通(いつつう)の願書(ぐわんしよ)出(いで)たり。貞国(さだくに)これを
【挿絵】
名古屋(なこや)山三郎
若君(わかぎみ)の寝殿(しんでん)に
宿侍(とのい)し妖鼠(ようそ)に
手裏剣(しゆりけん)を打(うつ)
俄(にわか)に暴風(ぼうふう)起(おこり)て
寝殿(しんでん)
鳴動(めいどう)す
なごや山三
なごや三郎左衛門
とりひらき見れば。蜘手(くもで)の方(かた)花形丸(はながたまる)。両人(りやうにん)を呪咀(しゆそ)するの願文(ぐわんもん)にて。銀杏(いてふの)
前(まへ)月若(つきわか)両人(りやうにん)願主(ぐわんしゆ)の名(な)あり。しかも銀杏(いてふ)の前(まへ)の自筆(じひつ)をもつてかき
たれば。うたがふべうもあらず。貞国(さだくに)忽(たちまち)怒気(いかり)心頭(しんとう)におこり。面色(めんしよく)変(へん)じて。
しばらくものもいはざりけるが。先(まづ)頼豪院(らいがういん)に。呪咀(しゆそ)をはらひのぞく修法(じゆほふ)を頼(たのみ)
けるにより。蜘手(くもで)の方(かた)の病症(びやうしやう)に壇(だん)をかざりて。災禳(さいしやう)の法(ほふ)を修(じゆ)し。かの
藁人形(わらにんきやう)は釘(くぎ)をぬき。護摩(ごま)の火中(くわちう)に投(たう)じて。焼(やき)すてたり。かくて蜘手(くもで)の方(かた)。
やう〳〵快気(くわいき)の体(てい)をなし。貞国(さだくに)にむかひていひけるは。妾(わらは)ことかねて銀杏前(いてふのまへ)
母子(ぼし)を。実(じつ)の娘(むすめ)実(じつ)の孫(まご)といつくしみ。何(なに)とぞ桂之助(かつらのすけ)の勘当(かんとう)をゆるし
たまふか。さらずば。月若(つきわか)を家督(かとく)にしたまふやうにと。それのみ宿願(しゆくくわん)なるに。
かれらはかへりて妾(わらは)を継母(まゝはゝ)といみきらひ。若(もし)花形丸(はなかたまる)家督(かとく)にならんこともやと。
さきぐりして。妾(わらは)親子(おやこ)を呪咀殺(のろひころさ)んとは計(はかり)候ならん。美麗(うつくしき)顔(かほ)して心は
鬼(おに)よりもなほおそろしく候。こひねがはくは。妾(わらは)親子(おやこ)にはやくいとまをたまはり。
尼法師(あまほふし)ともなし玉はれかし。我(われ)々かくてあらば。ついにはかれらが生霊(いきりやう)にとり
殺(ころ)され候らはめ。などてさばかり妾(わらは)親子(おやこ)を忌(いみ)きらふぞ。情(なさけ)なき銀杏前(いてふのまへ)やと
いひて。涙(なみだ)を滝(たき)のごとく流(なが)しぬ。此時(このとき)花形丸(はながたまる)は年(とし)已(すで)に十六才。いまだ了角(つのがみ)
にてありけるが。母(はゝ)の悪性(あくせい)には露(つゆ)ほども似(に)ず志(こころさし)正(たゞ)しき生(うま)れなり。素(もとより)母(はゝ)
の非望(ひぼう)をしらず。此日(このひ)の子細(しさい)を聞(きゝ)て大に歎息(たんそく)し。かゝる凶事(きようじ)のいでくる
こと。皆(みな)これ某(それがし)が誤(あやまり)なり。檀弓篇(だんきうのへん)に。昆第(こんてい)の子(こ)は猶(なほ)己(おのれ)か子(こ)のごとしといへり。
某(それかし)月若(つきわか)に対(たい)して。鄧(とう)伯道(はくだう)がごとき志(こゝろざし)なきゆへなりとて深(ふか)く悲(かなし)みけり。
判官(はんぐわん)貞国(さだくに)蜘手(くもで)の方(かた)の恨(うらみ)の詞(ことば)。花形丸(はなかたまる)が理(ことわり)おほき詞(ことは)を聞(きゝ)て。銀杏前(いてふのまへ)
母子(ぼし)を益(ます〳〵)にくみ。親(おや)を呪咀(しゆそ)する大罪人(たいさいにん)。片時(へんし)もたすけおきがたしとて。黒星(くろほし)
眼平(がんへい)といふものをめし出(いだ)し。銀杏前(いてふのまへ)月若(つきわか)両人(りやうにん)の首(くび)打(うつ)て来(きた)れと
【挿絵】
修験者(しゆげんじや)頼豪院(らいがういん)不破(ふは)道犬(だうけん)にたのまれ
妖術(ようじゅつ)を施(ほどこ)して毒鼠(どくそ)と化(け)し
月若(つきわか)をとり殺(ころさ)んと近(ちか)づきたるが
名舌屋(なごや)
山三郎が
手裏剣(しゆりけん)に
額(ひたい)を打(うた)れて真(まこと)の姿(すがた)をあらはし
修法(しゆほう)破(やぶ)る
頼豪院
【本文】
命(めい)じければ。蜘手(くもで)の方(かた)道犬(だうけん)と顔(かほ)見合(みあわせ)。しすましたりとおもひながら。これを
とゞめけれども。貞国(さだくに)聞入(きゝいれ)ず。花形丸(はながたまる)は殊更(ことさら)に。詞(ことば)をつくしてとゞむれども。
火性(くわせい)短気(たんき)の貞国(さだくに)。少(すこ)しも宥免(ゆうめん)なかりければ。もとより道犬(だうけん)一味(いちみ)の黒星(くろぼし)
眼平(がんへい)。迷惑顔(めいわくかほ)にて其(その)坐(ざ)を退(しりそ)き。君命(くんめい)といへども。母子(ぼし)の首(くび)うたんと
いはゞ。名古屋(なごや)父子(ふし)。たやすくは渡(わた)すまじ。しかる時(とき)はかれ等(ら)ともに打(うち)とらん
とおもひつゝ。四五十人の荒男等(あらしをども)を引具(ひきぐ)して。平群(へぐり)の館(やかた)へいそぎゆく。
鳴呼(あゝ)銀杏前(いてふのまへ)親子(おやこ)の身(み)のうへ。危(あやう)かりける次第(しだい)なり。此事(このこと)はやく
下館(しもやかた)に聞(きこ)へければ。名古屋(なごや)父子(ふし)大に驚(おどろ)き。三郎左衛門山三郎に
むかひ。これ正(まさ)しく不破(ふは)道犬(だうけん)が奸計(かんけい)にて。姫君(ひめぎみ)にぬれ衣(きぬ)をおはせ。御母(ごほ)
子(し)を失(うしな)はんとはかりしに疑(うたがひ)なし。(うつて)打手のむかはぬさき。某(それかし)急(いそ)ぎ上館(かみやかた)にいたり。
一命(いちめい)にかへても申しひらきして。御命(おんいのち)を救(すくひ)まいらせんとて。いそがしはく礼服(れいふく)を
着(き)かへ。椽先(ゑんさき)に馬(うま)をひかせてひらりと打乗(うちのち)。供人(ともびと)のそろふひまもおそしと
心(こゝろ)せき。鹿蔵(しかぞう)といふ下部(しもべ)に提灯(てうちん)もたせ。走出(はせいで)んとしたるに。三郎左衛門が刀(かたな)
鞘(さや)ばしりければ。山三郎 気(き)にかゝり。轡(くつは)づらにとりつきつゝ。親人(おやびと)御如在(ごぢよさい)はある
まじきが。道犬(だうけん)は奸智(かんち)おほき者(もの)なれば。かならず彼(かれ)が計(はかりこと)におち。ともに
罪(つみ)を得(え)玉ふな。一言(いちごん)の詞(ことば)も心(こゝろ)をつけてのたまへといへば。三郎左衛門打
うなづき。それ合点(がてん)なり。かならず気(き)づかふ事(こと)なかれ。かゝる内乱(ないらん)のときは。
御側(おんそば)近(ちか)き者等(ものども)にも油断(ゆだん)ならねば。唯(たゞ)御二方(おんふたかた)をよく守護(しゆご)すべしといひ
捨(すて)て。一鞭(ひとむち)あて。飛(とぶ)がごとくに走(はし)りゆく。山三郎 身(み)をそばたてゝ。かげ見ゆる
まで見おくりけるが。折(をり)しもねぐらにもぐる夕烏(ゆふからす)。いと悲(かな)しげに鳴(なく)を聞(きゝ)。かく烏(からす)
なきのあしきは。御二方(おんふたかた)の御身(おんみ)のうへか。親人(おやひと)の身のうへか。いづれにも
あれ。あな気(き)づかはしと吐息(といき)して。胸(むね)をいたむるばかりなり。これぞ一世(いつせ)の別(わかれ)
とは。後(のち)にぞ思(おも)ひしられける。爰(こゝ)に又 不破(ふは)伴(ばん)左衛門 重勝(しげかつ)は。先年(せんねん)君命(くんめい)
とはいひながら。名古屋(なごや)山三郎に。草履(ざうり)をもつて面(おもて)を打(うた)れしを。ふかく
遺恨(いこん)に思(おも)ひ。笹野(さゝの)蟹蔵(がいぞう)。藻屑(もくづの)三平(さんへい)。土子(つちこ)泥助(でいすけ)。犬上(いぬがみ)雁八(がんはち)等(ら)四人の
者(もの)をかたらひ夜(よる)々 平群(へぐり)の館(やかた)の近辺(きんへん)を俳徊(はいくわい)して。山三郎をつけねらひ
けるが。此夜(このよ)も此辺(このへん)に忍(しの)び来(きた)りてうかゞひぬ。此夜(このよ)は宵闇(よひやみ)といひ空(そら)かきくもりて
星(ほし)も見(み)へず。あやめもわかぬ暗夜(あんや)にてありけるが。三郎左衛門 鹿蔵(しかぞう)に提灯(てうちん)
持(もた)せ。馬(うま)を飛(とば)せて急(いそ)ぎ来(く)るを。伴(ばん)左衛門 等(ら)五人の者(もの)。三本傘(さんぼんくわさ)の
紋(もん)つきたる提灯(ちやうちん)を見て。山三郎にうたがひなしと思(おも)ひ。物蔭(ものかげ)より一同(いちどう)に
おどり出(いで)。まづ提灯(ちやうちん)をはつしときり落(おと)せば。鹿蔵(しかぞう)飛(とび)すさり。一腰(ひとこし)に手(て)を
かけて。何者(なにもの)なるやとすかし見る。三郎左衛門は馬(うま)をとゞめ。こは辻斬(つぢぎり)の
曲者(くせもの)か。盗賊(とうぞく)の所為(しわざ)かといひつゝ。肩衣(かたきぬ)はねのけ。一刀(いつとう)を抜(ぬき)ながら。馬(うま)より
飛(とび)くだるひまもあらせず。伴(ばん)左衛門が斬(きり)つくる白刃(しらは)の稲妻(いなづま)。目前(もくぜん)に閃(ひらめき)
ければ。老功(ろうこう)頓智(とんち)の三郎左衛門。馬(うま)のかげに身(み)を避(さく)るにぞ。伴(ばん)左衛門が
刀(かたな)いたづらに鐙(あぶみ)にはつしときりつけて。火花(ひばな)ぱつと飛散(とびちつ)たり。暗夜(あんや)といひ
木立(こだち)しげき所(ところ)なれば。一寸(いつすん)さきも見わからず。藻屑(もくづの)三平 土子(つちこ)泥助(でいすけ)馬(うま)の
脚音(あしおと)を心(こゝろ)あてに。前後(ぜんご)よりきりつくるに。目(め)あてちがひ思(おも)はず両人(りやうにん)同士(たうし)
打(うち)に丁(ちやう)ど打合(うちあは)す剣(つるぎ)の下(した)を。くゞりぬけて三郎左衛門。はらひぎりにきる
刀(かたな)。大上(いぬがみ)雁八(がんばち)が鼻(はな)のさきに光(ひり)ければ。胸(むね)ひやりとしてのけぞりけり。伴(ばん)左衛門
心中(しんちう)に。此時(このとき)を過(すご)さばいつか恨(うらみ)をはらさんと思(おも)ひつゝ。息(いき)をこらしてうかゞへば。三平
泥助(でいすけ)雁(がん)八 等(ら)も。あたりを探(さぐ)りて立(たち)まはり。或(あるひ)は互(たがひ)に同士打(どしうち)して薄手(うすで)をおひ。
或(あるひ)へ木立(こだち)にきりつけて気(き)をいらつ。三郎左衛門は。今宵(こよひ)にせまる大事(だいじ)を
かゝへたる身(み)なれば。好(このみ)て戦(たゝかふ)心(こゝろ)なく。早(はや)く此場(このば)をのがればやと気(き)はせけども。
四人の者(もの)にかこまれてせんすべなく。うかゞひすましてきりつくる刀(かたな)。三平が
片耳(かたみゝ)をそぎ。二の太刀(たち)に雁八(がんはち)が小指(こゆび)をきり落(おと)しければ。両人(りやうにん)心(こゝろ)臆(おく)して
はたらくことあたはず。さて泥(でい)助がさぐりよつたる刀(かたな)のきつさき。三郎左衛門が
刀(かたな)に丁(ちやう)ど打合(うちあはせ)たがひにこゝぞと思ひつゝ。丁(ちやう)々はつしと打合(うちあふ)たり。伴(ばん)左衛門
その太刀音(たちおと)を心(こゝろ)あてに。抜足(ぬきあし)して。背後(うしろ)より。勢(いきほひ)こみて切(きり)つくる刀(かたな)。あや
またず。三郎左衛門が肩尖(かたさき)。七八寸 切(きり)こみぬ。痛手(いたで)に屈(くつ)せぬ強気(がうき)と
いへども。さすが老人(ろうじん)なれば。たぢ〳〵とよろめく所(ところ)を。伴(ばん)左衛門。たゝみかけて
左(ひだ)りの脇腹(わきはら)を深(ふか)く切(きり)こみければ。三郎左衛門こらへず一声(ひとこへ)呀(あ)とさけびて。
尻居(しりゐ)に噇(どう)たふれたり。伴(ばん)左衛門 探(さぐ)りより。髻(もとゞり)つかみてねぢふせ。これは
伴(ばん)左衛門 重勝(しげかつ)なり。いかに山三郎。汝(なんぢ)君命(くんめい)とはいひながら。先年(せんねん)我(われ)を辱(はづかし)め
たる恨(うらみ)。骨髄(こつずい)にとをりて忘(わす)れがたし。今(いま)其(その)仇(あた)を報(むくゆ)るぞとて懐中(くわいちう)より。
【挿絵】
不破(ふわ)道犬(だうけん)
蜘手(くもで)の方(かた)と
計(はか)り
銀杏(いてふ)の前(まへ)
月若(つきわか)母子(ぼし)を
讒(ざん)す
花形丸
不破道犬
くもでの方
判官貞国
眼平
物(もの)に包(つゝみ)し草履(ぞうり)のかたしを取出(とりいだ)し。これはこれ先年(せんねん)汝(なんぢ)我(われ)を辱(はづかし)め
たる上草履(うはぞうり)なり。胆玉(きもたま)にこたへよといひつゝ。連打(つゞけうち)に打(うち)けるにぞ。三郎
左衛門 苦(くる)しげに息(いき)をつき。汝等(なんぢら)は辻切(つぢぎり)か盗賊(とうそく)かと思(おも)ひつるに。さては
伴(ばん)左衛門にてありけるか。我(われ)はこれ三郎左衛門なるはといふ声(こゑ)聞(きゝ)て。扨(さて)は
人たがへせしかと。伴(ばん)左衛門 等(ら)一同(いちどう)におどろきけり。三郎左衛門 刀(かたな)にすがり
て立上(たちあが)り。児子(せがれ)に仇(あた)をむくふにもせよ。だまし打(うち)とは比興(ひきやう)な奴(やつ)。我(われ)
年(とし)こそ老(おひ)たれ。名乗合(なのりあひ)の勝負(しやうぶ)ならば。汝等(なんぢら)ごときの鼠輩(そはい)ども。数(す)
十人 来(きた)るとも物(もの)の数(かず)とはおもはねども。暗打(やみうち)にせらるゝとは。武運(ぶうん)につき
たる身(み)のはてよ。死(しぬ)る命(いのち)はおしからねど。唯(たゞ)心残(こゝろのこ)りは。御二方(おんふたかた)の安否(あんぴ)を
聞(きか)で相果(あいはつ)るかなしさよといひつゝ。よろぼひまわるを伴(ばん)左衛門すかし見て。
合破(がば)と蹴倒(けたふ)し。山(さん)三郎と思(おも)ひの外(ほか)。運(うん)の尽(つき)たるおひぼれめ。山(さん)三に
あらぬは残念(ざんねん)なれど。汝(なんぢ)を打(うち)しも又 此方(このほう)に。幸(さいはひ)とすることあり。間話(むだこと)いはず
とく死(し)ねかしとにくさげに罵(のゝしり)つゝ。めつた切(ぎり)にきりければ。三平(さんへい)。泥助(でいすけ)。雁八等(がんはちら)
も。三郎左衛門が苦痛(くつう)の声(こゑ)をしるべに立(たち)よりて。寸々(ずだ〳〵)に斬(きり)つけ。鱠(なまず)のやう
にぞなしたりける。折(をり)しも寺(てら)〴〵の鐘(かね)打交(うちまぜ)て。諸行無常(しよぎやうむじやう)と告渡(づげわた)り。
小田(をた)の蛙(かわつ)の鳴(なき)たちて。いとゞ哀(あはれ)をそへにけり。僕(しもべ)鹿蔵(しかぞう)は先程(さきほど)より。
笹野(さゝの)蟹蔵(がいぞう)と渡(わた)り合(あひ)。深田(ふかだ)の中(うち)に踏(ふみ)こみて。たがひに呼吸(こきう)の息(いき)を
心(こゝろ)あてに戦(たゝかひ)。双方(そうほう)薄手(うすで)をおひけるが。鹿蔵(しかぞう)三郎左衛門と伴(ばん)左衛門が
いひあふ詞(ことば)を遥(はるか)に聞(きゝ)つけ。扨(さて)は彼奴(きやつ)遺恨(いこん)により。人(ひと)たがへして。はや
御主人(ごしゆじん)を手(て)にかけしかと仰天(ぎやうてん)し。蟹蔵(がいぞう)を捨(すて)て。主人(しゆじん)の声(こえ)する方(かた)へ
探(さぐ)りゆかんとするを。三平 雁(がん)八さはさせじと立(たち)ふさがり。両人(りやうにん)ひとしく切(きり)かけ
たり。鹿蔵(しかぞう)これを丁(ちやう)とうけとめ。又もゆかんとしたる時(とき)。雨雲(あまぐも)はれて一輪(いちりん)の
明月(めいげつ)皎々(けう〳〵)とかゝやき出(いで)。木(こ)の間(ま)をもりて光(ひか)りあきらかなりければ。鹿蔵(しかぞう)
五人の顔(かほ)を見(み)るに。伴(ばん)左衛門をはじめ四人の者(もの)。皆(みな)見(み)しりたるもの
どもなり。五人の者(もの)も鹿蔵(しかぞう)は。かねて見(み)しりの下部(しもべ)なれば。生(いけ)おきては後日(ごにち)
のさまたげなりと。一同(いちどう)にとりまきて。きつさき揃(そろへて)て切(きり)つくる。勢(いきほひ)猛(たけき)鹿蔵(しかぞう)も。
双拳(そうけん)四手(ししゆ)に敵(てき)しがたく。ほど〳〵危(あやう)く見へたる所(ところ)に。三郎左衛門が乗(じやう)
馬(め)。一声(ひとこゑ)いばえて荒出(あれいだ)し。五人の者(もの)を踏(ふみ)たふし踢(け)たふしければ。
五人の者(もの)は大に狼狽(うろたへ)。はたらきかねてぞ見へたりける。鹿蔵(しかぞう)大わらはに
なり。命(いのち)を限(かぎ)りに刀(かたな)をまはし。四面(しめん)八方(はつほう)をきりたつる。五人の者(もの)一方(いつほう)は荒馬(あらうま)に
踢(け)ちらされ。一方(いつほう)は鹿蔵(しかぞう)が死物狂(しにものぐるひ)にきりたてられ。ついに敵(てき)することあた
はず。いちあし出(いだ)して逃(にげ)いだせば。鹿蔵(しかぞう)主人(しゆじん)の敵(かたき)のがさじやらじとよばゝりつゝ。
葦駄天走(いだてんばし)りに追行(おひゆき)けり。かゝる折(をり)しもむかふの方(かた)より。黒星(くろぼし)眼平(がんへい)。四五十
人(にん)の荒男(あらしほ)どもを引具(ひきく)し。高挑灯(たかちやうちん)を前(まへ)にたてゝ。行列(ぎやうれつ)をつらね。あたりを
払(はら)ひて足(あし)ばやにすゝみ来(く)る。鹿(しか)蔵これを屹(きつ)と見(み)て。正(まさしく)是(これ)上館(かみやかた)の打手(うつて)
ならん。立帰(たちかへ)りて註進(ちうしん)すべきか。彼等(かれら)を追(おひ)て仇(あた)を報(むくは)んかと。心(こゝろ)は二ツ
身(み)しばらく猶予くださるべしといはせも果ずいな〱厳命なれば片時もは一ツ。ゆきては思案(しあん)し。もどりては躊躇(ちうちよ)し。おなじ所(ところ)をいく度(たび)か。ゆきつ
もどりつひまどりぬ。黒星(くろぼし)眼平(がんへい)は時刻(じこく)をうつさず。平群(へぐり)の下館(しもやかた)にはせむかひ。
これは大殿(おほとの)の厳命(げんめい)をかうふり。銀杏前(いてふのまへ)どの月若(つきわか)どの。親子(しんし)の御首(おんくび)を
たまわらん為(ため)むかふたり。名古屋(なごや)父子(ふし)はいづくにあるぞ。はやく御二方(おんふたかた)をわたす
べしと。声(こゑ)たからかによばゝりければ。すは一大事(いちたいじ)と第中(ていちう)大に騒動(そうたう)し。名古屋(なごや)
山(さん)三郎 走出(はしりいで)。其(その)儀(ぎ)先刻(せんこく)当館(とうやかた)に告(つぐ)る者(もの)あるにより。父(ちゝ)三郎左衛門
御助命(ごぢよめい)を願(ねが)んため。先刻(せんこく)上館(かみやかた)へまかり越(こ)し候へば。父(ちゝ)が帰(かへ)り候まで。
しばらく猶予(ゆうよ)くださるべしといはせも果(はて)ず。いな〳〵厳命(げんめい)なれば片時(へんし)も
【挿絵】
待(まつ)こと相(あい)ならず。若(もし)違背(いはい)におよばゝ。某(それがし)奥(おく)へ踏込(ふみこみ)て御首(おんくび)打(うつ)べし。返荅(へんとう)
いかにといふ。山(さん)三郎しかるうへは是非(ぜひ)におよばず。某(それかし)命(いのち)あらんかぎりは。
御二方(おんふたかた)を渡(わた)すこと。まかりならずといひつゝ。はや身支度(みじたく)して。すはと
いはゞ斬死(きりしに)すべき勢(いきほひ)なり。眼平(がんへい)あざみ笑(わらひ)。大殿(おほとの)のおふせを背(そむ)く不忠(ふちう)
者(もの)。先(まづ)彼(かれ)を打取(うちとれ)と下知(げち)すれば。大勢(おほぜひ)一度(いちど)に乱入(らんにう)し。山(さん)三郎をとり
かこみ。火花(ひばな)をちらして戦(たゝかひ)けり。こなたは多勢(たせい)山(さん)三郎はたゞ一人といへども。
忠義(ちうぎ)するどき太刀(たち)さきに斬(きり)まくられ。しどろにくづれて大庭(おほには)までさつと
ひく。其(その)ひまに山(さん)三郎。奥(おく)の殿(でん)にはせまいり。姫君(ひめぎみ)若君(わかぎみ)にむかひ。父(ちゝ)が
吉左右(きつさう)うけたまはるまでは。一且(ひとまづ)館(やかた)を御(おん)たちのきあれかしといふにぞ。
月若(つきわか)の乳母(めのと)柏木(かしわぎ)といふ者(もの)。女(をんな)ながらもかい〴〵しきものにて。妾(わらは)は若君(わかぎみ)をあづかり
ておちゆくべし。山三(さんざ)どのは姫君(ひめきみ)を守護(しゆご)して御たちのきあれかしとて。いそ
がはしく身支度(みがまへ)し。若君(わかぎみ)をせおひ。長刀(なぎなた)を小脇(こわき)にかいこみて。後門(うらもん)より落(おち)
行(ゆき)ぬ。山三郎は姫君(ひめぎみ)をおひまゐらせ。つゞいてのがれ出(いで)んとしたるが。はや
後門(うらもん)にも打手(うつて)のつはもの立(たち)まはりてさゝへたれば。山(さん)三郎しやもの〳〵しと
よばゝりつゝ。多勢(たせい)のうちをきりひらきて。生駒山(いこまやま)のかたへぞおちゆきける
道犬(だうけん)が奸計(かんけい)の子細(しさい)をたづぬるに。偽筆(にせふで)の達人(たつしん)をたのみ。銀杏前(いてふのまへ)の
手跡(しゆせき)を見せて。偽願書(にせぐわんしよ)をかゝしめ一味(いちみ)のものをして。かねて庭中(ていちう)に埋(うづ)め
おきけるときゝつ
山三郎 姫(ひめ)をせおひておち行(ゆき)。生駒山(いこまやま)の麓(ふもと)の辻堂(つぢとう)において。危難(きなん)に
あふこと。つぎの巻(まき)を読得(よみえ)てしるべし
巻之二終
【裏表紙】
《割書:不破伴左衛門|名古屋山三》昔語稲妻表紙 四
昔話(むかしがたり)稲妻(いなつま)表紙(びやうし)巻之三
江戸 山東京伝編
九 辻堂(つちとう)の危難(きなん)
かくて山(さん)三郎は。銀杏(いてふ)の前(まへ)をせおひ。生駒山(いこまやま)を越(こへ)て。河内(かはち)の国(くに)におちゆかんと。
東(ひがし)の麓(ふもと)。竹林寺(ちくりんじ)ちかきあたりまで。逃来(にげきた)りけるに。追人(おひて)ども明松(たひまつ)を
ふりてらして。近(ちか)々とおひつきければ。姫君(ひめぎみ)にあやまちあらんことを
おそれ。傍(かたはら)の辻堂(つぢどう)のうちに。おろしおきて引返(ひきかへ)し。追人(おひて)の大勢(おゝぜい)に向合(むかひあひ)て。
権(しばらく)戦(たゝかひ)けるが。追人(おひて)ども山(さん)三郎が猛(たけき)勢(いきほひ)におそれ。秋(あき)の木(こ)の葉(は)の散(ちる)ごとく。
四方(しはう)に乱(みだ)れて逃去(にげさ)りぬ。山(さん)三郎 今(いま)は心(こゝろ)安(やす)しと。辻堂(つぢどう)にかへりて見
れば。こはいかに銀杏(いてふ)の前(まへ)はおわさず。月(つき)の光(ひか)りによく見れば。堂上(どうしやう)の塵(ちり)
のなかに。足(あし)のあとあり。扨(さて)は追人(おひて)どもの計(はかりこと)にて。我(わが)戦(たゝかふ)ひまに。姫君(ひめぎみ)を
奪去(うばひゆき)つるに疑(うたがひ)なし。姫君(ひめぎみ)を奪(うばゝ)れて。なに面目(めんぼく)にながらふべきと心(こゝろ)を
決(けつ)し。刀(かたな)をとりなほして。ほど〳〵腹(はら)につきたてんとしたる折(をり)しも。僕(しもべ)
の鹿蔵(しかぞう)。総身(そうしん)朱(あけ)に染(そま)りながら走来(はせきた)り。此体(このてい)を見ていそがはしくおし
とゞめ。大息(おゝいき)つきて。不破(ふは)伴(ばん)左衛門。笹野(さゝの)蟹蔵(がいぞう)。藻屑(もくづの)三平(さんへい)。土子(つちこ)泥(でい)
助(すけ)。犬上(いぬがみ)雁八(がんはち)等(ら)。四人(よにん)の者(もの)をかたらひ。草履打(そうりうち)の宿恨(しゆくこん)により。人(ひと)たがへ
にて。三郎左衛門を打(うち)たる子細(しさい)を。涙(なみだ)ながらに物語(ものがたり)ければ。山(さん)三郎大に驚(おどろき)。
旦(かつ)怒(いか)り旦(かつ)悲(かなし)み。涙(なみだ)滝(たき)のごとくはふりおちて。しばし詞(ことば)もいでざりけり。
良(やゝ)ありていひけるは。今日(けふ)はいかなる悪日(あくにち)ぞ。おん館(やかた)の騒動(そうどう)といひ。姫君(ひめぎみ)
を奪(うばひ)とられ。しかのみならず。伴(ばん)左衛門 某(それがし)を打(うた)んとて。誤(あやま)りて親人(おやびと)
を打(うち)たる事(こと)。思へば某(それがし)が手を下(くだ)して親人(おやびと)を打(うち)たるも同然(どうぜん)なり。死(しぬ)も死(し)なれ
ぬ今夜(こんや)の仕義(しぎ)也。一ツには姫君(ひめぎみ)をとりもどして奸臣等(かんしんら)を亡(ほろぼ)し。若(わか)
君(ぎみ)をもり立(たて)て御家督(ごかとく)とし。二ツには伴(ばん)左衛門 等(ら)五人の者(もの)を打(うち)とりて。
父(ちゝ)の霊前(れいぜん)に手向(たむけ)。冥途(めいど)の恨(うらみ)をはらさせ申さでは。忠孝(ちうかう)の道(みち)全(まつた)からず。
今(いま)は二つも三つもほしき命(いのち)なるぞや。さるにても親人(おやびと)の亡骸(なきから)をもとめ。
せめてかりの葬(ほうふ)りせん。彼所(かしこ)へ案内(あない)せよ鹿蔵(しかぞう)とて。すでに立出(たちいで)んと
したる所(ところ)に。此辺(このあたり)の百姓等(ひやくしやうら)とおぼしく。明松(たいまつ)を前(さき)にたて。戸板(といた)のうへに
屍(しかばね)をのせ。蓑(みの)打(うち)かけてかゝげつゝ。みればよしありげなる。武士方(ぶしがた)と
見ゆるが。むごたらしう殺(ころ)されたる事(こと)よ。衣服(いふく)大小(だいしやう)懐中物(くわいちうもの)提物(さげもの)など。
その侭(まゝ)にあれば。盗人(ぬすびと)の仕業(しわさ)ともおぼへず。片時(へんし)もはやく郡司(ぐんし)に申し
きこへて。我(われ)々があやまりにならぬ様(やう)。いそげ〳〵と口(くち)〴〵にいひて来(きた)り
ぬ。山(さん)三郎 立(たち)より。此方(このほう)に思ひあたる事(こと)あれば。その死骸(しがい)見せくれよと
いひつゝ。蓑(みの)をとりて見れば。むざんや三郎左衛門。身体(しんたい)寸(ずん)々にきざ
まれ。脇腹(わきばら)より五臓六腑(ごぞうろつぷ)みだれ出(いて)て。鮮血(なまち)戸板(といた)にながれけり。
山(さん)三郎ひと目(め)見るより。悲難(ひたん)の涙(なみだ)にむせかへり。地上(ちしやう)に噇(どう)とたふれ
伏(ふ)す。鹿蔵(しかぞう)百姓等(ひやくしやうら)にむかひ。此(この)屍(しかばね)は当国(とうごく)佐々木殿(さゝきどの)の御内(みうち)に三郎左衛門
といふ人なり。これなるは則(すなはち)その子息(しそく)なれば。此(この)死骸(しがい)は此方(このかた)へ渡(わた)すへし。
少(すこし)も汝等(なんぢら)が越度(おちど)になる事(こと)にあらずといひければ。百姓(ひやくしやう)ども死骸(しがい)の
衣服(いふく)の紋所(もんどころ)と。山(さん)三郎が衣服(いふく)の紋所(もんどころ)と。おなじ三 本傘(ぼんがさ)なるをみて。
さては相違(さうい)あるまじと安心(あんしん)し。郡司(ぐんし)の前(まへ)に持出(もちいで)んより。こゝにて
事(こと)をすまさんは。我(われ)々が仕合(しあはせ)なりと納得(なつとく)し。死骸(しがい)を渡(わた)してたちかへりぬ。
かくて山(さん)三郎。なげきてかへらぬことなれば。鹿蔵(しかぞう)にあたりの流水(りうすい)を
汲(くみ)とらせて屍(しがい)を清(きよ)め。後日(ごにち)改葬(かいそう)するまでは。権(しばら)くこゝにかくすべしと。
辻堂(つぢどう)の板敷(いたじき)をとりのけて。床(ゆか)の下(した)を深(ふか)く堀(ほり)。屍(しがい)を埋(うづみ)てもとの如(ごと)くなし
おき。香炉(かうろ)の灰(はい)をすてゝ水(みつ)を手向(たむけ)。本尊(ほんぞん)の石仏(せきふつ)にむかひ。南無(なむ)宝珠(ほうじゆ)
地蔵菩薩(ちぞうぼさつ)。悪趣(あくしゆ)の苦患(くげん)を救(すくひ)玉へと念(ねん)じつゝ。なほも涙(なみだ)はとゞまら
ず。此時(このとき)三郎左衛門がおびたる刀(かたな)は。重代(ぢうたい)の左文字(さもじ)の刀(かたな)。二千五百 貫(くわん)
の折紙(おりかみ)つきたる名作(めいさく)なりしが。せめてのかたみと取(とり)おさめ。懐中物(くわいちうもの)提物(さげもの)と
ともに。鹿蔵(しかぞう)に持(もた)しめければ。鹿蔵(しかぞう)いひけるは。弟(おとゝ)猿(さる)二郎 事(こと)。仕(つかへ)を辞(じし)て
後(のち)。河内(かはち)の国(くに)に住(すみ)候へば。一且(ひとまづ)彼地(かのち)におん越(こし)あるべしといふ処(ところ)へ。三郎左衛門が
乗馬(じやうめ)いつさんに馳来(はせきた)り。山(さん)三郎が前(まへ)に頭(かしら)をたれて。涙(なみだ)を流(なが)しければ。
山(さん)三郎その為体(ていたらく)を見て胸(むね)ふさがり。汝(なんぢ)親人(おやびと)の秘蔵(ひそう)ほどあり。我(わが)居(おる)
所(ところ)をしたひ来(き)て。愁膓(しふしやう)の体(てい)。人にもまさりしふるまひなりとて鬣(たてがみ)をかき
抚(なで)つゝいひけるは。昔(むかし)呉(ご)の孫堅(そんけん)董卓(とうたく)と戦(たゝかひ)て利(り)を失(うしな)ひ。馬(うま)より落(おち)て
草中(そうちう)に臥(ふす)。衆軍(しゆうぐん)分散(ぶんさん)してその在所(ざいしよ)をしらず。然(しかる)にかの馬(うま)営中(ゑいちう)に
【挿絵】
名古屋(なごや)山(さん)三郎
銀杏前(いてふのまへ)を扶(たすけ)て
館(やかた)をおちきたり
姫(ひめ)を追人(おひて)に
うばゝれて腹(はら)を
きらんとするを
しもべ鹿蔵(しかぞう)
とゞめて
三郎左衛門が
闇打(やみうち)に
なりたる
ことを
告(つげ)
しらす
名古屋山三郎
しもべ鹿蔵
三郎左衛門しがい
かへり。軍人(くんじん)をみちびき。草中(そうちう)にいたりて。孫堅(そんけん)を扶(たすけ)しめしと聞(きく)。
汝(なんぢ)はそれにもまさりしぞといひければ。鹿蔵(しかぞう)も落涙(らくるい)し。畜類(ちくるい)すら主(しゆ)
人(じん)の恩(おん)を思ひて。かくのごとく愁(うれひ)悲(かなしむ)に。人と生(うま)れていかでか洪恩(かうおん)を
思はざらんや。伴(ばん)左衛門 等(ら)。たとへ天(てん)に道(みち)ありて登(のぼ)り。地(ち)に門(もん)ありて入(いる)
とも。某(それがし)が一念(いちねん)の誠(まこと)を以(もつ)て尋出(たづねいだ)し。御本懐(ごほんぐわい)をとげさせ申べしとて。
かの馬(うま)の平頸(ひらくび)をなでまはし。人と畜類(ちくるい)のへだてはあれども。我(われ)も汝(なんぢ)も
傍輩(はうばい)にて。主君(しゆくん)の恩(おん)をかうふりしは同然(どうせん)なるに。我(われ)は汝(なんぢ)にはおとりしぞ。
飢(うへ)はせぬか。飢(うへ)たらんとて。あたりの草(くさ)をとりて与(あた)へ。水(みづ)かひなどしていた
はりけり。山(さん)三郎 幸(さいはひ)の父(ちゝ)が片身(かたみ)の此(この)馬(うま)。これに乗(じやう)じて。落(おち)ゆかんと
いひて。ひらりとのれば。鹿蔵(しかぞう)あたりの枯枝(かれえだ)をひろひとり。火打袋(ひうちぶくろ)を
とり出(いだ)し。火(ひ)を点(てん)じて明松(たいまつ)とし。前(さき)に立(たち)て生駒山(いこまやま)にさしかゝり。名(な)におへる
暗々峠(くらかりとうげ)の難所(なんじよ)も。かねて案内(あない)をしりたれば。口綱(くちづな)をとり馬(うま)を
みちびきて。河内(かはち)の国(くに)へいそぎゆきぬ
十 夢幻(むげん)の落葉(らくえう)
それはさておき爰(こゝ)にまた。六字(ろくじ)南無(なむ)右衛門は。佐々木(さゝき)の館(やかた)の事(こと)気(き)づかは
しく。旅商人(たびあきびと)に身を扮(やつ)し。一荷(ひとになひ)の荷物(にもつ)をかたげ。人目をはゞかり。笠(かさ)ふか
〴〵と面(おもて)をおほひて。大和(やまとの)の国(くに)にいたりけるが。宿(やどり)をもとめおくれて夜に
入(いり)額田部村(ぬかたべむら)をすぎて。柏木(かしわき)の森(もり)の辺(ほとり)をうち通(とほ)りけるに。木蔭(こかげ)に人(ひと)の
うめく声(こゑ)。いと苦(くる)しげにきこえければ。いぶかりつゝ立(たち)より。提灯(ちやうちん)をさしつけて
見るに。よしありけなる女の。むら鹿子(かのこ)の小袖(こそで)の裙(もすそ)をたかくかゝげ。たすき
ひきゆひ。けゞしく打扮(いでたち)たるが。黒髪(くろかみ)をふり乱(みだ)し。数(あまた)所(ところ)痛手(いたで)をおひ。鮮(せん)
血(けつ)したたりながれて。総身(みうち)朱(あけ)に染(そま)り。うつぶしに伏(ふし)て。息(いき)もたえ〴〵也。
傍(かたはら)にある長刀(なぎなた)を見れば。銀(ぎん)の蛭巻(ひるまき)して。梨地(なしぢ)に。倚懸目結(よせかけめゆひ)の紋(もん)をちら
しに蒔(まき)ぬ。これ佐々木 家(け)の紋なれば。益(ます〳〵)いぶかり。女を抱(いだ)き起(おこ)して顔(かほ)を
見ればこはいかに。月若の乳母(めのと)柏木(かしはぎ)なり。なむ右衛門大に驚(おどろ)きたくはへ
の気(き)つけ薬(くすり)など与(あた)へて。さま〴〵に介抱(いたはり)ければ。やう〳〵目をひらき。おん
身は佐々良(さゝら)三八郎どのにはあらずやといふ。なむ右衛門いはく。おん身いか
なる事(こと)にて。かく痛手(いたで)をおひ。此(この)所(ところ)にはたふれ居(ゐ)玉ふぞ。そのゆゑくはしく
語(かた)り候へといふ。柏木(かしはき)苦(くる)しき息(いき)をつき。今宵(こよい)おん館(やかた)の騤動(そうどう)しか〴〵の事(こと)
にて。姫君(ひめきみ)若君(わかきみ)のおん命(いのち)危(あやう)きにより。姫君(ひめきみ)は名護屋(なごや)山三郎 守護(しゆご)し
ておち行(ゆき)。妾(わらは)は若君を扶(たすけ)申して立のきつるに。途中(とちう)にて追人(おひて)の大勢(おゝぜい)に
とりかこまれ。ほど〳〵若君を奪(うばひ)とられんとしつるゆゑ命(いのち)かぎりに
戦(たゝかひ)。やう〳〵追人(おひて)を斬散(きりちら)して。若君の御身 恙(つゝが)なく。此(こゝ)までは落(おち)
のびつるが。心(こゝろ)は矢猛(やたけ)にはやれども。あまたの深手(ふかで)に歩行(ほこう)かなはずと□
倒(たふ)れて夢中(むちう)になり。おん身(み)の介抱(かいほう)にあづかりしもしらず。おん身(み)先年(せんねん)
藤波(ふぢなみ)を殺(ころ)して。立のがれし事(こと)。実(じつ)は若殿(わかとの)放埒(ほうらつ)の根(ね)をたゝんと。忠義(ちうき)の
為(ため)にせらしれよし。おん内方(うちかた)礒菜(いそな)どのよりの消息(せうそく)にて。始(はじ)めてしりかねて
姫君(ひめぎみ)若君(わかぎみ)にも。おん身(み)の誠心(せいしん)をきこえあげて。折(おり)もあらば帰参(きさん)をと思ひし
かひなく。此度(このたび)の大変(たいへん)なり。さりながら。こゝにておん身(み)にあひたるは。いまだわ
君(ぎみ)の御運(ごうん)尽(つき)ざる所(ところ)也。妾(わらは)此(この)深手(ふかで)にては。とてもかなはぬ命(いのち)なれば。何(なに)とぞ
おん身(み)若君(わかぎみ)をかくまひ申し。再(ふたゝび)世(よ)にいだしまゐらせ玉はれかしと。泣(なく)々ものがたる
うちも。いと苦(くる)しげ也。なむ右衛門 委細(いさい)を聞(きゝ)て十 分(ぶん)に驚(おとろ)き。して若君(わかきみ)
はいづくにおはすぞと。問(とは)れて柏木(かしはぎ)あたりを見まはし。月若(つきわか)のおはさぬをみて
仰天(きやうてん)し。がつくりとおち入(いり)て。所(ところ)の名(な)さへ柏木(かしはぎ)の。森(もり)の雫(しつく)ときえうせぬ。かゝる
【挿絵】
めのとかしは木
月若(つきわか)の乳母(めのと)
柏木(かしはき)若君(わかぎみ)を
守護(しゆご)して
おちきたり
追人(おいて)とたゝかひて
深手(ふかて)をおふ
折(おり)しも。茂林(もりん)のうちより。追人(おひて)の人数(にんず)。若君(わかぎみ)の口(くち)に猿轡(さるくつは)を
かけ。小脇(こわき)にかいはさみて走(はし)り出(いで)。やよ〳〵佐々良(さゝら)三八郎。汝(なんぢ)長谷部(はせべの)雲(うん)
六(ろく)といひ合(あは)せ。百蟹(ひやくがい)の巻物(まきもの)を奪(うはひ)。藤波(ふぢなみ)を害(がい)して逃去(にげさり)たる大罪人(たひさひにん)
こゝにて見つけたるは天(てん)の与(あた)へなり。若君(わかぎみ)を奪(うばひ)たるうへに。汝(なんぢ)を捕(とらふ)れは。
両(りやう)の手(て)に美食(びしよく)を握(にぎ)るが如(ごと)し。とく〳〵手(て)をつかねて。いましめをうけ
よ。若(もし)手(て)むかひなどせば。忽(たちまち)若君(わかぎみ)をさし殺(ころ)すぞ。返荅(へんたう)いかにとよばゝれば。
なむ右衛門いそがはしく。地上(ちしやう)にひざまづき。此(この)所(ところ)にておん身等(みら)の目(め)に
かゝりしは。某(それがし)が運命(うんめい)の尽(つき)なり。いかでか手(て)むかひいたすべき。いざとく縄(なは)を
かけられよといひつゝ。手(て)をつかぬれば。追人(おひて)の人数(にんす)くち〴〵に。さすがの三八
郎。覚悟(かくご)の体(てい)殊勝(しゆしやう)なりとて。已(すで)に縄(なは)をかけんとしたる油断(ゆだん)を見す
まし。なむ右衛門つと立上(たちあが)りて一人を踢倒(けたふ)し。若君を奪(うばひ)かへして
背後(うしろ)にかこひ。仁王(にわう)だちに立(たち)たるは。こゝちよき形勢(ありさま)なり。追人(おひて)の人数(にんず)
これを見て。欺(あざむ)かれたる口おしさよ。それ打(うち)とれと呼(よば)はりつゝ。刀尖(きつさき)そろへ
て斬(きり)かけたり。なむ右衛門 手(て)ばやく息杖(いきづへ)に仕(し)こみたる。刀(かたな)を抜(ぬい)て相(あひ)むかひ。
すきまもなく斬(きり)たつれば。追人(おひて)の大勢(おゝぜい)敵(てき)しがたく。春雨(しゆんう)に打(うた)るゝ胡蝶(こてふ)の
ごとく。身をすぼめてぞ逃去(にげさり)ぬ。なむ右衛門 今(いま)は心安(こゝろやす)しと。若君(わかぎみ)の前(まへ)に
ひざまづき。人目をいとひ候へば。此辺(このあたり)を立(たち)のく間(あひだ)。しばしのほどおん気づ
まりにはおはさんが。此(この)うちにおん身(み)をしのびくださるべしとて。月若(つきわか)を荷物(にもつ)
のうちに抱(いだ)き入(いれ)。柏木(かしはぎ)が屍(しかばね)は。あたり近(ちか)き流(なが)れに沈(しづ)めて水葬(すいそ)し。又も
追人(おひて)の来(こ)ぬ間(ま)にと。足(あし)をはやめて走(はし)り去(さり)。丹波(たんば)を斥(さし)てかへりぬ
十一 断絃(だんげん)の琵琶(びは)
さても六字(ろくじ)南無(なむ)右衛門は。若君(わかきみ)を救(すくひ)て我家(わかや)に帰(かへ)り。一間(ひとま)のうちに
しのばせおき。娘(むすめ)楓(かへで)とゝもに。朝夕(あさゆふ)心(こゝろ)をもちひてかしづき。権(しばらく)月日をおくり
けるが。一日(あるひ)若君(わかきみ)にしばし気(き)ばらしさせ申んと。楓(かへで)に申しつけていざなは
すれば。煩(いたは)しや月若(つきわか)は。世(よ)にうつくしき生(うま)れなるに。妖鼠(ようそ)の為(ため)に髪(かみ)の毛(け)を
くひ尽(つく)され。剃髪(ていはつ)の姿(すかた)となり。頭(かしら)に似合(にあは)ぬ振袖(ふりそで)の。綾(あや)の小袖(こそで)の模(も)
様(やう)さへ。ゆたのたゆたの捨小舟(すてをぶね)薄縹(うすはなだ)の奴袴(すばかま)も。涙(なみだ)の痕(あと)のしみとなり。
身(み)すぼらしげに出(いで)玉ふ。なむ右衛門 楓(かへで)に命(めい)じて。柴(しば)の折戸(おりど)をかためさせ。
若君(わかきみ)を上坐(かみざ)にすゑて申しけるは。狭(せま)き一間(ひとま)のおん隠家(かくれが)。さぞおん気(き)づまり
とは存(そんじ)ながら。人目(ひとめ)をはゞかるおん身(み)なればせんすべなし。御先祖(ごせんぞ)をたづ
ぬれば。人王(にんわう)五十九代の帝(みかど)。宇多天皇(うだてんわう)の御末(おんすゑ)にて。佐々木(さゝき)成頼公(しけよりこう)の末(まつ)
孫(こ)と生(うま)れさせ玉ひ。あまたの人にかしづかれて。金殿玉楼(きんでんぎよくろう)のうちに生立
玉ひ。錦(にしき)の菌(しとね)玉(たま)の床(ゆか)。なに一点(いつてん)の不足(ふそく)なく。あらき風(かぜ)にすらあたり玉はぬ
おん身(み)なるに。奸臣(かんしん)佞者(ねいしや)の為(ため)に世(よ)をせばめられ。かゝる貧家(ひんか)にしのばせ
玉ひ。粟(あは)の飯(いひ)橡(とち)の粥(かゆ)。わづかにおん命(いのち)をつなぐのみ。蕨(わらび)のおどろ紙(かみ)ぶすま。
夜(よる)の物(もの)さへ薄着(うすぎ)にて。壁(かべ)もる月(つき)の灯火(ともしび)に。くらきおん身(み)となり玉ふ。いた
はしさよといひければ。若君(わかぎみ)のたまひけるは。汝(なんぢ)が忠志(ちうし)過分(くわぶん)なり。我身(わがみ)は
いかになるともいとはざれども。唯(たゞ)気(き)づかはしきは父母(ちゝはゝ)のおん身(み)なり。父上(ちゝうへ)は御勘(ごかん)
当(だう)の身(み)となり玉ひて后(のち)。いづくいかなる所(ところ)におはすやらん。母上(はゝうへ)はなごや山(さん)三郎に
扶(たすけ)られて落(おち)玉ひしが。これも御在所(ございしよ)知(し)れざるよし。追人(おひて)に捕(とらは)れ玉ひしも
知(し)るべからず。あな恋(こひ)しの父上(ちゝうへ)や。なつかしの母人(はゝびと)やとて。しのび涙(なみだ)にむせ
び玉へば。なむ右衛門 楓(かへで)も。おん心根(こゝろね)を椎量(すいりやう)して。ともに袂(たもと)をしぼりけり。
かゝる折(おり)しも外(と)の方(かた)に人の足音(あしおと)ひゞきければ。なむ右衛門 楓(かへで)に目ぐはし
して。若君(わかきみ)を一間(ひとま)にかくし。さあらぬ体(てい)にて居(ゐ)たりけり。人(ひと)の親(おや)のこゝろは闇(やみ)に
あらねども。盲目(めしい)となりし我子(わがこ)ゆゑ。道(みち)に迷(まよ)へる杖(つゑ)小笠(おがさ)。旅(たび)にやつれし
女房(にやうぼう)の。琵琶(びは)を背上(せなか)によこたへし。盲児(めくら)の手(て)を引(ひき)て。四年(よとせ)ぶりにて我家(わがいへ)の。
軒(のき)の垣衣(しのぶ)の露(つゆ)ふかき。草(くさ)踏分(ふみわけ)て柴折戸(しばのをりど)をほと〳〵と打(うち)たゝけば。たそととがめ
て。なむ右衛門 戸(と)をひらき見てげれば。妻(つま)の礒菜(いそな)子(こ)の文弥(ぶんや)。京(きやう)よりかへりし
体(てい)なれば。こは思ひかけずよとて。まづともなひてうちに入(い)る。楓(かへで)ははやく
母(はゝ)の声(こへ)を聞(きゝ)つけて。いそがはしく走(はし)り出(いで)。夫婦(ふうふ)兄弟(きやうだい)四人(よにん)の者(もの)ひさし
ぶりの対面(たいめん)に。たがひの喜(よろこ)びいふべからず。楓(かへで)は盥(たらい)に湯(ゆ)をたゝへ。母(はゝ)の
裏脚(はゞき)草鞋(わらづ)をとき。足(あし)をそゝぎなどすれば。今(いま)にかはらぬ孝行(かうこう)やと。
うれしさに堪(たへ)ざりけり。さて礒菜(いそな)夫(おつと)にむかひ。いふこと聞(きく)ことあまた
にて。何(なに)から語(かた)りはべらんや。且(まづ)申すべきは文弥(ぶんや)事(こと)。幼年(ようねん)なれども芸(げい)
道(だう)に心(こゝろ)をゆだね。片時(へんし)もおこたらざりしかばおのづから妙(みやう)を得(え)て。師匠(ししやう)沢角(さはつの)
検校(けんぎやう)どのも。たぐひまれなる器用者(きようもの)と。賞美(しやうひ)し玉ひ。紫檀(したん)の甲(かう)の
琵琶(びは)一面(いちめん)に。秘曲(ひきよく)の免状(めんじやう)をそへて玉はりぬれば。一ツには彼(かれ)が一曲(いつきよく)をきかせまほ
しく。二ツには楓(かへで)が顔(かほ)も見まほしく。すゞろに古郷(こきやう)がなつかしく。文弥(ぶんや)もまた
おん身(み)や姉(あね)を恋(こひ)しがり候ゆゑ。俄(にはか)に思ひ立(たち)。師匠(ししやう)にしばしのいとまを乞(こひ)。まかり
下(くだ)り候ひぬと。ものがたれば。なむ右衛門ひたすら喜(よろこ)び。ひさしぶりの対面(たいめん)無事(ぶし)の
顔(かほ)見て安堵(あんど)なり。芸道(けいどう)も上達(しやうたつ)せしとや。しばし見ぬうち。さても能(よく)生立(おひたち)しな。見
たがふばかりに丈(たけ)高(たか)うなりけるぞとて。余念(よねん)なく文弥(ぶんや)が頭(かうべ)を撫(なで)つゝいへば。文(ぶん)
弥(や)は恭(うや〳〵)しく両手(りやうて)をつき。父上(ちゝうへ)御安体(ごあんたい)の様子(やうす)をうかゞひ。喜(よろこ)びに堪(たへ)はべらずと。
おとなしやかに相(あひ)のぶる。楓(かへで)はことし十六 才(さい)。姿(すがた)ます〳〵美麗(びれい)にて。手織木綿(ておりもめん)
の振袖(ふりそで)も。綾羅(れうら)にまかふ風情(ふぜい)なるが。母(はゝ)のそばにちかくより。長(なが)〴〵の御在(ござい)
京(きやう)。さぞ御苦労(ごくろう)をなされんと。あけくれ気(き)づかひくらせしが。恙(つゝが)なき体(てい)を見て。
【挿絵】
ぶんや
いそな
なむ右衛門
かへで
月若
六字(’ろくじ)南無(なむ)右衛門
月若(つきわか)をかくまひおく
南無右衛門は妻(つま)礒菜(いそな)
盲児(めくらこ)の文弥(ぶんや)を具(ぐ)して
京(きやう)より家(いへ)に
帰(かへ)り来(く)
やう〳〵心(こゝろ)やすまりしと。いひければ。いな〳〵我(わが)苦労(くろう)よりおことが事(こと)。妖蛇(ようじや)も今(いま)
に去(さ)らぬよし。其(その)身(み)を以(もつ)て父上(ちゝうへ)に。孝行(かう〳〵)尽(つく)す辛労(しんろう)を。さぞかしと推量(すいりやう)し。
わかれて居(ゐ)ても片時(かたとき)も。わするゝ事(こと)はなかりしぞや。縫物(ぬひもの)髪(かみ)もよく仕(し)
おぼえつるよし。父上(ちゝうへ)の消息(せうそく)にてとく聞(きゝ)ぬとて。うしろむかせ。髪(かみ)のかゝ
りをつら〳〵見まはし。さてもうつくしうよくできしぞ。此(この)きるものも。おこ
とが縫(ぬひ)しか。あつぱれの手(て)ぎはぞ。広(ひろ)き都(みやこ)のうちにすら。おことが如(ごと)き娘(むす)
はまれと。思へばいとゞ妖蛇(ようじや)の事(こと)。おもひいだして不便(ふびん)なりと。何(なに)につけて
も子(こ)をおもふ。親(おや)の心(こゝろ)ぞやるせなき。良(やゝ)ありてなむ右衛門。佐々木(さゝき)の館(やかた)
の騒動(そうどう)。柏木(かしはぎ)が忠死(ちうし)の子細(しさい)。若君(わかぎみ)をかくまひおく事(こと)の。始末(しまつ)を語(かた)り
きかせければ。礒菜(いそな)おどろき。不慮(ふりよ)の御難義(ごなんぎ)。いたはしさよとて泣(なき)ければ。
なむ右衛門。いかほどいふてもかへらぬ事(こと)。そちも文弥(ぶんや)も。久(ひさ)しぶりにて
若君(わかぎみ)に。おん目(め)見へつかまつれとて。楓(かへで)をつけて奥(おく)の一間(ひとま)にいざなはせ。
くろ木(ぎ)の念珠(ねんじゅ)つまぐりて。例(れい)の念仏(ねぶつ)をとなへつゝ。はるかに時刻(じこく)をうつ
しけり。日(ひ)あしも漸々(やうやう)かたふく比(ころ)。京下(きやうくだ)りの古書画(こしよぐわ)の商人(あきびと)。いそがはしげに
はしり来(き)て。前(さき)の日(ひ)見せまうしつる。金岡(かなおか)が百蟹(ひやくがい)の絵巻物(ゑまきもの)。外(ほか)に望人(のぞみて)
いできしゆゑ。唯今(たゞいま)価(あたひ)をお渡(わた)しなければ。望(のぞのみ)の方(かた)へやらねばならず。いかゞ
おぼすやらんといふ。なむ右衛門 打聞(うちきゝ)て。そはあまり火急(くわきう)なり。せめて三日(みつか)ま
ち玉はれかしといへば。商人(あきびと)頭(かうべ)を打(うち)ふり。某(それがし)も旅(たび)がけの事(こと)なれば。三日など
はまたれ申さず。しからば今夜(こんや)。三更(さんかう)の時(とき)までまち申さん。その期(ご)がすぐ
れば。たゞちにかの方(かた)へ売(うり)つかはし候ぞとて。詞(ことば)をつがひて立帰(たちかへ)る。ほどなく外(と)の
方(かた)に人声(ひとごゑ)して。足音(あしおと)ひゞきければ。何事(なにごと)ならめといぶかる間(ま)もなく。村長(むらおさ)に案(あ)
内(ない)させて。捕手(とりて)の輩(ともがら)組子(くみこ)ども。どや〳〵と入来(いりきた)る。組子(くみこ)の頭(かしら)黒星(くろぼし)眼平(がんへい)といふ
者(もの)。首桶(くびおけ)を小脇(こわき)にたづさへ。声(こゑ)あらゝかにいひけるは。汝(なんぢ)佐々良(さゝら)三八郎 今(いま)の
名(な)は六字(ろくじ)南無(なむ)右衛門とやらんいふよし。月若(つきわか)どのをかくまひおく事(こと)。
註進(ちうしん)の者(もの)ありて。大殿(おゝとの)のおん耳(みゝ)にいり。首(くび)打(うち)てまゐれとの厳命(げんめい)
なり。汝(なんぢ)自(みづから)打(うち)て渡(わた)すべきや。某(それがし)直(じき)に打(うつ)べきや。返荅(へんとう)いかにとよばゝりぬ。
なむ右衛門 胸(むね)とゞろくといへども。さあらぬ体(てい)をなし。若君(わかぎみ)をかくまひ
申せしなんどゝは。何者(なにもの)が申しけるや。夢(ゆめ)にもしらざる事(こと)なりと。そらうそ
ふきていひければ。眼平(がんへい)から〳〵と打笑(うちわらひ)。汝(なんぢ)かくまひおく事(こと)明白(めいはく)なり。しゐて
あらがはゞ。此(この)あばら家(や)を踏破(ふみやぶ)りて。家(や)さがしせん。もし又(また)尋常(じんじやう)に首(くび)打(うち)て渡(わた)
さば。その㓛(こう)にしり。汝(なんぢ)が旧悪(きうあく)はゆるすべし。返荅(へんとう)により。汝(なんぢ)もともにからめ
とりて。藤波(ふぢなみ)を殺(ころ)し。巻物(まきもの)を奪(うばひ)たる。旧悪(きうあく)をたゞすべしと。ほだ
しをかけて。せめければ。さすがのなむ右衛門も。ほど〳〵当惑(とうわく)の体(てい)
なりしが。魂(たましい)すゑていひけるは。さばがり事(こと)の。あらはるゝうへはせんすべなし。
いたはしながら若君(わかぎみ)の。おん首(くび)打(うち)て渡(わた)し申さん。さりながら。せめて御最(ごさい)
期(ご)の念仏(ねんぶつ)をすゝめ申すその間(あいだ)。しばしの御猶予(ごゆうよ)くだされかしといへば。
眼平(がんへい)うなづき。得心(とくしん)のうへは。しばしの間(あいだ)はまちくれん。しからば今宵(こよい)三更(さんかう)
の。時(とき)打(うつ)鐘(かね)を号(あいづ)として。首(くび)うけとりにむかはんずれば。かならず詞(ことば)たがふ
べからず。且(まづ)それまでは。村長(むらおさ)かたにまちをらん。首桶(くびおけ)それへうけとるしべとて。
相渡(あひわた)し。人数(にんず)を引具(ひきぐ)しかへりけり。跡(あと)にはひとりなむ右衛門。手(て)を
こまぬき頭(かうべ)をたれて。しばし思案(しあん)にくれけるが。良(やゝ)ありていひけるは。巻物(まきもの)の
価(あたひ)百両(ひやくりやう)といふ大金(たいきん)なれば。とても調(とゝのふ)べき手段(しゆだん)はなけれど。一寸(いつすん)のびれば
ひろのびるといふ。常言(ことわざ)もあれば。もしよき思案(しあん)もあらんかと。今日(けふ)翌(あす)
といひのべしが。それよりもなほ危急(ききう)なるは。若君(わかぎみ)の御身(おんみ)なり。今宵(こよい)に
せまる二ツの難義(なんぎ)。臥竜(ぐわりやう)楠氏(なんし)の智謀(ちぼう)ありとも。のがるゝ道(みち)調(とゝのふ)すべは
あるべからず。藤浪(ふぢなみ)が所縁(ゆかり)の者(もの)に打(うた)れんと。かねて思ひし命(いのち)なれ
ども。かゝるきはには是非(ぜひ)もなし。若君(わかぎみ)を屓(おひ)まゐらせ。のがるゝたけは
のがれ見て。若(もし)かなはざるその時は。御腹(おんはら)をすゝめ申し。斬死(きりじに)するより
外(ほか)はなしと。ひとりごち。心(こゝろ)のうちにうなづきて。旧葛篭(ふるつゞら)のうちより。
一腰(ひとこし)を取出(とりいだ)し。行灯(あんどう)提(さげ)て。奥(おく)の一間(ひとま)に立(たち)いらんと。破(やぶ)れ紙門(ふすま)をさと
あくれば。盲児(めくらこ)の文弥(ぶんや)。財布(さいふ)のうちより。あまたの小判(こばん)を取(とり)いだ
して。手探(てさぐ)りにかぞへ居(ゐ)たるが。紙門(ふすま)のあく音(おと)におどろき。手(て)ばやく
背後(うしろ)にかくしたり。なむ右衛門 目(め)ばやく見つけて。いぶかりつゝいひ
けるは。いかに文弥(ぶんや)。見れば余程(よほど)の金(かね)を持(もち)たるが。いかなるゆゑにてその
金(かね)持(もち)しぞ。こゝへ出(いだ)して見せよといふ。文弥(ぶんや)いはく。これは師匠(ししやう)より
あづかりたる金(かね)なれば。親人(おやびと)なりとも見せがたしといふにぞ。なむ右衛門。
師匠(ししやう)なりとも。幼年(ようねん)の汝(なんぢ)に。大金(たいきん)をあづけおくべきいはれなし。
いかなるゆゑにてあづかりしと。問(とは)れて文弥(ぶんや)口(くち)こもり。いやこれは途中(とちう)
にて拾(ひろ)ひし金(かね)なり。あづかりしにはあらずと。詞(ことば)のあとさきそろはねば。
なむ右衛門ます〳〵あやしみ。途中(とちう)にてひろひしものを。かくしおくは道(みち)
にあらず。いづくにて拾(ひろ)ひつるぞ。実正(じつしやう)いへととひつめられてせんすべなく。
まことは此(この)金(かね)あづかりも拾(ひろ)ひもせず。道中(どうちう)の旅店(はたごや)に。とまり合(あは)せし旅人(たひゞと)の
金(かね)を。盗(ぬすみ)とりつるにて候と。聞(きゝ)てなむ右衛門あきれはて。ゑりくび
つかみて引(ひき)たふし。なにといふぞ。そはまことか真実(しんじつ)か。元来(ぐわんらい)なんぢ
孝子(かうし)にて。さある非道(ひどう)をおこなふべき性質(せいしつ)にあらずと。今(いま)のいま
まで思ひしが。在京(ざいきやう)のわづかの間(あひだ)に。さばかり心(こゝろ)のかはるものか。これよく
きけよ。あきらかなる所(ところ)には王法(わうぼふ)あり。くらき所(ところ)には神霊(しんれい)あり。五戒(ごかい)
のうち。もつとも偸盗(とうたう)をおもしとす。たとへ塵(ちり)一(ひと)すぢにても。盗(ぬすみ)を
なして。豈(あに)よく罰(ばつ)をまぬかれんや。けがらはしき心底(しんてい)や。あさましき所存(しよぞん)
やとて。左(ひだり)の手(て)にゑり首(くび)を持(もち)かへ。右(みぎ)のこぶしをふりあげて。頭(かうべ)をのぞみ。
つゞけ打(うち)に打(うち)たふし。且(かつ)怒(いかり)且(かつ)悲(かなし)み。あつき涙(なみだ)をおとしつゝ。かやうにきび
しくいましめなば。もしくは心(こゝろ)もなほらんかと。親(おや)の慈非(じひ)こそせつなけれ。
文弥(ぶんや)はやがて越上(おきあが)り。あざみ笑(わら)ひていひけるは。貧乏者(びんぼうもの)の子(こ)とうまれ。
正直(しやうじき)にかまへては。とても出世(しゆつせ)はなりがたし。此(この)金(かね)にて官(くわん)をとれば。一生(いつしやう)は
安楽(あんらく)なり。さばかり呵(しかり)玉ひそと。きけばきくほどにくければ。歯(は)をかみ
ならして声(こへ)をあららげ。大胆不敵(だいたんふてき)の今(いま)のことば。さら〳〵子(こ)とはおも
はれず。天魔波旬(てんまはじゆん)の所行(しよぎやう)なり。親子(おやこ)の恩愛(おんあい)これまでなり。
七生(しちしやう)までの勘当(かんどう)ぞ。とくいづかたへもいでゆけとて。足(あし)をあげて踢(け)とばせば。
文弥(ぶんや)は財布(さいふ)を懐中(くわいちう)し。勘当(かんとう)うくれば。親(おや)でなし子(こ)にあらねば。長居(ながゐ)は
無益(むやく)とつぶやきつゝ。あたりを探(さぐ)りていでんとす。なむ右衛門 怒(いかり)にし
のびず。走(はし)りよりて。又 踢(け)たふせば。おきあがりて。又(また)悪口(あつかう)す。悪口(あつかう)すれば
なほ踢(け)たふし踢(け)たふせば。益(ます〳〵)悪口(あつかう)やまず。なむ右衛門いよ〳〵怒(いかり)。
頭(かうべ)肚(ひはら)の用捨(ようしや)なく。踏(ふみ)つけ〳〵ふみたふせば。文弥(ぶんや)は片息(かたいき)になりながら。
なほも悪口(あつかう)とゞまらざれば。なむ右衛門 怒気(どき)天(てん)にさかのぼり。刀(かたな)を
すらりと抜手(ぬくて)も見せず。肩尖(かたさき)四五 寸(すん)きりこめば。呀(あ)と一声(ひとこゑ)たま
ぎりて。うつぶしにたふれたり。たゝみかけてきらんとせしが。恩愛(おんあい)
千(ち)すぢの葛篭(つゞら)の緒(ひも)。足(あし)にまとひて背後(うしろ)のかたへ。ひきもどさるゝ
こゝちするを。思ひきりて又(また)ふりあぐる剣(つるぎ)の下(した)に。妻(つま)いそ菜(な)はしり出(いで)。
【挿絵】
南無(なむ)右衛門
怒(いか)りにたへず
一子(いつし)文弥(ぶんや)を
手打(てうち)に
きりつくる
ぶんや
六字なむ右衛門
いそな
やれしばしまち玉へ。いふことありととゞむれば。なむ右衛門いやとゞむるな
なか〳〵に生(いけ)おきて。罪(つみ)つくらせんよりは。一(ひと)思ひに手(て)にかくるが。親(おや)の
慈悲(じひ)ぞといひつゝ。いそ菜(な)をおしのけ。つきのけて。なほきりつけんと
立(たち)まはる。いそ菜(な)は夫(おつと)の手(て)にすがり。その身(み)をしづにひきもどし。息(いき)を
つく〳〵あの金(かね)は。盗物(ぬすみもの)には候はず。まことは娘(むすめ)楓(かへで)が身(み)の代(しろ)にて候と
いへども。なむ右衛門 合点(がてん)せず。妖蛇(ようじや)に見こまれ片輪(かたわ)な娘(むすめ)を。何(なに)
ゆゑに大金(たいきん)出(いだ)してかゝゆべき。なんぢもともにいつはるかとて。にらみつく
れば。いそ菜(な)奥(おく)の方(かた)に打(うち)むかひ。やよ〳〵娘(むすめ)こゝへ来(き)て。父上(ちゝうへ)におことが
心底(しんてい)ものがたれ。はやく〳〵とよばゝれば。娘(むすめ)楓(かへで)一声(ひとこへ)荅(いらへ)てかけいでしが。
文弥(ぶんや)がきられし体(てい)を見て。むせかへりてぞたふれける。いそ菜(な)文弥(ぶんや)を
抱(だき)かゝへ。くるしうあらんが父上(ちゝうへ)に本心(ほんしん)をかたるうち。こらへてくれよといた
はりつゝ。楓(かへで)にむかひ。かなしきはうべなれども。委細(いさい)のわけを父上(ちゝうへ)に。とく
〳〵告(つげ)よと。いはれてやう〳〵顔(かほ)をあげ。なむ右衛門にうちむかひ。
御不審(ごふしん)は理(ことわり)なり。前(さき)の日(ひ)父上(ちゝうへ)おんものがたりに。かねてたづぬる百蟹(ひやくがい)の
巻物(まきもの)。思ひかけず京(きやう)くだりの商人(あきびと)持参(ぢさん)せしが。その商人(あきびと)を捕(とら)へ。出所(しゆつしよ)を
たゞさば。盗人(ぬすびと)の在所(ありしよ)もしれ。巻物(まきもの)も手(て)に入(いる)道理(どうり)と思へども。かなしさは
日蔭(ひかげ)の身(み)。あらはに事(こと)をたゞしがたし。さりとて価(あたひ)は百両(ひやくりやう)といふ大金(たいきん)なれ
ば。とても我(わが)手(て)にいりがたし。我(わが)手(て)にいらねば。末代(まつだい)盗賊(とうぞく)の汚名(をめい)をすゝ
ぐ事(こと)あたはず。金(かね)づくにてこれまでみがきし武士道(ぶしどう)をすて。先祖(せんぞ)の
名(な)までをけがすこと。思へば〳〵無念(むねん)なり。口(くち)おしさよとて男(おとこ)なきになき
玉ひしが。骨身(ほねみ)にしみていたはしく。何(なに)とぞ金(かね)とゝのへてあげ申んと。思へど外(ほか)に仕(し)
かたもなし。幸(さいはひ)京都(きやうと)五条坂(ごじやうざか)の傾城屋(けいせいや)。篠村八幡(しのむらはちまん)の門前(もんぜん)に。旅宿(りよしゆく)し
て居(をる)と聞(きゝ)。ひそかにまゐりて。此(この)身(み)を百両(ひやくりやう)に買(かい)くれよとたのみしかば。すみ
やかにうけがひしが。妖蛇(ようじや)のいはれを。聞(きく)とその侭(まゝ)破談(はだん)におよぶ。金(かね)がほしいと
思ふ心(こゝろ)一図(いちづ)に。我身(わかみ)の片輪(かたわ)に心(こゝろ)つかざりし事(こと)よと。みづからはぢ思ひつゝ。すご
〴〵かへらんとしつるに。捨(すつ)る神(かみ)あればたすくる神(かみ)もありといふ。常言(ことわざ)の
ごとく。今(いま)ひとりの年(とし)かさなる傾城屋(けいせいや)が申すには。これまで蛇(へび)つかひの女
さま〴〵ありしが。実(まこと)の因果(いんぐわ)にてさることあるはめづらしく。殊更(ことさら)生(うま)れつきもよけ
れば。糺川原(たゞすがわら)にて見せものにせば。あそびにするよりかへりて利得(りとく)おほからん。
もし見せものになる心(こゝろ)あらば。五 年(ねん)をかぎり百両(ひやくりやう)にかゝゆべしと申すにより。
見せものはおろか。たとへ生皮(いきかは)をはがれ。生胆(いききも)をとらるゝとも。百両(ひやくりやう)の金(かね)をとゝ
のへ。父上(ちゝうへ)の汚名(おめい)をさへすゝげば。露(つゆ)ばかりもいとふべからず。ことさら面(おもて)はさらす
とも。うき川竹(かはたけ)のながれをくみ。身(み)をけがすにはましならめ。諸人(しよにん)にはぢを
さらしなば。かへりて罪障(ざいしやう)の。きえうせなんよすがともならんかと。心(こゝろ)を決(けつ)し。
それにきはめてもどりしが。父上(ちゝうへ)にはいひだしかねて居(ゐ)つるに。今日(けふ)思はずも
母(はゝ)さまの。おんかへりを幸(さいは)ひとし。妾(わらは)が心底(しんてい)をうちあけ。さきほど裏口(うらぐち)より
ともなひいでゝ。かしこにゆき。母(はゝ)さまの手形(てがた)をすゑて証書(しやうしよ)を渡(わた)し。
百両(ひやくりやう)の金(かね)をうけとり。今夜(こよひ)のうちに都(みやこ)へ旅立(たひだつ)はづに約(やく)して。かへりし
折(おり)から。捕手(とりて)の騒動(そうどう)若君(わかぎみ)の御急難(ごきうなん)。母(はゝ)さまとものかげにて。唯(たゞ)あきれ
てをり候。不審(ふしん)はなさせ玉ひそとよ。文弥(ぶんや)が持(もち)しかの金(かね)は。妾(わらは)が身(み)の代(しろ)に
ちがひなく候と。泣(なく)〳〵かたるにぞ。なむ右衛門一ツの不審(ふしん)ははれたれども。
それを文弥(ぶんや)が口(くち)ずから。盗(ぬすみ)しとはなどいひしと。血刀(ちがたな)をなげすてゝ。とひかゝ
る。いそ菜(な)かはりていひけるは。若君(わかきみ)の御急難(ごきうなん)をきくとひとしく。文弥(ぶんや)を
おん身がはりと思ひつきしが。忠義(ちうぎ)に凝(こつ)たるおん身(み)なれども。さすが親(おや)
子(こ)の愛着(あいじやく)にて。もし心(こゝろ)もおくれ玉はんかと。文弥(ぶんや)にいひふくめ。父上(ちゝうへ)の気(き)
質(しつ)塵(ちり)ばかりも。ゆがめる事(こと)をきらひ玉へば。此(この)金(かね)を盗(ぬすみ)しといひ悪口(あつかう)せ
ば。怒(いか)りに乗(じやう)じて恩愛(おんあい)の紲(きづな)をたち。手打(てうち)し玉はんは必定(ひつぢやう)也。しか〴〵
はからふべし。と心(こゝろ)づよくもいひきけたれば。すみやかに聞(きゝ)とゞけ。某(それがし)
宿世(すくせ)の因果(いんぐわ)にて。盲目(まうもく)となりつれば。すは主君(しゆくん)の御大事(おんたいじ)といふ
とも。戦場(せんぢやう)のはたらきなりがたく。武士(ぶし)の子(こ)とうまれたるかひなしと。
日来(ひごろ)くちをしく思ひつるに。若君(わかぎみ)のおん身(み)がはりとなるは。戦場(せんぢやう)の打(うち)
死(じに)も同然(どうぜん)。ねがふてもなき幸(さいはひ)也。さりながらたとへ計(はかりごと)にもあれ。親(おや)
にむかひて悪口(あくかう)し。盗(ぬすみ)せしなどは勿体(もつたい)なくて申しがたし。こればかりはゆるし
玉へといひけるゆゑ。そは最(もつとも)のことなれども。さなくては父(ちゝ)うへの。愛念(あいねん)を
絶(たつ)ことあたはず。何事(なにごと)もみな忠義(ちうぎ)の為(ため)ぞとて。やう〳〵得心(とくしん)させ
つるに。けなげにもよくはからひしぞ。ほめつかはされくださるべし。さき
ほどものかげにて。おん身(み)の様子(やうす)をうかゞひしに。若君(わかぎみ)をとも
なひてのがれ出(いで)。かなはぬ時(とき)はきり死(じに)と。覚悟(かくご)の体(てい)に見へたれども。
村(むら)の口(くち)〴〵山道(やまみち)まで。捕手(とりて)の人数(にんず)かため居(ゐ)るよし聞(きゝ)はべれば。とても
のがるゝ道(みち)はなし。きり首(くび)となり瞼(まぶた)をふさがば。盲目(めしい)目(め)あきの差(しや)
別(べつ)もあらじ。たとへ眼平(がんへい)若君(わかぎみ)のおん顔(かほ)を見知(みしる)とも。忠義(ちうぎ)の一心(いつしん)を以(もつ)て
あざむかば。やはり損(しそん)じ候まじ。大丈夫(だいじやうぶ)のおん身(み)をさへ。恩愛(おんあい)にひか
されて。おぼつかなしと思ふものを。愚智(ぐち)な女の心(こゝろ)といひ。朝夕(あさゆふ)はなれず
手(て)しほにかけて。これまでに育(そだて)あげたるいとし子を。すゝめて殺(ころ)さす
胸(むね)のうち。御推量(ごすいりやう)くだされかし。しかのみならず娘(むすめ)楓(かへで)。しばしのわかれと
いひながら。世(よ)の中(なか)の親(おや)の情(なさけ)は。我子(わがこ)の片輪(かたわ)をどこまでも。かくして
やるが常(つね)なるに。諸人(しよにん)に顔(かほ)をさらさせて。丹波(たんば)の国(くに)の恩果娘(いんぐわむすめ)と。
のち〳〵までもはぢを残(のこ)さす不便(ふびん)さよ。妾(わらは)が身(み)せめて十 年(ねん)とし若(わか)
くば。此(この)身(み)を売(うり)ても。娘(むすめ)にうき目(め)は見せまじものをと。くどきたて〳〵。兄弟(きやうだい)
ふたりの手(て)をとりつゝ。夫(おつと)におくれをとらせじと。たへしのびつるため涙(なみだ)。
瞼(まぶた)の堤(つゝみ)をおしきりて。あふれおつるぞことわりなる。なむ右衛門 始終(しじう)を
聞(きゝ)。うたがひはるれば百倍(ひやくばい)かなしく。鉄石(てつせき)のごとき心(こゝろ)にも。肝(きも)にやきがねさゝ
るゝ思ひ。五臓六腑(こぞうろつぷ)悩乱(のうらん)し。しばし詞(ことば)もいでざりしが。やゝありていひけるは。
文弥(ぶんや)事(こと)若君(わかぎみ)と同年(どうねん)といひ。剃髪(ていはつ)の姿(すがた)といひ。顔(かほ)かたちも似(に)たる
ゆゑ。おん身(み)がはりと思ひつきては見しかども。何(なに)いふも盲目(めしい)にて用(よう)にたゝず
と。一図(いちづ)に思ひて。死首(しにくび)のまぶたをふさぎ。盲目(めしい)めあきのへだてなき所(ところ)
にはつゆはかりも心(こゝろ)つかざりし。楓(かへで)も容(かたち)はすぐれたれども。片輪(かたわ)なれば
身うりもならず。嗚呼(あゝ)ふたりの子(こ)どもは持(もち)ながら。親(おや)の恩果(いんぐわ)が子に
報(むくい)。忠義(ちうぎ)の用にたゝざる事(こと)よと。残念(ざんねん)に思ひしが。おことをはじめ兄弟(きやうだい)の
子(こ)どもら。たぐひまれなる心底(しんてい)かな。持(もつ)べきものは子(こ)なるぞやといひて。涙(なみだ)と血(ち)と
相和(あいくわ)して。滝(たき)のごとくに流(なが)しけり。文弥(ぶんや)は母(はゝ)の介抱(かいほう)にて。やう〳〵と起(おき)
なほり。おとなしやかに手(て)をつきていひけるは。渇(かつ)しても盗泉(とうせん)の水を
飲(のま)ずとやらんきくものを。母(はゝ)うへのおふせとはいひながら。盗(ぬすま)ぬ金を盗(ぬすみ)し
と。親(おや)をいつはる詞(ことは)の罪(つみ)。おんゆるしくだされかし。果報(くわほう)つたなくて。生(うま)れ
もつかぬ盲目(めしい)となりぬれば。せめて芸道(げいどう)をはげみ。父(ちゝ)母(はゝ)老後(ろうご)の
心を安め。片輪(かたわ)な奴(やつ)に御不便(ごふびん)をくはへ玉ひ。御養育(こよういく)くだされし。大 恩(おん)を
むくはんものと。それたのしみに四年(よねん)このかた。精神(せいしん)をこらせしが。此度(このたび)若君(わかぎみ)
に一 命(めい)をたてまつり。姉(あね)うへも身(み)を売(うり)玉へば。此(この)末(すへ)はさぞ心ぼそくおぼさ
れん。生(いき)わかれ死(しに)わかれと兄弟(きやうだひ)二道(にだう)にわかれども。死(し)は一且(いつたん)にしてなし安(やす)く。生(いき)て
諸人(しよにん)に面(おもて)をさらし。父(ちゝ)の汚名(おめい)をすゝがんとおぼしめす。姉(あね)うへの心底(しんてい)は。
又なしがたき孝行(かう〳〵)也。此(この)年来(としごろ)学(まな)び得(え)し。琵琶(びは)の一手(ひとて)を父(ちゝ)うへに。聞(きか)せ
申さで死(しす)るのは。心 残(のこ)りに候へば。かく手(て)を屓(おひ)ておぼつかなくははべれども。
一曲(いつきよく)つかふまつり候べし。冥途(めいど)の旅(たび)のおき土産(みやげ)。ながきかたみとおぼ
されて。おん聞(きゝ)くだされかし。母人(はゝびと)さまその琵琶(びは)こゝへといふにぞ。いそ菜(な)
泣(なく)〳〵琵琶(びは)とりいだしてあたふれば。わずかに年(とし)は十一 才(さい)の盲児(めくらこ)が。
縹木綿(はなだもめん)の肩(かた)あげに。血(ち)しほしたゝる疵口(きずくち)の。いたさをこらへて琵琶(びは)
かきならし。いと苦(くる)しげに声(こゑ)たてゝ。平家(へいけ)をぞかたりける
さるほどに。一の谷(たに)の軍(いくさ)やぶれしかば。武蔵(むさし)の国(くに)の住人(ぢうにん)熊谷(くまがへ)の
次郎 直実(はほざね)。平家(へいけ)の公達(きんだち)たすけ船(ふね)にのらんとて。みぎはの
かたへおちゆき玉ふらん。あつぱれよき大将軍(たいしやうぐん)にくまばやと
思ひ。ほそ道(みち)にかゝつて。みぎはのかたへあゆまする所(ところ)に。こゝに
ねりぬきに寉(つる)ぬふたる直垂(ひたゝれ)に萌黄薫(もゑぎにほひ)の鎧(よろひ)着(き)て。鍬(くは)
形(がた)打(うつ)たる甲(かぶと)の緒(お)をしめ。黄金作(こがねづくり)の太力(たち)をはき。二十四さいたる
きりうの矢(や)おひ。頻藤弓(しげどうゆみ)もち。連銭驄(れんぜんあしげ)なる馬(うま)に。金覆(きんぷく)
輪(りん)の鞍(くら)おいてのつたりける者(もの)一騎(いつき)。沖(おき)なる船(ふね)を目(め)にかけ海(うみ)へ
さつと打入(うちいれ)。五六たんばかりぞおよがせける
とうたふ唱歌(しやうが)も声(こゑ)くもり。ひくてもふるへてたしかならねど。さすが日(ひ)
来(ごろ)の手練(しゆれん)といひ。此世(このよ)のなごりと思ふから。苦(くる)しき息(いき)をはげませつゝ。三(さん)
重(ぢう)の甲(かう)をあげ。初重(しよぢう)の乙(おつ)に収(おさめ)て。うたひすしまたりければ。大絃(たいげん)は嘈(そう〳〵)
として急雨(きうう)のごとく。小絃(しやうげん)は切々(せつ〳〵)として私語(しご)のごとく。昭君(せうくん)馬上(ばしやう)にしらべ。
【挿絵】
文弥(ぶんや)手(て)をおひ実(じつ)は
月若(つきわか)の身代(みがわり)にならん
覚悟(かくご)と本心(ほんしん)をかたり
死出(しで)のおきみやげ
なりとて平家(へいけ)を
かたる其(その)声(こへ)
いともあわれなり
六字なむ右衛門
かへで
ぶんや
いそな
楽天(らくてん)客舟(かくしう)に聞(きゝ)つるにも。はるかにまさりて哀(あわれ)なり。なむ右衛門 耳(みゝ)を
そばだてゝ聞(きゝ)居(ゐ)たるが。恩愛(おんあい)切(せつ)なる難(なげき)のうへに。かゝるかなしき調(しらべ)をきけ
ば。皮肉(ひにく)もはなるゝこゝちして。こらへかねてぞ泣伏(なきふし)ける。礒菜(いそな)。楓(かへで)も。もろ
ともに。涙(なみだ)にむせぶばかりなり。文弥(ぶんや)はなほも声(こゑ)ふりたて
熊谷(くまがへ)なみだをはら〳〵とながいて。あれ御覧(ごらん)候へ。いかにもして
たすけまゐらせんとは存(ぞんじ)候へども。味方(みかた)の軍兵(ぐんひやう)うんかのごとく
みち〳〵て。よものがしまゐらせ候はじ。あはれおなじうは直実(なほざい)が
手(て)にかけ奉りて。後(のち)の御孝養(ごけうやう)をもつかまつり候はんと申
ければ。只(たゞ)何様(なにやう)にもとう〳〵首(くび)をとれとぞのたまひける。くま
がへあまりにいとをしくて。いづくに刀(かたな)を立(たつ)べしともおほえず。目(め)も
くれ心(こゝろ)もきえはてゝ。前後(せんご)ふかくにおぼえけれども。さてしもあるべき
ことならねば。なく〳〵首(くび)をぞかいてげる
とうたふ声(こゑ)さへ。しだいによはり。ほど〳〵たえん琵琶(びは)の緒(お)に。かゝる血(ち)しほ
の疵口(きずくち)より。さとながるればあな苦(くる)しや。もはやうたふことかなひがたし。
これまでぞとて。琵琶(びは)をおき。此世(このよ)からさへ一条(ひとすぢ)の。杖(つゑ)をたよりの暗穴道(あんけつだう)。
死出(しで)の旅路(たびぢ)は殊更(ことさら)に。黒闇地獄(こくあんぢごく)に迷行(まよひゆき)。無目(むもく)の餓鬼(がき)と生(うま)れ出(で)て。
呵責(かしやく)をうけんは必定(ひつぢやう)なり。それを不便(ふびん)とおぼすなら。末期(まつご)の水を
さかしまに。逆縁(ぎやくえん)ながらお手(て)づから。香花(かうげ)を手向(たむけ)たまはれかし。我身(わがみ)のた
めの功徳(くどく)には。他人(たにん)の千 僧供養(ぞうくよう)より。はるかにまさり候べし。さらぬだに。
親子(おやこ)は一世(いつせ)のちぎりときくに。盲目(まうもく)のかなしさは。父上(ちゝうへ)母(はゝ)うへ。千万 年(ねん)のお
齢(よはひ)すぎて。冥途(めいど)へおはす事(こと)ありとも。お顔(かほ)を見る事(こと)かなはじと。思へばこれ
が三世(さんぜ)のわかれ。又あふことはあらじと思へば。いとゞかなしくなごりおし。父(ちゝ)うへは
どこにおはすぞと。いひつゝはひよりて。なむ右衛門にとりすがり。身(み)う
ちを探(さぐ)りつ。撫(なで)まはしつ。御苦労(ごくろう)をなさるゝゆゑか。いかうやつれが見(み)へはべる。
かならずわづらひ玉ふなよ。とかくおん身(み)恙(つゝが)なく。寿(ことぶき)長(なが)くおはしませと。今般(いまは)
のきはまで孝心(かうしん)の。ふかき詞(ことば)をきくになほ。なむ右衛門 胸(むね)ふさがり。主君(しゆくん)の
御先途(ごせんど)見とゞけて后(のち)は。藤波(ふぢなみ)が縁者(えんじや)をたづね。恨(うら)みの刃(やいば)にかゝりて死(し)す
べき。かねての覚悟(かくご)なれば。思へば蜉蝣(ぶゆう)の一期(いちご)にて。翌(あす)をもしらぬこの身(み)
なるに。夫(それ)とはすこしもしらずして。長生(ながいき)せよとは。いとをしのいひごとよと。心(こゝろ)に
は思ひながら。口(くち)にはえいはず。過去(くわこ)の修因(しゆいん)今生(こんじやう)の現果(げんくわ)。つたなかりける
我(われ)かなと。のみいひて。とかく涙(なみだ)にむせびけり。礒菜(いそな)。楓(かへで)。両人(りやうにん)は文弥(ぶんや)が左右(さいう)
にとりつきて。これが三世(さんせ)のわかれかと。声(こゑ)もおしまず泣(なき)ければ。文弥(ぶんや)は
ふたりが身(み)うちをさぐり。せめての事(こと)にたゞ一目(ひとめ)。おん顔(かほ)を見(み)て死(しに)たきこと
ぞ。盲目(まうもく)となりしは何(なに)の因果(いんぐわ)と。又 今更(いまさら)にかきくどきて。血(ち)を□□り
泣(なき)けるが。折(おり)しも空(そら)に時鳥(ほとゝぎす)。一声(ひとこゑ)なきて過(すぐ)るにぞ。死出(しで)のたをさの道(みち)しるべ
ながく苦痛(くつう)をせんよりは。少(すこし)もはやく父(ちゝ)うへの。おん手(て)にかゝるにしくなしと。西(にし)に
むかひて合掌(がつしやう)し。しばらく念仏(ねぶつ)をとなへつゝ。いざ〳〵と催促(さいそく)し。首(くび)さしのべ
て。まちければ。なむ右衛門 子(こ)にはげまされて身(み)を起(おこ)し。刀(かたな)を抜(ぬき)そばめ
やがてうしろに立(たち)まはりけるが。前(さき)に斬(きり)しは怒(いかり)の刀(かたな)。今(いま)の刀(かたな)は恩愛(おんあい)の。切(せつ)なる
思ひの剣(つるぎ)なれば。手(て)も抖(わなゝ)き脚(あし)も軟(なへ)ぎて。いづくに剣(つるぎ)を打(うつ)べしともおぼえず。
今(いま)聞(きゝ)つる琵琶(びは)の唱歌(しやうが)。熊谷(くまがへ)の次郎は敵(てき)でさへ。敦盛(あつもり)を打(うち)かねつる
ものを。現在(げんざい)我子(わがこ)を斬(きる)おもひ。いかでかたへ忍(しのぶ)べきと。前後不覚(せんごふかく)の体(てい)なりしが。
時刻(じこく)うつりて仕損(しそん)じなば。かれが忠死(ちうし)も水(みづ)の泡(あは)と。おもひきり〳〵。よろめく
足(あし)をふみしめつゝ。若我成仏十方世界(にやくがじやうぶつじつほうせかい)。念仏衆生摂取不捨(ねんぶつしゆじやうせつしゆふしや)。南無(なむ)
阿弥陀仏(あみだぶつ)と。声(こゑ)もろともに。はつしときれば。むざんやな。首(くび)は前(まへ)にまろびおち。
躯(むくろ)はうしろにたふれたり。礒菜(いそな)。楓(かへで)は。太刀音(たちおと)と。共(とも)にさけびて打(うち)ふしぬ。折(おり)しも
遠寺(ゑんじ)の鐘(かね)の声(こゑ)。はや三更(さんかう)の時(とき)なれば。猶予(ゆうよ)ならずと立(たち)よりて。かの金(かね)を
とりをさめ。手(て)ばやく躯(むくろ)を葛篭(つゞら)にかくし。泣伏(なきふす)妻(つま)を引(ひき)おこし。泣(ない)て居(お)る処(ところ)に
あらず。此(この)金(かね)持(もち)て裏道(うらみち)より。かの巻物(まきもの)を買取(かひとり)来(きた)れ。娘(むすめ)は今宵(こよい)生別(いきわかれ)。しば
しもなごりをおしむべしとて。鮮血(なまち)したゝる首(くび)たづさへ。両人(りやうにん)をひきたてつゝ。
へだての紙門(ふすま)をたてきりて。その後(のち)音(おと)もなかりけり。約束(やくそく)の時刻(じこく)ぞ
と。里星(くろぼし)眼平(がんへい)手(て)の者(もの)をゐて来(きた)り。やよ〳〵なむ右衛門。若君(わかぎみ)の首(くび)打(うち)しか。いかに
〳〵とよはゞれば。一間(ひとま)のうちよりなむ右衛門。首桶(くびおけ)をたづさへて。打(うち)しほれつゝ
あゆみ出(いで)。厳命(げんめい)もたしがたく。いたはしながらおん首(くび)打(うち)候ひぬ。いざ御点検(ごてんけん)と
さしいだせば。眼平(がんへい)いはく。某(それがし)月若(つきわか)どのをよく見 知(し)りたる事(こと)は。かねて知(しり)たる
なんぢなれば。よも仮首(にせくび)はわたすまじ。もし又すこしもいつはらば。忽(たちまち)なんぢが身(み)
のうへなりと。にらみつゝ。首桶(くびおけ)を引(ひき)よせて。已(すで)に蓋(ふた)をとらんとす。なむ右衛
門は若(もし)仮首(にせくび)と見あらはさば。きり死(じに)すべき斍悟(かくご)にて。袖(そで)の下(した)に刀(かたな)を抜(ぬき)かけ。
かたずをのみてひかへしは。げに危(あやう)くぞ見えたりける。眼平(がんへい)蓋(ふた)をとりのけて。これ
はとおどろく体(てい)なりしが。文弥(ぶんや)が首(くび)の口中(かうちう)より。陰気(いんき)を吐(はく)と。なむ右衛門が目(め)に
のみ見へしが。眼平(がんへい)忽(たちまち)眼(まなこ)くらみ。いかにも月若(つきわか)どのゝおん首(くび)に相違(さうい)なし。よく打(うち)
つるぞと賞美(しやうび)して。首桶(くびおけ)をとりおさめ。従者(じゆうしや)をちかづけ。とほまきの人(にん)
数(ず)を。とく〳〵ひかすべしと下知(げち)をなし。ふたゝびなむ右衛門にむかひ。若君(わかぎみ)の首(くび)
打(うち)たるうへは。汝(なんぢ)においてかまひなし。旧悪(きうあく)の罪(つみ)あれども。此度(このたび)の㓛(こう)により。大殿(おほとの)の
御前(こぜん)。よきにとりなしつかはすべしと。いひ捨(すて)て。人数(にんず)を引(ひき)つれ立(たち)かへる。なむ右
衛門ため息(いき)を吻(ほ)とつきて。とほまきの人数(にんず)を引(ひけ)ば。もはや気(き)づかふ事(こと)なし
若君(わかぎみ)をおとしまゐらす。支度(したく)せばやと思ひつゝ。立上(たちあが)る折(おり)しも。妻(つま)いそ菜(な)息(いき)も
つきあへずはせ帰(かへ)り。様子(やうす)はいかにとたづぬれば。文弥(ぶんや)が一念(いちねん)頭(かうべ)にとゞまり。
陰気(いんき)を吐(はき)て。眼平(がんへい)が眼(まなこ)をくらませ。十 分(ぶん)に欺(あざむ)きしときゝて。いそ菜(な)は心(こゝろ)おち
つき。かの巻物(まきもの)をとり出(いだ)してわたせば。なむ右衛門ひらきみて。お家(いへ)の重(ちやう)
宝(ほう)に。まぎれなしとて巻(まき)おさめ。これさへあればそれがしが。汚(けがれ)たる名(な)をそゝぎ。
末代(まつだい)までもきよかるべし。これといふも楓(かへで)が孝心(かうしん)ふかきゆゑぞ。娘(むすめ)はもはや旅(たひ)
立(たち)しか。あな不便(ふびん)や。さそかなしからん。今(いま)思へば。かれを楓(かへで)となづけしも。かへで
は蟇手(かいるで)の略訓(りやくくん)にて。小蛇(しやうじや)のたゝる前表(ぜんひやう)ならん。文弥(ぶんや)が初名(しよめい)を栗(くり)太郎と名(な)づしけも。
丹波(たんば)の国(くに)の爺打栗(てゝうちぐり)。爺(てゝ)に打(うた)るゝ因縁(いんえん)か。只(たゞ)此(この)うへは文弥(ぶんや)めが。菩提(ぼだい)をとふが
肝要(かんやう)なり。眼平(がんへい)一度(ひとたび)仮首(にせくび)をとりゆきしが。今(いま)にそれとあらはれて。ふたゝび
こゝによせ来(きた)らんは必定(ひつぢやう)なり。片時(へんし)もはやく若君(わかぎみ)を。おとし申すにしかじと
