災害の記憶展の翻刻テキスト

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京都出火略図

島原半島之図

安政二年十月二日夜亥刻大地震焼失市中騒動図

大阪今昔三度の大火

【頭部枠外】文久三年癸亥十一月大新板
火之用心【黒地に白抜き文字】 大阪/今昔(むかしよりいままで)三度の大火【表題 四角い枠取り】
【上段】文久三亥年大火【四角で囲む】 細見/本(ほん)/調(しらべ)【四角い枠取り】
天保八酉年大火《割書:大坂焼と|いふ》【四角で囲む】嶋ノ内ノ部【四角で囲む】
享保九辰年大火《割書:金屋妙智|焼といふ》【四角で囲む】

【中段】心得の為
世に火はおそろしきものとは
しりなから足にてふみけす人
多し 大に心得ちかひなり
火は陽にして木火土金水の
司なり火は実に有用の随一
にして勿体なきものなり
ただ大切にして火に礼をいふ
心得にて始末をすればた【起」ヵ】る
火災をまぬがるべし
よくゝ人々の心を合せて
火を用ひ給ふべし火災は
ただ火を麁末にするもの
を天よりいましめ給ふなり
よく〳〵心得給ふべし
むかしより今年にいたる迄
かゝる大火は三ヶ度之ゆへに
今三ツを図して出すものなり

【下段】【一番右】
文久三癸亥年十一月廿一日
夜五ツ時新町橋東詰北入所より
出火いだし候所西風はげしく
して東へ一時に焼行夫より北西風に
なり巽【東南】へうつる又西南に風かわり
丑寅へやけゆく事はげしく夫より
上町へ飛火にて火勢ますゝはげしく
せんば上町とも一事にもへあがり誠に
大坂中火となるやう相見へ候まことに
老若男女のおどろき筆紙につくし
がたし終には大坂東のはしまて焼失仕候
見る人大坂市中のそうどふさつし給ふべし
同月廿三日昼四ツ時に火鎮り申候

  町数 百五十二丁
  家数 四千七百余
  竈数 二万五千余
  土蔵 三百二十余
神仏 八十余 死人四十六人
けが人数しれず

【右から2番目】
住吉より大坂にてはかゝる大火めづ
らしき事也依而後世咄しの種且は
火の元心得のためにもならんか【本文では歟。「や」の読みもある】と
一紙に図して諸人の見覧にそなへ
たてまつる

【右から3番目】
天保八酉二月十九日朝五ツ時
天満より出火風はけしくして
所ゝ々へ飛火いたし上町御城辺まて
焼失北せんば長者町大家
処々焼失夫より南え【(助詞の)江】本町まで
やけ燃【然】るに火事場にて何者とも
しれずあやしき風俗にて大坂市中
あれ廻り人々の昆【ママ】雑いわんかたなき
次第それゆへ諸国在々へ逃【迯】る事
実に蜘の子をちらすがごとく
にて日本国中に其節は此大火の
噂さはかりなり
実に希代の大火大そうどふ也
 町数  百十二丁
 家数  三千三百八十九軒
 かまど 一万八千五百七十八軒
 土蔵  四百十一ヶ所
 穴蔵  百三十ヶ所
 寺社  三十六ヶ所
 死人 怪我人数しらず
【右から4番目】
享保九年辰三月廿一日之ひる
九ツ半時南堀江橘通り弐丁目
金屋妙智といふ人の宅より出火いたし
南風はげしく新町へやけ出終に北野迄
焼抜【祓の俗用】西はあみた池迄東は木綿はし辺
にて火鎮り西横堀北へ焼行博労町
北がはへ火移り夫より北は船場のこらず
焼失又天満へ飛火川崎迄中ノ嶋 
堂嶋西天満東天満のこらず焼失
廿二日朝北東風になり上町へ飛火致
追々北風はげしく上町一面に成それより
高津へ移り嶋ノ内一円【円(の旧字体)】それより道頓ほり
芝居へ飛火いたし火先いくつにも相なり
難波新地長町不残焼失す
其節大坂四百八十余町之内四百丗町余
実に大坂初《割書:マッテ|》の大火にて親子兄弟
はなれ〴〵となり五畿内は勿論丹波
丹後伊賀伊勢江州播磨淡州等へ       
にけ誠に其なんぎいわんかたなし
 家数  弐万八千余
 かまど 九万八千七百余
 土蔵  弐千八百余
 死人  凡三万余人
 けが人 十二万余