いひて奥(おく)に入(いり)。月若(つきわか)の手(て)をたづさへて立(たち)いづれば。若君(わかぎみ)は目(め)を泣(なき)はらし。
夫婦(ふうふ)の忠節(ちうせつ)過分(くわぶん)なり。便(びん)なき文弥(ぶんや)が身(み)のはてやと。なげき
のたまふ一言(ひとこと)が。世(よ)にあるときの千石(せんごく)より。夫婦(ふうふ)が身(み)にはありがたく。
なむ右衛門 巻物(まきもの)を懐中(くわいちう)し。躯(むくろ)をいれたる葛篭(つゞら)をせおひ。若(わか)
君(ぎみ)のおん手(て)をとれば。妻(つま)のいそ菜(な)は琵琶(びは)をいだき。地水火風(ちすいくわふう)の四ツ
の緒(お)の。きれし我子(わがこ)のかたみぞと。転手(てんじゆ)撥面(ばちめん)半月(はんげつ)の。月(つき)の光(ひか)りを
たよりにて播磨(はりま)のかたへぞおちゆきける
○かくて。なむ右衛門 夫婦(ふうふ)。若君(わかぎみ)を扶(たすけ)て。播磨(はりま)より河内(かはち)にいたり
取縁(しよえん)の寺(てら)にたよりて。文弥(ぶんや)が躯(むくろ)を煙(けふり)となし。かたみの琵琶(びは)
を施物(せもつ)として。仏事(ぶつじ)をいとなみ。若君(わかぎみ)にいそ菜(な)をつけて。かの寺(てら)
に忍(しの)ばせおき。その身(み)はかの巻物(まきもの)をたづさへ。桂之助(かつらのすけ)銀杏(いてふの)
前(まへ)の。ゆくへをたづねに。いでけるとぞ
巻之三終
【裏表紙】
《割書:不破伴左衛門|名古屋山三》昔語稲妻表紙 五
昔話(むかしがたり)稲妻(いなつま)表紙(びやうし)巻之四
江戸 山東京伝編
十二 修羅(しゆら)の大鼓(たいこ)
さても銀杏(いてふ)の前(まへ)は。山三郎に扶(たすけ)られて。生駒山(いこまやま)の麓(ふもと)までおちのびしが。
辻堂(つぢどう)にて追手(おひて)の者(もの)に捕(とら)へられ。不破(ふは)道犬(だうけん)が手(て)にわたりて。蜘手方(くもでのかた)の
深殿(しんでん)。おくまりたる一間(ひとま)のうちに押篭(おしこめ)られて。日(ひ)のかげだに見ること
あたはず。月若(つきわか)の身(み)のうへ苦(く)になるうへに。朝夕(あさゆふ)の食事(しよくじ)だに。ろく〳〵に
与(あた)へざれば。心気(しんき)日々(ひゞ)におとろへ。身体(しんたい)夜々(やゝ)にやせほそりて。命(いのち)も危(あやう)く
見え玉ふ。しかのみならず。道犬(だうけん)蜘手方(くもでのかた)と密談(みつだん)して。大殿(おほとの)判官(はんぐわん)の
命(めい)といつはり。いてふの前(まへ)を引(ひき)いだして。両人(りやうにん)かはる〴〵。昼夜(ちうや)たえまなく
寤現責(うつゝぜめ)にして。月若(つきわか)のゆくへ白状(はくじやう)せよと責(せめ)にけり。むざんやないてふの
前(まへ)は。三日(みつか)三夜(さんや)のうつゝぜめにつかれはて。おぼえずねふれば。道犬(だうけん)耳(みゝ)のはたに
大鼓(たいこ)をならして。ねふりをさまさせ。しばしのうちもねふらさず。夢(ゆめ)幻(まぼろし)の
世(よ)の中(なか)に。夢(ゆめ)も見せぬぞ哀(あわれ)なる。道犬(だうけん)眼(まなこ)をいからし。いかにいてふの前(まへ)どの。月(つき)
若(わか)どのゝゆくへ。しらぬ事はよもあらじ。とく〳〵白状(はくじやう)しめされよ大殿(おほとの)の
厳命(げんめい)なれば。とてものがれぬ処(ところ)ぞと責(せめ)とへば。いてふの前(まへ)瞼(まぶた)おもげに。目(め)を
ひらきて。苦(くる)しげに息(いき)をつき。かくやすみなき責(せめ)にあひ。夜(よ)とも昼(ひる)とも
おもほえず。夢(ゆめ)か現(うつゝ)か寝(ね)てか醒(さめ)てか。わかたざるこゝちすればいかばかりいと
をしと思ふ我子(わがこ)にても。。ありかさへしるならば。うつゝのうちにいはでやは。いかでか
つゝみかくさるべき。推量(すいりやう)してよ道犬(だうけん)と。のたまひつゝも又ねふれば。又 大鼓(たいこ)を
打(うち)て目(め)をさまさす。ねふれば打(うち)うてば醒(さめ)。水責(みつぜめ)火責(ひぜめ)にあふよりも。はるかに
まさる責苦(せめく)なり。傍(かたはら)より蜘手方(くもでのかた)。小膝(こひさ)をすゝめてちかくより。いまだ
わづかに三日(みつか)三夜(さんや)の責(せめ)なれば。まこと現(うつゝ)にはならぬとおぼし。ながき責(せめ)をうけん
より。つひ一言(ひとこと)白状(はくじやう)せよ。此うへにもいはずは。骨(ほね)をひしぎ肉(にく)をさきても。いは
さでやはあるべき。いでいへいで荅(こた)へよとて。角(つの)なき夜叉(やしや)のさまなして。くらひつく
べき形勢(ありさま)なり。いてふの前(まへ)顔(かほ)をあげ。いかほどにのたまふとも。しらぬ事はせん
すべなし。只(たゞ)此うへは片時(へんし)もはやく。殺(ころ)し玉ふが情(なさけ)ぞとて。さめ〴〵と泣(なき)玉ふ。紺(こん)
青(じやう)の髪(かみ)すぢも。こぼるゝまゝにとりあげず。顔(かほ)さしいるゝ襟(ゑり)もとに。つたふ涙(なみだ)の
白玉(しらたま)は。夷(ゑびす)の国(くに)の胸装(むなかざり)を。目前(まのあたり)見るこゝちして。哀(あわれ)などいふもおろか也。蜘手方(くもでのかた)
声(こゑ)あらゝげ。あなしぶとき女めかな。とても本性(ほんしやう)にては白状(はくじやう)せまじ。いつまでも
手(て)をゆるめず。責(せめ)つからして現(うつゝ)のうちにいはすべし。道犬(たうけん)大鼓(たいこ)打(うて)〳〵と下知(げぢ)する
にぞ。道犬(だうけん)かしこみ候とて。耳(みゝ)のはたにさしつけて。鼕々(どう〳〵)と打(うち)ならせば。いてふの
前(まへ)の身にとりては。修羅(しゆら)の大鼓(たいこ)にことならず。一百(いつひやく)三十六 地獄(ぢごく)。品(しな)かは
りたる呵責(かしやく)にも。たぐひまれなる責苦(せめく)なり。かゝる折(おり)しも。とり次(つぎ)の者(もの)
はせまゐり。黒星(くろぼし)眼平(がんへい)只今(ただいま)帰国(きこく)つかまつりおん次(つぎ)にひかへ。おんめしを
まち候ときこゆれば。道太(だうけん)打聞(うちきゝ)。それいそぎこれへよべといふにぞ。かしこみ
候とて退(しりぞ)きぬ。ほどなく眼平(がんへい)まかりいで。椽側(ゑんがは)に頭(かしら)をさげていひけるは。
月若(つきわか)どのゝゆくへをたづね。おん首(くび)打(うち)てまゐれとのおふせにより。所々(しよ〳〵)
方々(ほう〴〵)をたづねもとめ候うち。註進(ちうしん)の者(もの)ありて。丹波(たんば)の国(くに)穴太(あなふ)の里(さと)に住(すむ)。
六字(ろくじ)南無(なむ)右衛門と申す者(もの)。かくまひおくよし聞(きゝ)いだし候ゆゑ。いそぎゆき
むかひ候 所(ところ)に。彼者(かのもの)いかゞしてか打手(うつて)のむかふ事を知(しり)。若君(わかぎみ)をつれてのがれ
去(さ)り。ゆくへしれずなり候。なむ右衛門と申すは別人(べつじん)ならず。佐々良(さゝら)三八
郎がことに候と。仮首(にせくび)をうけとりし。おのが越度(おちど)はおしかくし。まことしやか
に相(あい)のぶる。蜘手方(くもでのかた)これを聞(きゝ)。そは残念(ざんねん)なり。しかるうへは。いてふの前(まへ)を
せむるも無益(むやく)なり。かれはとくに殺(ころ)すべきはづなれども。畢竟(ひつきやう)月若(つきわか)の
ありかをいはさんばかりに。今日(こんにち)までもいけおきぬ。もし大殿(おほとの)の心(こゝろ)かはり
て。助命(ぢよめい)などあらば。後日(ごにち)のさまたげなり。とく〳〵かれを殺(ころ)すべし。
月若(つきわか)三八郎がゆくへは。なほきびしくたづぬべし。道犬(だうけん)そちはいかゞ思ふ
やらんとのたまへば。道犬(たうけん)うなづき。それがしも左(さ)こそ存(そんじ)候へ。さるからは片時(へんし)
も猶予(ゆうよ)はよろしからず。幸(さいは)ひ日(ひ)もくれなんとすれば。今宵(こよひ)のうちに御
首(くび)打(うち)候べし。いかに眼平(がんへい)。なんぢいてふの前(まへ)どのを乗物(のりもの)にのせ。夜(よ)にまぎ
れて岩倉谷(いはくらだに)にかきゆき。ひそかにおん首(くび)打(うち)て来(きた)るべしと命(めい)じければ。
眼平(がんへい)腹心(ふくしん)のしもべをよびつぎ。庭(には)さきに乗物(のりもの)をかきいれさせ。夢(ゆめ)現(うつゝ)
にて打伏(うちふし)たる。いてふの前(まへ)を。情(なさけ)なくもあらなはにて高手(たかて)小手(こて)にくゝし
あげて。乗物(のりもの)におし入(いれ)。しもべにかゝせつきそひて庭(には)づたひにいで岩倉(いはくら)
谷(だに)にいそぎゆきぬ。いてふの前(まへ)はこのごろのつかれにて。乗物(のりもの)のうちに熟(じゆく)
睡(すい)し。身(み)のあやうさも露(つゆ)しらず。屠所(としよ)のあゆみのほどもなく。岩倉谷(いはくらだに)に
ゆきつき。眼平(がんへい)下知(げぢ)して。とある処(ところ)に乗物(のりもの)をすゑさせ。戸(と)をあけていてふ
の前(まへ)をひきいだす。いてふの前(まへ)は此時(このとき)にいたりて。やう〳〵すこしねふりさめ。
目(め)をひらきて。先(まづ)我身(わがみ)をかへりみれば。いましめの縄目(なはめ)あり。四方(よも)をあふぎて
見わたせば。月(つき)の光(ひか)りはあきらかなれども。いづくいるなる所(ところ)をしらず。松(まつ)吹(ふく)風(かせ)は
梢(こずゑ)をならし。谷(たに)の水音(みつおと)耳(みゝ)にひゞきて。ものすさまじくきこゆれば。こはまだ
夢(ゆめ)のうちなるかと。更(さら)にうたがひはれざりけり。眼平(がんへい)むかひ合(あひ)ていひけるは。
いかにいてふの前(まへ)どの。此(この)所(ところ)は名(な)におへる岩倉谷(いはくらだに)といふ所(ところ)也。大殿(おほとの)の厳命(けんめい)に
よりて。唯今(たゞいま)おん首(くひ)を打(うつ)なり。念仏(ねんぶつ)まうしたくおぼさばとく〳〵申されよ
と。情(なさけ)なげにぞ申しける。いてふの前(まへ)これを聞(きゝ)。さては我身(わかみ)も今(いま)かぎりなる
か。捕(とら)へられたるその時(とき)より。覚悟(かくご)のうへの命(いのち)なれば。おどろくべきにあら
ざれども。今般(いまは)のきはに唯(たゞ)一目(ひとめ)。月若(つきわか)を見ざるのみ。此世(このよ)の心(こゝろ)のこりぞかしとて。
さめ〴〵とぞなげかるゝ。たとへ鉄(てつ)もて鋳(ゐ)なしたる人(ひと)。土(つち)もてつりたる的(もの)なり
とも。すこしは哀(あは)れをもよほすべきに。物(もの)のあはれをわきまへざる。夷(えびす)ごゝろの
眼平(がんへい)なれば。なげきを耳(みゝ)にも聞入(きゝいれ)ず。氷(こほり)なす刀(かたな)を抜(ぬき)。左(ひだ)りの方(かた)よりふみこ
みて。已(すで)にかうよと見えたる処(ところ)に。はるかむかふの茂林(もりん)のうちより。噇的(どうと)一声(いつせい)
ひゞきわたりて。たちまち鉄丸(てつぐわん)飛来(とびきた)り。眼平(がんへい)が胸板(むないた)を打(うち)ぬきければ。血(ち)を吐(はき)
ながらさかしまにひるがへり。ふすぼりかへりて死(しゝ)てげり。しもべらは魂(たましい)天外(てんぐわい)に
飛去(とびさり)つゝ。かうべをおさへて逃去(にげさり)ぬ。しばしありて林(はやし)のうちより。忍頭巾(しのびつきん)に面(おもて)
をつゝみ。黒(くろ)き装束(しやうぞく)したる者(もの)。手(て)に火術(くわじゆつ)の具(ぐ)をたづさへて。悠々(ゆう〳〵)とあゆみ
いで。驚(おどろ)き臥(ふし)たるいてふの前(まへ)を引(ひき)おこし。小脇(こわき)にはさみて。いづくともなく走(はせ)ゆきけり。
【挿絵】
いてふの前(まへ)
岩倉谷(いはくらだに)に
おいて首(くび)を
うたんとす
時(とき)に何者(なにもの)
ともしれず
太刀(たち)どりを
打(うち)ころして
いてふの前(まへ)を
うばひ去(さ)る
いてうのまへ
がん平
是(これ)善人(ぜんにん)か悪人(あくにん)か。はた敵(てき)か味方(みかた)か。何人(なにびと)といふことをしらず。此(この)者(もの)
の姓名(せいめい)をしらんと要(やう)せば。巻(けん)之(の)五の下冊(げさつ)。第(だい)十九 回(くわい)を。読得(よみえ)
て知(しる)べし
十三 霊場(れいぢやう)の熱閙(ねつたう)
その比(ころ)近江(あふみ)の国(くに)。石山寺(いしやまでら)の観音菩薩(くわんおんぼさつ)。結縁(けちえん)のため開帳(かいちやう)ありけるが。名(な)に
おへる霊場(れいぢやう)なれば。これにまうで来(く)る人(ひと)。士女(しぢよ)老少(ろうしやう)群集(くんじう)し。綿々(めん〳〵)絡繹(らくゑき)
としてゆきゝしばらくもたえず。誠(まことに)是(これ)行川(ゆくかは)のながれのとゞまらざるに
似(に)たり。商人(あきびと)どもかゝるにぎはひに乗(じやう)じて。過分(くわぶん)の福(さいはひ)を得(え)んと。俄(にはか)に仮(かり)
屋(や)をつくり。草津鞭(くさつむち)。守山鞦(もりやましりかい)。高宮布(たかみやぬの)。長浜糸(ながはまいと)。大津針(おほつはり)。高島硯(たかしますゞり)。武佐(むさ)
墨(ずみ)。水口笠(みなくちかさ)。辻村(つぢむら)の鍋(かなゝべ)のたぐひ。玄恵(げんゑ)法印(ほふいん)が庭(には)の訓(をしへ)にもらせるものまで。おの
がさま〴〵持(もち)はこびて。山(やま)のごとくつみあぐれば。買人(かひて)は雲(くも)のごとくにあつまりぬ。
あるひは酒(さけ)売(うる)家(いへ)あり。餅(もち)菓(くだもの)売(うる)軒(のき)あり憩所(いこひところ)をつくりて。茶(ちや)をひさく者(もの)
あり。小弓(こゆみ)の射場(ゐば)まうけて。いとなみとする者(もの)あり。あるひは長剣(ちやうけん)を撫(ぶ)して
薬(くすり)をうり。今様(いまやう)をうたひて銭(せに)を乞(こひ)聞(きゝ)もつたへぬ片輪者(かたわもの)。見もおよばぬ
鳥(とり)獣(けもの)など。奇(あやし)とあやしきものを見する所(ところ)幻戯(めくらまし)篭脱(かごぬけ)刀玉(かたなだま)縁竿(くもまひ)のたぐひ
奇妙(きみやう)の術(じゆつ)を施(ほどこ)す所(ところ)など。処(ところ)せきまで立(たち)ならび。笛(ふゑ)吹(ふく)音(おと)鼓(つゞみ)打(うつ)声(こゑ)四方(よも)に
ひゞきてかまびすく。諸人(しよにん)の耳目(じもく)をおどろかしむ。此(この)大路(おほぢ)のうちに。薦(こも)すだれ
かけかり家(や)つくりて。紙(かみ)もてはれる招牌(まじるし)に。辻談義(つぢだんぎ)露(つゆ)の五郎兵衛尉(ごらうひやうゑのじやう)と墨(すみ)
ぐろにかきつけて。戸口(とぐち)にかけたるあり。かれがいふこと聞(きく)とて人(ひと)あまたつどひ
居(ゐ)たり。講師(かうし)たかき床(ゆか)のうへにのぼり。書案(ふづくえ)のうへに柝木(ひやうしぎ)のかたしをおき。まづ
しはぶきを前(さき)にたてゝ。聴聞衆(ちやうもんしゆ)にむかひ。夫(それ)つら〳〵阿弥陀経(あみだきやう)を考(かんかう)るに如来(によらい)
は五劫(ごこふ)の間(あひだ)思惟(しゆい)し玉ひ。上(かみ)は一人(いちにん)より下(しも)は婆(はゞ)々 嫁(かゝ)々にいたるまで。残(のこり)りなく
すくひとらめとの御誓願(ごせいぐわん)は。おの〳〵や我等(われら)まで。ありがたくたふとき事に
あらずや。かるがゆゑに弥陀如来(みだによらい)は。寝(ね)玉ふことはさておきてあぐみ居玉ふ
ことだになく。十万 里(り)かなたの西方(さいほう)より。こなたの方(かた)に伸(のび)あがり玉ひて。衆生(しゆじやう)
の地獄(ちごく)をつくるを見玉ひては。あなや〳〵とかなしみおぼさるゝよし。それよりは
持国(ぢこく)多聞(たもん)などいへる一騎当千(いつきとうせん)の四天王(してんわう)に命(めい)ぜられ衆生(しゆじやう)胸裏(きうり)の地獄(ぢごく)を
つぶす御分別(こふんべつ)はなきかと。声(こゑ)おかしううちあげていひつゝ。かの柝木(ひやうしぎ)をとりて
書案(ふづくえ)を撲地(はたと)打(うち)ならしければ芝居(しばゐ)一 度(ど)に鳴動(めいどう)し且(かつ)笑(わらひ)且(かつ)感(かんず)る声(こゑ)しば
らくはやまざりけり。そのとなりもおなじすぢなる小 屋(や)つくりて。外(と)の方(かた)に
うつくしき少女(しやうぢよ)の身(み)うちに蛇(くちばみ)のまとひつきたるさまを絵(ゑ)にかきたる。招(ま)
牌(しるし)をかゝげいだしたるあり。かたぬぎたる男(おとこ)戸口(とぐち)に立(たち)扇(あふぎ)をひらきて往来(ゆきゝ)の
人(ひと)をさしまねきつゝ。声(こゑ)たかやかによばひいへるは。これ此(この)まじるしを見玉へ。そも
此(この)女子(をなご)こそ。丹波(たんば)の国(くに)なる奥山(おくやま)に住(すむ)猟師(かりうど)の子(こ)なれ。殺生(せつしやう)の罪科(つみとが)親(おや)の
因果(いんぐわ)の子(こ)にむくひはべりてかく蛇(くちばみ)に見こまれ身(み)うちにまつはりてはなれさらず。
容(かたち)は世(よ)にすぐれてうつくしう生(うま)れつきながら。人(ひと)がましき交(まじは)りならぬ身(み)とはなり
にたり。十(とを)か一ツ罪障(ざいしやう)消滅(せうめつ)の便(よすが)ともなれかしとて。あまねく人々に見せ奉(たてまつ)る也。
都(みやこ)におきては四条(しじやう)の川原(かはら)。浪華津(なにはづ)にては道頓堀(だうとんぼり)。伊勢(いせ)の国(くに)にゐてゆきては。白子(しろこ)
なる観音堂(くわんおんどう)のほとりにて見せ奉りぬ。ものゝむくいのおそろしさはかくぞあなる。前(ぜん)
代未聞(だいみもん)又たぐひあらじ。いへづとによき話柄(はなしのたね)ぞ招牌(まじるし)につゆばかりもいつはりあらば銭(ぜに)
とり候まじ見玉ひてのちおこし玉へと。声(こゑ)かるゝばかりのゝしれば。見物(けんぶつ)の諸人(しよにん)
蟻(あり)のごとくに集(つどひ)蜂(はち)のごとくに群(むらが)りて。かりやのうちにいり。こちおしあちおし。
ひしめきあひてこれを見る。此(この)をなごはすなはちこれ。六字(ろくじ)南無(なむ)
右衛門が娘(むすめ)楓(かへで)なり。憐(あはれ)むべし楓(かへで)は。こゝろにもあらで。眉(まゆ)をゑがき脣(くちびる)を
そめ。頭(かしら)に花笄(はなかんざし)をさしかざし。色元結(いろもとゆひ)をむすび。髪(かみ)のゆひざまも今(いま)
様(やう)にとりあげて。阿曽比(あそび)めきたる容(かたち)につくり。床机(しやうぎ)めきたるものゝ
うへに。紅(くれなゐ)の毛氈(けむしろ)しきて尻(しり)かけたる姿(すがた)嬋娟(せんけん)たる壮丹花(ぼたんくわ)の咲(さき)いで
たるごとくにて。あたりもかゞやくばかりうつくしけれど腹(はら)手首(てくび)咽(のんど)くび
なとに。蛇(へび)どもいくつとなくまとひつき。かまくびをおしたて赤(あか)き針(はり)の
やうなる舌(した)を吐(はき)いだし。目(め)をぽち〳〵としてうごめくさま。見るにさへ身(み)の毛(け)そば
だつばかりなり。見物(けんぶつ)の諸人(しよにん)何(なに)の遠慮(ゑんりよ)もなくかれが顔(かほ)をちか〴〵とうち
まもり。世(よ)にまれなる娘(むすめ)なるにかく妖蛇(ようじや)に見こまれしはおしむべき事(こと)に
あらずや。かゝるあさましき身(み)とだになりにたるを。はれがましう人(ひと)集(あつめ)て見する
ことよ。かの女いかにわびしとや思ふらん。あな不便(ふびん)のことやといへば傍(かたはら)の人(ひと)の
いへるは。いな〳〵かれが親(おや)めは。さだめて非義(ひぎ)非道(ひどう)をおこなひつる。悪人(あくにん)
ならめ。そのゆゑに親(おや)の因果(いんぐわ)の子(こ)にむくいて。かうあさましき身(み)とはなり
つらめ。さるあしき者(もの)の。うみつけつる子(こ)なれば。かれも又 姿(すがた)こそうつくし
けれ。志(こゝろざし)はさぞゆがみつらめ。世(よ)の人(ひと)のよき戒(いまし)めぞ。かう人(ひと)〴〵に面(おもて)さらさしむる
は。かへりてかれらが罪科(つみとが)のきえうするよすがなり。憐(あはれ)むべきにあらず。人(ひと)
〴〵よく見てやりねなど。口(くち)〴〵にいふを聞(きゝ)つゝ。人(ひと)〴〵に顔(かほ)まもらるゝ楓(かへで)が
苦(くる)しさ。いかばかりならんはかり思ふべし。抑(そも〳〵)石山寺(いしやまでら)は石光山(せきくわうざん)と号(がう)し。天平(てんへい)
勝宝(しやうほう)六年の草創(さう〳〵)なり。聖武(しやうむ)天皇(てんわう)の朝(ちやう)。僧正(そうじやう)良弁(りやうべん)。如意輪観自(によいりんくわんじ)
在(ざい)丈六(じやうろく)の尊像(そんぞう)を安置(あんち)す。一千 有余年(ゆうよねん)を経(へ)たる霊場(れいぢやう)なり。後(うしろ)は
連峰(れんほう)峨々(かゞ)として。岩間(いはま)笠取(かさとり)醍醐(だいご)につらなり。前(まへ)は勢田川(せたがは)のながれ)
淼々(べう〴〵)として。湖水(こすい)につゞく。げに此地(このち)の月(つき)を賞(しやう)じて。近江八景(あふみはつけい)の一勝(いつしやう)と
せるもうべなり。扨(さて)此(この)御寺(みてら)の門前(もんぜん)に。ひとりの浪人(ろうにん)。深編笠(ふかあみがさ)に面(おもて)をかくし。
【挿絵】
近江国(あふみのくに)
石山寺(いしやまでら)
観音(くわんおん)開帳(かいちやう)
あるにより
参詣(さんけい)
群集(くんじゆ)す
かへで
やへがき
大入
因果娘
開帳 石山寺
禍福 卜筮 吉凶
手のうらなひ
露の五郎兵衛 辻談義
小鼓(こつゝみ)を打(うち)つゝ。月(つき)にはつらき小倉山(をくらやま)その名(な)はかくれざりけりと。くせ舞(まひ)〳〵
のうたひをうたひ物(もの)を乞(こふ)さまなり。往来(ゆきゝ)あまたの人(ひと)のうちより。年(とし)の
ころほひ十六七とおぼしく。容貌(みめかたち)すぐれて美(うつ)しき娘(むすめ)。田舎染(いなかぞめ)とは見ゆれど。
紅(くれなゐ)のこぞめの梅(うめ)の小枝(さゑだ)に。春霞(はるかすみ)立田(たつた)の山(やま)の鴬(うぐひす)といふ文字(もじ)を。縹(はなだ)にそめ
いだしたる。木綿(もめん)の振袖(ふりそで)着(き)て。もすそかゝげ。褌衣(おひづる)かけ。手覆(ておほひ)脛巾(はゞき)草(わら)
鞋(づ)を穿(はき)。菅(すげ)の小笠(をがさ)をたづさへて。巡礼(じゆんれい)の道者(だうしや)と見えたる女。かの浪人(ろうにん)の
傍(そば)にちかづき。扨(さて)もしほらしき鼓(つゞみ)の音(ね)ぞといひつゝしばしたゝずみぬ。
かの浪人(ろうにん)編笠(あみがさ)ごしに。此(もの)女(をなご)をつら〳〵見て。さてもいぶかしさよ。おことはおさ
なき時(とき)。出雲(いづも)の国(くに)大社(おほやしろ)の社家(しやけ)に。養子(やうし)につかはしたる。八重垣(やへがき)にはあら
ずやといふ。かの女これを聞(きゝ)。打(うち)おどろきたるさまにて。しばし荅(いらへ)もせず。只(たゞ)
打(うち)まもりて居(を)る。浪人(ろうにん)ふたゝびいひけるは。かく零落(れいらく)してむかしにかはる
姿(すがた)なれば。いぶかるも理(ことはり)なりとて。声(こゑ)をひそめ。それがしはおことが兄(あに)長谷部(はせべの)
雲六(うんろく)なるはといふにぞ。女は益(ます〳〵)おどろきたる体(てい)なりけり。かくて雲六(うんろく)女をもの
蔭(かげ)にいざなひ。笠(かさ)ぬぎていひけるは。世(よ)を忍身(しのぶみ)なれば。人目(ひとめ)おほき所(ところ)にては
面(おもて)をあらはしがたし。おことは何(なに)ゆゑかゝる姿(すがた)となり。具(ぐ)せる人(ひと)もなく若(わか)き
女の身(み)にてたゞひとり。此辺(このへん)には来(きた)りしぞと。とはれて女さては兄(あに)うへにておはし
けるものをとて。涙(なみだ)さしぐみ。さきほどかしこの算(さん)おきにうらなふてもららひ
しに。けふたづぬる人(ひと)にあはめといひしは。まことに見通(みとほ)じのうらなひなり。
さて妾(わらは)が薄命(はくめい)を聞(きゝ)てたべ。養家(ようか)の父(ちゝ)母(はゝ)此(この)春(はる)わづか一 月(つき)の間(あひた)に。つゞき
て身(み)まかり玉ひ。妾(わらは)ひとりあとにのこりしが。養父(ようふ)の弟(をとゝ)にて妾(わらは)がためには
伯父(をぢ)なる人(ひと)。養父(ようふ)の遺財(いざい)を奪(うばひ)とらんたくみにて。情(なさけ)なくも妾(わらは)をおひ
出(いだ)しぬれば。せんすべなく。此(この)うへは兄(あに)うへにあひて。身(み)のうへをたのみ申す
【欄外】くせ舞々といふものふるし文明の職人尽に見へたり
より外(ほか)なしと思ひ。かく巡礼(じゆんれい)に姿(すがた)を扮(やつ)して物乞(ものこひ)つゝ。辛(から)うじて大和(やまと)の
国(くに)にいたりけるが。おん身(み)在京(ざいきやう)の節(せつ)。かしこにて。俄(にはか)に浪々(ろう〳〵)の身(み)となり玉ひ。
ゆくゑしれずときゝつるゆゑ。ほとんど力(ちから)おち。縊(くびれ)てや死(しな)ん。淵川(ふちかは)に身(み)を
しづめやすべきと。とざまかうざまに思ひめぐらしけるが。せめて諸国(しよこく)の
霊場(れいじやう)をめぐりて。養父母(ようふぼ)の菩提(ほだい)の為(ため)。我身(わがみ)来世(らいせ)をたすかるよすが
にもせばやと思ひつき。社家(しやけ)に育(そだち)て仏(ほとけ)につかふるは心(こゝろ)たがへるやうには
あれど。神仏(しんぶつ)もと同体(どうたい)ともきけば。くるしからじと心(こゝろ)を決(けつ)し。をちこちを
巡拝(じゆんはい)して。けふしも此(この)御寺(みてら)にまうでしが。思ひかけず兄(あに)うへにあひ
奉りしは。全(まつた)く菩薩(ぼさつ)のみちびき玉ふに疑(うたがひ)なし。おん身(み)は又 何(なに)ゆゑ
俄(にはか)に浪人(ろうにん)し玉ひ。かばかり零落(れいらく)はし玉ひつるぞと。とひかへせば。
雲六(うんろく)こたへて。我(わが)身(み)のうへの物語(ものがたり)は一席(いつせき)に尽(つく)されず。殊更(ことさら)こゝは路(みち)の
傍(かたはら)といひ人 立(だち)おほき所(ところ)なれば。くはしき事(こと)を語りがたし。且(まづ)我(わが)住家(すみか)へともなふべし
とていそがはしく鼓(つゞみ)しきものなどとりおさめ。女をつれて家(いへ)にかへりぬ。雲六(うんろく)が
心底(しんてい)善(ぜん)か悪(あく)かはかり知(し)るべからず。かくて日も西山(せいざん)にかたふきければ。参詣(さんけい)の諸人(しよにん)足(あし)を
はやめておのがさま〴〵帰路(きろ)をいそぎ。俄(にはか)に寂寞(せきばく)たる折(をり)しも。一人の虚無僧(こむそう)尺八(しやくはち)の
笛(ふゑ)をとり。滝(たき)おとしを吹(ふき)すまして此(この)処(ところ)にあゆみ来(く)る。その後(しりへ)につきて腹巻(はらまき)に擘(こ)
手(て)臑楯(すねあて)つけたる捕手(とりて)の人数(にんず)。ぬき足(あし)しつゝ忍(しのび)より時分(しぶん)よしとや思ひけん。前後(せんご)
左右(さゆう)をとりかこみ。一言(いちごん)の詞(ことば)もなく。手(てに)〳〵に十手(じつて)を打(うち)ふりて。からめとらんとかゝり
けるが。虚無僧(こむそう)尺八(しやくはち)を以(もつ)てあしらひ。しばし打合(うちあひ)ける所(ところ)に。思ひかけざる背後(うしろ)の方(かた)の
かり家(や)のうちより。耳(みゝ)もとにいさゝか鬢(びん)の髪(かみ)のこし。頭(かしら)なごりなく剃(そり)すてゝ
いとおかしげなる男(をとこ)。一根(いつこん)の棒(ぼう)をとりてをどり出(いで)。捕手(とりて)の人数(にんず)をめつた打(うち)に
打(うち)たふしけるにぞ。彼(かの)輩(ともがら)敵(てき)する事(こと)あたはず。散(さん)〴〵になりて逃去(にげさ)りぬ
【挿絵】
辻談義(つぢたんぎ)露(つゆ)の
五郎兵衛 実(じつ)は
名古屋(なごや)山三が
しもべ猿(さる)二郎
佐々木(さゝき)桂(かつら)之助の
危難(きなん)を
すくふ
菩薩建立
露の五郎兵衛
佐々木桂之助
蘭陀 外料
伝家赤かうやく
請合入歯
口中
時(とき)にかの男(をとこ)棒(ぼう)をからりとなげすてゝ平伏(へいふく)し。土(つち)に額(ひたい)をすりつけて恭く
いひけるは。某(それがし)察(さつ)し奉るに。君(きみ)は佐々木(さゝき)の若殿(わかとの)桂之助(かつらのすけ)国知公(くにともこう)にうたがひなし
実をおんあかし玉はれかしと相(あひ)のぶる虚無僧(こむそう)頭(かうべ)を打(うち)ふり。こは思ひかけざる
事(こと)を聞(きく)ものかな。某(それがし)は一所不住(いつしよふちう)の修行者(しゆぎやうじや)にて。もとより卑賤(ひせん)の者(もの)なり
かならずしも人たがへし玉ふなといふ。かの者(もの)かさねていはく。世(よ)をしのぶおん身
なれば。容易(ようい)に実(じつ)をあかし玉はぬも理(ことはり)なり。先(まつ)やつがれが身(み)のうへを前(さき)に
告(つげ)きこえ奉らん。そもやつがれはおん家士(いへのこ)名護(なこ)屋山三郎が僕(しもべ)鹿蔵(しかぞう)
と申す者(もの)の弟(をとゝ)猿(さる)二郎と申す者(もの)にて候もとは兄(あに)とゝもに山(さん)三郎につかへ
はべりしが。やつかれはゆゑありて仕(つか)へを辞(じ)し。古郷(こきやう)河内(かはち)の国(くに)にかへりてくらせし
うちなごや三郎左衛門は不破(ふは)伴(はん)左衛門が為(ため)に闇打(やみうち)にあひ山三郎は平(へ)
郡(ぐり)の館(やかた)の騒動(そうどう)につきて。やつがれが住家(すみか)におち来(きた)り。一ツには君(きみ)のおんゆく
へをたづねて安否(あんぴ)をとひ奉り。二ツには伴(ばん)左衛門をたづね出(いだ)して父(ちゝ)の仇(あた)を
むくはんと。我(われ)〳〵に命(めい)じて所々(しよ〳〵)方々(ほう〴〵)をたづねしめ。このごろは山(さん)三郎 鹿蔵(しかぞう)を具(ぐ)し
て西国(さいこく)に旅立(たびだち)はべりぬ。やつがれは露(つゆ)の五郎兵衛と名(な)を更(かへ)。辻談義(つぢだんぎ)にことよせて。
京(きやう)大坂(おほさか)は申すにおよばず。所々(しよ〳〵)人立(ひとだち)おほき処(ところ)にいたりて。専(もつはら)尋(たづ)ねはべりぬ。しかるに
唯今(たゞいま)君(きみ)にめぐりあひ奉るは。我(われ)〳〵主従(しゆう〴〵)が一念(いちねん)とゞきし所(ところ)也。世(よ)にあるおん時(とき)ならば
某等(それがしら)がごとき賎(いやし)き身(み)は。おん姿(すがた)を拝(をが)み奉ることだもあたふまじきに。面前(まのあたり)拝(はい)
謁(ゑつ)つかまつる勿体(もつたい)なさよといひて。実心(じつしん)面(おもて)にあらはれければ。虚無僧(こむそう)打(うち)うな
づき。さる誠心(せいしん)を聞(きく)うへは何(なに)をかつゝむべき。汝(なんぢ)が推量(すいりやう)にたがはず我(われ)は桂之助(かつらのすけ)也。
汝(なんぢ)が面(おもて)は見しらずといへども。山(さん)三郎がしもべに。鹿蔵(しかぞう)猿(さる)次郎とて両人(りやうにん)ありとは
かねてより聞(きゝ)およびぬとのたまひければ。猿(さる)二郎こは冥加(みやうが)なるおん詞(ことば)。あり
がたきまでにおぼへはんべり。不破(ふは)道犬(どうけん)が悪意(あくい)。奥方(おくがた)若君(わかぎみ)のおん身(み)のうへに
つきては。さま〴〵申あぐべき事(こと)あれども途中(とちう)にてはきこえがたし。かの捕手(とりて)の
奴原(やつばら)人数(にんず)をましてふたゝびこゝにきたらんは必定(ひつぢやう)なれば。とく〳〵おん身(み)を
かくし玉ふべし。もしかの奴原(やつばら)来(きた)り候はゞ。しか〴〵はからひ候べしとて耳(みゝ)につけて
さゝめきぬ。さてはるかむかひの方(かた)に家(いへ)あり。あかり障子(しやうじ)に一子相伝(いつしそうでん)名方(めいほう)赤(あか)
膏薬(かうやく)と。筆(ふで)ぶとにかきつけたるを門口(かどくち)にたて。外(と)のかたにあまたの薬名(やくめい)を
しるしたる招牌(せうはい)をかけならべ。もろ〳〵の奇病(きびやう)のさま解体(かいだい)の図(づ)などをかき。
これらをもかゝげいだしたるは。外療(ぐわいりやう)の薬(くすり)をひさく家(いへ)なりけり。猿(さる)二郎 指(ゆび)さして。
かしこはやつがれが旅宿(りよしゆく)にて候。幸(さいはひ)あるじは京上(きやうのぼ)りして家(いへ)にをらず。只(たゞ)聾(みゝしい)の老僕(ろうぼく)
あるのみ。たれはゞかる者(もの)も候はずとて。桂之助(かつらのすけ)をいざなひてかの家(いへ)にいたり。
裏(うち)に入(い)りてあかり障子(しやうじ)をもとのごとく引(ひき)たて。声(こゑ)をなさずして居(ゐ)たり
けり。此時(このとき)已(すで)に日(ひ)はくれ果(はて)て。夕月夜(ゆふづくよ)の光(ひか)りあきらかなりけるが。果(はた)して
捕手(とりて)の者(もの)ども人数(にんず)をまし来(きた)りて。此(この)家(いへ)をとりかこみ声(こゑ)たかやかによばゝりいひ
けるは。さきほど此(この)家(や)にかくれたる虚無僧(こむそう)は。佐々木(さゝき)桂(かつら)之助 国知(くにとも)にうたがひなし。
いかに国知(くにとも)なんぢ官領職(くわんれいしよく)浜名殿(はまなどの)の内意(ないい)により。勘当(かんどう)うけたる事(こと)を遺恨(いこん)
に思ひ。ひそかに野伏(のぶし)浪人(らうにん)どもをかたらひ。浜名(はまな)どのに敵(てき)せんとはかるよし。註進(ちうしん)の
者(もの)ありてきこしめされ。からめとりてきたるべしと厳命(げんめい)をかうふりて。我輩(わがともがら)
はせむかひつるなり。のがれぬ所(ところ)ぞ。とくこゝに出(いで)きたりていましめをうけよ。さきほど
手(て)むかひせし奴(やつ)めも。なんぢに一味(いちみ)の者(もの)ならん。かの奴(やつ)めもとく〳〵こゝへいだせ。
首(くび)ひきぬきて思ひしらせんずるぞと。口(くち)には猛(たけ)くのゝしれども。猿(さる)二郎がさき
ほどの手(て)なみにおそれて。内(うち)にすゝみいらんずる者(もの)は独(ひとり)もなく。只(たゞ)さわがしき
のみなりけり。時(とき)にあかり障子(しやうじ)に人影(ひとがけ)うつり。桂(かつら)之助の声(こゑ)として。いかになんぢ
らしづまりて我(わが)いふ事を聞(きけ)。我(われ)恥(はぢ)をしのびて今日(こんにち)までいきながらへ。一所不住(いつしよふぢう)
にさまよひつるが。とても武運(ぶうん)に尽(つき)たる身(み)なれば。此(この)所(ところ)におきていさぎよく。
腹(はら)かきやぶりて相果(あいはつ)るぞかし。いざ首(くび)をとりて高名(かうみやう)にせよ者(もの)どもとよばゞり
けるが。やがて障子(しやうじ)のすきまより。鮮血(せんけつ)こゞりてながれいでぬ。捕手(とりて)の者(もの)われ
さきに首(くび)とりて賞銀(しやうぎん)にあづからんと。遅速(ちそく)をあらそひ。障子(しやうじ)を打(うち)たふして
内(うち)を見れば。こはいかに桂(かつら)之助にはあらずして。正面(しやうめん)の胡床(あぐら)のうへに。人(ひと)の長(たけ)ほど
につくり。五臓六腑(ごぞうろくふ)をいろどりたる。神農(しんのう)の胴人形(どうにんぎやう)。右(みぎ)に茶匙(さじ)を持(もち)左(ひだ)りに薬(やく)
草(そう)をとりたるをすゑおきぬ。障子(しやうじ)のひまより血(ち)わたと見えしは。赤膏薬(あかかうやく)に
ぞありける。かの者(もの)どもこれを見て。只(たゞ)あきれて酒(さけ)に酔(ゑひ)たるこゝちしけるが。さては
欺(あざむ)かれたるか口(くち)おしさよ。さるにても今(いま)の声(こゑ)は桂(かつら)之助にまぎれなし。かしこにかくれ
たるにうたがひなしとて。奥(おく)の一間(ひとま)を目(め)がけて走(はし)りいらんとひしめき。誤(あやま)りて傍(かたはら)に
ありける笊籬(ざる)をふみたふしけるが。たちまち数多(あまた)の蛇(へび)のたり出(いで)て。かれらが
手脚(てあし)にまとひつきけるにぞ。打驚(うちおどろ)てさわぎたち。又 誤(あやま)りて膏薬鍋(かうやくなべ)を
ふみかへしければ。膏薬(かうやく)足(あし)のうらにねばりつきてはなれず。蛇(へび)の手(て)かせ。
膏薬(かうやく)の足(あし)かせ。これをのぞかんとすれば。かれにまつはれ。ほど〳〵進(しん)
退(たい)を失(うしな)ひて。只(たゞ)騒動(そうどう)するのみなりけり。時分(じぶん)よしと猿(さる)二郎たすきひきゆひ。
もすそかゝげて身(み)がるに打扮(いでたち)。明晃々(めいくわう〳〵)たる大太刀(おほだち)を抜(ぬき)もちて。一間(ひとま)のうち
よりをどり出(いで)。めつた斬(きり)にきりたつればみな〳〵大に狼狽(らうばい)し。一人(いちにん)と
して敵(てき)する者(もの)はなかりけり。かの大太刀(おほだち)はもと居合(ゐあひ)の刃引太刀(はひきだち)なれば。
きりつけられたる痕(あと)。蚯蚓(みゝつ)のごとくはれあがるのみにて。一命(いちめい)に恙(つゝが)はなし
といへども。しば〳〵魂(たましい)を奪(うばゝ)れて。こゝろます〳〵臆(おく)したる者(もの)どもなれば。
黐(もち)に黏(つき)たる蝿(はへ)のごとく。たふれしまゝに起(おき)も得(え)ず。手(て)をすり足(あし)を
すりてくち〳〵に。ゆるし玉へと打(うち)わひつゝ。からうじて起上(おきあが)りけるが。疵(きづ)持(もつ)
足(あし)の膏薬(かうやく)に。引(ひき)もどさるゝこゝちして。こけつまろびつ逃(にげ)ゆきけり。
猿(さる)二郎は太刀(たち)をすてゝ打笑(うちわらひ)。さても臆病(おくびやう)なる奴原(やつばら)かな。因果娘(いんぐわむすめ)の
蛇(へび)どもが。思ひもかけず用立(ようだち)しは。禍(わざはひ)の三 年(ねん)めともいひつべしと。ひとり
ごちて。蛇(へび)どもをもとの笊籬(ざる)にうちいれ。一間(ひとま)のうちより桂(かつら)之助を
ともなひ出(いで)。かれらを殺(ころ)し候ては。かへりて後日(ごにち)のさまたげに候へば。わざと
刃引太刀(はひきだち)をもちひておどし候。つら〳〵思ひはべるに。不破(ふは)道犬(どうけん)君(きみ)を失(うしな)ひ
奉らんとはかりて。官領(くわんれい)の命(めい)といつはり。君(きみ)のおん心(こゝろ)におぼえなき事(こと)を
申したてゝ。捕手(とりて)をむけたるに疑(うたがひ)なし。大切(たいせつ)のおん身(み)なればかならずしも
かろ〴〵しく出(いで)あるき玉ふべからず。かれら一度(ひとたび)見おぼえたる此(この)家(いへ)に忍(しの)ばせ
申すは危(あやう)ければ。今宵(こよひ)のうち別所(べつしよ)に御座(ござ)をうつし奉らん。いざゝせ
玉へと催(もよほ)して。つひに両人(りやうにん)いでゆきけり
【裏表紙】
《割書:不破伴左衛門|名古屋山三》昔語稲妻表紙 六
○徒然草(つれ〴〵ぐさ)に。めなもみといふ草(くさ)。蛇(くちはみ)にさゝれたるによきよしを記(しる)すといへども。
いまだこゝろみず。蛇(へび)にかまれたるには。串柿(くしがき)の肉(にく)を粘飯(そくいひ)のごとくねり
てつくるにしくものなし。度(たび)〳〵こゝろみつるに。一度(ひとたび)もしるしなき事(こと)
なし。よくきざみ煎(せん)じてのみもすべし。蛇毒(じやどく)を解(げ)す也。本文(ほんもん)蛇(くちなわ)の
話(はなし)につきて。偶(ふと)思ひいだせるまゝ。筆(ふで)のついでに記(しる)しおきつ
十四 仇家(きうか)の恩人(おんじん)
爰(こゝ)に又 湯浅(ゆあさ)又平(またへい)といふは。戸佐(とさ)正見(しやうけん)といふ名画人(めいくわじん)の弟子(でし)にて。その身(み)も画(ぐわ)
道(だう)に秀(ひいで)たりといへども。ゆゑありて師(し)の勘当(かんどう)をうけ。そのゝち正見(しやうけん)も小粟(をぐり)
と筆(ふで)のあらそひによりて。勅勘(ちよくかん)の身(み)となりぬ。又平(またへい)は漸(しだい)々に零落(れいらく)しければ。
妹(いもと)藤波(ふぢなみ)白拍子(しらびやうし)となりて。兄(あに)をみつぎけるが。これも不慮(ふりよ)に殺害(せつがい)され。
ます〳〵困窮(こんきう)しければ。せんすべなく夫婦(ふうふ)もろとも。もとのすみかをさり
て。近江(あふみ)の国(くに)にうつり。大津(おほつ)走井(はしりゐ)のほとりに住(すみ)。絵(ゑ)をかきて往来(ゆきゝ)の旅人(たひゞと)
にこれをひさく。妹(いもと)が菩提(ぼだい)の為(ため)にもと思ふこゝろより。多分(たぶん)仏像(ぶつゑ)を画(ゑが)
きぬ。十三 仏(ぶつ)地蔵菩薩(ぢぞうほさつ)のたぐひなり。そのころは民百姓(たみひやくしやう)の家(いへ)に木仏(もくぶつ)はまれ
にて。おほくは此(この)又平(またへい)が仏絵(ぶつゑ)をもとめて。持仏(ぢぶつ)の本尊(ほんぞん)にしけるとかや。仏絵(ふつゑ)のみ
にあらず。浮世(うきよ)の人物(しんぶつ)さま〴〵のざれ絵(ゑ)をもかきけるゆゑ。浮世(うきよ)又平(またへい)大津(おほつ)又(また)
平(へい)ともいへり。かれ又 生(うまれ)つきて吃謇(ことどもり)にてありければ。吃謇(ことどもり)の又平ともいへり。
その絵(ゑ)を大津絵(おほつゑ)とも追分絵(おひわけゑ)ともいひて。時(とき)の人(ひと)童(わらはべ)などのめづる事おほ
かりしとぞ。又平が妻(つま)の名(な)を小枝(さえだ)といひ。藤波(ふぢなみ)が次(つぎ)の妹(いもと)阿竜(おりう)も。今(いま)は兄(あに)
又平に養(やしなは)れこゝにありて。ひとつに住(すみ)ぬ。藤波(ふぢなみ)は前(さき)つ年(とし)佐々良(さゝら)三八郎が
為(ため)に罪(つみ)なくして殺(ころ)されたれば。又平 何(なに)とぞ三八郎を一太刀(ひとたち)恨(うら)みて。妹(いもと)か修羅(しゆら)
の宿恨(しゆくこん)をはらしつかはさんと。日来(ひごろ)こゝろかくるといへども。三八郎 出奔(しゆつぽん)のゝち。
弗(ふつ)にゆくへしれざれは。むなしく月日(つきひ)をおくりぬ。扨(さて)ある年(とし)の春(はる)藤浪(ふぢなみ)が
祥月命日(しやうつきめいにち)にあたれる日(ひ)。妻(つま)小枝(さえだ)妹(いもと)阿竜(おりう)等(ら)がすゝめにより。縣神子(あがたみこ)を
やとひ。藤浪(ふぢなみ)が口(くち)をよせて。冥途(めいど)のおとづれをきゝぬさて降巫(みこ)上坐(かみくら)に居(ゐ)なほり
て。目うへの人(ひと)にや目下(めした)にや。生口(いきぐち)か死口(しにくち)かとたづぬれば。小枝(さえだ)すゝみいで。目下(めした)の
者(もの)にて死口(しにくち)なりとこたへつゝ。樒(しきみ)の葉(は)にて水(みづ)むけすれば。巫(みこ)はさゝやかなる弓(ゆみ)を
とりいだし。弦(つる)を打(うち)ならして。且(まづ)神保(かみおろし)をぞとなへける
夫(それ)つゝしみ敬(うやまひ)てまうし奉る。上(かみ)は梵天(ぼんでん)帝釈(たいしやく)四大天王(しだいてんわう)。下(しも)は閻魔法王(えんまほふわう)。
五道冥官(ごだうのみやうくわん)。天(てん)の神(かみ)。地(ち)の神(かみ)。家(いへ)の内(うち)には井(ゐ)の神(かみ)。竃(かまど)の神(かみ)。伊勢(いせ)の国(くに)
には。天照皇大神宮(てんしやうくわうだいじんぐう)。外宮(げくう)には四十 末社(まつしや)。内宮(ないくう)には八十 末社(まつしや)。雨(あめ)の宮(みや)
風(かぜ)の宮(みや)。月読(つきよみ)日読(ひよみ)の御神(おんかみ)。当国(たうごく)の霊社(れいしや)には。坂本山王大権現(さかもとさんわうだいごんげん)。胆吹(いぶきの)
神社(しんじや)。多賀明神(たがみやうじん)。竹生島弁才天(ちくぶしまべんざいてん)。築摩明神(つくまみやうじん)。田村(たむら)の社(やしろ)。日本(につぽん)六十
余州(よしう)。すべての神(かみ)の政所(まんどころ)。出雲(いづも)の国(くに)の大社(おほやしろ)。神(かみ)の数(かづ)は九万八千七 社(しや)の
御神(おんかみ)。仏(ほとけ)の数(かづ)は一万三千四 箇(か)の霊場(れいぢやう)。冥道(みやうだう)をおどろかし此(こゝ)に降(くだ)し奉る。
おそれありや。此時(このとき)によろづのことを残(のこ)りなく。をしへてたべや梓(あづさ)の神(かみ)。
うからやからの諸精霊(しよしやうれう)。弓(ゆみ)と箭(や)のつがひの親(おや)。一郎(いちらう)どのより三郎どの。人(ひと)も
かはれ水(みづ)もかはれ。かはらぬものは五尺(ごしやく)の弓(ゆみ)。一打(ひとうち)うてば寺(てら)〴〵の。仏壇(ぶつだん)に
ひゞくめり
梓(あづさ)の弓(ゆみ)にひかれ〳〵て。藤娘(ふぢなみ)がなきたまこゝまでまうで来(き)つるぞや。なつかし
やよく水(みづ)手向(たむけ)て玉はりしぞ。主君(しゆくん)とは申しながら。おそれおほくも心(こゝろ)には。枕(まくら)ぞひとも
思ひしから。烏帽子宝(ゑぼしだから)を産(うみ)はべりて。唐(から)の鏡(かゞみ)とかしづかれ。おん身(み)等(ら)にも
安堵(あんど)させ。たのしきくらしをさせ申んと。思ひし事も左(ひだ)り縄(なは)。ゆひがひもなき
妾(わらは)が身(み)のうへ。露(つゆ)ばかりも罪(つみ)なくて。邪見(じやけん)の刃(やいば)に身(み)をほふられ。つきぬ恨(うらみ)
の悪念(あくねん)が。此(この)身(み)を焦(こが)す炎(ほのほ)となり。はれぬ思ひの冥道(くらきみち)に。今(いま)に迷(まよ)ふて居(をり)候と。いとも
哀(あはれ)にいひければ。小枝(さえだ)泣声(なきごゑ)にて。うかまぬもことわりぞ。冥途(めいど)の苦患(くげん)さそかしと。
思ひはかればはかるほど。胸(むね)ふさがり。心(こゝろ)も消(きゆ)る思ひぞかしといひて打(うち)なげゝは。阿竜(おりう)は
うしろに打伏(うちふし)て。涙(なみだ)にむせぶばかり也。巫(みこ)かさねていひけるは。地獄(ちごく)のうちのおそろし
さを聞(きゝ)てたべ。妾(わらは)がごとく刃(やいば)にかゝりて死(しゝ)したるものは。刀山地獄(とうざんぢごく)とて。垂氷(つらゝ)を
さかしまに植(うゑ)たるごとき剣(つるぎ)の山(やま)を。牛頭馬頭(ごづめづ)の鬼(おに)どもが。くろがねの笞(しもと)を
あげて追(おひ)たつるに。罪人(さいにん)はせんすべなく。なきさけびつゝはせのぼり。はせくだりて
苦(くる)しむ也。妾(わらは)も日々(ひゞ)にその苦(くるしみ)をうくるぞかし。あるは火(ひ)の車(くるま)にのせられて。黒闇(こくあん)
道(どう)をゆく時(とき)もあり。あるは血(ち)の池(いけ)にひたりて。火(ひ)の雨(あめ)に身(み)を焦(こがす)す時(とき)もあり。
紅蓮(くれん)大紅蓮(だいくれん)の氷(こほり)にとぢられ。叫喚(きやうくわん)大叫喚(だいきやうくわん)の炎(ほのほ)にやかれ。品(しな)かはりたる
地獄(ちごく)のさま。なか〳〵詞(ことは)にのべがたし。さる責(せめ)の苦(くる)しきうちにも。唯(たゞ)忘(わす)れがたきは
【挿絵】
藤波(ふぢなみ)ならびに
うからやからの
亡魂(ぼうこん)梓(あづさ)の
弓(ゆみ)に
ひかれ
来(く)る
藤なみ
妹おりう
妻さえだ
うき世又平
殿(との)のおん事(こと)。なつかしく思ひはべるは。おん身(み)ら御夫婦(ごふうふ)妹(いもと)ぞかしといひければ。又平
は目(め)をすりあかめ。きけば聞(きく)ほど不便(ふびん)なり。まづしき我(われ)を見つぐとて。千辛(せんしん)
万苦(ばんく)のそのうちに。たま〳〵少(すこ)しの福(さいはひ)を得(え)て。思ひあふたる殿(との)にめでられ。その
身(み)の出世(しゆつせ)と喜ぶ間(ま)もなく。不慮(ふりよ)の枉死(わうし)をなしたれば。心(こゝろ)の残(のこ)るも理(ことはり)也。せめて
敵(かたき)をたづねいだし。仇(あた)をむくいて修羅(しゆら)の宿恨(しゆくこん)をはらさすべければ。とく〳〵
仏果(ぶつくわ)を得(え)て悪趣(あくしゆ)をまぬかれよとて。念珠(ねんじゆ)すりならし。南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)あみだ
仏(ぶつ)と。となふる声(こゑ)も吃謇(ことどもれ)ば。いとゞ哀(あは)れぞまさりける。巫(みこ)又いひけるは。そのおふせ
こそ我身(わがみ)には。読経(どきやう)にまさる功徳(くどく)なれ。此(この)うへのお情(なさけ)には。仇(あた)をむくいてたび
玉へ。情(なさけ)なきはこれまで手向(たむけ)たまはりし飯菜(はんさい)も。みさき烏(からす)にさまたげられ。
妾(わらは)がもとにとゞかねば。飢(うへ)にたへざる餓鬼(がき)の飯(めし)。炎(ほのほ)となりて消失(きへうせ)ぬ。ねがはく
はみさき烏(からす)をよけてたべ。くれ〴〵たのみはべるぞかし。あな名残(なごり)をし語(かた)りたき
こといひたきこと。数(かづ)なくありて尽(つき)ねども。黄泉(よみぢ)の使(つかひ)しげゝれば。はやいとま申す
ぞと。いひおはりて巫(みこ)は目(め)をひらき痺(しびり)を撫(なで)て居(ゐ)たりけり。又平 米銭(こめぜに)をとりて
与(あた)へ。その労(ろう)を謝(しや)しければ。巫(みこ)はこれをうけをさめ。わかれを告(つげ)てまかりいでぬ。
扨(さて)小枝(さえだ)は。今宵(こよひ)の仏(ほとけ)に供(くう)ぜんと高木(たかぎ)へ餅(もち)買(かひ)に立出(たちいづ)れば。阿竜(おりう)はなみだをおし。
ぬぐひ。このひまに香(かう)を盛(もり)て。手向(たむけ)ばやと奥(おく)にいり。又平 独(ひとり)こゝにのこり。手(て)を
こまぬきてぞ居(ゐ)たりける。頃(ころ)しも弥生(やよい)のはじめにて。堅田(かたた)におつる雁金(かりかね)も。
こしぢに帰(かへ)る時(とき)なるに。比良(ひら)の高嶺(たかね)の雪(ゆき)おろし。余寒(よかん)をまして肌(はだ)さむく。
瀬田(せた)にかたふく日(ひ)のかげも。西方浄土(さいほうじやうど)と思ふから。辛崎(からさき)の松風(まつかぜ)も。常楽我(しやうらくが)
浄(じやう)ときこゆめり。粟津(あはづ)の嵐(あらし)を世(よ)の中(なか)の。生者必滅(しやうじやひつめつ)と観(くわん)ずれば。矢早(やば)
瀬(せ)の船(ふね)も人(ひと)の身(み)の会者定離(ゑしやぢやうり)とぞ思はるゝ。石山(いしやま)の月(つき)三井(みゐ)の鐘(かね)。生(しやう)
死長夜(じちやうや)の夢(ゆめ)の世(よ)を。悟(さと)れる人(ひと)か外(と)の方(かた)に。鉦(かね)の音(おと)念仏(ねんぶつ)の声(こゑ)。いとも
殊勝(しゆしやう)にきこえけり。又平これを聞(きゝ)つけて。庭(には)におり立(たつ)折(おり)しも。軒端(のきば)に
通(かよ)ふ松(まつ)の風(かぜ)柴(しば)の折戸(おりど)をひらきければ。外(と)の方を見やるに。笈(おひ)をせほひ
錫杖(しやくじやう)をつきて。回国(くわいこく)の修行者(しゆ やうじや)とおぼしきが。まどほにかこふ竹垣(たけがき)の葎(むぐら)
のうちにたゝずみぬ。又平ちかづきていはく。けふしも同胞(はらから)の亡霊(なきたま)をまつる
べき志(こゝろざし)のあるに。修行者(しゆきやうじや)のおはせしこそ幸(さいはひ)なれ。かゝる荒屋(あばらや)にははべれども。
今宵(こよひ)は我家(わがや)に一宿(いつしゆく)し。終夜(よもすがら)回向(ゑこう)して玉はれかし。味(あぢ)なくはおぼされんが。所(ところ)
がらの志賀大根(しがたいこん)蜩大豆(ひぐらしまめ)。麁抹(そまつ)の斉(とき)を供養(くよう)せん。あながちにとゝめ申すと
いひければ。修行者(しゆきやうじや)打聞(うちきゝ)て。そはかたじけなし。いまだ時(とき)も八ツに過(すぎ)ずとおぼ
ゆれば。石部(いしべ)の報謝宿(ほうしややど)までもと思ひつるが。朝(あした)の雲(くも)夕(ゆふべ)の霧(きり)一所不住(いつしよふじう)の
身(み)のうへなれば。いそぐべき旅(たび)にもあらず。殊(こと)に亡人(なきひと)の志(こゝろざし)とあればもだし
がたし。しからば御報謝(こほうしや)にあづからんかといふにぞ。又平いざ〳〵とてむかひいれ。
苔井(こけゐ)の水(みつ)に足(あし)そゝがせ。八幡円坐(やわたゑんざ)をしきまうけて何くれともてなせば。修行(しゆきやう)
者(しや)喜(よろこ)び。憂世(うきよ)をはなれし閑居(かんきよ)の体(てい)。おくゆかしく候といへば。又平は囲炉裏(ゐろり)に
不灰木(すくも)うちたきつゝ。尾羽打(をはうち)からせし浪人(らうにん)の侘住居(わぎずまゐ)。お宿(やど)申すもはづかし
さよといひて。信楽焼(しがらきやき)の天目(てんもく)に。茶(ちや)の香(か)もうすき手煎(てせん)じを。心(こゝろ)ばかりのもて
なしにて。四方山(よもやま)の話(はなし)さま〴〵にかはりて。立山(たてやま)の地獄(ぢごく)ばなし。熊野詣(くまのまうで)の幽霊(ゆうれい)
のさかしまにあゆむことなど。ものがたるを聞(きゝ)つゝ。時(とき)をうつしけるがやゝありて又
平 仏壇(ぶつだん)にみあかしたて。麁抹(そまつ)の斉(とき)を調(ちやう)ずるあひだ。こゝにて御回向(ごゑこう)くだ
されかしといひておくにいりぬ。修行者(しゆきやうじや)は仏壇(ぶつたん)にむかひて鉦(かね)打(うち)ならし。南無(なむ)
幽霊(ゆうれい)頓証仏果菩提(とんしやうぶつくわほだい)南無(なむ)あみだ仏(ぶつ)〳〵と。一心不乱(いつしんふらん)にとなへけるが偶(ふと)仏壇(ぶつだん)の
うちを見れば。白木(しらき)の位牌(ゐはい)に刃誉妙剣信女(にんよみやうけんしんによ)長禄(ちやうろく)二年 戌寅(つちのへとら)三月五日
としるしあり。修行者(しゆきやうじや)これを見て思ひけるは。かの法名(ほふみやう)のうちに刃剣(にんけん)の
二 字(じ)あるを見れば。これも刃(やいば)にかゝりて亡(うせ)し女ならめ。それがし六年 以前(いぜん)
藤波(ふぢなみ)を殺(ころ)せしも。同年(どうねん)同月(どうげつ)同日(どうじつ)なり。広(ひろ)き世界(せかい)といひながらよく似(に)たる
こともあるものかな。いかなれば長禄(ちやうろく)二年の今月(こんげつ)今日(こんにち)は。女の刃(やいば)にかゝる日ぞ。
此(この)女子(をなご)もいかなる因果(いんぐわ)にて。剣難(けんなん)に死(し)せしぞと。藤波(ふぢなみ)が事(こと)思ひ合(あは)せて涙(なみだ)を
おとしつゝ。しばらく回向(ゑこう)して居(ゐ)たりけるに。又平が妹(いもと)於竜(おりう)朽木塗盆(くつきぬりぼん)に日野(ひの)
椀(わん)すゑて持(もち)いで。麁抹(そまつ)の斎(とき)をめし玉へといひつゝ。修行者(しゆきやうじや)の顔(かほ)をつら〳〵
打(うち)まもり。そなたは佐々良(さゝら)三八郎にあらずやといひて。おぼえず手(て)に持(もち)たる物(もの)
を。地上(ちしやう)にはたと取(とり)おとす。修行者(しゆきやうじや)いぶかり。さいふそなたは何人(なにびと)ぞ。見忘(みわす)れ
たりといへば。於竜(おりう)泣声(なきこゑ)にて。見忘(みわす)れしとはよくもいはるゝ事(こと)よ。妾(わらは)はそなたに
殺(ころ)されたる。藤浪(ふぢなみ)が妹(いもと)竜(りう)といふものなり。その時(とき)妾(わらは)は十三 才(さい)京都(きやうと)佐々木(さゝき)
の旅館(たびやかた)。お寝間(ねま)に通(かよ)ふ廊架(ほそどの)にて。手燭(てしよく)の光(ひか)りに顔(かほ)見 合(あは)せ。たしかに見とゞけ
たる三八郎。刀(かたな)の□(みね)打(うち)に手燭(てしよく)をはしと打(うち)おとして。逃去(にげさり)たるはおぼへあらん。
折(をり)しも風雨(ふう)はげしくて。庭木(にはき)の花(はな)も風前(ふうぜん)の。灯火(とうくわ)ときえたる姉(あね)の敵(かたき)。覚(かく)
悟(ご)せよとよばゝれば。さきほどより屏風(びやうぶ)のかげに。様子(やうす)をうかゞふ浮世(うきよ)又
平。刀(かたな)を抜(ぬい)てをどり出(いで)。ものをもいはず斬(きり)つくれば。修行者(しゆきやうじや)手(て)ばやく。
あたりにありあふ机(つくえ)をとりて丁(ちやう)とうくれば。皿(さら)にときたる青黄赤白(せいわうしやくびやく)の絵(ゑ)
の具(ぐ)。四方(しほう)にさつと飛散(とびちり)て。秋(あき)の花野(はなのに)に異(こと)ならず。又きりつくるをうけとめ
て。いかにも某(それがし)が実(まこと)の姓名(せいめい)は佐々良(さゝら)三八郎。今(いま)の名(な)は六字(ろくじ)南無(なむ)右衛門と申す。
藤浪(ふぢなみ)といふ女を殺(ころ)せし事(こと)おぼえあり。さりながら委細(いさい)のゆゑをかたるうち。
しばらく待(まち)玉はれといふを。又平 耳(みゝ)にも聞入(きゝいれ)ず。頭(かうべ)をふりつゝ勢(いきほひ)こみてぞ
きりつけぬ。なむ右衛門 錫杖(しやくじやう)をとりて。うけつながしつ立(たち)まはり。子細(しさい)をいは
ねば。せき玉ふもことわりなり。しばし〳〵ととゞめけり。又平は吃謇(ことともり)なる
うへに。心(こゝろ)せけば。ものいふことあたはず。唯(だゝ)口(くち)に指(ゆび)さして気(き)をいらつを。傍(かたはら)より
於竜(おりう)見かねて。丹(たん)をときたる皿(さら)と筆(ふで)をとりて与(あた)ふれば。又平これをとり。机(つくえ)の
上(うへ)にものかくを。なむ右衛門 読(よみ)くだせば。なんぢ六 年(ねん)以前(いぜん)。長谷部雲六(はせべのうんろく)と
やらんいふ者(もの)といひ合(あは)せ。佐々木(さゝき)の家宝(かほう)百蟹(ひやくがい)の絵巻物(ゑまきもの)を奪取(うばひとり)。しかのみ
ならず。藤浪(ふぢなみ)を害(がい)して逃去(にげさり)たる大罪人(たいさいにん)。いかでかのがるゝ道(みち)あらん。それがしは則(すなはち)
是(これ)藤浪(ふぢなみ)が兄(あに)湯浅(ゆあさ)又平といふ者(もの)なり。汝(なんぢ)を打(うつ)て妹(いもと)が冥途(めいど)の宿恨(しゆくこん)をはらし
やらんと。日来(ひごろ)心(こゝろ)がけたれども。弗(ふつ)にゆくへしれざれば。むなしく月日(つきひ)をおくりつる
に。今月(こんげつ)今日(こんにち)妹(いもと)が祥月命日(しやうつきめいにち)にめぐりあひしは。因果(いんくわ)のめぐる車(くるま)の輪(わ)。妹(いもと)がみち
びく所(ところ)なるべし。猶予(ゆうよ)せよとは比興(ひきやう)なり。覿面(てきめん)の悪報(あくほう)妹(いもと)の敵(かたき)。のがれぬ所(ところ)ぞ。
はやく勝負(しやうふ)を決(けつ)せよと書(かき)おはり。ふたゝび刀(かたな)をとりなほして。只(たゞ)一打(ひとうち)ときりつく
れば。なむ右衛門しかおぼすはうべなれども。それがしがものがたる子細(しさい)を一(ひと)
通(とほ)りきゝてよとて。なほうけつながしつあしらひけり。かゝる折(おり)しも又平が妻(つま)
小枝(さえだ)。餅(もちひ)をもとめて立(たち)かへり。何事(なにごと)やらんとしばらく門(かど)にたゝずみて。内(うち)の様子(やうす)
をうかゞひけるが。又平どのはやまり玉ふなと。いそがしはく声(こゑ)かけて。走(はし)り入(いり)。夫(をつと)
の手(て)にすがりておしとゞめ。かねておん身(み)にものがたり。いつぞはめぐりあひて
大恩(だいおん)をむくはんと。日来(ひごろ)心(こゝろ)に忘(わす)れざる恩人(おんじん)は。則(すなはち)此(この)おんかたにておはすなり
といふにぞ。又平大におどろき。扨(さて)はしかとさあるかとて。手(て)をとゞめてぞ坐(ざ)し
居(ゐ)たる。なむ右衛門いぶかしく。小枝(さえだ)がかほをつら〳〵見れば。いかさま見おぼへ
ある女なり。小枝(さえだ)はなむ右衛門が前(まへ)に恭(うや〳〵)しく手(て)をつき。さても思ひかけ
ず。ふたゝびおん目(め)にかゝるうれしさよ。妾(わらは)ことは六年 以前(いぜん)。思へばしかも今月(こんげつ)
今夜(こんや)。京(きやう)北山(きたやま)の杉坂(すぎさか)にて。首(くび)縊(くゝり)て死(し)なんとせしを。金(きん)二十 両(りやう)たまはり。危(あやう)き一命(いちめい)
をすくひくだされしその女にて。則(すなはち)これなる又平が妻(つま)小枝(さえだ)と申すものにて候。
【挿絵】
六字(ろくじ)なむ右衛門
修行者(しゆぎやうじや)に
身(み)を扮(ふん)して
大津(おゝつ)又平が
家(いへ)に宿(しゆく)す
はせべうん六
うき世又平
なむゑもん
妻さえだ
その時(とき)の大恩(だいおん)。骨(ほね)に鏤(ゑり)心(こゝろ)に銘(めい)じて。片時(かたとき)もわすれず。ひとへに命(いのち)の
父母(ふぼ)と存(ぞんじ)。何(なに)とぞ再(ふたゝび)おん目(め)にかゝり。露(つゆ)ばかりも洪恩(こうおん)を報(ほう)じはべらんと思へ
ども。その時(とき)は只(たゞ)おん顔(かほ)を見おぼえたるのみにて。姓名(せいめい)をあかし玉はざれば。
いかなるおん方(かた)ともしらず。たづね申すべきよすがもなければ。むなしくこれ
まで打過(うちすぎ)候といへば。なむ右衛門さてはその時(とき)の婦人(ふじん)にて候か。思ひかけざる
再会(さいくわい)に。恙(つゝが)なき体(てい)を見。て喜(よろこ)びにたへずといふ。又平は此時(このとき)やう〳〵心(こゝろ)おち
つきぬれば。ものいふ事も常(つね)のごとく。なむ右衛門にむかひ。詞(ことば)をあらため
ていひけるは。某(それがし)かねて妻(つま)に金子(きんす)をたまはり。危(あやう)き一命(いちめい)をすくひくだされし
恩人(おんじん)を慕(したひ)つるに。おん身(み)にてあらんとは夢(ゆめ)にもおもはざりき。某(それがし)そのかみ都(みやこ)
北山(きたやま)に住(すみ)しころ。殊外(ことのほか)困窮(こんきう)し過去(すぎさり)し。母親(はゝおや)を養育(よういく)の為(ため)せんすべなく。
先祖(せんぞ)より伝来(でんらい)の。巨勢(こせ)の金岡(かなをか)が画(ゑがき)たる。陸奥(みちのく)武隈(たけくま)の松(まつ)の絵(ゑ)を質入(しちいれ)
せしが。妹(いもと)藤浪(ふぢなみ)その事(こと)を聞(きゝ)て気(き)の毒(どく)に思ひ。うけもどせとて。金(きん)二十 両(りやう)合力(かうりき)し
くれけるゆゑ。その夜(よ)妻(つま)に命(めい)じて絵(ゑ)をうけもどしにつかはしける途中(とちう)にて。盗(ぬす)
人(ひと)に金子(きんす)を奪(うばひ)とられ。妹(いもと)の手前(てまへ)面目(めんぼく)なしとて。杉坂(すぎさか)にて縊死(くびれしな)んとせしを。
おん身 詞(ことば)を尽(つく)し理(り)をのべて。二十 両(りやう)の金(かね)をめぐみたまはり。一命(いちめい)を救(すく)ひ
くだされ。殊(こと)に後日(ごにち)に恩(おん)をきまじとて。姓名(せいめい)を告(つけ)玉はず。此方(このかた)の名(な)をも
聞(きゝ)玉はざるよし。その夜(よ)妻(つま)たゞちにかの絵(ゑ)をうけもどし。家(いへ)に帰(かへ)りて。つぶ
さにものがたり候ゆゑ。世(よ)にはさばかり慈悲深(じひふか)き人(ひと)もあるものかと。感歎(かんたん)
し。今(いま)にいたるまで。夫婦(ふうふ)折(おり)ふしその事(こと)をかたりいだして。感じ思ふ事
たえはべらず。おん身(み)さばかり慈悲深(じひふか)き人(ひと)にてありながら。何(なに)とて妹(いもと)藤(ふぢ)
浪(なみ)を殺(ころ)し。百蟹(ひやくがい)の巻物(まきもの)を奪(うばひ)とるたぐひの。非道(ひだう)をおこなひ玉ひしや。
こゝに於(おい)て思へば。おん身の心底(しんてい)善(ぜん)か悪(あく)か。分明(ふんみやう)ならず。妹(いもと)が仇(あた)を報(むくは)んと
すれば。恩(おん)をしらざる者(もの)となり。恩(おん)を思ひて打(うた)ざれば。妹(いもと)が冥途(めいど)の恨(うらみ)
はれず。かの恩(おん)と此(この)仇(あた)といづれかおもくいづれかかろき。とくと思案(しあん)つかま
つり。恩(おん)を以(もつ)て仇(あた)にかゆるか。仇(あた)を以(もつ)て恩(おん)にむくふか。心(こゝろ)を決(けつ)し候べしと。吃謇(ことともり)
つゝいひて。刀(かたな)を鞘(さや)におさむれば。なむ右衛門いひけるは。しかおぼすは理(ことはり)なり。
某(それがし)藤浪(ふぢなみ)どのを殺(ころ)せしは。全(まつた)く非義非道(ひぎひとう)にあらず。くはしき物語(ものかたり)を聞(きゝ)て
たべよ。若殿(わかとの)桂(かつら)之助どの在京(さいきやう)の刻(きざみ)。藤浪(ふぢなみ)どのゝ艶色(ゑんしよく)に迷(まよ)ひ。不破(ふは)伴(ばん)左
衛門がたぐひの。佞臣等(ねいしんら)にすゝめられて。放佚無慙(ほういつむざん)の不行跡(ふぎやうせき)漸々(ぜん〳〵)に
つのり。名古屋(なごや)山(さん)三郎と某(それがし)。しば〳〵諌(いさめ)をたてまつるといへども。露(つゆ)ばかり
ももちひ玉はず。若(もし)室町御所(むろまちごしよ)の御耳(おんみゝ)にいれば。おん家(いへ)にもかゝはる事(こと)
なれば。せんすべなく。越(ゑつ)の范蠡(はんれい)西施(せいし)を呉湖(ごこ)にはなちたる例(ためし)にならひ。
科(とか)なきを殺(ころ)すは不便(ふびん)とは思ひしかど。お家(いへ)にはかへがたしと思ひなほして。
藤浪(ふぢなみ)どのを殺(ころ)し。すでにその場(ば)にて腹(はら)きらんと。刀(かたな)に手(て)はかけたれども。執(しつ)
権(けん)不破(ふは)道犬(どうけん)が心底(しんてい)。いぶかしき処(ところ)あれば。権(しばらく)一命(いちめい)をたもち。かれが悪意(あくい)を見
あらはせしうへにて。藤浪(ふぢなみ)どのゝ縁者(えんじや)をたづね。恨(うらみ)の刃(やいば)にかゝりて相果(あひはて)んと。
妻子(さいし)を具(ぐ)して。その夜(よ)館(やかた)を立退(たちのき)けるが。杉坂(すぎさか)にて。ふと此(この)婦人(ふじん)の首(くび)縊(くゝら)んと
せられしを見つけ。いづくいかなる人(ひと)かはしらざれども。せめて此(この)婦人(ふじん)をすくひ。
藤浪(ふぢなみ)どのゝ冥福(めいふく)の便(よすが)ともなしてんと。あながちに死(し)をとゞめぬ。藤浪(ふぢなみ)どのゝ
兄(あに)なるおん身(み)の妻女(さいぢよ)とは。いかでか思ひ候べき。誠(まこと)に不思議(ふしぎ)の出会(しゆつくわい)なりとて。其(その)
のち丹波(たんば)の国(くに)にうつり住(すみ)六字(ろくじ)南無(なむ)右衛門と改名(かいめい)したるいはれ。百蟹(ひやくがい)の
巻物(まきもの)を奪(うばひ)たるは。長谷部雲六(はせべのうんろく)一人(いちにん)の所為(しよい)なる事(こと)。藤浪(ふぢなみ)の怨霊(おんりやう)兄弟(きやうだい)の
子どもにつき。姉(あね)楓(かへで)は蛇(へひ)に見こまれ。弟(をとゝ)栗(くり)太郎は盲目(めしい)となり。文弥(ぶんや)と
改名(かいめい)したる事(こと)。文弥(ぶんや)忠孝(ちうかう)全(まつた)くして。若君(わかぎみ)の身がはりとなりし事。楓(かへで)孝心(かうしん)
深(ふか)く。父(ちゝ)の汚名(をめい)をすゝがんと。見せ物芝居(ものしばゐ)に身(み)を売(うり)て。金(かね)をとゝのへ。かの
巻物(まきもの)を買(かひ)とりたる事(こと)。月若(つきわか)に妻(つま)礒菜(いそな)をつけて。河内(かはち)の国(くに)某(それがし)の寺(てら)にしの
ばせおき。おのれは回国(くわいこく)の修行者(しゆきやうじや)に身(み)を扮(ふん)して。かの巻物(まきもの)をたづさへ。桂(かつら)之
助いてふの前(まへ)二方(ふたかた)のゆくへをたづねに出(いで)て。けふしも不思議(ふしぎ)にこゝにやどり。
さきほど位牌(いはい)の法名(ほふみやう)を見て。似(に)たる事(こと)と思ひしまで。こまやかに語(かた)りける
にぞ。又平 夫婦(ふうふ)お竜(りう)も。はじめて其(その)実(しづ)を知(しり)。たぐひまれなる忠臣(ちうしん)やと。転(うたゝ)
感嘆(かんたん)にたへざりけり。なむ右衛門かさねていはく。おん身等(みら)に出会(しゆつくわい)し。恨(うらみ)の
刃(やいば)にかゝりて死(し)し。冥途(めいど)にいたりて藤波(ふぢなみ)どのにいひわけせんことは。かねて
望(のぞ)む所(ところ)なれども。主君(しゆくん)御夫婦(ごふうふ)御親子(ごしんし)の先途(せんど)を見とゞけ。再(ふたゝび)世(よ)に出(いた)し
まゐらすまでは。死(しに)にくき命(いのち)なれば。しはしの間(あひた)某(それがし)が命(いのち)を。某(それがし)にあづけおき
たまはれかし。かの宿願(しゆくくわん)をはたせしうへは。首(くび)さしのべておん身等(みら)に打(うた)る
べし。常言(じやうげん)にも大丈夫(たいじやうぶ)の一言(いちげん)は。駟馬(しめ)も走(はし)らずといへり。若(もし)此(この)詞(ことは)に
露(つゆ)ばかりもいつはりあらば。立地(たちどころ)に天地神明(てんちしんめ)の御罰(ごばつ)をかうふるべし。
恩(おん)は恩 仇(あた)は仇なり。少(すこ)しの恩(おん)を以(もつ)て覚悟(かくご)の命(いのち)をたすかるべき所(しよ)
存(ぞん)なしと。詞(ことば)すゞしくいひければ。又平 返答(へんとう)の詞(ことば)はなく。つと立(たち)て刀(かたな)を
すらりと抜(ぬき)はなち。なむ右衛門がたづさへたる編笠(あみがさ)をずばと斬(きり)て。
仏壇(ぶつだん)に手向(たむけ)。いかに藤浪(ふぢなみ)汝(なんぢ)が敵(かたき)佐々良(さゝら)三八郎が首(くび)を。かくのごとくなし
たれば。速(すみやか)に恨(うらみ)をはらして仏果(ぶつくわ)を得(え)よ。南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)あみだ仏(ぶつ)ととなへ。
扨(さて)南無(なむ)右衛門にむかひ。晋(しん)の予譲(よじやう)が例(ためし)にならひ。今(いま)已(すで)に妹(いもと)が仇(あた)をむくい
たれは。もはや恨(うらみ)は少(すこ)しもなし。此うへは妻(つま)小枝(さえだ)が命(いのち)を救(すくひ)玉はりし。大恩(だいおん)を
報(ほう)ずるのみなり。その恩(おん)を報(ほう)ずべき仕方(しかた)はかくと。へだての紙門(ふすま)を押(おし)
ひらけば。一間(ひとま)のうちに声(こゑ)ありて。某(それかし)さきほどよりこゝにありて。委細(いさい)のゆゑ
を聞(きゝ)つるぞといひつゝ。立出(たちいづ)る人(ひと)は。乃(すなはち)是(これ)別人(べつじん)にあらず。佐々木(さゝき)桂(かつら)之助 国(くに)
知(とも)なり。なむ右衛門 椽(ゑん)のはしまで退(しりぞ)きて。平伏(へいふく)すれば。桂(かつら)之助いひける
は。我(われ)佞者(ねいしや)の為(ため)にすゝめられて行(こう)を乱(みだ)し。汝等(なんちら)が諌言(かんけん)をもちひず。
今(いま)思へば藤浪(ふぢなみ)が非業(ひごう)の死(し)は。畢竟(ひつきやう)我(わが)手(て)をくだして殺(ころ)せしも同然(とうぜん)なり
我(われ)眼(まなこ)ありながら。誠(まこと)の忠臣(ちうしん)を見ることあたはず。百蟹(ひやくがい)の巻物(まきもの)を奪(うはひ)し
も。汝(なんぢ)が仕業(しわざ)と思ひしは。大なる誤(あやま)りなり。今(いま)汝(なんぢ)がものがたりをきけば。楓(かへで)
が孝行(かう〳〵)により。巻物(まきもの)をもとめ出(いた)し。文弥(ぶんや)が忠義(ちうぎ)によりて。月若(つきわか)も恙(つゝが)
なきとや。たぐひまれなる者(もの)どもが。不便(ふびん)なる身(み)の果(は)と。思へば悲歎(ひたん)にせ
まるぞかし。我(われ)不行跡(ふかうせき)によりて。父(ちゝ)の勘気(かんき)をかうふり。かく漂泊(ひやうはく)の身(み)
となりて。今(いま)後悔(こうくわい)すといへども。更(さら)にかひなし。いきながらへて恥(はぢ)をのこ
さんより。自殺(じさつ)せめと思ひしことは。たび〴〵なれども。道犬(とうけん)が謀計(はうけい)
館(やかた)の騒動(そうとう)をほのかにきけば。父(ちゝ)うへのおん身(み)のうへ気(き)づかはしく。時節(じせつ)を
まち。御勘気(ごかんき)のゆるしをうけてたちかへり。家(いへ)をおさめんと思ふから。おち
こちをしのびて。むなしく月日(つきひ)をおくりつるが。此(この)家(いへ)のあるじ又平。藤浪(ふぢなみ)
ゆゑに零落(れいらく)せしを憐(あわれ)み。深(ふか)くいたはりてかくまひおきぬ。なごや山(さん)三
郎 不破(ふは)伴(ばん)左衛門がために父(ちゝ)を打(うた)れたる事(こと)も。かれが僕(しもべ)猿(さる)二郎と
いふ者(もの)にあひてくはしくきゝぬといひければ。なむ右衛門 頭(かしら)をさげ。おん
気(き)づかひあそばされな。某(それがし)命(いのち)あらんかぎりは道犬(とうけん)が悪意(あくい)を糺(たゞ)し。
再(ふたゝび)世(よ)にいだしまゐらすべしと申すにぞ。桂(かつら)之助すゑたのもしく
ぞ思ひける。かゝる折(おり)しも空中(くうちう)より。一羽(いちは)の雁(がん)片田(かたた)に落(おつ)る雁(かり)ならで
椽(えん)さきに撲地(はたと)おち。なむ右衛門か膝(ひざ)に上(のほ)り。再(ふたゝび)飛(とば)んと羽(は)たゝきすれ
ども。飛(とぶ)ことあたはず。よく〳〵見れば。足(あし)に財布(さいふ)をゆひつけたるが。足(あし)かし
となりて飛(とぶ)ことならざるなり。なむ右衛門いぶかりつゝ。財布(さいふ)をときて
見れば。うちにおよそ百両(ひやくりやう)ばかりの小判金(こばんきん)あり。扨(さて)は此(この)金(かね)のおもさに
たへずしておちたるか。朱賓(しゆひん)が雁(がん)は臆(むね)に金銭(きんせん)を貫(つら)ぬき。蘇武(そぶ)か雁(がん)は
脚(あし)に帛書(はくしよ)を繋(つなぎ)たる。ためしはあれども。かゝる大金(たいきん)を雁(がん)の足(あし)にゆひつけ
たるは。何(なに)のゆゑぞと。一同(いちどう)にいぶかり思ひぬ。此(この)金(かね)の出所(しゆつしよ)をしらんと要(やう)せば。
且(まづ)下回(つぎのくだり)を読得(よみえ)て知(しる)べし
巻の四終
【裏表紙】
《割書:不破伴左衛門|名古屋山三》昔語稲妻表紙 七
昔話(むかしかたり)稲妻(いなつま)表紙(ひようし)巻之五上冊
江戸 山東京伝
十五 孤雁(こがん)の禍福(くわふく)
当時(そのとき)。なむ右衛門又平 等(ら)一同(いちどう)に。かの金(かね)の出所(しゆつしよ)いかゞと。いぶかり思ひける所(ところ)に。
一人の男(おとこ)。汗(あせ)もしとゝに息(いき)もつきあへず。飛(とぶ)がごとくにはせ来(きた)り。案内(あんない)も
こはず内(うち)にいり。たしかに爰(こゝ)におちたるがといひつゝ。あたりを見まはし。
なむ右衛門が手(て)に持(もち)たる財布(さいふ)を見つけ。そは我(わが)失(うしな)ふたる金(かね)なり。
此方(このほう)へかへすべしといひつゝ。財布(さいふ)に手(て)をかくるを。なむ右衛門かへり見て。汝(なんぢ)
は長谷部雲六(はせべのうんろく)ならずやといへば。此(この)男(をとこ)仰天(ぎやうてん)しよく〳〵見れば。佐々良(さゝら)三
八郎にて。かしこに若殿(わかとの)桂(かつら)之助もおはしければ。ます〳〵驚(おどろき)。財布(さいふ)も
とらで逃(にげ)いだすを。なむ右衛門 猿臂(ゑんひ)を伸(のべ)。ゑりくびつかみてひき
もどし。膝(ひざ)の下(した)におししきていひけるは。汝(なんぢ)六年 以前(いぜん)しかも今月(こんげつ)今(こん)
夜(や)。百蟹(ひやくがい)の巻物(まきもの)を盗(ぬすみ)。逃去(にげさり)たる事おぼえあるべし。我(われ)その夜(よ)若殿(わかとの)
御放埓(ごほうらつ)の根(ね)をたゝんと。藤波(ふぢなみ)を殺(ころ)し。思ふむねありて。一旦(いつたん)館(やかた)を
たちのきしが。同(おなじ)夜(よ)の事(こと)なれば。某(それがし)にもおん疑(うたがひ)かゝり。汝(なんぢ)といひ合(あは)せて
かの巻物(まきもの)を盗(ぬすみ)しならんと。共(とも)に盗賊(とうぞく)の汚名(をめい)をかうふりぬ。そのゝちかの
巻物(まきもの)を売(うら)んといふ者(もの)あるゆゑ。これをもとめて汚名(をめい)をすゝがばやと思ひ
けれども。價(あたひ)百両(ひやくりやう)といふ大金(たいきん)なれば力(ちから)およばず。しかるに娘(むすめ)楓(かへで)此(この)事(こと)を
聞(きゝ)て深(ふか)く悲(かなし)み。みづから身(み)を見せ物芝居(ものしばゐ)に売(うり)て。百両(ひやくりやう)の金(かね)をとゝのへ。
かの巻物(まきもの)を買(かい)もどし。諸人(しよにん)に面(おもて)をさらし。丹波(たんば)の国(くに)の蛇娘(へびむすめ)と。世(よ)に恥(はぢ)
をあらはす憂身(うきみ)のうへとなりぬ。これみな汝(なんぢ)がなせし業(わざ)にあらずや。唯(たゞ)
今(いま)はからず出会(しゆつくわい)せしは天(てん)の与(あた)へ。我(わが)宿恨(しゆくこん)をはらすべき時(とき)のいたれる
なり。たとへ生皮(いきかは)を剥(はぎ)臊子(さいのめ)にきざむとも。飽(あく)べからすといひつゝ。簀子(すのこ)の
上に鼻(はな)の尖(とがり)をすりつけ〳〵して。さいなみければ。雲六(うんろく)は一言(ひとこと)だに返荅(へんとう)
すべき詞(ことば)なく。只(たゞ)ゆるし玉へ〳〵とうちわびけり。時(とき)に又平が妻(つま)小枝(さえだ)さき
ほどより。雲六(うんろく)が顔(かほ)をつれ〳〵とまもりつめて居(ゐ)つるが。大におどろき。先(せん)
年(ねん)杉坂(すぎさか)にて。妾(わらは)が懐中(くわいちう)の金(かね)二十 両(りやう)を奪取(うばひとり)。逃去(にげさり)たる盗人(ぬすびと)は。すなはち
此者(このもの)にて。たしかに見おぼえありといへば。又平きゝて。扨(さて)はしかありけるか。
恩人(おんじん)と仇人(あだびと)と。しかも同月(たうげつ)同日(たうじつ)に。はからず出会(しゆつくわい)せしは。正(まさに)是(これ)天(てん)のみちびき
玉ふ処(ところ)にして。善悪(ぜんあく)つひに報(むくい)ある事(こと)を示(しめ)し玉ふ所(ところ)ならん。いかに雲六(うんろく)とやらん
よくきけとて。小枝(さえだ)金(かね)をうばゝれいひわけなく。首(くび)縊(くゝり)て死(しな)んとせしを。三八
郎が情(なさけ)にて。金子(きんす)を合力(かうりよく)され。危(あやう)き一命(いちめい)をたすかりたる事の始終(しじう)を。
つぶさにかたりければ。雲六(うんろく)頭(かしら)をたれてきゝ居(ゐ)たるが。やがて一刀(いつとう)を抜(ぬき)て
腹(はら)にぐさとつきたて。いと苦(くる)しげに息(いき)をつきていひけるは。あなおそろしや
勿体(もつたい)なや。今(いま)やう〳〵天(てん)の賞罰(しやうばつ)あきらかなる事(こと)をしり。積悪(せきあく)の報(むくい)の
覿面(てきめん)にめぐり来(きた)ることを暁(さと)らぬ。某(それがし)が懺悔物語(さんげものかたり)を。一回(ひとゝほり)おん聞(きゝ)くだされ
かし。そのかみ某(それがし)在京(ざいきやう)のうち。五条坂(こじやうざか)の曲中(くるわ)に通(かよ)ひて。過分(くわぶん)の金銀(きんぎん)を
ついやし。身分(みぶん)たちかだきにより。偶(ふと)悪念(あくねん)おこりて。百蟹(ひやくがい)の巻物(まきもの)を盗(ぬすみ)
取(とり)。おん館(やかた)を出奔(しゆつぽん)して。北山(きたやま)をすぎ。杉坂(すぎさか)にいたりけるに。折(おり)しも風雨(ふうう)
つよかりければ。しばし木蔭(こがけ)に晴間(はれま)を待居(まちゐ)たるに。それなる婦人(ふじん)来(き)
かゝり玉ひ。懐中(くわいちう)おもげに見えけるゆゑ。又 悪念(あくねん)おこり。婦人(ふじん)を地上(ちしやう)に
踢倒(けたふ)して。二十 両(りやう)の金(かね)をうばひ。仕合(しあはせ)よしと歓(よろこ)びて。その所(ところ)を逃去(にけさり)。そのゝち
かの巻物(まきもの)を。金(きん)五十 両(りやう)に売(うり)けるが。一所不住(いつしよふぢう)に迷(まよひ)ありく間(あひだ)に。かの金(かね)を
残(のこり)なくつかひ尽(つく)し。つひに零落(れいらく)してかゝる身となりぬ。某(それがし)は金(かね)を奪(うばひ)て
死(し)にいたらしめんとし。三八郎どのは金(かね)を与(あた)へて。死(し)を救(すくひ)玉ひつるよし。今(いま)思へ
ば。善悪(ぜんあく)のたがひ誠(まこと)に壌霄(じやう〳〵)をへだつるがごとし。豈(あに)賞罰(しやうばつ)の報(むくい)なからんや。
扨(さて)某(それがし)ちかごろ当国(とうごく)にいたりて。草津(くさつ)の駅(ゑき)に住家(すみか)をもとめ。幸(さいは)ひ石山寺(いしやまでら)
の観音(くわんおん)開帳(かいちやう)ありてにぎはしければ。かの門前(もんぜん)に出(いで)。鼓(つゞみ)を打(うち)くせ舞(まひ〳〵)の
謡(うたひ)をうたひて物(もの)を乞(こひ)けるに。前(さき)の日(ひ)思ひかけず。幼年(ようねん)の時(とき)わかれたる。
八重垣(やへがき)といふ妹(いもと)にあひ。住家(すみか)にともなひかへりて。何(なに)くれと過去(すぎさり)し事
どもを語(かた)りけるに。妹(いもと)某(それがし)がかく浪人(ろうにん)したるいはれをとひけるゆゑ。又 悪念(あくねん)
おこり。いつはりていひけるは。我(われ)前(さき)の年(とし)在京(ざいきやう)の刻(きざみ)。偶(ふと)五条坂(ごじやうざか)に通(かよ)ひ。過(くわ)
分(ぶん)の金銀(きん〴〵)をついやし。そのおひめをつくのはん為(ため)。若殿(わかとの)よりあづかりたる。
絵巻物(ゑまきもの)を質入(しちいれ)しつるが。つひにその事あらはれていとまたまはり。かく浪々(ろう〳〵)
の身(み)となりぬ。格別(かくべつ)の科(とが)にもあらねば。今(いま)にもかの巻物(まきもの)をうけもどし
てさし上(あぐ)れば。帰参(きさん)のかなふは必定(ひつじやう)なれども。本金(ほんきん)に利金(りきん)をくはへて。かれ
これ百両(ひやくりやう)ばかりの金(かね)なれば。なか〳〵とゝのひがたく。今(いま)先非(せんぴ)を悔(くゆ)ると
いへどもかひなしといひて。そら泣(なき)して見せければ。妹(いもと)これを実(まこと)とし。
しからば妾(わらは)が身(み)を売(うり)て金(かね)をとゝのへ。その巻物(まきもの)をうけもどして。帰参(きさん)
を願(ねかひ)玉へといふにぞ。某(それがし)心(こゝろ)に計(はかりこと)なりしと歓(よろこ)び。うまくいつはりて情(なさけ)なくも。
妹(いもと)を当所(たうしよ)の伏柴(ふししば)の里(さと)にゐてゆき。百両(ひやくりやう)に身(み)を売(うり)て。今日(けふ)しもその
身(み)の代(しろ)をうけとり。天(てん)へものぼるこゝちして。かへる路(みち)の傍(かたはら)に。一羽(いちは)の雁(がん)首(かしら)
をなげて落居(おちゐ)たり。飛(とぶ)けはひはなく見ゆれども。抜足(ぬきあし)しつゝ拾取(ひろひとり)て
見るに。箭(や)の疵黐(きづもち)のあともなし。扨(さて)はこしぢにかへる雁金(かりがね)の。行倒(ゆきだふれ)かと
推量(すいりやう)し。何(なに)にまれ福(さいはひ)のいたり時(どき)。晩(ばん)の寝洒(ねざけ)の肴(さかな)とし。ひさ〴〵飢(うへ)たる
痩腹(やせばら)を肥(こや)さんものと。心(こゝろ)のうちに歓(よろこ)び。はや栄耀(ゑひよう)心(こゝろ)いでゝ。提(さげ)てゆくも
わづらはしと。金財布(かねさいふ)の紐(ひも)のあまりを。雁(がん)の足(あし)にゆひつけ。肩(かた)の尖(とがり)にふりかた
げて。懐手(ふところで)して帰(かへ)りしが。何(なに)とかしけん。かの雁(がん)途中(とちう)にて蘇生(よみがへり)。くゝりつけたる
財布(さいふ)とゝもに。虚空(こくう)を斥(さ)して飛去(とびさり)けるあひだ。翼(つばさ)なき身(み)を悲(かな)しみて。
あとをしたひて此(この)処(ところ)まで追来(おひきた)りしが。落(おつ)べき所(ところ)もあるべきに此(ここ)におちて
君(きみ)を始(はじ)め奉り。おの〳〵方(がた)に出会(しゆつくわい)し。某(それがし)が旧悪(きうあく)のあらはるゝは。正(まさしく)是(これ)兄(あに)の為(ため)に
身(み)を売(うる)ほどの。実(まこと)ある妹(いもと)の身(み)の代(しろ)をむさぼりし。某(それかし)が非道(ひだう)をにくみ。
天罰(てんばつ)を与(あた)へ玉ふに疑(うたがい)なし。今(いま)にいたりてやう〳〵と思ひあたり候とて。財布(さいふ)
をとりあげ。此(この)百両(ひやくりやう)の金(かね)は先年(せんねん)奪(うばひ)し二十 両(りやう)に利(り)をくはへて。又平とのに
かへすあひだ。合力(かうりよく)うけし三八郎どのへ此侭(このまゝ)返(かへ)し玉ひて。御息女(ごそくじよ)楓(かへで)どのゝ
身(み)をあがなひ返(かへ)し玉はれかし。さもあらば我身(わがみ)の罪(つみ)の一分(いちぶん)を減(げん)じ。いさゝか
来世(らいせ)をたすかる便(よすが)とも相(あい)なるべし。いはれを聞(きか)ねばよそことにおもひ
しが。此度(このたび)石山寺(いしやまでら)の門前(もんぜん)にて。諸人(しよにん)に見する蛇娘(へびむすめ)は。楓(かへで)どのに疑(うたかひ)なし。
聞(きゝ)とゞけてよ御両人(ごりやうにん)といひて。掌(て)を合(あは)せて拝(おが)み。涙(なみだ)を滝(たき)のごとくながし
ければ。又平かの財布(さいふ)をとりてなむ右衛門が前(まへ)におき。雲六(うんろく)慚邪(さんじや)懺(ざん)
罪(ざい)して実心(じつしん)にひるがへりしうへは。不便(ふびん)にも存(ぞん)ずれば。かれが望(のぞみ)のごとく
此(この)金(かね)にて。息女(そくぢよ)をあがなひ候へかしといへば。なむ右衛門 頭(かしら)を右左(みぎひだり)にふり
うごかし。いな〳〵八重垣(やへがき)とやらんさばかり実(まこと)ある者(もの)を。うき川竹(かはたけ)のなが
れにしづめ。長(なが)く辛苦(しんく)をうけしめんは。しのびがたき事ならずや。娘(むすめ)
楓(かへで)はみづから斍悟(かくご)のうへにて。親(おや)の為(ため)にはづかしめをうくるなればせん
すべなし。此(この)金(かね)をかへして八重垣(やへがき)をとりもどし。つかはすべしといひて。
うけがはざれば。雲六(うんろく)苦(くる)しげに息(いき)をつき。いな〳〵その金(かね)にて御息女(こそくぢよ)の身(み)を
あがなひ玉はらば。かへりて妹(いもと)が実心(しつしん)のかひもあるべし。殊更(ことさら)その金(かね)
おん身(み)の膝(ひざ)のあたりに落(おち)たるよし。畢竟(ひつきやう)天(てん)より忠臣(ちうしん)孝子(かうし)を賞(しやう)じ
玉ひて。与(あた)へ玉ふに疑(うたがひ)なし。若(もし)海川(うみかは)にもおちいりなば。妹(いもと)が志(こゝろざし)は水(みづ)の泡(あは)と
なり候べし。ひとへにおん聞(きゝ)とゞけ玉はれかし。若(もし)さもあらずは某(それがし)死(し)しても。
こゝろよく眼(まなこ)をふさぎ申すまじとて。涙(なみだ)をながしてねがひけり。桂(かつら)之助 始(し)
終(じう)を聞(きゝ)。悪(あく)にもつよく善(ぜん)にもつよき彼(かれ)がねがひ。未期(まつご)の望(のぞみ)なればきゝ
とゞけつかはすべしと。おもきおふせになむ右衛門。やう〳〵これをうけがひ
けり。雲六(うんろく)はうれしげに打笑(うちわらひ)。今(いま)は此世(このよ)にのぞみなし。死出(しで)の旅路(たびぢ)を
いそがばや。相公(との)の御前(ごぜん)をけがす罪(つみ)は。おん免(ゆる)し玉はれかしとて。腹(はら)十文
字(じ)にかきやぶり。咽吭(のんどのくさり)をかき斬(きり)て。うつぶしに伏(ふし)てぞ死(し)したりける。時(とき)に
なむ右衛門。かの鳥(とり)をとりあげていはく。此(この)鳥(とり)雁(がん)に似(に)たりといへども。
よく〳〵見れば漢名(かんみやう)蒼鶂(そうじ)といふ鳥(とり)なり。よく高(たかく)飛(とび)雁(がん)に似(に)て蒼白(そうはく)也。
目(め)相見(あいみ)て孕(はら)み。吐(はき)て子(こ)を生(うむ)といへり。夏子益(かしゑき)が奇疾方(きしつほう)に。蒼鶂(そうじ)の肉(にく)に
人血(じんけつ)を和(くわ)して。瘂(おし)を治(ぢ)する方(ほう)ありと。ある名医(めいい)に聞(きゝ)たる事(こと)あり。吃謇(ことどもり)
にも又 験(しるし)あるまじきにあらず。思ひかけずかゝる奇鳥(きちやう)を得(え)たるも。又 一奇(いつき)
事(じ)なれば。こゝろみにもちひ玉はずやといふにぞ。又平やがてかの鳥(とり)の肉(にく)をさき
とりて火(ひ)にあぶり。雲六(うんろく)が鮮血(せんけつ)をそゝぎて食(しよく)しけるに。頓(とみ)に咽(のんど)すゞやかになり。
生(うま)れつきたる吃謇(ことどもり)。忽(たちまち)常(つね)の人(ひと)のものいふごとくになりて。これもまた天(てん)の
与(あた)へならめといふこはざまも。いとあきらかなれば。小枝(さえだ)於竜(おりう)等(ら)こは不思議(ふしぎ)〳〵
といひて歓(よろこ)びあひぬ。誠(まこと)に奇異(きい)の事(こと)なりけり。かゝる折(おり)しも外(と)の方(かた)に。人(ひと)
の足音(あしおと)ひゞきければ。又平 小枝(さえだ)於竜(おりう)に目(め)くはしして。柱(かつら)之助を一間(ひとま)に
かくし。雲六(うんろく)が屍(しかばね)を蒲団(ふとん)にくるみて床(ゆか)の下(した)に押入(おしいれ)。血(ち)しほをぬぐふひま
もなく。見(み)せ物芝居(ものしばゐ)の主(あるじ)。楓(かへで)を伴(ともな)ひこゝぞ〳〵といひつゝ裏(うち)にいり。
なむ右衛門にむかひていひけるは。おん身(み)今日(けふ)しも此(この)宿(しゆく)をよぎり玉ひしを。
僕(しもべ)が見つけて告(つげ)しゆゑ。楓(かへで)をあはせ申さんため。旅宿(りよしゆく)をたづね参(まゐり)しと
いへば。楓(かへで)は父(ちゝ)にとりすがり。かはりたる此(この)お姿(すがた)。母(はゝ)うへも恙(つゝか)なくおはすかとて。あと
は涙(なみだ)に詞(ことば)なし。なむ右衛門は折(おり)よき幸(さいはひ)と歓(よろこ)び。たがひに何(なに)くれとかたり
あひて後(のち)。芝居主(しばゐぬし)にむかひ。ゆゑありて思ひかけず金(かね)とゝのひつるが。元金(もときん)
百両(ひやくりやう)を以(もつ)て。娘(むすめ)をもどしたまはらずやといへば。芝居主(しばゐぬし)すみやかにうけがひ。
楓(かへで)事 京(きやう)大坂(おほさか)は勿論(もちろん)。伊勢(いせ)尾張(おはり)のあたりまでゐてゆき。おほくの金(かね)を
徳(とく)つきたれば。即坐(そくざ)に百両(ひやくりやう)渡(わた)し玉はゞ。いかにもいとまをつかはすべし
といふにぞ。南無(なむ)右衛門ます〳〵へ歓(よろこ)び。かの金(かね)をとり出(いだ)して渡(わた)しければ。
芝居主(しばゐぬし)数(かづ)をあらためてとりおさめ。こは思ひよらざる楓(かへで)が仕合(しあは)せよとて。
金(かね)のうけ取(とり)。いとまのしるしを証文(しやうもん)にかきしるし。印信(おして)をすゑて
与(あた)へ。楓(かへで)をわたして。又かさねてまみゆべしといひて出去(いでゆき)ぬ。時(とき)に三井(みゐ)の
晩鐘(ばんしよう)つげわたり。勢田(せた)のあたりに夕日(ゆふひ)のかげぞかたふきける
十六 名画(めいぐわ)の奇特(きどく)
扨(さて)も其時(そのとき)なむ右衛門。主君(しゆくん)桂(かつら)之助にねがひて娘(むすめ)楓(かへで)にめみへをさせ。又平 夫(ふう)
婦(ふ)阿竜(おりう)等(ら)にも引合(ひきあは)せ。今日(けふ)のくはしき物語(ものがたり)をかたりきかせければ。楓(かへで)
打間(うちきゝ)て。因果(いんぐわ)輪転(りんでん)の理(ことはり)。善悪(ぜんあく)つひに報(むくい)ある事(こと)を暁(さと)して。嘆息(たんそく)しけり。
かくて又平 夫婦(ふうふ)食事(しよくじ)を調(ちやう)じて。なむ右衛門 父子(ふし)に与(あた)へ。一間(ひとま)のうちに
みちびきてやすませけり。なむ右衛門 父子(ふし)は。たえてひさしき出会(しゆつくわい)なれば。
さま〴〵の物語(ものがたり)に思はず時(とき)をうつし。やう〳〵睡(ねふり)につきけるに。やゝありて楓(かへで)が
声(こゑ)として。あなや〳〵とおめきさけひければ。なむ右衛門 驚(おとろき)ねふりを醒(さま)して
見れば。楓(かへて)が腹(はら)に巻(まき)つきたる小蛇(しやうじや)。懐(ふところ)より飛出(とひいづ)ると見えしか。忽(たちまち)丈(たけ)一丈(いちしやう)
ばかりの大蛇(だいじや)と変(へん)じ。楓(かへで)が身(み)をいくへともなくまとひぬ。あなかなしやこはそも
いかにすべきとあはてまとひけるに。枕上(まくらがみ)におきたる笈(おひ)のうちより。あまたの
蟹(かに)はひ出(いで)て。大蛇(だいじや)にとりつき。螯(はさみ)を以(もつ)て肉(にく)をはさみ。血(ち)は泉(いづみ)のごとく
ながれて。暫時(ざんじ)に大蛇(だいじや)を殺(ころ)しおはんぬ。蟹(かに)はたゞちにもとの笈(おひ)のうちに
はひいると見えしは。すなはち夢(ゆめ)なりけり。なむ右衛門 夢(ゆめ)さめて。身(み)
うちに汗(あせ)をながし。楓(かへで)をゆりうごかしければ。楓(かへで)もねふりをさまして起(おき)
上(あが)りけるにぞ。衣服(いふく)をくつろげて腹(はら)を見るに。これまで片時(へんじ)もはなれ
ざる妖蛇(ようじや)。いづくへゆきしやらん失(うせ)てあとだになし。なむ右衛門さては正(まさ)
夢(ゆめ)にてありしかと思ひつゝ。笈(おひ)のうちよりかの巻物(まきもの)をとり出(いだ)してひら
き見れば。画中(くわちう)の蟹(かに)の螯(はさみ)に尽(こと〴〵)く鮮血(なまち)つきてぞありける。此時(このとき)已(すで)に
四更(しかう)のころなりしが。又平も楓(かへで)がおめきたる声(こゑ)を聞(きゝ)つけて起(おき)いで来(きた)り。
【挿絵】
藤波(ふぢなみ)
成仏(じやうぶつ)
得脱(とくだつ)す
楓(かへで)孝道(かうだう)
あつきにより夢中(むちう)
名画(めいぐわ)の奇特(きどく)を得(ゑ)て
妖蛇(ようじや)の難儀(なんぎ)を
まぬかる
かへで
なむ右衛門が夢中(むちう)の事(こと)をきゝ。灯火(ともしひ)をかゝげてかの巻物(まきもの)を熟覧(じゆくらん)し。
掌(て)を打(うち)ていひけるは。奇(き)なるかな妙(みやう)なるかな。巨勢(こせ)の金岡(かなをか)は。清和(せいわ)。陽成(やうぜい)
光孝(くわうかう)。宇多(うだ)。醍醐(たいご)の五朝(ごちやう)に仕(つか)へて。官(くわん)大納言(だいなごん)に至(いた)る。曽(かつ)て御府(ぎよふ)に蔵(おさめ)
玉ふ金岡(かなをか)が画(ゑが)ける馬(うま)。毎夜(まいや)萩(はぎ)の戸(と)のほとりに出(いで)て。萩(はぎ)の花(はな)をくひしと。
古今著聞集(ここんちよもんしふ)に見えたり。また仁和寺(にんわじ)の御室(おむろ)に金岡(かなをか)が画馬(ぐわば)あり。近(ちかき)
田(た)のほとりに出(いで)て。稲(いね)の苗(なへ)をくひしといふ。また河内(かはち)の国(くに)金田村(かなだむら)牛頭(こづ)
天王(てんわう)の社頭(しやとう)の。金岡(かなをか)が筆(ふで)の絵馬(ゑま)。ぬけ出(いだ)しといふたぐひの説(せつ)は。かねて聞(きゝ)
伝(つた)ふるといへども。目前(まのあたり)かゝる奇特(きどく)を見る不思議(ふしぎ)さよ。抑(そも〳〵)此(この)百蟹(ひやくがい)の図(づ)
は金岡(かなをか)殊(こと)に精神(せいしん)をこめ。螃蟹(かに)の絵(ゑ)に妙(みやう)を得(え)たる。唐代(とうのよ)の名画(めいぐわ)。韓滉(かんくはう)
といふ者(もの)。玄宗皇帝(げんそうくわうてい)の勅(ちよく)によりて画(ゑがき)たる。百蟹(ひやくがい)の図(づ)にならひてかきたる
とは聞(きゝ)つるが。見るは今(いま)がはじめなり。神彩(しんさい)飛動(ひどう)誠(まこと)に生(いけ)るが如(ごと)し。奇特(きどく)ある
もうべなり。某(それがし)これを見て画道(ぐわうだう)の奥儀(おうぎ)をきはめたりといひつゝ
歓(よろこ)びて巻物(まきもの)をおしいたゞき。再(ふたゝび)又いひけるはこれにつきて思ひいだせる
物語(ものがたり)あり。昔(むかし)山城国(やましろのくに)相良郡(さがらこほり)《割書:元享釈書に|久世郡》綺田村(かはたむら)に。一個(ひとり)の美女(びぢよ)あり。
曽(かつ)て仏道(ぶつだう)を信(しん)ず。一時(あるとき)里人(さとびと)あまたの蟹(かに)を捉(とら)へ煮(に)てくらはんとす。かの女
是(これ)を見てあはれみ。美食(びしよく)にかへて蟹(かに)を尽(こと〴〵)く池(いけ)にはなつ。又その父(ちゝ)一時(あるとき)
野(の)に出(いで)て。蛇(へび)の蟇(かいる)を呑(のむ)を見てあはれみ。若(もし)蟇(かいる)をはなちやらば我(わが)娘(むすめ)を
汝(なんぢ)にあたへんといふ。蛇(へび)これをきゝ入(いれ)たるさまにて蟇(かいる)を吐(はき)て去(さら)しむ。その
夜(よ)衣冠(いくわん)の若人(わかうど)来(きた)りて。約(やく)のごとく女(をんな)を与(あた)へよといひて一室(いつしつ)にいり。忽(たちまち)
大蛇(だいじや)と変(へん)じて女(をんな)の身(み)をまとふ。時(とき)に前(さき)の日(ひ)たすけられたるあまたの
蟹(かに)こゝに集(あつま)り。大蛇(だいじや)の遍身(へんしん)を螯殺(はさみころ)して女(をんな)をすくひ。大蟹(おほがに)は去(さり)小蟹(こがに)
はそこに死す。よりてその所(ところ)に蟹(かに)および蛇(へび)のからをうづめ寺(てら)を建(たて)て
普門山(ふもんざん)蟹満寺(かにまでら)と号(ごう)す。或(あるひは)また紙幡寺(かはたでら)ともいふよし。元享釈書(けんかうしやくしよ)《割書:巻之|廿八》
に見えたり。息女(そくぢよ)の事(こと)よく此事(このこと)に似(に)たり。思ふにかれは陰徳陽報(いんとくやうぼう)の
理(ことはり)を示(しめ)しこれは名画(めいぐわ)の奇特(きどく)によりて孝女(かうぢよ)をすくふ。共(とも)に是(これ)仏(ほとけ)の慈(じ)
悲(ひ)衆生済度(しゆじやうさいど)の方便(ほうべん)也あれ壁(かべ)におしたる我(わが)拙筆(せつひつ)の絵(ゑ)を見玉へ。地(ち)
水火風(すいくわふう)の四ツの緒(を)の。きれてはかなき琵琶法師(びはほうし)も。忠孝(ちうかう)全(まつた)き竹杖(たけつゑ)
にて。煩悩(ぼんのう)の犬(いぬ)を打(うち)畜生道(ちくしやうだう)をまぬかれて。天堂(てんどう)に生(うま)るゝかたち。子(し)
息(そく)文弥(ぶんや)どのゝ姿絵(すがたゑ)とも見玉へかし。緑青(ろくしやう)の髪(かみ)すぢ胡粉(ごふん)の肌(はだへ)無常(むじやう)
の風(かぜ)に塗笠(ぬりがさ)も。骨(ほね)のみ残(のこ)る手弱女(たをやめ)が。肩(かた)にかたげし一枝(ひとえだ)は。紫雲(しうん)たなびく
藤(ふぢ)の花(はな)これ妹(いもと)藤波(ふぢなみ)が成仏(しやうぶつ)の姿(すがた)なり。積悪(せきあく)の角(つの)を折(をり)鬼(おに)なす心(こゝろ)
をひるがへして。墨(すみ)の衣(ころも)に鉦(かね)打(うつ)さまは。是(これ)乃(すなはち)長谷部雲六(はせべのうんろく)が邪念(じやねん)を滅(めつ)せ
し姿(すがた)ならずや。喜怒哀楽(きどあいらく)にいろどりて。もろ〳〵のかたちをなし。善(ぜん)と
なり悪(あく)となり。正(しやう)となり邪(じや)となり。恩(おん)となり仇(あた)となるも。三世(さんぜ)因果(いんぐわ)の報(むくい)
と思へば。互(たがい)の恨(うらみ)もつき弓(ゆみ)の。矢猛(やたけ)心(こゝろ)をやはらげて。唯(たゞ)彼等(かれら)が菩提(ぼだい)をとむらふ
にしかじ。某(それがし)さきほどの夢(ゆめ)に。藤浪(ふぢなみ)姿(すがた)をあらはし。敵(かたき)三八郎どの親子(おやこ)のいみじ
き忠孝(ちうかう)を感(かん)ずれば。今(いま)は恨(うらみ)も尽(つき)はてゝ。安養浄土(あんようじやうど)に生(うま)れ候といひ
て。身(み)より光明(くわうみやう)をはなちて去(さる)と見たれば。成仏得脱(じやうぶつとくだつ)うたがひなし。と
いふ折(おり)しも。桂(かつら)之助 小枝(さえだ)於竜(おりう)と共(とも)に。ねふりをさまして一間(ひとま)を立出(たちいで)
我(われ〳〵)三人もおなじ夢(ゆめ)を見たりといひて一同(いちどう)によろこびけり。時(とき)に楓(かへで)
父(ちゝ)の前(まへ)に手(て)をつき。妾(わらは)こと姿(すがた)をかへて藤浪(ふぢなみ)どの文弥(ぶんや)等(ら)の。菩提(ぼだい)を
とひたく候へば。剃髪(ていはつ)をゆるして尼(あま)となし玉はれかしといふ。なむ右衛門いはく。
いな〳〵汝(なんぢ)剃髪(ていはつ)無用(むよう)なり。我(われ)今(いま)より剃髪(ていはつ)して。佐渡島坊(さどしまほう)と名告(なのり)。
我(わが)異名(いみやう)を汝(なんぢ)にゆづり。若殿(わかとの)を世(よ)に出(いだ)しまゐらせし後(のち)は。専修(せんじゅ)の念(ねん)
仏者(ぶつしや)となり。かの蟹満寺(かにまでら)ちかごろ破損(はそん)したるよしきけば。これを修理(しゆり)
して亡(なき)人(ひと〴〵)の冥福(めいふく)の種(たね)とすべし。なんぢ六字(ろくじ)南無(なむ)右衛門といふ名(な)を
つけば。道心(だうしん)せしも同然(どうぜん)なり。汝(なんぢ)又これより文弥(ぶんや)が師(し)とたのみたる。
沢角(さはつの)検校(けんぎやう)にしたがひ。近(ちか)ごろ世(よ)におこなはるゝ浄瑠璃節(しやうるりぶし)を学(まな)ひ。因(いん)
果(くわ)の道理(だうり)を唱歌(しやうが)につくり。糺河原(たゞすがわら)に於(おい)てこれをかたり。普(あまねく)諸人(しよにん)を
勧進(くわんじん)して。我(わが)志願(しぐわん)の助力(ぢよりよく)せよといひおはり。髻(もとゞり)弗(ふつ)とおしきりて。藤浪(ふぢなみ)が
位牌(いはい)に手向(たむけ)ければ。みな〳〵その誠心(せいしん)を感(かん)じけり。六字(ろくじ)南無(なむ)右衛門
といふ女太夫(をんなだいふ)。浄瑠璃芝居(じやうるりしばゐ)の始祖(しそ)なりといひつたふるは。此(この)楓(かへで)が事(こと)なり
とぞ。なむ右衛門又 桂(かつら)之助にむかひて頭(かしら)をさげ。これより河内(かはち)の国(くに)に
おん越(こし)ありて。若君(わかぎみ)に御対面(ごたいめん)あれかし。奥方(おくがた)のおんゆくへはなほまた
たづね候べし。いざ夜(よ)のあけぬ間(ま)にとく〳〵ともよほせば。桂(かつら)之助いそがは
しく身支度(みじたく)して。又平にむかひ。我(われ)時運(じうん)を得(え)て世(よ)に出(いで)なば。かならず
報(むくい)をすべきぞといひてわかれを告(つげ)。編笠(あみがさ)ふかくかたふけて立出(たちいづ)れば。なむ
右衛門 修行者(しゆぎやうじや)の姿(すがた)その侭(まゝ)に。楓(かへで)を具(ぐ)して相(あい)したがふ。又平 夫婦(ふうふ)於(お)
竜(りう)もともに。恙(つゝが)なくおはしませといひつゝ門(かど)おくりし。たがひに涙(なみだ)をそゝぎ
て別(わか)れ纔(わづか)に一町ばかりゆきけるに。昨日(きのふ)やとひし縣神子(あがたみこ)。野(の)ぶせりの乞(こつ)
丐(がい)どもをかたらひ来(きた)りて道(みち)をふさぎ。このごろ官領(くわんれい)浜名(はまな)どのより
きびしくたづね玉ふ。佐々木(さゝき)桂(かつら)之助とやらん。いづくへおちゆくぞ。われ
昨日(きのふ)又平が家(いへ)にやとはれ。家内(かない)の様子(やうす)いぶかしと思ひしゆゑ。今(いま)爰(こゝ)に
きたりてうかゞふに。果(はた)してあやしき者(もの)どもなり。からめとりて賞銀(ほうびのかね)に
あづかるぞ。とく〳〵手(て)をつかねよとぞよばはりける。なむ右衛門 追(おひ)ちらし
てとほらんと。錫杖(しやくじやう)をとりのべける処(ところ)に。思ひかけざる物(もの)かげより。猿(さる)二郎
棒(ぼう)をとりて走(はし)り出(いで)。かの奴原(やつばら)を散(さん)〴〵に追(おひ)ちらし。これより志賀(しが)の山越(やまごへ)
しておん立(たち)のきあれかし。人(ひと)のしらざる間道(かんだう)をおん供(とも)つかまつらんとて。つひに
四人 打(うち)つれていそぎゆきぬ。さて雲六(うんろく)が屍(しかばね)は。又平その夜(よ)ちかき山(やま)にかき
ゆきて煙(けふり)となし。あとねんごろにとふらひけるとぞ
十七 雪渓(せつけい)の非熊(ひゆう)
爰(こ)に又 梅津(うめづ)の嘉門(かもん)は母(はゝ)と共(とも)に世(よ)を避(さけ)て。和州(わしう)河州(かしう)のさかい。金剛山(こんがうせん)水越(みづこし)
峠(とうげ)の谷蔭(たにかけ)に。いぶせき庵(いほり)をいとなみ。当山(とうざん)は薬草(やくそう)おほく。殊(こと)に金山(きんざん)にして
金剛砂(こんがうしや)を出(いだ)すゆゑ。これらをとりて日(ひゞ)の費(ついへ)にかへ。みづから薪(たきゞ)をとり
水(みづ)をくみ。あけくれ老母(ろうぼ)に孝行(かう〳〵)を尽(つく)し。いとまには書籍(しよじやく)を友(とも)として臥竜(ぐはりう)
先生(せんせい)の跡(あと)を追(おひ)。禅味(せんみ)を甘(あまん)じて大幢国師(だいどうこくし)の道(みち)をしたひ。名利(みやうり)に屈(くつ)せぬ
志(こゝろざし)。はるかにたふとくぞ見えぬ。一日(あるひ)老母(ろうぼ)山寺(やまでら)にまうでけるが。比(ころ)しも厳冬(げんとう)の
時節(じせつ)なれば。帰路(きろ)にのぞみて雪(ゆき)ふり出(いだ)し。見る〳〵満地(まんち)玉(たま)をしけるが
ごとく。通(かよ)ひなれたる道(みち)すぢも。深(ふか)く雪(ゆき)にかくれたれば。おのづから道(みち)に
迷(まよ)ひ。殊更(ことさら)峠越(みねごし)の吹雪(ふゞき)。肌(はだへ)にしみて寒(さむ)ければ。ゆきなやみて杖(つえ)をとゞめ。しば
したゝずみ居(ゐ)たる折(おり)しも。猟師(かりうど)に追出(おひいだ)されたる穴熊(あなぐま)にや。雪(ゆき)を踢立(けたて)て
馳来(はせきた)り。ほど〳〵老母(ろうぼ)に飛(とび)かゝらんとしたる処(ところ)に。一人(いちにん)の若者(わかもの)木蔭(こかげ)より走(はし)り
出(いで)。立(たち)へだゝりて熊(くま)の肩(かた)さきを一刀(ひとかたな)きりつけたれば。熊(くま)は怒(いかり)て狂(くる)ひ
けるが。つひに足(あし)をふみながして。谷底(たにそこ)にさかしまになりておちいりぬ。かの若(わか)
者(もの)は腰(こし)をかゞめて老母(ろうぼ)にむかひ。年(とし)老(おい)玉ふおん身(み)にて。雪中(せつちう)の歩行(ほかう)見る
にしのびがたし。いづくにもあれおん住家(すみか)まで。負行(おひゆき)まゐらせんといふにぞ
老母(ろうぼ)うれしげに。いづくのおん方(かた)かはしらざれども。今(いま)の危難(きなん)をすくひ玉はる
のみならず。情深(なさけふか)きおん志(こゝろざし)謝(しや)しはべるに詞(ことば)なしといへば。さばかりあつき詞(ことば)をおさ
むるにゆゑなし。いざとく〳〵とて。背(せ)をおしむけて老母(ろうぼ)を負(おひ)。住家(すみか)の方(かた)を問(とひ)
つゝ走行(はせゆき)けり。さて嘉門(かもん)はひとり家(いへ)にありて。母(はゝ)の帰(かへ)りのおそきを案(あん)じ。殊(こと)
更(さら)俄(にはか)の大雪(おほゆき)なれば。途中(とちう)さぞわびしからんと心(こゝろ)ならず。蓑笠(みのかさ)打着(うちき)ていほりを
出(いで)。母(はゝ)の帰路(きろ)を斥(さし)ていそぎけるが。むかふの方(かた)より老母(ろうぼ)。若(わかき)男(をとこ)におはれ来(きた)り。
嘉門(かもん)を見て喜(よろこ)びければ。嘉門(かもん)もやう〳〵心(こゝろ)おちつき。おん迎(むかひ)の為(ため)これ迄(まで)参(まいり)候と云(いふ)にぞ。老母(ろうぼ)
若者(わかもの)の背(せ)よりをりたち。途中(とちう)にて荒熊(あらくま)に出会(いであい)ほど〳〵命(いちめい)を失(うしな)ふべき
を。此(この)おん方(かた)の情(なさけ)にて危急(きゝう)をまぬかれ。しかのみならず。これまで負(おひ)玉はりし
とかたれば。嘉門(かもん)若者(わかもの)にむかひ。母(はゝ)をいたはり玉はる御芳志(ごほうし)。謝(しや)し尽(つく)しがたしと
相(あい)のぶる。時(とき)に若者(わかもの)雪中(せつちう)に身(み)を伏(ふし)て礼(れい)をおこなひ。卒示(そつじ)ながらおん身(み)は。
梅津(うめづ)の嘉門(かもん)どのにはあらずやといふ。嘉門(かもん)荅(こたへ)て。某(それがし)かゝる深山(みやま)に住(すみ)鹿(しか)猿(さる)
と臥戸(ふしど)を共(とも)にする身(み)なれば。名(な)を知(し)る人(ひと)もあるまじきに。いかにして我(わが)姓名(せいめい)を
しり玉ふや。いぶかしさよといひければ。若者(わかもの)益(ます〳〵)かしらをさげ。たとへ泥中(でいちう)に
尾(を)を曳(ひき)玉ふとも。先生(せんせい)の雷名(らいめい)を誰(たれ)かしらざる者(もの)あらんや。かしこの山寺(やまでら)
にてこれなる御老母(ごろうぼ)は。先生(せんせい)の母人(はゝびと)なるよしをうけ玉はり。しひてこれまで
送(おく)り来(き)しも。先生(せんせい)にま見へん事(こと)をこひねがふがゆゑなり。某(それがし)は武士(ぶし)の
浪人(ろうにん)なるが。何(なに)とぞ軍略(ぐんりやく)智謀(ちぼう)の人傑(じんけつ)にしたがひ。兵学(へいがく)の余緒(よしよ)なり
ともうかゞひ知(し)り。再(ふたゝび)家(いへ)をおこさんものと思ひ立(たち)。師(し)とたのむべき人品(ひとがら)を
聞(きゝ)つくろふに。此(この)山(やま)の谷蔭(たにかげ)に世(よ)を避(さけ)て住(すむ)。梅津(うめづ)の嘉門(かもん)といふ人(ひと)。生得(うまれえて)頓(とん)
智(ち)聡明(そうめい)にして。軍学(ぐんがく)に眼(まなこ)をさらし。石黄(せきくわう)孫呉(そんご)が奥儀(おうぎ)をきはめ。武略(ぶりやく)
衆(しゆう)に秀(ひいで)玉ふよし。その才名(さいめい)かくれなく。曽(かつ)て兼好法師(けんかうほうし)の草紙(さうし)になら
ひ。武道徒然草(ぶだうつれ〴〵ぐさ)といふ。兵法(へいほう)の奥儀(おうぎ)を記(しる)せし書(しよ)を。編(あみ)玉ふよし
うけたまはりて。わざ〳〵当国(とうごく)にうつり住(すみ)。いかにもして相(あい)まみへ。兵学(へいがく)の
【挿絵】
梅津(うめづ)嘉門(かもん)
河内国(かはちのくに)金剛(こんかう)
山(せん)に世(よ)を避(さけ)て
清貧(せいひん)を
まもり
生涯(しやうがい)の
無事(ぶじ)を
ね
がふ
かもんが母
嘉門の母
梅津嘉門
御指南(ごしなん)にあづかり。かの奥儀(おうぎ)の書(しよ)をも拝見(はいけん)し度(たく)思ひしが。容易(ようい)に人(ひと)に
あふ事(こと)をゆるし玉はざるよし。よき門路(つて)もがなと思ひ候に。今日(けふ)しも思ひかけず
相(あひ)まみへしは。誠(まことに)是(これ)師(し)とたのむべき時節(じせつ)到来(とうらい)。天(てん)のみちびき玉ふ処(ところ)なるべし。
向後(きやうこう)おん家(いへ)の奴僕(ぬぼく)ともおぼされて。薪水(しんすい)の業(わざ)を命(めい)ぜられ。兵術(へいじゆつ)の進退(しんたい)
軍伍(ぐんご)の勝敗(しやうはい)。御指南(ごしなん)たのみはべるなりと。低頭(ていとう)謙譲(けんじやう)して思ひ入たるけしき
にぞ見へぬ。嘉門(かもん)感歎(かんたん)していはく。いまだ若輩(じやくはい)の身(み)を以(もつ)て。武道(ぶだう)の
心(こゝろ)がけ深(ふか)き殊勝(しゆしやう)さよ。いかでか疎意(そい)に存(ぞんず)べき。何(なに)にもあれ。且(まづ)某(それがし)が
宅(たく)におん越(こし)あれ。人(ひと)はいかにいひはやすかはしらざれども。某(それがし)が得(え)たる
業(わざ)は。林(はやし)に入(いり)て薪(たきゞ)をとり谷(たに)にくだりて水(みづ)をくむのみ。他(た)の事(こと)はさらに
しらず。殊更(ことさら)武道(ぶだう)つれ〴〵草(ぐさ)とやらん書(しよ)を編(あみ)たるなどは。あともなき
虚言(そらごと)なり。軍師(ぐんし)なとゞはおこがましやといひて笑(わらひ)つゝ。三人 打連(うちつれ)て
谷(たに)かげのいほりにかへりぬ。かくて嘉門(かもん)家(いへ)に帰(かへ)り。老母(ろうぼ)に衣服(いふく)をきせかへ
濡衣(ぬれぎぬ)をあぶりかはかし。しゐ柴(しば)たきてあてなどし。さま〴〵にいたはる体(てい)を。かの
若者(わかもの)打(うち)見て。平日(へいじつ)の孝行(かう〳〵)を思ひやりぬ。嘉門(かもん)茶(ちや)を煮(に)て若者(わかもの)にすゝめ。
四方山(よもやま)のものがたりして。しばらく時(とき)をうしつけるに。折(おり)しも外(と)のかたにしはぶき
の声(こゑ)しければ。人跡(じんせき)たえたる此(この)かくれ家(が)に。何者(なにもの)の来(き)つるやといぶかるうちに。
案内(あない)をこへば。ものゝひまよりうかゞひ見るに。これ一人(ひとり)の武士(ぶし)なり。簑笠(みのかさ)
打着(うちき)て。笠(かさ)の下(した)に覆面(ふくめん)したれば。面(おもて)はさだかならねども。遠国(ゑんごく)の旅人(りよにん)と
おぼしき打扮(いでたち)なり。雪(ゆき)深(ふか)くふりうづみたる柴(しば)の戸(と)を。ほと〳〵と打(うち)たゝき。
誰(た)そたのみ申したし。こゝあけて玉はれと。いふ声(こゑ)聞(きゝ)て老母(ろうぼ)立出(たちいで)。何人(なにびと)ぞと
思ひしに。おん身(み)は頃日(このころ)両度(りやうど)まで来(きた)られし侍(さふらひ)よな。今日(けふし)も嘉門(かもん)家(いへ)に
をらず。御用(こよう)の間(ま)にはあひ申すまじ。たとへおんたのみのすぢを。嘉門(かもん)に
申しきかせたりとも。此方(このほう)におもふ旨(むね)も候へば。とてもうけがひ申すまじ
いたづらに足(あし)をついやし玉ふな。とく〳〵おん帰(かへ)り候へかし。かさねておん出(いで)無益(むやく)也
といひすて。戸(と)を撲地(はたと)たてゝ裏(うち)に入(い)る。嘉門(かもん)これを聞(きゝ)。何者(なにもの)なれ
ばかくあらけなく母人(はゝびと)はあしらひ玉ふやといぶかり。再(ふたゝび)又 窓(まと)のひまより窺(うかゞひ)
見るに。かの武士(ぶし)雪中(せつちう)に坐(ざ)をしめ。情(なさけ)なきぞ御老母(ごろうぼ)。嘉門(かもん)どの家(いへ)におはさ
ずは。此(この)処(ところ)にて帰宅(きたく)を待(まち)申ん。よろしくとりなしたのみはべるといひて。帰(かへ)るけはひ
は見えざりけり。折(おり)しも雪(ゆき)はつよくふり。紛々(ふん〳〵)揚々(やう〳〵)として。恰(あたか)も柳絮(りうぢよ)の舞(まふ)が
ごとく。鵞毛(がもう)の飛(とぶ)に似(に)たり。さらぬだに寒気(かんき)きびしき谷蔭(たにかげ)なるに。朔風(さくふう)
はげしく吹(ふき)おろせば。見る〳〵かの侍(さふらひ)の蓑(みの)の毛(け)に垂氷(つらゝ)さがりて。鈴(すゞ)のやうにから〳〵
となり。身(み)はなかば雪中(せつちう)にうづもれて。吹雪(ふゞき)は面(おもて)につぶてを打(うつ)がごとくなるを。
笠(かさ)にふせぎ真袖(まそで)にはらひ。歯(は)をくひしめて寒気(かんき)をたへしのぶ為体(ていたらく)。誠(まこと)
に余儀(よぎ)なく見へて。今(いま)にも凍死(こゞへしぬ)べき形勢(ありさま)なり。嘉門(かもん)此(この)体(てい)を見て益(ます〳〵)いぶかり。
さても堪忍(かんにん)づよき人(ひと)かな。覆面(ふくめん)にて面(おもて)はしかと見へざれども。いやしからざる
侍(さふらひ)の。かゝる厳寒(げんかん)をいとはぬ体(てい)。いかさま何(なに)ぞ思ひつめたる事(こと)あらんと。舌(した)
を巻(まき)てぞ居(ゐ)たりける。湯(とう)に伊尹(いいん)を得(え)。周(しう)に太公望(たいこうぼう)をもちひたるも。大(たい)
将(しやう)たる人(ひと)。賢(けん)を尊(たつと)び敬(うやまふ)志(こゝろざし)の厚(あつき)がゆゑなり。総(すべ)て国家(こくか)を治(おさむ)るの要(よう)。賢臣(けんしん)
にあり。賢臣(けんしん)を得(う)るに礼譲(れいじやう)をあつくせざれば出(いで)て仕(つか)へず。禄(ろく)を施(ほどこ)し金(きん)
帛(はく)を以(もつ)て招(まね)くとも。賢士(けんし)を尊(たつと)ぶ志(こゝろざし)なき人には仕(つか)ふる事(こと)なしとかや。扨(さて)その
時(とき)嘉門(かもん)母(はゝ)のそばちかくより。かの雪中(せつちう)の旅人(りよじん)は何者(なにもの)に候やらん。見るも気(き)
の毒(どく)の形勢(ありさま)なり。おん心(こゝろ)にかなはさる者(もの)ならば。理(ことはり)をのべておん帰(かへ)しなされ
ずや。某(それがし)出(いで)ておひかへし申さんやといへば。いな〳〵そちはかまふべからずかの侍(さふらひ)
そちが留主(るす)に両度(りやうど)まで来(きた)りて。さま〴〵のたのみ事(こと)。我(わが)心(こゝろ)にかなはねば。
うけがふべき様(やう)もなく帰(かへ)しつるが。又 今日(けふ)も来(きた)りてそちにあひたき望(のぞみ)
なれども。仕官(しかん)さする心(こゝろ)なければ。とかく人(ひと)にあはさぬにしくべからずと。
かねて思ひて。他行(たぎやう)といつはりかへさんとするに。しからば帰宅(きたく)を待(また)んとて
あのごとく寒気(かんき)に苦(くる)しむたはけ者(もの)。此方(このほう)の心(こゝろ)も察(さつ)せず長居(ながゐ)するうつけ
人(びと)。いよ〳〵そちをあはすべきにあらず。かの若者(わかもの)に命(めい)じて追帰(おひかへ)すにしかじ
といひて。若者(わかもの)をちかづけ。俄(にはか)に詞(ことば)をかへていひけるは。汝(なんぢ)さきほど奴僕(ぬぼく)とも
おもへといひつる詞(ことば)によりて。申しつくる事(こと)あり。かの雪中(せつちう)の侍(さふらひ)を汝(なんぢ)が弁(べん)
舌(ぜつ)を以(もつ)ておひかへせ。いかにいふとも嘉門(かもん)は他出(たしゆつ)せしといひて。是非(ぜひ)とも
かへせといひつくれば。若者(わかもの)うけ玉はり。某(それがし)御奉公(ごほうこう)の手柄(てがら)はじめに。おん
手(て)にあまる馬鹿者(ばかもの)を。おひかへして見せ申さんといひて。外(と)のかたに立(たち)いで。
やよ〳〵旅人(たひゝと)おん身(み)いつまで待(また)るゝとも。あるじ嘉門(かもん)の帰宅(きたく)のほど。何(いづれ)の時(とき)と
はかられねば。若(もし)日(ひ)もくれなば難儀(なんぎ)のうへの難義(なんぎ)ならん。とくかへられよ。
いざ〳〵といひつゝ手(て)をとりて。ひきたてんとせしが。顔(かほ)を見て仰天(ぎやうてん)し。貴君(きくん)は
由理(ゆり)之助 勝基公(かつもとこう)にはあらずや。此(この)おん姿(すがた)は何(なに)ゆゑぞと打驚(うちおどろき)つゝ。恭(うや〳〵しく)礼(れい)を
行(おこな)ひ。官領職(くわんれいしよく)のおん身(み)を以(もつ)て。一人(いちにん)の従者(ずさ)をも召具(めしぐ)せられず。かろ〴〵しき
御容体(ごようだい)。いぶかしさよと相(あい)のぶる。勝基(かつもと)はこの人(ひと)を。桂(かつら)之助 国知(くにとも)とは見つれ
ども。一言(いちごん)の荅(こたへ)なく。唯(たゞ)拳(こぶし)を握(にぎ)り歯(は)をかみしめて。寒気(かんき)にたへざる様(やう)
子(す)なり。桂(かつら)之助こゝろづき。某(それがし)おん館(やかた)《割書:義政公を|さしていふ》の御気色(ごきしよく)を損(そん)じ。浜名入(はまなにう)
道殿(だうどの)の御内意(ごないい)によりて。父(ちゝ)の勘気(かんき)をうけし身(み)なれば。おん詞(ことば)をたま
はらぬも理(ことはり)なり。かゝる大雪(おほゆき)をいとひ玉はず。自(みづから)此 家(いへ)にいたり玉ふを察(さつ)し
思ふに。嘉門(かもん)を軍師(ぐんし)に召抱(ましかゝへ)玉はん結構(けつこう)と存(ぞん)ずるなり。某(それがし)今日(けふ)しも此 山(さん)
中(ちう)にいたり。心(こゝろ)を尽(つく)して嘉門(かもん)に近(ちか)づき候も。別意(べつい)にあらず。曽(かつ)ておん館(やかた)
嘉門(かもん)が編(あみ)たる。武道徒然草(ぶだうつれ〴〵ぐさ)といふ書(しよ)を。御懇望(ごこんばう)ありといへども。かれ
ふかく秘(ひ)して他見(たけん)をゆるさず。若(もし)厳命(げんめい)を以(もつ)て召(めし)上らるゝ時は。かの書(しよ)
を焼(やき)て。身(み)をかくさんこと必定(ひつぢやう)なりとて。これまでそのおん沙汰(さた)もあら
ざりき。某(それがし)偶(ふと)此事を思ひいだし。なにとぞ嘉門(かもん)に誠心(せいしん)を見せ。かの
書(しよ)を得(え)ておん館(やかた)にたてまつり。それを微㓛(びこう)となして。父(ちゝ)の勘気(かんき)赦(しや)
免(めん)の御内意(ごないい)を願(ねがひ)奉らん為(ため)なりとかたれば。勝基(かつもと)尻目(しりめ)にかけ。その
身(み)放佚(ほういつ)無慙(むざん)にして。おん館(やかた)の御不興(ごふきやう)をかうふり。父(ちゝ)の勘気(かんき)をうけ
たる者(もの)に。かはすべき詞(ことば)なしとのたまふにぞ。桂(かつら)之助げに理(ことはり)とその身(み)の
科(とが)を後悔(こうくわひ)し。此(この)うへは嘉門(かもん)親子(おやこ)に。勝基(かつもと)どのと打(うち)あけいひて味方(みかた)に
つけ。せめての功(こう)になすべしと。心のうちに思ひつゝ。打(うち)しほれて内(うち)に入。おづ〳〵
老母(ろうぼ)の前(まへ)にひざまづく。老母(ろうぼ)見るより。かの馬鹿者(ばかもの)はいまだかへらずや。理(ことはり)
いふてなどかへさぬぞ。汝(なんぢ)は案外(あんぐわい)なる不調法(ぶちやうほふ)ものかな。さばかりいひがひなくて。此(この)
家(いへ)に足(あし)をとゞめ。嘉門(かもん)を師(し)とたのみ。兵法(へいほふ)の道(みち)すぢをわきまへんこと。いかで
かかなふべきぞ。およそ奴僕(ぬぼく)を召仕(めしつか)ふには。そのはじめによく戒(いましめ)ざれば。不奉(ぶほう)
公(こう)するものぞといひて。一ツの服紗包(ふくさつゝみ)をとりて。さんん〴〵に打擲(ちやうちやく)すといへども。桂(かつら)
之助 露(つゆ)ばかりも怒(いか)るいろなく。某(それがし)が宿願(しゆくくわん)成就(じやうじゆ)するまでは。いかなる憂目(うきめ)に
あふとも。此(この)家(や)をいづる心(こゝろ)にあらずお気(き)にかなはぬ事(こと)ありて。たとへ打殺(うちころ)
さるゝともせんすべなし。此うへのお情(なさけ)には。かの雪中(せつちう)の侍(さふらひ)に。嘉門(かもん)どのを
おん引合(ひきあは)せくだされ。事(こと)の子細(しさい)をおん聞(きゝ)玉はれかしと。簀子(すのこ)のうへに額(ひたひ)を
つけ。涙(なみだ)ながらにねがふ形勢(ありさま)。誠(まこと)に哀(あはれ)の姿(すがた)にて。思ひ入(いり)てぞ見へたりける。
かゝる折(おり)しも納戸(なんど)のへだてをさとひらきて立出(たちいづ)る骨柄(こつがら)。白糸縅(しらいとおどし)に銀(しろかね)の
鏢緘(べうとぢ)したる腹巻(はらまき)の上(うへ)に。萌黄錦(もへぎにしき)の陳羽織(ぢんばおり)を着(ちやく)し。青鈍(せいどん)の大口(おほくち)はき。
黄金作(こかねづくり)の丸鞘(まるざや)の太刀(たち)をはき。文曲(ぶんきよく)武曲(ぶきよく)の二星(にせい)を画(ゑがき)たる。軍扇(ぐんせん)を把(とり)て
立出(たちいで)たる為体(ていたらく)。志気(しき)堂々(どう〳〵)威風(いふう)凛々(りん〳〵)として。誠(まこと)に一個(いつこ)の英雄(ゑいゆう)と見えたり。
桂之(かつらの)助 仰天(きやうてん)し。何人(なにびと)ぞと顧(かへりみる)に。是(これ)乃(すなはち)別人(へつじん)にあらず。梅津(うめづ)嘉門(かもん)景春(がけはる)
なり。こは嶢々敷(げう〳〵しき)打扮(いでたち)ぞといぶかりけるに。嘉門(かもん)門外(もんぐわい)に出(いで)。勝基(かつもと)をいざ
なひいれて上坐(しやうざ)にすゑ。桂之(かつらの)助の手(て)をとりてその次(つぎ)におらしめ。老母(ろうぼ)もろ
ともはるかにくだり平伏(へいふく)して。恭(うや〳〵しく)礼(れい)をおこなひ。まづ勝基(かつもと)にむかひていひけるは。
某(それがし)がごとき不肖(ふしやう)の身(み)を。かばかり御懇望(ごこんばう)玉はる事(こと)。冥加(みやうが)にあまる仕合(しあはせ)也。
頃日(このごろ)某(それがし)が他行(たぎやう)のあとに。両度(りやうど)までおん駕(が)を枉(まげ)られ候よし。母(はゝ)の物語(ものかたり)に
うけたまはれども。勝基公(かつもとこう)とは思ひもよりはんべらず。某(それがし)いさゝか虚名(きよめい)を
しられ。これまで諸国(しよこく)の諸侯(しよこう)より。召抱(めしかゝへ)んと使者(ししや)の来往(らいわう)しげしといへども。
その大将(たいしやう)の心(こゝろ)。いづれも皆(みな)高禄(かうろく)さへあたふれば。奉公(ほうこう)するとのみ思はれて。
軍師(ぐんし)をもちゆる礼義(れいぎ)をしらず。只(たゞ)権威(けんい)を以(もつ)て招(まね)くゆゑ。返荅(へんたう)もわづら
はしく。当代(たうたい)諸侯(しよこう)おほしといへども主君(しゆくん)とたのむ人(ひと)なしと。世(よ)をせまく見く
だして居(ゐ)たりしに。驚入(おとろきいり)たる公(きみ)のおんふるまひ。官領職(くわんれいしよく)のおもきおん身(み)を
以(もつ)て。唯(たゞ)一人(いちにん)の従者(ずさ)をも具(ぐ)せられず。かゝる雪中(せつちう)の寒気(かんき)をしのび。露(つゆ)
ほども権威(けんい)のいろなく。某(それがし)一人(いちにん)をおん招(まね)きあらんとて。さばかりおん心を
くだき玉はる事(こと)。無勿体(もつたいなし)なども申すべからず。此(この)うへはおん招(まね)きにしたがひ
麾下(きか)に属(しよく)するそのしるしに。兵具(ひやうぐ)を帯(たい)しておん目(め)見え仕(つかふ)ると。敬(うやまひ)ふかく相(あひ)
のべけり。勝基(かつもと)大(おほき)に喜(よろこ)び玉ひ。我(われ)蜀(しよく)の劉備(りうび)におよばずといへども。三度(みたび)艸(そう)
盧(ろ)をかへり見るは。軍師(ぐんし)をもとむる礼(れい)なれば。いかでか苦辛(くしん)をいとふべき。
先(まづ)もつて早速(さつそく)の許容(きよよう)。よろこびにたへずとのたまへば。老母(ろうぼ)つゝしみていひ
けるは。妾(わらは)は始(はじめ)より勝基公(かつもとこう)と察(さつ)し奉れども。いく度(たび)もおん心(こゝろ)をためし見て。
短慮(たんりよ)卒忽(そこつ)の大将(たいしやう)か。又 寛仁大度(くわんじんたいと)の大将(たいしやう)か。はゞかりながら御心底(おんしんてい)をうかゞひ
しうへかねては主(しゆう)どりさせざる心なりしが。我子(わがこ)ながら一方(いつはう)の大将(たいしやう)にして不足(ふそく)なき
嘉門(かもん)を。一生(いつしやう)深山(みやま)の埋木(うもれぎ)。谷(たに)の巣守(すもり)と朽果(くちはて)させんより。母(はゝ)がすゝめて御(ご)
奉公(ほうこう)いたさせんと存(ぞんじ)つき。度(たび〳〵)心(こゝろ)にもあらぬ不礼(ぶれい)のことを申せしに。よくも
御堪忍(ごかんにん)あそばせしぞ。心のうちにはいかばかりか勿体(もつたい)なく。只(たゞ)感涙(かんるい)をおし
かくして。居(をり)候ひぬといひて。老(をい)の涙(なみだ)ぞまことなる。老母(ろうぼ)又 桂之(かつらの)助にむかひ。
さきほど途中(とちう)にておん目(め)にかゝりし時(とき)より。唯人(たゞびと)ならずと思ひしに。さき
ほど勝基公(かつもとこう)におん物語(ものがた)りを。ものかげにてうけたまはれば。果(はた)して
君(きみ)にておはしけり。いまだ一度(いちど)もおん目(め)見えいたさねば妾(わらは)をおん見知(みしり)ある
まじく。妾(わらは)も又おん顔(かほ)を見しらねども。今(いま)は何をかつゝみ候べき。君(きみ)は
元来(ぐわんらい)妾腹(しやうふく)にて。その御実母(ごじつぼ)は妾(わらは)が娘(むすめ)。嘉門(かもん)が為(ため)には姉(あね)にて。君(きみ)を産(うみ)
奉りてすぐに身(み)まかり候ひぬ。先(せん)奥方(おくがた)は賢女(けんぢよ)にておはせしゆゑ。少(すこ)しも嫉(ねたみ)のいろ
なく。奥方(おくがた)の御正腹(ごしやうふく)と御披露(ごひろう)ありしが。平人(へいにん)の身(み)にて申さば君(きみ)は妾(わらは)が為(ため)には
孫(まご)なれども。腹(はら)はすなはちかりものなれば。妾(わらは)が為(ため)にも正(まさ)しく主君(しゆくん)なるを。
かりそめにも奴僕(ぬぼく)とよび。打擲(ちやうちやく)せしは大罪(だいざい)なれども。これにはすこしく縁故(いはれ)
あり。此(この)包(つゝみ)を御覧(ごらん)くだされかしとさし出(いだ)す。桂(かつら)之助は始(はじめて)て実母(じつぼ)の母(はゝ)なる事(こと)
を知(し)りて打驚(うちおどろき)。頓(とみ)に包(つゝみ)をひらき見れば。短冊入(たんざくいれ)に一ひらの短冊(たんざく)あり。とりあげ見れば。
咲匂(さきにほ)ふ梅津(うめづ)の川(かは)の花(はな)さかりうつる鏡(かゞみ)のかけもくもらず
といふ歌(うた)をしるせり。桂(かつら)之助 眉(まゆ)をしはめて。此(この)手跡(しゆせき)は見おぼえありといへば。老(ろう)
母(ぼ)小膝(こひざ)をすゝめ。そは為家卿(ためいへきやう)の詠歌(ゑいか)にして。夫木集(ふぼくしふ)に入(いり)たる歌(うた)なるが。
そのかみ祖父君(おほちきみ)。佐々木(さゝき)盛貞公(もりさだこう)御在京(ごさいきやう)の折(おり)から。妾(わらは)が夫(おつと)梅津(うめづ)兵衛(ひやうゑ)
北野(きたの)の社人(しやにん)にてありし時(とき)。御連歌(ごれんが)のついでに。おん筆(ふで)をそめてたまはり
し短冊(たんざく)なり。その短冊(たんざく)の箱(はこ)を以(もつ)て打擲(ちやうちやく)仕(つかま)りしは。すなはち祖父君(おほぢぎみ)の
おん拳(こぶし)をくだされ。君(きみ)がこれまでの御不行跡(ごふぎやうせき)を戒(いましめ)玉ふ同然(とうぜん)也。しかる
に君(きみ)おん怒(いかり)のけはひも見え玉はず。妾(わらは)が打擲(ちやうちやく)をたへしのび玉ふ為体(ていたらく)。
深(ふか)く先非(せんひ)を悔(くい)玉ひ。武道(ぶどう)つれ〳〵草(ぐさ)を得(え)て。御勘気(ごかんき)おんわびの
種(たね)となし玉はん。御心底(ごしんてい)あらはれておんいとをしく。胸(むね)さくるばかり悲(かなし)き
を見せ申すまじと。涙(なみだ)をかくせし老(おい)が心を。御推量(ごすいりやう)くだされかし。子(こ)よりも
孫(まご)のかはゆきは。世(よ)の人の心ぞかし。平人(へいにん)のおん身(み)ならば。祖母(ばゝ)よ孫(まご)よと名告(なのり)あひ。
娘(むすめ)がかたみといつくしみ。片時(かたとき)も傍(かたはら)をはなすまじきに。君臣(くんしん)とへだゝれば。
いひたきことのかづなきも。心に思ふのみぞかしといひて。悲歎(ひたん)に袖(そで)をひたし
けり。良(やゝ)ありて涙(なみだ)をぬぐひ。いかに嘉門(かもん)此うへはかの秘書(ひしよ)を惜(おし)ます君(きみ)に
たてまつれといふにぞ。嘉門(かもん)こゝろえ候とて。かの書(しよ)を取出(とりいだ)して桂(かつら)之助に
与(あた)へけり。老母(ろうぼ)又 勝基(かつもと)にむかひ。御覧(ごらん)のごとく桂(かつら)之助どの。今(いま)はむかしの志(こゝろざし)を
あらため玉ふなれば。おん館(やかた)の御前(こぜん)しかるべう。とりなしひとへに願(ねがい)奉る
といへば。桂(かつら)之助は秘書(ひしよ)を勝基(かつもと)に渡(わた)し。稽首(けいしゆ)俯伏(ふふく)してともにこれを
願(ねがひ)けり勝基(かつもと)打聞(うちきゝ)玉ひかねておん館(やかた)御懇望(ごこんまう)の此 秘書(ひしよ)を奉るは
国知(くにとも)どのゝ大㓛(たいこう)なれば。御前(こぜん)をよきにとりなして。やがて帰国(きこく)をとり
持(もつ)べしとのたまへば。三人ひとしく喜(よろこ)ぶこと恨(かき)りなし。扨(さて)嘉門(かもん)勝基(かつもと)に
むかひ。先年(せんねん)彗星(けいせい)あらはれたる刻(きざみ)。星(ほし)のいろ蒼(あをき)に黄(き)をおびたるを見て。牝鷄(ひんけい)晨(あさなき)し
て婦女権(ふぢよけん)を奪(うばひ)。大乱(たいらん)の起(おこ)るべききざしと考(かんかへ)たる事(こと)を語(かたり)ければ。勝基(かつもと)掌(て)
を打(うち)てその先見(せんけん)を感(かん)じ。義政公(よしまさこう)の北(きた)の台(たい)香樹院殿(かうじゆいんどの)は。若君(わかきみ)を浜(はま)
名(な)入道(にうだう)に相托(あいたく)して世(よ)にたてんとし。今出川殿(いまでかはどの)は勝基(かつもと)を執権(しつけん)として。武将(ぶしやう)
たらんことをはかられ。天下(てんか)二ツにわかれて。已(すで)に大乱(たいらん)の起(おこる)べき時節(じせつ)なる
事(こと)をものがたりければ。嘉門(かもん)又 先年(せんねん)浜名(はまな)が招(まね)きに応(おう)せずして。岩坂(いわさか)
猪之八(いのはち)等(ら)数人(すにん)を打(うち)とり。たゞちに此(この)山(やま)にあとをかくしたる事(こと)をかたりて。互(たがい)に
権(しばらく)兵学(へいがく)の事(こと)を論(ろん)じ。嘉門(かもん)当山(とうざん)に住(すみ)常(つね)に千早(ちはや)の城路(しろあと)を見て。楠氏(なんし)の
奥妙(おくみやう)を感(かんず)る事(こと)などを物語(ものがたり)けるが。嘉門(かもん)かさねていひけるは。さりながら
官領職(くわんれいしよく)のおん身(み)にて。此 山中(さんちう)に唯(たゞ)ひとり往来(わうらい)し玉ひ。若(もし)浜名方(はまながた)の者(もの)
ども聞知(きゝし)り。多勢(たせい)を以(もつ)てとりかこまば。いかゞし玉ふやらん。君子(くんし)は危(あやう)きに
ちかづかずといへり。軍慮(ぐんちよ)のほどうけたまはり度(たく)候と。詰問(なじりとへ)ば勝基(かつもと)莞(くわん)
爾(じ)と打笑(うちわらひ)さる時(とき)の備(そなへ)こゝにありといひつゝ懐(ふところ)を探(さぐ)り。号笛(あいづのふへ)をとり出(いだ)して
吹立(ふ▢たて)玉へば。忽(たちまち)鎧腹巻(よろひはらまき)に擘手(こて)臑楯(すねあて)をきびしくかためて。蓑笠(みのかさ)をうち
着(き)たる荒武者(あらむしや)ども。こゝの木蔭(こかげ)かしこの岩(いは)かげよりあらはれ出(いで)で。数(す)十人
馳集(はせあつま)り。枚(ばい)をふくませたる馬(うま)を引出(ひきいだ)して。御帰館(こきくわん)とよばゝれば。嘉門(かもん)おどり
あがりて感嘆(かんたん)し。これいにしへ韓信(かんしん)がもちひたる。虚無(きよむ)の謀計(はかりこと)伏兵(ふくへい)なら
ずして其(その)理(り)すみやかなりと称美(しやうび)の折(おり)しも。以前(いぜん)の手負熊(ておひぐま)。いかりくるひ
て此 処(ところ)へ走(はし)り来(きた)るを。荒武者(あらむしや)どもかけへだて。手槍(てぼこ)をとりて已(すで)につき殺(ころ)
さんとしつるを。勝基(かつもと)見玉ひ。やれまてしばしと声(こゑ)かけてとゞめ玉ひ。夫(それ)六韜(りくとう)
を考(かんがふ)るに。文王(ぶんわう)太公望(たいこうはう)を得(え)たる時(とき)。卜(ぼく)して非熊(くまにあらす)といへり。我(われ)今(いま)已(すで)に当世(とうせい)
の呂尚(りよしやう)を得(え)て。いかにぞ熊(くま)を欲(ほつ)せんや。無益(むやく)の殺生(せつしやう)好(この)むべからずとく〳〵
放(はなち)やれとおふせければ。荒武者(あらむしや)ども呀(あつ)とこたへて放(はな)ちけり。勝基(かつもと)桂(かつら)之
助にむかひ。和殿(わどの)は今(いま)しばし世(よ)をしのび。帰国(きこく)の時節(じせつ)をまたれよかし。老母(ろうぼ)
はしばらく此 家(いへ)にあれ。かさねてむかひの乗物(のりもの)を以(もつ)てよびとるしべ。嘉門(かもん)
は今(いま)すぐにともなひゆかん。幸(さいはひ)雪(ゆき)もふりやみぬとのたまひて。馬ひきよせ
て乗(のり)玉へば。嘉門(かもん)は馬(うま)の左(ひだ)りにしたがひ。大勢(おほぜい)の荒武者(あらむしや)ども。列(れつ)をたゞ
して前後(ぜんご)をかこみ。つもれる雪(ゆき)を踏分(ふみわけ)つゝ。麓(ふもと)を斥(さし)ていそぎゆく。
老母(ろうぼ)は嘉門(かもん)がいさましき門出(かといで)を見おくりて。すゞろに喜(よろこ)ぶといへども。桂(かつら)
之助のみすぼらしげなる姿(すがた)を見れば胸(むね)ふさがり。喜(よろこ)び悲(かなし)み打(うち)まぜて。
しばしは詞(ことば)もなかりけるが。桂(かつら)之助にむかひ。ひそかに君(きみ)にあはせまゐらする
おん方(かた)あり。いざこなたへとて。奥深(おくふか)くはなれたる一間(ひとま)のうちにいざなひけり。
これ何人(なんびと)にあはするやしらず。のち〳〵の巻(まき)を読得(よみえ)てしらん
○雍州府志(ようじうふしに)曰(いはく)。梅津(うめづ)清景(きよがけ)の塔(とう)梅津邑(うめづむら)にあり。清景(きよかげ)は藤原(ふぢわら)惟隆(これたか)
十八 世(せい)の孫(そん)也。代々(だい〳〵)院(いん)の北面(ほくめん)たり。禅法(せんほふ)に帰(き)し。剃髪(ていはつ)して是心(ぜしん)と
号(がう)す云々。案(あんず)るに一説(いつせつ)是球(ぜきう)。いづれか是(ぜ)なるをしらず。此(この)考(かふがへ)は巻(けん)之
第(たい)四 回(くわい)の下に記(しる)すべきを。誤(あやまり)てもらしぬれば。此(こゝ)に記(しる)せり。彼処(かしこ)と
てらし見るべし
夫(それ)はさておき爰(こゝ)に又。名護屋(なこや)山(さん)三郎 元春(もとはる)は。一ツには桂(かつら)之助いてふ前(まへ)。月若(つきわか)
等(ら)三人のゆくへをたづねて。その安否(あんぴ)をとひ。二ツには父(ちゝ)の仇(あた)不破(ふは)伴(ばん)左衛
門をたづねて宿意(しゆくい)をとげばやと。心(こゝろ)は二ツ身(み)は一ツちゞに心をくだきつゝ。
僕(しもへ)鹿蔵(しかぞう)を具(ぐ)して。処々(しよ〳〵)方々(はう〴〵)を尋(たづね)ありき。しはらく旅中(りよちう)に月日(つきひ)をおくり
けるが。一夜(あるよ)旅店(りよてん)のうちに不思議(ふしぎ)の夢(ゆめ)を見たり。その夢(ゆめ)いかにとなれば。
比(ころ)しも孟蘭盆(うらぼん)の時(とき)にて。父(ちゝ)の亡霊(なきたま)をまつらばやと。香華(かうげ)灯烛(とうしよく)をもとめん
為(ため)。街(ちまた)に出(いて)けるに。民家(みんか)一等(いちとう)に霊棚(たまだな)をまうけ。庭火(にはひ)をたきて。亡霊(なきたま)を迎(むかふ)る。
念仏(ねんぶつ)の声(こゑ)念珠(ずゞ)の音(をと)街(ちまた)にみち。あまたの亡者(まうじや)ともつどひ来(き)て。おのがさま〴〵
かなたこなたの家(いへ〳〵)に入(い)る為体(ていたらく)。誠(まこと)に哀(あはれ)のありさまなり。亡者(まうじや)のすかた
さま〴〵にて。額(ひたい)に波(なみ)をたゝへたる翁(おきな)もあれば。腰(こし)に弓(ゆみ)を張(はり)たる姥(うば)もあり。
若男(わかきをとこ)の幼子(いとけなきこ)の手(て)をひくもあり。若女(わかきをなご)の乳(ち)ぶさはなれぬ嬰子(みとりこ)を。懐(ふところ)に
したるもあり。雨露(うろ)にされたる骨(ほね)のみつゞき。男(をとこ)とも女(をんな)ともわかちかね
たるが。影(かげ)もひときは薄(うすく)見えて。浪々(ろう〳〵)蹌々(そう〳〵)とあゆみ来(く)るは。いく年(とし)ふりし
亡者(まうしや)にや。頬髭(ほうひけ)生(おひ)しげりていとあら〳〵しき男(をとこ)のいまた肉(にく)脱(だつ)もぜす。なま〳〵
しく見ゆるは。きのふけふの亡者(まうじや)ならん。白髪(しらか)を乱(みだ)せる姥(うば)の亡者(まうしや)。庭火(にはひ)の
かげにはらばひたるおさな子(こ)の顔(かほ)をさしのぞき見て。さめ〴〵となくは。孫(まこ)に
心の残(のこ)りつるか。鼻(はな)ひらみ口ゆがみて。いと醜男(みにくきおとこ)の亡者(まうしや)。むかひ火(び)たく女(をなご)を
つれ〳〵とかへりみて。うらしめげに立(たち)たるは。後(のち)の夫(をつと)をむかへたる恨(うらみ)とおぼし。
かくさま〴〵の亡者(まうじや)。蜂(はち)のごとくに群(むらかり)。蟻(あり)のごとくに集来(つどひく)れども。家(いへ〳〵)の
男女(なんによ)の目(め)には少(すこ)しも見へざる様子(やうす)なれば。山(さん)三郎おのれも命(いのち)おはりて。
亡者(まうじや)の数(かず)に入(いり)けるかと。一度(ひとたひ)はおどろき。蜉蝣(ふゆう)の一期(いちこ)朝露(ちやうろ)の命(いのち)。泡沫(はうまつ)
無常(むしやう)老少(ろうしやう)不定(ふじやう)の世(よ)のならひ。皆(みな)かくのごとしと。一度(ひとたび)は歎(なげ)きてたゝずみ
ける所(ところ)に。背後(うしろ)の方(かた)に。山(さん)三郎〳〵とよぶ声(こゑ)。虫(むし)のなく音(ね)に異(こと)ならず。山(さん)三
郎 身(み)をひるがへしてこれを見れば。正(まさ)しく亡父(ばうふ)三郎左衛門なれば。うち
おどろきつゝ平伏(へいふく)して礼(れい)をなし。世(よ)を去(さり)玉ふ親人(おやびと)に。又あふ事(こと)の不思議(ふしぎ)
さよといへば。三郎左衛門いひけるは。汝(なんぢ)我(わが)仇(あた)をむくはんと身(み)を苦(くる)しめ。
思ひを尽(つく)すを。苔(こけ)の下(した)にて不便(ふびん)に思ひ。これまでかたちをあらはせしぞ。
汝(なんぢ)伴(ばん)左衛門をもとめんとならば。他(た)をもとむるは無益(むやく)なり。はやく京都(きやうと)
に立越(たちこへ)。なんぢが幼年(ようねん)の時(とき)いひなづけしつる女をたづねて相(あい)まみへなば。
おのづから伴(ばん)左衛門にめぐりあふべし。此 事(こと)を告(つげ)ん為(ため)にまうで来(き)つる
ぞ。親子(おやこ)は一世(いつせ)のちぎりなれば。再(ふたゝび)まみゆる事(こと)を得(え)がたしといひすてゝ。
さらんとする袖(そで)にすがり。せめて今(いま)しばしまち玉はれかしといふかとおもへば
夢(ゆめ)さめて。旅店(りよてん)の寝所(しんじよ)に只(たゞ)独(ひとり)。惘然(ばうぜん)として居(ゐ)たりけるが。五更(ごこう)の鐘(かね)に
おどろきて。やう〳〵夢(ゆめ)なることを暁(さと)し。悲歎(ひたん)に袖(そで)をしぼりけり。かくて
山(さん)三郎 父(ちゝ)の告(つげ)にまかせ。いそぎ京都(きやうと)に立越(たちこへ)て。小幡(こばた)の里(さと)にあやしげなる
家(いへ)をもとめ。鹿蔵(しかぞう)もろとも住(すみ)けるが。ひさしく旅中(りよいう)にありて。少(しやう)〳〵の
たくはへも。皆(みな)もちひ尽(つく)し。素(もとより)もなりはひなき身(み)なれば。持合(もちあは)せたる
衣服(いふく)のたぐひも。おほかたに売尽(うりつく)して。日(ひ)〲のついへにかへなし。至極(しごく)貧(まづ)し
きくらしなれども。鹿蔵(しかぞう)忠義(ちうぎ)の心(こゝろ)ふかき者(もの)なれば。毎日(まいにち)煎(せん)じ物(もの)を
売(うり)に出(いで)て。身体(しんたい)の痩(やせ)ほそるをもいとはず。やう〳〵かそけき煙(けふり)をぞ
立(たて)ける
○案(あんず)るに煎(せん)じ物売(ものうり)。古事(ふるきこと)にや。文明(ぶんめい)の比(ころ)の職人尽(しよくにんづくし)のうちに見ゆ。
又 能(のう)狂言(きやうげん)にせんじ物売(ものうり)といふあり。薬(くすり)を煎(せん)じてになひ売(うり)する
者(もの)とぞ
十八 花柳(くわりう)の鞘当(さやあて)
其頃(そのころ)都(みやこ)五条坂(ごじやうざか)に妓楼(ぎろう)あり。原(もと)此(この)所(ところ)は。平家(へいけ)の侍大将(さむらいだいしやう)悪七兵衛(あくしちびうゑ)景清(かげきよ)
が妾(おもひもの)阿古屋(あこや)が住(すみ)し処(ところ)とぞ。そのなごりにや。あまたの阿曽比(あそび)ありて。秦楼(しんろう)の
柳絮(りうじよ)常(つね)に浪子(ろうし)の心(こゝろ)を牽(ひき)。楚館(そくわん)の蕣華(しゆんくわ)。能(よく)富翁(ふおう)の産(さん)を蕩(とらか)す。
されば賢(けん)となく愚(ぐ)となく。貴(き)となく賎(せん)となく。此(この)妖境(ようきやう)に迷来(まよひく)る者(もの)ひき
もきらず。恰(あたか)も蝦蟇(がま)の井(ゐ)におちいるがごとく。飛蛾(ひが)の灯(ともしび)に集(あつま)るに似(に)たり。
あまたの人のつどへるうちに。一(ひと)きは目(め)だちたる打扮(いでたち)の侍(さむらい)あり。春雨(はるさめ)に燕子(つばくらめ)
の飛(とび)かふさまを摺(すり)て。三本傘(さんぼんからかさ)の鹿子紋(かのこもん)つけたる小袖(こそで)を着(ちやく)し。白柄(しらつか)の大小(だいしやう)を
掴差(つかみざし)にさしこらし。洲(す)の与三(よそう)などや製(せい)しけん。手(て)をこめたる蒔絵(まきゑ)の一ツ 印篭(いんらう)
をおび。深編笠(ふかあみがさ)をまぶかにきて。絡(くり)かけずの緒(を)をつけたる。板金剛(いたこんがう)をはき
ならしつゝ。東(ひがし)をのぞみてすゝみゆく。又 西(にし)の方(かた)より。羽織(はをり)小袖(こそで)も一様(いちやう)に。村(むら)
【欄外】板金剛ハ今草履下駄ト□□□類▢リ職人尽一図アリ
だつ雲(くも)に稲妻(いなづま)の。閃々(せん〳〵)たる形(かた)をすらせたるに。釘線(はりがね)入(いれ)たる袖(そで)べりかけて。
一ツまへに着(き)なし。はつぱの鮫函(さめざや)の大小(だいしやう)を関(くわん)の木(き)におび。目(め)せき笠(がさ)の下(した)に懐(ふところ)
紙(がみ)の覆面(ふくめん)かけ。肩(かた)を首(くび)より高(たか)くさしはりて。六方(ろつはう)かゞりに手(て)を打(うち)ふり
つゝ大路(おほぢ)せましと歩(あゆ)み来(く)る侍(さむらい)あり。已(すで)に両人(りやうにん)ゆきちがひける時(とき)。三本傘(さんぽんからかさ)の
紋(もん)つけたるこなたの侍(さむらい)。あやまりてかなたの侍(さむらい)の刀(かたな)の鞘(さや)に鞘(さや)をはつしと打(うち)
あてけるが。雲(くも)に稲妻(いなづま)の侍(さむらい)。こなたの璫(こじり)をしかとにぎり。臂(たゞむき)をおしはりて
怒(いか)れる体(てい)なり。こなたはその手(て)を払(はら)ひのけてゆかんとすれば。かなたはまた猿(ゑん)
臂(ひ)を伸(のば)して引(ひき)とゞむ。たがひに口(くち)には一言(いちごん)をいはずといへども。つひに刀(かたな)を抜(ぬき)はなし
て。丁々(てう〳〵)しとゝ打(うち)あひければ。群集(くんじふ)の諸人(しよにん)これを見て。すは諠譁(けんくわ)よとさは
ぎ立(たち)。東西(とうざい)に散乱(さんらん)して。ひろき大路(おほろ)に只(たゞ)両人(りやうにん)。うけつながしつ。斬(きり)むすぶと
いへども。両人(りやうにん)の猛(たけ)き勢(いきほひ)におそれて。誰(たれ)ひとりこれをとゞむる者(もの)なかりけり。
時(とき)に此(この)曲中(くるは)第一(だいいち)の名妓(めいぎ)とよばれて。その名(な)世(よ)にかくれなき。神林(かんばやし)道順(だうじゆん)が
もとの。葛城(かつらき)といふあそび女(め)。籬(まがき)のうちより此(この)体(てい)を見て。いそがはしく裙(もすそ)かい
とりて出来(いできた)り。いとあやうげなる剣(つるぎ)の下(した)をぐゝりて。両人(りやうにん)のへだてと
なり。鴬(うぐひす)の囀出(さへづりいで)たるがごとき声(こゑ)していひけるは。おん二方(ふたかた)ともによしありげなる
おん方(かた)と見えはべるに。所(ところ)をもきらひ玉はず。刃傷(にんじやう)におよび玉ふは。おぼしめし
たがひにやあらん。いかなる宿恨(しゆくこん)のあるかはしらざれども。此(この)諠譁(けんくわ)は妾(わらは)に玉
はりて。双方(そうはう)ともにおん刀(かたな)をおさめたびなんやと。笑顔(ゑがほ)つくりてとゞめけり。
両人(りやうにん)は葛城(かつらき)が理(ことわり)ある詞(ことば)にや恥(はぢ)けん。思ふ旨(むね)やありけん。ひとしく打(うち)うなづき
つゝ。刀(かたな)を□(さや)におさめて。衣服(いふく)の塵(ちり)を打払(うちはら)ひ。雲(くも)に稲妻(いなづま)の侍(さむらい)は出口(でくち)の方(かた)
へわかれゆく。三本傘(さんぼんからかさ)の侍(さむらい)も退(しりぞ)かんとしたるを。葛城(かつらき)袖(そで)をとりてしばしと
とゞめ。かしこの編笠茶屋(あみがさちやや)にゐてゆきて。あるじの女にしばしこゝかしてよといへば。
【挿絵】
京 五条坂(こじやうざか)の
曲中(くるわ)において
鞘当諠譁(さやあてけんくわ)
の図(づ)
かつらき
所(ところ)がらとて物(もの)馴(なれ)たる女なれば。ゆる〳〵物語(ものがたり)し玉へといひて出(いで)ゆきぬ。あとにて
別(べつ)に人(ひと)もなければ。葛城(かつらき)かの侍(さむらい)にむかひ。卒爾(そつじ)なりといへども。とひ申し度(たき)事(こと)
のはんべり。妾(わらは)は葛城(かつらき)と申すあそびなるが。おん身(み)三本傘(さんぼんからかさ)の紋(もん)つけ玉ふからは。
若(もし)名古屋(なごや)山(さん)三郎どのにはあらずやといふ。かの侍(さむらい)打聞(うちきゝ)てさては聞(きゝ)およびたる
葛城(かつらき)どのなるか。おことは山(さん)三郎に何(なに)の所縁(ゆかり)ありてたづぬるや。推量(すいりやう)の
ごとく某(それがし)は山(さん)三郎なりとて編笠(あみがさ)をとれば。葛城(かつらき)顔(かほ)をつれ〳〵と打(うち)まもり
幼時(おさなきとき)わかれたれども。面(おもて)はしかと見おぼへぬ。姓名(せいめい)はおなじおん方(かた)なれども。
おん身(み)は妾(わらは)がたづぬる人(ひと)にはあらず。疎忽(そこつ)のだんはおゆるしあれ。妾(わらは)は大和(やまと)の
国(くに)佐々木(さゝき)の家臣(かしん)。名古屋(なごや)三郎左衛門どのゝ子息(しそく)山三郎どのとて。おさなき
時(とき)いひなづけの殿(との)なるゆゑ。たづねはんべるなりとて。ほいなげに見へければ。
かの侍(さむらい)眉(まゆ)をしはめ。しかのたまふおん身(み)は。和州(わしう)子守町(こもりまち)の浪人(ろうにん)。高間(たかま)久米(くめ)
右衛門どのゝ息女(そくぢよ)にて。幼名(ようみやう)を岩橋(いわはし)とはいはずやといへば。葛城(かつらき)おどろきいか
にしておん身(み)はさばかり妾(わらは)が出身(しゆつしん)をよくしり玉ふやといぶかるにぞかの侍(さむらい)掌(て)
をはたと打(うち)。誠(まこと)に不思議(ふしぎ)の出会(しゆつくわい)なり。今(いま)は何(なに)をかつゝみ候べき。某(それがし)はおん
身(み)のたづね玉ふ。佐々木(さゝき)の家臣(かしん)。名古屋(なごや)三郎左衛門 正春(まさはる)とのゝ僕(しもべ)鹿蔵(しかぞう)と
申す者(もの)なり。かねて山(さん)三郎との幼年(ようねん)の時(とき)いひなづけの女子(によし)ありしと聞(きゝ)しは。
おん身(み)にてありけるか。某(それがし)かゝる打扮(いでたち)にて。今日(けふ)しも此(この)曲中(くるは)へ来(きた)りしは。大(おほい)にいはれ
ある事(こと)なり。先年(せんねん)主君(しゆくん)三郎左衛門 殿(どの)佐々木(さゝき)のおん家(いへ)の執権(しつけん)。不破(ふは)道(だう)
犬(けん)が児子(せがれ)伴(ばん)左衛門が為(ため)に闇打(やみうち)にあひ玉ひ。その夜(よ)おん館(やかた)の騒動(そうどう)に
よりて。山(さん)三郎どの浪(ろう〳〵)の身(み)となり玉ひ。敵(かたき)伴(ばん)左衛門がゆくへを尋(たづね)ん
ため所(しよ〳〵)方(はう〴〵)をめぐり。旅路(たびぢ)に月日(つきひ)をおくり玉ひしが。近(ちか)ごろ当国(とうこく)小幡(こはた)の
里(さと)にかくれ住(すみ)玉ひ。某(それがし)もその所(ところ)に仕(つか)へ申す也。しかるに頃日(このころ)人の噂(うわさ)を聞(きけ)
ば。伴(ばん)左衛門 雲(くも)に稲妻(いなづま)の模様(もやう)つけたる衣服(いふく)を着(ちやく)して。此(この)曲中(くるは)へ往来(わうらい)
するよし。かれ敵(かたき)とねらはるゝ身(み)を以(もつ)て。人の見知(みし)りたる衣服(いふく)を着(き)て。しかも
人立(ひとだち)おほき所(ところ)を俳徊(はいくわい)するはこゝろえず。うたがふらくは仮人(にせもの)にて。山(さん)三郎どの
をつり出(いた)して。かへり打(うち)にすべき謀計(はかりこと)と思ひしゆゑ某(それかし)持伝(もちつた)へたる一腰(ひとこし)
を代(しろ)なし。主人(しゆじん)の紋付(もんつき)人(ひと)の見知(みし)りたる衣服(いふく)をこしらへて。かくたはれ男(を)
のさまに打扮(いでたち)。山(さん)三郎どのと見せて。けふしも此(この)処(ところ)へ来(きた)りけるに。折(おり)よくかの侍(さむらい)に
ゆきあひ。わざと鞘当(さやあて)して諠華(けんくわ)を仕(し)かけこゝろみつるに。かれ始終(しゝう)ものいはず。
深編笠(ふかあみかさ)にて面(おもて)はしかと見えざれども。身(み)のはたらき恰好(かつこう)果(はた)して伴(ばん)左衛
門にあらず。小指(こゆび)の無(なき)を見れば。伴(ばん)左衛門が腹心(ふくしん)の傍輩(ほうばい)犬上(いぬがみ)雁八(がんはち)といふ
者(もの)に疑(うたかひ)なしとかたれば。葛城(かつらき)は涙(なみた)をながし。山(さん)三郎どのは妾(わらは)七 才(さい)の時(とき)おや〳〵
のゆるしをうけて。いひなづけしつる夫(をつと)なれば。うき川竹(かはたけ)の身(み)となりても。片(かた)
時(とき)も忘(わす)るゝひまはなく。せめては一目(ひとめ)相(あい)見んことをねかひけれども。篭(かご)にかは
るゝ鳥(とり)の身(み)なれば。せんすべなく。むなしく月日(つきひ)をおくりけるが。そのゝち聞(きけ)ば
父(ちゝ)うへを打(うた)れ玉ひて。その身(み)もゆくへしれずなり玉ひしと聞(きゝ)しゆゑ。殊更(ことさら)
かなしく。何(なに)とぞ一度(ひとたび)めぐりあふよすがもがなと。神仏(しんふつ)に祈(いのり)て。あけくれ
只(たゞ)その事(こと)のみをねがひぬ。けふしもはからずおん身(み)にあひしは。いまだ縁(えん)の尽(つき)ざる
所(ところ)なりといひて。或(あるひ)はかなしみ或(あるひ)は喜(よろこ)び。その身(み)親(おや)の貧苦(ひんく)を見るに忍(しの)びず。
みづから此(この)曲中(くるわ)に身(み)を売(うり)たる。はじめ終(おわり)をこまかにかたり。かゝる賎身(いやしきみ)と
なりて。顔(かほ)合(あは)するもおもてぶせなれども。妾(わらは)が心(こゝろ)の実(まこと)をよく〳〵告(つげ)きこ
へて。せめて一目(ひとめ)あひ見る事(こと)をかなへて玉はれかしと。涙(なみだ)ながらにかき
くどきければ。鹿蔵(しかぞう)もその志(こゝろさし)の実(まこと)を感(かん)じて。共(とも)に袖(そで)をしぼりぬ。葛城(かつらき)
又いひけるは。かたきは伴(ばん)左衛門といふ事(こと)。聞(きく)は今(いま)がはじめなり。さきほどの侍(さむらい)
【挿絵】
山城(やましろ)の国(くに)
小幡(こはた)の里(さと)
山三郎
貧家(ひんか)の
光景(ありさま)
鹿蔵
山三郎
のごとき。深編笠(ふかあみがさ)に顔(かほ)かくし。雲(くも)に稲妻(いなづま)の衣服(いふく)着(き)たる侍(さむらい)五人。一
様(やう)に打扮(いてたち)て。頃日(このごろ)かはる〴〵此(この)曲中(くるは)に往来(わうらい)す。そのうち一人はまことの
伴(ばん)左衛門なるべしといへば。鹿蔵(しかぞう)これを聞(きゝ)。五人の者(もの)一人は伴(ばん)左衛門にて。
残(のこ)る四人は。藻屑三平(もくすのさんへい)。笹野(さゝの)蟹蔵(がいぞう)。土子(つちこ)泥助(でいすけ)。犬上(いぬがみ)雁八(がんはち)といふ者(もの)に疑(うたかひ)
なし。皆(みな)助太刀(すけだち)して三郎左衛門どのを打(うち)たる者(もの)ども也。正(まさに)是(これ)天(てん)の与(あた)へ
なりと喜(よろこ)び。壁(かべ)に耳あり垣(かき)にぬひめありといへば。此(この)所(ところ)にて長物語(ながものがたり)は
あしからん。かさねて又 相(あい)まみえ申さんといひて立上(たちあが)れば。葛城(かつらき)袖(そで)にすが
り。今(いま)いひしことくれ〴〵たのむとありければ。鹿蔵(しかぞう)うなづき。又 編笠(あみがさ)に
顔(かほ)かくして出(いで)ゆけば。葛城(かつらき)は神林(かんばやし)が家(いへ)にかへりぬ
巻之五上冊終
【裏表紙】
《割書:不破伴左衛門|名古屋山三》昔語稲妻表紙 八
昔話(むかしがたり)稲妻(いなづま)表紙(べうし)巻之五下冊
江戸 山東京伝編
十九 刀剣(たうけん)の稲妻(いなづま)
その時(とき)鹿蔵(しかぞう)は。たゞちに小幡(こはた)の里(さと)にかへりて。山(さん)三郎にその日の子細(しさい)をつ
ぶさにかたり。葛城(かつらき)が誠心(せいしん)を告(つげ)。あまりにいとをしく存(ぞん)ずればせめて一度(ひとたび)は
かの地(ち)におん越(こし)ありて。御対面(ごたいめん)あるべしとすゝめければ。山(さん)三郎いひけるは。
五条坂(ごじやうざか)に葛城(かつらき)といふ名妓(めいぎ)ありとは。かねてほのかに聞(きゝ)つるが。その者(もの)高間(たかま)粂(くめ)
右衛門の娘(むすめ)岩橋(いははし)にてあらんとは。夢(ゆめ)にだも思はざりき。かの者は親(おや〳〵)の得心(とくしん)にて。
某(それがし)といひなづけの女なりといへども。今(いま)花街(くわがい)におちくだりながれの身と
なりたる女に対面(たいめん)せんは。武士(ぶし)の名(な)をけがすに似(に)たり。かれが志(こゝろざし)は不便(ふびん)なり
といへども。対面(たいめん)はかなふべからずといへば。鹿蔵(しかぞう)いひけるは。はゞりながら
そはたがへり。葛城(かつらき)どのゝ物(もの)がたりをきけば。頃日(このごろ)雲(くも)に稲妻(いなづま)の衣裳(いしやう)を着(き)
たる侍(さふらひ)五人。かはる〴〵かの地(ち)に往来(わうらい)するよし。そのうち一人はかならず伴(ばん)左衛門
にて。外(ほか)は藻屑(もくづ)の三平(さんへい)等(ら)四人の者(もの)にうたがひなし。これはかねて御推量(ごすいりやう)の
ごとく。相公(との)をつり出(いだ)してかへり打(うち)にせん謀計(ぼうけい)にきはまれり。先(さき)だちて御
父君(ちゝぎみ)夢中(むちう)に告(つげ)玉ひしは。此事(このこと)にて候はん。殊更(ことさあら)葛城(かつらき)どのゝ誠心(せいしん)うたがふ所(ところ)
なければ。一度(ひとたび)かの地(ち)におんこしありて葛城(かつらき)どのをたのみ玉ひ。かれらが計(はかりこと)
のうらをかき。内外(ないぐわい)より相図(あひづ)をさだめ。五人 一等(いつとう)に打取(うちとり)玉はん良計(れうけい)こそ
あらまほしけれ。君父(くんふ)の讐(あた)には共(とも)に天(てん)を戴(いたゞか)ずと申せば。眼前(がんぜん)の敵(かたき)を見て
時(とき)を失(うしな)ひ玉はんこと。ゆめ〳〵あるべからず。復讐(ふくしう)の為(ため)花街(くわがい)にいたり玉ふ
こと。いかでか恥(はち)玉はんやといさめければ。山(さん)三郎げにもさりと思ひ。その夜(よ)鹿(しか)
蔵(ぞう)を具(ぐ)ししのびやかにして五条坂(こじやうざか)にいたり。神林(かんばやし)がもとをたづねて葛(かつら)
城(き)に対面(たいめん)しければ。葛城(かつらき)が㐂(よろ)びいふべうもあらず。山三郎は露(つゆ)ばかりもあだ
めきたる詞(ことは)はなく。終夜(よもすがら)只(たゞ)復讐(ふくしう)の計(はかりこと)を談(だん)じて朝(あさ)まだきにわかりれかへりぬ
これより后(のち)葛城(かつらき)がもとより。金銀 衣服(いふく)をおくりて山三郎をみつぎ心の誠(まこと)
をはこびければ。山三郎はたぐひまれなる女かなと感歎(かんたん)にたへざりけり葛(かつら)
城(き)は伴(ばん)左衛門が面(おもて)を見 知(し)らず。いづれをいづれとわかたねば。山三郎 毎夜(まいや)鹿(しか)
蔵(ぞう)をかの地(ち)につかはして。五人の者を打取べき便宜(びんぎ)をぞ待(まち)ける。鹿蔵(しかぞう)は深(ふか)き
笠(かさ)に顔(かほ)かくし袈裟衣(けさころも)を着(ちやく)し物乞(ものこひ)の道心坊(だうしんぼう)に打扮(いでたち)てしのびゆきける
とぞ。しかりといへども五人の者かはる〳〵往来(わうらい)して。五人 一同(いちどう)に来(きた)ることなく
もとよりその跡(あと)をつけゆくといへども。いつも帰路(きろ)をちがへてかへれは住所(ぢうしよ)も
さだかならず。只(たゞ)心(こゝろ)せかるゝばかりなり。それはさておきこゝにまた不破(ふは)伴(ばん)
左衛門 重勝(しげかつ)は。浪々(ろう〳〵)の身(み)といへども。密々(みつ〳〵)父(ちゝ)道犬(だうけん)かたより扶助(ふぢよ)しけれはゝ
一点(いつてん)の不足(ふそく)なく。笹野(さゝの)蟹蔵(がいぞう)。藻屑(もくづ)の三平。土子(つちこ)泥助(でいすけ)。犬上(いぬがみ)雁(がん)八 等(ら)四
人の者(もの)をかくまひおきて。父(ちゝ)が大望(たいまう)をとぐる時節(じせつ)を待(まち)。紀伊(きい)の国(くに)藤白(ふししろ)
山の奥(おく)に大なる居宅(ゐたく)を造(つく)り。野伏(のぶし)浪人(ろうにん)どもをあまた召抱(めかゝへ)て。すはといは
ば。父(ちゝ)と共(とも)に浜名(はまな)入道(にうだう)に味方(みかた)すべき結構(けつかう)専(もつはら)なり。しかりといへとも名古(なご)
屋(や)山(さん)三郎 世(よ)にあるうちは寝覚(ねざめ)安(やす)からず。元来(ぐわんらい)かれに草履打(さうりうち)の遺恨(いこん)
あればこそ。かれが親(おや)をも誤(あやま)りて打(うち)たれ。いかにもしてかれをかへり打(うち)にせば
やと思ひけれども。そのゆくへ弗(ふつ)にしれされば。せんすべなく打過(うちすぎ)けるが
頃日(このごろ)京都(きやうと)に居住(きよぢう)するよし偶(ふと)聞出(きゝいだ)して。かの四人の者(もの)をしたがへて俄(にはか)に
上京(じやうきやう)し。伏見(ふしみ)の里(さと)に寓居(ぐうきよ)して。人の見 知(し)りたる一様(いちやう)の装束(しやうぞく)して五
条坂(じやうざか)に往来(わうらい)し。山三郎をつり出してかへり打(うち)にせばやとはかりけるが
前(さき)の日(ひ)犬上(いぬがみ)雁八(がんはち)かの地(ち)にて。三本傘(さんぼんがさ)の紋(もん)つけたる侍(さふらひ)に出あひ。諠誮(けんくわ)に
事(こと)よせてこゝろみつるにまさしくかれが僕(しもべ)鹿蔵(しかぞう)と見つれば。山(さん)三郎 当国(とうこく)の
うちに居住(きよちう)し。果(はた)して我等(われら)が計(はかりこと)におちて我(われ〳〵)をつけねらふにうたがひ
なし。ついにはつりよせてかへり打(うち)にでばやと商議(しやうぎ)して。いよ〳〵曲中(くるは)に入(いり)こみける
が。彼等(かれら)元来(ぐわんらい)好色(こうしよく)の輩(ともがら)なれば。伴(ばん)左衛門は茨木(いばらき)がもとの遠山(とほやま)といふ
阿曽比(あそび)になれそめ。その余(よ)の者等(ものら)もそれ〳〵になじみを得(え)て。のちには
山(さん)三郎を打(うた)ん計(はかりこと)はわきになり。一向(ひたすら)遊興(ゆうきよう)にのみひまをついやしぬ。誠(まことに)是(これ)
愚(おろか)なるふるまひなり。扨(さて)山(さん)三郎は専(もつはら)かれらを打(うつ)べき便宜(びんぎ)をまちける
に。一日(あるひ)鹿蔵(しかぞう)かの地(ち)よりあはたゞしく帰来(かへりきた)りて。葛城(かつらき)が書(ふみ)をさし出(いだ)しければ。
山(さん)三郎いそがはしくこれを読(よむ)に。今夜(こんや)伴(ばん)左衛門 等(ら)五人の者(もの)一等(いつとう)に茨木(いばらき)が
もとに来(きた)るよし聞出(きゝいだ)しぬ。朝(あさ)は未明(みめい)にかへるよし聞(きゝ)ぬれば。堤(つゝみ)にかへりを待(まち)
うけて討取(うちとり)玉へ。かならず此時(このとき)を過(すご)し玉ふべからずとことみじかに
しるしたり。山(さん)三郎これを読(よみ)おはり。天地(てんち)を拝(はい)しおどりあがりて㐂(よろこ)び
けるが。鹿蔵(しかぞう)もいさみたち。何(なに)とぞ主君(しゆくん)の敵(かたき)なれば。助太刀(すけだち)をおんゆる
しくだされかしとねがへば。もつともなる望(のぞみ)なれども。敵(かたき)大勢(おゝぜい)なるに臆(おく)
して助太刀(すけだち)をもちひしなんど。世(よ)の人口(じんこう)にかゝらんも口(くち)をしければ汝(なんぢ)をと