ほね抜どぞう/なまづおなんぎ大家場焼

島原市街傍近現景

嘉永七寅年大地震記

嘉永七寅年
六月十四日夜八ッ時 大地震記
【上段】
          崩家七百軒計
伊州上野      土蔵百二十余
          即死凡六百人計
          けが人数 不知

          凡家八部崩れ
勢州四日市     其上出火にて
          即死人数不知
          けが人数不知

   白子     右何れも大あれ
 〃 庄野     野小家住居多し
   亀山     即死人未不知
          けが百七十人余

          崩家凡百三十
江州 土山     土蔵四十五よ
   水口     即死都合十六人
          けが五十人計

          崩家百二十軒
 〃 石部     土蔵二十一計
          即死十六人
          けが七十人よ

          崩れ 土蔵
 〃 膳所       二十四計
十三日出火     たをれ家
            九十八計
          即死七人
          けか 五十人よ

 〃 信楽     崩れ家百件よ
          土蔵十六計
          即死四十五人
          けが人 百人よ

 〃 大津     崩家八九十
  并尾花川    土蔵二十八
          即死三十二人
          けか六十人

和州 奈良     町崩家五百計
 又廿一日夜地しん 土蔵 八十七
 木ツ辺大あれ   即死百五十人よ
          けか人数 不知

 〃 郡山     崩家七十二三
          土蔵十八計
          即死二十三人
          けか七十人計
京大坂并に外〳〵之ぎは
少々之事ゆへ略す
【下段】
六月十三日朝ゟ
    〃夜四ッ時迄 町数二百よ丁
越前福井       家数五千五百計
  大火       寺社百十三
           土蔵六七十
 咒哥        大黒柱にはるへし
 ゆるくともよもやぬけしの要石
   鹿嶋の神のあらんかきりは

京都出火略図

京都大火之略図

京都大火之図

痘瘡治療法

をさな子か
うしにひかれて
かろ〳〵と【軽々とヵ】
あそひを
するを
見るそ
たのしき
  春■【雄ヵ】

牛痘法は古今無比の良
法にしていまは偏境僻地
まてもひろまり流行痘の
大厄をまぬかれ非命の死
を遁るゝ孫【孩】児いく■【億】萬とも
はかるへからすまことに仁
術といふへし然るに今も
なほふかくうたかひて信用
せぬ人すくなからすかゝる仁術
ありなから年々痘瘡のはやる
ことか【ことに】孫【孩】児をおほくそこなふ事
実になけかはしき事なり■【若】世上
一般これを信用するにいたらは痘瘡
に死するものは一人もなき事となりぬ
へしこれ吾輩の企望するところなり
                 濵町永久橋
                 本夛内西村【朱印】