もなはんことかなふべからずといへば。鹿蔵(しかぞう)涙(なみだ)をながし。しかるうへはせめて
かの所(ところ)まで御供(おんとも)をゆるし玉はれかし。おん息(いき)つきの水(みづ)にてもまゐらせ度(たく)
候といへばそは勝手次第(かつてしだい)なるべしといふにぞ。鹿蔵(しかぞう)喜(よろこ)び。食事(しよくじ)を調(ちやう)じ
てすゝめなどし。何(なに)くれと支度(したく)して時刻(じこく)のいたるをまつ。山(さん)三郎はわざ
と曲中(くるは)に通(かよ)ふたはれ男(を)の体(てい)に打扮(いでたち)。父(ちゝ)のかたみの左文字(さもじ)の刀(かたな)をお
びその夜の二 更(にこう)の頃(ころ)より五条坂(ごじやうざか)の長堤(ながつゝみ)にいたり。朧月夜(おぼろつきよ)を幸(さいはひ)に。鹿(しか)
蔵(ぞう)もろとも麦畠(むぎばたけ)のうちに身(み)をかくして。時(とき)のいたるを待(まち)にけり。此時(このとき)は
是(これ)いづれの時(とき)ぞや。寛正(くわんしやう)五年三月 下旬(げじゆん)とかや。折(おり)しも春雨(はるさめ)の晴間(はれま)にて
道(みち)あしけれども。常(つね)から往来(わうらい)しげき堤(つゝみ)なれば。しばらくも人(ひと)たえず。
おくりむかひの提灯(ちやうちん)星(ほし)のごとくにつらなり。駕篭(かご)はしらするかけ声(こゑ)は
帰雁(きがん)の音(こゑ)かとあやまたる。さて夜(よ)のふくるにしたがひて。人(ひと)のゆきゝも
漸々(しだい〳〵)にたえ。辻行灯(つぢあんどう)のともし火(び)もかすかにて。鮓(すし)めせ〳〵按摩(あんま)とらせ玉は
ずやとよばふ声(こゑ)も已(すで)にたえ。小田(をた)の蛙(かいる)の声(こゑ)のみたかくきこえて。寺(てら〴〵)
の鐘(かね)五更(ごかう)の時(とき)を告(つげ)わたり。月(つき)は山(やま)の端(は)におちかゝりければ。すは時(じ)
刻(こく)いたれりと。山(さん)三郎 目釘(めくぎ)をしめし鍔元(つばもと)をくつろげ。まくり手(で)
して。待(まち)けるに。ほどなくかの雲(くも)に稲妻(いなづま)の衣裳(いしやう)を着(き)たる侍(さふらひ)一人(ひとり)
編笠(あみがさ)の下(した)に覆面(ふくめん)して。板金剛(いたこんがう)を踏(ふみ)ならしつゝ。あゆみ来(きた)る。まちまう
けたる山(さん)三郎。堤(つゝみ)のうへに飛(とび)のぼり。めづらしや不破(ふは)伴(ばん)左衛門かくいふは
【挿絵】
名古屋山三郎
五条坂(ごしやうざか)の堤(つゝみ)麦(むぎ)
畠(はたけ)のうちにかくれて
伴(ばん)左衛門 等(ら)五人の
かへりを待(まち)父(ちゝ)の
仇(あた)をむくはん
とす
しか蔵
山三郎
名古屋(なごや)山(さん)三郎なり。父(ちゝ)のかたき覚悟(かくご)せよとよばゝりつゝ。氷(こほり)なす刀(かたな)を抜(ぬき)
はなせば。かの侍(さふらひ)高(たか〴〵)とあざみ笑(わらひ)て編笠(あみがさ)をぬぎすて。此方(このほう)よりたつねもと
むる山(さん)三郎。こゝであひしは天(てん)の与(あた)へ。かへり打(うち)なるぞ観念(くわんねん)せよといひて
抜合(ぬきあは)せ。二太刀(ふたたち)三太刀(みたち)戦(たゝかひ)けるが。山(さん)三郎かするどき太刀(たち)をうけ損(そん)じ。左(ひだ)り袈(け)
裟(さ)に斬(きり)さげられて。地上(ちしやう)に撲地(はたと)たふれたり。山(さん)三郎 鹿蔵(しかぞう)をかへりみて。
彼奴(きやつ)が面(つら)をよく見よといふにぞ。鹿蔵(しかぞう)立(たち)より髻(もとゞり)をつかみてひきおこし。
月(つき)かげにすかしみて。此者(このもの)は土子(つちこ)泥助(でいすけ)にて候といふ。山(さん)三郎うなづく間(ま)もな
く。又おなじごとくに打扮(いでたち)たる侍(さふらひ)一人(ひとり)のさばりかへりてあゆみ来(く)る。山(さん)三郎
むかふに立(たち)ふさがり。汝(なんぢ)は不破(ふは)伴(ばん)左衛門なるべし。これは山(さん)三郎 父(ちゝ)の仇(あた)を報(むくふ)也
といひつゝきりつくれば。此(この)侍(さふらひ)も笠(かさ)とりすてゝ刀(かたな)を抜(ぬき)。うけつながしつ七八
合(かう)戦(たゝかひ)けるが。泥(どろ)にすべりてよろめく所(ところ)を。山(さん)三郎 飛(とび)かゝりて胴(どう)ぎりに。陸(ばら)
離(り)ずんど斬(きり)はなし。腮(あぎと)を以(もつ)て下知(げぢ)すれば。しか蔵(ぞう)いそがはくし走(はし)りより。月(つき)
の光(ひか)りに面(おもて)を見て。此者(このもの)は犬上(いぬがみ)雁八(がんはち)にて候といふ。ほどなくおなじ打扮(いでたち)の
侍(さふらひ)一人(ひとり)すゝみ来(きた)る。山(さん)三郎ちか〴〵と立(たち)むかひ。いかに伴(ばん)左衛門これは山(さん)三郎
なるぞ。父(ちゝ)を打(うた)れし恨(うらみ)の刃(やいば)。思ひしれといひつゝ斬(きり)つくれば。編笠(あみがさ)を
かなぐりすて。刀(かたな)を抜(ぬき)てきりむすび。丁々(ちやう〳〵)しとゝたゝかひけるが。運(うん)の尽(つき)
にや堤(つゝみ)の端(はし)に足(あし)をふみながし。うつ伏(ぶし)にたふるゝ所(ところ)を。山(さん)三郎 一声(いつせい)さけび
て斬(きり)けるが。たちまち首(かうべ)堤(つゝみ)の下(した)にまろびおちぬ。鹿蔵(しかぞう)つゞきてとび
くだり。かの首(くび)をとりあげ見て。此(この)首(くび)片耳(かたみゝ)なければ藻屑(もくづ)の三平(さんへい)に
疑(うたがひ)なく候といふ。山(さん)三郎その者(もの)もまた伴(ばん)左衛門にてはなかりしかと。ほい
なげにいひつゝ。刀(かたな)の血(ち)しほをぬぐひ。一息(ひといき)つくいとまもなく。又(また)来(き)かゝる
侍(さふらひ)もおなじ如(ごと)くの打扮(いでたち)なり。身材(たけだち)恰好(かつこう)此度(このたび)は正(まさ)しく伴(ばん)左衛門と思ひツ。
【挿絵】
五条坂(こじやうさか)の堤(つゝみ)に
おいて名護屋(なごや)
山(さん)三郎 復讐(ふくしう)
五人 斬(ぎり)の図(づ)
さゝのがい蔵
鹿ぞう
山三郎
もくづ三平
土子でい助
犬上がん八
前(さき)のごとくに名告(なのり)かくれば。かの侍(さふらひ)こゝろえたりといひながら。刀(かたな)の鞆(つか)に
手(て)をかくる所(ところ)を。山(さん)三郎をどりかゝりて腰車(こしぐるま)に斬(きり)けるが。直(じき)にたふれも
せず。二三十 歩(ほ)あゆみゆく。鹿蔵(しかぞう)はかの者(もの)逃去(にげゆく)とこゝろえて。あとをおいへ
てゆきけるに。かの者(もの)前(さき)にきられし者(もの)の死骸(しがい)につまづき。二ツになりて
ぞたふれける。山三郎が刀(かたな)は父(ちゝ)のかたみの左文字(さもじ)の名作(めいさく)斬人(きりて)は剣法(けんほふ)手(しゆ)
練(れん)の早業(はやわざ)。かくあるもことわりと鹿蔵(しかぞう)心(こゝろ)に感(かん)じけるが。山三郎 心(こゝろ)せき。伴
左衛門かいかに〳〵ととへば鹿蔵 屍(しかばね)をあらためみて。此者(このもの)は笹野(さゝの)蟹蔵(がいぞう)にて
候といへば。山三郎いひけるは。その者(もの)はまさしく伴(ばん)左衛門と思ひしに。それも
又かれにてはなかりしか。四人の者どもゝ伴(ばん)左衛門をたすけて。父(ちゝ)を打(うち)
たる仇人(かたき)なりといへども。本人(ほんにん)を打(うた)ざるうちは安堵(あんど)ならず。つゞきて
来(く)べきはづなるにといぶかりつゝ。やゝしばらく待(まつ)といへども。人影(ひとかげ)も見へ
されば。胸(むね)いとさはぎ。此(この)所(ところ)一方口(いつはうぐち)なれば。外(ほか)にかへるべき道(みち)もなきに。
こはこゝろえぬ事(こと)ならずや。我(われ)は出口(でぐち)までゆきて見べければ。汝(なんぢ)は
こゝにありて心(こゝろ)をつけよといひ捨(すて)て。出口(でくち)の方(かた)へはしりゆく。時(とき)に
むかふの方(かた)より。一乗(いちじやう)の駕篭(かご)をかゝげて馳来(はせきた)りけるが。駕篭(かご)かき
ども山(さん)三郎が刀(かたな)の光(ひかり)のきらめくを見て仰天(ぎやうてん)し。駕篭(かご)を地上(ちしやう)に
打捨(うちすて)て。飛(とぶ)がごとくに逃去(にげさり)ぬ。山(さん)三郎 駕篭(かご)のうちうたがはしく思ひ
つゝ。刀(かたな)のきつさきにて垂(たれ)をあげてうちを見れば。雲(くも)に稲妻(いなづま)の
衣裳(いしやう)着(き)たる侍(さふらひ)。編笠(あみがさ)をきたる侭(まゝ)にて駕篭(かご)のうちにありければ。
心(こゝろ)に喜(よろこ)び。いかに伴(ばん)左衛門 我(われ)は是(これ)山(さん)三郎なり。汝(なんぢ)を打(うち)て亡父(ばうふ)の宿(しゆく)
恨(こん)をはらさんと。これまで心(こゝろ)を尽(つく)せしかひありて。今日(こんにち)唯今(たゞいま)出会(しゆつくわい)
する事(こと)。盲亀(まうき)の浮木(ふぼく)にあひ。優曇花(うどんげ)の花(はな)咲(さく)時(とき)を得(え)たるに
異(こと)ならず。とく〳〵出(いで)て勝負(しやうぶ)を決(けつ)せよとよばゝれば。伴(ばん)左衛門 一言(いちごん)を
こたへず。何(なに)うろたへけん刀(かたな)も抜(ぬか)ず。駕篭のうちよりよろめき出(いで)
て。山(さん)三郎が胸(むな)ぐらにとりつきけるにぞ。山(さん)三郎 刀(かたな)をあげて腕(かひな)をきり
はなせば。手首(てくび)は胸(むね)に残(のこ)り。呀(あ)と一声(ひとこゑ)さけびてたふるゝ所(ところ)を。首(くび)ちうに
打落(うちおと)し。いそがはしく首(くび)をとりあぐる折(おり)しも。曲中(くるは)の方(かた)に人声(ひとごゑ)おひたゞしく
きこえければ。若(もし)首(くび)を奪(うばゝ)れてはかなふまじと。手ばやく編笠(あみがさ)に包(つゝみ)て
たづさふる間(ま)もあらせず。曲中(くるは)の者(もの)ども提灯(ちやうちん)をともしつれ。手に〴〵棒(ぼう)を
おつとりて。大勢(おゝせい)四方(しほう)をとりかこみ。狼籍者(らうぜきもの)を打(うち)たふして。はやく縄(なは)を
かけよとひしめきぬ。山(さん)三郎 声高(こゑたか)く。これは狼籍者(らうぜきもの)にあらず。大和(やまと)
の国(くに)佐々木(さゝき)判官(はんぐわん)の家臣(かしん)。名古屋(なごや)山(さん)三郎 元春(もとはる)といふ者(もの)。父(ちゝ)の仇(あた)を打(うち)
たるなり。かならずあやしむべからずといへども。曲中者(くるわのもの)どもしかいふは
【挿絵】
其二
山三郎
鹿ぞう
此場(このば)をのがれん為(ため)のいつはりならんといひて聞入(きゝいれ)ず。已(すで)に大勢(おゝぜい)棒(ぼう)
を打(うち)ふりて。敵(てき)たはんとしたる所(ところ)に。鹿蔵(しかぞう)大勢(おゝぜい)をおしわけて山(さん)三郎が
前(まへ)にちかづき。相公(との)は大事(だいじ)のおん身(み)なれば。かれ等(ら)にかまひ玉はず。とく〳〵
おんかへり候へかし。あとは某(それがし)がよきにとりはからひ候べしとて大勢(おゝぜい)にむかひ。汝(なんぢ)
等(ら)かたがはしく思ふもことわりなれば。某(それがし)人質(ひとじち)となりてこゝにとゞまるべし。
此おん方(かた)をば道(みち)をひらきてとほし申すべしといふにぞ。曲中(くるは)の者(もの)どもやう〳〵
得心(とくしん)してかこみをひらきければ。山(さん)三郎 夜(よ)のあけはてぬ間(あひだ)にと。いそぎて
小幡(こはだ)にかへりけり。扨(さて)も山(さん)三郎は年来(ねんらい)の宿志(しゆくし)をとげ。いさみすゝみて小(こ)
幡(はだ)の里(さと)にかへりけるが。此時(このとき)已(すで)に夜(よ)はあけはてぬ。さて伴(ばん)左衛門が首(くび)を父(ちゝ)
の位牌(いはい)に手向(たむけ)ばやと思ひ。汝(なんぢ)ゆゑにいく年月(としつき)又なき苦労(くろう)せしことよ
といひつゝ。編笠(あみかさ)のうちより首(くび)を取出(とりいだ)して見れば。こはいかに伴(ばん)左衛門
にはあらずして。葛城(かつらき)が首(くび)なれば。こは夢(ゆめ)か現(うつゝ)かといひて。只(たゞ)あきれたる
ばかりなり。さきには大勢(おほぜい)にとりかこまれて心(こゝろ)せはしき火急(くわきう)の時(とき)なれば。
心(こゝろ)づかざりしが。ゑりに残(のこ)りし手首(てくび)を見れば。何(なに)にかあらんにぎりそへたる
ものあり。手(て)くびをもぎはなして見れば。一通(いつつう)の書(ふみ)をにぎりてぞ居(ゐ)
たりける。いそがはしくひらき見れば。是(これ)乃(すなはち)かきおきの文(ふみ)なり。その文(ぶん)に
いはく。妾(わらは)こと此度(このたび)不思議(ふしぎ)に殿(との)にめぐりあひ。おん父(ちゝ)の仇(あた)なる伴(ばん)左衛門
等(ら)を手引(てびき)して。うたせ申さんとうけがひけるに。前(さき)の日(ひ)伴(ばん)左衛門 妾(わらは)が
もとに来(きた)りて申さるゝは。今(いま)まではしらざりしが。頃日(このごろ)偶(ふと)きけば汝(なんぢ)は和州(わしう)
子守町(こもりまち)の浪人(ろうにん)高間(たかま)粂(くめ)右衛門が娘(むすめ)幼名(ようみやう)を岩橋(いははし)といひつる者(もの)のよし。
しかとさあるや。いよ〳〵それにたがはずは。正(まさ)しく我(わが)別腹(べつふく)の妹(いもと)にて妾腹(てかけばら)
なり。その妾(てかけ)ゆゑありて懐胎(くわいたい)のうちに粂(くめ)右衛門がもとに嫁(か)し
ゆき。かの方(かた)にて汝(なんぢ)を産(うみ)つるよし。かねて父(ちゝ)道犬(だうけん)の物語(ものがたり)にてきゝぬ。其(その)
のちはたえておとづれも聞(きか)ざりしが。此(この)くるはに身(み)を売(うり)しとは夢(ゆめ)にだ
もしらざりき。此侭(このまゝ)おきては父(ちゝ)の恥(はぢ)我(わが)恥(はぢ)なれば。父(ちゝ)に此(この)事(こと)を告(つげ)て金(きん)
子(す)を調(ちやう)じ。とみにあがなひ出(いだ)しつかはすべしとてかへられ。已(すで)に昨夜(さくや)
そくばくの金子(きんす)を以(もつ)て。我身(わがみ)をあがなひ玉はりぬ。伴(ばん)左衛門の申さ
るゝ所(ところ)。いち〳〵我身(わがみ)におぼえあれば。別腹(べつふく)の兄(あに)なることうたがひなし。さて
伴(ばん)左衛門 密(ひそか)に申さるゝは。このごろ名古屋(なごや)山三郎といふ者(もの)。をり〳〵汝(なんぢ)が
もとに通(かよ)ひ来(く)るよし。かれには我(われ)深(ふか)き遺恨(いこん)あれば。汝(なんぢ)手引(てびき)して打(うた)せ
くれよとのたのみなり。これを聞(きゝ)て胸(むね)ふさがり。兄(あに)のたのみをうけがへ
ば夫(をつと)を殺(ころ)す大罪(だいざい)なり。おん身(み)につきて兄(あに)を打(うた)するも又 大罪(だいざい)なり。かたき
同士(どうし)に縁(えん)つながりしは。いかなる宿世(すくせ)の因果(いんぐわ)ぞと。我身(わがみ)一つのかなしさを
御推量(ごすいりやう)くだされかし。とても生(いき)ながらへがたき身のうへと覚悟(かくご)をきはめお□
身(み)のもとへは今宵(こよひ)伴(ばん)左衛門 等(ら)を打(うち)玉へと通(つう)じおき。伴(ばん)左衛門ど□
かの四人の者(もの)と共(とも)にかへらんと申すを。用(よう)ありとて別坐敷(べつざしき)にとゞ□
おき。家内(かない)の者(もの)には伴(ばん)左衛門どの深(ふか)く酔(ゑひ)たるよしを告(つげ)て。妾(わらは)が閨房(へや)
まで駕篭(かご)をかき入(いれ)させ。妾(わらは)伴(ばん)左衛門どのゝ姿(すがた)に打扮(いでたち)て駕篭(かご)に乗(のり)
出(いで)しは。おん身の手(て)にかゝりて死(しな)ん為(ため)ぞかし。のぞみのごとくおん手(て)にかゝり
はんべるならば。伴(ばん)左衛門を打(うち)しとおぼされて。かねての恨(うらみ)をはらし玉ひ
何(なに)とぞ兄(あに)の命(いのち)をおんたすけくだされかし。これのみ今生(こんじやう)の願(ねがひ)なり。敵(かたき)の妹(いもと)
と聞(きゝ)玉はゞさぞ後悔(こうくわい)し玉はんが。せめて来世(らいせ)の夫婦(ふうふ)とおぼされて。をり〳〵一(いつ)
遍(へん)の御回向(ごゑかう)ねがひはべるぞかし。伴(ばん)左衛門どの已(すで)に妾(わらは)が身の代(しろ)をつく
のひたれば。妾(わらは)死(し)すともあるじ道順(どうじゆん)の損(そん)とならず。おん身 手(て)にかけ
玉ふとも。原(もと)いひなづけの妻(つま)なれば。科(とが)となるべき事(こと)もなし。かきのこし
度(たき)ことおほかれども。仕損(しそん)ぜまじと胸(むね)とゞろきて筆(ふで)もたゝず。涙(なみだ)に墨(すみ)
も散(ちり)はべれば。くさ〴〵申 残(のこ)し候と。こまやかに記(しる)しつけて。おくのかたに
壁(かべ)に生(おゝ)るいつまで草(ぐさ)のいつまでもつきぬ恨(うらみ)を思ひきり(斬)てよ
といふ辞世(じせい)の歌(うた)をかきつけぬ。山(さん)三郎 読(よみ)おはりて十分(じうぶん)におどろき
しばし思案(しあん)にくれたりけるが。良(やゝ)ありて葛城(かつらき)が首(くび)をとりあげてつら〳〵
見れば。鉄漿(はぐろ)をおとして白歯(しらは)となり。みどりの髪(かみ)をきりたちて。笑(ゑめ)る
がごとき顔(かんばせ)なり。山(さん)三郎 落涙(らくるい)して思へらく。昔(むかし)袈裟御前(けさこぜん)髻(もとゞり)を
きり。夫(をつと)の身(み)にかはりて遠藤武者(ゑんどうむしや)盛遠(もりとほ)に殺(ころ)されしは。母(はゝ)と夫(をつと)の命(いのち)
をすくはん為(ため)なり。此 葛城(かつらき)は兄(あに)の命(いのち)をたすけん為(ため)に身代(みがはり)となりて
我(わが)手(て)にかゝりたる心庭(しんてい)。袈裟御前(けさごぜん)にもをさ〳〵おとるべからず。その志(こゝろざし)
は不便(ふびん)なりといへども。晋(しん)の予譲(よじやう)が衣(ころも)を刺(さし)たるためしとは事(こと)かはれば。かれ
がねがひのごとく。伴(ばん)左衛門をたすけおきては。我(わが)孝(かう)の道(みち)たちがたし。
さりながら伴(ばん)左衛門 昨夜(さくや)の事(こと)をきゝ。遠国(ゑんごく)に逃走(にげはしら)んは必定(ひつぢやう)也。畢竟(ひつきやう)
我(われ)心(こゝろ)せきたる侭(まゝ)に。名告(なのり)かけて返答(へんとう)をまたず。打(うち)あやまりしは一生(いつしやう)の疎(そ)
忽(こつ)なり。父(ちゝ)の仇(あた)をむくふべき者(もの)の所為(しよゐ)にあらず。世(よ)の人(ひと)にわらはれん
ことのくちをしさよ。父(ちゝ)の霊魂(れいこん)夢中(むちう)に告(つげ)玉ひし時(とき)。いひなづけの女は
かたきの妹(いもと)といふことを告(つげ)くださるべき理(ことはり)なるに。左(さ)もなかりしはよく〳〵まぬ
かれがたき悪縁(あくえん)ならん。先年(せんねん)生駒山(いこまやま)の麓(ふもと)にて奥方(おくがた)をうばゝれし時(とき)。死(しな)ねばなら
ぬ一命(いちめい)を。これまでいきながらへしも。御主人(ごしゆじん)がたのおんゆくへをたづね。父(ちゝ)の
仇(あた)をむくはん為(ため)ばかりなるに。今(いま)においておく方(がた)の御存亡(ごぞんばう)もさだかなら
ず。父(ちゝ)の仇(あた)も打得(うちえ)ざる事(こと)。不忠(ふちう)とやいはん不孝(ふかう)とやいはん。我(わが)身(み)ながら
【挿絵】
心対鏡天昭白昼
節磨玉雪苦青春
葛城(かつらき)辞世(じせい)
壁(かべ)に生(おゝ)るいつまで草(くさ)の
いつまでも
つきぬ恨(うらみ)を思ひ斬(きり)てよ
愛想(あいそう)尽(つき)ぬ。とても武運(ぶうん)に尽(つき)たる身(み)なれば。腹(はら)かきさばきて冥途(めいと)に
いたり。せめて親(おや)人に分説(いひわけ)せんと心を決(けつ)し。血刀(ちがたな)をとりなほして。ほど〳〵
腹(はら)につきたてんとしたる折(おり)しも。外(と)のかたよりやれはやまるな。しばし〳〵
と声(こゑ)かけて入来(いりきた)る人を見るに。是(これ)別人(べつにん)にあらず。則(すなはち)是(これ)梅津(うめづ)嘉門(かもん)景(かげ)
春(はる)なりあとにしたがひしは鹿蔵(しかぞう)が弟(をとゝ)猿(さる)二郎にぞありける。山三郎
あまりに思ひかけざればいぶかりつゝ。ひとまづ刀(かたな)を□(さや)におさめていで
むかへば。嘉門(かもん)上座(じやうざ)に打通(うちとほう)りていはく。猿(さる)二郎が案内(あない)にて此(この)かくれ家(が)へ
まかり越(こせ)しは別事(べつじ)にあらず。某(それがし)しばらく河内(かはち)の国(くに)金剛山(こんがうせん)に世(よ)を避(さけ)。
仕官(しぐわん)の望(のぞみ)をたつといへども。官領(くわんれい)勝基公(かつもとこう)の懇望(こんはう)もだしがたく。去冬(きよふゆ)君(くん)
臣(しん)の契約(けいやく)をなし。上京(じやうきやう)して今(いま)已(すで)に勝基公(かつもとこう)の館(やかた)にあり。軍師(ぐんし)をもちゆる
礼義(れいぎ)あつければ。いにしへの貧(まづ)しさに引(ひき)かへて。何(なに)不足(ふそく)なき身となりぬ。
夫(それ)につけてかたるべきは。先年(せんねん)某(それがし)が母(はゝ)病(やまひ)になやみし時(とき)。御親父(ごしんふ)三郎
左衛門どの薬代(やくだい)の金子(きんす)をめぐみて母(はゝ)の命(いのち)を救(すくひ)くだされし洪恩(こうおん)心(こゝろ)に
銘(めい)じ。せめて露(つゆ)ばかりもその報(むくい)せんものと思ひしかひなく。三郎左衛
門どの闇打(やみうち)にあひ玉ひ。和殿(わどの)もゆくへしれずと聞(きゝ)て。ほいなくも打過(うちすぎ)
しが。これなる猿(さる)二郎がかたるによりて。此(この)所(ところ)にかくれ住(すま)るゝよしうけ
玉はり。対面(たいめん)して某(それがし)が思ふ旨(むね)を告(つげ)ばやと忍(しのび)出立(でたち)にてまかりで来(き)つる
が。途中(とちう)にて人(ひと)のかたるをきけば。和殿(わどの)五条坂(ごじやうざか)の堤(つゝみ)にて古傍輩(こほうばい)四人の者(もの)
を打(うち)。人たがへにて葛城(かつらき)とやらんいふ阿曽比(あそび)を手(て)にかけられたるよし。
今(いま)腹(はら)きらんとせられしは。察(さつ)する所(ところ)人たがひの誤(あやま)りをはぢてのことゝ
おぼふ。若(もし)さもあらば大なる心得(こゝろえ)たがひと思ふなり。そのゆゑいかにとなれ
ば。おゝよそ君父(くんふ)の仇(あだ)をむくはんずるものいく度(たび)も恥(はぢ)を忍(しの)び。命(いのち)あらん
かぎりはたとへ千万里(せんばんり)を走(はし)りても。たづね出(いだ)して仇(あた)をむくゆるが孝道(かうだう)の
いたりなり。今(いま)自殺(じさつ)せんなどは疎忽(そこつ)のいたりならずやといへば。山(さん)三郎 其(その)
理(り)にふくし面目(めんぼく)なき体(てい)なりけり。嘉門(かもん)かさねていひけるは。桂(かつら)之助どのは
我(わが)為(ため)に主(しゆう)すぢなり。そのいはれは一席(いつせき)にかたりがたし。そのゆへにいてふの
前(まへ)どの。先年(せんねん)大和(やまと)の国(くに)岩倉谷(いはくらだに)にておん首(くび)打(うた)れ玉はんとしつるを。某(それがし)忍(しのび)
姿(すがた)に打扮(いでたち)てかしこにいたり。我(わが)家(いへ)につたはる火術(くわじゆつ)の具(ぐ)を以(もつ)て太刀取(たちどり)を打(うち)
殺(ころ)し。おく方(がた)を奪取(うばひとり)。今(いま)已(すで)に金剛山(こんがうせん)のかくれ家(が)に母(はゝ)もろとも恙(つゝが)なく
おはすなり。桂(かつら)之助どのも同居(どうきよ)し玉ふ。佐々良(さゝら)三八郎が忠義(ちうぎ)によりて月(つき)
若(わか)どのも恙(つゝが)なく。御夫婦(ごふうふ)御親子(ごしんし)再会(さいくわい)の時(とき)を得(え)玉ひぬ。くはしき
事(こと)は猿(さる)二郎よくしりたれば。后(のち)にゆる〳〵聞(きゝ)候へ。されば一分(いちぶん)の心(こゝろ)を安(やす)んじ。
只(たゞ)此うへは復讐(ふくしう)の事(こと)のみに心(こゝろ)をゆだね候へかし。某(それがし)勝基公(かつもとこう)にきこえ
あげて。伴(ばん)左衛門たとへ万里(ばんり)の外(ほか)に走(はし)るともたづね出(いだ)し。立合(たちあひ)の仇打(あだうち)を
おんゆるしあるやうにはからふべし。これ三郎左衛門どのゝ洪恩(こうおん)をせめて
和殿(わどの)にむくはん為(ため)なりといへば。山(さん)三郎大に安堵(あんど)の思ひをなして喜(よろこ)ぶ
事(こと)かぎりなし。時(とき)に猿(さる)二郎おつ〴〵嘉門(かもん)が前(まへ)にはひ出(いで)て申しけるは。さき
ほど途中(とちう)にてうけたまはれば。兄(あに)鹿蔵(しかぞう)人質(ひとじち)となりて。五条坂(ごじやうざか)に捕(とらは)
れをるよし。気(き)づかはしく候。いかゞはからひしかるべうやとうかゞへば。嘉門(かもん)その
儀(ぎ)はすこしも気(き)づかふへからずとて。懐中硯(くわいちうすゞり)を取出(とりいだ)して一通(いつつう)の証書(しやうしよ)
をかき。花押(かきはん)をすゑて猿(さる)二郎にあたへ。汝(なんぢ)此(この)一通(いつつう)をかの地(ち)の郡司(ぐんし)の
□に持(もち)ゆけよ。しかる時(とき)は復讐(ふくしう)にまぎれなきことあきらかならん
とい□に□猿(さる)二郎おしいたゞきてたゞちにかしこへいそぎゆく。嘉門(かもん)また
山(さん)三郎にむかひ。某(それがし)はからず一個(いつこ)の証人(しやうにん)を捕(とら)へて。佐々木(さゝき)の館(やかた)の䮴動(そうどう)
【挿絵】
山(さん)三郎 不破(ふは)
伴(ばん)左衛門を打(うち)て
父(ちゝ)の仇(あた)をむくふ
山三郎
伴左エ門
の根本(こんほん)は。執権(しつけん)不破(ふは)道犬(だうけん)が逆心(ぎやくしん)より出(いで)て。継母(けいぼ)蛛手(くもで)の方(かた)に悪意(あくい)を薦(すゝめ)
て。実子(じつし)花形丸(はながたまる)を家督(かとく)とし。のち〳〵は母子(ぼし)ともにうしなひて。おのれ家(いへ)を
うばひとり。浜名(はまな)入道(にうだう)に味方(みかた)せんたくみなる事(こと)あきらけし。不日(ふじつ)に某(それがし)勝基公(かつもとこう)
の名代(みやうだい)としてかの館(やかた)に立越(たちこへ)。道犬(だうけん)を糺明(きうめい)して悪意(あくい)をあらはし。ふたゝび桂(かつら)
之助どのを世(よ)に出(いだ)し申さばやと思ふなりと。心底(しんてい)のこらずかたりければ。
山(さん)三郎 三拝(さんはい)してぞ㐂(よろこ)びける。嘉門(かもん)已(すで)に立(たち)あがり。忍(しのび)の他行(たぎやう)なればひま
とりがたし。かさねてゆる〳〵まみゆべしといひつゝ。門口(かどぐち)に出(いで)てしはぶきすれば。
はるかあなたにひかへたる供(とも)まはり。忍(しのび)乗物(のりもの)をかき来(きた)る。山(さん)三郎 門(かど)おくり
して礼(れい)をおこなへば。嘉門(かもん)会釈(ゑしやく)して乗物(のりもの)に乗(のり)うつり。別(わかれ)を告(つげ)て出(いで)ゆきぬ。
かくて山(さん)三郎は嘉門(かもん)が教誨(けうゆ)によりてやう〳〵心(こゝろ)ひらけ。葛城(かつらき)が首(くび)をとり。
手水盤(てうづばち)の水(みづ)をくみとり。血(ち)しほをあらひ。なく〳〵首(くび)を仏壇(ぶつだん)にすゑて。
香(かう)をたき水(みづ)を手向(たむけ)。鉦(かね)打(うち)ならして。南無(なむ)幽霊(ゆうれい)頓証仏果(とんしやうぶつくわ)菩提(ぼだい)
南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)あみだ仏(ぶつ)と唱(となへ)て居(ゐ)たりけるに。思ひかけざる床(ゆか)の下(した)
より。明(めい)晃々(くわう〳〵)たる剣(つるぎ)のきつさき危(あやう)く膝䯊(ひざがしら)を擦(かすり)てぞ閃(ひらめ)きいでぬ。
山(さん)三郎 仡(きつ)と見て。手(て)ばやく手向(たむけ)の水(みづ)をとりて剣(つるぎ)にそゝぎ。刀(かたな)をとり
身(み)をそばめてうかゞひ居(ゐ)たるに。床(ゆか)の下(した)には仕(し)すましたりとや思ひ
けん。板敷(いたしき)をめり〳〵とおしやぶりて躍出(をどりいで)たるは何人(なにびと)ぞや。是(これ)則(すなはち)別(べつ)
人(じん)にあらず。不破(ふは)伴(ばん)左衛門 重勝(しげかつ)なり。伴(ばん)左衛門 声(こゑ)たかく。かくあらん
と思ひしゆゑ。今朝(こんちやう)いまだ闇(くら)きを幸(さいは)ひ。汝(なんち)があとをつけ来(きた)りて
床(ゆか)の下(した)にかくれ。始終(しゞう)のことをくはしく聞(きゝ)ぬ。草履打(ざうりうち)の宿恨(しゆくこん)といひ
妹(いもと)のかたきかへり打(うち)なるぞ観念(くわんねん)せよといひつゝ。斬(きり)つくれば山(さん)三郎
刀(かたな)を抜(ぬき)て丁(ちやう)とうけとめおのれと来(きた)りて灯火(とうくわ)に飛入(とびいる)夏(なつ)の虫(むし)。これ
天(てん)のたまものなりとよはゞりて十 余合(よがう)戦(たゝかひ)けるが。伴(ばん)左衛門 運命(うんめい)尽(つき)
たる時(とき)にやあらん簀(す)の子(こ)に足(あし)をふみぬきて。よろめく所(ところ)を山(さん)三郎。はや
足(あし)を飛(とば)せて合破(がば)と踢(け)たふし。乗(のり)かゝりて刀(かたな)をとりなほし。首(くび)を弗(ふつ)と
かき斬(きり)たるはこゝちよくぞ見えたりける。かゝる折(をり)しも猿(さる)二郎 廓(くるは)の
事(こと)をすまして。恙(つゝが)なく鹿蔵(しかぞう)をともなひて立(たち)かへり。此 体(てい)を見て両人(りやうにん)
ともに天(てん)を拝(はい)し地(ち)を□(はい)して。㐂(よろこ)びなきに泣(なき)けるは。げにたのもしき
ものどもなり
二十 積善(しやくぜん)の余慶(よけい)
扨(さて)も大和国(やまとのくに)佐々木(さゝき)の館(やかた)には。家督(かとく)さだめの事(こと)につき。官領(くわんれい)由理之助(ゆりのすけ)勝基(かつもと)
公(こう)の名代(みやうだい)として。梅津(うめづ)嘉門(かもん)景春(かげはる)今日(こんにち)着駕(ちやくが)のよし。さきだちて沙汰(さた)あり
ければ。判官(はんぐわん)貞国(さだくに)みづから下知(げぢ)して広坐敷(ひろざしき)を掃除(さうぢ)させ。礼服(れいふく)を着(ちやく)し
て相待(あひまち)けるに。ほとなく来駕(らいが)ときこえしかば。みづから玄関(げんくわん)に出(いで)て相(あひ)むかふ。
梅津(うめづ)嘉門(かもん)。金紋紗(きんもんしや)の道服(たうぶく)に。白精好(しろせいごう)の長袴(ながばかま)を曳(ひき)。海老鞘巻(ゑびざやまき)をおび。
中啓(ちうけい)の扇(あふぎ)を把(とり)。烕儀(いぎ)堂々(だう〳〵)として入来(いりきた)り。安内(あない)につきて広坐敷(ひろざしき)にうち
とほり。設(まふけ)の席(せき)に居(ゐ)なほりければ。判官(はんぐわん)恭(うや〳〵)しく礼(れい)をおこなひ。長路(ちやうろ)の
所(ところ)御苦労(ごくろう)のいたりに候と相(あひ)のぶれば。梅津(うめづ)景春(かげはる)一回(いつくわい)の挨拶(あいさつ)おはり。此度(このたび)
官領(くわんれい)の名代(みやうだい)として某(それがし)まかりこしたるは別儀(べつぎ)にあらず。先(さき)だちて次男(じなん)
月若丸(つきわかまる)家督(かとく)の願(ねがひ)を出(いだ)されつるが。其(その)儀(ぎ)につきおん疑(うたがひ)のすぢありて。
某(それがし)にゆきむかひ糺明(きうめい)せよとの厳命(げんめい)なり。先(まづ)内室(ないしつ)蛛手(くもで)の方(かた)。花形丸(はながたまる)。執(しつ)
権(けん)不破(ふは)道犬(だうけん)をこれへよび出(いだ)されよといふにぞ。貞国(さだくに)かしこみ候とて。かく
といひつがせければ。ほどなく蛛手(くもで)の方(かた)礼服(れいふく)をつけ。花形丸(はながたまる)もろともに
出来(いできた)り。はるかに下(さが)りて礼(れい)をなす。不破(ふは)道犬(だうけん)も礼服(れいふく)にて。椽(えん)がはに平伏(へいふく)
すれば。海津(うめづ)景春(かげはる)まづ貞国(さだくに)にいひけるは。先(さき)だちて子息(しそく)桂(かつら)之助 在京(ざいきやう)の
刻(きざみ)。放佚(はういつ)無慙(むざん)の不行跡(ふこうせき)。おん館(やかた)《割書:義政公(よしまさこう)|をさす》のおん聞(きゝ)に達(たつ)し。官領(くわんれい)浜名(はまな)入道(にうだう)
を以(もつ)て内命(ないめい)あり。已(すで)に勘当(かんどう)の身(み)となりしが。今(いま)にいたりてふかく先非(せんぴ)を
悔(くひ)。おん館(やかた)に対(たい)し奉(たてまつ)り。一㓛(いつこう)をたてたるにより勘当(かんどう)をゆるし。家(いへ)をゆづ
りておん身(み)は隠居(いんきよ)あるべしとの内命(ないめい)なり。桂(かつら)之助 勘当(かんどう)許免(きよめん)のうへ
は。いてふの前(まへ)月若(つきわか)をも共(とも)にゆるしてよびむかへ候べしと相(あひ)のぶれば。貞国(さだくに)
いまだ答(こたへ)もせざるに道犬(だうけん)いざり出(いで)。おそれおほ〱は候へども。いてふの前(まへ)月(つき)
若(わか)は現在(げんざい)母(はゝ)の蛛手(くもで)を呪咀(しゆそ)したる罪人(つみんど)に候へば。たとへ桂(かつら)之助はおんゆるし
あるとも。かの母子(ぼし)両人(りやうにん)をおんゆるしありては。御政道(ごせいだう)たちがたく候はん。殊(こと)
更(さら)かれら両人(りやうにん)ゆくへしれ申ず候といひければ。蛛手(くもて)の方(かた)いかにもさ
あり。かれら両人(りやうにん)妾(わらは)と花形丸(はながたまる)を呪咀(しゆそ)したる事(こと)は。官領職(くわんれいしよく)にはいまだ
しろしめさゞるならん。貞国(さだくに)どのくはしくきこえあげ候へと。かたほに笑(ゑみ)ていひけれ
ば。景春(かげはる)居(ゐ)たけだかになりて両人(りやうにん)をはたとにらみ。世俗(せぞく)の常言(じやうけん)に盗人(ぬすひと)猛々(たけ〴〵)
しといふは正(まさ)に汝等(なんぢら)が事(こと)ならん。道犬(だうけん)蜘手(くもで)に悪意(あくい)をすゝめ。花形丸(はながたまる)の代(よ)に
なさんと。両人(りやうにん)はかりて月若(つきわか)を呪咀(しゆそ)し。そのうへ奸計(かんけい)を以(もつ)ていてふの前(まへ)月(つき)
若(わか)を罪(つみ)におとし。貞国(さだくに)どのゝ命(めい)といつはり月若(つきわか)の首(くび)を打(うた)せんとし。いてふ前(まへ)
を岩倉谷(いはくらだに)に引出(ひきいだ)して首(くび)打(うた)んとせしこと。皆(みな)汝等(なんぢら)が仕業(しわざ)ならずや。桂(かつら)
之助 放埓(はうらつ)の根本(こんほん)も汝(なんち)児子(せかれ)伴(ばん)左衛門にいひつけてすゝめたるにうたがひ
なし。たゞし分説(いひわけ)ありやといへば。胆(きも)ふとき道犬(だうけん)少(すこ)しもひるまずそら笑(わらひ)し
当時(とうじ)官領職(くわんれいしよく)の軍師(くんし)と尊敬(そんけう)せられ玉ふ景春公(かげはるこう)のおん詞(ことば)ともおぼえ
はべらず。いてふの前(まへ)母子(ぼし)蛛手(くもで)の方を呪咀(しゆそ)したるには自筆(じひつ)の願書(ぐわんしよ)。たしか
なる証拠(しやうこ)あり。某等(それがしら)が奸計(かんけい)と申すには何等(なにら)の証拠(しやうこ)ありや。おそれ
ながらうけたまはり度(たく)候といひければ。蜘手(くもで)の方(かた)もその尾(を)につき。妾(わらは)が悪(あく)
意(い)などゝは思はぬ濡衣(ぬれぎぬ)きる事(こと)よと。つぶやきてぞ居(ゐ)たりける。時(とき)に景(かけ)
春(はる)つとたちて椽(えん)さきに出(いで)。先刻(せんこく)申しつけおきたる縄(なは)つきをとく〳〵
これへ引(ひき)いだせとよばゝりければ。庭(には)ずゑに梅津(うめづ)が従者(じゆうしや)大勢(おゝぜい)ひかへたる
背後(うしろ)より。名古屋(なごや)山(さん)三郎 礼服(れいふく)を着(ちやく)し。修験者(しゆけんじや)頼豪院(らいごういん)を高手小(たかてご)
手(て)にくゝりあげ。鹿蔵(しかそう)猿(さる)二郎 両人(りやうにん)に縄(なは)をとらせて庭上(ていしやう)にひきすへ
たり。胆(きも)ふとき蜘手(くもで)の方(かた)強悪(かうあく)の道犬(だうけん)もこれを見て仰天(ぎやうてん)し。なげ首(くび)して
ぞしほれける。景春(かげはる)のいひけるは某(それがし)ゆゑありてかの者(もの)を捕(とら)へ。悪人(あくにん)ともの奸(かん)
計(けい)をちくいちに糺明(きゆうめい)せしが。此場(このば)に於(おき)ていはさねば証拠(しやうこ)にならず。山(さん)三郎
それはからへと命(めい)じければ。山(さん)三郎 立(たち)より。刀(かたな)の璫(こじり)をもつて頼豪院(らいごういん)がいま
しめの縄(なは)を。しめあげ〳〵とく〳〵白状(はくじやう)仕(つかまつ)れといへば。頼豪院(らいこういん)面(おもて)をしはめ
蜘手(くもで)の方(かた)道犬(だうけん)がたのみによりて月若(つきわか)を呪咀(しゆそ)したるより。詐筆(にせふで)の願書(ぐわんしよ)を
以(もつ)ていてふの前(まへ)母子(ぼし)を罪(つみ)におとしたる本末(もとすへ)を。こまかに白状(はくじやう)しければ。判官(はんぐわん)貞(さだ)
国(くに)はじめてこれを聞(きゝ)。只(たゞ)あきれて居(ゐ)たりけるが。たちまち怒気(どき)天(てん)にさかのほ
り。道犬(だうけん)が髻(もとゞり)つかみてねぢたふし。我(われ)多病(たびやう)なるを以(もつ)て家事(かじ)を汝(なんぢ)にゆだね
たるに。思慮(しりよ)浅(あさ)くして汝等(なんぢら)にあざむかれたるくちをしさよ。肉醤(しゝひしほ)になす
ともあきたるべからず。たとへ我(われ)をばあざむくとも。いかでか青天(せいてん)をあざむく
べきやとて。大小(たいしやう)をとりあげ。庭上(ていしやう)に踢(け)おとしければ。山(さん)三郎 飛(とび)かゝりて
おさへつけ。高手小手(たかてこて)にぞくゝりける。蜘手(くもで)の方(かた)此(この)体(てい)を見て。積悪(せきあく)の罪(つみ)
のがれがたしとや思ひけん。懐剣(くわいけん)を抜(ぬく)よりはやくのんどぶえにつきたてゝうつ
ぶしにぞ伏(ふし)たりける。思ふに年来(ねんらい)の隠悪(いんあく)かく一時(いちじ)にあらはるゝも。総(すべて)是(これ)皇(くわう)
天(てん)の罰(ばつ)し玉ふ所(ところ)也。豈(あに)おそれざらんや。時(とき)に花形丸(はながたまる)蜘手(くもで)の方(かた)の死骸(しがい)に
【挿絵】
梅津(うめづ)嘉門(かもん)
善悪(せんあく)邪正(じやしやう)
を糺明(きうめい)して
忠臣(ちうしん)孝子(かうし)に
賞(しやう)を玉ひ
積悪(せきあく)の
徒(ともがら)に罰(ばつ)
をくわふ
月若
いてふのまへ
貞国
かつらの助
梅津嘉門
花形丸
くもでの方
いそな
かへで
山三郎
三八郎道心
道犬
頼豪院
さる二郎
しか蔵
とりつき。さばかりあしきおん志(こゝろざし)あらんとは。露(つゆ)ばかりも思ひはべらず。親(おや)の悪(あく)
意(い)を子(こ)の身(み)としていさめ申さぬ不孝(ふかう)の罪(つみ)。おんゆるしくだされかし。あさま
しきおん身(み)の果(はて)やとて。悲歎(ひたん)の涙(なみだ)にむせびけるが母(はゝ)の悪意(あくい)も畢竟(ひつきやう)は。某(それがし)を
世(よ)にたてんと思はれしより事(こと)おこれば。某(それがし)とても同罪(どうさい)なり。分説(まうしわけ)はかくのとほ
りといひつゝ。母(はゝ)が自害(じがい)の懐剣(くわいけん)をひろひとり。已(すでに)に腹(はら)につきたてんとしたるを。
梅津(うめづ)景春(かげはる)おしとゞめ。和殿(わどの)はかねて実義(じつぎ)ある事(こと)聞(きゝ)およびぬ。あたら若者(わかもの)に
武士道(ぶしだう)をすてさするはおしむべき事(こと)なれども。悪意(あくい)の母(はゝ)につながるゝ縁(ゑん)
なればせんすべなし。自殺(じさつ)をとゞまり剃髪(ていはつ)染衣(ぜんえ)に姿(すがた)をかへ。母(はゝ)の菩提(ぼだい)を
とむらはれよ。某(それがし)先祖(せんぞ)梅津(うめづ)豊前(ぶぜんの)左衛門 清景(きよかげ)より伝来(でんらい)の。大幢(たいどう)国師(こくし)の
法語(ほふご)一巻(いちくわん)あり。某(それがし)今(いま)は官領(くわんれい)につかへて軍務(ぐんむ)に管(あづか)る身(み)なれば。禅法(せんほふ)を修(しゆ)
すべきいとまなし。かの法語(ほふご)を和殿(わどの)に附与(ふよ)すべければ。今(いま)より禅学(ぜんがく)をはげみ
教外別伝(きやうげべつでん)の妙(みやう)をきはめ。直指人心(じきしじんしん)の奥(おく)をさだめて。のち〳〵は名僧(めいそう)知識(ちしき)と名(な)
をあげて。今(いま)の汚名(おめい)をすゝがれよといひければ。花形丸(はながたまる)感佩(かんはい)しやう〳〵自殺(じさつ)
をとゞまりて。髻(もとゞり)弗(ふつ)とおしきりぬ。花形丸(はながたまる)剃髪(ていはつ)して法名(ほふみやう)を胸月(けふげつ)といひ。
のち〳〵一休(いつきう)禅師(ぜんじ)の弟子(でし)となりて。ついに大悟(たいご)有徳(いうとく)の知識(ちしき)となり
西(にし)てらす月(つき)のひかりをその侭(まゝ)に因果(いんぐわ)がつひのすみかなりけり
といふ歌(うた)を詠(ゑい)じて。世(よ)に因果(いんぐわ)禅師(ぜんじ)と称(しやう)ぜられけるとかや。さて景春(かげはる)蜘手(くもで)
の方(かた)の屍(しかばね)をとりのけさせ。貞国(さだくに)にいひけるは。道犬(だうけん)が悪意(あくい)の源(みなもと)は浜名(はまな)入(にう)
道(だう)にこびへつらひ。入道(にうだう)の権威(けんい)を以(もつ)ておん身(み)を押篭(おしこめ)。一且(いつたん)花形丸(はながたまる)の世(よ)となし。
ついには父子(ふし)ともにうしなひて。おのれ家(いへ)をうばひ。浜名(はまな)入道(にうだう)に一味(いちみ)すべき
結構(けつかう)なる事(こと)あきらけし。今(いま)已(すで)に勝基公(かつもとこう)と浜名(はまな)と碓執(くわくしつ)におよび。世(よ)の中(なか)
わけめの時節(じせつ)なれば。浜名(はまな)にくみしたる道犬(だうけん)わたくしのはからひにしがたし。官領(くわんれい)
の館(やかた)にひきて。今出川相公(いまでがはどの)の命(めい)をうけて誅戮(ちうりく)をくはふべし。いかに山(さん)三
郎 先刻(せんこく)某(それがし)同伴(どうはん)して。東(ひがし)の殿(でん)にひかへさせおきつる。桂(かつら)之助 夫婦(ふうふ)を是(これ)へ
いざなひ来(きた)るべしといふにぞ。山(さん)三郎かしこみ候とて。行廊(ほそどの)のかたにゆき。
いざこなたへとよばゝれば。かねて用意(ようい)やしたりけん。佐々木(さゝき)桂(かつら)之助 国知(くにとも)。
折烏帽子(をりゑぼし)に大紋(だいもん)の直垂(ひたゝれ)を着(ちやく)し。右鞘巻(みぎざやまき)をおびていで来(きた)る。つゞきて
いてふの前(まへ)。纐纈(かうけち)の小袖(こそで)に摺箔(すりはく)の袿衣(うちき)をかけ。とめ木(き)のかほり馥郁(ふくいく)とし
て蓮歩(れんほ)をうつす。次(つぎ)に月若(つきわか)此時(このとき)に十三 歳(さい)。髪(かみ)を生立(おひたて)て総角(あげまき)にむすび。
小素襖(こずおう)に烏帽子(ゑぼし)かけて相(あひ)したがふ。はるか下(くだ)りて佐々良(さゝら)三(さん)八郎。剃髪(ていはつ)の
姿(すがた)となり。僧衣(そうい)を着(ちやく)し。妻(つま)礒菜(いそな)。娘(むすめ)楓(かへで)を具(ぐ)していて来(きた)り。かの百蟹(ひやくがい)の
巻物(まきもの)をうや〳〵しくさゝげて貞国(さだくに)に呈(てい)し。おの〳〵座(ざ)をさだめければ。梅津(うめづ)
嘉門(かもん)景春(かげはる)威儀(いぎ)をつくろひ。いかに国知(くにとも)ぬし。今(いま)志(こゝろざし)をあらためられたるに
より。家(いへ)相続(さうぞく)の儀(ぎ)を命(めい)ぜられて。御教書(みぎやうしよ)をたまはりぬ。いざうけとり候へとて
相渡(あひわた)せば。桂(かつら)之助おし頂(いたゞ)き。館(やかた)のおん慈悲(じひ)官領(くわんれい)の御仁心(ごじんしん)世(よ)にありがたく候
といひておさむれば。判官(はんぐわん)貞国(さだくに)をはじめとして皆(みな)一同(いちどう)に㐂(よろこ)ぶ事(こと)限(かぎ)りなし。
さて桂(かつら)之助 父(ちゝ)にむかひ。佐々良(さゝら)三八郎 夫婦(ふうふ)の忠義(ちうぎ)。兄弟(きやうだい)の児等(こどもら)が孝心(かうしん)を
ものがたりければ。名古屋(なごや)山(さん)三郎は。不破(ふは)伴(ばん)左衛門 等(ら)五人の者(もの)を打(うち)て父(ちゝ)の
仇(あた)をむくいたる始末(しまつ)。ならびに鹿蔵(しかぞう)猿(さる)二郎が忠義(ちうぎ)の子細(しさい)をかたりけるにぞ。
貞国(さだくに)打聞(うちきゝ)て転(うたゝ)感嘆(かんたん)に堪(たへ)ざりけり。時(とき)に梅津(うめづ)景春(かげはる)いひけるは。悪人(あくにん)亡(ほろび)忠(ちう)
臣(しん)孝子(かうし)あらはるれば。当家(とうけ)益(ます〳〵)繁昌(はんじやう)し子孫(しそん)長久(ちやうきう)うたがひなし。時刻(じこく)うつれば
某(それがし)ははやまかりかへるべしといひて立(たち)あがり。従者(じゆうしや)に命(めい)じて道犬(だうけん)ならびに
頼豪院(らいごういん)を。檻車(かんしや)に乗(のせ)てかきいださしむれば。貞国(さだくに)国知(くにとも)をはじめとして皆(みな)一(いち)
同(どう)に景春(かげはる)をおくり出(いで)て。恭(うや〳〵)しく礼(れい)をおこなふ景春(かげはる)つひにわかれを告(つげ)て
【挿絵】
五条坂(こじやうさか)神林(かんばやし)のあるじ
名古屋(なごや)山(さん)三郎が帰参(きさん)を
祝(しゆく)してあまた
の舞妓(まひひめ)を
おくる
山三郎
銀子(ぎんす)
衣服(いふく)を
つみて
神林(かんばやし)夫婦(ふうふ)
ならびに
舞人(まひて)ども
にあたふ
此一図
模擬英
一蝶所
画名古
屋山三
給巻物
之図
神林夫婦
山三郎
八重垣
乗物(のりもの)に打(うち)のり。行列(ぎやうれつ)うたせてかへりけり。さるほどに官領(くわんれい)の館(やかた)において。
再(ふたゝび)又(また)道犬(だうけん)を糺明(きうめい)あり。一味(いちみ)の輩(ともがら)を尽(こと〴〵)く捕(とら)へて頼豪院(らいごういん)と共(とも)に誅戮(ちうりく)し
玉ひ。道犬(だうけん)は殊(こと)に大罪(だいざい)の者(もの)なればおもき刑(けい)をくはへ玉ふ。さて名古屋(なごや)山(さん)三
郎。並(ならび)に佐々良(さゝら)三八郎 夫婦(ふうふ)。娘(むすめ)。鹿蔵(しかぞう)猿(さる)二郎 等(ら)までめされて。その忠義(ちうぎ)
孝行(かう〳〵)貞節(ていせつ)を御賞美(ごしやうび)あり。それ〳〵にそくばくの賞金(しやうきん)をたまはり
ければ。皆(みな〳〵)感涙(かんるい)をおとしてかへりぬ。さて判官(はんぐわん)貞国(さだくに)薙髪(ちはづ)して桂(かつら)之助に家(いへ)
をゆづり。平郡(へぐり)の別館(べつくわん)にうつり住(すみ)。名古屋(なごや)山(さん)三郎を執権(しつけん)とし父(ちゝ)三郎左
衛門が禄(ろく)に。道犬(だうけん)が禄(ろく)をくはへて与(あた)へければ。昔(むかし)に十 倍(ばい)して富(とめ)る身(み)と成(なり)。
鹿蔵(しかぞう)猿(さる)二郎に禄(ろく)をわかちとらしめて忠義(ちうぎ)を賞(しやう)じければ。両人(りやうにん)面目(めんぼく)を
施(ほどこ)して㐂(よろこ)びぬ。扨(さて)又 浮世(うきよ)又平(またへい)は。百蟹(ひやくがい)の巻物(まきもの)を一覧(いちらん)して画道(ぐわだう)の奥(おく)
妙(みやう)をきはめ。師匠(しゝやう)戸佐(とさ)正見(しやうけん)の勘気(かんき)をゆるされ。戸佐(とさ)又平(またへい)重起(しげおき)と
名告(なのり)。梅津(うめづ)嘉門(かもん)の吹挙(すいきよ)によりて義政公(よしまさこう)の絵所(ゑどころ)となり。妹(いもと)於竜(おりう)は曽(かつ)て兄(あに)に
学(まな)びて自然(しぜん)と画道(ぐわだう)の妙(みやう)をきはめたれば。世(よ)におりう絵(ゑ)と称(しやう)じてその名(な)
高(たか)くきこえぬ。佐々良(さゝら)三八郎は抜群(ばつくん)の忠臣(ちうしん)なれば。桂(かつら)之助ぢもく禄(ろく)を
あたへんとおぼされけるが。今(いま)は桑門(よすてびと)の身(み)なればとて禄(ろく)をうけざればせん
すべなく。唯(たゞ)数百金(すひやくきん)をあたへけるに。身(み)に応(おう)ぜざるたまものなりとて再(さい)
三(さん)辞(じ)しけれども。しひてたまはりければ。その金(かね)を以(もつ)て長谷部雲六(はせべのうんろく)が
妹(いもと)八重垣(やへがき)をあがなひ出(いだ)して家(いへ)に養(やしない)おきぬ。これはその誠心(せいしん)を感(かんじ)ての
事(こと)とぞ。さて山(さん)三郎は葛城(かつらき)が志(こゝろざし)をあはれみ。神林(かんばやし)がもとに金(かね)あまたおく
りて追福(つひふく)をいとなませ。一生(いつしやう)妻(つま)をめとらじとちかひけるよしを。三八郎 打(うち)
聞(きゝ)て。のちなきは不孝(ふかう)の第一(だいいち)なりとすゝめ。かの八重垣(やへがき)をおくりて妾(てかけ)と
なさしむ。ほどなく男子(なんし)をまうけ。後(のち)にこれを名古屋(なごや)小山三(こさんざ)と称(しやう)す。
此(この)小山三(こさんざ)出雲(いづも)の神子(みこ)阿国(おくに)といふ舞姫(まひひめ)を妻(つま)として。歌舞妓躍(かぶきをどり)
狂言(きやうげん)といふ事(こと)を始(はじめ)たるゆゑよしは。後編(こうへん)に詳(つまびらか)なり。発兌(はつだ)の時(とき)を
待得(まちえ)て見るべし。不破(ふは)名護屋(なごや)の文字(もんじ)に。自然(おのづから)不(ず)_レ破(やぶら)_レ名(な)護(まもる)_レ屋(いへを)と云(いふ)
訓(くん)あるも。此(この)稗史(はいし)におきていみじき吉兆(きつちやう)ならずや
昔話稲妻表紙巻之五下冊終 大尾
醒醒斎山東京伝著
江戸
一陽斎歌川豊国絵
書賈 本所松坂町 平林庄五郎蔵梓
教訓 浪華樹下翁
絵入 心のゆくゑ
初篇全二冊
《割書:夫人の欲する所は家業繁栄子孫永続富貴を|願はざるはなし譬は過て悪道へ趣く人も此書を|見れは忽善道に志し主家大切父母孝養家内|和合にして自ら家業繁栄子孫長久の世道を述》
教訓 同 著
絵入 心のゆくゑ 二編 全二冊
教訓 同 著
絵入 心のゆくゑ 三編 全三冊
弘化三丙午年
浪華書肆 大坂心斎橋南本町
河内屋平七
【裏表紙】
KOBE-00947
書名 旅行用心集
刊 1冊
所蔵者 神戸大学附属図書館社会科学系図書館
文庫名 住田文庫
請求記号 住田-5A-235
神戸大学書誌ID 2002231359
撮影 凸版印刷株式会社
令和元年11月
国文学研究資料館
【参照資料:国会図書館デジタルコレクション>日本衛生文庫>第5輯>旅行用心集 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935572/108】
●模範解答付きコレクションは、国会図書館が公開する翻刻本を参照資料として、自分で答え合わせをしながら翻刻を進めることができるコレクションです。
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旅行用心集 全
自序
夫(それ)人々 家業(かきやう)の暇(いとま)に伊勢参宮(いせさんぐう)に旅立(たびたち)する
とて其(その)用意(ようい)をなし道連(みちつれ)等 約束(やくそく)しいつ
何日(いつか)は吉日と定(さだめ)爰(ここ)彼(かしこ)より餞別物抔(せんべつものなと)到来(とうらい)
し家内(かない)も其(その)支度(したく)とり〳〵に心も浮立計(うきたつはかり)
いさきよきものはなし殊(こと)に首進(かといて)の日は親(しん)
族(ぞく)朋友(ほうゆう)の徒(ともから)其(その)所(ところ)の町はつれまて送行(おくりゆき)
酒宴(しゆえん)を催(もよう)し旅中(りよちう)の心得にもと思ふことを
面々 親切(しんせつ)に心付る類(たぐひ)は各(おの〳〵)皆(みな)実意(じつい)にて脇眼(わきめ)
【欄外横書き】文化七年庚午秋開彫
旅行用心集 全
自序
夫(それ)人々 家業(かきやう)の暇(いとま)に伊勢参宮(いせさんぐう)に旅立(たびたち)する
とて其(その)用意(ようい)をなし道連(みちつれ)等 約束(やくそく)しいつ
何日(いつか)は吉日と定(さだめ)爰(ここ)彼(かしこ)より餞別物抔(せんべつものなと)到来(とうらい)
し家内(かない)も其(その)支度(したく)とり〳〵に心も浮立計(うきたつはかり)
いさきよきものはなし殊(こと)に首進(かといて)の日は親(しん)
族(ぞく)朋友(ほうゆう)の徒(ともから)其(その)所(ところ)の町はつれまて送行(おくりゆき)
酒宴(しゆえん)を催(もよう)し旅中(りよちう)の心得にもと思ふことを
面々 親切(しんせつ)に心付る類(たぐひ)は各(おの〳〵)皆(みな)実意(じつい)にて脇眼(わきめ)
よりも羨敷(うらやましき)もの也其外 勤務(きんむ)【左ルビ「つとめ」】渡世(とせい)の事にて
年毎(としこと)に四方(しほう)の国々へ旅立するは老若(らうにやく)ともに
気(き)のはりありて是程(これほと)いさましき物はなし
東国(たうこく)の人は伊勢(いせ)より大和(やまと)京大坂四国 九州(きうしう)
迄も名所旧跡(めいしよきうせき)神社仏閣(じんしやぶつかく)を見回(みめぐ)り西国(さいこく)の
人は伊勢より江戸 鹿島(かしま)香取(かとり)日光奥州
松島(まつしま)象潟(きさかた)信州(しんしう)善光寺(ぜんかうじ)迄も拝(おが)み回(めぐ)らんことを
願ふなりされば家内 息災(そくさい)にて家業(かきやう)繁栄(はんえい)の
徒(と)主人(しゆじん)は勿論(もちろん)家来 眷属(はんぞく)に至(いたる)迄伊勢参
宮の願(ねかひ)は成就(じやうじゆ)する事のならわしは我
神国(しんこく)の有かたきことならずや抑(そも〳〵)士農工商(しのふこうしやう)
の徒(と)日々其家業を正直にして専(もつは)ら勤(つとめ)
怠(をこた)らされば一日として乏(とほし)きことなく生涯(せうがい)
安穏(あんのん)に暮(くら)し楽(たのし)む事 偏(ひとへ)に神仏(しんぶつ)の教(おしへ)を
守(まもる)の感応(かんをふ)なるべし然とも其中(そのなか)に富貴(ふうき)
の人にても生得(せうとく)病身(ひやうしん)にて心にのみやたけに
思ふとも自(みつか)ら旅行し珍敷(めつらしき)勝景(けしき)を見て
山坂(やまさか)を歩行(あゆみ)大山(たいさん)霊場(れいじやう)に登(のぼ)ることあたはず
偶(たま〳〵)駕籠(かご)にて旅行すれとも病身にては
いかなる金銀財宝(きんぎんざいほう)にあかしするとも貧者(ひんじや)
の壮健(すこやか)なる楽(たのし)みに及ふことあたわざるは
無念(むねん)ならずやしかるに富貴(ふうき)の人は更也(さらなり)
貧賤(ひんせん)にても其(その)身(み)壮健(すこやか)にして参宮旅
行すること此上なき幸(さいわ)ひなりといふべし
扨(さて)旅行する人 発足(ほつそく)の日より嗜(たしな)むべきは
譬(たとへ)家来(けらい)ある人なりとも股引(もゝひき)草鞋(わらじ)等迄も
自(みつか)ら着(ちやく)し朝夕(てふせき)の喰事等も心に叶ぬ
ことを堪忍(かんにん)して喰ふことを面々の能(よき)修行(しゆきやう)成と
知へしされば泊々(とまり〳〵)土地(とち)処(ところ)の風俗(ふうぞく)によつて
けしからぬ塩梅(あんはい)の違(ちがひ)あるものなり此□の事
を兼而(かねて)心得 居(をら)ねば大に了簡(りやうけん)違(ちが)ふものなり
或は風雨(ふうう)に逢(あふ)日もあり又は泊(とまり)の都合(つがふ)にて
早朝(さうてふ)より霧(きり)の深(ふか)きに山をこへ夜(よる)は夜具(やぐ)
の薄(うす)きを纏(まと)ひ或は道連(みちつれ)仲間(なかま)に不和(ふわ)を
生(せう)じ或は足痛(そくつう)の人ありて道(みち)に後(おく)れ又は
偏地(へんち)の寒暖(かんだん)によつて持病(じひやう)起(おこ)りて難義(なんぎ)に
及ふこともありされとも我々か内にて薬療(やくりやう)の
手当(てあて)するやうなることはならず長旅(ちやうりよ)の艱難(かんなん)千(せん)
辛(しん)万苦(ばんく)いふへからず依(よつて)_レ之(これに)旅(たび)は若輩(ちやくはひ)の能(よき)修(しゆ)
行(きやう)成(なり)といひ又 諺(ことわざ)にも可(へき)_レ愛(あひす)子(こ)には旅(たび)をさすべ
しとかや実(げ)に貴賤(きせん)共に旅行せぬ人は件(くだん)の
艱難(かんなん)をしらずして唯(たゝ)旅(たび)は楽(たのしみ)遊山(ゆさん)の為(ため)にする
様(やう)に心得 居(をる)故(ゆえ)人情(にんじやう)に疎(うとく)人(ひと)に対(たい)して気随(きずい)多く
陰(かげ)にて人に笑指(わらひゆび)さゝるゝこと多かるへし既(すて)に
大名(たいめう)公家(かうげ)の貴(たつとき)御方(おんかた)といへども譬(たとへ)強(つよき)風雨(ふうう)成共(なりとも)
河留(かわとめ)の外(ほか)は定式(じやうしき)の御泊迄御出有こと見て知べし
況(いはん)や平人(へいにん)の旅行に我侭(わかまゝ)すべけんや於_レ是世上の人
其(その) 艱難(かんなん)を凌(しのき)忍(しのん)で人情(にんじやう)に通し人の上をよく
思ひやらば人に能人(よきひと)と呼(よば)れ立身出世(りつしんしゆせ)もして
子孫繁栄(しそんはんゑい)ならんこと現然也(げんぜんなり)故(ゆえ)に可(へき)_レ愛(あひす)子(こ)には旅
をさすべしとは其(その)教(おしへ)をいふなるべしされば余
若(わか)きより旅行を好(この)んで四方(しほう)の国々へ杖(つえ)曳(ひき)し
を知る友人(ゆうじん)の春秋(はるあき)旅立する毎(ごと)に其(その)枝折(しをり)
とも成へきふしを乞(こひ)ける度々(たひ〳〵)是彼(これかれ)認(したゝ)め遣し
けるが近比(ちかごろ)は年老(としをひ)て其(その)つと〳〵に筆取(ふてとる)も物うく
又 其(その)求(もとめ)に応(をほ)ぜんもほひなく是迄(これまて)人々に認(したゝ)め
遣(つかわ)したるを集(あつめ)其上(そのうへ)に又旅の助(たす)けに成べき
くさ〳〵を思ひ出るに任(まかせ)て書つゝり小冊と
なし其(その)攻(せめ)を防(ふせか)む為(ため)に人のすゝむるに従(したが)ひ
梓(あづさ)にちりはめて旅行用心集(りよかうようじんしう)とは名(な)
つくることしかり
文化庚午六月 八隅芦庵
惣目
一 東海道(たうかいだう)勝景(せうけい)里数(りすう) 一 木曽路(きそぢ)勝景(せうけい)里数(りすう)
一 五岳(こがく)真形之図(しんきやうのづ) 一 道中(たうちう)用心(ようじん)六十一ケ条(でふ)
一 水替(みつかわり)用心之事(ようしんのこと) 一 寒国(かんこく)旅行(りよかう)心得之事(こころえのこと)
一 寒国(かんこく)旅具(りよぐ)并(ならびに)図式(つしき) 一 寒国(かんこく)ナテツキ之事(のこと)
一 山中(さんちう)狐(きつね)狸(たぬき)猪(しゝ)狼(おゝかみ)防方之事(ふせきかたのこと) 一 船中(せんちう)用心(ようじん)四ケ条(でふ)
一 船(ふね)に酔(ゑひ)たる時(とき)の方(ほう) 一 駕籠(かご)に酔(よわ)ざる方(ほう)
一 落馬(らくば)したる時(とき)の方(ほう) 一 毒虫(どくむし)を避方(さくるほう)
一 道中(たうちう)泊(とまり)にて蚤(のみ)を避方(さくるほう) 一 道中(たうちう)草臥(くたびれ)を直方(なをすほう)并(ならひ) ̄ニ妙薬(めうやく)
一 湯気(ゆけ)にあかりたる時(とき)の方(ほう) 一 道中(たうちう)所持(しよじ)すべき薬之事(くすりのこと)
一 道中(たうちう)所持(しよじ)すべき品(しな)の事(こと) 一 道中(たうちう)日記(につき)したゝめ方之事(かたのこと)
一 日(ひ)の出入之事(でいりのこと) 一 一年(いちねん)昼夜(ちうや)長短之事(ちやうたんのこと)
一 月(つき)の出入之事(でいりのこと) 一 潮(しほ)の盈虚之事(みちひのこと)
一 日和見様(ひよりみやう)并(ならひ) ̄ニ古歌(こか)諺(ことわさ) 一 旅行(りよかう)教訓之歌(きやうくんのうた)二十一首
一 旅立(たひたち)の歌(うた) 一 白沢之図(はくたくのづ)
一 大日本国(だいにつほんこく)正真(せいしん)縮図(しゆくづ) 一 諸国(しよこく)温泉(おんせん)二百九十二 ケ所(かしよ)
一 諸国(しよこく)御関所(おんせきしよ) 一 西国(さいこく)秩父(ちゝぶ)坂東(はんたう)観音(くわんおん)霊場(れいち)
一 諸国(しよこく)道中附(たうちうつけ)
○東海道○木曽路○佐屋廻り○本坂越
○秋葉鳳来寺〇名古やヨリ中仙道○宮ヨリ越前道〇加賀信州道
○伊勢参宮道○伊勢ヨリ大和廻り○伊勢ヨリ田丸越○大津ヨリ大坂道○伏見ヨリ大坂ヘ下船○大坂ヨリ紀州道
○江島鎌倉道○大山参詣道○江戸ヨリ甲州道○大坂ヨリ長崎道○同長崎ヘ船路○小倉ヨリ薩摩道
○江戸ヨリ房総道○甲州ヨリ富士山道〇江戸ヨリ日光道○水戸海道○江戸ヨリ鹿島香取銚子道
○白河ヨリ会津道○会津ヨリ越後道○米沢ヨリ庄内道○乗折ヨリ秋田道〇秋田ヨリ津軽道○外国之里数
春燕五十三駅
秋鴻七十二程
【上段】
東海道
日本橋二リ
品川二リ半
河崎二リ半
かな川一リ九丁
程谷二リ九丁
戸塚一リ三十丁
藤沢三リ半
平塚二十六丁
大磯四リ
小田原四リ八丁
箱根三リ廿八丁
三島一リ半
沼津一リ半
原 三リ六丁
吉原二リ三十丁
蒲原一リ
由井二リ十二丁
興津一リ三丁
江尻二リ廿七丁
府中判一リ半
まりこ二リ
岡部一リ廿九丁
藤枝二リ八丁
島田一リ
金合一リ廿九丁
日坂一リ廿九丁
掛川二リ十六丁
袋井一リ半
見付四リ八丁
【下段】
木曽路
京 三リ
大津三リ半六丁
草津一リ半
守山三リ半
武佐二リ半
愛知川二リ八丁
高宮一リ半
島井本一リ六丁
番馬三十丁
醒井一リ半
柏原一リ
今須一リ
関ケ原一リ半
垂井一リ十三丁
赤坂二リ八丁
み江寺一リ六丁
合渡一リ半
加納四リ八丁
鵜沼二リ
太田二リ
伏見一リ五丁
御たけ三リ
細久手一リ三十丁
大久手三リ半
大井二リ半
中津一リ五丁
落合一リ五丁
馬込二リ
妻籠一リ半
みとの二リ半
野尻一リ三十丁
原三リ九丁
上ケ松二リ半
福島一リ半
宮ノ越二リ
薮原一リ半
ならゐ一リ半
【里数は割書で表記されていますが、文字数削減のため省略しています】
【上段】
浜松二リ三十丁
舞坂海上一リ
荒井一リ廿六丁
白す加一リ半十六丁
二川一リ半
吉田二リ半四丁
御油十六丁
赤坂二リ九丁
藤川一リ半
岡崎三リ三十丁
池鯉鮒二リ三十丁
鳴海一リ半
宮 海上七リ
桑名三リ八丁
四日市二リ廿七丁
石葉師ニ十七丁
庄野二リ
亀山一リ半
関 一リ半
坂下二リ半
土山二リ半十一丁
水口三リ十二丁
石部二リ半七丁
草津三リ半六丁
大津三リ
京都
凡行程
合百廿
四里半
十五丁
【下段】
贄川二リ
本山三十丁
洗馬一リ三十丁
塩尻三リ
下諏訪五リ八丁
和田二リ
長久保一リ半
芦田一リ八丁
望月三十二丁
八はた廿七丁
塩なた一リ半
岩村田一リ七丁
小田井一リ十丁
追分一リ三丁
沓掛一リ五丁
軽井沢二リ半八丁
坂本ニリ半
松井田一リ三十丁
安中三十丁
板鼻一リ三十丁
高崎一リ十九丁
倉ケ野一リ半
新町二リ
本庄二リ廿九丁
深谷二リ二十丁
熊谷四リ八丁
鴻の巣一リ三十丁
桶川三十丁
上尾二リ八丁
大宮一リ十一丁
浦和一リ半
わらび二リ八丁
板橋二リ
江戸日本橋
凡行程
合百三
十五里
十一丁
【里数は割書で表記されていますが、文字数削減のため省略しています】
【上段】
五岳真形図
東岳泰山 北岳恒山
中岳嵩山
西岳華山 南岳衡山
【中段】
抱朴子云凡修道之士棲
隠山谷須得五岳真形図
佩之則魑魁精怪莫能近
之昔漢武元年七夕西王
母降於承華之殿進蟠桃
命仙女董双成許飛㻴等
奏雲傲度歌曲而為武帝
寿又以錦嚢書巻示之則
此図也故知五岳為万地
之尊其形天真則世人渡
江航海随身帯之可却風
濤之倹所居浄処香花供
養必降禎祥歴有奇験可
不敬哉
【下段】
五岳(ゴカク)ヲタツ
トムヿハ書ノ
舜典(シユンテン)ニ始リ
和漢(ワカン)コレヲ
尊信(ソンシン)スルヿ
ヒサシ世(ヨ)ノ人(ヒト)
山坂(ヤマサカ)河海(カカイ)ヲ
ワ夕ルニ此図(コノツ)
ヲ帯(ヲフ)レハ風
波ノ倹難(ケンナン)ナ
ク且(カツ)寿福ヲ
祈(イノル)ニ其(ソノ)奇験(シルシ)
アルヿ本文
ニテシルベキ
ナリ
旅行用心集
道中用心六十一ケ条
一 初(はじめ)て旅立(たびたち)の日は足(あし)を別而(へつして)静(しつか)に踏立(ふみたて)草鞋(わらじ)の加(か)
減(けん)等(とう)を能(よく)試(こゝろみ)其(その)二三日が間(あひだ)は所々にて度々(たひ〳〵)休(やすみ)足(あし)
の痛(いたま)ぬやうにすべし出立(しゆつたち)の当坐(とうさ)には人々心は
やりておもはず休(やすみ)もせず荒(あら)く踏立(ふみたつ)るものなり
足(あし)を痛(いたむ)れば始終(しぢう)の難義(なんぎ)になることなり兎角(とかく)
はじめは足(あし)を大切(たいせつ)にするを肝要(かんよう)とす
一 道中(たうちう)所持(しよじ)すべき物(もの)懐中物(くわいちうもの)の外(ほか)成丈(なりたけ)事(こと)少(すくな)に
すへし品数(しなかつ)多(おほ)ければ失念物等(しつねんものとう)有て却而(かへつて)煩(わつら)
はしきものなり
一 駅舎(はたこや)へ到着(たうちやく)して第(だい)一に其地(そのち)の東西南北(とうざいなんほく)の方(ほう)
角(かく)を聞定(きゝさため)次(つき)に家作(やつくり)雪隠(せつゐん)裏表(うらおもて)の口々(くち〳〵)等を見覚(みおほへ)
置(おく)事(こと)古(ふるき)教(おしへ)なり近火(きんくわ)或(あるひ)は盗賊(とうぞく)又は相宿(あひやと)に喧嘩(けんくわ)
等(とう)ある時(とき)のためなり
一 道中(たうちう)初てする輩(ともから)馬駕籠(むまかこ)人足(にんそく)の用あらば宵(よひ)の
中(うち)に亭主(ていしゅ)にあひて頼むべし相たひにては途中(とちう)
にてこまる事あり帳面(ちやうめん)ある人は着(ちやく)したる時宿
のものへ渡(わた)し頼むへし扨(さて)明朝(めうてふ)何時(なんとき)出立(しゆつたち)と宵(よひ)
より宿へ申付 其(その)刻限(こくげん)に応(おほ)じ其間(そのま)にあふ程(ほと)に
自(みつから)起(おき)若(もし)宿屋(やとや)不(おき)_レ起(ざる)時(とき)は宿(やと)を起(おこ)し膳(ぜん)の用意(ようゐ)
する迄(まて)に支度(したく)をいたし草鞋(わらじ)をはく計(はかり)に
して膳(ぜん)に向ふべしさなければ人馬(にんば)の用意も
自然(しぜん)と等閑(なをざり)になりて手間取(てまとり)都合(つかう)あしき
なり旅(たび)にては貴賎(きぜん)ともに此(この)法(ほう)を守(まも)らされば
手廻(てまは)し悪(あし)しと知(しる)へし
一 朝(あさ)はせわしき故(ゆえ)持(もち)たるもの取落(とりおとす)ものなれは宵(よひ)に
よく取しらべ用(よう)不用(ふよう)の心組(こゝろくみ)をして風呂敷(ふろしき)に包(つゝみ)
取ちらさぬよふに心懸(こゝろがく)べし足袋(たひ)は床(とこ)の中(うち)にて
はくほとに手廻しせされば朝おそく成なり
朝のおそきは一日のをくれとなる也
一 旅宿(たびやと)は定宿(じやうやと)は勿論(もちろん)其(その)道筋(みちすじ)初而(はじめて)にて不案(ふあん)
内(ない)ならば成丈(なりたけ)家作(かさく)のよき賑(にきや)かなる泊屋(とまりや)へ泊(とま)る
へし少々(せう〳〵)価(あたひ)高直(かうじき)にてもそれたけの益(ゑき)有(ある)也
一 旅行(りよかう)は兎角(とかく)暑寒(しよかん)をよく凌(しのぐ)べきなり就(なかん)_レ 中(づく)夏(なつ)
を心付へし先(それ)暑中(しよちう)は人々の脾胃(ひゐ)ゆるみて
食物(しよくもつ)を消化(せうくわ)しがたし因而(よつて)しらぬ魚(うを)鳥(とり)貝類(かいるい)
筍(たけのこ)菌(きのこ)瓜(うり)西瓜(すいくわ)餅(もち)強飯(こはめし)の類(るい)多(おほ)く喰(くら)ふべから
ず夏(なつ)は食傷(しよくしやう)より寉乱(くわくらん)等 発(はつ)し難義(なんき)に
及ふことあり春(はる)秋(あき)冬(ふゆ)は夏(なつ)に準(しゆん)じ知べし
清輔
ゆくまゝに
花の梢と
なりにけり
よそに
見くつる
峰の
しら雲
一 空腹(くうふく)なるとて道中(だうちう)にて飽食(ほうしよく)すべからず尤(もつとも)
取(とり)いそぎ喰ふへからず静(しつか)にくふべし至極(しごく)空(くう)
腹(ふく)になれば心(しん)疲(つかれ)て居(をる)故(ゆえ)飽食(ほうしよく)すれば忽(たちま)ちに
気(き)を塞(ふさき)又は急病(きうしやう)等を発(はつす)る事あり心得べし
一 空腹に酒飲へからず食後に呑べし尤 暑寒(しよかん)
ともにあたゝめてのむへし
一 道中にて焼酎(しやうちう)を漫(みだり)に飲(のむ)べからず中(あた)る人まゝ
あり上製(しやうせい)【左ルビ「よきもの」】のものあらば少々呑へし尤(もつとも)夏(なつ)のうち
霖雨(なかあめ)又は湿気(しつき)多(おほ)き土地(とち)なとにては焼酎(しやうちう)并 ̄ニ泡盛(あわもり)
酒(しゆ)等少々 飲(のめ)ば湿毒(しつどく)をはらふもの也然れ共 秋(あき)冬(ふゆ)
は呑べからす
一 空腹(くうふく)に風呂(ふろ)へ入(いる)へからず食後(しよくご)にても暫(しはら)く腹気(ふくき)
を和(くわ)して入べし去(さり)なから多勢(たせい)にて跡(あと)の差(さし)
支(つかい)になりて空腹にてもいらねばならぬ時は先(まづ)
足(あし)を度々(たび〳〵)湯(ゆ)にてぬらし其後(そのご)風呂(ふろ)に入べし
長湯(なかゆ)すべからず空腹には別而(へつして)湯(ゆ)げにあかる
ものなり心得有べし
一 相宿(あひやと)にて風呂(ふろ)へ入には宿(やと)の案内(あんない)次第(しだい)其上(そのうへ)
にて入事なれとも宿屋(やとや)取込(とりこみ)客人(きやくじん)の前後(ぜんご)を
取違(とりちかひ)等 有(ある)時(とき)はむつかし出来(でき)るものなれは
相客(あひきやく)の様子(やうす)を見受(みうけ)もし其(その)中(うち)に貴人(きにん)等あら
ば先(それ)を先(さき)へいれべし是等(これら)も前後(ぜんご)の争(あらそ)ひ
より物(もの)いひ出来(でき)るものなり旅(たび)は物事(ものごと)を扣勝(ひかいかち)
にすれば身の益(ゑき)有こと多し
一 殊(こと)の外(ほか)草臥(くたびれ)たる時(とき)至極(しごく)熱(あつき)居風呂(すへふろ)へ常(つね)よりも
久(ひさ)しく入ば草臥(くたびれ)直(なほ)る也 其(その)節(せつ)は顔(かほ)を度々(たび〳〵)洗(あら)ふ
べからず顔(かほ)を度々あらへば逆上(きやくじやう)するものなり
一 一通(ひととほり)の旅(たび)にて格別(かくべつ)に急(いそ)くことなくば夜道(よみち)決(けつ)
而(して)すべからず都而(すべて)旅(たひ)は九日路(こゝのかぢ)の所(ところ)ならば十日に
て行かんとすればいそきて夜道(よみち)等するよりも猶益
多きこと有ものなり又 河越(かわこし)等の都合あしき折は
其(その)斟酌(しんしやく)あるべし
一 道中(たうちう)は色慾(しきよく)を別而(べつして)慎(つゝし)むべし売女(はいしよ)は湿毒(しつどく)あ
り暑中(しよちう)は尤(もつとも)感(かん)【左ルビ「うつり」】じ易(やす)し怖(おそ)るべきことなり又
夜具(やく)にて湿(しつ)を受(うく)るものなれば香気(かうき)のものを
懐中(くわいちう)して其 湿邪(しつぢや)を避(さく)べし
一 夏(なつ)の道中(だうちう)は折々(をり〳〵)渇(かわき)て水を飲(のむ)とも清水(せいすい)をゑらみ
飲(のむ)べし古(ふるき)池(いけ)又は山水(やまみつ)にてもよく澄(すみ)流(なかれ)ざる
谷水(たにみつ)等 漫(みだり)湯に呑(のむ)べからず必(かなら)ず毒(どく)あるものなり尤
五苓散(ごれいさん)の類(るひ)を懐中(くわいちう)して水をのむべし
夏(なつ)の原野(のはら)に生る毒(どく)
草(そう)毒虫(どくむし)数(かず)多ければ
挙(あけ)て尽(つく)すべからず
就中 蝮(まむし)斑猫(はんめう)の大
毒なることは皆人の
知ところ也其外諸
虫の中 無毒虫(とくなきむし)にて
も折に触(ふれ)て毒ある
ものにあふ時は蛇(しや)
蠍(かつ)にもをとらぬもの
ありよつて蚋(ぶと)蚊(か)虻(あぶ)
蜂(はち)蟻(あり)蛅蟖(けむし)蜘蛛(くも)
蛭(ひる)の類(たぐ)ひに至る迄
用心すへきことなり
温熱(うんねつ)の地は暑湿(しよしつ)
別而甚しく毒草
異虫も多き故旅
人つかれて山野(さんや)に
休むとも是等の心
得あるへきことなり
毒虫(とくむし)にさゝれたる
妙薬等は末(すへ)のくす
りの所にあり
【以下図の説明】
唐斑猫(からのはんみやう)
色微黄
和斑猫(わのはんみやう)
色るり也
蜥蜴(せきてき)和名とかけ
《割書:石竜子|山竜子》同物
烏蛇(うしや)
からす
へひ
蝮(ふく)はみ又 反鼻蛇(はんひしや)
まむし
色黒黄なり種類多し
大毒あり
又は山椒(さんせう)胡椒(こせう)の類(るい)はかならず懐中(くわゐちう)すべし
山中(さんちう)の気(き)をさけ湿(しつ)をさるものなりくわしくは
末(すゑ)の薬(くすり)の条にあり
一 夏(なつ)は旅人(りよじん)疲果(つかれはて)て道路(たうろ)に休(やすみ)或は草むらに
伏(ふし)眠(ねむる)人(ひと)あれども決而(けつして)せぬ事也 夏(なつ)の野原(のはら)に
は毒虫(どくむし)多(おほ)し譬(たとひ)毒(どく)なき虫にても毒あるものに
寄(より)触(ふれ)たる後(ご)に人をさせば其(その)毒(どく)気甚敷もの
なり且(かつ)古き宮寺(みやてら)の茂(しけ)りたる林(はやし)又は山中の巌(がん)
崛(くつ)等へそこつに入或は水辺(すいへん)湿地(しつち)等 涼(すゞし)きとて
長休息(なかきうそく)すべからず件(くたん)のやうなる処には毒湿(どくしつ)
きはめて有ものなり懼(をそる)へし
一 食後(しよくご)に道(みち)を必ず急(いそき)歩行(ほかう)すべからず又 馬駕(むまか)
籠(ご)に乗(のる)とても急速(きうそく)にすべからず若(もし)ころび又は
落馬(らくば)等をしても飯(めし)の喰立(くひたて)には腹内(ふくない)和さゞる
ゆえに気(き)を塞(ふさく)ことあり心得べし
一 大小便(たいしやうべん)のつまりたるをこらへて馬駕(むまかこ)に決而(けつして)乗(のる)
べからず落馬等せば心(しん)を突(つき)頓死(とんし)する事あり
一 人馬(にんば)の先触(さきぶれ)出(いだ)すならば出立(しゆつたち)の日より二三日
已前(いぜん)に出すへし左なけれは途中(とちう)にて一緒(いつしよ)に
なりて其せんなきものなり
一 武士(ぶし)荷(に)は勿論(もちろん)商人(あきひと)荷(に)にても宿々(しゆく〳〵)問屋場(とひやば)へ着(つき)
先(まつ)宿役(しゆくやく)へ相応(そうおほ)に会釈(ゑしやく)をいたし其上にて
駄賃帳(だちんちやう)を出(いだ)し人馬の員数(ゐんづ)を申 先(それ)より
問屋へ到着(とうちやく)の荷物(にもつ)の順(じゆん)を見定(みさため)しとやかに
申(もうし)談(だんず)へし又問屋場は混雑(こんざつ)の場所(ばしよ)故(ゆえ)紛失物(ふんしつもの)
又は他人(たにん)へ対(たひ)しそこつなきやうに見計(みはからふ)べし
一 武士は勿論 平人(へいにん)にても大切(たいせつ)なる主用(しゆよう)にて
旅行(りよかう)する人(ひと)道中(たうちう)にて馬方(むまかた)人足(にんそく)等 不束(ふつゝか)なる
ことありとも用捨(ようしや)有(ある)べきこと也 尤(もつとも)勤務(きんむ)にかゝわる
筋(すじ)ならば格別(かくへつ)其余(そのよ)の事ならは堪忍(かんにん)専(せん)一と
心得べし道中(たうちう)にて手間取(てまとり)ては主用(しゆよう)を以(もつ)て
旅行するせんなしとしるべし
一 途中(とちう)にて馬(むま)人足(にんそく)共に荷替(にかい)といふことをする也
是(これ)は旅人(りよじん)の方(かた)にては無益(むやく)に手間取(てまとる)事(こと)故(ゆえ)甚(はなは)た
迷惑(めいわく)なるものなれども旅人 了簡(りやうけん)してやらねば
ならぬものなり先故(それゆえ)馬子(むまかた)急(いそき)て荷物(にもつ)を附替(つけかへる)
折(おり)えて小附(こづけ)等 取落(とりおとす)事(こと)まゝあり此折は貫(くわん)ざし
銭(ぜに)小附(こづけ)の数(かづ)を改(あらた)め自身(じしん)心付手伝ふべし
一 明荷(あけに)葛籠(つゝら)の中(なか)へ衣類(いるひ)紙包(かみつゝみ)等 入(いる)るならば油(あぶら)
紙(かみ)にて二重(ふたへ)に包(つゝみ)うちへしめりのいらぬやうに荷(に)
造(つくる)べし河越(かわこし)の節(せつ)明荷(あけに)の合口(あひくち)より水(みつ)入(いる)も
のなり明荷に限(かぎら)す両掛(りやうかけ)等も水のいらぬやうに
用心すべし惣而(そうして)川越(かわこし)の場所(ばしよ)にては濡物(ぬれもの)紛失(ふんしつ)
物(もの)心付べきなり附たり明荷両懸は江戸にては
伝通院前駿河屋にて製(せい)する所尤宜敷也
一 旅先(たびさき)にてしらぬ川かちこし決而(けつして)すへからず
又 出水(しゆつすい)にて橋(はし)を流(なが)しかちこし船渡(ふなわだ)し等に
成事ありか様の場所は宿役(しゆくやく)へ懸合(かけあふ)べし
自分(じふん)相対(あひたい)にすべからす諸事(しよじ)宿役へ懸合置は
何事に有ても能ものなり
為重
村雨の晴間にこへよ
雲ゐ坂みかさの山は
ほとちかくとも
一 川越(かわこし)ある場所(ばしよ)女子(によし)を連立事(つれたつこと)ある時は其(その)用(よう)
意(ゐ)有(ある)べし婦人(ふじん)は男子(おとこ)と違(ちが)ひうちばなる
もの故(ゆえ)に川端(かわばた)に望(のそ)んで大河(だいが)の水勢(みつせい)に怖(おそ)れ
其上(そのうへ)川越人足(かわこしにんそく)の乱雑(らんざつ)なるに驚(おとろ)き逆上(ぎやくじやう)して
血(ち)の道(みち)おこり難義(なんき)する人まゝあり依之(これによつて)川越(かわこし)
ある場所は前(ぜん)日より其(その)混雑(こんざつ)なる次第(したい)をとくと
云聞(いひきかせ)連中(れんぢう)の者(もの)前後(ぜんご)してもけつして驚(おどろ)かざる
やうに兼而(かねて)心付(こゝろつけ)置(おく)べしか様の場所には宿
役等有而 少(すこし)も気遣(きづかひ)なきことなれとも女子(によし)は
おとろきやすきものなれは川越にも限(かきら)ず水
辺(へん)舟渡(ふなわた)し山坂(やまさか)等 都而(すべて)嶮岨(けんそ)なる所は前かとゟ
云聞置(いひきかせおく)事(こと)肝要(かんよう)なり
一 川越(かわこし)又は船渡(ふなわた)しの場所(ばしよ)にては面々(めん〳〵)懐中物(くわゐちうもの)を
心付其上乗へし且(かつ)駕籠(かご)のうちへ釣置(つりおき)たるもの
落(おつ)ることあり水中(すいちう)へものを落(おと)したるは得(え)かた
きものなり
一 渡場(わたしば)にて乗合舟(のりあひふね)に馬(むま)を乗(のする)事(こと)あり其折(そのをり)は
馬を先(さき)へ乗(のせ)人(ひと)は後(あと)より乗べし人先くのれば
馬物を見て乗かねて驚(おとろ)きさわぐゆえ乗合に
怪我(けが)等あるもの也 尤(もつとも)老人(らうじん)女子(によし)の輩(ともがら)は馬を入(いる)る
舟には決而(けつして)乗(のる)へからず
一 近道(ちかみち)なりとて舟路(ふなぢ)を行(ゆく)こと心得あることなり
要用(ようよふ)にていそかねばならぬ道中ならは成丈(なるたけ)
陸地(りくち)を通るべしゆるき道中なれは船路
を行 足(あし)をやすめ思の外に追風(おいて)よくて益(ゑき)ある
事も有とも若(もし)違変(いへん)ある時は後悔(かうくわひ)先(さき)にたゝ
ずと知へし船中(せんちう)の用心は別(へつ)に末(すへ)にあり
一 出水(しゆつすい)の河(かわ)は譬(たと)へ小川にても軽(かろん)じ容易(ようい)に渡る
へからず出水(てみつ)は格別(かくへつ)水勢(みつせい)強(つよき)上(うへ)に種々(さま〳〵)のもの流(なか)れ
来(く)る故(ゆえ)に怪我(けが)あるものなり又 山(やま)近(ちか)き国(くに)にある
川(かわ)は常(つね)は渇水(かつすい)して小(ちいさ)く見ゆれども雪解(ゆきとけ)又は
夏日(かじつ)山奥(やまいり)に夕立(ゆふたち)等あれば俄(にはか)に河水(かわみつ)増(まさ)り忽(たちまち)に
川(かわ)はゞもけしからず広(ひろ)ぐなる故 本橋(ほんばし)は懸(かけ)られ
ぬなり因而(よつて)冬(ふゆ)のうち計(はか)り用る為(ため)に仮橋(かりばし)を
かけわたす故に毎年(まいねん)出水(てみつ)に流るゝ也 則(すなわ)ち東海道
の酒匂川(さかわかわ)奥海道(おくかいだう)の白沢(しらさは)。大田原(おほだはら)なとの川(かわ)の如きもの也
別而(へつして)山国(やまくに)には右様(みきやう)の川(かわ)々多し件(くだん)のやうなる出(で)
水(みづ)の折はかちわたりは勿論(もちろん)水中(すいちう)に見ゆる仮橋(かりはし)
を決而(けつして)渡るへからず出水にて橋杭(はしぐひ)抜上(ぬけあが)り暫(しばらく)
浮(うき)上りある橋(はし)を渡りて流(なか)されたる人あり
一 霖雨(ながあめ)降(ふり)つゞきたるあかりに山(やま)欠(かけ)落(おつ)ること所々に
まゝあること也か様の折は山岸(やまきし)の大巌石(たいがんせき)等 有(ある)下(した)
の泊屋(とまりや)又は川岸(かわきし)に望(のそみ)たる家居(いゑゐ)等に泊るべからず
兼而心得 斟酌(しんしやく)有べき事なり
一道中にて人馬の賃銭(ちんぜん)并 宿銭(はたせん)等 連中(れんちう)にて
も其(その)度々(たび〳〵)面々(めん〳〵)の手前(てまへ)より出すべし若折に
より銭の有合なき人は当坐(とうさ)に取替(とりかへ)置(おく)共(とも)
其日(そのひ)の泊々(とまり〳〵)にて算用(さんよう)すべし長(なかき)道中(たうちう)にては
日記帳(につきちやう)にしるし置ても末々(すへ〳〵)に至(いたり)てはわかり
難(かた)きものなり因而(よつて)等閑(なをざり)にせぬことなり
一道中にて或は両三日又は五七日 道連(みちつれ)に
なり
其人(そのひと)信実(しんじつ)に見るとても同宿し或は食物(しよくもつ)并(ならび)
に薬(くすり)等 互(たかひ)にとりやり決而(けつして)すべからず
一 途中(とちう)にて馬なき人 駄荷(だに)ある人に道連(みちつれ)に
なり譬(たとへ)知(しる)人にても風呂敷包(ふろしきつゝみ)等 其(その)馬に頼むべ
からずは若(もし)途中(とちう)にて急(きう)に入用ありても他人(たにん)
の馬に頼るは其間にあわぬものなり皆人道
中へ出ては我身(わかみ)独(ひとり)を堅固(けんご)に構(かまへ)人に持れぬやう
にするをき専一とすべし
一 道連(みちつえ)はたか〳〵五六人に限(かき)るべし大勢連(おほぜいつれ)は悪(あし)
し人々 了簡(りやうけん)種々(さま〳〵)なるものゆえ長(なかき)道中にて
多勢(たせい)の中には必(かなら)ず不和(ふわ)の出来(てきる)もの也
一道連(みちつれ)にすまじきものは大酒(たいしゆ)の人并 ̄ニ癖(くせ)ある上戸(しやうご)
顛癇病(てんかんやみ)喘臭病(ぜんそくやみ)或はつよき持病(ぢひやう)ある人 是等(これら)は
いつ何時 其(その)疾(やまひ)発(おこる)まじきといふことなければ勘弁(かんへん)
あるべき事なり
一道中 路金(ろきん)を所持(しよし)するには胴財布(だうさいふ)に入貯(たくわ)ふべ
し日々の入用は懐中(くわゐちう)へ小出(こだし)をいたし遣ふべし
尤 小出(こだし)する時は夜分(やぶん)にても人の目にかゝらぬ
やう心懸(こゝろかく)る事 肝要(かんよう)なり
都にはまた
青葉
ふく
見しか
とも
もみち散
しく
しら川の
せき
頼政
一 泊々(とまり〳〵)にて刀(かたな)脇差(わきさし)は自分(じぶん)寐(ね)る床(とこ)の下(した) ̄え入おく
へし鎗(やり)長刀(なきなた)等も床(とこ)の奥(おく)へおくべし
一道中 火(ひ)の用心(ようじん)随分(ずいぶん)大切(たいせつ)に心付(こゝろつけ)村中(むらうち)は勿論(もちろん)譬(たとひ)
野中(のなか)にても煙草(たばこ)の吹(ふき)から麁末(そまつ)に捨(すつ)べからず
休々(やすみ〳〵)又 乗合舟(のりあひふね)等たはこの火に衣類(いるひ)包物(つゝみもの)等 焼(やく)こと
あり念入(ねんいる)べきことなり
一 春(はる)の中(うち)処々(ところ〳〵)野山(のやま)を態々(わざ〳〵)焼(やく)ことあり此(この)野火(のひ)風(ふう)
烈(れづ)にはけしからず手広(てびろ)になるもの也 如(かくの)_レ此(ことき)ところを
通りかゝりたる折は道の前後(ぜんご)を考(かんがへ)べし本道(ほんだう)にて
も火にまかるゝことあり野火もあなとるべからず
一 道端(みちはた)の家 居(ゐ)又は畑(はた)の中などに梨(なし)柿(かき)柚(ゆつ)蜜柑(みかん)
都而(すべて)菓(くたもの)類見事に作り有もの戯(たわむ)れにも手出(てだ)
しせぬ事なり又 村(むら)中にて五穀(ごこく)は勿論(もちろん)場(には)
中に干置物(ほしおくもの)等 仮初(かりそめ)にも踏(ふむ)べからず他国(たこく)にて
物いひ等ありては是非(ぜひ)の論(ろん)立(たち)がたしと知へし
一山中或は野道(のみち)などにて若(わかき)女(おんな)草刈(くさかり)童(わらへ)又は女 連(つれ)
の物 参(まい)り等に行あひて一通りの問答(とひこたへ)は格別(かくべつ)
無用の咄(はなし)或は田舎詞(いなかことば)なと漫(みだ)りに笑(わらひ)なぶる
べからず聊(いさゝか)の事よりむつかし出来(てき)るものなり
勘弁(かんへん)あるべし
一 間(あひ)の宿(しゆく)又は横筋(よこすじ)なとにてあしき旅宿(とまりや)へ泊り
あたるは心持悪敷ものなり然とも不自由(ふじゆう)を口(こう)
外(くわひ)に出さす却而(かへつて)やわらかに物いひ荷物(にもつ)戸(と)〆り
等用心する事 道中(だうちう)にての秘事(ひじ)なり
一 皆(みな)人(ひと)他国(たこく)へ出れば物いひ風 俗(ぞく)いろ〳〵に替(かわり)て
已(おのれ)が国言葉(くにことば)に違(たが)ふ故に聞馴(きゝなれ)見なれぬ中(うち)は
おかしと思ふなれど又 先(さき)の人も此方(このほう)をおかし
と思ふは必然(ひつぜん)なりしかるを心得ちかひして
他国(たこく)の風 俗(ぞく)ものいひ等笑なふること誤(あやまり)としるべ
し人の詞を笑(わらひ)嘲(あさけ)ること口論(こうろん)となるもの也
一 道(だう)中にて謡(うたひ)小(こ)うた浄瑠璃(じやうるり)等口すさみて
行(ゆく)を此方より附(つけ)うたふへからず是(これ)も口論(こうろん)の
端(はし)なりとしるべし
一道中にて立寄(たちより)見間敷(みましき)ものは喧嘩(けんくわ)口論(こうろん)博奕(ばくゑき)碁(ご)
将棊(しやうぎ)村踊(むらおとり)村角力(むらすまふ)変死人(へんしにん)殺生場(せつせうば)惣而(そうして)人立(ひとたち)多所
等見計ひあるべし
一 商(あきな)ひ筋(すし)ならて外用(ほかよう)又は湯治先(たうじさき)物参(ものまいり)或は河留(かわとめ)
等にて長 逗留(どうりう)する折(をり)塗炭(とたん)は勿論(もちろん)かけの碁将棊
決而(けつして)すべからず且(かつ)自分(じふん)の知たる商ひにても
手出(てたし)せぬことなり利慾(りよく)より事(こと)起(おこ)り災(わさは)ひを
生(せう)じ大に手間取ものなり慎(つゝし)むべきなり
一 湯治場(たうじば)は硫黄(いわう)の気(き)多(おほき)故(ゆへ)大小の身(み)并 ̄ニ拵(こしらへ)等まても
錆(さび)るものなり其(その)用心有べし尤湯場にもより
さ様になき所もあれと多くはさびるものなり湯(たう)
治(じ)仕方(しかた)温泉(おんせん)の地名(ちめい)は末にくわし
一 主用(しゆよう)或は要用(やうよう)にて初て旅行(りよかう)する人 僅(はづか)の所にて
も回道(まはりみち)をして名所(めいしよ)旧跡(きうせき)等 尋(たつぬ)べからす且(かつ)しらぬ
近道(ちかみち)近 舟路(ふなぢ)等必すべからず
一 旅宿(りよしゆく)にて出火(しゆつくわ)ありて若(もし)近火(きんくわ)ならば早速(さつそく)立
したくいたし身(み)の廻りの大切(たいせつ)なる物を持(もち)除(のき)
其上にて風すじを見計ひ荷物等あらは取出
へし尤家来ある輩(ともから)は挑灯(てふちん)を付 持(もち)除(のき)もの等
差図(さしづ)いたし紛失物(ふんしつもの)等なきやう心付へし
右様(みきやう)の節(せつ)は宿(やと)をたよりにせぬ事なり
一 旅(たび)は相宿(あひやと)は有勝(なりかち)なるものなれとも手前(てまい)を能
用心(ようしん)すれば何事(なにこと)有(ある)ものにあらず第(だい)一に戸(と)じま
りを心付又 宵(よひ)より相客(あひきやく)の様子(やうす)を窺(うかゞ)ひ知べし
若(もし)酒乱(しゆらん)狂気(きやうき)等の人ある時は早速(さつそく)其用意すべし
相宿にて異変(ゐへん)有しこと其(その)例(れい)すくなからず
一相宿の中にて大 酒宴(さかもり)はじまり若(もし)深更迄(よふけまて)も
止(やま)ぬ様子(やうす)ならば此方(このほう)の連中(れんちう)にて酒宴(さかもり)のすむ
まてかはる〳〵一人つゝ不(ね)_レ寐(つ)に居(をる)べし長酒(ながさか)もりも
むつかしの出来(てき)るものなりも
一 馬(むま)は驚(おとろ)き勝(かち)なるもの故(ゆえ)若(もし)おとろきはね出(だす)時(とき)あは
てゝ飛下(とびをる)べからす荷物(にもつ)に取附居(とりつきをり)もし荷物(にもつ)曲(まが)り
地(ち)に付(つく)比(ころ)を見合(みあわせ)下(をり)べしうろたへ飛下(とひをる)れはかな
らず怪我(けが)するものなり
一三四月 比(ころ)道中(だうちう)にて田舎馬(いなかむま)に乗(のる)時は乗下(のりをり)に
別而(へつして)心付べし田舎馬は日々 不(つか)_レ使(わず)休(やす)めおきて
偶(たま〳〵)つかふ故(ゆえ)春(はる)気(け)によつて駆出(かけいた)すなり心得て
乗へきなり
一 夏(なつ)道中(だうちう)にて馬に乗ならは心得あるへし馬に
虻(あぶ)取付故に時々はねるなり又乗人も夏は眠気(ねむけ)
付てあぶなし因而(よつて)山坂(やまさか)河端(かわばた)等 別而(へつして)心付べし
老人(ろうじん)小児(しやうに)は夏(なつ)は心得有べきことなり
一道中にて相客(あひきやく)の中(うち)など薬種(やくしゆ)妙薬(めうやく)等の下(げ)
直(ぢき)なるものをすゝむるとも堅(かたく)断(ことわり)て求(もと)むべからず
若(もし)途中(とちう)にて入用あらば其所の薬種屋(やくしゆや)にて調(とゝの)
へべし
一 飛脚(ひきやく)并 ̄ニ荷才料(にざいりやう)勤(つとむ)る人(ひと)軽重(けいぢう)有といへとも容易(ようい)
ならざる役(やく)なりと知るへし書状(しよしやう)は金銀(きんぎん)より
も重(おも)きことにて万一(まんいち)取落(とりおと)し紛失(ふんしつ)等 有時(あるとき)は
主人(しゆじん)の要用(ようよう)を欠(かく)のみならず大事(たいじ)を人に
もらすことなれば心得あるへきことなり
一道中ざしの大小(たいしやう)は軽(かろ)く短(みちか)きを差へし都而(すべて)長(なか)
刀(かたな)長脇差(なかわきざし)又は目立(めたち)たる拵(こしらへ)等 異風(いふう)の衣類(いるい)道具(とうぐ)
用ゆへからずおとなしき体(てい)なれは難(なん)なし
一 召連(めしつれ)候 小者(こもの)并 雇人(やといびと)等は出立前(しゆつたちまへ)に宿(やと)を呼(よび)よせ若(もし)
道中(どうちう)にて病死(ひやうし)等之 節(せつ)は可(しかる)_レ然(べき)やうに取置(とりおき)候やう
一札(いつさつ)を取置へし万一(まんいち)途中(とちう)にて病死(ひやうし)の節(せつ)は
雪ふれはみな高からぬ
山もなしいつれのこしの
しらねなるらむ 師時
泊屋(とまりや)并 ̄ニ医者(いしや)よりも一札を貰(もら)ひ取置べき也
附(つけ)たり一人旅又は回国(くわいこく)する輩(ともがら)は寺証文(てらせうもん)懐中(くわいちう)有(ある)
べきなり万事(ばんじ)道中 念(ねん)入(いれ)る人(ひと)には異変(いへん)なきも
のなりと知へし
一道中にて日蝕(につそく)あらは少々 休(やす)み見合蝕すんて
歩行すべし月そくも同様なり
一道中にて神社仏閣(じんしやふつかく)は勿論(もちろん)橋々(はし〳〵)立木(たちき)又は大石(おほいし)等へ
楽書(らくかき)并 ̄ニ張札(はりふた)等 決而(けつして)すべからず
右六十一ケ条の外 廉立(かとたち)たる事は此末に別(べつ)箇条(かてふ)
にくわし
水替用心之事
一 皆(みな)人(ひと)他国(たこく)へ出れば五七日の中(うち)水替(みづかはり)とて或は腹(ふく)
合(あい)あしく或は逆上(のぼせ)或は両便(りやうべん)不通(ふつう)或は発斑(ほつはん)小(しやう)
瘡(そう)等 持病(じひやう)の外(ほか)なるものを憂(うりやう)ることあり何国(いづく)
にても一 天地(てんち)の中(うち)なれは同し天地の気(き)を呼(こ)
吸(きう)することなれば水(みづ)の替りたるとてさのみ煩(わづら)ふ
べきはづはなけれどもさにあらず其(その)国々(くに〳〵)の風土(ふと)
により湯水(ゆみづ)にも限(かぎ)らず寒暖(かんだん)気候(きかう)人気(じんき)食物(しよくもつ)
に至(いたる)迄(まで)こと〳〵く異同(いとう)厚薄(かうはく)挙(あけ)て算(かそへ)がたし
譬(たとへ)ば山川(やまかわ)の魚(うを)を野池(やち)へ放(はな)す時はしばらくが
間(あひだ)煩(わづら)ふが如し今(いま)人々(ひと〳〵)も其(その)国(くに)所(ところ)の気候(きかう)に
一月と二月と居馴染(ゐなじま)ぬ間(うち)は必(かなら)ず煩(わづら)ふ道理(だうり)
なり其中(そのうち)用心(ようしん)あるべきことなり既(すで)に関東(くわんとう)の
時侯(じかう)と京大坂は別(かわる)也 先(それ)より西国(さいこく)九州(きうしう)に至(いたれ)ば又
別也 北国(ほつこく)越後(ゑちご)奥 州(しう)辺(へん)に至而(いたつて)は又 抜群(はつくん)の相(さう)
違(い)なり其(その)余(よ)の海浜(かいひん)島々(しま〳〵)等に及んては其(その)名(な)
其(その)形状(かたち)等の相違(さうい)するを以(もつ)て推(おし)はかるべし
因而(よつて)暖国(だんこく)の人は寒国(かんこく)へ行けば寒気(かんき)に中(あた)り
寒国より暖国へ行ては中ること稀(まれ)也 古昔(むかし)八丈
の人大勢(おほせい)江戸(えと)へ来(きた)り居(ゐ)て痘瘡(ほうそう)麻疹(はしか)の流行(はやり)
にあひ夥敷(おひたゝしく)死(し)したることあり是等(これら)全(まつた)く土地(とち)に相(さう)
応(おほ)せざる故(ゆえ)なるべし於(こゝに)_レ是(おいて)遠国(ゑんごく)勤務(きんむ)【左ルビ「つとめ」】湯治(たうじ)旅(りよ)
行(かう)の輩(ともから)発足(のつそく)の日より半(はん)月も立ざる間(うち)は飲(いん)【左ルビ「のみ」】
食(しよく)【左ルビ「くひ」】起居(ききよ)【左ルビ「おきふし」】等のことを大切(たいせつ)にすべし道中(だうちう)嗜(たしな)みて
よきほとの薬(くすり)は末にくわしくあり
寒国旅行心得之事
一 奥羽(をうう)北越(ほくゑつ)の旅行(りよかう)には朝飯(あさめし)をしたゝむるよりし
て用心あり寒国(かんこく)は九月の末より日々 雪(ゆき)ふり
十月 夷講(ゑひすかう)比(ころ)より降(ふる)雪は日々地上につもりて
山上(さんしやう)曠野(かうや)の道路(だうろ)を埋(うづ)み且(かつ)寒国(かんこく)の雪は多(おほ)く
粉雪(こゆき)にてふらぬ日にても風に吹立(ふきたて)られて雪吹(ふゞき)
の如し況(いはん)や降(ふる)日には忽(たちまち)に一二尺つもるは暫時(ざんじ)
のこと也 依(これに)_レ之(よつて)道路(だうろ)人跡(じんせき)の目(め)あて更(さら)になし
公用(かうよう)の人(ひと)は雪踏人足(ゆきふみにんそく)を召(めし)て先々(さき〴〵)を案内(あんない)さ
すれども唯(たゝ)の旅人(りよじん)はそれもならず道(みち)問ふへき
人も稀(まれ)なり終(つい)に道(みち)を見うしなひて本道(ほんだう)に
出(いづ)ることあたはずして迷(まよ)ふ人まゝあり因而(よつて)雪(せつ)
中(ちう)の旅(たび)は譬(たとひ)上戸(しやうご)なりとも大酒(たいしゆ)決(けつ)してすべ
からす大酒(たいしゆ)すれは身(み)熱(ねつ)して雪吹(ふぶき)を事(こと)とも
せぬ心地(こゝち)になれども山野(さんや)の満雪(まんせつ)道路(だうろ)は勿(もち)
論(ろん)田(た)も畑(はた)もなく一面(いちめん)の平地(ひらち)となるゆへ酔体(すいたい)の
元気(けんき)にて方角(ほうかく)を失(うしな)ひ深(ふか)き溝洫(みそほり)に落入(おちいり)て
終(つい)にこゞえ死(しぬ)人(ひと)多(をほ)し夜分(やぶん)は別而(へつして)道筋(みちすじ)見へず
依(これに)_レ之(よつて)朝飯(あさめし)程(ほど)よくしたゝめ外(ほか)に中食(ちうじき)の焼飯(やきいゝ)を
貯(たくはへ)て空腹(くうふく)にならぬやうに心懸へし空腹なれば
厳寒(げんかん)に冒(おかさ)れて神魂(しんこん)気力(きりよく)も尽果(つきはて)て終(つい)に雪(ふ)
吹(ぶき)にあひ絶倒(ぜつたう)することあり故に酒に酔(よい)ざれば
たとひ雪吹(ふゞき)にしまかれて一夜を明すとも命(いのち)に
及(およ)ふ事なし奥越(をうゑつ)の人まゝ雪吹にあふて寒(こゝえ)
死(し)する人多く上戸(しやうご)にて大酔(たいすい)の上(うへ)なる由(よし)語(かた)れり
一 雪吹(ふヾき)にあひたる人こゝえて手足(てあし)覚(おほへ)なく倒(たを)れ
又は気分(きぶん)あしく成たる人をあたゝむるには藁(わら)
火(ひ)を焚(たき)初(はじ)めは遠火(とをび)にして温(あたゝ)むべし又 寒(こゝ)えたる
人を風呂(ふろ)へ入るとも初めは至極(しごく)ぬるくして次第(したい)
に熱(あつ)くすべし火急(くわきう)に熱(あつき)火(ひ)あつき湯(ゆ)にあてる
時は逆上(ぎやくじやう)して塞(ふさ)ぐことあり
寒国旅具并 ̄ニ図式之事
一 雪中(せつちう)旅具(たひぐ)は紙衣(かみこ)胴着(だうき)或は皮類(かわるい)のものを
下着(したぎ)に用ゆへし雪国(ゆきくに)の寒気(かんき)甚(はなはだ)しきと
満雪(まんせつ)の深(ふか)きとは筆紙(ひつし)にも尽(つく)すべからす
【以下図の説明】
駕籠橇(かごそり)
駕籠雪(かこそり)は下地を
籠に組立上を畳(たゝみ)
表(おもて)にて包みたるもの也其籠
を常の雪車へ結附るなり中に
刀かけもありふとん其外手道
具等入ること常の駕籠の如し
貴人医者多く是を用ゆ
雪車(そり)
雪車(そり)は惣而 荷物(にもつ)を積(つみ)綱(つな)を
肩(かた)へかけて一人にて引也米俵
五六俵 ̄ヨリ十七八俵迄引なり
山坂は荷杖(につえ)にて楫(かぢ)をとり自(みつ)
から乗なから下ること矢を
つくか如し牛馬車等の便
利に十倍せり誠に山国の
舟なり
○ヲノヲレ○
イ夕ヤなと
いふ木にて
つくるなり
四寸 三寸 三尺 六尺
箱橇(はこそり)
此箱そりは小児の
たわむれに用
ゆる也箱もあり
如_レ図草籠も
あり
カウスキ ブナといふ木にて作
長サ五尺ヨ 八寸ヨ 六寸
外 ̄ニ長柄あり是は八九尺ヨあり
長サ三尺ヨ 五寸 四寸
此かう鋤(すき)は雪を屋根よりおろし又其ろしたる所の雪を切石(きりいし)
の如くこの筐をもつてきり町の中ほとへ向ふの見へぬ計りにつみ上る
なり又大雪の日には道を掃ふにもし途中(とちう)杖のかわりにするなり
又小児外にて戯(たわむ)れ遊ふにも雪有うちは是を突(つき)ありく也
雪踏(ゆきふみ)
藁(わら)にて作(つく)りふん込(ごみ)の如く
両足へはき雪のふる度々
家の前並 ̄ニ道路の雪を
ふみかためつ往来の通路
をつくる器也又米の空(あき)
俵を用る所もあり
同上
是はわらの雪
踏にてふみならし
たるり上を又ふみ
かたむる具なり
わり槙にて作る
なりかならず
家毎にあるにも
あらず
【以下図の説明】
兜頭巾(かふとづきん)
長範頭
ともいふ革
にてりつくり
木綿にても
作る
赤綿帽子(あかわたぼうし)
是は木のかわにて
製したるもの也
藁笠(わらかさ)
藁沓(わらくつ)
是はすね
迄つくり
付なり
越後にて
多くこれ
を用ゆ
藁はゞき
これは寒気
をよくふせく
ものなり又
蒲(かま)はゞき
もあり然
とも寒気
をふせくには
藁にしくは
なし
ヲリフキ
わらじ
又
かうかけ
わらじ
ともいふ
又
頭はかり
なヲリフキ
といふ
ドモコモ
雪吹を
ふせくに
よし
源兵衛くつ
藁(わら)にて作 ̄リ
口へ木綿 ̄ヲ
付るなり
麁なる物
は木綿を
付ず武士
町家多く
是を用ゆ
同上
わらくつ
くわんぜん帽子(ぼうし)
是は木綿にて
つくり真わた
を入るなり
寒気をふせ
くによき物
なり町家にて
多く用ゆ
赤綿(あかわた)たび
是は赤わた
ぼうしを作る
木の皮にて
織たるたび
なり下賤
の人多く
これをはく
欙(かんじき)
是は鉄(てつ)にて鎹(かすかい)の如く作り
草鞋(わらじ)の下へはき雪の上
すべらぬ為のものなり
又 手軽(てかる)く作りて沓草(くつぞう)
履(り)等の下へはくなり
商人田舎の人是を
用ざるものなし
樏(かんじき)
蔓(つるもの)にて作(つく)り
わらじの下へ
はき雪の深
き処へふみ
込ぬ為なり
山樵(きこり)又は鷹(たか)
狩(かり)等の人多く
これをはく
草履下駄(ぞうりけた)
是は雪の氷りたる日に
坂の上又は橋の上なと
小児此下駄をはき
辷(すべ)り戯れ遊ふなり
もつとも寒気強き
日程よくすへるなり
一 ̄ト足に三四十間より
五六十間も走るなり
此下駄をつくる木も
雪車(そり)を作 ̄ル ヲノヲレ也
竹下駄(たけけた)
此竹下駄も草履
下駄の如く辷(すべ)る也
是は辷るに曲ること
なくまつすくに
はしるなり近年
多くこれを用ゆる
といふ是等旅具
にあらざれとも雪
国のみの物故出_レ之
是によつて沓草鞋(くつわらじ)の類(るい)も雪国(せつこく)にて用ゆる品
を其所にて調(とゝの)ふへし前かとより用意有
ても其土地によつて用立ぬものなり
寒国ナテツキの事
一奥州越後の中或は二三里或は五六里が間(あひだ)両山(りやうざん)
峨(がく)々たる山道(さんだう)処々にあり冬年大雪にして春
二月 彼岸(ひがん)比に至而(いたりて)両山の雪 春暖(しゆんだん)に乗して
土際(つちきわ)を離(はなれ)んとする比(ころ)東風(とうふう)或は雷鳴(らいめい)地震(じしん)材木(ざいもく)
等の響(ひゞき)によつて両岸の積雪(せきせつ)一時(いちじ)に其(その)山道(さんだう)へ
こけ落るを鄙語(ひご)にナテツキといふ其折節は件(くだん)
の山路(やまみち)を往来する人其ナテの下に押付られ
て速死(そくし)する人まゝあり此(この)難(なん)にあふ人いかんとも
凌(しの)くべきやうなし又 其(その)災(わざわひ)に逢たる人数(にんづ)其(その)沙汰(さた)
有ても早速(さつそく)其雪を屈(ほり)穿(うかち)て其(その)死骸(しがい)を求(もとむ)ること
あたはず夏(なつ)に至(いたつ)て雪の消(きゆ)るを待外 手段(しゆたん)なし
か様なる所を往来する人は主用(しゆよう)要用(ようよう)の輩(ともがら)也
此時は前後(ぜんご)の寒暖(かんだん)を考(かんか)へ其土地の人に様子(やうす)を
尋ね通るべし其折は足(あし)もあらく踏(ふむ)ことならず咳(せき)
一つも容易(ようい)にせぬやうに慎(つゝし)み歩行(ありく)事其所の
教(おしへ)なるよし既(すで)に会津(あひつ)より越後(ゑちご)へこへ又は上州(しやうしう)
より三国(みくに)ごへなとの山中(さんちう)に其ナテツキの難(なん)に
逢(あひ)て死(しし)たる人の石塔(はか)あり
山中にて狐狸猪狼の類近付さる方
一 深山(しんさん)野原(のはら)の道(みち)を往来する人 道連(みちつれ)ある時は折々
咄声(はなしこゑ)もするゆえ熊(くま)狼(おほかみ)の類(たぐひ)身(み)をかくすなり一人(ひとり)
旅(たび)にては人声(ひとこゑ)なき故に道端(みちばた)なとに伏居(ふしゐ)たる
獣(けたもの)不(はから)_レ図(ず)人にあふ故に驚(おどろ)きて人に嚙付(かみつく)ことあり
然とも白中(はくうちう)には先はなきことなり左様のこと
にあふは皆 夜道(よみち)なりよつて深山(しんさん)曠野(かうや)の人里(ひとさと)遠
き所を往来する折は竹杖(たけつえ)の先(さき)を割(わり)道々(みち〳〵)叩(たた)き
音(おと)をして歩行すへし又 石突(いしつき)有 杖(つえ)をつ
きてもよしさすれば悪獣(あくちう)逃去(にけさる)也又 夜道(よみち)は
火縄(ひなわ)松明(たひまつ)等を持て歩行せば其難なし又 牛(うし)の
糞(ふん)を草鞋(わらじ)のうらへぬり山道(やまみち)を行は悪獣并
蛇(へび)まむし毒虫(とくむし)等おそれ近付すといふ
一 五岳(ごかく)白沢(はくたく)の両図(りやうづ)を懐中(くわいちう)すれば旅中(りよちう)の災難(さいなん)を
免(まぬか)れ悪鬼(あくき)猛獣(もうぢう)近付ことあたはす
一 狐(きつね)狸(たぬき)の所意(しよい)とて忽(たちま)ち道(みち)を失(うしな)ひ或は昼(ひる)を夜(よる)と
なし或は川(かわ)なき所を川となし門(もん)なき所に門を
鎖(とさす)の類(るい)其外 種々(しゆじゆ)様々(さま〳〵)の奇怪(きくわい)をなすことあら
ば先(まつ)心を落着(おちつけ)てたばこを呑(のむ)歟(か)休(やす)む歟(か)して
元(もと)来(きた)る道(みち)を考見るべし其上に分らぬならば
もとの道(みち)を立戻り人家(じんか)へ立寄(たちより)様子(やうす)を承る
べし如_レ此すれば狐狸(こり)も譇(たばか)ることあたはざる也
都而(すへて)心を落着(おちつく)るといふこと道中(だうちう)のみにかき
らす万事(ばんじ)に付て肝要(かんよう)の事なり
船中用心之事
一 船(ふね)に乗(のり)たるならは先(まつ)船中(せんちう)の諸道具(しよだうく)板子(いたこ)竿(さほ)
の類(るい)有所を見 定置(さためおく)べき也 若(もし)大風雨或は早(はや)
風(て)等にて船くつかへらんとする時其板歟竿の
たくひにてもおつとり水中(すいちう)へ入べし如_レ此すれば水(みつ)
をしらぬ人も沈(しつ)まぬゆへに助易(たすけやす)し
一 海上(かいしやう)にて大魚(たいきよ)の類(るい)船(ふね)へ附纏(つきまど)ふことあり其節(そのせつ)
は不(おどろか)_レ驚(ず)して船中(せんちう)人影(ひとかけ)をかくし板(いた)歟(か)又は
音(おと)あるものを叩(たゝき)立れば其(その)魚(うを)逃去(にけさる)なり
一 船(ふね)の際(きわ)にて竜(たつ)まきあれば俄(にはか)に黒雲(くろくも)海上(かいしやう)に
あまくたり波濤(はとう)湧(わき)かへり大渦(おほうづ)を巻(まき)海上 動揺(だうよう)
することあり其折は船頭(せんどう)も心得あることなれ共
不(おとろか)_レ驚(ず)して板子(いたこ)歟(か)苫(とま)の類(るい)にても打込(うちこみ)巻(まか)すべ
しさすれば波(なみ)の渦(うづ)穏(おたやか)になるなり其間(そのま)に船
を乗(のり)ぬくること肝要(かんよう)なり
一 便船(びんせん)の人数(にんづ)多きはあしきものなり第一 乗合(のりあひ)の
難義(なんき)也又 船手(ふなて)も手まわし悪し尤(もつとも)船中(せんちう)の事
は諸事(しよじ)船頭(せんとう)の意(い)にまかせ必(かなら)ずさからふべからす
都而(すべて)船中(せんちう)の事は船中の法式(ほうしき)ありて忌嫌(いみきら)ふことも
あれは船手(ふなて)の邪魔(ぢやま)にならぬ様にするを専一(せんいち)とす
○船に酔たる時の妙方
一 船(ふね)に酔(ゑひ)たる時大に吐(と)して後(のち)渇くなり其節(そのせつ)は童子(たうじ)【左ルビ「ことも」】
便(へん)を呑(のま)すべしもし童子便なき時は大人の
尿(いばり)を呑すへし誤(あやま)りて水(みづ)をのめば即死(そくし)するなり
つゝしむべし
一 舟(ふね)に乗(のる)時(とき)に其(その)河(かわ)の水を一口呑ば船(ふね)に酔(よわ)ぬ也
一船に乗時に陸(くが)の土(つち)を少々 紙(かみ)に包(つゝみ)み臍(へそ)のうへに
あてゝをれば舟に酔ことなし
一 硫黄(いわう)を紙に包み懐中(くわいちう)すれば舟に酔ことなし
一又方 付木(つけぎ)を二三 枚(まい)人にしらせず懐中すれば舟に
酔ぬなり
一又方つよき醋(す)を一口 飲(のみ)てよし又 梅干(むめぼし)を含(ふく)てよし
又 生大根(なまだいこん)のしぼり汁(し)を呑(のみ)てもよし
一つよく酔(ゑひ)嘔吐(をゝと)やまざる時は半夏(はんげ)陳皮(ちんひ)茯苓(ぶくりやう)の
三味を等分せんじ飲てよし
○駕籠に酔さる方
一かごに酔人は駕籠(かご)の戸(と)を開(あけ)て乗(のる)べし
一 南天(なんてん)の葉(は)を駕籠(かご)のうちに立(たて)先(それ)を見て乗(のれ)ば
かごに酔ことなし若(もし)頭痛(づつう)甚(はなはた)しく むね(心)わるき
には熱湯(ねつたう)に生姜(せうが)のしぼり汁(しる)を入かきませ飲す
へし冷水(ひやみづ)決(けつ)して呑すべからず
一 女子(によし)馬かごに乗時は水をちを細帯(ほそおび)にてしつかと
しめて乗へし
○落馬したる時の方
一 落馬(らくば)して若(もし)むね(心)あしく或は唾(つは)に血(ち)交(まじ)り出る時は
藕(はすのね)の粉(こ)を酒(さけ)にて用ゆべし又 蓮(はす)の葉(は)を細末(さいまつ)
にして酒(さけ)にて呑てもよし又 腰(こし)か足(あし)にてもつ
よく打(うち)血(ち)にじみてむらさきに斑(ぶち)たる所あらは早(さつ)
速(そく)外科(げくわ)を頼(たのみ)て出血(しゆつけつ)すへよししらさすれは後(のち)の患(うれ)ひな
し其上(そのうえ)導引(あんま)すべし
一 馬(むま)の汗(あせ)は大毒(だいとく)也 食物(しよくもつ)又は目(め)なとへ入ぬ様にすべし
○毒虫を避る方
一 能(よき)匂(にほ)ひ袋を懐中(くわいちう)すればよし又 乾姜(かんきやう)と雄黄(をわう)を細(さい)
末(まつ)にして懐中してよし都而(すへて)竜脳(りうのふ)麝香(ちやかう)樟(しやう)
脳(のふ)の類(るひひ)香気(かうき)たかきものを懐中すればよし
○道中泊屋にて蚤(のみ)を避(さく)る方
一 苦参(くじん)といふ草(くさ)を生(せう)のまゝにて寐(ねる)敷(しき)ものゝ上へ入
置は蚤よらぬなり最(もつとも)此(この)草(くさ)野山(のやま)に多くあるもの
なれば道すから心かけ手折て敷べし苦参(くじん)の
図(づ)下(しも)にあり見合すへし
一 枳(からたち)一ツ持(もち)夜々(よる〳〵)抱(いだ)き寐れば蚤(のみ)よることなし
一又 棘蓼(たて)を乾(ほし)て床(とこ)の下へ敷てよし
一又方 枳実(きじつ)を沢山(たくさん)せんじじはんをひたしよく干(ほし)
着用すれば蚤(のみ)よらぬなり
苦参(くじん)《割書:和名くらゝ○きつねのさゝげ|一名 土槐》
山野に多し葉は槐(ゑんじゆ)の葉に似
たり花は赤小豆(あづき)の花のめし
根黄白色にして至てにかし
敷もの間に入四置は
よく蚤(のみ)をさくる
といふ
春苗を生し
高 ̄サ五六尺に
直立す夏花
ひらきて秋に
至て枯
○道中にて草臥(くたひれ)を直(なを)す秘伝(ひでん)并 奇方(めいほう)
一道中 茶屋(ちやや)にて休(やす)む節(せつ)草鞋(わらじ)のまゝにて足(あし)を
下(さげ)腰懸(こしかく)べからず其時は少(すこ) ̄シの間にても草鞋(わらじ)
をぬぎ上(うへ)へあかり急度(きつと)かしこまり休(やす)むべし
草臥(くたびれ)直(なを)ること妙なり
一 旅(たび)なれぬ人くたひれ又は足(あし)へまめを踏(ふみ)出(いた)すはみな
草鞋(わらじ)のはきやう麁相(そさう)なるゆへ也 能(よき)草鞋(わらじ)を調(とゝの)へ
てよく打(うち)はく時も不(いそか)_レ急(ず)のびつまりなきやうに
はくべし又 足(あし)乾(かわ)き熱(ねつ)する故に痛(いた)みもし
まめも出来(でき)るなり因而(よつて)折々 草鞋(わらじ)を解(とき)足(あし)
の熱(ねつ)をさまし急度(きつと)かしこまり休むべし
一 草臥(くたびれ)足痛(そくつう)する時は宿(やと)へ着(つき)風呂(ふろ)へ入て後(のち)塩(しほ)を調(とゝの)
へ足(あし)のうらへしたゝかになすり付火にてあふる
へし妙なり
一 至極(しこく)草臥(くたびれ)たる時は風呂へ入て後(のち)焼酎(しやうちう)を足(あし)の
三里(さんり)より下 足(あし)のうら迄 吹付(ふきつく)べし手にてぬり
てはきかぬなり
一 遠路(とをみち)をして 足(あし)のつち(心)ふまず腫(はれ)痛(いたむ)には蚯蚓(みゝづ)を泥(どろ)
のまゝすりつふしぬりてよし
一草臥(くたびれ)たる時 足(あし)の三里(さんり)承山(ぜうさん)通谷(つうこく)の三 ̄ケ所 灸(きう)すべし
下に図あり見合べし
一 足(あし)のうらへまめを踏出(ふみだ)したる時は半夏(はんけ)の細(さい)
末(まつ)をそくひのりに押(おし)ませてぬりてよし
一又方 煙草(たはこ)の吹(ふき)からをそくひに押交付て火にて
あふりてよし
一又方 薬種屋(やくしゆや)にて唐(から)の土(つち)といふ物(もの)を調(とゝの)へ薄(うす)き
そくいのりにませてぬりてよし
一又方 木綿糸(もめんいと)へ針(はり)を通(とう)し其(その)糸(いと)へ矢立(やたて)の墨(すみ)を
沢山(たくさん)ぬりまめを横(よこ)につきぬけは水(みづ)出(いて)て墨(すみ)まめ
のうちに残(のこ)り痛(いた)み止(とま)ること妙なり
一又方うとんの粉(こ)を水(みつ)にてときぬりてよし
一 夏(なつ)の旅(たび)に足(あし)のうら熱(ねつ)しいたむ時は蓼(たて)の葉(は)
をすり其(その)青汁(あをしる)をぬりてよし
一夏の旅に笠(かさ)の下へ桃(もも)の葉(は)を入かむれは暑気(しよき)
をうけさること妙也
一 毎朝(まいてふ)胡椒(こせう)を一二 粒(りう)つゝ服(ふく)せば夏(なつ)霍乱(くわくらん)をせず冬(ふゆ)
は雪吹(ふゞき)にあふことなし
一 夏(なつ)水(みづ)を飲(のむ)時(とき)胡椒一粒を嚙(かみ)くたきて呑へし又水を
嚙(かみ)て呑はあたることなし
一 毒虫(とくむし)にさゝれたる時は延齢丹(えんれいたん)にても蘇香円(そかうゑん)
てもぬれば早速(さつそく)痛(いたみ)退(しりぞ)くなり
一 田螺(たにし)を醤油(しやうゆ)にて炒付(いりつけ)乾置(ほしおき)て旅先(たひさき)へ持行(もちゆき)
二三日の内用ゆれば水にあたることなし
○湯気(ゆけ)にあかりたる時の奇方(めいほう)
一風呂(ふろ)へ入て時(とき)を移(うつ)し湯気(ゆけ)に中(あた)りたるには
冷水(ひやみつ)を其(その)面(かほ)にふきかくべしもし衂血(はなち)止(やま)ず
眩暈(めまい)甚しきものは惣身(そうしん)に水を澆(そゝき)かけてよし
一又方 面(かほ)へ水を噴(ふき)かけて後髪(のちかみ)を解(とき)あら櫛(くし)にて
幾(いく)へんもすけば気(き)の付こと妙也又 酢(す)を少々
飲(のま)しむへし
【以下図の説明】
此(この)図(づ)の外に草臥(くたびれ)足痛(そくつう)の
灸所多し試(こゝろ)み覚へてよき
所ともへはすへべし然共わらじ
脚半等にてすれる所は用
心あるべし
三里膝の下三寸 外(そと)のかと
○承山(じやうざん)俗(ぞく)にかこかき
三里といふ
○足の
ふくらは
きの
図
承山(じやうざん)
両足をつま立れば
ふくらはきへ山の
かたち出る也その
山の下を承山と
しるへし
通谷(つうこく)
足(あし)の小(こ)ゆひのよこの
くほみたる所なり
くたびれよく直る也
○道中(たうち)所持(しよじ)すへき薬(くすり)の事
一 熊胆(くまのゐ) 奇応丸(きをうくわん) 返魂丹(はんこんたん)
已上三方は積又は腹痛食傷霍乱によし此外はらあひの薬
いろ〳〵あれとも此三方にてたるべし
一 五苓散(ごれいさん) 胡椒(こせう)
水かわり又は夏人々かわきて水をのむに用ひてよし
一 延齢丹(えんれいたん) 蘇香円(そかうゑん) 気付によし
一 三黄湯(さんわうたう)
是は道中は人々のぼせるものゆへ大便けつしやすし其節
ふり出し用ゆべし
一 切(きり)もくさ しめらぬやうにして貯ふべし
一 備急円(ひきうゑん)
大食傷にて吐(はき)も瀉(くた)しもせざる時に用ゆる為なり然とも大方は先つ
熊のゐ奇応丸返魂丹にて吐瀉あるもの也
一 油薬(あふらくすり) 白竜膏(はくりうかう) 梅花香(ばいくわかう)
此外近頃流布する朝川の桂花香(けいくわかう)なとよし切疵腫物毒虫
のさしたるによし
右の外は面々(めん〳〵)のあひ薬(くすり)有ものなれば勝手(かつて)次
第(したい)たる
べし又道中にては薬種屋(やくしゆや)にて調ふれば大概(たいかい)急用(きうよう)
はたるべし
○道中(たうちう)所持(しよじ)すべき品(しな)の事
一 矢立(やたて) 扇子(あふき) 糸(いと)針(はり) 懐中(くわゐちう)鏡(かゝみ)
日記(につき)手帳(てちやう)一冊 櫛(くし)并 ̄ニ鬢付油(ひんつけあふら)
但しかみそりは泊屋にてかり用ゆへし又髪ゆひもあれとも只途中
又は 御関所城下等通る節ひんのそゝけざる為なり
一 挑灯(ちやうちん) ろうそく 火打道く 懐中付木
是はたばこを呑ぬ人も懐中すべしはたこ屋のあんとうはきへ
やすきもの故ふ慮に備ふべし
一 麻綱(あさつな) 是は泊々にて物品をまとひおくに至極よきもの也
一 印板(いんばん)
是は家内へ其印鑑を残し置旅先ゟ遣ス書状に引合せ又
金銀の為_レ替等にも其印を用ゆる為の念なり
一【鈎の図】 此かきを所持すれば道中にて重実なるもの也
【以下図の説明】
革袋(くわふくろ)
駕籠に乗には此 革袋(かわふくろ)を持てよろし
座右の物を残らず入て休み又は
泊りへ着自身ひつさけあかるに
至極よきもの也
胴乱(だうらん)
乗かけには此胴らん至極
重法なり紐を手丈夫
にすべし
○道中にて日記 認方(したゝめかた)之事
一道中にて名所(めいしよ)旧跡(きうせき)を尋(たつね)風景(ふうけひ)の能(よき)所又は珍
敷物等見聞たるならば何月何日何所にて何を
見ると有のまゝに書付もし詩歌(しか)連俳(れんはい)等の句(く)心
にうかみたらば連続(れんぞく)せずとも其(その)趣(をもむき)を日記にしる
し置へし又山川の真景(けしき)等を画に認るも其通
り見たるまゝを写(うつ)し置 追而(おつて)帰国(きこく)の上 取立(とりたて)
浄書(せいしよ)すべし詩歌もつゝり絵図(ゑづ)もよく書んと
すれば道中する邪魔(しやま)になりてよく出来ぬ
ものなり心得あるへし
【表上段】
○日の出入の事
正十節 卯ノ八分 ̄ニ出 酉ノ二分 ̄ニ入
正九節 卯ノ七分 ̄ニ出 酉ノ三分 ̄ニ入
二九節 卯ノ六分 ̄ニ出 酉ノ四分 ̄ニ入
二八節 卯ノ五分 ̄ニ出 酉ノ五分 ̄ニ入
三八節 卯ノ四分 ̄ニ出 酉ノ六分 ̄ニ入
三七節 卯ノ三分 ̄ニ出 酉ノ七分 ̄ニ入
四七節 卯ノ二分 ̄ニ出 酉ノ八分 ̄ニ入
四六節 卯ノ一分 ̄ニ出 酉ノ九分 ̄ニ入
五六節 卯ノ時 ̄ニ出 戌ノ時 ̄ニ入
五中 寅ノ九分 ̄ニ出 戌ノ一分 ̄ニ入
十十二中 卯ノ九分 ̄ニ出 酉ノ一分 ̄ニ入
十一十二節 辰ノ時 ̄ニ出 酉ノ時 ̄ニ入
十一中 辰ノ一分 ̄ニ出 申ノ九分 ̄ニ入
【表下段】
○一年昼夜長短《割書:六ヨリ|六マテ》の大略
正月 ̄ノ中 昼五十コク半ヨ 夜四十九コクヨ
二月 ̄ノ中 昼五十五コクヨ 夜四十四コク半ヨ
三月 ̄ノ中 昼六十コク 夜四十コク
四月 ̄ノ中 昼六十四コク 夜三十六コク
五月 ̄ノ中 昼六十五コク半ヨ 夜三十四コクヨ
六月 ̄ノ中 昼六十四コク 夜三十六コク
七月 ̄ノ中 昼六十コク 夜四十コク
八月 ̄ノ中 昼五十五コクヨ 夜四十四コク半ヨ
九月 ̄ノ中 昼五十コク半ヨ 夜四十九コクヨ
十月 ̄ノ中 昼四十七コクヨ 夜五十二コク半ヨ
十一月 ̄ノ中 昼四十五コク半ヨ 夜五十四コクヨ
十二月 ̄ノ中 昼四十七コクヨ 夜五十二コク半ヨ
【表上段】
○月の出入の事
朔日 《割書:卯 ̄ノ四刻 ̄ニ出|酉 ̄ノ四ヽ ̄ニ入》 十六日 《割書:酉 ̄ノ四刻 ̄ニ出|卯 ̄ノ四ヽ ̄ニ入》
二日 《割書:卯 ̄ノ八刻 ̄ニ出|酉 ̄ノ八ヽ ̄ニ入》 十七日《割書:酉 ̄ノ八刻 ̄ニ出|卯 ̄ノ八ヽ ̄ニ入》
三日 《割書:辰 ̄ノ二刻 ̄ニ出|戌 ̄ノ 二ヽ ̄ニ入》 十八日 《割書:戌 ̄ノ二刻 ̄ニ出|辰 ̄ノ二ヽ ̄ニ入》
四日 《割書:辰 ̄ノ六刻 ̄ニ出|戌 ̄ノ 六ヽ ̄ニ入》 十九日 《割書:戌 ̄ノ六刻 ̄ニ出|辰 ̄ノ 六ヽ ̄ニ入》
五日 《割書:巳 ̄ノ刻 ̄ニ出|亥 ̄ノ ヽ ̄ニ入》 廿 日 《割書:戌 ̄ノ刻 ̄ニ出|巳 ̄ノ ヽ ̄ニ入》
六日 《割書:巳 ̄ノ四刻 ̄ニ出|亥 ̄ノ 四ヽ ̄ニ入》 廿一日 《割書:亥 ̄ノ四刻 ̄ニ出|巳 ̄ノ 四ヽ ̄ニ入》
七日 《割書:巳 ̄ノ八刻 ̄ニ出|亥 ̄ノ 八ヽ ̄ニ入》 廿二日 《割書:亥 ̄ノ八刻 ̄ニ出|巳 ̄ノ八 ヽ ̄ニ入》
八日 《割書:午 ̄ノ二刻 ̄ニ出|子 ̄ノ 二ヽ ̄ニ入》 廿三日 《割書:子 ̄ノ二刻 ̄ニ出|午 ̄ノ 二ヽ ̄ニ入》
九日 《割書:午 ̄ノ六刻 ̄ニ出|子 ̄ノ六ヽ ̄ニ入》 廿四日 《割書:子 ̄ノ六刻 ̄ニ出|午 ̄ノ 六ヽ ̄ニ入》
十日 《割書:未 ̄ノ刻 ̄ニ出|丑 ̄ノ ヽ ̄ニ入》 廿五日 《割書:丑 ̄ノ刻 ̄ニ出|未 ̄ノ ヽ ̄ニ入》
十一日 《割書:未 ̄ノ四刻 ̄ニ出|丑 ̄ノ 四ヽ ̄ニ入》 廿六日 《割書:丑 ̄ノ四刻 ̄ニ出|未 ̄ノ 四ヽ ̄ニ入》
十二日 《割書:未 ̄ノ八刻 ̄ニ出|丑 ̄ノ 八ヽ ̄ニ入》 廿七日 《割書:丑 ̄ノ八刻 ̄ニ出|未 ̄ノ 八ヽ ̄ニ入》
十三日 《割書:申 ̄ノ二刻 ̄ニ出|寅 ̄ノ 二ヽ ̄ニ入》 廿八日 《割書:寅 ̄ノ二刻 ̄ニ出|申 ̄ノ 二ヽ ̄ニ入》
十四日 《割書:申 ̄ノ六刻 ̄ニ出|寅 ̄ノ 六ヽ ̄ニ入》 廿九日 《割書:寅 ̄ノ六刻 ̄ニ出|申 ̄ノ 六ヽ ̄ニ入》
十五日 《割書:酉 ̄ノ刻 ̄ニ出|卯 ̄ノ ヽ ̄ニ入》 晦日 《割書:卯 ̄ノ刻 ̄ニ出|酉 ̄ノ ヽ ̄ニ入》
【表下段】
○潮(しほ)の盈虚(みちひ)の事
朔日 十六日 《割書:あさ大|ばん》六ッ四分盈 《割書:ひる|よる》九ッ四分于
二日 十七日 《割書:あさ |ばん》六ッ八分ヽ 《割書:ひる|よる》九ッ八分ヽ
三日 十八日 《割書:あさ中|ばん》五ッ二分ヽ 《割書:ひる|よる》八ッ二分
四日 十九日 《割書:あさ |ばん》五ッ六分ヽ 《割書:ひる|よる》八ッ六分ヽ
五日 廿日 《割書:あさ |ばん》四ッ ヽ 《割書:ひる|よる》七ッ ヽ
六日 廿一日 《割書:あさ |ばん》四ッ四分ヽ 《割書:ひる|よる》七ッ四分ヽ
七曰 廿二日 《割書:ひる小|よる》四ッ八分ヽ 《割書:あさ|ばん》七ッ八分ヽ
八日 廿三日 《割書:ひる |よる》九ッ二分ヽ 《割書:あさ|ばん》六ッ二分ヽ
九日 廿四日 《割書:ひる |よる》九ッ六分ヽ 《割書:あさ|ばん》六ッ六分ヽ
十日 廿五日 《割書:ひる長|よる》八ッ ヽ 《割書:あさ|ばん》五ッ ヽ
十一日 廿六日 《割書:ひる |よる》八ッ四分ヽ 《割書:あさ|ばん》五ッ四分ヽ
十二日 廿七日 《割書:ひる |よる》八ッ八分ヽ 《割書:あさ|ばん》五ッ八分ヽ
十三日 廿八日 《割書:ひる |よる》七ッ二分ヽ 《割書:あさ|ばん》四ッ二分ヽ
十四日 廿九日 《割書:あさ |ばん》七ッ六分ヽ 《割書:ひる|よる》四ッ六分ヽ
十五日 晦日 《割書:あさ |ばん》六ッ ヽ 《割書:ひる|よる》九ッ ヽ
【表終り】
〇日和見(ひよりみ)様(やう)の事幷 古歌(こか)諺(ことわざ)
一 夜(よる)の九ッ時 昼(ひる)の五ッ時七ッ時より降出したるは長雨也
又昼の四ッ時六ッ時の降出しは少しの間にて日和になる也
又夜の五ッ時七ッ時昼の九ッ時の降出しははら〳〵雨にて
早速(さつそく)止(やむ)也又昼の八ッ時六ッ時夜の四ッ時のふり出しは
僅(はつか)半日計りにてあかるなり
一 東風(こち)は雨になるへきものなれとも入梅(にうばい)【左ルビ「つゆ」】と土用にはふり
つゝきたる雨もあかる也○東風 急(きう)なれは夜晴をつか
さとる也○春夏に西北の方より吹風は雨の印也○秋西
風吹はかならず雨也○冬の日南風吹は三日に霜(しも)をつかさ
とる也○西風・北西風は日和・東風・南風は雨風也○日の
没(いり)赤か青は風也・夕雲赤は晴・雲乱飛は大風・風雲跡
なきはやむ・雲の色紅白なれは又大風也○夜 霧(きり)ふれば
翌(よく)日大風也○流星(りうせい)東へ飛ば風也・南へ飛ば晴・西へ飛ば
雨也○月の出色白は雨也・月のかさに星(ほし)あれは雨
なり・笠(かさ)かさなれは大風也・月の入に光(ひかり)つよきは雨・
色白は風・朝(あさ)虹(にじ)西に有は三日のうちに雨也・夕虹東に有は
日和・電(いなひかり)四方にあるは風雨也
一雨ふらんとしては礎(いしすへ)うるほふもの也○山あざやかに見ゆる
時は陽風也又山かくれて見へざれば陰風也○烏(からす)水(みづ)をあ
びるはかならす雨の印也○鳩(はと)鳴(なひ)てかへす声(こゑ)あらば
晴也かへすこゑなきは雨の印也○朝(あさ)に鳶(とび)鳴(なけ)ば雨也
夕に鳴ばはれ也○竃(かまど)の煙(けむ)りもや〳〵として下(した)へさが
らば雨としるべし直(すぐ)に立(たち)のぼりて滞(とゞこほ)らざるは晴也
一 出雲(でくも)入雲(いりくも)にて日和を見ること国々によりて替(かわり)
あり大坂にては雲のあし丑寅(うしとら)の方へゆくを入雲と
いふ雨になる也又 未申(ひづしさる)の方に行を出雲といふ
これも雨になれども風つよく吹時は日和に成(なる)事(こと)あり
一天一太郎。八専次郎。土用三郎。寒四郎といふことは。天一
天上が朔日にあたるを天一太郎といふ。八専次郎といふは
八専が入て二日めをいふ。土用三郎といふは土用が入て
三日めをいふ。寒四郎とは寒が入て四日めをいふいつれ
もこれにあたる日に雨ふればて気あしく成もの也
一天気 時候(じこう)は国所によりてかはること有ゆへに一概(いちがひ)にも
いひかたし大凡 関東(くわんとう)は西風にて晴東風にて
雨ふる関西(くわんさい)は西風にて雨降東風にて晴る也 因而(よつて)
土地所に応して聞合 考(かんかへ)しるべし
古歌并諺
筑波(つくば)はれ浅間(あさま)くもりて鵙(もず)鳴(なか)ば雨はふるとも
旅(たび)もよひせよ
五月西春は南に秋は北いつも東風(こち)にて
雨ふるとしれ
春北風に冬南いつも東は定降(じやうふり)の慕雨(ぼう)
降 霧 照 霧 立 霧 降 霧
ふつきりはてつきり たつきりはふつきり
右の両句日和を知の妙語也霧ふれは天気也
霧立のほれは雨になるなり余これをためし見るに
違ふことなし又心やすく覚よき語なり前の
古歌も関東にて日和をためし考へたる歌なる
へし都而日和の見やうは譬(たとへ)は関東にてはふじ
山筑波山の雲たちによつて風雨をしるやうに其
国々所々にて目当ありて知こと也 因而(よつて)道(たう)中にては
其所々にて聞合考へみるへし旅は日和の善悪(ぜんあく)に因(よつ)
而(て)損益(そんゑき)あること也 川越(かわこし)船(ふな)わたし等のある前後(ぜんご)は
別而(へつして)了簡(りやけん)あるべき事也
ものゝふの
やはせの
わたし
ちかく
とも
いそかは
まわれ
瀬田の
長橋
○旅行(りよかう)教訓歌(きやうくんのうた)
宿(やと)とりて一に方角(ほうがく)二 雪隠(せつゐん)三に戸(と)じまり
四には火(ひ)のもと
道中(たうちう)は自由(じゆう)をせんと思ふましふ自由せんと
すれは自(じ)ゆふぞ
長(なが)たびの道具(たうぐ)はとかく少(すくな)きをよしと定(さだ)めよ
おほきのはうき
道中の事(こと)を手軽(てかる)にする人は川留(かわとめ)故障(こしやう)
あれとあんせむ
早(はや)く立(たち)はやくとまるといふ人は旅にて難(なん)は
なきとしるべし
道中は一度にものをしたゝめずやすみ〳〵て
いくたひもくゑ
道中の食(しよく)によしあしいふ人は土地(とち)も処(ところ)も
見わかぬとしれ
それ〳〵に所の風土(ふど)を味(あぢわ)ひてくらへは悪敷(あしき)
ものもけつかう
上戸(じやうご)ても旅て大酒(たいいしゆ)はすべからす折々すこし
のめは り(良)やう やく(薬)
旅先てたとへいそけとしらぬ川(かわ)しらぬちか道(みち)
つゝしみてすな
仮初(かりそめ)の船路(ふなぢ)をゆかんたひならば遅速(ちそく)の程(ほと)を
かんかへてのれ
雨(あめ)ふる日あかるくならは宿(やど)かりよ暮(くれ)て泊(とま)れば
よきやとはなし
道中は家来(けらい)けんぞくありとても自身(じしん)にものを
するかちにせよ
道中てみへかさりする人達(ひとたち)は必(かなら)すなんに
あふとしるへし
泊りにてもしや近火(きんくわ)のある時は立(たち)したくして
次(つき)に荷(に)をだせ
ものいひを旅てはことに和らけよ利屈(りくつ)かましく
こわたかにすな
得たりとて旅て出(いた)すなそのわざをかくせはひかり
いやまさるなり
落(おと)さしとわかふところに心つけ川越(かわこし)の場(ば)と
ふねののりをり
馬かたや荷(に)持(もち)雲助(かこかき)あなとるな同しうきよに
をなし世(よ)わたり
はらのたつことをも旅はこらへつゝいふへきことは
のちにことわれ
乗(のり)かけは小附(こつけ)まてをも改(あら)めて其(その)数(かつ)合ふた
上(うへ)てのるべし
宿(やと)たゝばもつへき物をあひたかひ忘(わすれ)ぬやうに
気を付てやれ
右(みき)旅行(りやうかう)教訓(きやうくん)の歌(うた)を人々(ひと〳〵)つね〳〵暗誦(あんせう)【左ルビ「そらにおぼへは」】せば後日(かうじつ)
旅行する折の心得となるへし
○旅立の歌
庭中のあすはの神に小柴さしあわれ祝む
帰りくるまて
定(さた)めえし旅(たひ)たつ日(ひ)とり吉悪(よしあし)は思ひ立(たつ)日(ひ)を
吉日(きちにち)とせむ
【上段横書き】
白沢之図
【下段】
此(この)白沢(はくたく)の図(づ)を懐(くわい)
中(ちう)すれば善事(せんじ)を
すゝめて悪事(あくじ)を
しれぞけ山海(さんかい)の
災難(さいなん)病患(ひやうく)をま
ぬかれ開運(かいうん)昇(しやう)
進(しん)の祥端(せうすい)ある
こと古今(ここん)云伝(いひつた)ふる
所也 因而(よつて)旅中(りよちう)は
最(もつとも)尊信(そんしん)あるべし
南胆部州大日本国正真図
用明天皇御宇定五畿七道也文武天皇御宇分六十六箇国
松前 陸奥 出羽 下野 上野 信濃 ヒダ ミノ 近江 佐渡 越後 越中 能登 加賀 越前 ワカサ 常陸 下総 上総 安房 武蔵 江戸 甲斐 相模 伊豆 大シマ 三宅 黒セ川 八丈 駿河 遠江 参河 尾張 イカ 伊勢 シマ 山城 京 大和 河内 イツミ 摂津 大坂 丹波 丹後 但馬 イナバ 伯耆 出雲 石見 隠岐 ハリマ 美作 備前 備中 備後 アキ 周防 長門 紀伊 アハチ 讃岐 阿波 ナルト 土佐 伊予 豊前 豊後 筑前 筑後 肥前 長崎 肥後 日向 薩摩 大隅 対馬 イキ 平戸 五トウ 琉球 朝鮮
夫(それ)我(わか) 邦(くに)の温泉(おんせん)は神代(かみよ)のむかし未(いまた)医薬(いやく)のはじ
まらざる時 万民(ばんみん)疾病(しつへい)夭折(ようせつ)の患(うれ)ひを救(すくわ)んがために
大已貴尊(をゝあなむちのみこと)宿奈彦那命(すくなひこなのみこと)と同しく諸国(しよこく)を巡行(しゆんこう)し
温泉を取立給ひしより已来(このかた)諸民(しよみん)病患(ひやうくわん)を平愈(へいゆ)す
ること得たり然りしより後上は 王侯(わうこう)より下(しも)庶人(しよじん)
に至(いたる)迄(まて)湯治(たうじ)すること今(いま)に盛(さかん)也(なり)抑(そも〳〵)温泉は天地(てんち)の妙(めう)
効(かう)にして人体(じんたい)肌膚(きふ)を膏沢(うるほ)し関節(くわんせつ)経絡(けいらく)を融通(ゆうつう)
して腹蔵(ふくそう)表裏(ひやうり)に貫徹(くわんてつ)するか故に其(その)症(しやう)に的中(てきちう)する
におゐては万病(まんひやう)を治すること医薬(いやく)の及ふ所に非(あら)ず
依_レ之湯治する人温泉を尊信(そんしん)せずんば有べからず
一 左(さ)に著(あらわ)す所(ところ)の諸国(しよこく)の温泉(おんせん)は唯(たゞ)養生(ようじやう)の為(ため)に
湯治(たうじ)する人(ひと)は勿論(もちろん)又(また)物参(ものまいり)遊山(ゆさん)なからに旅立(たびたち)
其(その)もより〳〵によつて湯治(たうじ)する人の為に国分(くにわけ)に
して見易(みやすき)やうに里数(りすう)を加(くわ)へ効験(かうけん)の大略(たいりやく)をあく
依(これに)_レ之(よつて)其(その)順路(じゆんろ)に随(したが)ひ此(この)書(しよ)に引(ひき)合て尋(たつね)求(もとむ)べし湯(ゆ)
の効能(かうのう)不案内(ふあんない)の場所(ばしよ)は其 土地(とち)の人に能(よく)聞(きゝ)合て
湯治すべし病症(ひやうしやう)によつて合(あふ)と不(あは)_レ合(ざる)とあることゆへ
ゆるかせにすべからず
一 湯治(たうじ)する人 其(その)温泉(おんせん)其(その)病症(ひやうしやう)にあふとあわぬとを
ためしみるには初(はじめ)一両度(いちにと)入(いり)て後(のち)胸(むね)腹(はら)すき食物(しよくもつ)
味(あしわ)ひよきは相応(さうわう)したると知(しる)へし若(もし)一両度入
ても胸腹(きやうふく)はり食(しよく)の味(あぢわ)ひあしく不(すゝま)_レ進(ざる)は先(まつ)は不相応(ふさうわう)
としるべし是等(これら)の事は其(その)土地(とち)々々の湯宿(ゆやと)へ委細(いさひ)を
咄(はな)し其上(そのうへ)入湯(にうたう)すべし然ども二三日も入て見れば
おのつから様子(やうす)しれるものなり
一 湯治(たうじ)の仕方(しかた)ははじめ一日二日の中は一日に三四度
に限(かぎる)べし相応する上は五七度迄はくるし
からず老人(ろうじん)又は虚弱(きよじやく)の人は斟酌(しんしやく)あるべし又 多年(たねん)
の病(やまひ)は一 ̄ト回(まわり)二 ̄タ回にては不(いゑ)_レ治(ざる)ものあり故に三四回又は
一二月も入へし
一湯治中病人は勿論(もちろん)無病(むびやう)の人にても禁(きん)じ慎(つまし)む
べき物(もの)は飽食(ほうしよく)大酒(たいしゆ)房事(ぼうじ)冷(ひへ)たる食物(しよくもつ)等也又 湯(ゆ)
上(あがり)には惣身(さうしん)毛(け)の孔(あな)開(ひらく)ゆへ外邪(くわいしや)をうけやすし依(これに)_レ之(よつて)
深山(しんざん)の涼風(りやうふう)にあたり又は清水(しみづ)に足(あし)を冷(ひや)し或は
風(かざ)吹にうたゝねなと決而(けつして)すへからず平生(へいぜい)の外邪
よりも湯上りに受たるは別而(へつして)甚(はなはた)し慎むべし
一 温泉(おんせん)は熱(あつふ)して能(よく)澄(すみ)鑑(かゞみ)の如く底(そこ)まて明(あきら)かなるを
最上(さいじやう)とす温(ぬる)うして濁(にこり)り又は色(いろ)替(かわ)りたる湯は
下品なり然ども所により濁り色替りたる湯に
ても無毒(むどく)温順(おんじゆん)にして病に能(よく)利(きく)湯もあり一概(いちがひ)に
いふべからず又湯の源(みなもと)一 ̄ト口にして湯宿 数軒(すけん)へ配分(はいぶん)
すれば其(その)家々(いゑ〳〵)により其(その)効能(かうのう)夫々(それ〳〵)に替(かわる)ものあり依_レ之
温泉(おんせん)ある場所(ばしよ)にはいろ〳〵に利(きゝ)めの有湯あるものな
れば其所に至り様子をとくと湯宿へ問合すへし
いかなる名(な)高(たかき)温泉にても其病症に因而(よつて)相応ふ相
応有ことあれは能々聞合て湯治すへし
一 諸州(しよしう)の温泉(おんせん)左にあくるもの凡四十ケ国二百九十
二ケ所 此(この)余(よ)洩(もれ)たる温泉諸国にこれありといへ
ども徧(あまね)く尽(つく)す事あたはず依_レ之 其(その)洩(もれ)たるもの
此(この)書(しよ)へ追々(おい〳〵)加入(かにう)あるべし
諸国温泉
五幾内
大和 武蔵(むさし) 塩(しほ)の葉(は)
摂津 有馬(ありま)《割書:京ヨリ十四里|大坂ヨリ九里》 多田(たゞ)《割書:池田ヨリ|一里ヨ》 一庫(ひとくら)《割書:一庫村|にあり》
一 有馬(ありま)の湯(ゆ)は浴室(よくしつ)一 宇(う)にして湯槽(ゆふね)深 ̄サ三尺八寸
堅(たて)二丈壱尺 横(よこ)一丈二尺五寸 底(そこ)は鋪石(しきいし)なり其(その)
石(いし)の間(あひ)に竹筒(たけつゝ)を狭(はさみ)其中より湯(ゆ)涌出(わきいつ)る也 味(あしわい)は鹹(しほはや)
し中間(ちうかん)に板壁(いたかべ)を隔(へたて)て南(みなみ)を一の湯とし北(きた)を二
有馬温泉
城山
あたこ
一のゆ
二のゆ
の湯とす湯宿二十軒を二十坊とし南北に相
分(わか)れり此(この)外(ほか)の家々を旅人(りよしん)を留る小宿といふ二
十坊の家毎に二婢(にひ)あり一人は大湯女(おゝゆな)といひ通(つう)
称(しやう)嫁家(かか)と呼(よふ)也一人は小湯女(こゆな)といふ是(これ)は年若(としわか)なり
家々(いゑ〳〵)代々(たい〳〵)通名を伝(つた)ふ此二人の湯女 湯治(たうし)する客(きやく)人
に湯の廻(まは)りを告(つけ)しらしめ送(をく)り迎(むかひ)す諸国(しよこく)の旅(りよ)
客(かく)混雑(こんさつ)すれとも其廻り違(たか)ふことなし又 留湯(とめゆ)と
いふあり是は湯幕(ゆまく)を引(ひき)て他(た)の人をとゞむ
一之湯《割書:小湯女通名あり|大湯女はかゝといふ》
奥ノ坊 夏女 伊勢屋 竹女 御所ノ坊 桔女
尼崎坊 移女 称宜屋 杉女 角ノ坊 蔦女
二階坊 栗女 大門 辰女 若狭屋 市女
中ノ坊 常女
二之湯
池ノ坊 松女 川崎屋 弥女 休 ̄ミ取 武女
河野屋 光女 兵衛 小夜女 大黒屋 竿女
水船 辻女 下 ̄タ大坊 鍋女 索麺屋 藤女
萱ノ坊 紀以女
一 妬湯(うわなりゆ) 此(この)湯(ゆ)は湯本谷町にあり女子 化粧(けせう)して
此湯の側(かたわら)へ近付ば湯 怒(いかり)て沸(わき)出るといふ
一 明目湯(めいもくゆ)この湯は温泉寺(おんせんじ)の下にあり眼病(かんひやう)によし
一 多田(たゞ)の湯一名 平野(ひらの)の湯といふ浴室(よくしつ)の広(ひろ) ̄サ方五丈
計(はかり)中(なか)を隔(へたて)て男女 分(わか)ち入(いれる)也此湯はぬる湯を汲入(くみいれ)
て火にてわかして湯治(たうじ)す
一 一庫(ひとくら)の湯 是は多田より近し一庫村の山中に
ありこのゆも火にてわかし湯治す
東海道
伊勢 菰野(こもの) 此湯は山中(さんちう)にて渓水(たにみつ)まぢりて
ぬるき故火にてわがして入なり
遠江 虫生(むじう)
甲斐 川浦 下部 奈良田
塩山 黒平 湯村
伊豆 熱海(あたみ)《割書:小田原ヨリ七里○江戸ヨリハ根府川|御関所手形入ル此地温泉数多シ》
大湯 上町ニアリ
清左衛門湯 此湯の側(かたわら)にて清左衛門 弱(よは)しと
小(ちいさ)く呼(よば)は小く沸(わく)大く呼は大に沸出(わきいつ)る也
野中湯 上町清左門湯の側にあり
法斎(ほうさい)湯 下町ノ北野中ニアリ 此湯も気違(きちがひ)の
法斎坊(ほうさいぼう)〳〵と呼(よべ)ば其(その)声(こゑ)の大小(だいしやう)に随(したかつ)て沸出(わきいづる)也
河原湯 法斎湯の南にあり当時湯する人なし
水湯 本町の北にあり是も湯する人なし
風呂(ふろ)湯 水湯の側にあり
走(はし)り湯 一名 滝(たき)の湯 《割書:熱海より半里ヨ権現の祠の|南にあり》
小奈 東海道三島宿ヨリ三里下田海道なり
修善寺(しゆぜんじ) 同所ヨリ五里半名湯なり
よし名 同所ヨリ七里半 伊藤 宇佐美
湯ガ島 蓮䑓寺(れんだいじ) 湯 ̄ガ野 北湯 ̄ガ野
一熱海の温泉は大 熱湯(ねつたう)にして昼夜(ちうや)に六度 沸出(わきいつ)る也 味(あじわ)ひ
鹹(しほはや)くして其(その)潔白(けつはく)なること鏡(かゞみ)の如し然共此地 海辺(かいへん)にて
潮(うしほ)を交(まじゆ)る故に其(その)気(き)柔(やはらか)にして猛烈(もうれつ)ならず諸病(しよひやう)に効(かう)あり
関東(くわんとう)第一の名湯(めいたう)也 湯宿(ゆやと)数(す)十 軒(けん)各(おの〳〵)樋(とひ) ̄ヲ以 ̄テ大湯を引也又
此地に霊場(れいじやう)勝景(せうけい)多(おゝき)こと枚挙(まいきよ)すべからず就(なかん)_レ 中(づく)日金山(ひかねさん)は天下
の絶景(せつけい)也西南に三保(みほ)の松原(まつはら)富士川(ふじかわ)を見(み)北は富士(ふじ)足高(あしたか)攣子(ふたご)
山東は天木(あまき)嘉貫(かぬき)伊藤(いとう)の諸峰(しよほう)連(つらな)り又 海上(かいしやう)は初島(はつしま)大島(おゝしま)等を
遠望(ゑんぼう)すること編戸(へんこ)の波上(はしやう)に浮(うかむ)が如し凡西国より東国へ
至 ̄ル舶船(はくせん)此(この)洋(なた)を不(すき)_レ過(ざる)はなし其外(そのほか)山禽(さんきん)海魚(かいきよ)名産(めいさん)多く
ありて旅客(りよかく)の有用(ゆうよふ)足(たら)ざる事なし
○熱海(あたみ)の効(かう)は 中風(ちうふう) 疝癥(せんしやく) 眩暈(めまいたちぐらみ) 痰飲(たんせき) 眼病(がんびやう)
頭痛(づつう) 腰痛(ようつう) 脚気(かつけ) 筋攣(ひきつり) 跌仆(つまつき) 折傷(うちみくじき) 諸虫(むし) 寸白(すんばく)
痔漏(ぢも[◻]) 脱肛(たつこう) 痱痺(はいひ) 疥癬(ひぜん) 諸瘡(しよさう) 淋病(りんしつ) 金瘡(きりきず)
五積(しやく) 六聚([◻◻]へ)但シ腫気(しゆき)あるものは忌(いむ)べし
歯痛(はのいたみ)には湯(ゆ)を口中へいくたひも含(ふくみ)てよし
○忌(いむ)べき病(やまひ)は 水腫(すいしゆ) 張満(ちやうまん) 癩病(らいびやう) 癲癇(てんかん) 黄痰(わうだん)
虚損(きよそん)等の症(せう)慎(つゝし)んて浴(よく)すべからず
○脩善寺(しゆぜんじ)は 筥湯(はこゆ) 石(いし)湯 亭(ちん)の湯 新(あら)湯
独鈷(とつこ)の湯等 数種(いろ〳〵)あり温熱(おんねつ)は浴(よく)する者(もの)の心に
任(まか)せ効験(こうのふ)もそれ〳〵にわかれ諸瘡(しよさう)積聚(しやくしゆ)によし
○吉奈(よしな)は温和(おんくわ)にして酷(こく)ならず身(み)を漬(ひた)し
気(き)を収(おさ)め肩(かた)を汲(ひた)して時(とき)を移(うつ)すにあらざれば
温気(おんき)を覚び老人(らうじん)婦人(ふじん)腰(こし)冷(ひへ)下血(げけつ)寒疝(せんき)或は
中症(ちうせう)惣而(そふじて)羸弱(ゑいじやく)の人によろしく温(あたゝ)むべき
病症(びやうせう)に効(かう)を得ること許多(きよた)なりといふ
一豆州 加茂郡(かもこほり)肖盧山(せうろざん)脩善寺(しゆぜんじ)は山(やま)の風景(ふうけい)唐土(もろこし)
の盧山(ろさん)に似(に)たりとて宋(そう)の西蜀(せいしよく)涪江(はうこう)の浮図(しゆつけ)
道隆(たうりう)《割書:号_二蘭渓_一 ̄ト|謚_二大覚_一》肖盧山(せうろさん)と号(な)つけ彼国(かのくに)理宗帝(りそうてい)
の額(がく)其外(そのほか)奇品(めづらしきもの)を此(この)寺(てら)に蔵す勝景(せうけい)最(もつとも)佳(よし)也
必ず遊ふべき所なり
日金山
アタミ
ヨリ
五十丁
木ノ宮
前湯
小田原三千
本陣
渡部
本陣
今井
弁天
アシロ
明神
相模箱根 湯本(ゆもと) 小田原ヨリ一里半ヨ 湯宿九軒
塔(たう)の沢(さわ) 湯本ヨリ十二丁湯宿十二軒
宮(みや)の下(した) 塔の沢ヨリ 一里半 湯宿八軒
堂(だう)が島(しま) 宮の下ヨリ谷へ十丁計リ下ル 湯宿六軒
底倉(そこくら) 宮の下ツヽキ 湯宿四軒
木賀(きか) 底くらヨリ半道 湯宿三軒
芦(あし)の湯 底倉ヨリ一里-六丁 湯宿五軒
禅定(ぜんじやう)一名 姥子(うばこ) 小田原ヨリ五里定リタル湯宿なし
胡胡米(こゞめ)一名 子産湯又河内湯トモいふ
仙石原 新湯
○湯本は諸(もろ〳〵の)瘡痬(できもの)。下疳(けかん)。瘡毒(さうとく)。楊梅瘡(やうばいそう)
痼湿(こしつ)。結毒(けつとく)。五痔(ぢ)。腰痛(ようつう)。癥疝(せんき)。金瘡(きりきず)に効(かう)あり
○塔(たう)の沢(さは)は。頭痛。眩暈。下冷。打撲。くちき。口舌(こうせつ)
の痛(いたみ)。血(ち)の道(みち)痱痺(はいひ)。喘息(せんそく)血瘕(けつかい)。
○宮(みや)の下(した)は五痔(ぢ)。淋病(りんひやう)。風疹(かさほろし)。疝気(せんき)。寸白(すんはく)に効(かう)有り
○堂(だう)か島(しま)は 功能同前所
○底倉(そこくら)は五痔(ぢ)。脱肛(たつこう)。疣痔(いほぢ)。都而 肛門(こうもん)の痛(いた)み
に大効(たいかう)ありゆゑに小倡(かげま)多くこゝに湯治す
○木賀(きか)は手足(てあし)㿏痺(くんひ)。筋骨(きんこつ)攣急(れんきう)。頭痛(つつう)。痰(たん)
飲(いん)。撲損(ほくそん)。閃肭(せんとつ)。転筋(てんきん)。痛風(つうふう)。に効あり
○芦(あし)の湯は脚気(かつけ)。筋攣(きんれん)。結毒(けつとく)。狐臭(わきか)。遺尿(せうへんたれ)
淋病(りんひやう)。せうかち。小瘡(せうさう)等に効あり
○禅定 姥子 効験未詳
○こゝめ 子産湯 河内湯 同断
○仙石原 あら湯 同断
一 右(みき)相州(さうしう)箱根(はこね)の温泉(おんせん)は江戸より廿里 余(よ)にして
御関所(おんせきしよ)手前(てまへ)なれば格別(かくへつ)道路(たうろ)の険阻(けんそ)もなく
都下(とか)の老若(らうにやく)男女(なんによ)湯治(たうじ)するにむつかしきことも
なく殊(こと)に江(ゑ)の島(しま)鎌倉(かまくら)金沢(かなさわ)辺(へん)勝地(けしき)ありて
気欝(きうつ)を散(さん)し養生(ようぜう)の為(ため)には能(よき)湯治場(たうじば)なり
尤 此(この)七湯(しちたう)は各(いつれ)も名湯(めいたう)にして熱海(あたみ)と兄弟(けいてい)を争(あらそ)ふべし
然共熱海と其(その)里数(りすう)相(あひ)隔(へだゝ)ること僅(はつか)に七八里にして互(たかひ)に
行(おこな)はるゝものは湯(ゆ)の効能(かうのふ)に差別(さべつ)有(ある)を以也且此地は東(たう)
都(と)の便利(べんり)最上(さいじやう)にして其(その)繁昌(はんぜう)成(なる)こと天下(てんか)第(だい)一なり
武蔵 小河内(おかうち) 甲州堺也切痔に妙也
安房 馬杉
常陸 袋田 月折山の下ニアリ 火にてわかして入也
東山道
飛騨 下呂 蒲田 平湯 落合
信濃 田中善光寺ヨリ六里 渋(しぶ)の湯《割書:同所ヨリ|六里半》
角間《割書:同所ヨリ|半道》 野沢同所ヨリ北十一里
別所 《割書:大湯 玄斎(けんさい)湯 大師湯|古我湯 石の湯 此五ケ所別所村ニアリ》
印内 田沢 内湯 山人(やまうど)湯《割書:田沢村ニ|アリ》
上 ̄ノ諏訪小綿湯 下 ̄ノ諏訪《割書:綿湯|小湯》 山家
七滲(しちゞみ) 浦野 白骨(しらほね) 浅間
上野 伊加保(いかほ) 《割書:高寄ヨリ六里湯宿十二軒壷湯三ケ所|洗湯一ケ所つゝアリ》
万坐 篠根(しのね) 川原 四万(しま) 沢渡(さわたり)
須川 沼田 川端 川中
法師ケ峠 ○伊加保は 下疳 結毒 諸瘡 積 聚に効あり
草津《割書:高寄ヨリ二十里 滝数十二筋アリ|○諸瘡 頭痛 打撲 痔漏 癜風 癩風 悪瘡に効あり》
御坐湯 地蔵湯 綿の湯 熱の湯
滝の湯 鷲の湯
一右 伊加保(いかほ)草津(くさつ)の両所(りやうしよ)各(おの〳〵)名湯(めいたう)にして優劣(ゆうれつ)有(ある)
べからず然とも伊加保の効(かう)草津に増(まさ)るもの
あり草津の効(かう)伊加保に増るものあり是(これ)皆(みな)其(その)
病症(ひやうしやう)によるべし故に同国(どうこく)にしていつれもおこなは
るゝ事 猶(なを)箱根(はこね)と熱海(あたみ)の如し
下野 日光山中禅寺《割書:日光初石町ヨリ三里|湯宿八軒》
御所湯 中ノ湯 滝湯 姥湯
笹湯 自在湯 薬師湯 河原湯
右各 名湯(めいたう)なり寒国(かんこく)故(ゆへ)三月中旬より九月末頃
まて行るゝ也 湯治(たうじ)する人 夏(なつ)にても朝(あさ)夕(ゆふ)は寒(さむ)き
ゆへ衣類(いるい)等其用意あるべし
日光山
裏見カ滝
猿多シ
中善寺
塩原(しほばら) 《割書:奥州街道作山ヨリ入 ̄ル六里半|又 なべかけ宿よりも入 ̄ルなり》
那須(なす) 荒湯 大丸塚 福和田
一那須の湯は諸病に効あれども別而まむしに喰れ
たる人湯治せば痛(いたみ)立所(たちどころ)に退(しりそ)き疵(きず)いへて後(のち)難(なん)なし
陸奥 会津 江戸ヨリ六十五里白川ヨリ西へ入 ̄ル温泉多 ̄シ
天寧寺(てんねいじ)一名湯本 小谷(をや) 熱塩(あづしほ) 沼尻(ぬまじり)
磐梯(はんだい) 荒湯 隼人(はやと) 五畳鋪(ごじやうじき)
一天寧寺の温泉(おんせん)は会津(あひづ)若松(わかまつ)の城下(じやうか)より東一
里余 山中(さんちう)天寧寺村にあり此所を湯本といふ
湯宿(ゆやと)数(す)十 軒(けん)ありいつれも大家なり湯(ゆ)の源(みなもと)は一口
にして其(その)湯(ゆ)を数(す)十軒へ分(わかち)取(とる)なり然共其家に因(より)
温熱(おんねつ)寒冷(かんりよう)の差別(さべつ)ありて先々(それ〳〵)に効能(かうのう)別(べつ)也依_レ之 其(その)
中(うち)の効能に合(あわせ)て入湯(にうたう)すれば諸病(しよびやう)に尤(もつとも)効(かう)あり
此(この)湯(ゆ)は誠(まこと)に清潔(せいけつ)にして鑑(かゞみ)の如く日本 無双(ぶそう)の名(めい)
湯(たう)なり又 其(その)町中(まちなか)に惣湯(そうゆ)一宇(いちう)あり往来(わうらい)の旅人(りよじん)
草刈(くさかり)椎者(きこり)の類(たぐひ)迄 入込(いりこみ)なり此湯は外々より格別(かくべつ)
熱湯(ねつたう)なれども至而(いたつて)温順(おんじゆん)にして諸病に効あり又
右の湯宿の下を流(なかる)るゝ川を湯川(ゆかわ)といふ其川の中(うち)
にも温泉所々にあり其中にも目洗湯(めあらいゆ)とて川の
中に岩(いは)の円(まどか)に少(すこ)しくほみたる所より湧(わき)出る也此湯
眼病(かんびやう)を治(じ)す又 猿湯(さるゆ)とて山岸(やまきし)の滝(たき)の脇(わき)にありこの
滝を猿湯が滝といふ又此湯本迄の道路(どうろ)は大なる山坂
なり其下を件(くたん)の湯川(ゆかわ)流(なかれ)て大滝処々にあり其
中にも伏見(ふしみ)が滝とて雌雄(しゆう)の名瀑布(めいたき)二 ̄ツあり此滝
の上なる山の腰(こし)に湯宿二三軒あり是を滝の湯と
いふ此湯もまた至極(しごく)清浄にして諸病に効あり
且此地の山水(さんすい)勝景画(せうけいぐわ)にも企(くわだて)及ふべからず
一同国若松より北西へ七里余にして熱塩村(あつしほむら)に温
泉あり此湯山中にして甚(はなはた)塩気(しほけ)あり因而(よつて)俗(ぞく)に
熱塩(あつしほ)といふ又同所に鍵(かき)の湯(ゆ)とて錠(じやう)をおろし置
湯(ゆ)あり是(これ)は漫(みだり)に雑人(ぞうにん)をいれず湯宿へ乞(こ)ふて鍵(かき)
をかりて入也此湯諸病に効あり又此所の寺を
慈眼寺(じげんじ)といふ源翁(けんのう)和尚(おしやう)の開基(かいき)也 因而(よつて)慈眼寺
の湯ともいふ
一同若松より東北に八九里にして猪苗代(ゐなわしろ)といふ所に
磐梯山(ばんだいさん)といふ高山(かうざん)有比山中に温泉多し是を
地獄湯(ぢごくゆ)といふ夏日(かじつ)に至りて雪(ゆき)の消(きゆ)るを待て人々
湯治(たうじ)す此 湯場(ゆば)は人家なし因而(よつて)其折(そのをり)は湯宿
ともに年々(とし〳〵)新(あらた)に大 小屋(こや)を補理(しつらひ)て貸(かす)也湯治する
会津
天寧寺
湯本
湯宿廿軒余
毎家湯槽
二 ̄ツ宛アリ
惣湯
人々(ひと〳〵)米(こめ)味噌(みそ)鍋(なべ)釜(かま)の類(たぐひ)迄(まて)自(みつか)ら背負(せおひ)登(のぼ)るなり此湯
は最(もつとも)大熱湯(だいねつたう)にて米(こめ)を笹(さゝ)の葉(は)に包(つゝみ)湯口(ゆぐち)へ入れは忽(たちまち)飯(めし)と
なり其外(そのほか)菜類(さいるひ)筍(たけのこ)のごときもの殊更(ことさら)忽にうたる也
諸病に大効あれとも虚弱(きよじやく)の人は其(その)猛烈(もうれつ)に怖(おそれ)て
入事あたはず其外国中四方の山々に温泉夥しく
あり余国(よこく)の温泉は記事有て世に行るゝ故 略(りやくす)_レ之 ̄ヲ此
地は江戸より僅(はつか)に六十五里にして但馬(たじま)の城崎(きのさき)摂州(せつしう)
の有馬(ありま)等にも増(まさ)るべき名湯(めいたう)故(ゆへ)其大略を記 ̄ス
青沼 川旅 折木 野神 岳 ̄ノ湯
土中 飯豊(いて) 温湯(ぬるゆ) 赤湯 湯沢
飯坂 《割書:同|》箱湯 《割書:同|》滝 ̄ノ湯 湯村 狐湯
山熱海(にあだみ) 磐城 折木 名取 玉造
鳴子 鎌崎 青根 東岳 砂子原
野神 湯本《割書:一名|》 三箱の湯《割書:又|》 沢子の湯 ̄トいふ
湯入 湯原 湯岐(ゆじまた)
巳上三十ケ所は奥州白川ヨリ同仙䑓南部堺マテノ
温泉ニテ いつれも名湯なり
○三箱の湯は水戸より北へ廿二里岩城郡 平(たいら)の
城下より一里余あり疥癬(ひぜん)諸瘡(しよさう)に効(かう)あり
○湯岐(ゆじまた)は水戸より十八里西北也 撲損(うちみ)脚気(かつけ)中風(ちうふう)
手足(てあし)不仁(きかず)の症(せう)或は婦人腰冷の類に効あり
○二本松の湯は城下より二里 山上(さんしやう)にあり夏月(なつ)に
あらざれば至ることあたはず積聚(しやくしゆ)痔疾(ぢしつ)に妙なり
○鎌崎(かまざき)の湯は打身(うちみ)金瘡(きりきず)に最(もつとも)効(かう)あり
○青根(あをね)の湯は頭痛(づつう)積聚(しやくつかへ)虫気(むし)に効あり
○飯坂(いゝざか)は福島(ふくしま)より三里半ほと左に羽黒山(はくろさん)右に
信夫山(しのふやま)を見て一杯(いつはいのもり)泉村(いつみむら)松川河寒村八反川
星の宿比良田村小川を渡りて飯坂なり
湯は五ケ所あり 当坐湯 小湯《割書:村中にあり|》
滝の湯《割書:川上にあり|》 箱湯《割書:同|》 霧湯《割書:川を隔てあり|》
熱湯《割書:川の内にあり》 右はいつれも名湯(めいたう)にして
効験(こうのふ)同じからず依_レ之 湯宿(ゆやと)へ病症(ひやうせう)を咄(はな)して
浴(よく)すべし此所(このところ)に岩湯山(がんたうざん)常泉寺(じやうせんじ)といふあり
此(この)寺(てら)佐藤(さとう)庄司(せうじ)元治(もとはる)が菩提所(ぼだいしよ)なり此(この)元治(もとはる)は
飯坂(いゝざか)の温泉(おんせん)の庄司(せうじ)なりといふ
〇さはこの御湯 此辺にありといふ当時知人
なし其本所詳ならず
南部
台湯 滝 ̄ノ湯 上 ̄ノ湯 中 ̄ノ湯 鉢 ̄ノ湯
箱湯 已上五ケ所台村ニアリ 鴬宿《割書:鴬宿村ニアリ|》
繋湯 《割書:同|》小室 《割書:同|》瘡湯 《割書:同|》荒湯《割書:已上滴石村ニ|アリ》
松川湯《割書:田頭村ニ|アリ》 温湯(ぬるゆ)《割書:金田村ニアリ|》
下風呂《割書:下風呂村ニ|アリ》 新湯《割書:田名部村ニアリ|》
山の湯《割書:一名|》花染(はなそめ)の湯(ゆ)といふ浴(よく)して後(のち)人の肌(はだ)紅(べ)
粉(に)をもつて染(そめ)たる如(こと)くになる也《割書:同郡にあり|》
薬師湯 冷湯《割書:田名部郡ニ|アリ》 鷺湯《割書:脇沢村ニアリ|》
大湯《割書:大湯村ニアリ|》 湯瀬湯《割書:湯瀬村ニアリ|》
湯田湯《割書:沢内村ニ|アリ》 外道湯(げどうゆ)《割書:和賀郡ニアリ|》
熊沢湯《割書:鹿角郡ニ|アリ》 国見湯《割書:生内村ニアリ》
津軽
蔵館 浅虫(あさむし) 大鰐 切明 温湯(ぬるゆ)
板留 沖浦 碇ケ関 湯端(ゆたん) 下湯
岩木島 須加湯 《割書:巳上十二ケ所各名湯也|》
出羽 赤湯 五色 ̄ノ湯 銀山 ̄ノ湯
上野山湯 高湯 温海
駒ケ岳 田川 《割書:巳上八ケ所各名湯也|》
北陸道
加賀 湯涌(ゆわく)《割書:金沢ヨリ|二里半》 山中《割書:金沢ヨリ
|二リ半》
大聖寺 山代(やましろ)
能登 涌浦(わくら)
越中 立山 山田 大牧 小川
越後 雲母(きら) 湯沢 村杉 今板
関山《割書:妙香山|ト云》 𣜜(とち)尾股(をまた) 岩室 松 ̄ノ山
大内淵(おゝぢぶち) 眼掛湯(かんかけのゆ) 出湯《割書:一名観音湯ト云|》
山陰道
但馬 城崎(きのさき) 曼陀羅湯(まんだらゆ) 新湯(あらゆ)
瘡(かさ)湯 常(つね)湯 御所(ごしよ)湯 乞者(こしやの)湯
東槽(ひかしふね) 西槽(にしふね)
一 城崎(きのさき)の温泉(おんせん)は日本 第(だい)一の名湯(めいたう)とす其(その)中(なか)にも
新湯(あらゆ)瘡湯(かさゆ)は其(その)効能(かうのう)抜群(はつくん)なりといふべし
因幡 石井 一 ̄ノ湯 二 ̄ノ湯 女郎
小女郎 入込 新湯 《割書:右石井郡石井村ニアリ|》
吉岡 一 ̄ノ湯 二 ̄ノ湯 亀井殿
中湯 入込 荒湯 瘡湯《割書:右高草郡吉岡|村ニアリ》
勝見 一 ̄ノ湯 二 ̄ノ湯 三 ̄ノ湯
入込 新湯 鷺湯《割書:右気多郡勝見村ニアリ|》
伯耆 三笹 《割書:三朝の湯ともいふ|》 湯の関
出雲 三沢 染仁川(そめにかわ) 玉造 潮村
石見 有福 温泉(ゆのつ)津 有福の湯は清潔(せいけつ)
にして飯茶等にも用る也 温泉津(ゆのつ)は濁(にこ)りあり
隠岐 島後《割書:海中にあり|》
美作 湯原 湯(ゆの) ̄ノ郷(がう) 真賀(まか)
周防 湯田
長門 俵山 深川(ふかわ) 川棚
南海道
紀伊 竜神(りうじん) 湯崎(ゆさき) 本宮(ほんぐう)《割書:一 ̄ニ湯ノ峰|薬師ノ湯》
七起峰
本宮
湯の峰
出谷 川湯 二河(にかう)
伊予 道後
西海道
筑前 武蔵(むさし)《割書:一名|》虎麻呂(とらまる)《割書:三笠郡天拝山の麓武蔵村に|あり》
一 此(この)武蔵(むさし)の湯(ゆ)は誠(まこと)に温柔(おんじう)にして西国(さいこく)一の名湯(めいたう)也
豊後 浜湯 鶴□原 赤湯 玖倍里
別府 立石 金輪 浜田《割書:右三ケ所別府村ニ|アリ》
肥前 武雄(たけを)《割書:一名塚崎|》 嬉野(うれしの) 温泉山(うんせんさん)《割書:地獄湯|ナリ》
小浜《割書:海辺にあり|》 高木
肥後 雛来(ひなく) 硫黄 ̄ケ岳 橡木(とちのき) 湯谷
葦北 平山 垂玉 杖立 山鹿(やまが)
日向 霧島 白鳥 硫黄谷《割書:加久藤にあり|》
大隅 安楽 鉾薙(ほこなき)《割書:踊にあり|》
薩摩 副田《割書:入来にあり|》 湯田《割書:市来にあり|》
児水(ちごか) 成川《割書:山川にあり|》
摺浜(すりのはま) 芝立(しはたて)《割書:揖宿(イフスキ)にあり|》
市比野(いちいの)《割書:蒲生にあり|》 大河内《割書:出水にあり|》
壱岐 湯本
凡四十国二百九十二ケ所
一湯治のうちは欝散(うつさん)を専一とすれとも時々 山渓(やまかわ)等に
遊へば湿毒に中るものなり此外養生の事に
勘弁あるへきなり
○諸国御関所
遠州 今切《割書:荒井|》 気賀
相州 箱根 根府川 矢倉沢
河村 仙石原 谷ケ村
武州 中川 市川 小岩
金町 新卿 小仏
下総 松戸《割書:房川|》 栗橋 関宿
甲州 本柄 鶴瀬 万沢
上州 川促 碓氷 横川
猿 ̄ケ京《割書:大戸|》 杢 ̄ケ橋《割書:南枚|》 大笹《割書:狩宿|》
五料《割書:実正|》 白井《割書:大渡|》 福島《割書:戸倉|》
近江 柳 ̄ケ瀬 山中 剣熊
信州 福島 浪合 帯川 心川
小野川 熱川 清内路 木曽
越後 関川《割書:虫川|》 市振《割書:山口|》 鉢崎
一通 ̄リ手形は大切に所持いたし其所の茶屋にて一度
み上 御番所差上て申也 其場(そのば)かゝり懐中 鼻紙(はなかみ)
入(いれ)等 尋(たつね)さかすは不(ふ)取廻(とりまは)しなるもの也女通 ̄リ手形
等も同様なり若一向に不案の人は其所のもの
に様子を承り合すべし
【表上段】
東海道割増附《割書:左十八宿五割増|残ノ宿々二割増》
五割増 本馬 軽尻 人足
平塚 五十一文 三十五文 廿七文
大磯 二百七十九文 百八十六文 百三十九文
小田原 《割書:六百十五文 四百三十三文 三百三十一文|下七百八十八文 下五百十五文 下三百九十文》
箱根 《割書:七百廿八文 四百七十二文 三百六十一又|下六百五文 下三百九十二文 下三百文》
三島 百六文 六十六文 五十壱文
吉原 二百三十七文 百五十文 百十五文
蒲原 六十六文 四十五文 三十三文
日坂 《割書:百四十五文 九十二文 七十一文|下二一百廿六文 下百四十五文 下百十一文》
袋井 百八文 六十八文 五十三文
舞坂 五十三文 四十七文 十八文
新居 百十八文 七十五文 五十九文
【表下段】
中仙道 《割書:当時|壱割五分増》
守山 五割増 美江寺 五割半増
日光道中 《割書:当時|壱割五分増》
例幣使道 御成道共
石橋 四割半増 雀の宮 四割半増
甲州道中 《割書:当時|壱割五分増》
奥州道中 《割書:当時|壱割五分増》
喜連川 四割半増
江戸日木橋より諸国出口方角道法
一東海道口 南に当り品川宿へ出るなり
日本橋より品川迄二里
一中仙道口 乾に当り本郷追分より
板橋宿へ出る也日本橋ゟ板橋迄二里十三丁
【右丁表上段】
二 川 百十四文 七十一文 五十四文
赤 坂 百六十一文 百六文 七十七文
藤 川 百廿一文 七十七文 五十九文
石薬師 五十一文 三十五文 廿七文
庄 野 百三十三文 八十七文 六十六文
坂の下 《割書:三百四十二文 二百廿三文 百七十一文|下二百五十八文 下百七十一文 下百廿七文》
草 津 二百五十三文 百六十四文 百廿六文
右十八宿之外品川宿ゟ守口宿迄并ニ
佐屋路美濃路共惣而当時二割増
なり此外中仙道日光道中甲州路
奥州道中は当時壱割五分増なり
其中(そのうち)に縷(こま〴〵)二三宿五割増或は四割半増等
有之 ̄ニ付左之両道中賃銭は割増を不
_レ加 ̄ヘやはり本駄賃にてすへ置なり
【右丁表下段】
一川越道口 乾に当り巣鴨より上板橋宿へ
□□煉馬宿へ出る也日本橋ゟ煉馬迄四里
一岩附道口 乾に当り本郷追分ゟ川口へ出る也
日本橋ゟ川口之渡迄四里半
一甲州道口 西に当り四谷追分ゟ高井土宿へ
出る也日本橋ゟ高井土まて四里半
一相州大山 ̄ノ近道口 申の方に当り青山百人町
ゟ長つた村へ出る也日本橋ゟ長つた迄七里半
一奥州道《割書:并|》日光道口 北に当り浅草橋より
千住へ出る也日本橋ゟ千住迄二里八丁
一水戸道口 丑の方に当り浅草真崎より
新宿へ出る也日本橋ゟ新(にい)宿迄三里半
一下総道口 東に当り両国橋ゟ中川へ出る也
日本橋ゟ中川渡場迄二里但 ̄シ江戸ゟ行徳迄
舟にて行には小網丁ゟ朝舟に乗べし
成田山。鹿島。香取。息柄。潮来。銚子の強
皆比口より出るなり
【左丁表上段】
東海道五十三次駄賃附
本駄賃 本馬 軽尻 人足
日本橋 二リ 九十四文 六十一文 四十七文
品 川 二リ半 百十四文 七十三文 五十六文
かわ崎 二リ半 百十四文 七十三文 五十六文
かな川 一リ九丁 四十九文 三十二文 二十五文
程 ̄ケ谷 二リ九丁 百八文 六十九文 五十三文
戸 塚 一リ三十丁 八十六文 五十八文 四十四文
藤 沢 三リ半 百六十文 百五文 七十八文
平つか 廿六丁 三十四文 二十三文 十八文
大いそ 四リ 百八十三文 百廿四文 九□文
小田原 四リ八丁 《割書:四百卅八文 二百八十三文 二百十八文|下五百廿文 ヽ三百卅八文 ヽ二百五十七文》
箱 根 三リ廿八丁 《割書:四百七十七文 三百十二文 二百卅八文|下三百九十五文 ヽ二百五十六文 ヽ二百文》
三 島 一リ半 六十八文 四十四文 三十四文
沼 津 一リ半 六十八文 四十四文 三十四文
【左丁表下段】
木曽路六十九次駄賃附
木駄賃 本馬 軽尻 人足
京 三リ 百六十九文 百十一文 八十二文
大 津 三リ半六丁 百六十六文 百九文 八十一文
草 津 一リ半 六十一文 四十文 三十一文
守 山 三リ半 百四十五文 九十二文 七十一文
武 佐 二リ半 百六文 六十七文 五十文
愛知川 二リ八丁 八十文 五十三文 四十一文
高 宮 一リ半 六十二文 四十二文 三十一文
鳥井本 一リ六丁 四十七文 三十文 二十四文
ばん馬 三十丁 四十二文 二十九文 二十文
醒ケ井 一リ半 六十一文 四十文 三十一文
柏 原 一リ 四十二文 二十九文 二十文
今 須 一リ 四十二文 二十九文 二十文