信州大地震届書写し

【一枚目】
弘化四未年三月
 信州大地震之手紙

当三月廿四日之夜四ツ時頃俄に大地震有之
中之条陣屋構塀大半ゆり崩し候得共建
家別条無之元村にも同様庇等震動候得共
潰家幷怪我人等無之陣内に而も庭中野陣
を張本家に住居いたし候もの無之同夜暁
迄に八九十度も大小震動致し日に百七拾度
又は百度程も其内大地震五六度有之
当月朔日ゟ五日迄は日に四度程も間遠
に相成候得共其内大地震弐三度有之今に震動
相止不申候未た村々に而も野宿いたし居候
者多分御座候
一支配所は水内郡之内に六ヶ村民家皆潰
 同様死人多き場所に候得共其余は破損
 之分多く見分手代遣し置候得共未た取
 調出来兼申候
一松代領水内郡に山中と唱候一郷有之三万
 石余之場所に候処右村之別而地震強く
 山崩れ村毎に有之家居悉く潰死人夥
 敷同郡水内橋之下犀川之両縁に手林
 長井と申両村有之右枝郷之山両方ゟ
 崩れ落岩犀川を塞き人家木立とも
 右崩落候土上に其儘有之大土手築き候
 姿に而敷八丁程も有之自然之山を現し候
 如く川下え水一滴も落不申川上瀬水之
 如く数ヶ村水下たに相成中六七丁又は十四五
 丁長さ五六里余   廿四日ゟ今日迄十日
 余に相成候得共未た水落不申右崩落候場
 所是迄之手水ゟは大凡八九十間も高く
 候処追々水  三十間余も水上え有之此節
 照続候故歟犀川減水致候右広場えたゝ
 へ候水嵩一昼夜に弐三尺位も之由此上大雨
 に而も有之候得は格別無左候而は二三十日
 相過不申候而は流れ落申間敷哉之由然る処
 川下村々に而は一時に切れ落亡村に可相成と
 食物に携山上え逃登或一村不残他所え
 立退抔騒居候風聞に付見分之者差遣し
 水上之様子為見届候処当時之姿に而は易
 容に切れ落可申様子は無之仮令満水に而も
 釻子之口之如く自然流れ落可申哉之由に御座候
一松代城下町は潰家弐た通り有之由に候得共
 場所に寄強弱有之領分一体に而は夥敷
 潰家死人に而是迄届有之候分弐千人余右山
 中郷之分未相見分不申候得共大凡壱万人
 程之死失に而も可有之由同藩之噂にも御座候
【二枚目】
一善光寺町は此節開帳中に付諸国ゟ
 参詣之道者夥敷同夜之地震俄にゆり
 に而逃げ出し候者も押潰二た足とも歩行致
 候間合せ無之押潰拾人之家内六七人死失
 又は一家不残死亡も有之死人之山を築候
 由其上三四ヶ所より出火致烈風に而焼払ひ
 町家九分通り焼失本堂山門本坊は
 相残候而已其余不残類焼前代未聞
 之大変に而追々承り候へは寺領八千人之
 人割三千人余死且参詣之道者凡弐千人余
 死失其外右道中筋に而同様死候者
 何千人と申事相知不申候由
一飯山城下幷上田領稲荷山村右善光寺
 町同様地震之上出火に付土地之者は勿論
 止宿之道者も夥敷死亡其外水内郡更
 科郡領郡之内北国往還筋は同様潰家
 幷死人も有之未た取片付け出来兼候場所も
 有之丹波伝ゟ善光寺辺今に臭気甚
 敷往来之者鼻を掩候由に御座候
一此度之地震之模様は信濃国水内郡根本
 と相見へ山崩れ地破夥敷又壱村皆潰之
 場所も有之高井更科 料 筑摩安曇
 之五郡は同様山崩れ潰家多分之場所に候へ共
 先つ枝葉之姿其内にも地脈寄候哉所々
 強弱有之小県佐久領郡は余勢而已に而及
 潰候程之家居無之夫に而も平常之地震に
 引くらへ候得は大地震とも可申哉之由
一越後国も同様大地震之由に候へとも風聞に而
 事実一向相分り不申候以上
  弘化四未三月
        信濃国
 支配所     御代官
  高五万石之内  高木清右衛門

  一弐千百十五軒   潰家
     内 拾軒   焼失
     内拾六軒   土中埋
  一七百八十弐軒   半潰
  一拾弐ヶ所     潰高札場
  一弐拾六ヶ所    潰堂宮
  一三百三拾壱ヶ所  潰土蔵
  一五百拾八人    即死
  一千四百六拾人   怪我人
  一百五十六匹    死馬
  一弐   疋    死牛