関ケ原 一リ半 六十一文 四十文 三十一文
垂 井 一リ十二丁 五十二文 三十四文 二十六文
あか坂 二リ八丁 八十九文 五十八文 四十四文
【右丁表上段】
原 三リ六丁 百三十四文 八十四文 六十五文
吉 原 二リ卅丁 百五十五文 百文 七十四又
蒲 原 一リ 四十四文 三十文 二十二文
由 井 二リ十二丁 百六十二文 百七文 七十九文
興 津 一リ三丁 四十七文 三十二文 二十三文
江 尻 二リ廿七丁 百廿一文 七十七文 五十八文
府 中 一リ半 八十二文 五十三文 四十一文
まりこ 二リ 百四十四文 九十一文 七十文
岡 部 一リ廿九丁 七十九文 五十一文 三十九文
藤 枝 二リ八丁 百廿七文 八十一文 六十一文
しま田 一リ 百廿四文 七十七文 五十八文
金 谷 一リ廿九丁 百四十八文 九十四文 七十一文
日 坂 《割書:一リ|廿九丁》 《割書:九十四文 六十一文 四十七文|下百四十八文 ヽ九十四文 ヽ七十一文》
かけ川 二リ十六丁 百十二文 七十文 五十五文
袋 井 一リ半 六十九文 四十五文 三十五文
見 附 四リ八丁 二百卅四文 百五十一文 百十七文
浜 松 二リ卅丁 百廿五文 七十九文 六十一文
【右丁表下段】
みえ寺 一リ六丁 四十七文 三十一文 二十四文
合 度 一リ半 六十七文 四十四文 三十四文
加 納 四リ八丁 百七十文 百十六文 八十三文
鵜 沼 二リ 九十四文 六十一文 四十七文
太 田 二リ 九十四文 六十一文 四十七文
伏 見 一リ五丁 四十二文 二十九文 二十文
御たけ 三リ 百四十文 八十九文 六十七文
細久手 一リ卅丁 七十一文 四十六文 三十五文
大久手 三リ半 百八十五文 百廿二文 九十文
大 井 二リ半 百十一文 六十八文 五十三文
中 津 一リ五丁 五十五文 三十六文 二十八文
落 合 一リ五丁 五十五文 三十六文 二十八文
馬 込 二リ 百八文 六十七文 五十二文
妻 篭 一リ半 八十三文 五十四文 四十二文
みとの 二リ半 百廿八文 八十文 六十二文
野 尻 一リ卅丁 百三文 六十四文 四十九文
須 原 三リ九丁 百五十五文 百二文 七十六文
上 ̄ケ松 二リ半 百四十文 八十九文 六十七文
【左丁表上段】
舞 坂 《割書:海上|一リ》 《割書:荷物一駄|三十五文》 《割書:馬一疋口付共|三十一文》 《割書:人一人|十二文》
あらゐ 一リ廿六丁 七十六文 五十文 三十九文
白須賀 《割書:一リ半|十六丁》 六十七文 四十五文 三十三文
二 ̄タ川 一リ半 七十三文 四十七文 三十六文
よし田 二リ半四丁 百十八文 七十五文 五十七又
御 油 十六丁 二十三文 十六文 十二文
赤 坂 二リ九丁 百七文 六十八文 五十一文
藤 川 一リ半 七十八文 五十一文 三十九文
岡 崎 三リ卅丁 百七十五文 百十六文 八十六文
池鯉鮒 二リ卅丁 百廿七文 八十二文 六十一文
鳴 海 一リ半 六十九文 四十五文 三十五文
宮 《割書:海上|七リ》 《割書:荷物一駄|百九文》 《割書:馬一疋口付共|百十三文》 《割書:人足一人|四十五文》
桑 名 三リ八丁 百五十一文 九十五文 七十三文
四日市 二リ廿七丁 百廿七文 八十一文 六十一文
石薬師 廿七丁 三十四文 二十三文 十八文
庄 野 二リ 八十六文 五十八文 四十四文
【左丁表下段】
ふくしま 一リ半 七十七文 四十九文 四十文
宮 ̄ケ越 二リ 八十三文 五十四文 四十二文
藪 原 一リ半 七十七文 四十九文 四十文
ならゐ 一リ半 七十三文 四十八文 三十六文
贄 川 二リ 九十四文 六十一文 四十七文
本 山 三十丁 三十一文 二十文 十六文
洗 馬 一リ卅丁 七十三文 四十八文 三十六文
塩 尻 三リ 百六十一文 百六文 七十七文
下詠訪 五リ八丁 三百五十文 二百廿八文 百七十三文
和 田 二リ 八十四文 五十六文 四十三文
長久保 一リ半 六十文 四十文 三十文
あし田 一リ八丁 四十七文 三十文 二十四文
望 月 卅二丁 三十文 二十二文 十七文
八はた 廿七丁 三十文 二十文 十六文
塩なた 一リ半 五十二文 三十四文 二十六文
岩村田 一リ七丁 四十七文 三十一文 二十四文
小田井 一リ十丁 四十九文 三十二文 二十五文
追 分 一リ三丁 四十二文 二十九文 二十文
【右丁表上段】
かめ山 一リ半 六十九文 四十五文 三十五文
関 一リ半 百十七文 七十三文 五十六文
坂 下 二リ半 《割書:二百廿五文 百四十六文 百十一文|下百六十九文 百十一文 八十二文》
土 山 二リ半十一丁 百廿七文 八十一文 六十一文
水 口 三リ十二丁 百四十六文 九十一文 七十文
石 部 二リ半七丁 百四十文 八十八文 六十九文
草 津 三リ半六丁 百六十六文 百九文 八十一文
大 津 三リ 百六十九文 百十一文 八十二文
京 都 凡里数合百廿四里半十五丁
○佐屋廻りの記
宮 二里 《割書:本馬 軽尻 人足|八十六文 五十七文 四十七文》
上十五日は万場へ付越なり
岩須賀 半リ 二十二文 十五文 十二文
万 場 一リ半九丁 六十九文 四十六文 三十五文
冠 守 一リ半九丁 六十九文 四十六文 三十五文
【右丁表下段】
沓 掛 一リ五丁 四十四文 三十文 二十二文
軽井沢 二リ半八丁 百八十一文 百廿一文 八十九文
坂 本 二リ半 百七文 六十七文 五十二文
松井田 一リ卅丁 九十二文 六十文 四十七文
安 中 三十丁 三十四文 二十二文 十八文
板 鼻 一リ卅丁 七十一文 四十六文 三十五文
高 崎 一リ十九丁 五十五文 三十六文 二十八文
倉賀野 一リ半 六十文 四十文 三十文
新 町 二リ 七十八文 五十文 四十文
本 庄 二リ廿九丁 百十一文 七十一文 五十三文
深 合 二リ卅丁 百十二文 七十文 五十五文
熊 合 四リ八丁 百六十九文 百十文 八十二文
鴻の巣 一リ卅丁 七十一文 四十六文 三十五文
桶 川 三十丁 三十七文 二十五文 十九文
上 尾 二リ八丁 七十八文 五十二文 四十文
大 宮 一リ十一丁 四十九文 三十四文 二十五文
浦 和 一リ半 五十三文 三十六文 二十八文
わらび 二リ八丁 八十九文 五十八文 四十四文
【左丁表上段】
佐 屋 川舟三リ
桑名
【左丁表下段】
板ばし 二リ 九十四文 六十一文 四十七文
日本橋 凡里数合百三十五四里十一丁
【左丁表一段目】
伊勢参宮道
四日市 二リ卅五丁
神 戸 一リ半
白 子 一リ半
上 野 二リ半
津 二リ
雲 津▫二リ
松 坂 四リ
小 俣 一リ半
山 田
外 宮
内 宮 津へモトリり
津 一リ半
久保田 四リ
関 東海道
【左丁表二段目】
《割書:秋葉山|鳳来寺》参詣道
掛 川▫ 三リ
森 町 一リ半
市のせ 一リ半
子ならあ 一リ
戌 亥 二リ十四丁
秋 葉 一リ十五丁
うんなあ 一リ半
石うち 二リ
く ま 一リ廿丁
大 平 一リ半
酢 山 一リ
大 野 一リ
鳳来寺 九丁
かとや 三リ
【左丁表三段目】
本坂越之道
見 附 三リ
かやんは 四リ
気 賀 三リ
三日市 二リ半
吹瀬山 四リ
御 油 東海道
宮ヨリ越前海道
宮 一リ半
名古や 一リ半
清須▫ 一リ半
稲 葉 一リ半
はき原 一リ
おこし 二リ半
【左丁表四段目】
尾州名古屋ゟ
大井へ出 ̄ル道法
名子屋 二リ
梶 川 一リ半
坂 下 一リ半
内 津 一リ八丁
池 田 二リ
高 山 二リ
土 岐 二リ
釜 戸 三リ
大 井 木曽
大津ヨリ大坂道
大 津 四リ八丁
伏 見▫五十丁
淀 ▫三リ十二丁
【右丁表一段目】
伊勢ヨリ大和廻リ
奈良吉野高野道
山 田《割書:イセ》一リ
小はた 二リ
くし田 二リ
松 坂 一リ
六けんや 半リ
月 本 二リ
ひさひ 四リ
なかの 二リ
あ わ 三リ
山 田 二リ
上 野《割書:イカ》二リ
島河原 一リ半
大河原 一リ半
かさき 二リ
か も 二リ
奈 良 一リ
【右丁表二段目】
しん城 二リ半
大 木 二リ半
御 油 東海道
伊勢ヨリ田丸越
山 田 一リ半
田 丸 二リ
あふが 二リ半
つ る 一リ半
大 石 一リ半
みかき 二リ
た け 一リ
大きつ 半り
花 原 半り
杉 原 一リ
かうずへ 半リ
すかの 一リ半
もゝの又 一リ
【右丁表三段目】
すのまた 三リ
大垣口▫ 二リ半
垂 井 一リ半
関ケ原 一リ半
ふち川 一リ半
すいせう 四リ
おたに 二リ半
木の本 二リ二丁
やなかせ 一リ
つばい 二リ
中河内 三リ
板とり 二リ
今 庄 一リ
ゆのを 二リ
脇 本 二リ
府 中 一リ
鯖 江 一リ
水おち 一リ
【右丁表四段目】
枚 方 五リ
大坂
伏見ヨリ大坂へ下船
伏 見 十三リ
大坂ヨリ京へ上リ舟同ヤウ
大坂ヨリ紀州道
大 坂 三リ
堺 一リ
石 津 三リ
岸和田 半リ
貝 塚 二リ
志 立 三リ
山 中 一リ半
山 口 二リ
和歌山▫
【左丁表一段目】
帯とき 一リ
市の本 一リ
丹波市 一リ
柳 本 一リ
三輪神社 一リ
慈恩寺 一リ
はせ観音 一リ半
さくらゐ 半り
あ べ 一リ
あすか 十丁
岡 寺 二リ
小 坂 五十丁
多武峰 二リ
ちまた 一リ
上 市 一リ
よしの 一リ十八丁
あんせんじ 五リ
とろ辻 十八丁
【左丁表二段目】
山かす 一リ半
田 口 三リ
はい原 一リ半
は せ 一リ半
み わ 二リ
丹波市 二リ
帯とき 一リ
奈 良 一リ
くらかり峠 五リ
大坂
江島鎌倉道
日本橋 二リ
品 川 二リ半
川さき 二リ半
かな川 一リ九丁
程ケ谷 二リ九丁
戸 塚 一リ卅丁
【左丁表三段目】
あさうつ 二り
福井 越前▫
此所ヨリ
三国ヘ五リ
大聖寺へ九リ
小松へ十四リ
金沢へ廿一リ
江戸ゟ加賀信州
善光寺道中
江戸ゟ追分迄は木曽同
追 分 三リ
小諸▫ 二リ半
田 中 二リ半
上田▫ 三リ
さか木 三リ
室井迄二通りあり
八代三リ 八代二リ半
丹波島《割書:一リ|十丁》 松代二《割書:▫|リ》
【左丁表四段目】
大坂ヨリ長崎道
大 坂 三リ
尼か崎▫ 二リ
西の宮 五リ
兵 庫 五リ
明石▫ 五リ
かこ河 五リ
姫踏▫《割書:正所へ|回り》
姫路ゟ所々へ道法
三日月へ八リ
因州取鳥へ廿八り
作州津山へ廿リ
《割書:津山ヨリ|よね子へ》廿二リ
《割書:よね子ヨリ|松江ヘ》七リ半
正 所 十八丁
かた島 三リ六丁
う ね 《割書:二リ|廿八丁》
【右丁表一段目】
とろ川 五十丁
つほの内 十八丁
天の川 《割書:九リ|此間宿々多シ》
高野山 五十丁
かみや 二リ
か ね 一リ
かふろ 一リ
はし本 二リ
きのみ峠 二リ
三日市 二リ半
いはむろ 二リ
ふく町 一リ半
も ず 一リ
堺 三リ
大 坂
江戸 ̄ヨリ奥州道
日本橋 二リ
【右丁表二段目】
藤 沢 三リ半
かまくら 二リ
江の島
大山参詣道
藤 沢 《割書:東海道|二リ》
一の宮 十八丁
田 村 二リ
いせ原 一リ
子 安
大 山
江戸ヨリ甲州
富士山身延道
日本橋 二リ
四ツ谷 二リ一丁
下高井戸 二リ一丁
布 田 一リ廿七丁
府 中 二リ八丁
【右丁表三段目】
善光寺《割書:一リ|十丁》 川田二リ半
荒町二リ半 長沼三リ
室井 室井 二リ
柏 原 一リ
野 尻 一リ
関 川 一リ半
二 俣 一リ半
関の山 一リ十六丁
松 崎 一リ廿丁
荒 井 二リ半
高田▫ 一リ
中屋敷 二リ
長 浜 一リ
有間川 二リ
なたち 三リ
の ふ 二リ十二丁
かち屋敷 一リ六丁
糸魚川▫ 一リ十六丁
【右丁表四段目】
三ツ石 二リ廿丁
片 上 四リ二丁
藤 井 二リ五丁
岡山▫ 二リ十二丁
板 倉 三リ
川 辺 三リ
矢かけ 三リ
七日市 一リ十二丁
高 屋 一リ廿七丁
神 苗 四リ
今 津 二リ
小野道 三リ
見わら 二リ半
ぬた本卿 一リ半
たまり市 二リ
さい条 五リ半
かいた 二リ
広島▫ 《割書:クサツエ|一リ》
【左丁表一段目】
千 住 二リ八丁
草 加 一リ廿八丁
越ケ谷 二リ廿八丁
かすかべ 一リ廿一丁
杉 戸 一リ廿五丁
幸 手 二リ三丁
栗 橋 《割書:舟ワタシ|二丁》
中 田 一リ卅四丁
古河▫ 廿五丁
の ぎ 一リ廿七丁
まゝ田 一リ廿四丁
小 山 一リ十一丁
新 田 廿九丁
小金井 一リ半
石ばし 一リ半五丁
雀の宮 一リ一丁
宇都宮▫ 二リ廿三丁
白 沢 一リ半
【左丁表二段目】
日 野 一リ廿六丁
八王子 一リ廿七丁
駒木野 廿七丁
小 仏 一リ廿二丁
小 原 一リ十七丁
よしの 廿六丁
関 の 三十四丁
上野原 十八丁
つる川 一リ六丁
のた尻 三十丁
犬 目 一リ十二丁
上鳥沢 廿六丁半
さるはし 廿二丁
駒はし 十六丁
大 月 三十丁ヨ
此所ヨリふじ山道
大月 十三丁
矢村 一リ半
【左丁表三段目】
あふみ 一リ廿七丁
う た 二リ
市ふり 一リ
さかへ 一リ廿九丁
泊 ̄リ 《割書:左二リ廿九丁|右一リ十二丁》
横山 《割書:右|廿七丁》 舟見《割書:左|二リ廿九丁》
にうぜん《割書:二リ|十六丁》 浦山《割書:一リ|十七丁》
三日市 二リ
うをつ 二リ一丁
滑 川 二リ廿五丁
東いわせ 二リ卅四丁
下 村 一リ十七丁
小すき 二リ廿五丁
高 岡 四リ
今不動 二リ廿二丁
はにう 十四丁
竹の橋 三十一丁
つはだ 三リ半
【左丁表四段目】
此所より
宮島へ四リ
石州浜田へ廿三リ
草 津 二リ
廿日市 四リ八丁
く は 三リ
せきと 四リ
此間ニ岩国道アリ
くが本郷 半リ
高もり 二リ
今 市 二リ
窪 田 廿八丁
花 岡 一リ半八丁
徳山▫ 半リ
富田新田 廿二丁
ふく河 二リ半
とのうみ 二リ
宮 市 四リ半
【右丁表一段目】
氏 江 二リ四丁
きつれ川 二リ卅丁ヨ
作 山 一リ廿五丁ヨ
太田原 三リ三丁
なべかけ 六丁
こゑ堀 二リ十一丁ヨ
芦 野 三リ四丁ヨ
白 坂 一リ卅三丁
白 川 廿七丁▫
ね だ 一リ
小田川 十三丁
大田川 二十四丁
ふませ 二十三丁
大和久 八丁
しん田 十一丁
矢 吹 廿四丁
くるし 十二丁
笠 石 一リ半
【右丁表二段目】
おのま一リ半
上吉田
富士山
下花崎 一リ五丁
下初かり 一リ
白 野 一リ
黒野田 一リ半
つるせ 一リ三丁
かつ沼 二リ十七丁
石 和 一リ十九丁
甲府▫《割書:コレヨリ|みのぶ道》
かちか沢《割書:石沢ヨリ|五リ半》
羽木井 五リ半
身延山《割書:東海道へ出ル|道》
南 部 三リ
万 沢 四リ
松 の 二リ
岩 淵《割書:東海道》
【右丁表三段目】
金 沢 加賀▫
《割書:金沢|ヨリ》小松大聖寺道
金 沢 一リ 富山より
のゝ市 一リ八丁 金沢みち
松とう 一リ 富 山 《割書:三リ|十一丁》
かしわの 一リ 三戸田 《割書:一リ|七丁》
水 島 一リ 中 田 卅三丁
栗 生 一リ 戸 を 《割書:一リ|廿七丁》
寺 井 一リ 今不動 《割書:二リ|廿二丁》
小 松 一リ▫ はにう 十四丁
今 井 一リ 竹のはし 卅一丁
月 津 一リ つはた 三リ半
いふかばし 一リ 金沢▫
佐 見 一リ 滑 川《割書:ヨリ》四リ
大聖寺▫ 富山へ
豊前小倉より
薩摩鹿児島道
【右丁表四段目】
おかうり《割書:山中へ|二リ半》
此所より
長門萩へ十リ
山 中 二リ半
舟 木 一リ八丁
あさの市 二リ廿八丁
よし田 一リ
小 月 二リ
長府▫ 二リ
下の関 三リ
小倉《割書:▫黒サキヘ| 一リ三十丁》
此所ヨり
中津へ十三リ
小倉ヨリ田代迄
両道アリ
ひや水通り分
小 倉 二リ卅一丁
黒 崎 二リ卅四丁
【左丁表一段目】
すか川 一リ廿八丁
笹 川 十八丁
日出の山 十一丁
小原田 十五丁
郡 山 廿八丁
福 原 廿三丁
ひわた 卅三丁
高くら 一リ七丁
本 宮 一リ十二丁
杉 田 一リ六丁
二本松▫ 一リ二丁
油 井 六丁
二本柳 一リ二丁
八丁の目 一リ二丁
若 宮 十一丁
ねこ町 一リ廿五丁
福島▫ 二リ八丁
せの上 一リ十二丁
桑 折 一リ七丁
【左丁表二段目】
江戸ヨり上総
房州道法
行 徳 三リ 大和田 《割書:船はし|ゟ三リ》
舟 橋 二リ 臼 井 《割書:二リ|一リ》
馬 加 十八丁 佐倉▫ 二リ
校見川 二リ半 横 芝 一リ半
寒 川 三十丁 東 金 三リ
そかの 廿六丁 野 田 二リ
はまの 廿丁 千 葉 二リ
八わた 一リ うるゐ戸 二リ
五 井 一リ 六地蔵 二リ
姉 崎 二リ 高 師 二リ半
ならば 二リ 一ノ宮 二リ半
木更津 四リ 長者町 一リ
佐 貫 一リ▫ 流 山 二リ
天神山 一リ半 長 南 二リ
百 首 二リ 大多喜 一《割書:▫|リ》
金 谷 一リ 今 富 二リ
【左丁表三段目】
小 倉 二リ卅一丁
黒 崎 二リ卅四丁
こやのせ 四リ半六丁
飯 塚 三リ半
内 野 二リ半九丁
山 家 二リ半十二丁
松 崎 三リ
府 中 三リ
宿の町 二リ
せたか 四リ
南の関 四リ半
高 瀬 五リ十五丁
高 橋 二リ
川 尻 五リ
小 川 四り
高田村 二リ
ひな久 三リ
田のうら 二リ
【左丁表四段目】
こやのせ 四リ半六丁
飯 塚 三リ半
内 野 二リ廿九丁
山 上 一リ九丁
原 田 二リ
田代
此田代の入口ニテ八丁峠
の通リト出合ナリ
小倉ヨリ八町峠
通
小 倉 三リ廿四丁
ゑひの 十四丁
さいとう所 一リ
かうはる河原 三リ
いのひさ 二リ
大くま 二リ三丁
せんじゆ 二リ十四丁
此間ニ八丁峠アリ
【右丁表一段目】
藤 田 一リ七丁
貝 田 十八丁
こすがう 一リ十六丁
さい川 一リ十六丁
白石▫ 一リ廿八丁
葛田宮 一リ十二丁
金がせ 三十丁
大河原 一リ十二丁
舟迫リ 一リ十一丁
概 木 一リ廿七丁
岩 沼 一リ卅丁
倍 田 卅一丁
中 田 一リ
長 町 一リ十三丁
仙台▫ 二リヨ
七北田 二リ十九丁
しん町 一リ廿二丁
吉 岡 三リ十丁
【右丁表二段目】
保 田《割書:安房|一リ》 茅 や 一リ
勝 山 二リ(▫) 久留里 一リ(▫)
大 房 二リ かつ浦 二リ
府 中 二リ 上 野 一リ半
北 条 一リ 小 湊《割書:安房|二リ》
館 山 一リ半 内 浦 一リ
那 胡 一リ 天 津 五リ
洲 崎 乙浜
江戸ヨリ鹿島香取
息柄てふし道
日本橋 三リ
行 徳 一リ
八 幡 二リ八丁
金ケ谷 二リ八丁
白 井 二リ八丁
大 森 廿六丁
木おろし此《割書:所ヨリ舟》
朝来へ 七リ
【右丁表三段目】
佐 敷 四リ半
水の俣 四リ十二丁
いつみ 二リ四丁
野 田 二リ半
阿久根 三リ半三丁
西 方 三リ半十丁
向 田 三リ半七丁
みなと 二リ半七丁
苗代川 三リ四丁
横 井 十七丁
鹿児島薩摩
琉球国百廿里
瀬の上ゟ 白川より
米沢道 会津道
せの上 一リ九丁 白 川 二リ半
佐々木の 一リ 飯土用 一リ
庭 坂 二リ八丁 小 や 二リ
李 平 二リ八丁 牧 内 二リ半
【右丁表四段目】
秋月▫ 二リ
野 町 一リ六丁
松 崎 二リ卅丁
此所より
久留米へ三リ
此所より
柳川へ五リ
此所より
熊本へ十六リ
田 代《割書:□へ|一リ》
此所ニテ冷水通リト出合
とゝろき 一リ廿二丁
中ばる 二リ九丁
かんさき 一リ半
はるの町 一リ半
さ か 二リ
牛 津 一リ
小 田 二リ十二丁
【左丁表一段目】
三本木 一リ廿八丁
古 川 一リ十二丁
あらや 一リ廿丁
高清水 二リ十九丁
月 立 廿丁
宮 野 一リ卅丁ヨ
沢 辺 十八丁ヨ
金 成 二リ六丁
有 壁 二リ三丁
一の関 廿丁ヨ
山の目 三リヨ
前 沢 二リ卅一丁
水 沢 一リ卅四丁
金 崎 二リ六丁ヨ
鬼 柳 十八丁
黒沢尻 三里
花 巻 三リ十丁
石とや 二リ
郡 山 四リ七丁
【左丁表二段目】
鹿島へ九リ
香取へ十リ
息柄へ十二リ
銚子へ十八リ
木おろし《割書:陸路|二リ》
安 食 四リ
神 崎 二リ
津 宮 三リ
香取神社
小見川 二リ
佐々川 二リ
野 尻 二リ
銚 子
江戸ヨリ日光道中
日本橋 二リ
千 住 二リ七丁
草 加 一リ卅丁
【左丁表三段目】
坂 谷 三リ 永 沼 二リ
大 沢 三リ三丁 勢至堂 二リ
米 沢《割書:▫|二リ》 見 代 半リ
粕 ̄ノ目 一リ 福 良 一リ半
筑 茂 一リ三丁 赤 津 一リ半
赤 湯 一リ 原 一リ半
川 樋 四丁 赤 井 二リ
老清水 二リ 会 津《割書:若松|▫二リ》
中 山 一リ 高 久 二リ半
川 口《割書:一リ|十一丁》 板 下 一リ半
上の山《割書:▫|一リ半》 片かと 三リ半
戦 バ 二リ 野 沢 一リ半
山 辺 一リ 野 尻 一リ半
長 崎 一リ半 白 坂 一リ半
さかへ 《割書:一リ|半》 八ツ田 一リ半
白 岩 二リ 焼 山 一リ半
海 塩 一リ半 天 満 一リ
佐 沢 一リ半 津 川 二リ
【左丁表四段目】
成 頼 二リ一丁
塩 田 二リ廿四丁
嬉 野 二 リ廿八丁
その木 三リ
松 原 一リ
大村▫ 三リ
いさはや 四リ
矢 上 一リ
日 見 二リ
長 崎
大坂ヨリ長崎迄船路
大 坂 十リ
兵 庫 五リ
明石▫ 十三リ
室 五リ
大たぶ 五リ
牛まど 七リ
【右丁表一段目】
南部盛岡 四リ廿七丁《割書:目|ヨ》
しぶ民 四リ三丁ヨ
沼宮内 八リ八丁ヨ
一の戸 一リ卅一丁
福 岡 七丁
金田市 三リ二丁ヨ
三の戸 三リ十五丁ヨ
麻 水 一リ十七丁ヨ
五の戸 一リ廿四丁ヨ
伝方寺 卅丁ヨ
藤 島 三リ卅丁ヨ
七の戸 五リ廿九丁ヨ
野辺地 四リ十三丁
小 湊 四リ十丁
野 内 二リ十七丁
青 盛 一リ十三丁ヨ
大 浜 三リ十九丁
蓬 田 二リ三丁ヨ
【右丁表二段目】
越ケ谷 二リ卅丁
かすかべ 一リ半
杉 戸 一リ半
幸 手 二リ廿二丁
栗 橋 二リ
中 田 一リ半
古河▫ 廿九丁
野 水 二リ
まゝ田 一リ廿五丁
小 山 《割書:一リ半|七丁》
新 田 十九丁
小金井 一リ半
石ばし 一リ半
雀の宮 二リ三丁
宇都宮▫ 一リ
野 沢 一リ半
徳二良 二リ半
大 沢 二リ
【右丁表三段目】
本道寺 一リ 湯 口 《割書:ヱチコ|三リ》
いさご 二リ半 荒 屋 一リ十丁
し つ 六リ 綱 木 一リ半
たむき 一リ 赤 谷 一リ
大 網 一リ半 山 内 二リ
松 根 二リ 芝田▫
丸 岡 一リ 米 倉 一リ
鶴 岡《割書:庄内|一リ》▫ いち峰 一リ
乗折ゟ 加 持 一リ
秋田道 中 条 卅二丁
乗 折 一リ半 黒 川 二リ八丁
小 坂 二リ 平 林 二リ
上戸沢 一リ 村上《割書:ヱチコ| ▫》
下戸沢 一リ 庄内ゟ
渡 せ 一リ 本庄道
瀬 木 一リ 鶴岡《割書:庄内|一リ》
なめつ 一リ 藤 島 二リ
峠 田 一リ 苅 川 五リ
【右丁表四段目】
ひ ゞ 三リ
しもつい 七リ
白 石 三リ
鞆 五リ
ゆ け 十リ
みたらい 五リ
かまかり 八リ
津 和 五リ
かむろ 七リ
上の関 五リ
室すみ 五リ
かさた 七リ
むかう 五リ
新泊り 十三リ
下の関 三リ
○下の関ゟ大里へ二リ
御大名方は大里にて
船ゟ御上り被成候
【左丁表一段目】
蟹 田 三リ十六丁ヨ
平 館 五リ廿丁ヨ
今 別 一リ八丁ヨ
三 厩 海上七リヨ
松 前 ▫
○野辺地ゟ佐井通 ̄リ
野辺地 二リ八丁ヨ
有 戸 四リ廿六丁ヨ
横 浜 二リ廿七丁
中野沢 三リ廿一丁
田名部 三リ廿七丁ヨ
大 畑 二リ廿一丁
下風呂 二リ卅四丁ヨ
異国澗 一リ廿五丁ヨ
大 澗 一リ十丁ヨ
奥 戸 二リ
佐 井 海上八リヨ
松前箱館
【左丁表二段目】
今 市 二リ
鉢 石 十丁
日 光
江戸ヨリ水戸海道
日本橋 二り
千 住 一リ
新 宿 一リ
松 戸 二リ
小 金 三リ
あびこ 一リ
取 手 二リ
藤 代 二リ
若 柴 二リ
牛 久 二リ
荒 川 二リ
中 村 一リ
土浦▫ 一リ
【左丁表三段目】
湯 原 三リ 酒 田 六リ
楢 下 二リ 吹 浦 一リ
上の山 一リ廿丁 女 鹿 一リ
松 原 一リ廿二丁 小砂川 二リ
山 形 《割書:▫|三リ半》 塩 越 《割書:一リ|十八丁》
天 童 二リ 象潟
六 田 一リ半 金の浦 《割書:一リ|五丁》
楯 岡 一リ三丁 芹 田 一リ
飯 田 一リ 平 沢 三リ
林 田 一リ廿丁 本庄口▫
尾花沢 二リ 秋田より
柳 沢 《割書:一リ|九丁》 津軽道
舟 方 三リ 久保田 《割書:秋田|四リ》
清 水 二リ 湊 四リ
相 貝 一リ 大 窪 十一丁
古 口 六リ 蛇 川 四リ
新 座 《割書:▫|四リ》 大 川 二リ
金 山 三リ 鹿 渡 一リ半
【左丁表四段目】
小倉▫ 《割書:二リ|三十一丁》
此所より福岡道
小倉▫ 二リ卅一丁
黒 崎 二リ卅四丁
木やのせ 四リ
赤 間 二リ
あせ町 二リ
青 柳 三リ廿五丁
箱 崎 廿三丁
持 田 一リ
福 岡
黒 崎 二リ卅四丁
こやのせ 四リ
飯 塚 三リ
内 野 二リ廿九丁
山 上 一リ九丁
原 田 二リ
田 代
【右丁表一段目】
本馬 卅六貫目
乗掛下 《割書:十貫目より|十八貫目まて》
軽尻 三貫目より
あふ附 八貫目まて
右の駄賃は右 ̄ニ記
す本駄賃を二つ
合て三つに割則
からしり駄賃なり
たとへば本駄ちん
百文の時二ツ合
せば二百文になる
これを三つに割ば
六十四文としるべし
人足荷五貫目
此駄賃本駄賃の
半分なり
【右丁表二段目】
中ぬき 一リ
稲 石 二リ
府 中 一リ
竹 原 一リ
片 倉 二リ
おばた 二リ
長 岡 二リ二
水戸▫ 《割書:此所ゟ大田|通奥州道|二リ》
新 田 二リ
額 田 一リ半
大 田 二リ
町 家 一リ
わふち 一リ
川原の 一リ十丁
折はし 一リ
大 中 一リ
小 中 是ゟ奥州
【右丁表三段目】
のそき 三リ 森 岡 三リ
院 内 一リ 桧 山 三リ
横 堀 三リ 鶴 形 一リ半
湯 沢《割書:四リ|卅丁》 飛 根 一リ半
横 手 二リ 荷上場 一リ
金 沢 一リ半 小 繋 一リ
六 卿 一リ 前 山 一リ
大 曲 一リ 今 泉 廿丁
花 立 十五丁 房 沢 《割書:一リ|三丁》
神宮寺 一リ半 つゝれこ 五リ
刈和の 《割書:二リ|十八丁》 大 館 一リ
堺 四リ 釈迦内 五リ
戸 島 三リ 碇ケ関 五
久保田《割書:秋田|▫》 弘前《割書:沖軽|▫》
湊ヘ二リ 此所より
此所より 陸地三馬
松前へ海上 屋まて
七十八里 二十八里ヨ
【右丁表四段目】
是ゟ長崎迄前に同
肥前名子屋ゟ
対馬朝鮮里数
名子屋 《割書:船路| 十五リ》
勝本▫ 《割書:イキ| 四十リ》
対馬▫ 四十八リ
朝鮮国
大坂ヨリ釜山浦迄
三百七十里余
長崎ヨり外国里数
南京(ナンキン)へ三百四十里
広東(カントウ)へ八百七十里
東京(トンキン)へ千六百里
柬捕塞(カボチヤ)へ千八百里
暹羅(シヤムロ)へ二千三百里
天竺(テンチク)へ四千百四十里
阿蘭陀(ヲランダ)へ一万二千九百里
イキリスへ一万二千六百里
【左丁表一段目】
西国三十三所
観音霊場地名
一番《割書:紀伊国|》智山(なちさん)
二番《割書:同|》三井寺(きみゐてら)
三番《割書:同|》河寺(こかわてら)
四番《割書:和泉国|》 槙尾寺(まきのをてら)
五番《割書:河内国|》 葛井寺(ふぢゐてら)
六番《割書:大和国|》 壷坂寺(つほさかてら)
七番《割書:同|》 岡寺(おかてら)
八番《割書:同|》 長谷寺(はせてら)
【左丁表二段目】
秋父三十四所
観音霊場地名
一番《割書:四万部|》 妙音寺(みやうをんし)
二番《割書:大棚|》 真福寺(しんふくし)
三番《割書:岩本|》 常泉寺(しやうせんし)
四番《割書:荒木|》 金昌寺(こんしやうし)
五番《割書:ゴカノ堂|》 語歌寺(ごかてら)
六番《割書:荻ノ堂|》 卜雲寺(ぼくうんし)
七番《割書:牛伏|》 法長寺(ほうちやうし)
八番《割書:青苔山|》 西善寺(さいせんし)
【左丁表三段目】
坂東三十三所
観音霊場地名
一番《割書:相州|鎌倉》 杉本寺(すきもとてら)
二番《割書:同三浦|》 岩殿寺(がんでんし)
三番《割書:同鎌倉|》 田代堂(たしろだう)
四番《割書:同|》 長谷寺(はせてら)
五番《割書:同足柄郡|》 飯泉(いゝすみ)
六番《割書:同飯山|》 長谷寺
七番《割書:同金目|》 光明寺(かうめうし)
八番《割書:同星谷|》 星谷寺(せうこくし)
【右丁表一段目】
九番《割書:奈良|》 南円堂(なんゑんだう)
十番《割書:宇治|》 三室戸(みむろと)寺
十一番《割書:山城|》 上醍醐寺(かみだいごじ)
十二番《割書:江州|》 岩間寺(いはまてら)
十三番《割書:同|》 石山寺(いしやまてら)
十四番《割書:同|》 三井寺(みゐてら)
十五番《割書:山城|》 今熊野(いまくまの)
十六番《割書:同|》 清水(きよみつ)寺
十七番《割書:同|》 六波羅蜜寺(ろくはらみつてら)
十八番《割書:同|》 六角堂(ろつかくだう)
【右丁表二段目】
九番《割書:明星山|》 明智寺(あけちてら)
十番《割書:万松山|》 大慈寺(たいじし)
十一番《割書:坂氷|》 常楽寺(しやうらくし)
十二番《割書:仏道山|》 野坂寺(のさかてら)
十三番《割書:ハケノシタ|》 慈眼寺(じげんし)
十四番《割書:長岳山|》 今宮坊(いまみやほう)
十五番《割書:母巣山|》 蔵福寺(そうふくし)
十六番《割書:無量山|》 西光寺(さいかうし)
十七番《割書:ハヤシ寺|》 定林寺(しやうりんし)
十八番 神門寺(かうとし)
【右丁表三段目】
九番《割書:武蔵国|》 慈光寺(じかうし)
十番《割書:同比企岩殿|》 正法寺(せうほうし)
十一番《割書:同吉見|岩殿》 安楽寺(あんらくし)
十二番《割書:同岩付|》 慈恩寺(じおんし)
十三番《割書:江戸|》 浅草寺(あさくさてら)
十四番《割書:武州|》 弘明寺(こうめうし)
十五番《割書:上州白石|》 長谷寺
十六番《割書:同|》 水沢寺(すいたくし)
十七番《割書:下野佐野|》 出流山(いづるさん)
十八番《割書:同日光|》 中禅寺(ちうせんじ)
【左丁表一段目】
十九番《割書:同|》 華堂(かうだう)
二十番《割書:同|》 善峰(よしみね)寺
廿一番《割書: 丹波国|》 穴穂寺(あなうし)
廿二番《割書: 摂津国|》 総持寺(そうじし)
廿三番《割書:同|》 勝尾寺(かちをてら)
廿四番《割書:同|》 中山寺(なかやまてら)
廿五番《割書:播州|》 新清水(きよみつ)寺
廿六番《割書:同|》 法華山(ほつけし)
廿七番《割書:同|》 書写山(しよしやさん)
廿八番《割書:丹後国|》 成相寺(なりあひし)
【左丁表二段目】
十九番《割書:飛淵山|》 竜石寺(りうせきし)
二十番 岩(いわ)の上(うえ)
廿一番 矢(や)の堂(だう)
廿二番 栄福寺(ゑいふくし)
廿三番《割書:ヲガサカ|》 音楽寺(おんかくし)
廿四番《割書:シラヤマ|》 法泉寺(ほうせんし)
廿五番《割書:久那|》 久昌寺(きうしやうし)
廿六番《割書:下影森|》 円融寺(ゑんゆうし)
廿七番《割書:上影森|》 大淵寺(たいゑんし)
廿八番《割書:ハシタテ|》 橋立寺(きやうりうし)
【左丁表三段目】
十九番《割書:下野|》 大谷寺(をほやし)
二十番《割書:同益子|》 西明寺(さいめうし)
廿一番《割書:常州|八講》 日輪寺(にちりんし)
廿二番《割書:同天神林|》 佐竹寺(さたけてら)
廿三番《割書:同笠間|》 佐白山(さしろさん)
廿四番《割書:同雨引|》 楽法寺(らくほうし)
廿五番《割書:同筑波山|》 大 御堂(みたう)
廿六番《割書:同南明山|》 清滝寺(きよたきてら)
廿七番《割書:下総|銚子》 飯沼山(いゝぬまさん)
廿八番《割書:同滑河|》 竜正院(りうせういん)
【右丁表一段目】
廿九番《割書:若狭国|》 松尾寺(まつのをてら)
卅番《割書:江州|》 竹生島(ちくふしま)
卅一番《割書:同|》 長命寺(ちやうめいし)
卅二番《割書:同|》 観音寺(くわんをんし)
卅三番《割書:美濃国|》 谷汲(たにくみ)寺
右谷汲寺迄巡廻して
信州善光寺へ参るには加
納へ出夫ゟ木曽路洗馬
より右へ行なり
【右丁表二段目】
廿九番《割書:笹ノ戸|》 長泉院(ちやうせんいん)
卅番《割書:フ力タ|》 宝雲寺(ほううんし)
卅一番《割書:鷲ノ窟|》 観音院(くわんをんゐん)
卅二番《割書:ハンニヤ|》 法性寺(ほうせうし)
卅三番《割書:小坂下|》 菊水寺(きくすいし)
卅四番《割書:水クゞリ|》 水潜寺(すいせんし)
秩父は一郡のみにして他郡へ
またがらずして便利よき也
【右丁表三段目】
廿九番《割書:同青蓮|》 千葉寺(ちばてら)
卅番《割書:上総|高倉》 高蔵寺
卅一番《割書:同笠森|》 楠光院(なんかういん)
卅二番《割書:同音羽|》 清水寺(せいすいし)
卅三番《割書:房州|》 那呉寺(なごし)
右房州迄の道すからは
日光鹿島香取其外名
所旧跡最も多ありて西
国にもおとらぬ風景也
帰厚客話《割書:景山先生著|初編十冊近刻》
此書は士農工商の孝道忠義寄特正直
并諸芸技術人々深切に鍛錬したる上
いつれも妙境に至りたる事譬へは士は君に
仕へ家を興し農家は田畑山林を肥し百工は好事にして名人と聞へ商家は
正直にして豪富と成しこと各篤厚を積あけて一大家を成したる
古今の実事を集め夫々部分にして初学の志を立る楷梯の書なり
《割書:女子|教訓》水かゝみ《割書: 同|絵入全二冊 近刻》
女子教訓の書は古昔ゟよき書あまた有て何
とてたらざることなけれとも時代に随ひて其風
俗詞折々替るものなればいかなるよき風俗も
今の世に合せて見時はよしと思ふ人はすくなし夫故におのつから古風を学ふ
志しも立ぬ也教訓も其如く古へのまゝにては当時の人に聞へかたきによつて此書は
女子の育方より諸芸の教かた礼儀作法に至るまて古の教を当時のことに引
直し絵姿模様等も今時の風にして女子に王極のみこみよき為の書也
彫工 佐脇庄兵衛
文化七年庚午八月既望 同 伊三郎
日本橋通壱町目
東都書肆 須原屋茂兵衛
下谷池之端仲町
須原屋伊八
【裏表紙】
新ちくさい 全
【参照資料:国会図書館デジタルコレクション>浮世草紙刊行会叢書>第1巻>新竹斎 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953502/145】
●模範解答付きコレクションは、国会図書館が公開する翻刻本を参照資料として、自分で答え合わせをしながら翻刻を進めることができるコレクションです。
●参照する翻刻本では、かなを漢字にしたり、濁点や句読点を付加するなど、読みやすさのために原書と異なる表記をしている場合があります。入力にあたっては、「みんなで翻刻」ガイドラインの規則に従い、原書の表記を優先し、見たままに翻刻して下さい。
●参照する翻刻本と原書の間で、版の違いなどにより文章や構成が相違する場合があります。この場合も原書の状況を優先して翻刻して下さい。
新ちくさひ 全
【書き題簽】新竹斎先生《割書:滑稽即席問答|五冊合巻ノ壱冊廿五□》
新竹斎巻之一
一 □(さへづり)は軽(かる)口の島部野(とりべの)
花(はな)といふは都(みやこ)の東(ひんがし)。西(にし)の京の片陰薮(かたかげやぶ)に生(うま)るゝ鴬(うぐひす)の竹斎(ちくさい)
が世継(よつぎ)に筍斎(じゆんさい)といふ医師(くすし)あり。療治(りやうぢ)の名誉(めいよ)なる事。日(に)
本(ほん)第(だい)一。跡(あと)からかぞへて大母指(おやゆび)を過(すぎ)ず。さればきはめて貧(まづし)
けれど。酒(さけ)にたのしみてうさを忘(わす)る。人間(にんげん)のたねならぬには
あらで蝌(かへるこ)といふゐめうあり。天性(てんしやう)頭(かしら)大に尻(しり)ほそく。爾(しか)も
親(おや)の口をまねて。歌(うた)の道のよことび。怪我(けが)にもこしおれ
ならぬなし。家人(けにん)ひとり有。去(いん)じ白眼(にらみ)の介(すけ)が子なれば。睚眦(ねめ)
介と呼(よぶ)。若党(わかとう)にも小者(こもの)にも女房(にようぼう)にも下女(げぢよ)にもたゞ一人
なれば。世人(せじん)又こと名(な)をとなへて。二 枚(まい)屏風(ひやうぶ)といふ。勝手(かつて)次第(しだい)
【参照資料:国会図書館デジタルコレクション>浮世草紙刊行会叢書>第1巻>新竹斎>巻之一-一 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953502/148】
用(よう)に立(たつ)るといふ事とぞ。此ものも家風(かふう)を仰(あふひ)で。歌(うた)物がた
りかんな書(ふみ)に眼(まなご)をさらし。其道に枕(まくら)をくだくはゆふに
やさしきわざなりかし。春のながめのつれ〳〵を過(すぐ)し
花ゑみ柳(やなぎ)みどりして。世(よ)にある人々けふはきよ水(みづ)へ。明(あ)
日(す)は仁和寺(にんはし)へと。思ふどち打むれて。心々行に。うかされ
筍斎(じゆんさい)もねめ介をぐして。いつちと定(さだめ)たるかたなく。つ
ま
さゝきにあなひさすれば。たれかいひし春(はる)の色あるひん
がしにあゆみ。祇園(ぎをん)の御 社(やしろ)にまうず。げにも桜(さくら)の八 重(え)一
重(え)ちりもせず咲(さき)ものこらぬ。日ざかりの朱(あけ)の玉垣(たまがき)神さび
て。参詣(さんけい)の貴賎(きせん)きざはしを諍(あらそふ)。筍斎(じゆんさい)も人とおなじ
〱。神前(しんぜん)に拱(こまぬい)て願(ねがひ)をつぶやく。南無三 社(じや)牛頭天王(ごづてんわう)本地(ほんぢ)
薬師如来(やくしによらい)。親仁(おやぢ)竹斎(ちくさい)こそ。一 代(だい)薮医(やぶゐ)に朽果(くちはて)侍ふとも我
には親まさりの妙(めう)を示(しめ)し給へと。ことくどく再拝(さいはい)し立(たち)
のくさまに。給馬(ゑむま)をみる。かな文(もん)字のたほやかに。何氏(なにうぢ)の女十二才八才
と有 少女(しやうぢよ)の業(わざ)にはいとめづらしく。其外はかぞへつへくも非(あら)
ず。西(にし)の柱(はしら)に東(ひがし)むきて。ひとりの大の法師(ほうし)。つらたましひ恐(をそろし)
きが。ゆん手(で)に水瓶(みづかめ)をさゝげ足もとに土器(どき)【左ルビ「かわらけ」】をふみくだきた
るを。たくましき武士(ものゝふ)のしとゝいだき付たり筆勢(ひつせい)えも
いはれず。筍斎(じゆんさい)打諾(うちうなづき)これみけるやねめ介。あの法師(ほうし)と武士(ものゝふ)
と酒のえんをなしけるが。あまり侍(さふらひ)が酒を過(すご)すを法師 笑(せう)
止(し)がりて飯酒戒(おんじゆかい)の罪(つみ)などいひ立。銚子(てうし)をとらんといふを。侍
こらへず引とむるとて。杯(さかづき)をふみわりし所よと。子細(しさい)らし
【挿絵】
くかたるをねめ介さゝやきてむさとしたる事な仰(おほせ)て。あの
武士(もののふ)は平(たいら)の忠盛(たゞもり)こなたは当社(とうしや)の承仕法師(じやうじほうし)。昔(むかし)白河(しらかは)の院(ゐん)
の御しのひの御幸(みゆき)ありし時。かう〳〵の事ありて抱(だき)とめたる
図画(づぐわ)とこそ申候へ。ようにも人の聞(きく)物をといへば。筍斎(しゆんさい)ぬから
ぬがほで。まことにいかにもこなたは忠(たゞ)もり。されば上(うへ)なき酒
のみにてありしと。あるふみに
今(ま)一 杯(はい)たゞもりたらぬさるへいじくだけて物を思ふかはらけ
と口かしこくいひて立のけば。ねめ介も腹(はら)かゝへ行(ゆく)。南(みなみ)にいてゝ
石の鳥居(とりゐ)。左(ひだり)につゞきて双林寺(さうりんじ)高台寺(かうだいし)右に歩(あゆみ)て安井(やすい)の御
堂(どう)に入 藤(ふぢ)杜若(かきつばた)はまだ色(いろ)なくて。さくらは雲(くも)とあらそふ。筍(じゆん)さ
い。まづ火桜(ひざくら)によりてたばこたうべんといへば。ねめ介しほ
がまにむかひて。せんじ茶(ちや)ひとつといへど花(はな)ものいはず笑(わらひ)も
せず。爰(こゝ)を見 過(すぐ)して。庚申堂(かうしんとう)に出。三 申(じん)のあかき顔(かほ)に
酒のなつかしさ添(そへ)。つみつくる折しも。左右(ひたりみぎ)のすだれより。な
まめける女の我しりがほにさしまね〱に。おもほえず風に
なび〱ふじやといふのんれんの内に入ぬ。あるじの女 房(ほゞう)傍(そば)へ
ゐよりてお雪お茶しんじましやといふもにくからず。富士(ふじ)に
雪心ありげなる名(な)にこそあれと思へば。くゆるきせるのけふり
迄(まで)よそに替(かは)りておもしろう立行は。我心のうかるゝゆへに
や御 茶(ちや)あがりませとさし出す茶(ちや)はふるし水たうべんと
いへば。扨 気精(きじやう)のつよひ事かなといふ〳〵もて来(く)る。波間(なみま)にかづ
〳〵あまならで天目(てんもく)引うけいきもつぎあへすのみて
心中(しんぢう)も流(なが)るゝ水にくみてしる雪はつめたき茶(ちや)や女かな
とわる口いへば雪にかはりてあるじの女
心中も水のしたひもふる雪も打とけて社(こそ)そこはしらるれ
といひし。此わたりにかゝる人はと肝(きも)つぶれぬ。酒打のみ雪が小
歌(うた)に遊(あそ)びてやゝ半日(はんじつ)を過る。又 行客(かうかく)の跡(あと)のため。ながゐ
も心なしと巾着(きんちやく)ひねくりて一せきを引 包(つゝみ)茶代(ちやだい)すれば
さいはてなる女 二瀬(ふたせ)とやらんいへるが。かい取て勝手(かつて)に入(いる)。間(ま)
なく去(たち)帰りて。もうし是お銀(かねが)悪(わる)う御さりますといふ。扨も
恋しらずめ。替(かへ)てやらふも今(ま)ひとつとあらばこそ情(なさけ)なや。
いつくしき雪(ゆき)が貌(がほ)も心からにや恐(をそろしく)夢(ゆめ)になれと悔(くゆ)れどかいなし。
ためいきの下に何といかふわるひかととふ。さればやけたとやらん
にせとやら申ますといふに
やくるとは我(わが)おもひをやいふならん包(つゝむ)心のふじにけふりて
と艶(えん)なるかたに紛(まぎ)らはすれど。さすが代(かはり)のなき事。はちがは
しくさしうつふきゐたれば。主(あるじ)の女 雪(ゆき)にかはりて又よめる
見し色のかはりなき社(こそ)たのみなれにせをかけたるかねことの末(すえ)
といひけるにうれし〱おもはゆくさらばやといふ声(こゑ)も。ふるひ
〳〵まどい出ぬ。扨も此 主(あるじ)の情(なさけ)ふかさ言(こと)の葉のゆかしく心にく
きほどに。又々ゆかまほしながら。はづかしき悪(わる)がねのひゞき
に
心ならず夕(ゆふ)ぐれを送(をく)る。のち〳〵きけばかの女ぼうは。往昔(そのかみ)六 条(でう)
の町にてかほるといひし松(まつ)の君(きみ)。根(ね)引にひかれぬれど。其男世を
はやうし。ひとり身となりて。爰(こゝ)かしこさまよひありき。関守(せきもり)
すへぬ月日の影(かげ)かたふくよはひの今(いま)此一所にかゝる所作(しよさ)し
けるとぞ。げにや紅(くれなゐ)は園生(そのふ)にうへてもよきいろのうつりかは
らぬに。替(かは)りはつるまゆの霜(しも)こそにくけれ。こゝを出て八坂(やさか)の
塔(たう)を見あげ。まさや昔(むかし)此 塔婆(たうば)帝都(ていと)のかたにゆがみしを。
浄蔵(じやうざう)貴所(きそ)といふ大とこの祈(いのり)てゆがみをなをせしとぞ
さいつ比 富尾(とみを)何がし此所にて俳句(はいく)あり
浄蔵(じやうざう)ありや昼(ひる)にかたふく八坂(やさか)の花
筍斎はまた
其人に祈(いのり)なをしてもらひたし我 身上(しんしやう)のたふれかゝるを
此 隣(となり)十 輪院(りんゐん)本尊(ほんぞん)不 動明王(とうみやうわう)弘法(こうぼう)大 師(し)秘符(ひふ)疱瘡除(はうさうよけ)
の札(ふだ)当 院(いん)にあり。猶あゆめば左(ひだり)に霊山(りやうぜん)の入口ざしき
能(のう)ありと人々のゝめき行。ねとりの笛(ふえ)の東風(こち)にひゞく
をあちに聞捨(きゝずて)通(とを)れば。爰(こゝ)なん京 土産(みやげ)に書(かき)し大 同(どう)二
年の翌年(よくねん)【左ルビ「あくるとし」】に筑(きつき)けん三年 坂(ざか)おそるべし。此坂にてこ
ろびし人三 年(とせ)めに死(し)するといふ帯(おび)にとり付(つき)こかすなと
いひもあへぬに。薬缶頭(やくわんあたま)の上(うは)かぶき。とある小 石(いし)につまづき横(よこ)
さまにたふれながら。ねめ介をしかりて。鈍(とん)なやつかな主人(しゆじん)
をうつふけにしをつてといへば。押(おせ)せと仰られてから是(これ)こそ
坂ねだりといふ物なれと主従(しゆじう)笑(わらひ)になつて行。ゆんでに
優婆堂(うばだう)めてに経書堂(きやうかくだう)。続(つゞひ)て経蔵(きやうざう)あり参詣(さんけい)のわかうど
偏(ひとへ)に右の肩(かた)をあらはにして。念彼観音(ねびくわんおん)の力(ちから)わざ。此 車(くるま)
をまはすに。一 切経(さいきやう)をくりたる功徳(くどく)ありとかや。筍斎も肩(かた)
をしぬひでかゝりけるが。都鄙(とひ)の陽気(やうき)ものども諍(あらそひ)いきつ
て寄(よせ)つけねば
大 勢(ぜい)のひきてあまたに成ぬれはおもへどえこそたよらざりけり
と打かこち行。子安観音(こやすのくわんおん)右にあり筍斎はつまをもたねば
泰産(たいさん)をいのるべきふしもなし。西門(さいもん)より朝倉堂(あさくらだう)田村(たむら)
堂 本堂(ほんだう)を作礼(さらい)し。奥(をく)の院(いん)にまうづ。いつも絶(たえ)せぬ当(たう)
寺(じ)の参詣(さんけい)。わきて時ある花(はな)のさかりいひ出るもことふるし
や。舞台(ぶたい)より見おろせば。滝詣(たきまうで)の男女(なんによ)ゆかたそぼぬれて。壱
町斗の石壇(いしだん)をのぼるありおるゝあり。かゝる時や此 滝(たき)を
布引(ぬのびき)とも見るべくねめ介のいふ男の詣(まうて)はめにたつ斗もな
し。若(わか)き女のゆかた姿(すがた)とり上がみ何 祈(いのる)るらん心にくし
といへば筍斎(じゆんさい)聞(きゝ)てしらずや此 滝(たき)は恋(こひ)の水上(みなかみ)ぬれの元祖(ぐわんそ)
上(かみ)に牛王(ごわう)の姫(ひめ)ありて。下(しも)にながれの女をすます。あさまし
や女の身なれば一 夜(や)で落(おち)てと読(よみ)しも此 滝(たき)とあはう口
いひつゞくるを。ねめ介 笑止(せうし)がり口に手あてゝいひやみぬ扨
片(かた)すみにあぐらかいて。焼飯(やきいゐ)とり出一 瓢(へう)をかたふけ。楽(たのしみ)此うち
にありとあたまたゝくも余念(よねん)なしや。やう〳〵日 既(すで)に傾(かたふけ)ば。そ
こを立て又 西門(さいもん)の西南(にしみなみ)のほそ辻子(づし)に入。鳥部野(とりべの)にゆく道也。
景清(かげきよ)か篭(らう)の谷(たに)とて。閑渓(かんけい)物すごき所を過(すき)て大谷山 鳥(とり)
部野に出。爰(こゝ)にも野(の)がけ山あそびの酒宴(しゆゑん)のまくは数(かず)々
ながら花ぞちりけるといふ。かねの音(をと)に驚(おどろき)。各(をの〳〵)氈(せん)絵蓆(ゑむしろ)とり
もたせしどろ足(あし)もと打もつれて京にかへるこそうつゝなけれ
【挿絵】
ねめ介。朝(あした)家(いへ)を出て夕(ゆふべ)此 野(の)にいたる心を狂詠(きやうゑい)せよといへば。筍斎
たつみむに観音(くわんおん)堂のひつじさるとりへ野(の)にきく入あひのかね
といひ捨茅(すてかや)が軒(のき)にかへりぬ
二 花は散(ちる)黒谷(くろだに)の夢(ゆめ)
けふは黒谷(くろたに)に志(こゝろざし)加茂(かも)川を越(こえ)。南(みなみ)は聖護院(しやうごゐん)の森(もり)北に岡崎(をかさき)のさ
とに入。蓼倉(たでくら)の薬師(やくし)を礼(らい)し金戒光明寺(こんかいくわうみやうじ)にまうづ。爰(こゝ)には
八重(やえ)はすくなく山 桜(ざくら)の盛過(さかりすぎ)しを嵐(あらし)の誘(さそひ)てこゝかしこに
吹乱(ふきみだ)したる景気(けいき)えもいはれず筍斎
黒谷にしら毛(が)ましりの花の雪ところ〳〵ははげて金(きん)かい
本堂(ほんだう)のむかふに吉田寺(きちでんじ)の観音まします洛陽(らくやう)三十三所のひ
とつなり。つゞきに石仏(せきぶつ)の地蔵(ちざう)弥陀(みだ)のざうたち給ふ。筍斎手
を打てこれ〳〵ねめ介。我(われ)かあたまのろきなとて日頃(ひころ)人々
に笑(われ)われたるが。仏(ほとけ)にも是見よさん〳〵いかひつふりかなといふ
を。ねめ介又さゝやきてことも愚(をろか)や此 御仏(みほとけ)は成仏(じやうぶつ)以前(ゐぜん)衆生(しゆじやう)の
ためにかうやつれさせ給ふ御 姿(すがた)。五 劫(こう)思惟(しゆい)の如来(によらい)とこそ。き
けといへば。いや夫(それ)は誤(あやまり)五 劫(こう)腫気(しゆき)の如来といふなり。されば弥(み)
陀(だ)の御 願(ぐわん)にも代(だい)十八匁のぐわんやくにて衆生(しゆじやう)の病(やまい)をすくひ
給ふ其上といふ所を。ねめ介あな笑止(せうし)こなたへとつれて
のく。東(ひがし)に向(むい)て開山(かいさん)の御 廟所(べうしよ)勢至堂(せいしだう)此 砌(みぎり)は皆(みな)なき人のかた
み。所を諍(あらそ)ひ五 輪(りん)そとばの苔(こけ)青(あそ)〱焼香(しやうかう)霧(きり)と立のぼる中
に石の牌(ひ)のそばに。かんなにてあつもりくまかへどしるしたる有
貴賤(きせん)俗名(ぞくめう)を呼(よん)でゑかうする事たえず。ぼだひは縁(ゑん)よりおこる
【参照資料:国会図書館デジタルコレクション>浮世草紙刊行会叢書>第1巻>新竹斎>巻之一-二 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953502/154】
習(なら)ひ。あつもり直実(なをざね)と組(くま)ずはいかてかく善道(ぜんどう)にいらんや。天(あつ)
晴(はれ)某(それがし)もかゝる人と参りあひてきらるゝ事はいや
くまかへが杯(さかづき)ならば引くんでおさへられてものふでみたしや
北に続(つゞき)て神楽岡(かくらをか)春日(かすが)の宝前(ほうぜん)にまうで。東(ひかし)に出て鹿(しゝ)が谷(たに)の
法然寺(ほうねんじ)仏(ぶつ)づめの念仏(ねぶつ)他(た)にすぐれすしやうに。浄土寺(じやうどじ)のさとに入る。
爰(ここ)に昔(むかし)慈照院(じせうゐん)の別業(べつぎやう)銀閣(ぎんかく)寺あり。さしもいみじき跡(あと)な
がら。星霜(ほししも)やゝうつりて。今は名のみに。松たかく梟(ふくろう)すごく。物
いへば嵐(あらし)梢(こずへ)にこたへする。又 後(うしろ)の山にてとしごと七月十六 夜(や)
をくり火の大文字(だいもんじ)たく。高野(かうや)大 師(し)の筆跡(ひつせき)とかや。此 北(きた)近(ちか)く
出て白川のさと。彼(かの)八才の宮の
みちのくの関(せき)迄行ぬ白川も日かすへぬれは秋かせぞ吹
といふ古歌(ふるうた)をひかせ給ひし名所(なところ)。さとの者のなりわひとて
屋 作(づく)りの用石(ようせき)を切(きり)出す。京 童(わらべ)のことくさに小 米石(こめいし)といふを
鑿(のみ)あてゝ白かはけづるからうすにふまぬさきよりちる小米かな
此山あひを東(ひがし)へゆく道を山 中越(なかこえ)といふ。あなたは志 賀(が)こなた
は三 井(ゐ)の古寺(ふるてら)。左(ひだり)は都のふじがたけ花のふゞきのとよみしは
此 道筋(みちすじ)となん。やごとなきかたは左(さ)もよみ給ふべし。わがお
ろかなる口にては山 中(なか)大こんをことの葉(はの)種(たね)にせんとて筍(じゆん)さい
山中にいかひねを出す鴬(うぐひす)はきいてきみよしからみ大こん
引かへして右に行ば知恩寺(ちをんじ)あり鎮西流義(ちんぜいりうぎ)の四 ケ(か)のひ
とつなり。こゝにて哀なる事を見き。としのほど六十(むそじ)斗(はかり)の
ちさき男の有徳(うとく)らしきが。ゑもんさはやかに四(よつ)めゆひの
紋(もん)つけて。なまめける女まじり。若党(わかとう)小者(こもの)おほ〱て。此寺
に参りけるを。寺前(じぜん)の茶園(ちやぞの)より三十(みそじ)余(あまり)の健(すこやか)なる男。つ
と走(はしり)出。門外(もんぐわい)にて。彼(かの)親仁(おやぢ)をとつてふせ。刀(かたな)をぬひて心もと
におしあて。天晴(あつはれ)己(おのれ)はにくきやつかな。我は是 汝(なんち)が妾(せう)【左ルビ「てかけ」】の夫(おつと)定(さだめ)
て覚(おぼ)へあらめとのゝしる。召つれたる者(もの)共も。すくはんとする
に利(とき)かたなを胸(むね)にあてたれば。せんかたなく。つゐにさしころ
してけり。寺内(じない)門前(もんぜん)騒立(さわきたち)棒(ばう)ちぎり木(き)に取こめて。とりこ
にしけるとかや。此のちの事はしらずなりき。此 老(をい)たる
男。妾(せう)がいろに深くまよひ。此事つのりてかく浅(あさ)ましき
命終(めうじう)をしけりとぞ。実(けに)老(をひ)たるも若(わか)きも智(ち)あるも愚(をろか)なる
もと恥(はぢ)しめけむ。此まどひのひとつこそはなれぬ物なれ
けふは此あはれにひかれて念仏(ねふつ)ともに西(にし)の京に帰りぬ
三 廻(めぐら)ぬ薬(くすり)自慢(じまん)酒(さか)つぼの亀(かめ)山
かへれは相借(あいじやく)やの内義(ないぎ)が。もうし筍斎(じゆんさい)さま。るすの内にりやう
ぢを申て参りました。五 辻(つじ)の駕(かご)かきと。下(しも)の町のやくわ
むやの弟子とでこざるといふに。草臥(くたびれ)たれどみまふてやらふ
迄(まで)と。つゐいて帰る。さて。はやい御 帰(かへ)りやわづらひは何にて
候やといへば。さればかごかきはあたまに胼(あかゞり)がきれ。今壱人は
かいながつけて尻(しり)がいたむほどに。皆(みな)かうやくをつけて帰り
ぬと。扨(さて)々 珍(めづ)しひいたみ所かなといへば。胼(あかゝり)はゆびのあたま。
尻(しり)のいたみは。ひぢ尻(しり)といひけるに。内義(ないぎ)はあきれて物もいは
すなりぬ。かゝりし所へ絶(たえ)て久しき物まうをこふ。たそと
【参照資料:国会図書館デジタルコレクション>浮世草紙刊行会叢書>第1巻>新竹斎>巻之一-三 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953502/155】
とへば丹波(たんは)の亀(かめ)山より参(まいり)ました。酒家(しゆか)の何かしか忰(せかれ)きそく
につき承(うけたまはり)及(およひ)て人を進(しん)ずる。明日御 見舞(みまひ)給はれかしといふ。
京にりやうぢどもがつかへていとまなけれど。はる〳〵聞及(きゝおよび)
てこされたれば参らふと余情(よせい)をいひてもどしぬ。其あけ
の日ほのぐらきに出立(いでたち)行。肌(はだ)に紬(つむぎ)のひる比なる。上(うへ)にあべ
川のわた入 紙子(がみこ)。時しらぬ高宮(たかみや)のひとへはをり。かたまへ
さがりに取かさね。むさしあぶみさすがに少(すこ)大きなる朱(しゆ)
ざやのあい口やれ扇(あふぎ)十文 字(じ)にさすまゝに。木綿(もめん)頭巾(づきん)を
よこ筋(すぢ)かひに。いつもかはらぬねめ介 橡(とち)の薬筥(やくふ)【左ルビ「くすりばこ」】を打かた
げ。丹波地(たんはぢ)におもむき行。朱雀(しゆしやか)をくだりに南(みなみ)に行ば。
恋(こひ)ざとの朝(あさ)もどり。二人(ふたり)みたりの駕(かご)のあし。飛(とぶ)かと見ゆ
るひやうきん玉。みがくいきぢの色 狂(くる)ひ。うら山 敷(しく)もかへる
かごかなと。打 詠(ながめ)ゆけば島原(しまばら)の。楊(あげ)やのそこなれやくゆるけ
ふりの伽羅(きやら)げしき。権現堂(ごんげんだう)を水やくし。是又 医(いし)の水上(みなかみ)
にて。流(なが)れを汲(くめ)る我(われ)なればと心に念(ねん)じ。月なき昼(ひる)の空(そら)
ながら。桂(かつら)の川に便船(びんせん)してむかふのかたに乗(のり)出す。爰(こゝ)に東(あづま)
の者(もの)とみえて。貌(かほ)は髭(ひげ)なる奴男(やつこおとこ)。木刀(ぼくとう)に文箱(ふばこ)取つけ。川 端(はた)
に打 望(のぞみ)黒(くろ)き尻(しり)に。もすそたかくかゝげ。さしもかつらの早(はや)き
瀬(せ)を船に添(そふ)て渡(わたり)けり。船人(ふなびと)是を見るより。是や奴(やつこ)殿あぶ
なひは船にめせといへば。何是なんど川といふべきや。石はしる
東(あつま)の大 井(ゐ)川だに是よといひて行(ゆく)事 鵜(う)よりもやすし
筍斎(じゆんさい)船より見て。扨 気味(きみ)の能(よき)男や。心ち能(よく)くろき尻(しり)やとほめて
亀(かめ)山へ五里行道に尻(しり)見せてたんばくりとや是をいふらん
とどよめば。奴(やつこ)ふり帰(かへり)。ほゝえみ御 坊(ぼう)は都(みやこ)人と見え申。京はめはづ
かしと聞しに。口さへ恥(はづ)かし。お江戸(ゑど)を出て百三十里の道
すがら。比丘尼(びくに)がうき世(よ)ぶし。馬子(まご)が小むろのひなめきたるな
らで。歌(うた)といふ物きゝ侍らず。おかしき事申されて。此間の心
をはらしぬ。いで返(かへ)し申さんとて東奴(あつまやつこ)
丹波栗(たんばぐり)みのかはむひて恥(はづ)かしなあづまからけのしほれ下帯(したおび)
といひしに船こぞりて肝(きも)をけしぬ。とかくすれば船(ふね)もつき。主(ぬし)も
岸(きし)にあがる。是より道づれになりて語(かた)り行こそ。こよなふ
心 慰(なぐさ)むわざなれ。樫原(かたぎはら)といふ所にて打休(うちやすらひ)餅(もち)くふとて筍斎
ものゝふの奴(やつこ)の心 樫原(かたぎはら)歌にやはらぐあづきもちかや
といへば奴又 笑(わら)ひて貴方(きほう)は薬師な。実(げに)気(き)の薬な人かなとて
気(き)の薬もりの木陰(こかげ)の一休み身はかたぎはら心まめのこ
恐(おそろしき)ひけ男のかゝる事ともいふべしとはかけてもしらさりき。
これや市中(しちう)の賢人いかなる人の。かゝる下品(けひん)の奴僕(ぬほく)【左ルビ「やつこ」】とは
成けんとゆかし〱とへど。紛(まぎら)はしていはす成ぬ。此さとのすへ
より其人は大 原野(はらの)に文もてゆくに。公用(こうよう)とゝむべ〱もあらね
ば残(なごり)をしけれど別(わかれ)ぬ。ゆき〳〵て塚原(つかはら)のさとといふを
過れば。こゝら皆山みち也。傍(かたはら)の松がねにあたらしき石塔(せきたう)
壱つあり。此辺 墓所(むしよ)とも見えず。只ひとつしるしを残(のこ)
すいぶかし〱柴(しば)こる男にゆへをとへば男の云。されば是に
つき哀(あはれ)なる事の侍る。是より奥(をく)三里斗川 関(ぜき)といふ所
の者(もの)鮎(あゆ)といふ魚を売(うり)に夜通し京にのぼる去年(こぞ)の
夏にや例の魚篭(あじろ)をになひてたゞ一人行けるを。山だち三
人取こめてたゝきころし古き単(ひとへ)をはぎて帰りぬきう所(しよ)
をいたううたれながら片息(かたいき)残て道行(みちゆく)人に始終(しじう)をかたり
終て死す。誠(まこと)に物には事毎(こと〳〵)心をつくべき事に侍り。
此男道のたくはへにやき飯(いひ)三つ三尺帯につゝみ。こしにつ
けたるを。いかさま金銀(きん〴〵)の類なるが。魚荷(うをに)にさまかへて京
に出るよと推して命(いのち)をとりし物とぞ。その者(もの)のなき
あとのしるしゑかうして御 通(とを)りあれと語る。げにあるべき
旅途(りよと)の心得かなとて筍斎
鮎(あゆ)うりのかたちは鮓(すし)に埋(うづも)れて五輪をつみしつか原のさと
猶くつかけのさとをこえて。やう〳〵いそけばかめ山の酒(さか)やに
尋入ぬ。亭主(ていしゆ)出むかひ悦(よろこぶ)暫(しはし)休(やすみ)て病人(ひやうにん)を見る。父母(ちゝはゝ)先心もと
なく病性(ひやうしやう)をとふ。疳(かん)でごさると。かんは五疳(ごかん)とかや承(うけたま)る。何と
申かんでかさるといへば。いかにも五(いつ)色有皆むつかしひ性(しやう)なれど。くる
しからぬ。昔天子の五色(こしき)の疳(かん)を一 度(ど)にうけ給ひて。しかも
つかへがありしかと。長生あそはしたる例(ため)しがある。是は終(つゐ)にきゝ
及ばぬいづれの御代の事におはす。御存あるまひ。是はもろこし
ごかんのみかどにつかへ奉るといふが其事に侍るといへば。亭主あ
きれながら。五かんは何々ととへば。筍斎目をすがめ。五かんは先
やうかん。らくがんみつかんの類(たぐい)。皆くひ物の過てより出る。是のは
酒かんといふて。酒のかんか。あたつて出たる也。といへば。亭主(ていしゅ)聞て我
【挿絵】
々 夫婦(ふうふ)は酒を好みたうべぬれど。此者は幼(いとけ)なくて杯(さかつき)をさへ
手にだにもふれずとかたるを。筍斎打 笑(わらひ)。扨 愚(おろか)なる人々かな酒
のみの腹(はら)にやどり上戸のたねをおろしたればそ此 病(や)はありける
虚(きよ)なる父母の体(てい)をうけて。生(うま)れながら虚なるがことしされ
ば此病 薬(くすり)にて験(しるし)あるべからず。爰に我に伝(つたふ)ふる祓(はらへ)の秘事有
是をは君につたへ申さむ。抑(そも〳〵)此はらへは大 中臣(なかとみ)の家につたへて
月ごと此御わざし給ふこと禁裏(きんり)におゐて絶す。いつの頃よりか
みなづきとせちふんの夜此 祓(はらへ)をなすになれり皆としの内
の災(わざはひ)をはらふの呪【左ルビ「ましなひ)」】なりけり此故に
みな月のなごしのはらへする人はちとせのいのちのふと社聞
なととも読(よめ)り。いでさらは祓申さん此子が名はととふ鶴松と申
といへば。印こと〳〵しく結(むすん)で。やあらめでたや。やあらたのしや此
子が寿命を申さば。鶴松(つるまつ)千年(せんねん)亀(かめ)山の万年 悪病(あくびやう)外邪打
払(はらふ)て西の京へさらばといひて帰(かへり)にけり。亭主(ていしゆ)興(けう)ざめながら子を
思ふ親(おや)の心。いづくもおなし事ぞかし。筍斎が千世万代(ちよよろつよ)とこと
ぶきしを慶(よろこひ)。是より心ちもよくなりければ。黄金(わうこん)に名酒(めいしゆ)など
添(そへ)て礼につかはす。筍斎 使(つかひ)にあひて。是はおびたゝしひ御礼
物。迷惑(めいわく)ながら。はる〳〵の所御 志(こゝろざし)過(くわ)分なれば。酒は申うけう
ず。金子(きんす)は納置ませうとて持(もち)て入ぬ
四 妙薬(めうやく)は磁石(じしやく)の推量(をしすい)
一とせ八月 暴風(のわき)凄まじく家をたふし。こけらうをまくりし日
あるものゝ子十五六なるがやねのまくるゝを。ふせかんど屋の上に
【参照資料:国会図書館デジタルコレクション>浮世草紙刊行会叢書>第1巻>新竹斎>巻之一-四 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953502/159】
のぼる此者 持病(ぢひやう)に癲(てん)狂あり。やねにて件(くたん)の病おこり。うん
といふ声に。おや驚人あはてゝ。水のきつけのとさはぐ。やう〳〵
正気(しやうき)はつきながら。おそれてのぼりはしを得ほりずこは。いかゞ
すべきと医師(いし)を頼(たの)めども大風に世上 騒動(さうどう)の最中(もなか)なれば
見まふくすしなし。此上は筍斎なりともと人をはしらす。
筍斎は今 内証(ないしやう)にひんのやまひ者。はやりいしや。りやう
ぢは。たんば已来(いらい)珍(めづら)しうはあり大風が家をまくるともおれが。や
ねではなしと。とつかはと見まふ。病人(ひやうにん)はやねにおります。是
は妙(めう)な所にゐる。おろしやれといへば。さればそのおるゝ事のなら
ぬをおろして下されよと次第(しだい)をかたる。筍斎はうづえに小首(こくび)
ひねりて。是によい薬があれど持あはせぬ残多しといへば。
亭主(ていしゆ)いづかたにある物でござるととへばみちのくにあるいなぶねと
いふ物じや。のぼつてからくだらぬといふ事がない。されば歌に
最(も)上川のぼればくだるいな船のいなにはあらて此月斗
などゝも読(よめ)りといへど。是は時の手にもあはずなどいひあへれば
筍斎 懐(ふところ)より万年ごよみ取出し。此子がとしはいくつぞととふ。
十六といへば打 頷(うなづき)。爰に寄(き)妙の薬(くすり)こそあれ。是々とて薬
箱より。古(ふる)き磁石(じしやく)をとり出し。はしごのもとにさし置て
子細(しさい)らし〱ひぢをはり。今の間(ま)に此薬。上なる子を。すいおろす
功(こう)ありといひのゝしるを。傍なる人いかなる薬にて候ぞととへば
されは此子十六金 性(しやう)也。琥珀(こはく)のちりをすい。磁石のかねをすふ
事是天 然(ねん)の妙(めう)なりき待給へと。時うつれどおるゝけしき
はなかりけりに。筍斎今は為(せん)かたなく又なき秘書(ひじ)にてあれ
ど此上は教(をしへ)申さん。たばこのかたをせんじて用ひ給へといひ
捨(すて)て逃(にげ)かへる。思ふにおろしこといふ事かと皆人わらひ
になりぬ。此後はしらず
五 果報(くわほう)は唇(くちびる)につくさが土器(がはらけ)
ある日。暮(くれ)に及(およひ)て侍壱人 仕丁(じてう)に駕(かご)つらせて筍斎が家にあ
なひ乞(こふ)。身は何がしの中納言につかふる者に侍り。主 人(じん)黄門(くわうもん)
いたはる事 侍(はべ)りて。さがなる下屋敷に保養(ほやう)のため罷ある
筍斎老に脈(みやく)を頼申度よし申され打つけなから駕(かご)をつ
らせ侍りといふ。筍斎 例(れい)のうそ勿体(もつたい)当所に急病(きうびやう)多(ほをく)侍れ
ば。今にも人や参らんといふ所へ。あぶらの代(しろ)を乞(こひ)に来りて此
中申まする油(あぶら)のといひ出せば。明日(あす)〳〵といふてかへす。跡(あと)にて
あふらげを好(このみ)ては何ほど薬(くすり)を用(もち)ひても。きかぬはづしやとい
ひなをせど人はしりぬ。又女ほう一人 前(まへ)だれすがたにて。つと
いりて木(き)やのは拵(こしらへ)てこざるかと。筍斎 貌(かほ)に火を焼(たき)てすかさず
詞(ことば)をけあすやらふといへば。あすあさつてとおしやつても。は
てゝこそとのゝしり帰る。跡(あと)で侍(さふらい)へ又あいさつに。只今(たゞいま)の女
娘(むすめ)ひとりもてり。此 者(もの)きやみいたすが。ながび〱性(しやう)で。あすあ
さつてと申てもとけしなく。子ゆへにはらをたて侍ると。い
ひまぎらすもにくしや。とかくする内 時刻(じこく)うつれば。こなた
へとかごさしよせたる。ねめ介こひよ。男どもに留守(るす)よふせ
よと。せんしやうつねのごとくいひちらし。かごに打のり行
【参照資料:国会図書館デジタルコレクション>浮世草紙刊行会叢書>第1巻>新竹斎>巻之一-五 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953502/160】
漸(やう〳〵)五更(ごかう)にさがにつけば。いまだ御 寝所(しんじよ)におはしますよし
相まつほどに御 目覚(めさめ)て。筍斎をちかく召れ。はる〳〵よくそや
来り給ふ。先 初見(しよけん)の杯(さかづき)とて御かはらけをたぶ。よもすがらに
月と友(とも)にまいりたるよし申上。例(れい)の口くせおめずおくせず
都よりいたゞきづめの朝朗(あさぼらけ)さかかわらけさか月のかげ
と申ければ御きげんよろし〱。筍斎はきゝ及(および)ておや竹斎
から口のかるひ者かなさればこそ杯盃の上も今すこしかるし
とくと請よと仰ありて
さかづきの影をさしたる朝朗さががはらけの西にかたふく
事過て御 脈(みやく)を胗(しん)し御請申て薬をあげぬ仕合やよ
けん五七ふくの内に御ほんぶくなりぬ。御よろこびかぎり
なく殊(こと)に迎(むかへ)に行し侍(さふらひ)が筍かいたうまづしき体(てい)を申
上ければ。黄金(わうごん)おほく。羽二重(はふふたへ)なんどいふ。召おろしの御小袖
えならぬかほりしけるを給はりければ
いにしへのならぬ所帯(しよたい)のやれがみこ
けふはふたえににほひぬる哉
と申上てにしの京へ帰りぬ
新竹斎巻之一
新竹斎巻之二
一 此 世(よ)に三途川(さふづがわ)有(あり)姥(うば)か(が)懐(ふところ)
嵯峨(さか)土器(かはらけ)の酔(ゑひ)心ち。たつふりと能(よい)物は戴(いただく)。余念(よねん)をわするゝ折
ふし。又 暮(くれ)過(すぎ)て。駕(かご)壱丁に侍(さふらひ)弐人そひて。筍(しゆん)が家(いゑ)にあない乞(こふ)。
そつじながら我等(われら)は遠城寺(をんじやうじ)勧学院(くわんがくゐん)に仕(つか)ふる江(ごう)右衛門藤左衛門と申
者に侍り。院主(ゐんじゆ)は藤氏(ふぢうぢ)の御子にて侍る。此比 急疾(きうしつ)を請(うけ)て近(きん)
辺(へん)の名医(めいい)を集(あつめ)候へども更(さら)に験(しるし)なし。筍斎老(しゆんさいらう)事さがの中
納言(なごん)殿御 口入(こうじゆ)にて御 迎(むかひ)にかごを持せ参り侍ると有つべき
口上(こうじやう)約(つゝまやか)にのぶる。筍斎 悦(よろこび)是又よき仕合(しあわせ)此中の勢(いきほひ)に何ほど
の福(さいわい)にかあはんと喜(よろこ)び。お見舞(みまひ)申さふと内に入。是ねめ介又
かゝつた。先 迎(むかひ)の衆中(しゆぢう)に酒すゝめよと一せきのたしなみ肴(ざかな)
【参照資料:国会図書館デジタルコレクション>浮世草紙刊行会叢書>第1巻>新竹斎>巻之二-一 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953502/161】
取出。寒天(さむそら)に御 太義(たいぎ)ひとつ参れ。是は忝(かたしけな)し。あなたへ御出な
されなば。院主(ゐんじゆ)へ申御ちさう仕らふなどあいさつに時うつり。夜半(やはん)
に京を出立(いてたつ)。筍斎。ねめ介にさゝやき。毎(いつも)ながら主従(しゆじう)ふたり出
て行ば。留守(るす)の用心(やうじん)おぼつかなし。此ほどの黄金(わうごん)も薬筥(くすりばこ)に
入よ。小遣銭(こづかひせん)も内に置(おく)なと。可然(しかるへき)物は不残(のこらず)とりこみ。拝領(はいりやう)の小
袖取かさね。火用心きづかひなくいざ参らふとかこにのる。しすま
したりと飛(とん)でゆく。雲(くも)のあかたつ山にかゝれば。けあげの水の底(そこ)
凄(すさま)じきおきつ白 波(なみ)どつといふて。ぬす人の同類(どうるい)数(す)十人うばか
懐(ふところ)をおどり出。主従(しゆじう)ながら丸(まる)はだかに薬箱(くすりばこ)とて残(のこ)さねは。筍斎手
を合て。去(さり)とては着物(きもの)はとらせ給ふとも。薬箱(くすりばこ)は家業(なりわい)ぞゆるし
給へといへど。己(おのれ)らそこを働(はたらく)か一 言(ごん)も口をあかば。首(くび)と胴(どう)との
さいめを見せんと氷(こほり)の様なる刀(かたな)を抜(ぬけ)はいとゞ。気(き)もきえわなゝ
ひて物をだにいひえず。其ほどに夜盗(よとう)どもはいづち行けん不(しら)
_レ知(ず)されとも。うこかば。又いかなるうきめやみんと。働物(はたらく)は目。斗に。耳(みゝ)に
嵐(あらし)の松(まつ)の声(こゑ)一 身(しん)にひえわたりぬ。此 悲(かな)しさの中にも
ひの岡(をか)は名のみ成ける寒(さむ)さか哉だいてもゆぶれうばがふところ
漸(やう〳〵)東雲(しのゝめ)になれば。米車(こめぐるま)魚荷(うおに)の京に出るなんど物 音(をと)す。今はく
るしかるまじ。京にいなんといふ。ねめ介が云。只今(たゞいま)爰(こゝ)を出て何と
はしるとも京迄ゆかば白昼(はくちう)になるべし。某(それがし)の存の者(もの)安祥寺(あんじやうじ)
といふ山さとに侍り。爰(こゝ)に行て一重(ひとえ)づゝもかりて参らん。かうお
はせよと猶(なを)大 津(つ)道を東に行。道(みち)々人みとがめて。是はきやう
がる寒天(さむそら)に裸(はだか)にて走(はし)るは。京へ夜盗(よとう)に入てかくはがれたる者(もの)
【挿絵】
よと笑(わらへ)は筍斎ちやくと拵(こしらへ)て辛崎(からさき)へ裸(はだか)代参(だいまいり)御きねん御き
たうの灯明銭(とうみやうせん)上られませいと罵(のゝしり)行ば。左(さ)もある事かとみな思ひ
ゐぬ十町計行は。左(ひだり)につきて安祥寺(あんじやうじ)の入口あり。並木(なみき)のさくら
ちもとをわけて山 路(ぢ)に入事又五町計。筍斎 漸(やう〳〵)其 家(いゑ)に入
てねめ介ゆへを語(かた)るにぞ。亭主(ていしゆ)笑止(せうし)がり。先 肌(はだ)を隠(かく)すほどの
着(き)物をあたふ昼(ひる)は人めつゝまし。けふは爰(こゝ)に居(をり)てくれに京へい
なんと心ならずゐれは。所(ところ)からして菜飯(なはん)など調(てう)じもてなす筍さい
なも大 根(こん)もかれぬとおもへは
といひて此 上(かみ)の句いかゝととふねめ介
山さとは冬(ふゆ)ぞひもじさまさりけり
とつけて笑ふ。誠(まこと)に此 里(さと)にての事かとよ田村(たむら)の御かどの女御(によご)たか
きこのみわざしける時。人々の捧(さゝげ)物山も更(さら)に堂(どう)のまへに動(うごき)出
たるやうにとあるが。我らはたゞめぼしの花ならではとつぶやく。
やゝ暮(くれ)におよへば。主(あるじ)に暇乞(いとまこひ)て京に帰にけり。去ほどに命(いのち)をか
けし薬箱(くすりばこ)はとられつ。薬料(やくれう)は一 銭(せん)もなし。いかゞはせんといふ所
に。門(かど)をたゝ〱。又ぬす人よあくるなととがむれば。戸(と)たゝきたる
計(ばかり)にて人 音(をと)はせず。恐(をそろし)ながら。そと開(ひらけ)は人はなくて夜部(よべ)とら
れたる薬箱(くすりばこ)あり内に入(いれ)てみるに薬は其 侭(まゝ)によき物(ものは)皆(みな)取て状有
昨夜(さくや)は初(はしめて)て推参(すいさん)いたし御ちさう大 酒(しゆ)忝(かたしけなく)候 殊(こと)に色(いろ)々 引出物(ひきでもの)
過分(くわぶん)に候御 影(かけ)にてとんよくの病(やまい)を治(ぢ)ししんいの大ねつさめ
申薬はこ返進(へんしん)申候以上
月日 虚空(こくう)強(かじ)右衛門
薮(やぶ)の内竹斎老 無天(むてん)盗(とう)左衛門
と書たり。げにがう。とうの二 字(じ)は是にて在(あり)しよし。あたまかけど
いかゝすべき。主従(しゆじう)ともにが笑(わらひ)しゐぬ。筍斎 勧学院(くわんがくゐん)の盗(すり)めは妄語(まうご)
を囀(さへづる)といへば。ねめ介 医者(いしや)の辺(ほとり)のわつはは。あられぬ状を読(よむ)と云てわらひに成ぬ
二 蝌(かへるこ)ふまるし四 条縄手(でうなわて)
何と思ふねめ介。男(おとこ)といふ者(もの)は兵法(ひやうはう)の一 通(とをり)を覚(おぼえ)たき物かな。此
度(たび)少(すこし)知(しつ)たらば。盗(ぬす)人の内。責(せめ)て一二人もしとめなんに。口惜(くちおしき)次
第。しなへとりてのおもてむき学(まな)ばんと思ふといふ。尤(もつとも)に侍れど
医師(いし)なんどの兵法(ひやうほう)習(なら)ふといふは、巫(かんなぎ)の談儀(だんぎ)を説(とき)。女の弓(ゆみ)取て
的(まと)にむかふごとく。似合(にわひ)侍らずと。いや〳〵それは左(さ)にてなし
医術(いじゆつ)も是 兵法(ひやうほう)の意味(ゐみ)也。其 故(ゆへ)は一 病(びやう)身内(しんない)におこつて
五 臓(ざう)を破(やぶ)り。六 腑(ふ)をいためくるしむる時。君臣(くんしん)左使(さし)のいたさ
評定(ひやうでう)にて薬 盤(ばん)の駒(こま)にむちうち。やげんの船に竿(さほ)さして銀
の小 鍋(なべ)をようがいに。生 姜(が)一 片(へき)の楯(たて)をつき。補瀉温冷(ほしやうんれう)の四
の湯(とう)のかしら煎(せんじ)。一番にすゝむて逆吐(ぎやくと)をしづむ。若 病(やまひ)つ
よく治せざるの時は。丸薬(ぐわんやく)の二つ玉をしかけ。艾(もぐさ)の火 矢(や)をもつ
てやきおとす。あるは五 木湯(もくゆ)温泉(でゆ)の大河におつはめ。瘧(ぎやく)。物の
気(け)のふたつは。祈祷坊(きたうほん)にばくせくれ。疝気(せんき)の虫は按摩(あんま)が
手に捕(とりこ)となる。是皆 勇士(ゆうし)の道ならずやといひまぐるもおか
し。けあらば稽古(けいこ)然べしとて。ある牢人の其道の師(し)するあ
り。弟子(でし)一ぶんに入しより。とりでやからを始て颯(ざつ)と一とをり
当てみる。やう〳〵ざとうの夜明がた。乳(ち)ぶさの母のおもかげの
おぼろけなれど自慢(じまん)して。ことばとがめを声(こは)高に。朱(しゆ)ざやの
【参照資料:国会図書館デジタルコレクション>浮世草紙刊行会叢書>第1巻>新竹斎>巻之二-二 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953502/164】
こじりびこつかす。当 時(じ)世になる男だて。此有さまにむねわる
がり。ある日 芝居(しばゐ)の帰るさ。筍斎が。やせ足をちぎるゝ計 踏(ふみ)て
通る。あいたしと。しかむる貌(かほ)をすぐさまに。十めん作(つく)つてねめ
つけ。是さおとこ眼(まなこ)をあけと。ねぢもどるふみ手の男聞て。扨は
御坊の御すねであつたかいたみ申か咲止(せうし)やとあざ笑(わら)へば。筍斎
たまらずこらへかね。するりとぬひて切つくる。わか者(もの)すかさず
もぎ取て小がいなをねぢ上る。ねめ介 続(つゞい)て取つくを。七
八間なげたれば砂(すな)にまぶれて起(おき)あがり。かさねて口をきかせ
まじ。まつひら御免と手をあはす。往来(ゆきゝ)の人。立とゝまり
見物しゐたりけるが。余(あまり)に見かね笑止(せうし)がりて。とも〳〵にわふる
にそやう〳〵にゆるしける。此時見物の内より
いだてんに口の過たるあまのじやくほかむもおかしふまれての上
とよみければ筍斎 遥(はるか)に逃除(にげのひ)て口の内に
あまのじやくふまるゝとても口計はたゝきかへしてまけぬ也けり
とつふやきて西の京に帰る
三 嵐(あらし)にゆがむ松尾(まつのを)の相撲(すまふ)
在(あり)し恥(はぢ)にもこりず。くだらぬ理 屈(くつ)あはう口引づり羽折長づ
きん。暮(くる)ればそゝる鼻(はな)歌のしどろ足もと行あたりふまれて
帰る折もあり。水は方円のうつけものに随(したが)ひ。人は悪(あし)き友による
猶 燃(もゆる)火(ひ)にたき付て。灰(はい)となり土となる。身の末(すゑ)何となら
柴(しば)の露のうき世の夢(ゆめ)の間に。死(しゝ)て花実がならばこそ
まくずが原と出てさわげと。夜日をわがでうかれゆく
【参照資料:国会図書館デジタルコレクション>浮世草紙刊行会叢書>第1巻>新竹斎>巻之二-三 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953502/165】
爰に八月 始(はじめ)の日松の尾(を)の神わざにて。鳥居のもとに相撲(すまふ)を
とる事ありけり。昼(ひる)よりすまふの場(ば)ならしに。十一十二四五六迄
の小すまひを始れば。次第〳〵に大きになるすくれたるとり
てには先。立石藤つな小船返。源の大竹飛ぐるま。岸(きしの)白菊。女(おみ)
郎花(なへし)松風。雷電(らいでん)竹の介仁王をそねむ大兵ども。どんすひざや
の三重まわり。大なで上に。半かう剃(ぞり)。其外たんばつの国ぢ伏み
大津の陽気者(うはきもの)。所せき迄なみゐたり。社 務(む)の浅(さん)敷数十間段
た(〳〵)に見物ある。筍斎も友だちがたらひいひ合。皆赤はだかに着(き)
物をぬぎ。一 僕(ぼく)にかづかせ。坊 主(ず)つぶりに鉢巻(はちまき)して。とりてと
同し〱ならびゐぬ。小ずまふ漸(やう〳〵)半(なかば)になりて。行事筍斎
をさしづし角(すみ)まへがみに合せたり。すまふは終(つゐ)にしらねども。例(れい)の
血気(けつき)におかされ憶(をく)せず。むずと取むすぶ。たつより早(はや)〱打たふ
されおとがひさすつて起(をき)なをる。又おしわけてとらすれば。そ
りにいられてはねこかさる。是にもこりず出てはまけ。取てはつ
よくなげらるゝ事すきまもなし。行事 余(あまり)に笑止(せうし)がり。弱(よわき)
相手を拵(こしらへ)かたするやうにしけるにぞ。やう〳〵かたやに押(をし)つけ三
番(ばん)打を仕(し)たりけり。いかめしくきそくし胸(むね)いたをおしなで
声作(こはづくり)してひかゆるに。行事御 名乗(なのり)はと問(とひ)けれどなのる用
意(ゐ)もあらばこそ。つれの男三人めん〳〵心 得(え)置たりとみえて
一どにくち〳〵にぞいひける。ひとりの男はかしら巻(まき)と申といへば
ひとりは□(しま)蟹(がに)といふ。今一人は闇(やみ)の夜と申すと事やかまし
〱。行事聞取ず。此内に筍斎 拵(こしらへ)てよしの漆(うるし)と名乗(なのり)ぬ
【挿絵】
此後大 相撲(ずまふ)になりて終日(ひねもす)ねぢ合とり合けるがとかくして
入日。桂(かつら)の瀬にあらへば御 退参(たいさん)の声(こゑ)かしかましく其日のす
まふははてゝ思ひ〳〵に行わかるゝ。道々 筍斎(しゆんさい)(とも)友どちに
さきになのりの所にて口々に申されし名乗(なのり)は何々ぞ。
是々といふ。先そのほうの頭巻(かしらまき)との給しは。我があたま
に鉢(はち)まきしたるといふ心か。いかにもおもては左(さ)のとをり。うら
をかへしてきく時は。かな釘(くぎ)のゐめうにて。出てはかならず
打つけらるゝ心よとどつとわらふ。次(つき)にしまがにといはれし
は。はさんでいたむる心かととふ。存(そんじ)もよらず。横(よこ)ばいに這(はい)さる
る心。目が上になるといふ事と又わらふ。三 番(ばん)にやみの夜
となのられたは。推量(をしはかる)に。むかしあまてる神のいはとに入せ
給ふて。とこ闇(やみ)の夜と成し心にて某(それがし)にかみがないといふ
事なるへし。いかな〳〵其様奥ふかさ心なし。ちかき比の
ことぐさにねつけひやうたんのふたつのふくらおなしきをあと
さきがしれぬとて。やみの夜(よ)といひ侍り。お身がつふりと胴の
大さ此物にひとしき故。かくは申つ其上すまふに出るより
こしにつけらるゝといふ事と又わらひぬ。さて又自身の吉
野漆はいかに。さればよしのは花も実(み)もある心漆といふは。さ
はるほどのものが皆まけるといふ事と。まだ利口をはいひける
に扨も付(つ)いたり漆坊(うるしぼん)と腹(はら)をかゝへ背(せな)をより。各(おの〳〵)ゑつほに
入あひの。かねなる比に別れておのがさま〳〵に帰りにけり
四 色狂(いろくる)ひ綻(ほだし)にかゝる玉蔓(たまかづら
【参照資料:国会図書館デジタルコレクション>浮世草紙刊行会叢書>第1巻>新竹斎>巻之二-四 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953502/167】
ある日大 臣(じん)にさそはれ此所の水(みつ)心まだ汲(くみ)てもしらぬいづくやと
いふあげやへ行けり。御池天狗(おいけのてんぐ)とやらんかこがもとより二人ともに
のり出す。例(れい)の天狗(てんぐ)か羽(は)ぶさにつゞく木葉の六兵衛。見ぢんの
久介など。嵐(あらし)に雲(くも)のとぶがごとく。いつさんにかけるほどに。筍斎
駕(かご)の内よりやれ〳〵目がまふ。五リンや壱分の事はいふまい今(ま)
そつと静(しづ)にやれといふ。卸(をろせ)さゝやき。もし〳〵途中(とちう)でごさる。
物ごとだまらしやりませい。今(ま)ちつとで壱貫でこざるといへは。夫(それ)は足(あし)
もとを見る壱貫とはどうよくじやとわめく。扨(さて)きのどくや。壱
貫町の茶(ちや)やへちかひといふ〳〵たには口につけば。爰にて
茶(ちや)たはこなんどたうべ。ゑもんかいつくろふもおかし。やきゐん
のあみ笠(がさ)に人め包(つゝみ)て出る。簡斎 巾着(きんちやく)をひねくるほどに大 臣(じん)
見付て何ぞととへば。銭なけ出(いだ)し茶(ちや)代といふもかなし大臣何
とかゝけふはかはつた撥(ばち)を持(もつ)てきたが。かかおかしひ巴(ともへ)様で
ごさんす大臣さらばかか御帰へりにと夕暮(いふぐれ)のかねて用意の尻(しり)か
らげ。亭主(ていしゆ)跡(あと)より供すなる。大臣みち〳〵筍にかたる此所
には万かへことばの多(おほき)き所ぞ。下卑(けび)給ふなと云(いへ)は筍さい今のばちの
巴(ともへ)のとは何事に侍る。さればよ。それさへしらで出過給ふな。大こと
いふ合点(がてん)がゆかぬか。尤(もつとも)じやととつけもない人ごとの。うはさ
町をひちまがれば。上中下の女郎町道中のはで小袖二つ三(みつ)
四つひとつまへ。かいつまどりて八 文字(もんじ)いつも白足(すあし)のきよらかに
かぶろやりてのかつがうのありさま。揚(あげ)や男のともすなど。当時(とうじ)
さかんの君と見ゆ。かたへを見れば。さびしさうなる局(つほね)女郎
人 待貌(まちがほ)のつれ引にくゆるおもひのたはこかな。男ひとりを
見かけては。うき木にあへる一 眼(がん)の亀といへるやりてが出て
むりに局(つほね)に抱(だき)こむあり。おかしくもながめ捨。あけやがもと
にうち入ば。亭主(ていしゅ)を始(はしめ)下々迄 同音(どうをん)のついしやう声耳をお
どろかす計也、箱(はこ)はしごさゝれてのぼるあま小船(おふね)とつらねし
恋のふちせ。ぬれの水上(みなかみ)。爰ぞさながら水亀(すぼん)のすみか。吸取(すいとり)
るゝとしりながら。此心のうきさとにもいはれずかゝ此ほどは御
久しうごさります大臣されば此間はしゆびがなふて此さとの
事計思ひくらしたればやせるわいのかゝ夫(それ)はおなし御事太夫
さまも御事の御うわさにうか〳〵成ます大臣さふしたふかひ
あいさつ太夫のいはるゝさへきのどくなにかゝちと御酒あかりませ
などいへば。太夫様の御出といふとひとし〱足音しどけなく。
けふは何とおぼしてこざんしたなど口説(くぜ)らしきこと葉(は)のいろ。
あさからぬ中とぞ見えし。大臣かいとつて先ちかつきにし
ませうあの法師(ほうし)は何がしと申す。これは御 坊(ぼう)に語(かた)りし太夫 我(われ)
等が敵衆此 已後(いこ)はなど挨拶(あいさつ)し玉蔓と云引女郎合する杯(さかづき)
あなたにかよひこなたに。此さとのなけふしはいふもさらなり
かぶろの八 弥(や)道行まふもかはゆし。かくありしほどにした
男が夜物(やぶつ)あぐる音(をと)するに。げにあけなんあすのには鳥
をおもへば。枕とるほどは夢の間なりや。夜は何時そ亥の刻
過て寝時分と。ちよつとかる口。した男には見あげたり
かくおそろしき髭(ひげ)つらもふすゐの床(とこ)とるはやさしと
【挿絵】
大臣座をたつて床に入は。筍斎もおなしく枕をならふ。筍斎
いひよらんよすがもなく。何と女郎様は何歳(いくつ)ぞと問(とふ)。上の句の
文字(もし)あまりで御ざんす。十八でおはすよ。にくのこたへやとほと〳〵
とたゝひて。十八公(しうはちこう)の粧(よそほひ)松(まつ)の部(ぶ)にもたぐひは。御ざなひといへは。是
は身に余(あま)りまするおことばの露玉かづらの草のたねが。何とて
か松におよびませうと卑下(ひげ)するもいとをし。うちつけなから
何れの国の誰(た)が世にか種(たね)を蒔(まゐ)てかゝるうつくしき蔓(かづら)は生(をひ)出けん
といへば。いかゞははねの松ならば答(こたへ)もせめ。うきふししげき呉竹(くれだけ)
の里より。よの住うきにすさめられて。此つとめの身と成侍ふと。しみ
〳〵と語るに伏見の生(うま)れとはおもほへながら。沢田の水の浅(あさ)くは
たどられぬ言葉(ことば)づかひ心にくし。力もあらばねびきにと思ふ心の萌(きざす)は
げに深きえにしなりや。枕(まくら)に立し火影(ほかけ)の屏風(びやうぶ)に小町が
侘(わび)ぬればの歌有。筍斎あだ口にひとりごつ
わびぬれば身をじゆんさいの根(ね)をたえて
といひけれは女郎とりあへず
さそふ水(すい)あらばいなんとぞおもふ
とつけけり筍斎 尚(なを)きもをけし此道をさへ心得たるやさし
さ。よし水 草(くさ)の水くさくとも。我すく道のよき友(とも)ぞと
此後は大臣にさへかくれて。ひたすらかよひけるほどにつゐ
に根引(ねびき)の玉かづら。命(いのち)をかけてなづみしより大 臣(しん)を頼
て家のつまとさだめ。男だてをやめけるぞとりへなる
新竹斎巻之二
新竹斎巻之三
一 深草(ふかくさ)の馬思へば宇治川(うぢがわ)の先陣(せんぢん)
五月五日 折(をり)しりかほの雨(あめ)のつゞき。宇治(うぢ)川の魚(うを)つりに友(とも)どち
ひとりふたりしていきぬへる西の京に女ありけり青(あを)まめ売(うり)の
をのがじゝ誘(さそひ)行に目覚(めさめ)ていとくらきより出。ほり川は音(をと)にしり
て水ゆく方の南(みんなみ)に歩(あゆ)む。五 条(でう)渡(わた)りの夕がほも黄昏(たそかれ)ならでお
ぼつかなく。惟光(これみつ)に火縄(ひなは)めしてたはこまいつた所よとけふりを
ふけば。よこ雲(くも)のはるゝそなたにるしやな仏 友(とも)の男
耳塚(みゝづか)ぞだまつてゆくなほとゝぎす
やごゑをかくる大 篝(かゞり)。大ひの弓にちゑの矢数(やかず)いざ通(とを)りかけ見てゆかん
いてきては娑婆(さば)八千の大矢かす火宅(くわたく)の篝((かがり)つみのきえがた
【参照資料:国会図書館デジタルコレクション>浮世草紙刊行会叢書>第1巻>新竹斎>巻之三-一 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953502/170】がほ
筍斎 口号(くちすざみ)南門(なんもん)を出れば。此 辺(ほとり)ぼろ〳〵の住(すみ)所なりといふにつけ
て。ふるきけふの発句(ほく)を思ひ出る
口によるや尺八(しやくはち)ほどなこもちまき
一の橋(はし)より左右の民家(みんか)軒(のき)近(ちか)〱竹行(たけやらい)馬ひしと結(ゆひ)て。人々
色めく。げにけふ深草(ふかくさ)の神(かみ)わざ。当所(とうしよ)も加茂(かも)とひとしく競(きほひ)
むまあり。きらば暫(しばし)待(まち)見んと。其程(そのほど)万寿寺(まんじゅじ)のかべのもとにより
ゐる。此五七町は古(いにしへ)貞信公(ていしんこう)の山の大とこ尊意(そんい)闍梨(ざり)に建(た)て
まいらせ給ひし法性寺(ほうしやうじ)の結構(けつかう)さながら。金玉(きんぎよく)の山なりける
とそ。中古(ちうこ)より民家(みんか)のわらの軒(のき)ひきく。背戸(せど)も外面(そとも)も松あふ
ちの木高(こたか)く茂(しけ)り露雫(つゆしづく)のおやみせぬに習(なら)ひて。竹のかは
笠(かざ)を能(よく)作(つく)り出しければ自(おのづから)身(み)の業(なりわひ)となり。所の名物(めいぶつ)となりぬ
東(ひがし)にふかく山に添(そひ)て東福寺(とうふくじ)の禅院(ぜんいん)そもさんか聞しらぬ
鳥のから声ちんふん閑栖(かんせい)物すごし。誠(まこと)や紫野(むらさきの)老和尚(らうおしやう)当
寺に詣(まうで)給ひし時 薮陰(やぶかげ)にされかうべの在しを
涙(なみだ)ふる法性寺笠(ほうしやうじがさ)きて見ればかはゝはなれてほね計なる
と読(よみ)給ひしとかや。和尚(をしやう)も昔語(むかしかたり)に成給ひ。まして其骨だになくなりし
きてみれば法性寺笠(ほうしやうじがさ)もり茂(しげ)みほねさへくちて袖(そで)そぬれける
とつぶやけば。大路(ほほぢの)かた人 声(こゑ)さはがし〱。すは馬(むま)の時分(じふん)よといふこ
そ遅(をそ)けれ。皆(みな)橋(はし)づめにわしり出(いづ)。都(みやこ)遠(とを)からねど。さすがひな
びたるまつり。紙(かみ)さうぞくわら具足(ぐそく)。青(あを)き男の乗損(のりそん)じて
をつるあり。ふまるゝあり四五十 疋(ひき)かけちらし。爰(こゝ)よりいなり
に乗(のり)行。尻(しり)につきて見物(けんぶつ)すれば。鳥(とり)ゐより又かけ出し神前(しんせん)
【挿絵】
にて地(ぢ)をかへしや〳〵と。馬上(ばしやう)より口々いへば。みやづこ答(こたへ)て
おるす〳〵といふ。子細(しさい)をきけば往昔(そのかみ)此山 藤(ふぢ)の森(もり)の境内(きやうだい)
なりしを。此 神(かみ)にそめ借(しやく)やだてをなされ。おも屋をとらせ給
ふ其 故(ゆへ)。居体(ゐなり)大明神と申す。されば負(おほ)せかたなれば。深草(ふかくさ)の
氏子(うぢこ)。年(とし)ごとのけふかやうに申すと。茶(ちや)を煮(に)るうはがのふだ
やうにかたるは。誠(まこと)にや筍斎つぐ〳〵おもふ。夫(それ)いなりは福神(ふくがみ)に
て人にさへ願(ねが)ひをかなへ。万(よろつ)のさいあるにかりたる所をせかまれる
すをつかふて帰(かへ)させ給はぬ。我等(われら)ごときは科(とが)ならずなどつぶや
き。爰(ここ)より藤(ふぢ)の森(もり)をのるときけど。みもらさじとするはいたり
すくなしとこびて。宇治路(うぢぢ)に行たつみにかゝれば大 亀谷(かめたに)昔(むかし)
此山あひより大きなる亀(かめ)の出たる故。此名ありとも又 夜(よ)ごと
狼(おほかみ)おほ〱出(いつ)る故狼谷といふと二 説(せつ)に書(かき)し筆(ふて)が坂。左に
古御香(ふるごかう)の宮。やじな峠(とうげ)の坂をおりて。六 地蔵(ちざう)右にあり。かの
西光(さいくわう)が建立(こんりう)六 体(たい)のひとつ也 橋(はし)をこえて山はたのさと五ケ
の庄(せう)。弥陀(みだ)次郎のみた堂(だう)あり。昔(むかし)此さとに次郎太夫といふ狩(かり)
人(うど)昼夜(ちうや)殺生(せつしやう)を業(げう)とし後世(ごせ)のおそれ露(つゆ)なかしりに。ある時あ
んぎやの僧。是が家(いゑ)に宿(やど)り給ひぬ。其夜しも鹿(しか)をおほく
射(ゐ)とりて。山より帰(かへ)る和尚(をしやう)御なみだの下に
身におもき罪(つみ)を荷なはゝ五荷(こか)の庄(せう)しかのうらみや日々にますらを
との給ひ。殺生(せつしやう)の報(むくひ)の恐(おそろしき)さま〳〵念仏(ねんぶつ)の功徳(くどくの)めでたき品(しな)
を念比(ねんごろ)に教化(きやうけ)し給ふより。忽(たちまち)発露(はつろ)啼泣(ていきう)して一 心(しん)ふ乱(らん)の念
仏 者(しや)になり大 往生(わうしやう)せし其 持仏(ぢぶつ)なればとて。今に弥陀(みだ)二郎と唱(となふ)
る也此 末(すゑ)三町計の左(ひたり)に黄檗(わうばく)山 隠玄(いんけん)の禅院(せんゐん)あり京にて
しれる人の此山にのがれしあり尋(たつね)よれば見しにもあらず。さう
〳〵と痩(やせ)おとろへ。無角(むかく)の頭巾(づきん)髭(ひげ)長(なが)く。世を見じかうみかぎ
りて。口に仏語(ふつご)の絶(たえ)ぬこそ。いとすせうに覚(おぼ)ゆれ。唐茶(とうちや)と云
物をくるゝとて。南無 茶迦牟尼仏(ちやかむにぶつ)とさし出せば筍斎(じゆんさい)本来(ほんらい)
の天目(てんめく)といひてわかれ行。とかく道 草(くさ)しげければ。申(さる)の刻(こく)
計宇治に着(つく)。夕(ゆふ)べこそうを釣(つる)によけれ竿(さほ)に餌(え)ふごと取
出すほどに。石垣(いしかき)の間に大きなる鱣(うなぎ)の在しを。筍斎 早(はや)
く見付て。すかさず手づかみにしたり。よふ鱣(うなき)であらふ。水蛇(みづくつなは)
の四尺計なるが。ひた〳〵と手にまとふ。瓢軽(ひやうきん)第一の憶病(をくびやう)
者。なじかは暫(しばし)もこらふべき。あつといふてふりほどく。蛇(へび)は
ふられて。除たれど。主は余に気(き)をとられ水中にころび入り。
あは〳〵として流(なが)るゝ。友達 下部(しもべ)驚(おどろき)。我さきにとどびこみ引
あげんとす。其中に一人 帯(おび)のはしを抛(なげ)つけ。是にとりつけ
といへば。恐(おそろし)や。また蛇(へび)がとびつくかといひさま水を呑(のむ)事ふく
るゝ計。漸(やう)々 助(たすけ)上られ。芦火(あしび)をたきて。水を吸(すは)せ。薬をあた
へなと。命(いのち)から〳〵是 程(ほど)のうき中にも此所の鱣(うなぎ)うぢ丸と云を
我うをは都のたつみしかとつかむ世をうぢ丸と人はいふなり
辰巳(たつみ)の二字に竜蛇(りうじや)の心ありと自讃(じさん)するを友どちは。かた
はらいたがる。此さはぎに取紛(とりまぎ)れてくら〱成ぬ。夢(ゆめ)の中 宿(やど)
を求(もとめ)て一 夜(や)を明し蛍(ほたる)をみる。当所の盛(さかり)今少はやしと
いへど。又ことかたにかゝる見物はあらし。鞠(まり)の大きさにこりて
水に落てくだけ流るゝ詠えもたえず。其 朝(あした)又 釣(つり)せん
といへど。筍斎大きなるつぶりかろ〳〵とふつて。存しもよら
ぬ。いかひはまりにこりましたといへば。心 当(あて)空敷(むなしく)釣(つり)はやみぬ
二 名所(めいしよ)聞(かぎ)ありく茶(ちや)の芳園(はうゑん)
昨日(きのふ)の淵(ふち)はけふの瀬に川かりのあだ波引かへ名所尋てあそぶ
折(をり)しもせがきの法会あり。筍斎 光明(くわうみやう)遍照(へんぜう)十 方(はう)施餓鬼(せがき)
といひければ友 願以此功徳(がんいしくどく)平等院(ひやうどうゐん)と口きく。彼(かの)扇(あふぎ)の芝を詠(ながめ)
頼政(よりまさ)といふ事をかくして。扇(あふぎ)の芝(しば)を読(よめ)といへば筍斎
あはれさはなを聞しよりまさり鳧(けり)扇(あふぎ)の芝の草のあさ露
当寺(たうじ)建立(こんりう)の時大 納言(なごん)公任卿(きんたうきやう)御 車(くるま)にてわたらせ給ふ。関白(くはんばく)
問給はく。門をたつるに方角北むきならで便(たより)なし。寺門の
北にたちたる例やおはすと尋給ふ。さしもの公任卿(きんたうきやう)も。さし当
て御覚へなかりければ。江(え)の師(そつ)の未(また)幼(いとけ)少なくて。車の尻(しり)に乗(のり)
給へるに問(とひ)給ふ。まさふさ畏て天竺(てんぢく)の那䦨陀寺(ならんだじ)唐(もろこし)の西明
寺 我(わが)朝(てう)の六 婆羅蜜寺(はらみつじ)北むきにさふと答給ひしより此
門きはまりしとそ筍斎
北むきに立たる門は宇治川のはしけいせいの名に社(こそ)ありけれ
茶師(ちやし)のもとにたよりて。葉撰(はゑり)の見物 望(のぞ)む。さすが京人とみて
ゆるし入あまつさへよき茶などたうひぬ友
橘(たちばな)のこしまが崎(さき)の香(か)をかけばむかしの御茶の初(そ)手のかそする
といひけるに。猶(なを)よしある人とおもへるけしきに。尻(しり)擽(こそばゆ)くいとま
乞て出ぬ。橋(はし)のみぎりに橋 姫(ひめ)の宮有。是は古へ此さとに物 妬(ねたみ)深(ふか)
【参照資料:国会図書館デジタルコレクション>浮世草紙刊行会叢書>第1巻>新竹斎>巻之三-二 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953502/174】
き女の男の外に行かよふと聞て。嗔喧(しんゐ)のほのほをたきて
鉄輪(かなわ)の足に猟火(らうくわ)をいたゝぎ。貴布祢(きぶね)に牛の時参りし。悪(にく)
しと思ふ女を詛(のり)ころしぬ。一念のほむら猶身をこがし。此川に
入水(じゆすい)し形ひとつの鬼と成て。都鄙(とひ)に往来し人をなやま
す。ある夕都一条 戾橋(もどりはし)にて渡辺(わたなべ)の綱(つな)をみかけ。なまめきたる
女に化(け)して。打しほれたりおもひぶり。鴬まがふ声音(こはね)にて
女の独行(ひとりゆく)心ぼそさに暮かゝる道の末 覚束(ほぼつか)なく侍ふ送り
て給はらんやと頼む。さなきだにこなたより社(こそ)夕月(いふづき)夜(よ)さし
出てさへとふべけれ。頼むといふをうれしく。こなたへ渡らせ給へ
いとおしや御足もうらふれてみえ給ふ。負(をひ)まいらせんといへば。いなみ
もせで打おはれぬ。始(はじめ)は軽(かろ)き羽衣のあまつ空にもあがるへ〱
次第におもきふしぎさに。。なづともつきぬいはほならなんと。ふり
かへりみるに。忽(たちまち)美女(びぢよ)の形(かたち)をかへ。口耳の根へさけ牙(きば)生(おひ)て。髪(かみ)さ
かしまに角(つの)するどなり綱(つな)が髻(もとゞり)つかむて虚空(こくう)のぼるを。空(くう)
中(ちう)にて鬚(ひげ)切(きり)ぬいて。片(かた)うで切。きられて化生(けしやう)逃(にげ)されば。綱(つな)は北野
の廻廊(くわいらう)に立かへりたる年月の。古(ふる)き昔の事ながら。猶 悪霊(あくれう)
のわざ多(おほ)〱。此 橋結(はしづめ)になだめて。一 社(しや)の祠(ほこら)になしぬ。されど今
の世迄ふしみ木幡の隣在(りんざい)よりえにしをむすぶ人。橋(はし)の上を
通れば。此 宮(みや)の見いれ有て末(すゑ)とほらずと。遥(はるか)の川 上(かみ)を船に
てかよふ事となん。さればかほる大将の妾(おもひ人)浮舟(うみふね)の。此さとにおは
せしを。ちかきほどに京にむかへ給はんと宣ひし比。兵部卿(ひやうふきやう)郷の宮
のうしろめたき蜜事(みつじ)におもひ侘(わび)て。浮舟此川 瀬(せ)に身を沈(しづめ)
【挿絵】
給ひし。是もおそら〱は此神の嫉(ねたみ)ならん東に高き朝日山
此川べりをのぼりて。左(ひだり)に興性寺(こうしやうじ)あり楼閣(ろうかく)のけつかう。つき山 鑓(やり)
水 園(その)花 畑(ばた)えもいはれず。百合(ゆり)葵(あふひ)芥(け)子の花 更(さら)に色をあらそ
ひ。五月(さつき)つゝじの千重(ちへ)ひとへ白き紫(むらさき)あからめもせぬながめ。とか
〱するほど晩景(ばんけい)に及は名残(なごり)を思ひ残して京に帰りぬ
三 天狗(てんぐ)□(もどき)のつかみて有り鞍馬(くらま)の福(ふく)
筍斎(しゆんさい)が日比(ひころ)の飛(とび)あがり。上(うへ)もなきうき蔵主しかも好色(こうしよく)のかたさへ
人なみよりまめ也ければ。女ほう玉かづら物 疑深(うたがひふか)くかりそめりやう
ぢに出るをも道の程(ほど)より遅(をそ)けれは。さま〳〵に責(せめ)はたる。まして
此ほどの宇治(うぢ)の一 夜泊(やどまり)ゆめ〳〵うぢとおもはれず。たれとふしみ
の色(いろ)ざとの百鳥(もず)の草ぐきおぼつかなし。後(うしろ)めたしと此のちは
ふつうに外へ出さねば。したしき友(とも)も疎(うとく)なり。稀のりやうぢもなく
成ぬされば筍斎此女にかづらくらべの鼻毛(はなげ)の長(なが)さいとゞにほそ
き身上(しんしやう)の渡世道(よわたるみち)も絶(たへ)はてゝ万の物の買(かい)がゝりかへす事なき
かたほ波おあし淋(さひ)し〱あれたる宿(やど)に一 首(しゆ)の落書(らくしよ)を立られたり
筍(たけのこ)を引たふしたる玉かづらかゝつた物をおとささりけり
かくわらはれけれど為(せん)かたなし。いでや人 力(ちから)に及ばぬ事は神(かみ)
仏にも祈(いのり)てこそしるしはあれ当時(たうじ)霊験(れいけん)。いちじるき。福神(ふくがみ)に
ましませばくらまのひしや門へ福(さいわい)を祈覧(いのらん)と。女ほうねめ介相ともに。
朝またきゟ立出る。つまぐる珠数(しゆず)やしら糸を玉にもぬける柳原
猶わけ行ば上かもの川風すごく鬼(をに)の目に泪(なみだ)をそゝ〱柊野(ひらきの)
を弓手に見つゝ車坂(くるまざか)万寿(まんじゆ)峠になりてくらま道はかうかととへば
【参照資料:国会図書館デジタルコレクション>浮世草紙刊行会叢書>第1巻>新竹斎>巻之三-三 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953502/176】
是は岩屋(いはや)の不動坂(ふとうさか)。狂気の人の往還(わうくわん)也。其方たちも此道へは
きちかひの類(たぐひ)かと笑捨てとをれば。筍斎ねめ介 腹(はら)だちて。しら
ざる事を知ずとして問(とふ)を笑ふ己(おのれ)ら社。ちゑのくらまに迷(まよ)ふなれとつぶやき
つれがあれば三里もまはるくるま坂(ざか)
とはや此くるまを世 話(わ)にひけばねめ介
まんぢう峠(とうげ)あんの外(ほか)なり
と立帰り青なみを右に。みぞろか池(いけ)の水鳥(みづとり)をほしのゝさと
と詠(なかめ)行ば。市 原(はら)のゝ秋(あき)かぜにあなめ〳〵をいとふなる。屏風
坂こず村雨(むらさめ)に二の瀬(せ)の川や。水まして爰にさすらんきぶね
川さんせうの皮 杉皮(すきかは)にうそのかは迄(まで)越(こへ)々て何がしの寺につ
きぬ。仁王(にわう)門より七 曲(まかり)を凌(しのぎ)て。宝前に畏(かしこま)り。南無大悲多門天
我は親(をや)より隠(かくれ)なき。名医の誉(ほまれ)高(たか)けれど。只(たゞ)薮医師(やぶいし)のかぜ
あれて。内証(ないしやう)寒(さむく)なるまゝに。しかも火をふく力(ちから)なし。願(ねかはく)は然(しかる)へき
ふくをあたへ給はれと丹誠(たんせい)にぬかづくかゝる所へちさき百足(むかで)ひ
とつ筍斎か傍(そば)に這(はい)よる。忝なや御ふく下されぬととらへんと。す
れは。指(ゆび)さきをしかとさす。さゝれて指をかゝへなから祝(いはゐ)なをす
しつかりとさし下さるゝ御ふく哉百のおあしをつかはしめとて
といひて其 夜(よ)は堂前(だうぜん)に通夜(つや)しけり。暫(しばし)まどろむ枕(まくら)の上に。あ
らたなる霊夢(れいむ)をかうふる。汝(なんぢ)身(み)の貧(まつしき)を欲。我に祈(いのる)事誠あり
よつて此三つのはんじ物を示す。よく考(かんがへ)て仕合(しあわせ)せよ。行末な
をも守(まも)らんと。一 紙(し)を給はるとみて。夢(ゆめ)覚(さめ)ぬ。枕(まくら)をみればげにも
うつくしき筆(ふで)の跡(あと)にてかんなに書だる物三つあり
一 がいきを西にみすてよ
一 ひの字(じ)にゐのよみあり
一 ての上のへの下の水の底(そこ)にすむべし
此三 事(じ)ありて別(べつ)なしひとつも合点(かげん)はゆかねど帰りてこそ
判(はん)ずべけれ。有がたしと再拝(さいはい)し下向しぬ。此後 種々(しゆ〳〵)に案して
信伏(しんふく)す。がいきを西にみすてよとあるは関のひがしにゆけ
と也と是より東(あつま)に住所(すみところ)求(もとめ)たりけり。余(よ)のふたつの判字(はんじ)
の心は。童蒙(どうもう)の慰(なぐさみ)のため熊(わざと)爰にあかさず心を付て解(とき)給へとなり
四 京 歌舞伎(かぶき)の見続(みつゝけ)旅途(りよと)の言伽(ものいひとぎ)
花を見捨る雁(かり)がねの夫(それ)は越路(こしぢ)我は又。お江戸(ゑど)の春にゆくべくは
都の名残今 暫(しばし)。いさ暇乞(いとまこひ)に芝居(しばゐ)見んと。主従(しゆじう)日 毎(こと)四条に
立さわく川 瀬(せ)の浪のよせ大こ。世(よ)になる鶴の一 声(こゑ)を幕に
みするは。村(むら)山が松に太夫のきこえある竹中(たけなか)といふ若女。赫(かく)□(や)
姫の昔おもはれ。冬(ふゆ)ごもりせしなにはづのさくやと名のる
若衆(わかしゆ)方を。今は都の春に匂はせ肩(かた)で風きる嵐三(あらしさぶ)。すゞきを
鰭(ひれ)のある男と讃(ほむれ)は。宇治(宇治)右衛門は。茶つぼほどな眼(まなこ)自慢(じまん)。誰にか
見せん梅(むめ)の丞(ぜう)が。かゝ方の立まはり。踊の惣本寺(さうほんし)道念かねぶつ
話(くど□)願以此功徳(ぐわんいしくどく)けふの切狂言(きりきやうげん)。次の日は又 万代(ばんだい)の池の亀(かめ)や
蓬莱にあふ浦島(うらしま)が命(いのち)もあらば立帰り。小 歌(うた)きくべき佐よ
の介。敵がたの元祖(ぐわんそ)団(だん)七が長かたなぬかりのない芸ぶり。おなし
く見上る天井(てんじやう)が道戯(どうけ)あはう口をたゝきつゞけのおひ出しの
大こ。苔(こけ)に埋(うつみ)て動(うこき)なき。世は岩もとの上手(しやうず)のかたまり。今ぞさか
【参照資料:国会図書館デジタルコレクション>浮世草紙刊行会叢書>第1巻>新竹斎>巻之三-五 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953502/178】
ゑん藤田が座(さ)もと。わきてはんじやうに見ゆれは
札楽(ふだがく)や南おもてに木戸(きど)たてゝ今そさかへん北かはの藤(ふぢ)
ともいふべ〱讃(ほめ)ことはの化(あだ)口に。どのともいはぬ左馬の介が上手(じやうす)
したにおかれぬ物から。上村(うへむら)と名(な)づくる。今吉弥がむかしの白(おし)
粉(ろひ)に猶(なを)つやを増たる。数馬(かずま)かうつくしき手(て)を折(をり)て逢見し
かずまといひたけれど。あはねはよまむことの葉もなし
名に立役の開山親(かいさんおや)はととはん。小平次が働(はたらき)孫三郎はいふに
及ばす座中 不残(のこらず)。何ほどか大 悦(ゑつ)の仕合是や京 役者(やくしや)四天王
の随一 渡部(わたなべ)のつな公時(きんとき)といはゞ。坂田(さかた)藤十郎。武道(ぶどう)は得たる所。や
つし又 双(ならぶ)名なし。服部二郎左が。きつひやうにて今少 和(やはらか)なる
はひねたはごのとしの気(け)猶 味(あぢ)有ておもしろし。さゝな□□が
か親がた。昔(むかし)ながらのしはがれ声。とらぬ音頭(おんとう)に踊はてゝ。そのまた
の日はあし引のやまと大路に歩(あゆめ)ば。永き縄手(なはて)のしめかざり。小
松が芝居(しばゐ)春めきて翠(みどり)の畳(たゝみ)花むしろ。八重一 重(え)げに九重(こゝのへ)
の雲(くも)霞(かすみ)かさなりかゝる見物(けんぶつ)の。其許におり所は御ざないがい
や枝(えだ)がさはりませう御免なれなど。花に縁(えん)ある詞(ことば)。時に取
ておかし。未(まだ)狂言(きやうげん)の始(はじま)らぬほどに。筍斎ねめ介に語る。一とせ
此 芝居(しばい)に藤田(ふちた)皆(みな)之丞といふ若女(わかをんな)の在し。東(あつま)人ときこゑし
学問法師(がくもんほうし)ふかく泥(なちみ)て。かりの枕(まくら)をならべん事を望めとも。是
にあひける人多〱。それと哀(あはれ)はかけながら。皆の丞もえあはて日
かずふりぬ。ある日 彼(かの)法師(ほうし)同朋(どうほう)の僧三人づれにて此桟敷に
ゐる脇狂言(わききやうげん)一二番の程は。音なしの滝(たき)の白糸(しらいと)乱(みだれ)たるけしき
もみえさりし三 番(ばん)続(つゝき)の口上(こうしやう)過て皆の丞が出ると聞より
一 先(さき)にすゝみ出。あからめもせずまもりゐる。すははしがゝりをによと
出ると。口をたゝ〱事外の物 音(をと)きゝゑず。衆人(しゆにん)皆ぶたひ
は見ず。彼(かの)法師(ほうし)をみて。目を引袖を覆(おほひ)て笑(わらへ)ども。心 爰(ここ)に
非(あら)ざれば。みるをもわらふをもしらず。やれ命(いのち)とり物思ひさ
せずとも。早(はや)くころせ。つくばねの峰(みね)よりおつるみなの丞
さま。恋(こひ)がつもつて泪(なみだ)のふちとなりますなどいふほどに。皆の
丞も日比の僧(そう)としりて立まはりに。めをみやりてはにつと
笑(わら)ひ。扇(あふぎ)のよすがに招(まねき)なんどしければ。猶(なを)うれしがり堪(たへ)かね
後(のち)は直(たゞち)に立あがり。日本(ひのもと)の開山(かいさん)唐(もろこし)迄かくれ御さない。吉のゝ桜(さくら)のだの藤
田高 雄(を)の紅葉(もみぢ)のちらぬまに情(なさけ)の色を見せ給へ抔(など)。たゞ口なしに囀(さへづり)。手の
舞(まい)足(あし)のふむ所を忘(わす)れ。伸(のび)つ屈(かゞみ)つもたゆるほどに桟敷(さんじき)より。さ
かさまに落(おち)て忽(たちまち)絶(たへ)入ければ。つれの僧どもあはてゝとびおり
見物(けんぶつ)の群集(くんじゆ)立さはひで。水をそゝき薬(くすり)をあたへけるにぞ
やう〳〵正気(しやうき)にはなりける。何者かしたりけん。此どしめく
内に一 首(しゆ)を紙(かみ)に書付衣のうしろにはり付たり
名にめてゝおるゝ計ぞ皆の丞われおちにきと人にかたるな 騒動遍照(さうどうへんぜう)
とはやひ事しけるに。恥(はづ)かしがりて逃(にげ)帰りぬ。是ほどおかし
き事はと語(かた)るほどに。三番叟(さんばさう)始(はしまり)ければ。咄(はなし)を止(やめ)ぬ。此座には
市川かほる。から松かせんなど。筍斎ねめ介にさゝやく。何
と此ふたりの内。いづれかすぐれたる。我は市川にくびだけと
いへば。ねめ介こたへて。かせんこそすぐれて覚(おほ)え候へ。かほるは
うつりやすきかた有て。からまつのいろかへぬ心におとり侍り。さ
れば詩人(しじん)も是にめで此国の風俗(ふうぞく)にもよくかなふ所を名字
と名とに気をつけ御らんあれといへば。夫(それ)はともあれ我心にいはゞ
いちかはゆらしかほる梅がえ
とおもふ。ねめ介もかしらをふつて
おもひかねけさから松をいかゝせん
とやかましき中にてもすける道とてすてず。さて立役(たちやく)は
藤川(ふぢかわ)武左(ぶざ)天竜(てんりう)馬入(ばにう)大井川よりあらき所もすぐれて
又じつかた。和(やわらき)は小松(こまつ)にかゝる花の藤川ともいはん。仙台(せんだい)が
よひ年をして。若(わか)ひ道戯(どうけ)をある人 二十(はたち)とゐめうす。八五七(やごしち)
といふ心にや。切(きり)は座(さ)中の大おどりめぐる日すでに。くれ
ちがくやくら七つの大こうてば夕のかげにさそはれ
にしの京に
かへりぬ
新竹斎巻之三
新竹斎巻之四
一 西の京の闇(やみ)日の出(で)の東路(あつまぢ)
筍斎(じゆんさい)有し毘沙門(ひしやもん)の告(つげ)に任(まか)せて。武蔵(むさし)にくだらんと思ふより
都の内はすまぬまされりと。日 毎(ごと)芝居(しばい)の遊興(ゆうきやう)に出しを。世人(せじん)訕(そしり)
て大 悪性(あくしやう)の名をたて。ならずの森(もり)の柿(かき)の木。みを持(もつ)すべを不_レ知
古かね買(かい)が目にも殈(つぶし)にならで見たてず。其比又何 者(もの)かしけん門(かど)の柱(はしら)に
跡さきのしまりなければ身をもたずひやうたんあたまかろき身上(しんしやう)
此さいそくに心せきて猶(なを)取あへずくだりぬ。けふ思ひ立 旅衣(たひごろも)九重(ここのへ)の
都を出て。いつ帰るべき行衛(ゑ)とも白川(しらかは)わたす石橋(いしはし)のくちぬ身な
らば。あはた山日の岡(をか)めぐる牛車(うしぐるま)我もよだれと水 鼻(はな)のくだり坂
とてなま長(なが)き。げほうあたまのあぶな〳〵うき御陵(みさゝき)の草(くさ)を分(わけ)
【参照資料:国会図書館デジタルコレクション>浮世草紙刊行会叢書>第1巻>新竹斎>巻之四-一 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953502/181】
薮(やぶ)の下ふく下(した)かぜに。名(な)とりのたはこ薫(くん)じては。鼻(はな)つきとをす鑓(やり)
持の奴(やつこ)茶やとは強(こは)けれど。色ある姿(すがた)なれ〳〵敷(しく)よらんせのこゑ
にくからず。哀(あはれ)ひよくの諸羽(もろは)の宮。天にあらばとあふのけは雲(くも)にそび
ゆる毘沙門堂(ひさもんだう)。鞍馬(くらま)の告(つげ)にひとしくは。我を守(まも)りたび給へと祈(いのる)
心の六 地蔵(ぢさう)。実(げに)此ほさつは悪趣(あくしゆ)の苦(くるしみ)を。かはつて請させ給ふと
や。我には後(ご)世よりちかみちの現当(げんとう)の世わたらひをまもりて給
はれと隣(となり)の十 善寺(ぜんじ)に足(あし)休(やす)めて
六ぢさう七八うけてくをぬきて十せんし川 渡(わた)りやすかれ
右に高(たか)きは牛(うし)の尾(を)山 追(をい)わけ越(こえ)て。直(すぐ)な道 横木(よこぎ)にきなす古紙(ふるへがみ)
子(こ)ほころぶ。すきま寒(さむ)ければ。池(いけ)の川ばり糸(いと)による物とはなしに
別(わか)れ路(ぢ)の都 隔(へだ)てゝ心ぼそ。静(しづか)にゆかぬ走井(はしりゐ)を杉村(すぎむら)うつす。相坂(あふさか)
の関(せき)の清水(しみづ)を酒(さか)やかと。さかゞみの宮名もゆかし守随(しゆすい)が秤(はかり)めに
かけて三井寺のかね腰(こし)につけ。だみたる恋を柴(しば)や町やかるゝたねと
知(しり)ながら猶(なを)もえくゆの燃(もえ)やすき。けふりくらべの松もとや。番馬(はんば)の風
の寒(さへ)かへる。兼平(かねひら)が塚(つか)苔(こけ)朽(くち)て。今 井(ゐ)は残(のこ)る名のみなる。碑(ひ)の銘(めい)
見する。石(いし)山の月に昔(むかし)のこととはん光源氏(ひかるげんし)の物語。実(まこと)に似(に)てもうそ
すごき。水の青 淵(ぶち)せたの橋(はし)。のぢのしのはらたどりきん。草津(くさつ)につく
や姥(うば)が餅(もち)。実(げに)や此餅はめいどて鬼(おに)が問(とふ)と云いざたうべんと腰(こし)かくれは宿(やど)の女
姥(うは)老(おい)てあへたる餅(もち)のうれよきはかりにもおにのとへば也けり
と古歌(ふるうた)をほんあんしたる。此 渡(わた)り草津のやくらと云と聞てねめ介
休(やすら)ひのおあしを出してあたゝまる餅はこたつのやぐら也けり
左の方は雨(あめ)による。みのかいとうのもり山や右にてる日のかげまろきぬふ
【挿絵】
てふ笠(かさ)の梅の木の定斎(ぢやうさい)にほふ東風(こち)吹てあら砥(と)そばだつ石部(いしべ)山
ふもとにそひ〳〵みくも村 横田(よこた)川に望(のぞみ)て筍斎(じゆんさい)
みだれ碁(ご)の石部につゝく渡(わた)り手の浪(なみ)打かへるよこた川哉
まけぬ勝負(しやうぶ)のかち渡り。足(あし)もまだひぬいづみ村。猶(なを)ぬれ〳〵て水口(みなくち)に
我やみゆらん蝌(かへるこ)の浪に陰(かげ)ある柳(やなぎ)こり風(かぜ)新柳(しんりう)の髪(かみ)をけづれば鰌(とぢやう)の髭(ひげ)や作(つくり)
坂下らせ給ひける程(ほど)に舞(まひ)の村行 扇(あふき)の手。お茶やの千世(ちよ)をよばふ
なる松の尾(を)村のはを磨(とい)で鑿(のみ)でおこすや。土(つち)山の生(いく)のゝあめや
ぢわうせん。ねふりもて行ほうべらによこ筋違(すぢかい)。の田村川 水上(みなかみ)
久(ひさ)に劫(こう)をへていく世かすめる蟹(かに)が坂。ゐのはなたるゝ藤巴(ふぢともへ)沢江(さわゑ)
の水の木(こ)の下や峠(たうげ)に高きかご賃(ちん)をはらはぬ袖のしよぼ〳〵と露
となみだのおり坂(さか)を西行法師(さいぎやうほうし)の詠しけん
すゞか山 浮世(うきよ)をよそにふり捨(すて)ていかになり行我が身なるらん
此ことの葉(は)も身の上に我がなり行すゞか川 八十(やそ)せの数(かず)に老(をい)くれて
しはやよるらんひげ野老(どころ)にが竹けづる色 火縄(ひなは)関(せき)とは宿(しゆく)の名のみに
て。とまらぬ旅(たび)ぢ迷(まよ)ひ行。衢(ちまた)や六に別るらん。ちざうほさちに道
とへば。南はいせぢ東(ひがし)にゆけ忝(かたしけなし)と諾(うなづけ)はこや張貫(はりぬき)の亀(かめ)山を中(ちう)に操(あやつる)
緒(を)の町の賎(しづ)がをだ巻(まき)引はへて野尻(のじり)につゞくさゝがにのくもゐに
ひゞく音楽(おんがく)の庄野 俵(たはら)を鼓(つゞみ)かと打よりてみるかはゐ村。わきて
流(なが)るゝいづみ村。いつみた事もなひ人のおじやれ〳〵に気(き)がうひてぬめ
りすがたのうなぎ町。されは恋(こひ)には虎(とら)とみて思ひをとほす石(いし)やく
し忍(しのぶ)細(ほそ)道 杖(つえ)つき坂(ざか)。竹の一よやふた夜三夜 四日市(よつかいち)たつ。商(あき)ひ
とや。田夫(でんぶ)交(まじり)の鄙(ひな)の村かへす畑(はたけ)のうねめ町 鋤(すき)と桑名(くわな)の町
つゞきそちむひて行かき村や。へた村過て上手(じやうず)げに弓(ゆみ)引やなる
矢田(やた)の町。八 幡(まん)の宮かう〳〵敷(しく)。武運(ぶうん)めでたき城(しろ)がゝり夕日(ゆふひ)やみがく
玉くしけ。ふたみの浦(うら)の貝(かい)しげみ。松を蒔絵(まきゑ)に蛎(かき)蚫(あはび)辛螺(にし)の色てる
玉がきの宮へ七里の舟渡(ふなわたし)し白浪(しらなみ)よする。小ぢりめん。さやへまはらぬ
順風(じゆんふう)に水手(かこ)が小歌のわつか松。松のひめ島(じま)右に見て。のまの内海(うつみ)の
汐東風(しほごち)に我は長田(をさだ)とふるへども。あつたの名こそ頼(たのみ)なれ。爰にも松
の年(とし)高き仙人塚(せんにんづか)の跡(あと)ふりて。昔(むかし)を思ひ出らるゝ。いとほしや亡父(ばうふ)
竹斎(ちくさい)此所にて。りやうぢの分(ぶん)の下手尽(へたづくし)。あらゆる恥(はぢ)をかき紙子(がみこ)引や
ふられてしよぼ〳〵と泪(なみた)て帰る時も有。又はつぶりを打わらられ包(つゝ)む
とすれど破(やれ)づきんもるゝ黒血(くろぢ)に名を流(なが)し。かゝへて戾(もどる)折も有
何(なん)ぶくもつた薬にもきいた事なき時鳥(ほとゝぎす)飛(とび)あるひたを能(のふ)にして
終(つゐ)にして出(て)ぬ薮(やぶ)いちこ人が喰(くは)ねば是非(ぜひ)もなし。身は朽果(くちはて)て名
計の残(のこり)多(おほし)と啼(なき)にける。ねめ介も袖をしぼり。実(けに)我か父 浅(あさ)まし
やならぬ世帯(せたい)を賄(まかなひ)て。主人(しゆじん)の物はさる事よ。その身の上のさよ衣
一 重(え)二 重(え)のきる物も皆(みな)七つやにおきつ波(なみ)あれのみまさる宮(みや)の内
なかし果(はて)ては八の木の煙(けふり)淋(さひ)しきすまあかし身(み)をつくしてもあ
はぬなり。胸(むね)ざん用にいせぢかき神祇(じんき)釈教(しやくきやう)恋(こひ)無常(むじやう)おもて住居(すまゐ)は叶(かな)
はじとうら店(たな)借(かり)て隠(かくる)れと波の打越(うちこし)あら磯(いそ)の猶 水辺(すいへん)に袖(そで)濡(ぬれ)て
日出る方(かた)におともせじ。爰(こゝ)らや在し宿(やと)ならんと恨(うら)めしげに詠(なかめ)行
女 房(ほう)の出かつら傾国(けいこく)に住(すみ)なれ屈(くす)んだ事のうるさく。よしなの昔語(むかしがたり)
やな帰らぬ事な宣(のたま)ひそいとゝに旅(たひ)は物うきにわつさりとし給へか
し人一 盛(さかり)花一 時(とき)ちりうなるみも程ちかしいさとて先(さき)へすゝむ
にそうくかた早(はや)きひやうたんの穴生(あなふ)の村も過(すぎ)行て。妹川(いもかは)のうとん
そば風味(ふうみ)よしのとほめなせはあしやといへる里(さと)も有 左(ひだり)にさなき大
明神 池(いけ)に鯉(こひ)ふな多(おほし)とて呼(よん)で池鯉鮒(ちりふ)といふとかや遥(はるか)の北に
八 橋(はし)有おやぢの読(よみ)し歌(うた)を思ひて
五つ六つ七つ八橋見渡すはこゝのつゐでのとをりがけ哉
武士(ものゝふ)のやはきの橋の弐百 余間(よけん)長く久しき世の為(ため)し城(しろ)の
汀(みきは)のどろ亀(がめ)も万歳(はんせい)うたふ大 神楽(かくら)岡崎(をかさき)女郎 衆(しゆ)ぬれ色にしな
だれかゝる藤(ふぢ)川に哀(あはれ)や。ひなの住(すま)ゐとて手足はあれて松の木
の瘃(ひゝ)皹(あかぎれ)に赤(あか)坂や。数(かず)は八万 法蔵(ほうさう)寺。歌や二三四ごゆの宿(しゆく)石田(いしだ)の
雨の徒然に硯(すゝり)に向(むかふ)兼好(けんかう)がこゝに住(すみ)けん吉田(よした)町三 河(かは)続(つゝき)のふた川や
この手にふるゝ柏餅(かしわもち)もひとつあがれしほみ坂。塩時(しほとき)人にしらすか
の音は高師(たかし)のあだ浪の荒井(あらゐ)の渡し飛(とん)て行。鶴(つる)のまひざか
浜松(はままつ)の楽(がく)を吟(きん)ずる大 天竜(てんりう)池田(いけた)の長か跡とへは。甘泉殿(かんせんてん)の春
の夜の夢(ゆめ)になりたるゆやの前ことし計とかこちける桜が池の
朧月いづるそなたを見つけ山 後(うしろ)におへるふくろゐとひちに簣(あぢか)を
かけ川の小町 橋(ばし)行 気違(きちかひ)に礫(つふて)なうつそわらへ餅(もち)につ坂わくる
草の露 命(いのち)をさよの中山にたかかけ初(そめ)しむけんのかね。今は土(と)中
に埋(うつむ)れてつかせすとてもつき時の果報(くわほう)があらば金谷(かなや)の宿(しゆく)く
もに流るゝ大 井(ゐ)川島田 吹(ふき)上かうがいわけ。げに木ながらにいはね
とも。ゆふにぞまさる柳(やなき)かみ。紅粉(にこ)白粉(おしろい)もけいはくにせとの染飯(そめいゐ)
味(あぢ)有て色ある姿(すかた)行(ゆく)人に這(はい)まつはるゝ藤枝(ふぢえだ)や。岡部(おかべ)と名のる六
弥太が忠度(たゞのり)くんでうつの山つたの錦(にしき)の直衣(ひたゝれ)を春もきに
けり行 暮(くれ)て木(こ)の下 陰(かげ)の沓(くつ)の音(をと)はづむまりこの盛(さかり)には忠(ちう)が
ふちうの花の雨(あめ)疎(をろか)になせそみかきもりゑじりにもゆる漁火(いさりひ)の
うつりも青(あを)し狐坂(きつねさか)ほむらや残す姥(うば)が池月 清(きよ)みがた三保(ほ)の
松 天(あま)の羽衣(はごろも)ひろひても五たびかへすおきつ波(なみ)塩(しほ)やに荷(に)なふ田子
の浦一 石(こく)二石つもりては三 国(ごく)一のふじの山 雲(くも)より上は白雪の見
ゆる計もいや高(たか)〱旅路のうさも一 時(とき)にはるゝ蒼天(さうてん)又 類(たくひ)なし
白 妙(たへ)の昔(むかし)のまゝに年ふりてふらうふしなる山の雪哉 筍斎
ひえの山をはたち計のふしの山つふりをみれは若しらか哉 ねめ介
ふじの山せこそはたちに高(たか)からめいくもかのこの雪のふり袖 玉かつら
此ふり袖を誰(た)が子ぞと問(とい)もて行(ゆけ)ど親(をや)しらず昔(むかし)通(とを)りし古(ふる)道
の種々(しゆ〴〵)に替(かは)れるさつた山 笹(さゝ)に露ちる白ゆふやゆゐを参らす
神原(かんはら)のみこか口とく古はやによし原雀 囀(さへつり)て。雲に飛行の
天(あま)のはし。足高(あしたか)山を引まはす屏風所のぬまづの宿。三 島(みしま)暦(こよみ)の
はつ春(はる)を。口あけてみる箱根山 宝(たから)の玉の水取て畔(くろ)にしかくる
小田原(おたはら)の野夫(やふ)が作(つく)りの俵(たはら)物つんて悦(よろこぶ)。透頂香(ずいてうかう)味(あちはひ)わきてい
し地蔵(ぢざう)化(はけ)て火 灯(ともす)大いそやぬき討(うちに)する平つかを拳(こふし)ににぎる
藤沢(ふちさわ)もよるの水 音(をと)物すこく。とつかはとして逃(にげ)道を。いかほと
かやと物とへどそちや聾(つんほ)のかな川の耳(みゝ)ならなくに穴(あな)ふたつ
是なん仁田(にた)忠(たゞ)つねか地獄廻(ぢこくまはり)をするかなるふしの人 穴(あな)あな賢(かしこ)
語(かた)らぬ筈(はづ)の一大 事(じ)もらせし水の川 崎(さき)に大 師(し)河原(かはら)のゑん
ぎ 帳(ちやう)流沙(りうさ)のすなのいくばくか昔(むかし)渡りし五 天竺(てんぢく)四百 余州(よしう)
の事那(しな)川に名を響(ひゞか)する鈴(すゝ)の森 梢(こずえ)下枝のなをしげく
【挿絵】
真 言(こん)流布(るふ)の日本橋 祈 祷(たう)成就(しやうしう)円 満(まん)にさかふる花の江戸に着ぬ
二 深川の底(そこ)ぬけ上戸 彩色(さいしき)の赤人形
橋(はし)がなふて渡(わたり)がならぬ深川といふ所に。知る人を尋(たすね)小家をかりて
住(すま)居けり。ねめ介いふは御 当地(とうち)の風 俗(そく)をかねて承(うけたまわ)るに。京 生立(そだち)の
生(なま)ぬるき取なり物いひは下りものとやらん申て髭奴(ひけやつこ)の口にかけて
笑(わら)ひ草にいたすと。されは万きつとして身の取まはししやん〳〵
と分際(ふんざい)より気(き)をふとく持(もた)ては所(ところ)の風にあい申事で御わりま
すまひし。不(おほへ)_レ覚(す)不(しら)_レ知(す)はや巻舌(まきした)にいひちらして笑へは筍斎も
笑ひて其分は気遣(きづかひ)せそ。何事が何時(なんとき)用に立ふもしれぬ某(それがし)
日比酒すく事。此 度(たひ)の用にこそたてひとつのふでは。いとゞだに
ふとく成よきいきみ玉光めてたき時にあひて工界(くかい)をひろく
むさしのと出るに便(たより)あり
武蔵(むさし)のゝ広(ひろ)ひ所を引うけて人のこゝろを一のみにせん
といひければ。ねめ介あきれ是は余(あまり)に口ひろしと我(が)をおる。いてや
かく隠住(かくれすむ)計には世人(せじん)更(さら)にしる事 非(あら)じ。看板(かんばん)を出さん但(たゞし)故(こ)竹
斎が。へんじやくやぎばにもまさると狂歌(きやうか)せしは嘲(あざけり)の種(たね)不 吉(きつ)の
例(れい)なればとて歌(うた)はやめぬ。扨人 形作(ぎやうつく)りを呼(よん)で。自(みづから)のざうを誂(あつらふ)
工人(かうじん)筍斎が貌(かほ)かたち取(とり)なりを図(づ)するに吹(ふき)出す計おかしけれど。
笑(わら)われもせずうけ取ぬ。手を尽(つくし)刻(きざむ)ほどに日を経(へ)てもて来りけり
其ざうといつは。天性(うまれつき)なれば口 狼(おほかみ)のごとく鼻(はな)のひくさは。額(ひたい)より
遥(はるか)ふもとにたれ。まじりさがり黒庖跡(くろみつちや)の引つりに。痣(あざ)黒子(ほくろ)さ
へおほく頷(をとがひ)なかく頬(ほう)たれて。頸(くび)の大さ胴(どう)にひとしく。表(おもて)口より
【参照資料:国会図書館デジタルコレクション>浮世草紙刊行会叢書>第1巻>新竹斎>巻之四-二 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953502/186】
頭(つぶり)のうら行町 並(なみ)にはづれ手足ふつゝかに指(ゆび)みじかく。右に匕(さじ)をか
まへ左(ひだり)をほうづえし薬(くすり)調合(てうがう)加 減(げん)思案(しあん)の所を一 毛(もう)も違(たが)は
ず作(つくり)なせり。我ながら我(わが)かたちの希有(けう)に鈍(どん)なるに。よこ手
を打て。扨(さて)もそなたは人におかしがらするやうに。ない所 迄(まで)つく
りそへられた事よと。まだ是ほどに不 具(ぐ)なるとはいはず。作者(さくしや)は
あいさつの仕(し)やうにこまりおかしさをねんして口に手あてゝ
帰る。女房め介ねなどふき出して笑(わらふ)扨一 枚板(まいいた)に自讃(じさん)をかく
一 夫(それ)日本にお医者方(いしやかた)おほしと申せど筍斎か家(いへ)の
りやうぢと云は仙受(せんぢゆ)神秘(じんひ)の妙方(めうほう)一 子相伝(しさうでん)の外
更(さら)につたへず。若此方ゟおしへんと申てもかぶり
をふつて習(ならふ)ものなければおのづから我(わ)が家の重宝(てうほう)
となつて他家(たけ)にしることなし。是おそら〱は我流(わがりう)
きまゝの一方おほへにくきがいたす所也こゝにばう
ふ竹さいひろくきめうを仕(し)ありき養生(やうしやう)薬にて
なき病を出しかろきはおもくなして外のくすしに
手がらをさする。おもふに下ぢをなまぞこなひにしたる
とくか。あるはおもきは一二ふくにてらちあくるいけて思ひ
をさせうゟきさんじなる事さすがらうこうのいたりと
我計がをほる予其 的伝(てきでん)をついで。そのふにあそぶ。とら
のいきほひ千里一はね何ほど大医(い)にならふもしらず。今
心 安(やす)き間にたながりうら住のかろきものどものぞみならば
見てとらせん参り候へ参り候へ花洛全盛庵(くわらくぜんせいあん)
年号月日 薮内筍斎
と書(かき)て木偶(もくぐう)にそへてかんばんを出しけり
三 道戯(どうけ)の初 看板(かんばん)大 笑(わらひ)の口あけ
筍斎が。かはつたかんばんに。やれ〳〵かのそこに珍(めづら)なる医師(いし)のかんばん
こそ出たれと。貴賎(きせん)見物(けんぶつ)にきて腹(はら)をかゝゆる。中に小賢者(こさかしきもの)が是は
たゞ木引堺(こびきさかい)町の小見せ物の手にてなき事 作(つく)るおどけ者(もの)の
人よせなるべし。誠の筍斎といふもの。いかゞ是ほどにはと作病(さくびやう)
【参照資料:国会図書館デジタルコレクション>浮世草紙刊行会叢書>第1巻>新竹斎>巻之四-三 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953502/188】
なんと拵(こしらへ)りやうぢに事よせて知人になり。実の人品を見るに又こら
へられず。責(せめ)て木偶(もくぐう)は動(うこか)ず可笑計(おかしきはかり)なるに。正体(しやうたい)の立ふるまひ
声(こゑ)は堂(だう)の鳩(はと)のやうに物いひしたどに。よだれ水はなの時雨(しだれ)偽(いつはり)の
なきかんばんの外さへそひて。ひとつもとり所なければ。皆(みな)堪(たへ)かねて
逃(にげ)かへる。後は此手にこりて。大かたにては人に逢(あは)ず成ければ。なら
ぬをしたふ人の心。猶みたがり逢(あひ)たがりて隣家(りんか)町内の縁(えん)を求
て行合(ゆきあひ)酒 肴(さかな)なんど饋(おくり)ければ。中々りやうぢはせねども。腹(はら)
便々(べん〳〵)として活計(くわつけい)身に余(あまれ)り。此さた広(ひろく)〳〵武陽(ぶやう)の咄(はなし)に成て
笑(わらひ)のゝしる。下々はさる事にておく住の女 中(ちう)などは。やすく行
て見給はねば。御 慰(なぐさみ)にめしよせらるも。りやうぢをいひ立にわか
とう小者に駕(のりもの)をつかはし。取よせて御らん有ては。上(かみ)中(なか)下の
人々動をつくる屋敷もあり。あるは五人も七人も頤(をとかひ)のかけかねはつ
れて大 工(く)づかひの所も有。かゝる寄異(いきゐ)の見物(けんぶつ)はと黄金(わうごん)白銀(はくぎん)小袖
の賜(たまもの)いやが上に重(かさなり)。蔵(くら)に満(みち)たり此故に不日(ふじつ)に有得(うとく)の身となり
ぬ。是につきてふしぎ有。筍斎 元来(ぐわんらい)京に生れて。中老(ちうらう)迄都に
居(ゐ)けり。尤(もつとも)其形おかしからぬは非(あら)ねど。是ほど異相(ゐさう)に鈍(どん)にはみえ
ざりし。爰に来てよりかくすぐれておかしがられ身上(しんしやう)のたつ
きに成迄の事。おもふにくらまの多門天の方便(はうべん)なるべしと
玉 蔓(かづら)ねめ介はいひおれど。己(おのれ)は只一分の利口(りこう)に出(で)かすと思ふそ又一 興(けう)なる
四 うそ咄(はなし)の始(はしめ)口 広(ひろ)し狼(おほかめ)
ある日 去(さる)やごとなき御かたに召れ。終日(ひねもす)嬲(なぶり)物にし御 慰(なぐさみ)ある中
に。とかく此 坊主(ぼうず)は。過差(ぐわさ)にして。物ごと利 口(こう)だてするぞ。そだて
【参照資料:国会図書館デジタルコレクション>浮世草紙刊行会叢書>第1巻>新竹斎>巻之四-四 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953502/189】
て物をいはせよとて。何と筍斎には。都にてもそなたに肩(かた)をな
らぶる医師(いし)もなく名人にてありしと。然(しから)は官位(くわんい)にものぼり。乗(のり)物
童僕(どうぼく)にて。綺羅(きら)をみがゝるへき身(みの)。いかに禄(ろく)にもあづからず。おち
こちの道を。歩行(ほかう)につとめ。供(とも)だにひとりふたりに限(かぎ)る。いぶかしと
尋給ふ。筍斎手を打て扨は某(それがし)の名(めい)人さ。夫(それ)ほど微細(みさい)に早(はや)く
聞へ侍る事よ。仰のごとく。とくにも医官(いくわん)に昇(のぼ)り美々敷(ひゞしく)致
べき身に侍れど。私(わたくし)めにひとつの曲(くせ)あつて。唯(たゞ)慈愛(じあひ)の心ふかく
人の為(ため)能(よき)事のみと存侍る性(しやう)の捨(すて)がたく。態(わざと)心やすく仕(つかまつ)り。分(ぶん)
際(ざい)軽(かろ)き者(もの)どもに薬(くすり)を施(ほどこ)さんために逼塞分(ひつそくぶん)にみせかけ罷(まかり)在
しそれさへ誰(た)が奏(そう)し申せし禁裏(きんり)仙洞(せんとう)より勅使(ちよくし)を
下され。筍斎が医学(いがく)広(ひろ)くりやうぢの発明(はつめい)ゑいぶんに達(たつ)し
近きに参内(さんだい)仕べきよし。しらする者あり。左あれは我ながら
身 持(もち)むつかし〱。其上下々の者どもが闇夜(あんや)に一 灯(とう)を消(け)し
たるやうにおもはん事も不便(ふびん)に存ひろく治(ぢ)を施(ほどこ)さんため
まだ宣下(せんげ)なき内に此江戸に下り侍るといへば。皆(みな)しなぬ計
に笑(わらひ)入て。いしやはさやうに在たき物なれ。さて都にて。す〲
れて珍敷(めつらしき)りやうぢはいかなる事か召れし。めづらしき手がら
かず〳〵にて空(そら)には覚え申さず乍(さり)_レ去(ながら)おもひ出るを申さば。
先一とせ山しろの西の岡(をか)と申所に狼(おほかめ)あれて人をくらひ。牛(ぎう)
馬(ば)を追(をい)まはす事。昼夜(ちうや)にかぎらず。忽(たちまち)くいころすあり。片輪(かたわ)
づきて逃(にげ)帰るあり。洛西(らくせい)の騒動(さうどう)なゝめならず。爰に牛(うし)が
瀬と申所の農民(のうみん)綿(わた)の畑(はた)にゐたるを件(くだん)の狼(おほかめ)。きそひ
来つて彼者の両 足(そく)をつけ根(ね)より只一口にくひ切て帰りければ。
尻(しり)より上計 死(しに)残る。隣(となり)の田より見付やれ〳〵といへとも甲斐(かい)
なし。妻子(さいし)なく〳〵半の死骸(しがい)を家に取いれなげく是は余(あまり)
にあへなきわさ也。当時の生薬師(いきやくし)筍斎にみせさせよと
迎(むかひ)に参つた。見舞(みまひ)て見るに。在し仕合いかにしても蘇生(よみがへ)る
やうなかりけれど。そこが流石(さすか)の上手(じやうず)何がな足一そくあらばと
庭(にはを)みれば。賤(しづ)が手わざの綿(わた)くりといふ物あり。此 足(あし)にむめの木
のふた股(また)なるをみつけて頓て是をぬきてかの喰切(くいきり)し口に
さしこみうへより薬(くすり)をのませて。祝言(ことぶき)の発句をいたした
くはれてもまたなる梅の木の実哉
として舌(した)もひかぬに彼者 忽(たちまち)起(おき)あがつて昔の足より。猶(なを)達者(たつしや)
に。今は右の百性をやめて西国(さいこく)への飛きやくをいたしおるといへば。
各(おの〳〵)腹(はら)をかゝへ笑(わら)らひながら。何と梅の枝を足にしては。さやうには
ありく事なるまひ事じやといへは筍斎貌をふつて扨は人々
にはか様の古事(こじ)をばしろしめさぬと見えたり。むかし北野天(きたのあま)
満神(みつかみ)未(いまた)菅相丞(かんせう〳〵)にてましませし時。時平(しへい)のおとゞの讒(さん)に
よつて心づくしにさすらひ給ふ。されば相丞都にて梅の木
を御 寵愛(てうあい)なされしが。都ゆかしき折から此むめの□を思召て
東風(こち)ふかは匂(にほひ)おこせよ梅の花あるじなしとて春なわすれそ
と読(よま)せ給ひしかば。此梅一夜が内に数百(すひやく)里を越てつくし安楽(がんらく)
寺(じ)迄参る。是より号(なつけ)てとびむめといふ。彼者がする。ひきや〱の文(も)
字(じ)を飛脚(とぶあし)とよむも此心に侍るとひげ口そらしいひけるにぞ
又大笑しぬ。扨又 珍(めつら)しいりやうぢはととへば。ある時 武家(ぶけ)の若党(わかとう)途(と)
中にて。不 慮(りよ)に喧嘩(けんくわ)を仕出し頸(くび)をころりとおとされぬ。つ
れの男 某(それがし)所へかけこみ此くびを継(つい)でくれよ。入(いら)ひで叶わぬくび
しやと申たほどに。頓而間の釘(くき)に。かうやくぬつて即時(そくじ)ついでとら
しければ。皆人きもをけす。某(それがし)はさのみにも存ぜなんだ。是も
只今 清水観(しみつくわん)右衛門と申て。息災に奉公勤(ほうかうづとめ)のある。此名をとへば
くびをきられて二 度(たび)ついだるによつて。清水の観世音(くわんせをん)に模(も)し
てつきたるとぞ。然は残(のこり)多(おほ)い事の御ざある。後向(うしろむき)に継でやらふ物と
今に存る。此 外(ほか)此様なはなれきつたりやうぢ。何が十や廿や三万と申
事は御ざないと云て。いふた貌もせず人皆 動作(どよみつくつ)て息(いき)のはつむ計
新竹斎巻之四
新竹斎巻之五
一 謎(なぞ)禁好(きんこう)は斎(さい)が目に春の氷(こほり)
筍斎はうそつきの名を広(ひろく)取て。世の笑(わらひ)物になれど自然の
才覚(さいかく)も有て人にいひこめらるゝ事なし。ある時 生小賢(なまこさかしき)男。斎
が家に来て云。其方は医(い)道 発明(はつめい)に而(しか)も和歌(わか)の道にさへ達し
給へるよし心にくし。某(それがし)も年来歌を好(このん)でよみ侍る。されども
短慮(たんりよ)未練(みれん)にて。よむも〳〵こしおれにて歌に病(やまひ)があると点者(てんしや)
より批言(ひごん)あり。幸(さいわひ)貴殿(きでん)両 道(どう)兼備(けんび)の名(めい)医の徳(とく)になをし給
はらんやといふ。夫(それ)はなるほど安(やす)き事 薬(くすり)を教(おしへ)申さん人 丸(まろ)と貫之(つらゆき)
を当分(たうぶん)に。赤(あか)人を少(すこし)加(くわ)へみつを以て練て用られよ。其まゝな
をるといふ。扨(さて)珍敷(めづらしき)薬(くすり)哉此 能毒(のうとく)承たしといふ。されば歌ごと点
【参照資料:国会図書館デジタルコレクション>浮世草紙刊行会叢書>第1巻>新竹斎>巻之四-三 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953502/188】
者の批言ありと。其批(ひ)のとまるやうに。ひとまる一 味(み)つらゆきは貌(かほ)に
雪のかゝる心。面(おもて)白(しろ)ふなるやうにと。乍(さり)_レ去(ながら)雪は大 寒(かん)の物なれば。温(うん)
薬(やく)にて大(おほき)に和(やわら)けんため。あか火とを少加へよし。扨なにはづのこと
の葉のみつ丸にして用(もち)ゆべしと也。若(もし)夫(それ)にて治(ぢ)せずは。廿一
代集(だいしう)を煎(せんじ)のみ給へと云。男おかしながら是又 子細(しさい)いかにととふ。
されば巻(まき)ごと歌道のせんやくならずといふ事なし。是み給へ
とて。忠度(たゞのり)のうたひ本を繰(くり)て。五条の三 位(み)俊成(しゆんぜい)の卿(きやう)承(うけたまわつ)て是を
せんずとあれば。忝も天子などには公卿(くぎやう)に煎させてきこしめす
事じやと云にぞあきれはてゝ帰る。又ある理尽者(りくつもの)筍斎に手をと
らせんと。一 分(ぶ)自慢(じまん)に謎禁好物(なぞきんかうもつ)といふ物を作(つく)り。かな違(ちがひ)重(ぢう)
言(ごん)など取まぜ。子細に書つけ。近比(ちかごろ)むつかしうおはし候はんなれと
随分 工夫(くふう)して此 作(つくり)物を解(とい)て御 越(こし)給はれとさし出す。筍斎
さらりと一 返(へん)みる程に。使者置て参らんといへば。否々是程
の事に何の工夫(くふう)も分別(ふんんべつ)もいらずと片端(かたはし)より一書(ひとつがき)の下(した)に書付る其作物は
謎禁好物(なぞきんかうもつ)
一かたち 鯛(たい) 一春の風 鯒(こち) 一 亀井(かめい)か兄(あに) 鱸(すゞき) 一ひとのみ 鱧(はむ)
一中ひくな女 鮃(ひらめ) 一ひたい綿(わた) 鰻(うなき) 一みやこの魚(うを) 鯨(くじら) 一やくし 鮹(たこ)
一 根引楫(ねびきのかち) 生貝(なまかい) 一 養(やしな)ひ親(をや) 煎海鼠(いりこ) 一やみの夜(よ) 海月(くらげ) 一 寐起貌(ねをきのかほ) 鯣(するめ)
一 近江守(あふみのかみ) 鮒(ふな) 一一 刀(とう) 鯵(あぢ) 一 絃(つる)かけ 鱒(ます) 一《割書:ふたつ文字|牛の角もし》鯉(こい)
一 不動(ふとう) めぐろ 一 餓鬼(かきの)食物(しよくもつ) 鯖(さば) 一切たり突(つい)たり かまほこ 一鳥さし 餅(もち)
一頼光の父(ちゝ) 饅頭(まんぢう) 一 洪水(こうずい) 飴(あめ) 一 小田原商(おだはらのあき)人 外郎餅(ういらうもち) 一つきん 魳(かます)
一やかたの水なし 鰯(いわし) 一 出羽庄司(てわのしやうじ) 砂糖(さとう) 一ちかきあたり そば 一あはうの川がり うどん
【挿絵】
一大 臣(じん) 黍(きび) 一いよが隣(となり) 粟(あは) 一手を以て奉る 大角豆(ささげ) 一 悪相(あしやう) 小豆(あづき)
一 鮹(たこ)ずり 大豆(まめ) 一 押領(をうりの)使侍 蘿蔔(だいこん) 一うなぎの卵(たまご) やまのいも 一 出家(しゆつけ) 牛房(こぼう)
一物しり 苣(ちしや) 一不 動(どう)の煙(けふり) 胡麻(ごま) 一 風前(ふうぜん)の灯(ともしび) 芥子(けし) 一 売(うり)すそ 葛(くず)
一毛 ふ 一いまやう 豆腐(とうふ) 一 破(やぶ)れ物 酒(さけ)
かくのごとくさら〳〵と書 付(つけ)使(つかひ)に戾(もど)しけり作者(さくしや)は日を経て。枕(まくら)を
二三十もくだきたるに。筍斎(じゆんさひ)が頓作(とんさく)今更(いまさら)に又 我(が)をおる
二 口の広(ひろ)きが勝(かつ)秀句詰(しうくづめ)
ある時又河 者(もの)のわざにや。筍斎か家に狂歌して張(はり)付る
なり下るはては茄子(なすび)の尻(しり)しきよ茶(ちや)入のうはぎ身のせばきより
始末(しまつ)落着(らくぢやく)したる方はなけれど。推量(すいりやう)するになすびの尻(しり)しき
とは。へたといはんため計なるべし。茶(ちや)入のうはぎ身(み)のせはきは
薬が廻らぬといふ事ぞ。いで返歌して閉口させんと茄子茶入の二
種をわけてよむ
病人を無事になすびのみもち上わる口いふそへたの皮なる
せばくても世間の人はひさうしてなでさすらるし茶入也けり
と猶(なを)自慢す。又ある日さるおどけもの筍斎を当惑(とうわく)させんと作(さく)
病(びやう)を拵(こしらへ)万(よろづ)透句(しうく)にして。おこがましくあなひ乞。卒爾(そつじ)ながら
某(それがし)はうんすん町の者で御ざるといへば。筍斎いはしもはてず。う
むすんは。目ひとつ。神田(かんだ)の人かととふ。左様てごさる。りやうぢを御む
しん申たい。持病(じびやう)に昔(むかし)の諚(おきて)を持ました斎せんきが有じや迄男ちか
き比よりふとんに枕(まくら)といふ物を煩(わづらひ)ました斎よこねが出たの男
それに筏(いかだ)をよほど呑(のみ)ました斎いや下し計(ばかり)ではなをるまひ男されば
【参照資料:国会図書館デジタルコレクション>浮世草紙刊行会叢書>第1巻>新竹斎>巻之五-二 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953502/194詰
秋かせで御さある斎ふき出る物じや男此比から四十八枚がはなれて
みふしがなやみまする斎かさけのしそんじたはほね痛(いたみ)になりよひ
男ぬまづと吉原(よしはら)の間が無用心(ふようしん)に御ざる斎はら心がわるひの男なに
はのうら風にあてられました斎あしの痛(いたみ)もあらふ男 筆(ふで)不調法(ぶてうほう)で
きのどくな斎手もまはりにくひしや迄(まて)男やゝもすれば猿(さる)にのみ
をみせたやうにこざある斎いかにも時々気あがりする物じや男
継(つき)木が付かねまする。山 颪(おろし)がはげしひ斎めもみえにくふはもいたむ
はづじや男此間は系図(けいづ)を考(かんがへ)て見まする斎 筋(すぢ)を引 釣(つる)の男
淵(ふち)の底(そこ)がこは物でこざある斎いかにも溜(たま)りにならずはよからふ
と言下(ごんか)〳〵に答(こたへ)ければ。さしもの男いかさまにも是ほどの工夫(くふう)
物に。つまらぬ事はと手ぐすねしてきたれども。作(つく)り病の化(ばけ)
ぞこなひ。頭(あたま)計(はかり)はふとく出(で)て。尾(を)もない体(てい)にて帰にけり
三 薬種(やくしゆ)の外(ほか)につかひこなす唐(から)もの
よしあしにつけて人には一つのとりへ有けり。もとより筍斎(じゆんさい)三国
無双(ぶさう)医者(いしや)は下手(へた)なれども。とりなりの異相(いさう)と口の滑稽(こつけい)なる
より。所(しよ)々の高貴(かうき)の御 屋敷(やしき)へなぶり物に召よせられ。片時(かたとき)の
暇(いとま)なく。あだ口たゝ〱大黒(こく)の槌(つち)。金銀(きん〴〵)米銭(べいせん)家にみち子共
も鼠(ねづみ)にあやかりて。月に十二疋ほどづゝうまれ。富貴(ふうき)はんじやう
の身と成て。家人(けにん)あまたかゝゆる。侍(さふらひ)小者(こもの)仕丁(じちやう)四人小ごしやう
物 縫(ぬひ)中 居(ゐ)下 女(ぢよ)なんど。事たりて置(をき)ならべたり。筍斎おもふに
医師といふ者はかり初(そめ)一 言(ごん)いふことも詞(ことば)こびて。物しりらしう
なくては人の思ひ入 奥(をく)ふかゝらず。されば召つかふ者どもをも
【参照資料:国会図書館デジタルコレクション>浮世草紙刊行会叢書>第1巻>新竹斎>巻之五-三 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953502/195】
何兵衛何ゑもんは有ふれておもしろうなし。男女ともに異(い)
国人の名をつけてよばんと。先六 尺(しやく)四人を陳平(ちんへい)張良(ちやうりやう)焚会(はんくわい)
周勃(しうぼつ)と付たり侍を司馬生(しはせい)。ざうり取を安録山(あんろくさん)。小しやうを延(ゑん)
要伯(ようはく)物ぬひを茗都氏(めいとし)。中ゐを楓呂子(ふりよし)。女房玉かづらを西王(せいわう)
母。下女を怒議指露(とぎしろ)と付たり。世人此 銘々(めい〳〵)を聞て。扨かは
つたる名どもかなと。愚なる者(もの)はむしやうに奥(をく)ふかう信(しん)じて知
ず。なま心ある者どもは筍斎が例のわるこび。かうした心で
あらふとしたりくつて。つけつゝふと種々(しゆ〴〵)に分別し。さた
すれど縁(ゑん)の下の舞。あはねばしれぬ鼓(つゞみ)の音(をと)直(ぢき)にふしんをう
つてみよと。名ゆひて子細をとへど。あさはかに申きかする
事にてなし。心をくだき解(とき)給へと殊更の自賛(じさん)中々
いひ出る事なかれば。扨はよのつねふかき心もこそと暫(しばし)信仰(しんかう)
らしく成ぬ。よしさらば此 侭(まゝ)にいはでも止(やみ)なば。少 学問(かくもん)あるや
うに思はれんを。ある時 酔(ゑい)の上にて。人々 例(れい)のそだてを以て
扨々 当時(とうじ)天が下に。貴方(きほう)ほど博学(はくがく)多才(たさい)の名医(めいい)又あらふとも
おもはれず。召つかひの者迄。其心にて呼(よば)るゝなど。きひてきみ
よき薬(くすり)のお家。唐のものどもならては。つかふて思ふやうにまは
らぬはつじや。出来たのといふ。筍斎 頭(つふり)をふつて扨はかた〳〵は
薬種(やくしゆ)に表(へう)して唐(から)の名を呼とおしはるゝや。其やうな思案(しあん)で
は念もなひとけぬが道理。いかに違(ちが)ふたと舌打(したうち)して。あちら
むく。人々せきたる貌(かほ)に。御 坊(ぼう)の子細(しさい)らしういはるゝとも。是
より何のふかひ義理(ぎり)があらふ。さああらばいふてみ給へと追(をい)
かくればいふても皆のやうな。愚昧(ぐまい)な衆は請取が有まじけれ
ど。いはねば心あさきに似たれば申てきかせう。先 仕丁(じてう)の名の
陳平(ちんへい)といふは。今迄の名を甚兵衛(ぢんへい)といふた程(ほど)に取もなを
さず其かなを用ひてかう付た。何 ̄ンときこゑたかと扇(あふぎ)づかひす人
々是にはや余(よ)を準(なぞら)へ思ひすごしの可笑(おかし)さ。えもいはれず
されど面白(おもしろし)ともてはやす。扨 張良(ちやうりやう)はいかにととふ。是めは。茶(ちゃ)
は〳〵口をたゝくによつて。茶売様(ちやうりやう)といふ心。焚会(はんくわい)といふは存
の外の大 食(しよく)で一 朝(ちやう)一 夕(せき)ごとに飯(はん)九杯(くはい)づゝ喰(くふ)故(ゆえ)也。周勃(しうぼつ)は。主(しゆ)に
ぼつ〳〵口 答(ごたへ)するよりつくる。司馬生(しはせい)は当所(たうしよ)芝(しば)の生れのもの
なれば也。安(あん)六三は奉公(ほうかう)の給銀(きうぎん)ことの外やすきによつて
かしらに安(やすき)の字をおく六三は九月よりかゝへたるゆへ也。延要(ゑんよう)
伯はきれいずきにて。取わき縁(ゑん)をようはくといふ事。物 縫(ぬい)の
茗都氏(めいとし)は。めつきがいとしといふ事。中ゐ楓呂子(ふりよし)は。ふりよしと
いふ心。下女は米(こめ)をしろくとぐ事。上手(じやうず)なれば。怒議指露(とぎしろ)。さて
女 房(ぼう)どもを西王母(せいわうぼ)といふは是が生国(しやうこく)山 城(しろ)のふしみなり。伏見(ふしみ)
は無双(ぶさう)の桃(もゝ)の名所(などころ)されば。其 林(はやし)より出たれば。かくはよび侍る也
何 ̄ンといつれも我(が)がおれたか。されば〳〵一は代(だい)の我(が)を皆おつた。扨
々 承(うけたまはり)事 傍(そば)で。恥(はづ)かしひほどに。さらばといひてかへる
四 やまと窓(まど)は無理(むり)咄(はなし)の逃道(にげみち)
往昔(そのかみ)帝都(ていと)に在しほどは。すぐれて貧(まづしく)朝夕(あさゆふ)の煙(けふり)だにたえま
がちなる中にも。心計は男 独(ひとり)。月の名所(なところ)花の山。いたらぬくまも
なき遊好(あそびずき)なりかし。まして今 富貴(ふうき)栄耀(えいよう)の東都(とうと)の住(すま)ゐ。万(ばん)
【参照資料:国会図書館デジタルコレクション>浮世草紙刊行会叢書>第1巻>新竹斎>巻之五-四 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953502/196】
里(り)を下にみおろす。上のゝ花の遊興(ゆけう)雲井(くもゐ)をうつす。角田川(すみだがは)の
月の翫水(ぐわんすい)酔(ゑい)の隙(ひま)なきに心 紛(まぎれ)て其かた此かたの行 見舞(みまひ)怠(をこたり)がち
也。ある日 去(さる)仏法(ぶつほう)ずきの家に罷けるに。いかに此程は音信(いんしん)もなかり
けるやと尋(たつね)らる。筍斎 件(くだん)のついさうに。ちかき比は拙子(せつす)も殊外 後(ご)
世心いできまして。諸 寺(じ)の参詣(さんけい)に暇(いとま)あらず。わきて此程 我師(わがし)の
寺に千 部(ぶ)の御 経(きやう)有て毎日まうづる。けふは中(ちう)日ゆへけさより参り
只今 下向(げかう)いたす。余(あまり)無 音(ゐん)に侍る程に推参(すいさん)仕ぬと云。まざ〳〵
虚(うそ)らし〱思ひながら。ちか比 殊勝(すしやう)にこそ候へ。其千部と云は
幾日(いくか)のほどにみつるや。日ごと百部つゝ誦(ず)して満足(まんぞく)十日の物
といふ。夫(それ)ならば不 審(しん)あり。三五七九の物には中日といふ有べ
し。何 ̄ンぞ十といふ内に。中日あらん。扨も不部合(ふつがう)や。うそと
いふ物も始終(しじう)のくゝりあしければ此やうにはや〱しるゝ妄語(もうご)の
罪(つみ)おそろしやと笑わる。筍斎とりあへず。せはくも心得給ふ
物かな。四 教(きやうに)は中道を説(とき)。十 哲(てつ)に仲弓(ちうきう)あり四書に中 庸(よう)有
四つ御器(ごき)に中 椀(わん)あり。十ありとても豈(あに)中(ちう)日なからんやと
当話(とうわ)の才覚 理不尽(りふじん)にいひこなしけるにぞ。座中 我(が)をおりて
誠に俗(ぞく)にいへる人の口には戸がたてられぬと。おそら〱貴方
の門(かと)口ならんと入興ある一座に侍ひける。発心者(ほつしんじや)罷出。けい
はくらしく笑(わらひ)て扨々 旦那(だんな)様の戸(と)の立(たて)られぬに。門(かど)くちの取合
又珍しうごさります。何と筍斎老 可笑(をかしう)は御ざなひかといふ。い
かにも大 笑(わらひ)をいたすが。腮(あぎと)のかけがねかはづれふかと存。きつかひなと
いふに。座(ざ)中又興ずる。其 鐉(かけかね)の序(ついで)に筍斎にとふ事あり
仮令(たとへ)ば居間(ゐま)広間(ひろま)なんどいふは。さし当(あたり)て聞(きこ)へたる事也。台(だい)所といふ
名はいかにしてつけ来(きたれ)る物ぞ。斎 聞(きゝ)てされば。高(たかき)も賤(いやしき)も夫(おつと)は外(ほか)を
勤(つとめ)。女は内を治(おさむ)る世の式(しき)なり。御台(みだい)所と云心にや。然(しから)ば又 都鄙(とひ)の
家ごとに大和窓(やまとまと)といふ有是も伊子簾(いよすだれ)讃岐円座(さぬきえんざ)などは。其国
より出る名(めい)物なるによりて其名をいふ。窓(まど)をやまとゝ云も是その
国より始(はじめ)てし出したる工(たくみ)にや。左(さ)にては侍らず。文字(もじ)を大和と御心
得ある故。此名の義理(ぎり)きこえぬに侍り。此 窓(まど)は是 家内(かない)に明(あか)りをとらん
為(ため)又は竃(かまど)の煙(けむふり)を出す道なる故。日本窓(やまとまど)と書侍り。ひのもとゝ
唱(となふれ)は煙(けふり)の縁語(ゑんご)もうすく篭(こも)り申といひ出をば。利口(りこう)をかんじて
承(うけたまはり)事かなと讃(ほめ)たつれば。例(れい)のしだり貌(がほ)に髪(ひげ)をなでゝ。まだ此やま
と窓(まど)に。あまた。の 名(な)有。定(さだめ)て御存あるまひ語(かた)り申さん先
雨のふみがふり 霰(あられ)のたねが島 猫(ねこ)の忍路(しのびぢ) 竃(かまど)の雁首(がんくび) 雷(かみなり)の落穴(をとしあな)
風の細炉路(ほそろじ) やね屋が井(ゐ)のもとなどいひちらすを。子細(しさい)はととはれて
当惑(とうわく)し大やねに口のあいた侭(まゝ)に。いひ事は云(いふ)たが。己(をれ)も知(しら)ぬと逃(にげ)て帰る
五 病(やまひ)の判事(はんじ)物は富貴(ふうき)の下 地(ぢ)
武陽(ぶやう)に双(ならび)なき大 有得(うとく)人のもとより。あるはんじ物を作(つくり)て筍斎
へ持せ遣(つかは)し此 病(やまひ)を察(さつ)して薬(くすり)を給(た)べといふ。其 絵図(えづ)をみれば
牛車(うしくるま)に大なる団(うちは)をのせたる所。雪中(せつちう)の荻(おぎ)の村立(むらだち)。社檀(しやだん)に鼓(つゝみ)一 挺(てう)
尾花(をはな)の乱(みだれ)たる気色(けしき)。弁慶(へんけい)が勧進(くわんじん)帳よむ所を書たり頓(やがて)て。片端(かたはし)ゟ
判談(はんだん)し薬を添(そへ)て使(つかひ)を帰す。作者(さくしや)披覧(ひらん)する判じ様(やう)の心 我(わが)趣向(しゆかう)露(つゆ)たがはす
判事(はんじ)物の図絵(づゑ)
くるまに大うちは 雪中(せつちう)【左ルビ「ゆき」】の荻(をぎ) べんけいかくわんじん帳
しやだんのづゝみ お花のみたれ
【参照資料:国会図書館デジタルコレクション>浮世草紙刊行会叢書>第1巻>新竹斎>巻之五-五 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953502/198】
車(くるま)に大 団(うちわ)《割書:つよく風を引たるは|物うし》雪中(せつちう)の荻(をぎ)《割書:あらしさむくて|しはがれ声》
社檀(しやだん)の鼓(つゞみ)《割書:かみのうつは人めに|みえず》尾花の乱(みたれ)《割書:風よりをこるつふりの|ふらつき》
弁慶(べうんけい)が勧進帳(くわんじんちやう)《割書:とめにくき俄(にわか)の|せき》と書て咳(がい)気の薬一 貼(ふく)をそへたり
此人此 頓作(とんさく)に肝(きも)をけし聞及たるより面白(おもしろ)き坊主(ほうず)哉と。此のち
眤(むつましく)語(かたり)て無二の中と成ぬ。ある時筍に云。我 栄花(ゑいぐわ)に遊(あそび)て何わざ
にもふ足(そく)せず。されど初老(しよらう)の今迄。子といふものなし何と是に能
薬は有まじきかととふ。斎(さい)答(こたへ)て能薬こそ候へ。拙者丸といふ有
おこがま敷候へど。某(それがし)めに呵(あやか)り給はゞ子どもにふそくあらじ実(げに)
俗(ぞく)に云。万 宝(ぼう)より子ひとりと。まして我等はありそ海(うみ)の浜(はま)のま
さご計 数(かす)多(おほく)候へどあかぬ物に侍り。是を聞召とさし出す。見れば
つみ立る宝(たから)の蔵(くら)の梯(のぼりはし)ふたおやそひて子どもかす〳〵
と読(よめ)り。何か薬をくるゝと思ひしに。是は只当座の狂言(きやうげん)信仰(しんかう)ら
しくもおもはずなから。御あいさつ満足しぬといひて立ぬ。誠(まこと)に時
を得ては狐(きつね)に虎(とら)の勢(いきほひ)あり。古(いにし)への貧神(ひんじん)今の斎が福力(ふくりき)に。けを
されて。いふ程の事なす程のわさ。幸(さいわひ)ならぬなし。彼(かの)歌(うた)読(よみ)し
砌(みぎり)より其人の内室(ないしつ)懐胎(くわいたい)して。玉(たま)のおのこ子をまうけにけり
悦(よろこひ)の余(あま)りに筍斎は是たゞ人に非(あら)ず。つたへきく泉式部(いづみしきふ)能因(のうゐん)が歌
を読(よみ)て雨(あめ)をふらせしためし夫は上代是は来世それは勅命(ちよくめい)是
は凡言(はんげん)ふしぎにも読(よみ)かなへけるよと俄(にわか)に賞翫(しやうくわん)信仰(しんかう)して。偏(ひとへ)に
わたもちの神のごとくおもふより。此返礼に大きなる屋敷(やしき)に。いゑ
ゐひゞし〱造(つくり)て金筥(きんきよ)の山をつき酒樽(しゆそん)の泉(いづみ)をたゝへて。そこに
住(すま)せ。則(すなはち)一 子(し)のえぼしおやとうやまふ。なにかにつけて。闇(くら)ひこと
なひ月日のくらし出るやら入やらわすれて遠(とを)き古(いにし)へを思ひ出たる時よめる
いづるとも入とも物をおもはねば心にかゝる借銭(しやくせん)もなし
此 栄(さかへ)をおもふに唯(たゞ)くらまに読(よみ)し百のお足の働(はたらき)より万 倍(ばい)して
大福人に成けり。世人 昔(むかし)の□子(かへるこ)をいひ止(やみ)て福録寿(ふくろくじゆ)と異名(ゐめう)する
は正直のかうべ長〱久しかるべきためし諸願成就(しよぐわんしやじう)皆令満(くわいれうまん)
足(ぞく) 敬白(うやまつてまうす)
帝幾三条通油小路東江入
貞享第四歳 西村市郎右衛門
書林
卯 坂上 庄兵衛
芳春吉辰日 彫刻
【白紙】
【裏表紙】
養生七不可
【参照資料:国会図書館デジタルコレクション>日本衛生文庫>第1輯>養生七不可 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935568/7】
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養生七不可
養生七不可 七函下 全
【白紙】
養生七不可
作-日 ̄ノ非 ̄ハ不_レ可恨-悔_一 ̄ニ
きのふは過ぬ仮令少の過(あやまち)にても改めがたきは
勿論なりしかるに一度思はざるの不幸に
逢ひ志(こゝろざし)をうしなふこと出来て己が意に
まかせざることあれば心中に粘着【左ルビ「ねばりつき」】し少時(しばらく)も
忘れ得ずくりかへしはてなく恨み悔る
人ありかくのごときものは気必凝滞【左ルビ「こりとヾこほる」】す
是蒙昧【左ルビ「くらき」】より天寿を損の一つとなるなり
明-日 ̄ノ是 ̄ハ不_レ可_二慮-念_一 ̄フ
明日はしられず大凡成と成らざるは賢愚に
よらず予(あらかしめ)め知るゝ物なり然るに成(な)ることを
なし得ず成らざることを強てなさんと
はかり無益に思ひを労し心中少時も
安からず徒に怏鬱【左ルビ「うつたい」】して日々に快事(こゝろよき)を
しらざる人あり是また蒙昧より天寿を損
るの一つなり此二事を明らめ得ざれば
百病を生るの因となるなり是を明らむる大
要は他なし唯決断にあり
飲 ̄ト与_レ ̄ハ食不_レ可_二過度_一 ̄ス
飲食の二つは其品を賞し其味を楽しむ
為にあらず唯是を以て一身を養ふ為に
飲み食ふものなりされば饑飽【左ルビ「うゑあき」】によりて
気力に強弱を見(あら)はすこと其 著(いちじる)しき正拠
なり如何となれば飲食一度腹中に入て自然
の力を以て是を消化し其度宜しき
時は清潔【左ルビ「きよくきよき」】の血液を生じ能一身を養ひ
種々の妙用を便ず旧物(ふるきもの)は棄り新物は
養ふこと人々自然に受得る所なり《割書:其理後|に説》
若度に過る時は養に剰(あまり)余ありその
余る所の物ぜん〳〵に穢物【左ルビ「けがらはしきもの」】となり終には病を
生るの因【左ルビ「もと」】となる古人も守_レ ̄ハ口如_レ瓶と箴(いましめ)たり
故に飲食は度に応するをよしとす《割書:其度に有余|不足なきを》
《割書:貴といへとも少し不足なるは|益あり有余なるは害あり》
非_レ正物不_レ可_二苟 ̄モ食_一 ̄フ
食は五味の調和を賞すといへども食に対して
品数(しなかず)多く交(まじ)へ食ふべからす椀中にては其品
別なりといへども胃中に下るときは混して
一となり消化して不潔【左ルビ「きよからぬ」】の血液を生す譬へば
五色の間【左ルビ「まじり」】して何の色とも名くべからざるが如し
殊に饐餲(いあい)【左ルビ「すゑあざれ」】せる物魚鳥の肉不鮮【左ルビ「あたらしくなき」】の物最食ふ
べからず是また化して不潔の血液となる共に
病を生るの因となる唯新鮮【左ルビ「あたらしくあざらけき」】にして品数
少く食ふをよしとす
無_レ事時不_レ可_レ服_レ ̄ス薬 ̄ヲ
薬物は効力ある物ゆゑ法にたがふ時は却て害
あるものなりされば古には毒ともいへり然るに
今時の人是をしらず薬だに服すれば能き
事とこヽろえさせることなきに慢(をごり)に薬を服
するは甚しき誤なり医せざれは中医を得と
云ふこともあり大抵の病は薬を服さずとも
自然の力によりて病は平癒するものなり
辺鄙の人は大方の病には薬を服さずして
快復するもの多し譬は飲酒度に過たる
人は発渇【左ルビ「かはき」】頭痛【左ルビ「づつう」】し心中も懊悩(おうのう)【左ルビ「くるしみ」】す故に自ら
吐せんことを欲す終に自ら吐逆し其飲
たるものを吐(はき)尽す如許なれば忽快復す是
其自然のちからを以て治るの証なり然に
其人力足らず吐むと欲して自ら吐事を
得ず如許時は吐薬を与へて是を吐しむ
これにより吐ときは其治すること自然の
吐逆と同じ是薬の効にして薬を服する
の法なり総て病の治するは自然にして
薬は其力の足らざる所を助るものなり
西洋【左ルビ「おらんだ」】の人は自然は体中の一大良医にして
薬は其輔佐【左ルビ「たすけ」】なりとも説りかくあることを
弁へず少の事にも薬を服するは其益
少くして其害多し殊に持薬は意ある
ベきことなり仮初にも腹中に入たる物
は再ひ取去りがたきは勿論なり瑣細(ささい)【左ルビ「わづか」】の
物にても知べし鼠(ねずみ)蝮蛇(まむし)の類ひ人を
損傷すといふは微細なる歯を以て人の
肉を咬み螫(さす)なりしかある時は其毒気血に
従ひて流行し散蔓【左ルビ「ちりひろがり」】し大毒となり動(やゝも)
すれば命を失ふに至る薬も亦然り譬ひ
一丸【左ルビ「ひとつぶ」】一刀圭【左ルビ「ひとさし」】にても効力ある薬を軽卒【左ルビ「かるはづみ」】には
服すべからず恐るべきは此物なり其法に
合はざるときは害あるがゆゑなり
頼_二 ̄テ壮-実_一 ̄ヲ不_レ可_レ過_レ房 ̄ヲ
人の精水は生涯其量【左ルビ「ほど」】の定りたるもには
あらず一気の感動によつて血液中の精
気を分利【左ルビ「わけ」】し一種の霊液となして射し出
せるなり故に生霊たる人物をも生ずかく
あるものを漫に房に入精水を費す時は
一身の精気を減耗【左ルビ「へら」】し生命を損する事
言葉を待ずしてしるべし
勤_二 ̄テ動作_一 ̄ヲ不_レ可_レ好_レ安 ̄ヲ
血液は飲食化して成り一身を周流し
昼夜に止らざる事河水の止らざるが
如し此内より阿蘭陀にてセイニューホクトと名
づくる物を製し出す漢人の気と名づく
るもの是なり《割書:余が解体新書に訳する神経汁亦是なり漢説は|形なきに似蘭説は形あるに似たり其説ところ異と》
《割書:いへども校訂すれば一理なり物理小識に|説ところ略蘭説に近し合せ見るべし》血液は此力を以て順(めぐ)り
気は血液の潤(うるほひ)を以(もつ)て立こと一つなるゝが如し《割書:漆器|に呵》
《割書:すれは露立某子を握れば又露立は|共に其証なり後注と見合すべし》此二物の妙用によつて
生涯を保つ事衆人異事なし然れども
日々に生し日々に増のみにては害ある事故
天より主(つかさど)る物を具へ内には臓腑在て是を
分利し其色を変化し外には九竅【左ルビ「こヽのつのあな」】をまう
けて其物を泄(もら)す上より出るものは痰【左ルビ「たん」】唾【左ルビ「つは」】涕【左ルビ「はな」】
涙【左ルビ「なみた」】の類下より出る物は小便其糟粕【左ルビ「かす」】は大便とな
して棄去り其精の気となる物は鼻口より
天の大気を吸入【左ルビ「ひくいき」】し呼【左ルビ「つくいき」】に従て此物を兼て鼻口
より泄す其他は一身腠理より霧の如くに