  右之通に御坐候依之御届け申上候以上
   未四月    御代官高木清右衛門

焼死大法会図

大地震記事

【右頁上段】
于時安政二乙卯年十月二日夜四ッ半時地震
発し一時に騒動して関東一円存亡夥敷く
人民肝を消て大路に転ふ天救を請て漸に命を
保もの官府の仁恵を乞て始て人心に帰す
 第一〇和田倉内〇大名小路
   〇大手前 〇日比谷内
先振動焼亡の所は和田倉内馬場崎先内
    《割書:  |会津二十三万石》        《割書: |武州忍十万石》      
「家紋」松平肥後守様やける「家紋」松平下総守焼る
       《割書:一 |越後村上五万九千石》
夫より「家紋」内藤紀伊守様やける此辺西丸下御屋
しき桜田内共崩れ多く損し広大なり
           《割書: |下サ生実一万石》
▲龍の口北之角「家紋」森川出羽守様やける
                 《割書: |姫路十五万石》
夫よりかた様御向屋敷やける「家紋」酒井雅樂
頭様やける但表御門残る此辺神田橋ぎは
左衛門尉小笠原右京太夫様松平越前守
道三橋辺御やきすべて崩おびたゝしく是より
向川岸は細川越中守様別条なく秋元但馬守様
此辺御やしき少しツヽくづれ多し松平丹波守様
水野壱岐守様松平越後守様何れも少ツヽくづるゝ
                  《割書: |江州三上》
大名小路は両側共崩所々也西側角「家ね紋」遠藤
《割書: |一万二千石》
但馬守様うしろ定火消御やき共やける
   《割書: |因州鳥取三十二万五千石》
「家紋」松平相模守様やけ御長家少しのこる
          《割書: |三州岡崎 五万石》
日比谷御門内「家紋」本多中務太輔様やける
    《割書: |摂州高槻三万六千石》
「家紋」永井遠江守様やける此辺いたみつよく
すきやばし通りかぢ橋通り共損亡おびたゝし
【左頁上段】
第弐 ○外桜田辺 〇かうじ丁 〇番町
   〇幸橋内  〇四谷赤坂 〇青山辺
外桜田ない芸州様御屋敷別条なく黒田様御屋敷は
角矢倉之御物見残り表御門きはまで御長家くづるゝ
此辺諸家様崩多く南は溜池へん西は赤坂
御門山王永田丁辺諸々崩る猶又新橋内東角
   《割書: |石州ツワノ 四万三千石》
「家紋」亀井隠岐守様御屋敷内にて長家一ト棟焼る
       《割書: |日向おび 五万千八十余石》     《割書:一行目|和州郡山十五万千三百》
それゟ「家紋」伊東修理太夫様やける「家紋」松平時之助
《割書: |八十石》         《割書: |奥州もり岡 廿万石》
様やけ又向がはゝ「家紋」南部美濃守様「家紋」薩州様
御装束屋敷表側やける其外有馬様丹羽様
北条様大岡様水野様鍋島様等いづれも崩
多し上杉様少し崩る「家紋」長州様うら御門内
        《割書: |肥前佐賀 三十五万七千石よ》
少しやける「家紋」松平肥前守様崩候上やける夫ゟ
山下御門内■手通り不残中にも阿部播磨守
様大崩れ又井伊かもん頭様ゟ三軒家辺
平川丁崩少なく麹町通所〳〵崩あり
谷町隼人山本町少しいたむ四ツ谷御門内は
尾州様紀州様共其両御やしき崩少し番丁崩なし
是ゟ四ッ谷伝馬町市谷は高地よ宜しく
鮫がばし丁抔ひくき場所いたみつよし当所は
上水万年樋そんし水あふれ諸人難義す
新宿成子大久保辺千駄か谷辺別してさはりなし
青山赤坂は所々そんし多く分けて田町伝馬丁辺
崩れ多く麻布龍土日がくほ辺すべて崩れなし
【右頁下段】
第六 ○上野広小路 ○坂本金杉辺
   ○根津池之端 ○御成道山下辺
東叡山御山内は御別条なく宿院諸所いたむ
池の端茅町弐丁目ゟ出火境稲荷より上は
七軒丁根津辺迄崩多く且共類焼なし
茅町は壱丁め木戸際にて焼とまる山側少々しのこる
出雲様榊原様無事也切通し下町家大崩なり
天神下通り崩つよく御すきや丁皆崩るゝ仲丁は
片側崩多く両かは丁は少し広小路山下辺崩多し
広小路東側中程ゟ出火上野元黒門町北大門丁
上野丁一丁目二丁目下谷同朋丁新黒門町上野
          《割書: |下サ一万石》
御家来屋敷向側「家紋」井上筑後守様東北の
角少し焼ける車坂丁大門丁長者丁壱丁め二丁め
下谷町二丁目代地是ゟ中御徒町通へやけの也
長者丁向片側御屋敷上野丁うら中おかち丁
一円御武家地やける山下通御かち丁は和泉橋
通り迄所々崩るゝ妻恋下建部様内藤様
               《割書: |いせ亀山六万石》
表長家崩るゝ下谷大名小路は「家紋」石川主殿頭
 《割書: |房州かつ山一万石》
様「家紋」酒井安芸守様二軒焼ける▲夫ゟ下谷坂本は
二丁目三丁目やけて金杉三之輪は崩多し大音寺前
根岸共少しふるひ谷中は多分の事なし又車坂下
山崎丁辺広徳寺前辺少し崩るゝ三味せんほりゟ
七曲辺大名方塀土蔵大半崩るゝ尤外神田
境は格別のことなく久右衛門丁餌鳥屋敷辺少し崩る
【左頁下段】
第七 ○浅草辺一円
   ○下谷境迄
北は千住宿崩多く小塚原丁のこらずやける
山谷通新鳥越は寺院共大崩れに新吉原
江戸丁ゟ出火五丁不残やける浅草田町二丁め
山下丁竹門馬道町寺院不残聖天横丁ゟ
芝居丁やける東かはにて森田勘弥羽左衛門
福助しうか竹三菊次郎などの家のこる聖天丁
山の宿はやけす九品寺ゟ西側花川戸半丁ほど
入やけとまる是ゟ金龍山観世音恙なく地内
崩多し並木田原丁多分也駒形崩多く中頃ゟ
出火して諏訪丁黒船丁三好丁御うまやがしにてとまる
夫ゟ御蔵前浅草見附迄所々崩多く鳥越新堀
寺丁辺所々崩る菊屋橋きは新寺丁角より
出火して両側小半丁やけこみ本立寺行安寺
正行寺三門前やけるこの裏てこうむね仁太夫の
こやうち潰の上やける堂前辺所々くずれ崩る猶又
八軒寺丁四軒寺丁の寺院大半潰る東門跡は
本堂恙なし地中大破也西東の門倒るゝ也
森下三間町堀田原辺所々崩れ潰共多し
小揚丁御組下長屋潰る稲富丁富坂丁
は潰れ多く又誓願寺店日輪寺店辺崩
所々也浅草溜少し崩る観世音五十の塔
九りん北の方まがる雷神門の雷神損じ浅