泄(も)れ去る《割書:腠理は即汗孔なり是より泄れ出るものを西洋にて|ヲイトワツセミングと名づく常は容易に見えがたき物なり》
《割書:冬時陰気行れ鼻口の気見え易き頃日に映する時は遊糸(いとゆふ)の|如く影さすもの是なり皮膚に潤あるは此物を以てなり》如許日々
程よく泄れ去る人は病あることなし是血液
清潔にして能順行し気も閉塞せさるか故
なりかくある人にても動作を悪み安逸【左ルビ「やすき」】を好
む時は血液の清きものも次第に不潔となり
気も是によつて閉塞【左ルビ「とぢ」】し《割書:動作せざれば血液流行あし|くなるの証は仮如は久坐久臥》
《割書:すれば其床に着たる下の方己が体の重きに圧れて気血の流行自由|ならず故に其所麻痺【左ルビ「しびれ」】す然れどもこれにも遅速あり楽事には遅く
《割書:患事には速し是気の閉と不閉との分れなり長病人の|破㬷(とこすれ)を生ずるは其甚にして血液の腐敗するなり》百病を生
ずる因となるなり《割書:雨水は茶を煮るに良なるものなり是を貯ふる法|は雨の下る時壺にうけて是を貯へ口を封し坐右に置》
《割書:昼夜其傍を往来する時其壺を振動かせは壺中の水数日をへて損ぜす清|潔なること新に下るものゝ如し若振動かさゞれば腐て濁を生じ終には》
《割書:垢を生し虫も生ず人の動作を悪み|血液不潔となること此理にちかし》
夫人の生れながらにして強弱あるは草木の
同じ時節に種をくだし同じやうに培ひ同じ
畠に生じて肥痩あるが如し能生長すると能
生長せざるは其種によるなるべし然れども
それ相応に花咲実のり秋に至りて枯る所は
同じことなり是其物の天年の終れるなり
若風雨に逢て吹倒され或は人の為に傷られ
時ならずして枯ることあるは其天年を終ら
ざるなり人亦然り先天【左ルビ「たいないより」】の毒あると毒なきと
によりて強弱あるなり毒ある物は生れながら
弱く病あるものなり《割書:此毒より病ものは|治しがたし》如許者も保
養能ときは受得し天寿は保つものなりまた
生れながら強く無病なる者も後天【左ルビ「うまれてのち」】の毒【左ルビ「とく」】とて
保養あしければ病を生じ《割書:此毒より病者は保養を能し|薬を用れば治するものなり》
天年を保ち得ず半途にて死る者なり是草
木の風雨に逢て時ならずして枯るに同じ愚老
生れ得たる病身にて万事人なみならずされ
ど幸に医家に生れ少しは養生の道をも
弁へ幼より強(しひ)【左ルビ「むり」】たる事をなさず其益によりてや
此年月を無事に経て孫子も生し今日にて
は人に健なりと羨(うらやま)るゝほどなり然れど生れ得
し病身の治したるにはあらず元より我身のこと
なり旦医者のことなれば脈をも診ひ腹をも探り
て見るに此所宜くなりしと思ふ所もなしはや
来る春は古希の年に成事なれば其しるしには
目歯の少しあしきまでなり其外は不自由の所も
覚えず健なりと誉らるゝも虚誉【左ルビ「うそぼめ」】にはあるまじ
愚老より年若き朋友どもの丈夫頼に身を
持なせし者は皆千古の人となり今は此世に
在者は少し前に譬へし草木の生長は
あしけれど同じやうに花咲実のり枯る時節
までは持つべきといへるは愚老が類ひなる
べきか総て血液の不潔なるもの次第よくもれ
去さる時は其余れるもの便よき所に留滞【左ルビ「とヾこほり」】し
積り〳〵て苛烈【左ルビ「からき」】の悪液に変し其極に至りては
楊梅結毒などの多年癒ざる瘡口より流れ
出る悪水の如く臭気は鼻をつき味は辛
烈にして胆礜(たんぱん)の性にひとし故に筋肉を腐蝕【左ルビ「くさらし」】し
堅硬なる骨を朽腐【左ルビ「くちくさらす」】す是によつて鼻柱も
落頭骨も砕(くだ)く梅毒のみならず他の病もまた
然あるなりかく恐怖すべき悪液を貯へながら
も多年生命を保つものは幸に其液一所に
聚り凝(こる)がゆゑなり若悪液周身に散蔓するか
又は生命を主る要所を侵し傷る時は忽に
死するものなり其悪液の一所に聚り瘡となる
ものは前に譬へし草木の幹(みき)ばかり半朽て
枝葉に枯ざる所有が如し是其根へ腐のいら
ざればなり又気の変により閉塞して病を
なすといふは病 皮(かは)の裏にあることなれば容
易に説示しがたし仮令は少しく心下の痞と
腹の微満【左ルビ「すこしはる」】する類は多くは気の閉塞【左ルビ「とぢふさぐ」】するによる
なり故に噯気(あいき)【左ルビ「をくび」】すればもれ放屁(ほうび)すればもるこの
滞気の泄れ去により緩りて快を覚ゆる
なり又其他留飲に似たる症にもあり是も
腸中に気の聚る所ありて其聚る所 胞脹(ほうちやう)【左ルビ「ふくれはり」】し他の
所を推し迫む【左ルビ「せばまる」】故に拘急【左ルビ「ひきつる」】する所もあるものなり
是らによつて腸の位置或は片位し或は上下し少
しく其本位にたがふ《割書:腸は博多(はかた)ごまに糸を巻たるやうに順能ものには|あらず上下左右種々に迂廻曲折したる【左ルビ「めぐり〳〵まがりをる」】ものなり》
《割書:大体魚鳥の|腸に似たり》故に能く按腹【左ルビ「はらをもむ」】すれば其本位に復しその
気の聚るもの散(さん)ず此時は雷鳴し或は水の如くに
鳴りて治す又鍼して治するも同し其鍼眼【左ルビ「はりくち」】より微
の気もれて絞腸【左ルビ「よぢれる」】の本位に復する故なり総て気
の閉塞も甚しき物は生命を損ずる事悪液の
害をなすに異事なし《割書:凡気といふものは雨を帯たる風の|如し其力弱き時は害少しその》
《割書:暴烈なるに至りては強力にして家を倒し垣をも倒す又童子の持遊びに|紙鉄炮と言ふ物あり是は細き竹の後先の節を去り其筒になりたる内へ》
《割書:半より少し先のかたへ嚙たる紙を丸【左ルビ「たま」】に作り細き棒にて推送り又別に一丸を|作りて同じやうに推やる時は其間に包れたる空気次第におし迫められ勢(いきほ)ひ》
《割書:強くなり終には先の丸を激発す【左ルビ「はぢきでる」】其音恰も二三分の|鉄炮の如し気の閉塞して勢ひを増こと大凡是に似たり》蓋風寒暑湿
の類ひ婦人女子富家に生れし者は室居の
手当衣服の備へ如何にも防くへき道あるへし
男子は野外【左ルビ「のみち」】をも往来せざれば立がたき身なれ
ば貴人といふとも天より行るゝの気なれば防く
べき道なきことなり愚老年来外邪に傷られ
し人を見るに血液清潔のものは多く軽症にして
治し易し元より不潔の血液を貯ヘし人は
邪気是に相混じて重症となる所謂邪気乗
_レ虚入といふは此類ひなるべし如許の所を知て
常に血液の不潔とならざるやうに意を用ゆ
べきこと也大凡大病を患る人 快復(くはいふく)の後は多く
病前に比すれば形体壮にして無病なりと
云ふものなり是は如何なる人にても大病中は
飲食をつゝしみ保養を宗とする故なりその
元より積貯へし不潔の血液病中にもるべき
所より泄尽新に生ずる清潔の血液の能養ふ
が故なり是等を以て血液の成立を明むべし又
たま〳〵右説く所の旨に違ひ長命せし人も
あり中島官兵衛《割書:隠居して後寛|亭といへり》といへる人は日々大酒
せしが八十五歳にて死せり西依儀兵衛《割書:成斎先|生といへり》と
云ふ儒生は大食にして美味を嗜し人なりし
が九十八歳にて命終れり三井長意といへる
医生は七十四歳にて男子を生じ其子十九才の
時家を譲り四年隠居して死せり《割書:此長意は直に逢し|人にはあらず其家》
《割書:を継し子を宇右衛門といへり此宇右衛門には親しかりし|ゆゑ其平生を聞り其宇右衛門も七十歳斗にて男子出生有し》悦友太夫《割書:隠居|して》
《割書:徳寿斎|といへり》といふ人ありき生得才気もありしが如何なる
不幸にや其身至て貧しく官途【左ルビ「ほうかう」】の間にも思はざる
事出来て家禄をも甚しく減ぜられ夫のみなら
ず其子どもの事によりて隠居して後も罪かう
ふりしことありたり他の目よりもかくては命
続くまじなど憐しほどなりしが八十五歳にて
死せり本橋岡右衛門といへるははか〴〵しき身にも
あらすしかも微禄【左ルビ「しようろく」】の者にて漸々夫婦のみくらし
子といふものもなく楽しきことも見えざりしか
滞りなく六十七年の勤仕を経九十の年士分に加へ
られ九十九歳にてちかき比死せりかくさま〴〵に替り
たる人々も皆長命はなしたり何れも同藩【左ルビ「おなじやしき」】の士にて
朝暮出会其平生は知り尽せり悉く心まめにして
動作を嫌はず事に臨て決断よく成と不成を能
弁へしものどもなり然れは稟受【左ルビ「むまれつき」】さへ強き人ならば
少し飲食は度に過ても動作を能し決断よければ
気も滞らず血液も不潔にならず長命はなるもの
とみえたり是を以て見る時は此二事生を養ふ
所の第一なること明らかなり他所にても長寿の
者を見しに多くは此類なりされども其平生を
委くしらざれは証にはなしがたし故に此には挙
ず若生得虚弱の者此所を弁へず彼は大酒せし
かど何か年の寿を保ち是は過食せしかども
多病にはなかりしと己が生得を弁へず謾りに
飲食を過し旦これに加ゆるに無益の事に
思を労する人々は如何 ̄ンして天寿を終ることを得む
是鄙き譬にいへる鵜の真似する鴉の類ひなるべし
又人間一生は飲食の為に身を持つとて明日病
ことを思慮もせず過飲過食する輩は五十年の
苦労せんより一日の栄花勝れりと眼前刑にあふ
は知りながら盗するもの共と品こそかはれ其情
は相似たるべしかゝる人あらむには迚も此事
語るべきことにはあらず
今年享和改元八月五日余有卦といふもの
に入よしなり男女の孫子ども不文字
つきたるもの七つを以て余を祝すと也
余また若年より意に注し事と漢土
阿蘭陀諸名家の医書中より養生の
大要たるべき一二を取り舐犢の愛余り
彼らが命長かれと其うけに入ものゝ為に
不文字七つを以て此七事をつくり同しむ
祝し報ゆるや是は医家たる人は能知れる
所なれと其輩にあらざる者はしら
ざるところもあるべしと記し出したり
其内象の主用と病患伝変の理とは
知りて益なければ皆此に束ず唯しり易く
解し易からむことを要とし俗談を以て
述著せり総て事のくだ〳〵しきは所謂
老婆の親切なり又一々写し与へむは
採筆に懶し物のついでなれば親友の
子弟にも頒んとしせどもそれは猶更に
心苦し因て梓に刻し家に蔵して
其贈らむと思ふ人々の数に足らしむる
まてなり
小詩僊堂主翁著
附録
我杉田の師翁ことし仲秋の頃もとづき給ふ事有
て七不可(しちふか)といふ小冊を綴(つヾ)り其児孫及ひ小子が輩に
授(さづ)け給ひぬこれみな世の教戒【左ルビ「おしへいましめ」】となるの要訓にして
われ人此七戒を持(たも)ち勤(つと)めば常に心の守となり
種々の病魔(びやうま)を免(のが)れ百年(もゝとせ)の寿齢を保(たも)つ利益(りやく)
を得むこと深かるべし余もまた人家 疾病(しつへい)
あるごとに三 厄(やく)あることを常に歎(なげ)き憂(うれう)る事
あり既に病家三不 治(ち)と云小冊を筆し置たり
世を憂るの心においては聊(いさヽ)か師の七 戒(かい)の深情(しんじやう)に
似たること有 ̄リよりて其 厚意(かうい)に継(つぎ)共に是を同志
に伝へむ事を冀(こいねが)ふ師翁速に許(ゆる)し給ふに説ひ
頓(やが)て其 旧稿(きうかう)より大略を抄出して其後(そのしりへ)に附す
是師翁の忠誠(ちうせい)に興(くみ)し彼(かれ)救(すく)ひ我 助(たすく)る同袍(どうほう)の人の
恩徳に報施(ほうし)せむとするの微衷(びちう)なり才 短(みしか)く位賤
しき身として斯(かゝ)るくた〳〵しき痴言(ちげん)を述(のべ)世の
笑を取るをも省(かへりみ)ざるは我 医門(いもん)の古き文(ふみ)には病
危(あやう)ふして後 薬(くすり)して功験【左ルビ「しるし」】を得るは到れるの
術にあらずたゞ初より病(やま)しめざるやうに教(をしう)るこそ誠
の良医なるべけれと見えたれば拙き筆におそれ
恐るゝ所なれども我常々見聞しことどもを
書つヾれるまでなり見る人取捨してこれを
択ばゝ一つの助けともなりなむかといふ其 年(とし)
の初冬徒弟大槻【左ルビ「おほつき」】茂質謹で記す
賤者 ̄ノ病不_レ尽_レ治 ̄ヲ
貧賤は人の悪(にく)む所といへとも人々天より受得(うけえ)たる
所なれは逃(のが)れても逃れざる所なりされば貧賤に
生れし人は朝夕の飲食四時の衣服も其程々に合ふ
ことを得ずまして居宅の陜隘【左ルビ「てせま」】猥雑【左ルビ「むさくしき」】なるは尤憐む
べしそれが中に病(やま)る事あれば行届ざる事のみ
ありて貧く其天年を終(をは)る事を得ざる者多し
然れども軽賤(けいせん)なる者は自然の稟受(ひんじゅ)強実(きやうじつ)にして
常に身体(しんたい)の労動(らうどう)よき故にや少の病なれば其自然の
力にておのづから癒(いゆ)る事もあり是賤しき身に
備りし天幸ともいふべきやかくはあれども人々に生れ
得し強弱と受たる病の浅深あれば尽(こと〴〵)く此(これ)には例し
難し先其第一は医者らしき医者の薬を心のまゝに
服する事なるは殊にまた幼きより何事も聞たる
事も学びたる事もなかれば天より稟得(うけえ)しまゝに
生長し万のことを軽忽にのみ心得命にもかゝるべき
病に臨(のそ)みても等閑(なほさり)事(こと)のやうに思ひそこらあたりの売
薬妙薬を買ひ求め其功能をもよく糾(たヾ)さずみたりに
是を用ひ効(しるし)なければ忽に惑(まど)ひ易く濫(みた)りに彼是を服し
又其間には同情の人々寄集り此病には何を食すれば
治し彼病には何を飲すればよろしと得も知れぬもの
はかり飲み食ひ殊に貧き者は多くは賤く賤きものは
多くは愚(おろか)なる故彼同類なる人のいふことをば深く信じ心ある
人と医者の云事は却(かへつ)て等閑に聞なして信ぜさる
ものなり是教諭の道さへ意のことくならざる所なり又
少しも病気の模様うと〳〵しければ神 ̄ミ仏 ̄ケの
祟(たヽり)となし或(あるひ)は物(もの)の怪(け)のなすわさなりと籤(みくし)を伺ひ
卜(うらかた)に問ひ巫【左ルビ「みこかんなき」】を信して薬をおろそかにし治療の度を
失ひ軽きは重きに至り思きは生命を失ふに至る
かくのごとき貧家の病者は卑 賤(せん)愚陋(くらう)なれはとて分別
有(ある)人の教諭(けうゆ)に従ひ能此等の所を弁(わきま)へて命(いのち)は大切
なる物と心得かならず誠ある医者(いしや)に託(たく)すべし諸病
ともに等閑にして重きに至れば生命にも係(か)ること
なれば仮初(かりそめ)に取扱(とりあつか)ふ事なかれ
豪家 ̄ノ病不_レ順_レ ̄ニセ治 ̄ヲ
家 富(とみ)豊(ゆたか)なる人は金銀利倍の事にはさとく他事
には多くはうときものなりこれ農工商のみにもあら
す士君子の間にある人にも間々有ものなりすべて
富有(うとく)のものは勢は有なから慮(おもんはかり)浅く惑(まと)ひは却て深き
もの多し是らの類ひ幼きより何事も意(こゝろ)のまゝに為(なし)
来りしかもする事なす事廻りよく少しも労苦といふ
事を知らざる身に若も病受るゝとある時は平生の
ことゝ同し様に心得其病の浅深も弁へず卒(にはか)に平(へい)
愈(ゆ)なるものと思ひ頻(しき)りに治を急き衆医(しうい)を招きて
治療を乞ひあしたゆふべに薬を転(てん)じさせること
なきに人参犀角等を用ひ貴重の薬は如何
様の症にても効あるものと心得勢ひに任せて
服用しそれも欲ふかく用るに度を過し此あや
まちにより知れたる症も朝夕に進退する故其節
度を失(うしな)ひ其治を誤(あやま)る者少からす是全く彼を信する
かとすれは是を信じ初を疑ひ後に惑ふによる総て
富豪(ふがう)の家の悉(こと〴〵)く愚(おろか)なるへきにはあらねとも其
家へ出入する眷属(けんぞく)あまたある物故それらの類寄り
集り一坐のあいそうに阿(おもね)り諂(へつら)ひを第一とし何の
弁へもなく色々のことをいひつのり下地の素(しろう)人を迷(まよ)は
すること多し殊に飲食の手当は其家にて届(とヽ)き
過る程なるに又所々より病気見舞と唱(とな)へおくり
来る物多く心に好ぬものまでも進め与へ自らも貪(むさほ)り
食ひそれが為に苦しみを加(くは)ふる者もありこれらの類ひ
彼も益なく是も益なく終に軽症重症となすに
至るかゝる時に及むては家人も亦同し様に疑惑(ぎわく)し
其決を巫祝売卜(ふしゆくはいほく)に託(たく)し生命を失ふ者 挙(あけ)て計(かそ)へ
がたしこれ勢ひあるの妨(さまたげ)にして疑惑(きわく)より誤(あやま)りを
生ずる所なり宜く心を用ゆへき事にあらすや又
都家富豪の人には間々書物 数寄(すき)とて生物識(なまものしり)
の輩も有り中には方書の片端(かたはし)をも読(よみ)若(もし)その
人の家に病人ある時は治を託する医者の云事
をも信ぜずひそかに私意を加へて病の手伝
なす事あり所謂書を以て馬を御するの類これ
無益の第一にして却て害を招くの階なり初より
学ひ老にい至りても熟せさるは医者の業(げふ)なり千
態万状の病変 毎事(ことこと)に手がけ心目に慣習し
自ら数人を療治せされば其機会【左ルビ「ぐあひ」】は得かたき物なり
中々 片手業(かたてわさ)になることゝ心得害を招くは不学の
人より却て大なる愚といふへき也斯る家の病者は
軽きも必ず重きに至る物也諸症ともに漫(みた)りに薬を
投することは仮初事にならず医の業は生命に
係る所なれば自ら求めてかならず其大事を誤る
ことなかるへし富有の家いよ〳〵深く心を用ひ
思慮ある人に信実にこれを謀(はか)りて医治を決し
みだりなる雑説を執用ひず私意をは猶更に加ふる
事なく常を慎み変を守り功者の一医家に
委任【左ルビ「うちまかせ」】し其【左ルビ「その」】程々に病患はやく回復に至るやうに
なすべき事なり富家は万つ事足る身なれば
此所に心さへつきなばなしよきことなるへし
尊貴 ̄ノ病不_レ決_レ治 ̄ヲ
貴人は天の寵霊(ちようれい)によりて生れ給ふ御身なれば
羨むへきの第一なり然れとも死生は天にある
事なれば貴人といへども逃れ給はざるはこの道なり
其病あるに至りては却て不幸にして非命の死を
得給ふ事もあること也是尊貴におはしまして
止事を得ざる処あり如何となれば先 胎(たい)内より
其養ひ天 授(じゆ)自然にたかひ給ふこと多し《割書:賤しき者の婦は|妊める事あり》
《割書:ても其日のいとなみにいとまなく常に何の思慮もなく身のおもさをも忘れ|たち居も常とかはらず其功により気血のめくり宜く産することもいと易し》
《割書:是自然の道にかなへばなり貴婦人は是と背きて着帯|よりは色々の仕つけしならしありて常とかはれること多し》既に出生し
給ひて後も亦(また)然(しか)り添乳(そいち)抱寝(たきね)等の事なく産母の乳
汁は参らせず乳(う)母のちゝはかりを用ひそれも御 控(ひかへ)乳母
といふものを抱(かゝ)へおき折々に参らせ是らも彼しならし
有て食事(しよくじ)居動(きよたう)も自由ならずこれにより其乳ながく
保たず不日にあかりやすくかくあれば引かへ〳〵参らすにより
乳汁も程よき養とならす又少しにても啼声を発し
給ふ事を忌(い) ̄み唯(たヽ)昼夜に抱(たき)かゝへ機嫌よきを宜き事
となし参すは何事ぞや《割書:其 這(はい)習ひ立(たち)習ひ給ふことも平人よりは遅し是既に|その本づく所ありて止事を得ざるの所よりなり》
かくあるゆゑに其生長し給ひて後も糵(もやし)作(つく)りて地に植
付ぬやうなる養ひ故 薄弱(はくしやく)にして強実にましまさゝる
はことわりなり是ら皆 幼(いとけなき)より育(そだて)まゐらする御乳やめの
とのるい其外附添奉る人ゞの常にあつまりゐて何の
弁もなく無益に大事〳〵を主張(しゆちやう)せしの弊(ついへ)なり多(おほく)は
丈夫をも婦女をも同し様に育(そたて)まゐらすがちなり又大人
となり給ひては臣下あまた召仕ひ給ふ身なれば何一つ
備はらさる事なし自在にのみ成り立せ給ふにより起居
衣食はいふに及はす臣僕 妻妾(せいしやう)手足の労を助け参らすに
より自然と身の労動も少(すくな)く心の苦労は露(つゆ)ばかりも
知り給はず万事足り給ふ事故却て種々の病因を
醸(かも)し給ふ事おほし又其老少の差別なく病あらせ
給ふに至りては常に持薬(ちやく)といふものを参らせおき腹
内に薬気 馴(なれ)給ふにより事あるに臨(のぞ)むでも其薬効
賤人よりは薄きやうなり稍(やゝ)重症に至り給ふ時は猶
更にして例の大事〳〵を主張し其薬の転すへき
時節にも転せすいたつらに衆医を集めて
衆説を聞彼をも是をも危(あやふ)み懼(おそ)れ無益の事に
時を移し緩急の度を失ひ給ふこと少からず漸く
其評議定り其治を託し給ふに至りても其医者
衆医の聞(きヽ)を憚(はヾ)り十分に此薬的当と思へども古人
の論説に正しく合ざれば大事大切に惑(まよ)ひ意を決(けつ)
して調進せず況や出所のなき薬は畏縮(いしゆく)して猶以て
進めまゐらせず或は折角 任(まか)せし他医ありても其
薬をも手医師の内評定まち〳〵にて速に参ら
する事おくれ所謂小田原評定のみにて事を尽(つく)
さすつまる所は重症となり給ひ終に身まかり給ふ
事多しこれを要するにすへて貴人の病は己(おのれ)を
尽して残(のこ)すことなしといふは稀にして無 益(やく)の鄭重(ていちやう)【左ルビ「ねんいれていねい」】
に過毎時かの己(おのれ)をつくさず残(のこ)す事あるよりなす方なり
将相豈異種あらんや生れて声を同し長して
俗を異にするまでなり徳行をこそ教へ参らすべ
けれ其身体を養ひ参らすには常人に別(べつ)なる
事はあるべからすこれ前にいふ彼(かの)仕ならしより
其かた〳〵の必ず数寄(すき)好(この)み給はさるの所も無拠な
く給ふ事あるべけれども是みな自然に逆(さか)ふの事
なればつとめて此所に心を用ひ其本 ̄トを思慮(しりよ)し
給はヾ此 弊(ついへ)は改(あらたま)るべし妊娠(にんしん)中より生れ給ふの後
疾病(しつへい)に罹(かヽ)り給ふに至るまでも無益の鄭重(ていちやう)に
過(すき)給はざるやうにありたき御事なり
右三条は初にいへる既に予が撰へる三不治の
抄出にて本編には其詳細を録示(ろくし)せりこゝには
其 概略(かいりやく)を挙(あぐ)その大要を約(やく)すれば貧賤の病
は軽忽なるに時宜を怠(おこた)り富家の病は疑惑(ぎわく)に
よりて治を誤り貴人の病は鄭重(ていちやう)に過るに
失す此三つの家々常にこれを弁(わきま)へ此心を斟酌(しんしやく)
しなば必す夭横(やうわう)の死(し)は免(まぬか)るべし凡病家は素(しろ)
人(うと)ゆえ病の筋を知らざるはもとよりなり然れ共
受得し病の浅きと深きは自らしらるへし又
衣服(いふく)居所の手当も分限相応に寒温 宜(よろしき)に適(かな)ふ
やうにすへし食物は淡(あは)くして軽(かろ)き物はよろしく
甘美(うまく)して重きものは害ありてあしゝといふは
これ又勿論の事なりされど淡きものにも毒(どく)
あり重き物にも害なき物もあり万の事すべ
て皆其 任(まか)する医に叮嚀(ていねい)に問尋ねその指揮(さしつ)
する所を守り私を加(く)へざるを専らとすべし
これ医を知らざる病家の一大要法なり
【白紙】
【白紙】
【裏表紙】
【帙表紙 題箋】
砦草【艸】
【参照資料 国会図書館デジタルコレクション>日本衛生文庫>第1輯>砦草 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935568/162】
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【帙】
【背】
砦艸 一冊
【表紙 題箋】
砦艸
【表紙 題箋】
《割書:戦陣|奇法》砦草【艸】 全
【資料整理ラベル】
富士川■
ト
46
【右丁】
水戸南陽原先生著 《割書:千里|必究》
砦草【艸】 全
とりて草【艸】は南陽先生のふかくひめ置けるを交り深き
人を媒にして厚くもとむるにかりそめのことくさ
なれはよそのはゝかりありとていなみ侍るをせちに乞い
得て同し志の人の助にせんこと文化八年の春桜木に
ちりはめぬ 東都 靖共堂梓
【左丁】
をさまれる世に乱をわすれすや
まひなきにやしなひをおもふは
不虞に備へ急にそのふるのことに
して其致を一にすといふなるへし
水藩の医原玄與はとしころわか
家にむつひて常に寒温をとふ
ひとひ冊子を袖にして来りいふを
のれか子なるものは業をことにしか
【右丁】
たしけなくものゝふのかすにめし
くはへらる弓矢とる身のつかへは遠き
境にもおもむくならひなり彼かた
めにとてより〳〵書あつめをける
ところなるをこたひ人〳〵のすゝめ
により梓にのほせて仁のはしく
れを世に施さんとすあはれこれかは
しめにものしてよと請ふやかて
【左丁】
ひらきみるにもはら陣中備ゑ
の良方をしるし又その用意を
示したりこれを名つけて砦く
さとそいふなるいまやよつのうみ
浪たゝぬ御代にしあれはその
草のおふへきところしもあらねと
治に乱をわすれさるこゝろはへこ
そかの国を愈といひけんくすゝに
【右丁】
も似かよひぬめれとめておもふ
まゝに辞へきをもわすれてこれ
かはしめに愚毫をはする
ことゝはなりぬ
文化八《割書:辛| 未》のとし二月備中守篇
【左丁】
砦草序 【蔵書印 富士川家藏本】
行軍之才際不可無薬
書矣故明季兵書或
有男立医薬一門如
【右丁】
我邦山鹿氏勇備集亦
収一溪先生雲陣夜話
以倣其体例然以予観
之皆似不便于用焉
【左丁】
水藩原子柔遴選倉
猝極救之諸方葺為一
編以為戦陣之備蓋其
薬顓採単捷而可奏効
【右丁】
於逡巡咄嗟之間者其用心
也切矣安可無伝乎及
其大夫中山公請予言書
諸簡端
【左丁】
文化庚午歳中 秋
前一日
丹波元簡廉夫
【上部落款】
丹波
元簡
【下部落款】
廉
夫
【左頁】
古人の薬をされは中醫を
得といひ欧陽修【脩ヵ】か習し【知ヵ】にて
疾をいやせしたくひはみな内症
のことなるへし外症はいかにも
薬をさることをえしといへるは
弘賢か常のことくさなりそれ
も太平の代には萬たらはぬ
ことなけれはことかくことはあら
しもしはからさるに事あり
て千さとのほかにうての使な
といふこともありなんにはかなら
す人ことにその用意あらてや
は有へきされはいにしへのも
のゝふはくすしの道をも心かけ
方書をもたくはへしそかし
しかるに水戸とのゝ侍醫原
氏のとりて艸といへる冊子を
大内亥三をなかたちとして
をこせてこれに序かきてそ
へよとこはるとりあへすよ
みて見つれは弘賢か年比
こゝろにかゝりしおもむきを
のこるくまなくしるされたれは
いとよろこはしくて辞に
もをよはす文化四とせ文月
はしめの五日秋のはつかせ窓
にをとつるゝあした筆を
とりぬ
【左頁】
予か祖先は甲州にて聞えある人の後なれと
も東国に流落してありけるに幸に
本藩にて士伍の列に加る事を得たり予
か大父君は支属なるを以て医を業とし終り
たまへり大人も其業を続給ひしか良公の
時めされて医官に列し後には録も加へ
賜りて近侍せられし予も亦その遺業
をまもり恩遇の余り先人の録よりもまし
給はりことには子孫をして医業をすてゝ
祖先弓馬の余業を継しめらるゝことをもゆ
るさしめられし是等の特恩感激の深き
言詞にのへ尽しかたし子々孫々に至り
ても此君恩殊遇をわするゝ事なく忠
誠をもて公に奉せんこと予が望むところ
なり予か治療の事は門人を撰て伝るのよ【みヵ】
にあらす数部の著述を梓に彫て世
にひろく行ふことに子孫に伝ふへきにも
あらす俗人の医こゝろ有はあしきもの
なり将棊の駒のきゝを覚たれはとて
勝へきにあらす桂馬の両手王手飛車
手は其法なれとよはき人の此法をほとこす
ことのならさるに斉しなまなか医法を
覚て害になること少なからす病は医にま
かするを良とす上工と下工を常に弁へ
軽病とて下工に委へからす猶又陣中に
は必医師の備あるものなれは是に託す
るをよろしとす然あれと俄に軍をわ
かち砦なんとに馳まいる時医の闕ぬる事
有ましきにもあらす其時の手当にせんた
めに聞置ける事や仕覚ぬることをわつ
かに記しぬ名なきもいかゝとて砦くさと
題せり且は漁猟野遊にもかねてこゝ
ろ得へきものなり外人に示さんとの事
にはあらす
文化改元甲子春三月原玄與昌克記
かくひめをき【秘め置き】ぬるを書肆文五郎かもと
めにまかせて世にをこなふことをゆるし
ぬおなしき七年秋のはしめなり
【左頁】
砦草目録
飲食(いんしよく) 防禦(ばうぎよ)
毒烟(どくえん) 野陣(のぢん)
水脈(すいみやく)【脉】 たくはへ
解毒丸(げどくぐわん) 打撲(だほく)
馬病(むまのやまひ) 息合(いきあひ)
犬喰(いぬくひ) 蛇傷(じやしよう)
気絶(きぜつ) 虫歯(むしば)
脚気(かつけ) 踏抜(ふみぬき)
骨硬(こつかう) とけぬき
備急円(びきうえん) 金瘡(きんさう)
力帯(ちからおび) 眩暈(げんうん)
舟車酔(しうしやゑひ) 食傷(しよくしよう)
血留(ちとめ) 広東人参(かんとうにんじん)
まめ やけと
防寒(はうかん) 溺死(できし)
凍死(とうし) 魘死(えんし)
驚死(きようし) 癰(よう)
瘧(ぎやく) 淋(りん)
小瘡(せうさう) 薬湯(くすりゆ)
脱肛(だつかう) 臁瘡(れんさう)
毒刺(どくし) 水あたり
魚毒(ぎよどく) 突目(つきめ)
救飢(きうき)
【左頁】
砦草
飲食【上部欄外】
【本文】
事(こと)ある時の人 気(き)は勢(いきほ)ひ立て盛壮(せいさう)の客気(かくき)はや
りなんすべて大事の時に臨(のぞ)みては其身を慎(つゝし)み
養(やしな)ふ事第一の忠(ちう)とすべし其身 病(やまひ)あるときは
いかに心ははやるとも矢(や)玉(たま)のねらひは更(さら)なり
精神(せいしん)勝(すぐ)れざれは思慮(しりよ)もつねに異(こと)なるべし
是を不忠不心 懸(かけ)の士(し)といふへし飲食(いんしよく)衣服(いふく)常(つね)
よりも心を用ゆべし柔弱(じうじやく)に見えん事を
忌(いみ)て軽々敷(かる〳〵しく)すべからす古人の手配(てくばり)を考(かんがふ)るに
皆(みな)此所にこそあるなれその心を用ひよと云
は美味(びみ)を食(しよく)し美服(びふく)を飾(かざ)るの事にはあらず
寒暑(かんしよ)の肌(はだへ)を堪(たふ)るほどの衣(きぬ)をもちゆべし
寒(さむ)きなど厭(いとふ)べきやなんどゝ云(いふ)べからす又矢玉
にかけたる鳥獣(とりけ「も」の)の肉(にく)なんどを生(なま)ながらくらひ
樽(たる)を傾(かたむ)け冷酒(れいしゆ)を飲(のみ)たらんはさも剛強(がうきよう)には見
えんなれと志(こゝろざし)ある人の行(おこな)ひにはあらず急卒(きうそつ)の
病(やまひ)は食傷(しよくしよう)におこるものなれは遠征(えんせい)旅行(りよかう)には常に
心を用て不 熟(じゆく)の物を食(くら)ふべからず能(よく)煮(に)たる
を食(くら)ふべし覚束(おぼつか)なくは人に勧(すゝ)めらるゝとも食
べからすこれは臆病(おくびよう)といふにはあらず聖人(せいじん)
のつねに慎(つゝし)み給ふ事はきりめ正(たゞ)しからざる時
ならざるなど論語(ろんご)にくはしく見えたり塩(しほ)は
諸毒(しよどく)を解(げ)すものなれは野菜(やさい)に塩(しほ)を和(くは)せざるは
食(くら)ふべかず渇(かつ)したるとも止水(たまりみづ)をのむべからず
常(つね)に用ひざる井(ゐど)の水を飲(のむ)べからず陣取(ぢんとり)たる所に
古井あらば汲尽(くみつく)して新水(しんすい)を用ゆへし汲(くみ)かへる
時 蝋燭(らうそく)をともし井中に下(くだ)してみるに消(きゆ)るは毒(どく)
あり新(しん)水を外より投(なげ)入て欝気(うつき)を散(さん)じ又火を
下して試(こゝろ)むべし火の消(きえ)ざるはよし古井に入て
卒(そつ)死せるを度々(たび〳〵)見聞(みきゝ)せり流水(りうすい)は皆(みな)用べしと
いへども毒虫(どくちう)毒草(どくさう)或(あるひ)は砒石(ひせき)など源(みなもと)に在(ある)は水に
も毒(どく)あること古よりの戒(いましめ)也あるひは茸狩(たけがり)にゆき
野原(のはら)にて清水(しみづ)溜(たまり)たるを見ていかにも潔([い]さぎよ)ければ
飲(のみ)て帰(かへ)りぬると其(その)夜(よ)より腹痛(ふくつう)はげしく膓癰(しようえう)を
病(やみ)たりき是(これ)は毒(とく)の緩(ゆるむ)なる也 天水(てんすい)おけの水も止(たまり)
水(みづ)と同理(どうり)なり夏日 炎天(えんてん)に水を桶(おけ)に入てあた
ため湯(ゆ)になりたるに浴(ゆあみ)すべからず俄(にはか)に中暑(ちうしよ)
するものなり況(いは)んや呑(のみ)たらんはます〳〵毒(どく)ある
べし但(たゞ)し天日にあてゝあたゝめたるうへを火にわ
かし直(なを)せば浴(ゆあみ)しても害(がい)なし少も餒(すえ)【饐】たる物と覚(おぼ)ゆる
は夏月(かげつ)は猶更(なをさら)口に入へからず霍乱(くはくらん)するは皆(みな)食(しよく)
傷(しよう)に発(はつ)するなり故(ゆへ)に夏は食物を別(べつ)して用心す
るなり朽木(くちき)又は原野(はらの)に生(おひ)たる無名(ななき)の菌(くさひら)を食ふ
べからず陣中(ぢんちう)には士卒(しそつ)共かゝる物を拾(ひろ)ひ来る
べく地に落(おち)たる菓(このみ)を食すべからず虫(むし)蟻(あり)のつき
たるは大 毒(どく)あり戒(いまし)め置へし温泉(おんせん)は漫(みだり)に飲べか
らず土人に問(とふ)て飲べきなり
【上部欄外】
防禦
【本文】
湿地(しつち)に陣取(ぢんとる)時は必(かならず)病を生ず陣取(ぢんどり)の心得(こゝろえ)第一也
湿気(しつき)と不正(ふしやう)の気(き)を避(さく)るは火より勝(まさり)たる物なし
霖雨(りんう)【左ルビ:なかあめ】の時は不断(ふだん)火を焚(たく)べし往古(むかし)かならず燧袋(ひうちふくろ)を
はなたずもてる事は諸々(もろ〳〵)の用意(ようい)あることおし
はかるべし凡(およそ)生類(しようるい)のうち人の霊(れい)なるは火を
生ずるを第一の妙(めう)とすと聞(きけ)り空屋(くうおく)園林(えんりん)台(たい)
榭(しや)池舘(ちくはん)廃寺(はいじ)古塔(こたう)久(ひさ)しく不開(ひらかざる)所へは漫(みだ)りに
入べからす況(いはん)や寝卧(ねふし)するはもとよりなり欝(うつ)
陰(いん)の気(き)人を害(がい)すよく〳〵火を焚(たき)煙(けふり)をたてゝ
毒虫(どくちう)悪気(あくき)を去(さ)るべし又古木 繁(しげ)りたる下にて
飲食(いんしよく)すべからず況(いはん)や烹飪(はうじん)などするは忌(いむ)べき也
夏は木陰(こかけ)を尋(たづぬ)るものなれは梢(こすえ)の様(さま)をみて心得
べし毒虫(どくちう)は夏に多けれは煙(けふり)に畏(おぞれ)ておつる事
あり是を意外の中毒(ちうどく)といふ古洞(こどう)巌窟(がんくつ)に雨(あめ)
露(つゆ)を避(さけ)んとて漫(みだり)に入べからす先火を焚(たき)て後(のち)に
入べし深洞(ふかきほら)に入ことあらば常(つね)の松明(たいまつ)にては煙(けふり)籠(こもり)て
入得(いりえ)ず笹(さゝ)の松明(たいまつ)を用べし洞窟(とうくつ)の毒(どく)は前(まへ)に
いふ所の古井の毒(どく)と同意(とうい)なり野原(のはら)にて火
に包(つゝ)まれたる時は足(あし)もとへ火を放(はな)ち避(のが)るべき所
をはやく焼払(やきはら)ふべし古(いにしへ)日本武尊(やまとたけのみこと)の草(くさ)なぎの宝(はう)
剣(けん)に火打 袋(ふくろ)添(そへ)給ひしは即(すなはち)是(これ)なり燧袋(ひうちふくろ)に用意の
薬(くすり)を入て刀(かたな)脇指(わきさし)の栗形(くりかた)に結(むす)び付(つく)べしと兵家(へいか)の
【上部欄外】
毒煙
【本文】
書(しよ)に見えたり煙(けふり)にむせて死(しゝ)たるは蘿蔔汁(だいこんのしる)
をのむべしこの汁(しる)をふくみて煙(けふり)に入るときは
むせずといふ西洋(さいよう)にては毒霧(どくむ)を打かくるこの
毒煙(どくえん)にあたれば昏倒(こんたう)すといふ是を防(ふせ)ぐには水(みつ)
銀(かね)を酢(す)に漬(ひた)してその酢(す)を目(め)鼻(はな)にぬる又は蜜(みつ)を
ぬるもよしとぞ又 礬石(はんせき)を水に和(くは)して七竅(しちけう)にぬる
既(すで)に毒(どく)に中(あた)りて九竅(きうけう)血(ち)を出(いだ)すは頻(しき)りにそゝぐ
【上部欄外】
野陣
【本文】
野陣(のぢん)せんには大 蒜(にんにく)葱(ひともじ)のるいを不断(たえず)食して湿気(しつき)瘴(しよう)
気(き)を避(さく)べしつねに大 蒜(にんにく)を腰間(こし)にもつけて持(もつ)べし
となり蒜(にんにく)はうち身(み)へすり付あるひは腫(しゆ)もつの
敷灸(しききう)にも用ゆべし寒気(かんき)を忍(しの)びては外邪(ぐはいじや)は元(もと)
より泄下(せつか)腹痛(ふくつう)痰(たん)疝(せん)など再発(さいほつ)するなれは軍(いくさ)
場(ば)には毛(け)泥障(あをり)を敷(しき)ものにしてそのうへに寝卧(ねふし)
すれは下冷(したひえ)の難(なん)を避(さく)るとなり又 枕(まくら)に箭筒(やつゝ)を
すれは遠(とをき)所の《割書:唐(から)にて数里(すり)|の外とあり》人馬の足音(あしおと)ひゞきて
知(し)らるといへり空虚(くうきよ)なる故に聲(こゑ)をうくると
見えたり《割書:但し箭(や)のあるはひゞきは|うけざるなり》
【上部欄外】
水脈
【本文】
遠国(えんこく)に攻(せめ)入て便宜(びんぎ)によりて水なき地に陣取(ぢんとり)
せる事も有(ある)べきに俄(にはか)に井(ゐ)を堀(ほら)んにはまづ水脈(すいみやく)【左ルビ:みづすじ】
をはかるべし地(ち)を堀(ほり)て穴(あな)をなし暁天(けうてん)色(いろ)を弁(べん)ず
る時に穴(あな)に入て目(め)を地(ち)際(さい)【左ルビ:きわ】にあてゝ望(のぞ)めは気(き)あり
て煙(けぶり)のごとく上(のぼ)るは水気(すいき)にて水の出(いづ)る所にみて有(あれ)
また気(き)を望(のぞ)むは城邑(しようゆう)家(いへ)立(たち)の所にては見(み)ゆべから
ず地を堀(ほ)ること三尺 広(ひろ)さは心のまゝなり銅(あかゞね)錫(すゞ)の
盤(ばん)に油(あぶら)をうすく一 面(めん)にぬりて穴(あな)の中に入て一二
寸は地(ち)よりすきめあるほどに木(き)にてすかし
うへにはわらをかけ蓋(おほ)ひまたそのうへに土(つち)を
おほひ一日を過(すぎ)て見(み)るに盤(ばん)の底(そこ)に水気(すいき)有(あり)て
露(つゆ)を持(もち)たらんは則(すなは)ち泉(いづみ)なり又 陶家(とうか)にちかき所
ならは瓶(つるべ)瓦(かはら)にて銅錫(とうしやく)の通(とふ)りにして試(こゝろ)むる事
もありと泰西水法(たいせいすいはう)といふ書(しよ)に見へたり
【上部欄外】
たくはへ
【本文】
大軍(たいぐん)大衆(たいしゆ)を動(うごか)す時 用意(ようい)なくては叶(かな)はぬものは
艾(もぐさ) 備急円(びきうえん) 広東人参(かんとうにんじん) 桃花散(とうくわさん)
万病解毒丸(まんびようげどくぐはん) 突目(つきめ)の薬(くすり) 馬(むま)の薬(くすり)
別(べつ)しても解毒丸(げどくぐはん)は万病(まんびよう)によろしき故(ゆへ)たやす
べからず
【上部欄外】
解毒
【本文】
万病解毒丸(まんびようげどくぐはん) 諸毒(しよどく)を解(げ)し諸瘡(しよさう)を療(いや)し
骨節(ほねふし)の不(ふ)めぐりを利(り)し百病を治(ぢ)し死(し)を
おこし生(せい)をめくらす功能(かうのう)悉(こと〳〵)ぐ述(のぶ)べからず凡(およそ)居家(きよか)
遠行(えんかう)は勿論(もちろん)兵(へい)をやり衆(しゆ)を動(うごか)す此 薬(くすり)なくんば
あるべからず 一名 紫金丹(しきんたん)一名 玉樞丹(きよくすうたん)
三慈姑(さんしこ)二両 五倍子(ごばいし)同 続随子(ぞくずいし)一両
大戟(たいげき)一両半 麝香(しやかう)三銭
端午(たんご)七夕(しつせき)重陽(てうよう)あるひは天徳(てんとく)月徳(ぐわつとく)黄道(わうだう)上吉日
を以て斎戒(さいかい)盛服(せいふく)し精心(せいしん)にて薬を末(まつ)【左ルビ:こ】として
よく篩(ふる)ひ糯米(もちこめ)のとり湯(ゆ)に和(くわ)し臼(うす)に入て杵(つく)と
千下(せんか)す一 錠(でう)の重(おも)さ一匁に丸して病の重き者
には度々もちひて二三 行(かう)の下利(げり)をとるをよ
しとす後は温粥(あたゝかなるかゆ)にて補(おきな)ふ
凡一切の飲食(いんしよく)の毒薬(どくやく)毒蠱(どくこ)毒瘴気(どくしようき)河豚(ふぐ)の毒(どく)
土菌(きのこ)死牛馬(おちたるうしむま)の肉(にく)を食して毒(どく)にあたりたる
には水にて一丸を磨(ま)【左ルビ:とき】し服(ふく)す或は吐下(とげ)して
愈(いゆ)癰疽(ようそ)背(せなか)に発(はつ)し疔(てう)腫楊(しゆよう)梅瘡(ばいさう)等一切の悪瘡(あくさう)
風疹(ふうちん)赤遊(せきゆう)とて赤く村〳〵に色(いろ)とり又 痔瘡(ぢさう)に
水或は酒にて磨(ま)【左ルビ:とき】して日々数度ぬるべし
陰毒(いんどく)陽毒(ようどく)の温疫(うんえき)傷寒(しようかん)にて狂乱(けうらん)し喉痺(こうひ)喉(こう)
風(ふう)は薄荷(はつか)の絞(しほ)り汁(しる)に三匕(みさじ)を水に加へ服す
心気(しんき)痛(いたみ)其外の積気(しやくき)には酒にて服す
泄瀉(せつしや)下利(けり)霍乱(くわくらん)絞腸沙(かうちようさ)とて痛(いたみ)つよくしぼり下
るには薄荷(はつか)湯にて下す
中風(ちうふう)中気(ちうき)口(くち)眼(まなこ)のいかみ五 癪(てん)五 癇(かん)鬼邪(きじや)とて
物に逢(あ)ひ或は物つき筋(すじ)骨(ほね)引つり痛に暖
酒にて用 自縊(くびくゝり)溺水(できすい)鬼迷(きまい)とて物にまよはされ
死たるもの心頭(むなさき)猶あたゝかなるは水にて服す
傳尸(でんし)労瘵(らうさい)は水にて服し悪物(あくもつ)虫積(むししやく)を下す
久近(きうきん)ともに瘧疾(きやくしつ)発(はつ)せんとする時は東流(とうりう)【左ルビ:ひかしにながるゝ】水(すい)に
て桃(もゝの)の枝(えだ)を煎し服す
頭風(づふう)頭痛(づつう)酒にてときて両眉(りようび)の上に塗(ぬ)る
諸(しよ)腹満(まんふく)鼓腸(こちよう)に麦芽(ばくげ)湯にて服す《割書:但酒にて服|するもよし》
むし歯(ば)の痛に酒にて煎して用ゆ
湯火傷(やけど)毒蛇(どくじや)悪犬(あくけん)一切の虫さし水に磨(ま)【左ルビ:とき】して
ぬり又服す
打撲(うちみ)傷損(くぢき)松節(まつのふし)を酒に煎して用
《割書:女人経閉は紅花酒にて服す|小児驚風五癇五痢薄荷湯にて用ゆ》
【上部欄外】
打撲
【本文】
打撲(うちみ)くぢきには鮒肉(ふなのにく)又は全形(せんけい)【左ルビ:まるのまゝ】をすりて酢(す)にて
ときつくる骨(ほね)まて傷(いため)たるをよくいやす焼酎(せうちう)に
て洗(あら)ひてふなを傅(つけ)其上を柳(やなき)の皮(かは)にてまきをく
又 生薑(しようが)のしぼり汁に阿膠(にかは)を入てせんしとろかし
ぬる又 大蒜(にんにく)杵(つき)て泥(どろ)となし石灰(いしばい)を和(くわ)し堅(かた)く塊(かたまり)
となし七月十三日に土中に埋(うづめ)て翌(よく)年此日に取
出してすりくだきて置すりつくる又 苧麻(からむし)茎(くき)葉(は)
ともに黒焼(くろやき)にして服す落馬(らくば)の薬とて伝受(でんじゆ)せり又
土盞(かはらけ)を末(まつ)して薄糊(うすのり)にてとき患(うれふ)る所にぬる
【上部欄外】
馬病
【本文】
馬の病も大半人の薬にて皆 効(しるし)あるものなり扨(さて)
息合(いきあひ)といふものは人にもあれど人は兼(かね)而より呼(こ)
吸(きう)を己(おのれ)と養(やしな)ふ故 卒倒(そつたう)する事 稀(まれ)也然といへ共
強(つよ)く馳(はせ)んとする時は人参(にんじん)を含(ふく)むべし或は梅干(むめぼし)
もよく馬の息合にもよしとす又 塩(しほ)を舌(したの)上に
ぬり水にて飼(かふ)へし一切の息合の薬は皆 麝香(じやかう)
の入ものなれは解毒(げどく)丸を水に磨(ま)して用ゆ
べし然とも人 糞(ふん)を少々 飲(のま)しむるにはをとる
べし是を妙法とす又 遠馬(ゑんば)の時 轡(くつは)のはみに麻(あさ)
の切(きれ)に塩梅(しほうめ)を弐ほど核(さね)を去りて包(つゝ)み結(むすび)つけ
る事あり下手(へた)にては兎角(とかく)に馬を助(たすく)る事
なく上手(しようず)なれは馬の疲(つか)れぬやうに乗(のる)なれば
常(つね)に其 技(わざ)を調練(てうれん)するにしくはなし
【上部欄外】
息合
【本文】
息合(いきあひ)の方
人参 一両 甘草 同 辰砂(しんしや) 同 麝香(じやかう) 二朱
右 細末(さいまつ)して練蜜(ねりみつ)にてねり耳かき一つ汲立(くみたて)
ての水にても飼(かふ)べし
毒艸(どくさう)を喰(く)ひ馬の腫(はれ)て病(やむ)事有先口を能く
洗(あらひ)て上 味噌(みそ)をぬるべし鷹屎(たかのくそ)甘草(かんざう)香附子(かうぶし)右
煎して可_レ飼(かふ)又馬書を見るに金 沓(くつ)の事といへる
事有予が試(こゝろみ)たるにもあらねともこゝに記す
金屎(かなくそ) カナハタ《割書:女ノボソノヲ|ノコトナリ》五八霜(ごはつさう)ヒノ木ノ粉(こ)松脂(まつやに)
右五ヲ等分ニ合セ爪(つめ)ノ裏(うら)ニスリカネヲ当(あて)ル也其後
ニ水ヲサツトソヽクヘシ廿日ノ間 如(てつの)_レ鐵(ことく)可_レ秘々々
馬の血 落(をち)たるには麝香(じやかう)三分三年 塩漬(しほづけ)の茄子(なす)
の汁(しる)を以とき爪(つめ)きはより上に逆(さか)につくる乗過(のりすぎ)
たる馬にもよしといへり亦馬 疲(つか)れて汗(あせ)を多
発(はつ)するは塩(しほ)をすりこみてよし塩を摺込(すりこみ)し後
に湯(ゆ)にて洗(あら)ふはます〳〵よろし
【上部欄外】
犬喰
【本文】
諸獣(しよじう)の咬(かみ)たるには解毒(げどく)丸よろしけれども病犬(びようけん)
喰(くひ)には小 便(べん)にて疵(きづ)口をよく洗(あら)ひ犬牙(けんが)の歯垢(はくそ)
の残らぬ様に血しほをしぼり出し幾度(いくたび)もあ
らひ其跡に多く灸(きう)して狗牙(いぬのきば)の毒を焼(やき)尽(つく)し
其後 解毒(げどく)丸を用ゆへし灸(きう)しなから赤小豆(あづき)油(あぶら)
あげ魚(うを)鳥(とり)餅(もち)などあふら深き毒食(どくじき)を一切残らす
其日より喰ふ時は再発(さいほつ)の患(うれひ)なし但 灸(きう)はいぼふ
様にして膿(うみ)汁(しる)出るを以 良(よし)とすはやく愈(いゆ)るは
おそるゝ所也いぼはぬは熱湯(あつきゆ)にて洗(あらひ)或は小刀(こかたな)にて
灸痕(きうのあと)をかゞげおとすへし是非(ぜひ)にいぼはする策(はかりこと)を
なすなり蛇傷(じやしよう)も紫金丹(しきんたん)を用ゆへし紐(ひも)にて
つよくむすび切(きる)べし毒気(どくき)の上にのぼら
ん事を押(おさ)ゆるためなり紐(ひも)は袴(はかま)のくゝり
ほどの物よし鎧(よろひ)を着(ちやく)して馬上(ばしやう)せんには
下散(げさん)をくゝらされば馬(むま)の高むらつきたる
時 居木(なぎ)の間に草(くさ)摺(すり)はさまる時は落馬(らくば)
するなり是非(ぜひ)に用意(ようい)なければ叶(かな)はぬ事
なり下散(げさん)のくゝり様は蚊帳(かちやう)の紐(ひも)を昼(ひる)の間は
邪魔(じやま)になるとて巻(まき)あげおける時のごとくす
る也おり立たる時 片端(かたはし)を引ぬればすぐに
下散(げさん)の垂(たる)るやうにするなり此 紐(ひも)は何(いづ)かたへ
なりとも結付(むすびつけ)て貯(たくは)ふべし又 大便(だいべん)せんとき
草摺(くさずり)をくゝる事 乗馬(じやうめ)の時のごとくすべし
蛇傷(じやしやう)の妙薬(めうやく)は乾柿(つるしかき)を酢(す)に和(くわ)しぬるべし乾柿
は寺院(じゐん)へ乞(こふ)時は貯(たくはへ)有べし若(もし)なくば樹上(きのうへ)の青柿(あをかき)を
くたき塗(ぬる)又 渋(しぶ)もぬりてよしと雖(いへども)乾柿を酢(す)にて傳(つけ)
たるには劣(をと)れり又 口薬(くすり)を疵口(きづくち)に置(をき)て火をうつしたつ
べし焼切(やききる)ため也口薬なくは炭火(すみのひ)を直(すぐ)に推(おし)つくるも
よし又 赤蛙(あかがひる)を丸のまゝ黒焼(くろやき)にして胡麻油(ごまのあぶら)にて傳(つけ)る
又 煙艸(たばこ)のやにをつける又 蕺菜(どくたみ)をもみつける又 一角【左ルビ:うにこをる】
を壱分ほど呑(のみ)て白 沫(あわ)を吐(と)し白菫(しろすみれ)根を水に摺(すり)
汁(しる)を傳(つく)るの類は其方多しといへとも乾柿(つるしがき)の方
に勝(まさ)れる事なし珊瑚膏(さんごかう)と名(なづ)く
【上部欄外】
気絶
【本文】
艾灸(もぐさ)は多く貯(たくは)ふへし第一 気絶(きぜつ)に神闕(ほぞ)又其下
三寸 関元(くわんけん)臍(ほぞ)の左右 天枢(てんすう)《割書:俗にほそから|みといふ》に灸(きう)すべし手
足の掌(たなこゝろ)に灸(きう)してよし又 腫物(しゆもつ)の催(もよほす)に灸(きう)すへし蒜(にんにく)
を隔(へだて)て灸するは猶よし《割書:うすく切りて|敷灸にする也》血留(ちどめ)につけ亦
【上部欄外】
虫歯
【本文】
衂血(はなぢ)のねぢにす口中の痛(いたみ)は猶更(なをさら)虫歯(むしば)の類は必 頷(おとがいの)
下(した)喉(のど)の左右に核(さね)を結(むす)ふものなり其くり〳〵の上に
灸四五 壮(さう)つゝすへへし一日にて験(しるし)なくは翌(よく)日も続(つゞけ)て
すゆる又足の大指(おほゆび)の腹(はら)【図】横紋(よこすじ)の外の留(とま)りに
【上部欄外】
脚気
【本文】
灸して喉痺(こうひ)に妙なり湿地(しつち)に居(ゐ)て脚(あし)の腫(はれ)たる
には日々に三里と風市(ふうし)に灸(きう)すへし十 壮(さう)より三十
壮(さう)に至るへし水あたりに天枢(てんすう)に灸すへし寝冷(ねひへ)
下り腹(はら)にもよし雀目(とりめ)に三里と身柱(ちりけ)に灸すへし
又 大指(おやゆび)と食指(ひとさしゆび)の骨(ほね)の【図】 又(だまた)に合谷(がつこく)と云 穴所(けつしよ)あり
灸すへし虫歯(むしば)にもよし《割書:合谷へ蒜を傳て虫歯を|治す但はやく去るべし》総(すべ)て
諸疵(しよきず)諸毒(しよどく)虫咬(むしかみ)たるに灸して吉 踏抜(ふみぬき)もいゝ灸 蒜(にんにく)
【上部欄外】
踏抜
【本文】
を隔(へだて)て灸するは猶よし踏抜(ふみぬき)たる後は田しふ舩(ふね)の
垢(あか)なとへ入べからす雨水 溜(たま)りもあしき破傷風(はしようふう)に
なる也 破傷風(はしようふう)になりたるも疵口(きずくち)に灸すべし
踏抜(ふみぬき)せん事をふせきて草鞋(わらじ)の間に革(かは)をは
さみ又 鼻返(はなかへし)もする是は水に入て潤(うるほ)ひぬれば柔(やはらか)
に成て用心に成かたし真綿(まわた)をかな敷のうへ
にて水をそゝきて幾度(いくたひ)も打(うつ)時(とき)はきたへ革(かは)の
如く成是をつまさき迄もくるみ其上に革(かは)の
鼻(はな)かへしにす水に入てしめるほと鋒刃(ほうぶん)をも凌(しのぐ)
へし足袋(たび)へは猶更 底(そこ)の外(ほか)にも此 綿(わた)を入て製(せい)
すへし此外色々の仕方(しかた)はあらんなれとも重(おも)く
なりて歩行(ほかう)不便利(ふべんり)なれはよきほどあるへし
真綿(まわた)の用意(ようい)は常(つね)に具足(ぐそく)を真綿(まわた)に包(つゝみ)置(をく)べし
其侭(そのまゝ)に持行(もちゆけ)は寒気(かんき)強(つよき)とき肌(はだへ)にまとひて
防(ふせ)くへし陣(ぢん)中へは衣服(いふく)も多く携(たつさへ)かたき
故なり外邪(ぐわいじや)をのがれ疝積(せんしやく)なとも凌(しのぐ)へし
【上部欄外】
骨硬
【本文】
又 魚骨(うをのほね)喉(のと)にたちたる時に飲(のむ)もの一成程に
丸して飲(のむ)へし魚骨(うをのほね)綿(わた)につきて下る也 虫(むし)を避(さけ)
むとて具足(ぐそく)箱(はこ)の内に樟脳(しようのう)を入へからす猶更
兜(かふと)の受張(うけはり)へは樟脳(しようのう)の気(き)をいむ着(ちやく)せしとき
頭(づ)上 熱痒(ねつよう)し甚(はなはだ)しきは昏眩(こんげん)す真綿(まわた)なとに
其気あるを身(み)にまとひては煩悶(はんもん)する必(かならず)疑(うたが)ふ
事なかれ試(こゝろみ)たる事也さなきたに甲冑(かつちう)して
大に働(はたら)く時は逆上(きやくしよう)して眩(げん)するものなり
【上部欄外】
《割書:とけ|ぬき》
【本文】
或(あるひは)鉄鉋(てつほう)にあたりて玉ふかく外科(げくわ)其 技(わざ)を尽(つく)せ
とも玉の出さるまゝに苦(くるし)む江戸本町四丁目中村
伊兵衛といふもの神如散(しんによさん)とてとげ抜(ぬき)の買薬(ばいやく)
あり酒にて用るに玉すみやかに出て平復(へいふく)す此
薬は柿葉(かきのは)梨葉(なしのは)まゆみの葉を土用の中に
采(とり)て黒焼(くろやき)にして酒にて服(ふく)す是 即(すなはち)神如散(しんによさん)なり
とそ度々(たひ〳〵)試(こゝろみ)るに奇験(きけん)あり魚骨(うをのほね)の喉(のど)にたち
たるにもよし諸(もろ〳〵)のとげ抜(ぬき)なり又 芭蕉(ばせを)の葉(は)の
黒焼(くろやき)なりともいふ是は未(いまだ)試(こゝろみす)箭鏃(やのね)の抜(ねけ)かたき
にもよし又 芭蕉(ばせを)の根(ね)を生(なま)にて堀取(ほりとり)なから水
にて煎(せん)し二三 盃(はい)つゝ度々用ゆれは疫熱(えきねつ)を解(けす)と
いへり箭鏃(やのね)の骨(ほね)に入て動(うごか)す事もならぬは巴豆(はつ)
微炒(びしよう)【左ルビ:すこしくいる】して蜣蜋《割書:蜣蜋を蟷切(かまきり)に|かへたる方もあり 》と同(おなしく)搗(つき)てぬれは暫(しばらく)
ありて痛(いたみ)退(しりそき)て必(かならず)痒(かゆみ)出る夫(それ)を忍(しのび)て居(ゐ)ると極(きは)めて
痒(かゆみ)つよく忍(しのび)かぬる時 撼動(かんどう)して是を抜(ぬく)跡(あと)は金瘡(きんさう)の
手当(てあて)にてよし箭鏃(やのね)肉(にく)に入たるは螻蛄(けら)汁(しる)にして
上に滴(したゝ)る事三五度して自(をのつから)出る又 杏仁(きようにん)をつき
傳(つげ)又 瞿麦(なでしこ)末(まつ)して酒(さけ)にて服(ふく)す何れに隠(かくれ)たる所
胸隔(けうかく)咽喉(いんこう)の骨(ほね)もぬくるといふ予(よ)未試(いまだこゝろみす)蛮(ばん)人
の毒箭(どくや)は肉(にく)をゑぐり去(さる)より外(ほか)有まし松前(まつまへ)
の人の語(かたる)に箭(や)にあたりたる犬(いぬ)は三はねせぬ
間に倒(たふ)るとなり左(さ)あれは薬(くすり)よ医師(いし)よと
いふ間には其 毒(どく)一 身(しん)にまはり得(え)む可_レ恐(おそる)也
【上部欄外】
備急
【本文】
備急円(びきうゑん) 大 食傷(しよくしよう)大 霍乱(くわくらん)の妙薬 俄(にはか)に腹痛(ふくつう)
はけしく気絶(きぜつ)したるに用ゆへし上にあらん
は即(すなは)吐(と)し下にあらんは下すなり又 数日(すじつ)馬上
にて風にあたる時は風眼(ふうがん)を病(やむ)事有 痛(いたみ)強(つよき)に
用て下す
巴豆(はづ) 《割書:去(かはを)_レ皮(さる)|》 大黄(だいわう) 乾薑(かんきやう) 《割書:各(おの〳〵)等分(とうぶん)|》
右 細末(さいまつ)きしり合せ糊丸(のりくわん)にして常(つね)に懐中(くわいちう)に
断(たえ)す貯(たくは)ふへし亦馬のばりつまひに用て
奇験(きげん)有一度に三四分を用ゆ馬には六七分も
用る事有へし人の食傷(しよくしよう)かるきには二分
許(ばかり)にて宜(よろ)し
【上部欄外】
金瘡
【本文】
金刃傷(きりきず)は外科(げくわ)にあらざれは治療(ぢりよう)なりかたけれ
とも所により医(い)の来らんまて待(まち)かたき時も
あらむ爰(こゝ)に神妙の法を傳(つたへ)へ示(しめ)す疵口(きつくち)に
乾血(かんけつ)あれは後日(ごにち)に膿(うみ)を催(もよほ)して治(ぢ)せざるもの也
焼酒(しようちう)に湯(ゆ)を半(なかば)にして洗(あら)ふ焼酎(しようちう)なくは常(つね)の酒も
用ゆ夫もなくは人 尿(いばり)を用ゆへし洗(あらひ)て後は鶏卵(たまご)の
白みを取(とり)温飩(うどん)の粉(こ)を和(くわ)して拌(かきま)せ能々(よく〳〵)摺合(すりあはせ)て
布(ぬの)に傅(つけ)ること膏薬(かうやく)の如して疵口(きずくち)を合て是を
はる疵口(きずくち)いかにもはなるゝ事なく極妙(ごくめう)也 布(ぬの)は
力帯(ちからおひ)の端(はし)を切て用ゆへし金瘡(きんさう)の人は嗔(しん)怒(と)喜(き)
笑(せう)大言(だいげん)労力(らうりよく)妄想(もうさう)熱物(ねつぶつ)飲酒(ゐんしゆ)酸(すし)鹹(しほからゆき)を禁忌(きんき)すへし
昔(むかし)より水を忌(いむ)といへとも世人の心得たるほどの
害(がい)はなしなれとも漫(みだり)に用ゆへからす賀川流(かかはりう)にて
【上部欄外】
力帯
【本文】
は出産(しゆつさん)すると其まゝ水にて血(ち)の薬(くすり)を用ゆ力帯(ちからおひ)
とは木綿(もめん)一幅(ひとはゞ)をしごき下散(げさん)のくつろきを大ま
かに縫(ぬふ)如くに通(とを)して胴(どう)を引あけ置(をき)てしかとし
むる也是 着具(ちやくぐ)の秘法(ひはう)とすいそき着(ちやく)しても草摺(くさすり)揃(そろひ)
て見 苦敷(くるしき)事なく且(かつ)は着心(きこゝろ)もよく久敷 鎧(よろひ)しても
重(おもき)を不覚(おほえず)陣(ちん)中へは布(ぬの)木綿(もめん)は貯(たくはへ)もたらしゆく
べき事なれとも此帯もうは帯(おび)も入用の丈より
長くしてかゝる時なと端(はし)を切て遣ふことを心懸の
一とす又 白布(しろぬの)にては血塩(ちしほ)なと染(そめ)たる時見えや
すきまゝに紺色(こんいろ)に染(そめ)る事 習(ならひ)也又 甲冑(かつちう)の家地
は目立たる色は隙(ひま)見えて敵(てき)のねらひになれば
其心得有を良とすといへり力帯を不知人の
鎧(よろひ)には下散(げさん)のくつろきにくさりなと仕付たる製(せい)
あれども着悪(きにく)きもの也俗に脉(みやく)所を切れは凶と
云事あり予 臑(じゆ)内の小疵(こきず)にて卒死(そつし)せるは数人見
たり小手はかならすうち廻に製(せい)すへきなり
【上部欄外】
眩暈
【本文】
着具(ちやくぐ)して働(はたらく)ときは気(き)逆(ぎやく)上して眩(めまい)するもの也故に
兜(かぶと)の眉ひさしのふく輪(りん)は金銀を不好 赤銅(しやくどう)などに
するは眩(めまい)せし時の損(そん)なれはなり又見切にも夕照(ゆふひ)
朝暉(あさひ)なとにはあしきと也如斯時用るには辰砂益(しんしやえき)
元散(げんさん)よしといへり其方 滑石(くわつせき)《割書:六匁|》 甘草(かんさう) 辰砂(しんしや)《割書:右一両|》
右 細末(さいまつ)して水服すと見ゆれど是は三 黄湯(わうたう)といふ
もの猶更まされり三黄湯方 黄芩(わうごん)《割書:大|》黄連(わうれん)《割書:中|》
大黄(たいわう)《割書:小|》にして散服(さんふく)するもよしふり出して用
るは猶よろし金瘡(きんさう)血暈(けつぐん)発熱(ほつねつ)狂乱(けうらん)或(あるひは)吐血(とけつ)眼目(がんもく)赤(あかく)
痛(いたみ)風眼(ふうかん)頭痛(づつう)諸卒病(しよそつひよう)卒倒(そつたう)或は小児 驚風(きようふう)婦人 血(ち)の
道に用てよし煎服(せんふく)するは本法也婦人 血(ち)逆(のぼせ)乱心(らんしん)には
常(つね)に用る所にして扁鵲(へんじやく)の火齊湯(くわせいたう)と云は此薬也と云
説(せつ)のあるは其 験(しるし)の異(こと)なる故の沙汰(さた)なる覧(らん)と覚(おほ)ゆ
【上部欄外】
船車酔
【本文】
舟にも駕籠(かご)にも酔(ゑひ)たるに用て吉又舟に酔(ゑひ)ぬ
るは蕃椒(たうからし)を用 辛味(しんみ)を不知には辛の覚いつる
まて用ゆれは醒(さむる)なり舟に酔むとする人は硫黄(いわう)
を臍(ほぞの)中につめてよし《割書:舟車に酔は医書|注舟車病と見ゆ》
【上部欄外】
食傷
【本文】
食傷(しよくしよう)しける時 備急円(びきうゑん)なくははやく煙草(たばこ)を煎(せん)じ
飲(のむ)へし吐(と)する也又 脱肛(だつこう)を洗(あら)ふへし痛(いたみ)去て入る
事 速(すみやか)なり又 吐(と)せむとして吐(と)することあたはすは塩(しほ)を
湯(ゆ)にたてぬる〳〵として飲(のむ)時(とき)は吐(と)するもし夫
にても吐(と)せぬは鳥翅(とりのつはさ)を喉(のと)に入て探(さく)るへし
【上部欄外】
血留
【本文】
桃花散(たうくわさん) 金瘡(きんさう)吐血(とけつ)衂血(はなぢ)下血(けけつ)一切のちとめ
茯苓(ふくれう)《割書:壱匁|》 葛粉(かつふん)《割書:三匁|》 朱砂(しゆしや)《割書:少|》加へて桃色(もゝいろ)に
する舌上(したのうへ)に少のせて目を閉(とぢ)て気(き)をしつむる時は
立所(たちところ)に留(とま)る也又 血留(ちとめ)に煙草(たはこ)を傅(つけ)又 艾(もぐさ)も傅(つけ)る
鏡面草(かゝみくさ)天名精(やふたばこ)希蘞(めなもみ)の葉(は)何れも揉(もみ)てつける
山吹の花もつける大蒜(にんにく)を衂血(はなぢ)のねぢにする又 鯨(くじら)
の鬚(ひげ)を粉(こ)にしてつける人 頭上(づしよう)を傷(やぶ)り血四方に流(なが)
れてけるにくじらの粉(こ)を頭上へ丸(まる)く堤(つゝみ)の如く置(をき)
血の流(なが)るゝをせき留て中の所へもふりかけ留たりき
鯨(くじら)は弓張(ゆみはり)の提燈(てうちん)の弓にすれは陣(ぢん)中にも可有
又 石灰(いしはい)を傅(つけ)るもよく留る蒿萑(あをぢ)の黒焼(くろやき)もよく
留る是は血のみち一切の薬にて又 緒(しよ)毒虫(とくちう)の咬(かみ)
たるに傅(つけ)て妙也しかはあれと大 疵(きず)に血留(ちとめ)は傅(つけ)
間敷(ましき)也 布(ぬの)に巻(まき)て留(とめ)るをよしとす又 脱血(たつけつ)し
【上部欄外】
《割書:廣東|人参》
【本文】
て気(き)乏(とぼしく)なりぬるは廣東人参(かんとうにんじん)を壱弐匁 煎(せん)し服(ふく)す
是は三七と云ものにて補血(ほけつ)第一の妙薬(めうやく)予か偶記(ぐうき)
に載(のせ)たり其 能(のう)左に記(しる)す
金刃傷(きりきず)箭疵(やきず)打身(うちみ)黒血(くろち)出て不止(とまらす)嚼(かみ)て傅(つく)る
吐血(とけつ)に一匁を嚼(かみ)飯のとり湯にて用也
男女 傷寒(しようかん)口(くち)歯(は)開(ひら)かぬに生薑(しようきよう)と同く歯(は)にぬる
又薑湯(しようがゆ)にて三匁を用也
男女 打身(うちみ)青(あお)く腫(はれ)たるに一匁を嚼(かみ)細(こまか)にして傅(つく)る
眼(まなこ)をやぶり開(ひらき)かたきに一匁をかみてぬる《割書:一ニ水にてとき|てつけると有》
赤白 痢(り)に一匁飯のとり湯にて用ゆ
蛇傷(じやしよう)【左ルビ:へひくひ】虎傷(こしよう)に酒にて一匁を用ゆ餘(よ)はかみて用ゆ
蠱毒(こどく)に逢(あは)んと思ふ時先一匁を服(ふく)す毒(どく)に遭(あふ)て
も返すなり
喉風(こうふう)喉痺(こうひ)に一匁 塩湯(しほゆ)にて用ゆ
心気(しんき)疼痛(いたむ)に二匁 見合(みやはせ)に粉(こ)にして温酒(おんしゆ)にて
用ゆ又 嚼(かみ)て酒にて下すもよし
無名(むめい)の腫毒(しゆどく)或は癰疽(ようそ)等(とう)の疼(いたみ)不_レ止に一二匁細に
して塗(ぬ)る又 醋(す)に五分を加へ用ゆ
下血(げけつ)に四物湯(しもつたう)にて五分を加へ用ゆ
杖傷(ちよしよう)或は刃傷(じんしよう)の瘀血(おけつ)に疵(きず)の大さに嚼(かみ)て傅(つく)る
又 杖(つえ)を行(おこな)はんとする時に先一匁を服(ふく)せは血(ち)のほ
り心(しん)に衝(つ)かす杖(つえ)後(ご)はしば〳〵用ゆへし
《割書:婦人 赤白(りやくひやく)帯下(たいか)に一匁 研(くたき)温酒にて下す|婦人 産後(さんご)敗血(はいけつ)の疼(いたみ)に一匁又は五分 艾湯(もぐさゆ)又酒にて用又 嚼(かみ)てもよし》
《割書:小児 痘瘡(とうさう)に一匁 蜜水(みつすい)瀼熱(じようねつ)し服(ふく)す|婦人 崩漏(はうろう)に研末(けんまつ)して酒或は飯のとり湯にて用ゆ》
【上部欄外】
まめ
【本文】
豆のいてきいたむに煙草(たばこ)の吹(ふき)からを飯(めし)のりにまじ
へ傅(つく)る馬鞍瘡(のりきり)にもよし又 豆(まめ)には畠(はたけ)に生する
半夏(へぶす)の根(ね)をくだき傅(つく)る又 豆(まめ)の出るを防(ふせぐ)は蕃(とう)
椒(からし)もすりつくる又 艾葉(よもぎのは)を敷(しく)もよし草(くさ)臥(むれ)て
歩行(ほかう)成(なり)がたきには塩(しほ)を足心(そくしん)にもみ傅(つく)へし
【上部欄外】
やけど
【本文】
湯火傷(やけど)水に入るゝ事なかれ流(なが)しかけるはよし糞(ふん)
中え入るか又はつけるもよし《割書:糞(ふん)は毒(どく)を能(よく)解(げ)すものなり|食毒にも用ゆ菌(くさびら)の毒に》
《割書:あたりて死になんとせしに用て活(いき)たる事 古記(こき)に載(のせ)たりまた馬は|息合(いきあひ)に少々用て妙なり只けがれをはゞかるにこそ用ひかたし》
又 杉(すぎ)の葉(は)黒焼(くろやき)にして鉄漿(おはぐろ)に和(くわ)し傅(つける)又 石膏(せきかう)
粉(こ)にして胡麻(ごま)の油(あぶら)に和(くわ)し傅(つける)飯(めし)を黒焼(くろやき)にして
油(あぶら)に和(くわ)し傅(つけ)る又胡瓜(きうり)細(こまか)に搗(つき)てぬる亦 人家(じんか)の
土腐(どぶ)《割書:セチ|トブ》の下水(げすい)を取(とつ)てつける又 湯中(ゆのなか)に熱灰(あつはい)を
入て其うわ水にて洗(あら)ふ又 馬糞(ばふん)を水にとき
つける妙(めう)也やけどは急(きう)に治(ぢ)する時は引(ひき)つりて
悪(あし)く故(ゆえ)に油(あぶら)にてゆるむるの手当(てあて)なり玉子(たまご)
の白(しろ)みに黄栢(わうばく)の粉(こ)を和(くわ)してつける亦 砂糖(さとう)も
よしことの外いそく時は少々 軽粉(けいふん)を加(くわ)ふ
大疵(おゝきづ)は発(はつ)して内攻(ないかう)するものなり三黄湯(さんわうたう)
をもちゆへし膿汁(のうじう)にならねば死(し)する者(もの)
多(をゝ)し露蜂房(はちのす)くろやきにしてあふらにて
解(とき)傅(つけ)る
手(て)不亀(かゞまざる)方(はう)樒(しきみ)のあふら惣身(そうみ)へぬるべし
又 酒(さけ)三升 胡椒(こせう)拾弐匁 少(すこ)し煎(せん)じて手足(てあし)に
ぬるべし
【上部欄外】
溺死
【本文】
溺死(できし)【左ルビ:おほれしに】に礬石(はんせき)を粉(こ)にしてしきりに口(くち)鼻(はな)に吹入水を吐(と)
すなりむかし大津にて溺死(できし)を救ふに俄(にはか)に明礬(みやうばん)なく
其 医(い)かしこき者にて紺屋へ取に遣けるに忽(たちまち)に得(え)て
救(すくひ)たりと賞(しやう)せし事を聞(き)けり雞冠血(けいくわんけつ)又 象牙(ざうげ)の
粉(こ)何(いづ)れも鼻(はな)口より吹(ふき)入る肛門(こうもん)より血(ち)の出たる者
足の大指(おほゆび)強直(きやうちよく)になりぬるは不治とす山雀(やまがら)幾羽(いくは)に
ても羽のまゝ黒焼(くろやき)にして惣身(そうみ)へぬる溺死(できし)一宿(ひとよ)を経(へ)
たるも尚(なを)救(すく)ふべし皀角(さいかち)を搗(つき)絹(きぬ)に包(つゝ)み肛門(こうもん)に入る
又死人の両足を肩(かた)にかけ死人を背(せなか)に載(のせ)て担(にな)ひ
走(はし)る吐水(とすい)して活(くわつ)す又 壁(かべ)を打崩(うちくづ)し下に敷(しき)死人を
仰(あをむけ)に臥(ふ)さしめ其上に壁土(かべつち)を覆(おほ)ふ口眼(かうがん)に土のつか
ぬ様にすへし自然(しぜん)に水出へし身こはり気たえ
たるも此法を用ひて活(いき)ぬはいよ〳〵救法(きうはう)なしと
究(きは)むへし又 砂(すな)を炒(いり)て死人を覆(おほ)ひ面(めん)上下にも著(つけ)
て口(くち)鼻(はな)を出し砂(すな)ひえは又かゆへし又 酢(す)半盞(はんさん)を
以て鼻中(びちう)にそゝく臍上(ほそのうへ)に灸(きう)する事百 壮(さう)
初(はじめ)取出す時に口に筋(はし)を一本 横(よこ)に含(ふく)ませ水より
出すへし管(くだ)を以其 両耳(りようじ)を吹(ふき)半夏末(はんげまつ)を鼻中(びちう)に
吹入れ皀角(さいかち)の末(まつ)を穀道中(こくだうちう)に吹もし夏月ならは
溺人(できじん)の腹(はら)を横(よこ)に牛(うし)の背(せなか)に乗(のせ)て牽(ひき)て緩々(ゆる〳〵)行(ゆき)
走(はしら)しめは腹中(ふくちう)の水 自然(しぜん)に口中よりもならびに
大便(だいべん)よりも流出(ながれいづ)再(ふたゝ)び生姜湯(しようがゆ)にて蘇香丸(そかうくわん)を
灌(そゝ)ぎ或は生姜湯(しようがゆ)斗(ばかり)もそゝく但(たゞし)乗(のる)時に左右より
人をして授(たすけ)押(おさ)しむもし牛(うし)なくは人の背(せなか)の上に
載(のせ)て牛のあゆむほとに動(うごく)と也もし冬月ならは
急(きう)に湿(うるほひ)たる衣を去り塩(しほ)を炒(いり)布袋(ぬのふくろ)に包(つゝ)み臍(ほそ)
の内を熨(の)し厚(あつ)く敷物(しきもの)して竃(かまど)の内の灰(はひ)を取
多(おほく)敷物(しきもの)の上に舖(しき)て溺人(できじん)を其上に覆臥(ふくぐり)せしめ
下に綿(わた)の枕(まくら)をはさみ又 厚(あつ)く灰(はひ)をかけ其上より
被褥(ふすま)を加ふ灰(はひ)の眼目(がんもく)に謎(めい)【目∔迷】せさらん様にするなり
口を開(ひらき)て横(よこ)に筋(はし)【箸ヵ】を含(ふくま)せ蘇香円(そかうえん)を生姜湯(しようがゆ)にて
用ひ管(くだ)を以 耳(みゝ)鼻(はな)肛門(こうもん)を吹 等(とう)の事は夏月の
通(とをり)にすへし冬天(とうてん)には醒(さめ)ぬる後(のち)温酒(おんしゆ)を少(すこし)飲(のま)しめ
夏天(かてん)には少 粥(かゆ)を飲(のま)しむ按(あん)するに灰性(はいのせい)煖(あたゝか)にて能
水を拭(ぬく)蝿(はひ)の溺水死(おぼれし)たるもの灰(はひ)を以 埋(うづ)むれは少頃
にて即(すなはち)活(くわつ)す此 明験(めいけん)なり《割書:蘇香円とあれど皆|解毒丸にてよし》
【上部欄外】
凍死
【本文】
凍死(とうし)【左ルビ:こゞへしぬ】手足(てあし)強直(こはゝり)歯(は)をくひしめたるといへとも微(び)【左ルビ:すこしの】
気(き)ある者は大 鍋(なべ)にて灰(はひ)を炒(いり)て煖(あたゝか)に成たる時
袋(ふくろ)に入て心上(むねのうへ)を熨(の)し冷(ひえ)たらんは又 換(かふ)へし目を
開(ひらく)を候(うかゞひ)て温酒(おんしゆ)及(およ)び粥(かゆ)を少々 与(あた)ふへし若(もし)其心上を
あたゝめすして早く火に近付(ちかつけ)る時は冷気(れいき)と
火気と争(あらそ)ひて必(かならす)死と也冬月 溺水(てきすい)して衣服(いふく)
も凍(こゝほ)り少も人事なくとも但 胸下(むなした)微(すこし)温(あたゝか)ならは
救(すく)ふ事なるへしもし微笑(びせう)する姿(すかた)あらは早く
其口 鼻(はな)を掩(おほ)ふへし笑(わら)ひて不正ものは救(すく)ふ事
あたはす又 俄(にはか)にあはてゝ火に近(ちかづ)くへからす火を
見る時は大笑(たいせう)して救(すく)ふへからす
凍死(とうし)既(すで)に救得(すくひえ)たる時は生姜(しようか)皮(かは)とも搗(つき)くたき
陳皮(ちんひ)こまかにして水三盃一盃に煎(せん)し温服(おんふく)す
【上部欄外】
魘死
【本文】
魘死(えんし)睡中(すいちう)に忽然(こつせん)として死する也皆 中悪(ちうあく)とす
韮(にら)の葉(は)の心(しん)を以男子は左女は右の鼻(はな)の内に刺(さし)
入る事六七寸なれは目 開(ひら)き血出る時は即(すなはち)よみかへ
る又 上唇内(うはくちひる)に粟(あは)米粒(こめつぶ)ほとの出来物(できもの)あらばかゝげ
破(やぶ)るへし又上 醋(す)を綿(わた)にしめして鼻中(びちう)にしぼり
其両手を提(にぎ)り驚(おどろ)かしむる事なかれ亦 臍中(さいちう)に
灸する事百 壮(さう)鼻中(びちう)に皀角(さいかち)末(まつ)を吹入る或は
韮(にら)の汁(しる)を耳中(みゝのなか)に灌(そゝき)入又 生菖蒲(なまあやめ)を研(くたき)汁(しる)を取
て一盃を灌(そゝき)入る
【上部欄外】
驚死
【本文】
驚怖(きやうふ)して死たるは温酒一両盃を灌(そゝ)く撲打(ぼくだ)して
脺死(そつし)たる及(および)五絶(ごぜつ)ともに心頭(むなさき)温緩(あたゝか)なるは日を過(すぎ)
ぬるも亦 救(すくひ)得(え)たるとなり先死人を磐屈(はんくつ)【左ルビ:かゞめる】して
壱人は死人の髪(かみ)を控(ひ)き半夏末(はんげまつ)を竹筒(たけつゝ)か或は
紙筒(かみつゝ)筆(ふで)の管(くた)にて鼻中に吹へし幸(さいはひ)に活(くわつ)する
時は生薑(しようきやう)自然(しせん)汁(しる)を飲(のま)すへし半夏(はんげ)の毒(どく)を
治(ぢ)すといへり《割書:按に半夏末を諸(しよ)卒死(そつし)に鼻より吹入るゝ事は|皀角末と同法なり然るに半夏の毒を解す》
《割書:ことはこゝにのみ見ゆ拘(かゝ)はるといふべし|五絶とは産(さん)魅(み)縊(いつ)魘(えん)溺(でき)の活法に半夏一味を末にして用ゆ生姜》
《割書:自然汁とは生姜を搗たゞらかし汁を取水を用ひざるもの是|なり以上 洗冤録(せんえんろく)を記する所なりしかあれども五絶と医書(いしよ)に》
《割書:あるは魅(み)と云ものなし墻厭(しようあつ)を加へて五絶といふ|墻厭(しようあつ)は物にしかれたる事也 打撲(だぼく)と法を同しくする也》
陣中には疫病(やくびよう)と脚気(かつけ)腫満(しゆまん)と流行(りうこう)する故心得 居(をる)
へき事也陣中にかきらす士卒(しそつ)の病なりとて
軽々敷(かろ〳〵しく)見なすべからず部下(ぶか)の士卒(しそつ)をいたはるは
古(いにしへ)の良将(りようしやう)のつとめたる所にて人心を得(え)さりむ
人 勝利(しようり)なき事世々の史籍(しせき)に鑑(かんが)むへし薬食(やくしよく)と
もに上下となく少の物も分ちあたへて共に労(らう)
苦(く)を同しくするを良将とはいふなり呉子(ごし)は
【上部欄外】
癰
【本文】
卒(そつ)の腫物(しゆもつ)を吸(すふ)て膿(うみ)をとりし事あり度々
膿(うみ)を吸(す)ひ腐(ふ)【左ルビ:くされ】肉(にく)をねふる時は至てはやく活する
事 膏薬(かうやく)よりも速(すみやか)なり人の死力(しりよく)を尽(つく)さし
めんは常(つね)に厚(あつ)くいたはる所にこそ別(べつ)して病を
憐(あはれ)むへきなり癰(よう)の妙薬は田螺(たにし)と蕎麦粉(そばこ)と
をおしませ腫物(しゆもつ)の口に入る時々取かゆれは腐肉(ふにく)
其度々に去なり
【上部欄外】
瘧
【本文】
湿気(しつき)にあたり瘧(ぎやく)の発(はつ)する事有うひ瘧(きやく)の外
は少もかるくならは両手の指(ゆび)の股(また)より少々血を
取へし針(はり)もなくは小刀(こかたな)の尖(とかり)にて皮(かは)を突(つき)切る
紙(かみ)にて拭(のごふ)ほどには不及かすかに血出れは忘(わす)る也
左右にて八所なれは是を八関(はつくわん)といふまた脊(せ)に
大推(たいずい)とてえりを伏(ふ)すれは大 骨(ほね)あらはるその
下の骨(ほね)の上に二三 十 壮(さう)発(おこる)日の早朝(さうてう)に灸すべし
もしおちざるは再(ふたゝび)灸す壮数(さうすう)を増(ま)すべし久(ひさ)しく
おちさるには鼈(すつほん)を料理(りようり)して食ふへし又 紫陽花(あちさい)
を一ふさせんじ飲へし又解毒丸を用ゆ至極(しごく)
よろし用根は解毒丸の下に見ゆ
【上部欄外】
淋
【本文】
淋病(りんびよう)は黄栢(きわだ)犬(いぬ)まきの皮(かは)等分(とうぶん)煎(せん)し用ゆ又 車前(しやぜん)
子(し)一両 布(ぬの)に包(つゝ)み水一升を四分めに煎(せん)し用ゆ亦
土竜(むぐろ)黒焼にしてさゆにて用ゆ又 蚯蚓(みゝつ)の腸(はらわた)を
去水にて飲
【上部欄外】
小瘡
【本文】
しつひぜん諸瘡(しよさう)は外より傅薬(つけくすり)すれは内攻(ないこう)して
水腫(すいしゆ)の如に至る慎(つゝし)むへき事也いかにいそぐとも
漫(みだり)に薬湯(くすりゆ)傅薬(つけくすり)はせまじき事也死に至る事時々
見 受(うけ)たり日数を経(へ)て吹(ふき)もせぬは傅薬入湯も
すへしもし内攻(ないこう)したらんは備急丸(ひきうくわん)を用て下す
べし湿瘡(しつさう)の薬は蕺菜(どくだみ)の根(ね)葉(は)ともに湯(ゆ)のたきり
たる中に入て此 湯(ゆ)にて四五度もたてる時はいゆ亦
莪木(がおゆつ)硫黄(ゆわう)等分(とうぶん)胡麻油(ごまあぶら)にて傅(つく)る二日ほとして
治(ぢ)すしかれとも必(かならす)早(はやく)傅薬(つけくすり)は忌(いむ)又 内攻(ないこう)したらんと
覚(おほえ)たらは愈(いえ)たる痕(あと)に備急円(びきうえん)をすり傅吹出す事
を望(のぞ)むへし
【上部欄外】
薬湯
【本文】
入湯の方 荊芥(けいがい) 防風(ばうふう) 薄荷(はつか) 《割書:各三十匁|》
生杉葉(なますきのは) 生忍冬(しようにんどう)《割書:各二百目|》 塩(しほ)《割書:一合半|》
右大 鍋(なべ)にて三 番(はん)まて煎して七日入る外に湯
の花 硫黄(いわう)《割書:三十匁|》 木綿袋(もめんふくろ)に入ひたしてたゝき付る
【上部欄外】
脱肛
【本文】
脱肛(たつこう)の方 霊天蓋(れいてんがい)【左ルビ:しやれこうべ】細末(さいまつ)して油にて塗(ぬ)る
又方 石胡姜(はねひりくさ)をもみつける橐吾(つはふき)の茎(くき)葉(は)ともに
せんし洗(あら)ふ煙草(たはこ)の事は前(まへ)に記(しる)す熊膽(ゆうたん)をとき
つける一角(うにこうろ)をつける牛糞(うしのふん)を焼(やき)てあたゝめる
【上部欄外】
臁瘡
【本文】
臁瘡(すゆくさ) 青漆(せいしつ)の桐油(とうゆ)合羽(かつは)の紙(かみ)にてくるみ置
橐吾(つはふき)の葉を火上にあたゝめ包(つゝ)むもよし
蕺菜(どくだみ)の根(ね)をのりにおしまぜつくる
【上部欄外】
毒刺
【本文】
海鷂魚(あかえい)の針(はり)にさゝれたるは樟(くすの)木に煙(けむ)せて立地(たちところ)に
こゝろよし
蛭(ひる)の喰(くひ)たる後に血(ち)不止(やまさる)は藁(わら)の灰(はい)黒(くろ)くやけた
るを傅(つく)へし後に痒(かゆみ)あるは瘡(くさ)に成事有 煙草(たはこ)
のやにを傅(つく)
【上部欄外】
《割書:水あ|たり》
【本文】
水あたり食傷(しよくしよう)に用ひ幷に暑(しよ)湿(しつ)を払(はら)ふは不換(ふかん)
金正気散(きんしやうきさん)といふを医(い)より乞て飲(のむ)へしもし薬(やく)
店(てん)近(ちか)くは才覚(さいかく)して調合(てうがう)せるもよし今一服の
分量(ぶんりよう)を記(しる)す道中(たうちう)用心のくすりといふは是なり
蒼木(さうじゆつ)《割書:四分|》 陳皮(ちんひ)《割書:三分|》 藿香(くわくかう)《割書:五分|》 半夏(はんげ)《割書:四分|》
厚朴(こうぼく)《割書:三分|》 甘草(かんさう)《割書:少|》 生薑(しようきよう)《割書:二片|》
右水一盃半入一盃に煎(せんじ)用(もち)ゆ木香(もくかう)《割書:一分|》 乾姜(かんきやう)《割書:三分|》
黄連(わうれん)《割書:一分|》を加へて食傷(しよくしよう)霍乱(くわくらん)吐逆(ときやく)のつよきに用也
大黄(だいわう)二三分を加へて下す事もよし《割書:薬品高科の品にて|調合すへし》
【上部欄外】
魚毒
【本文】
河豚(ふぐ)に酔(ゑひ)たるは胡麻(ごま)の油(あふら)を生(なま)にて多く飲て吐(と)
するをよしとす備急円(びきうえん)を用るは猶よし
鰹(かつほ)に酔(ゑひ)たるは椿の葉せんし用ゆ又 大根(だいこん)の絞汁(しほりしる)を
飲 犀角(さいかく)或は一角(うにこうろ)を用る元よりなり都(すべ)ての食傷
に解毒(げどく)丸を用 備急(びきう)丸を用るは猶更(なをさら)よろしき
既(すで)に記(しる)す
【上部欄外】
突目
【本文】
突(つき)目の薬 馬のつきめにもよし
鼹鼠(むくろもち)《割書:去_レ腸て紅花を腹|に入て黒焼一匁》 明礬(みやうばん)《割書:五分ほとも加へる|寒さらし》
反鼻(へんび)【左ルビ:まむし】 《割書:黒焼にして一匁|》
右 突目(つきめ)に乳(ちゝ)にてさし入 眼疵(まのこのきず)より血の出るも
留(とま)る乳(ちゝ)のなき時は只さしもすべきなり
飢人(うゑひと)を見て食(しよく)を與(あた)ふるに先赤土を水にかきたて
半椀(はんわん)ほと飲せ後に食をあたふべし赤土をかき立
しつむる時は清(きよ)らかに成なり土漿水(どしようすい)といふ又 厚朴(こうぼく)
をせんして一 椀(わん)ほと飲するもよし此二法をせずに
直(すぐ)に食せしむる時は忽(たちまち)に死するもの也
【上部欄外】
救飢
【本文】
無人(むにん)の郷(さと)に難(なん)を避(さく)る時は白茅根(ちがやのね)を洗(あら)ひ浄(きよく)し細(こまか)
にして或は石上に晒(さら)し乾(かはかし)搗(つ)き粉(こ)にして水にて
壱匁を服すれは辟(さけて)_レ穀(こくを)不(す)_レ饑(うゑ)と見ゆ此外其上方多
といへとも急(きう)に行(おこな)ひがたきは記す事をはぶく
又 赤小豆(あづき)一升 大豆(まめ)一升半は炒(いり)搗(つき)粉(こ)にして一合を
新水にて服す日に三度三升を用ひ尽(つく)せは十一
日を過(すき)て不(うゑ)_レ飢(す)又 説(せつ)に小豆(あつき)をくらへは津液(しんえき)小 便(べん)より
去て人をして虚痩(きよそう)せしむと云
竹中半兵衛 飢(うゑ)を救(すくふ)方
松の木のあまはだ《割書:日に干(ほし)細末壱斤|》
人参《割書:一両|》 白米《割書:五合|》
右三 種(しゆ)粉(こ)にしてよきほとに丸(くわん)し蒸籠(せいろう)に
むし是を軍兵(ぐんへい)十五人に配分(はいぶん)するに三日つゝ
はもつものなり
味噌(みそ)を旅中(りよちう)に貯(たくは)ふるは青木葉(あをきのは)に包(つゝ)みて
つとにする味(あじはひ)変せす又舟に酔(ゑひ)たる時此青木
葉を汁(しる)に煮(に)て食すれは快(こゝろよし)と云《割書:佐々介三郎|筆記》
辟穀軍中(へきこくぐんちう)第一の方
白蝋(はくろう)《割書:一斤|》 南(なん)天燭子
氷砂糖(こほりさとう)《割書:各半斤|》
右 蕎麦粉(そばこ)の粥(かゆ)にして桃 実(たね)の大の如丸して
日に一枚を服すれは不(うへ)_レ飢(ず)戦場(せんぢやう)に臨(のぞみ)て嚼(かみ)砕(くだき)
水にて服すれは気(き)不(ともし)_レ乏(からす)飯食(はんしよく)せんと欲る時
は塩湯(しほゆ)を以て解(げ)す先君子の傅る方なるが
故にこゝに記す
砒霜石(ひさうせき)の毒(どく)にあたる時は礬石(みやうばん)三両を水に
和(くわ)して用ゆべし
原子柔示_二此一小冊
子 ̄ヲ_一。検閲一過還 ̄ス_レ之。子
柔貽_二厥孫謀_一之意厚 ̄シ
矣。世人鎧凾中宜 ̄ク【左ルビ:キ】_レ具 ̄ス
之書也。刻成之後。請 ̄フ
恵 ̄セヨ_二我 ̄ニ一本 ̄ヲ_一。
文化元年甲子冬
翠軒老人題
鶴見弘書
南陽原先生著述既刻目録
瘈狗傷考 一巻 業桂偶記 二巻
経穴彙解 八巻 業桂亭医事小言 七巻
砦 草 一巻
安政三丙辰歳初夏再々校
江戸浅草茅町二丁目
須原屋伊八
書林 水戸本町三丁目
須原屋安次郎
アエヲロ
金花堂