嘉永七年十一月大阪大地震大津波

諸国珍事末代記録鑑

諸(しょ)国(こく)珍(ちん)事(じ)末(まつ)代(だい)記(き)録(ろく)鑑(かゝみ)

嘉永七寅年中極細吟大新版 【枠外】

【右一段目】
東の方
大関《割書:十一月|九日》大坂地震津波
関脇《割書:九月|十八》同天保異国船
小結《割書:十月|六日》《書:八代目|団十郎》乗込并病死
前頭《割書:閏七月|寅ノ日》信貴出寅守
前頭《割書:六月|十四日》奈良大地震
前頭九月《割書:大坂|長町》お市三ツ子産
前頭《割書:十一月|五日》阿州徳島大火
前頭《割書:六月|十四日》郡山大地震

【右二段目】
前 十一月 岡崎矢矧落ル
同 九月  湊死去
同 十一月 宮大津波
同 〃   平野大地震
同 七月 北ノ新地踊り
  二月《割書:八丁目|寺町目》地獄戻り
同 六月なんバ砂持
 十一月河内松原地震
同〃  堺津波
同〃  原吉原丸焼
  四月坂町いてう娘
同十一月岡山大あれ
同 六月いてう丼酒

【右三段目】
同十一月播州《割書:ちしんころ|とろ吹上る》【液状化】
同〃  兵庫大地しん
 〃  江州彦根同
 〃  紀州高野同
同〃  鳴門同
    ちりふ《割書:ぢしん|大つなみ》
同〃  藤川同《割書:七部|くつれ》
    赤坂同《割書:のこ■|くつれ》
同〃  御油《割書:ぢしんニ而|大あれ》
    よし田同《割書:五部|くつれ》
同〃  二タ川同《割書:五部一行目|くづれ》
    白すの同《割書:八部|くづれ》
同〃  舞坂同《割書:四部|くづれ》



大阪大火之図

大阪今昔四度の大火

【方角記号】【地図の題字】大阪/今昔(むかしよりいままで)四度の大火【四角で囲む】
【題名下】
火事の恐るべき事は誰も知らぬ者は無けれども消防機関の整はぬ昔は兎も角今日にては
水道あり蒸気ポンプあり決して火事は大きくならぬと枕を高ふするは誤りなり一朝風はげ
しく水の手悪しければ今回の如き大惨狀を起すにゆめ〳〵用心にも用心をして火を麁
末にすべからず爰に今昔の大火事を封照して恐るべき大火災の惨狀を我人共に後々の心得
の篇にかくは記しぬ
【地図 右上から】
明治四十二年北区大火【四角で囲む】
享保九辰年大火【四角で囲む】《割書:金屋妙智|焼といふ》
天保八酉年大火【四角で囲む】《割書:大塩焼と|いふ》
文久三亥年大火【四角で囲む】《割書:新町橘より玉造まで焼ける|俗に新町焼と云ふ》【割書部朱書き】
【下段】
明治四十二年天満の大火
明治四十二年七月丗一日午前三時三十分頃大阪市北区空心町二丁目天満橋筋西側
莫大小製造商玉田より出火折節東北の大暴風加ふるに土用炎天纉きにてかわき切
つたる事なれば何狀たまるべき見る〳〵附近の松ヶ枝小學校を焼き拂ひ火勢西南
に延焼し第一の防火点たる堀川にて防ぎ得ず爰に於て火勢いよく猛悪となり南
は堂嶋一圓北は曾根崎及梅田附近を焼拂ひ上下福嶋迄延焼し翌八月一日午前五時
四十分頃終に鎮火せり其延長賽に一里半幅員十餘町なり焼失表左の如し
町数 百数十町
橋梁 十三ヶ所
戸数 一萬二千餘戸
劇場 五ヶ所
學校 八ヶ所
神社佛閣 二十ヶ所
第四師團全部消防に従事す 京都 神戸 東京 より消防隊應援す此人員約五千名
損害高 無慮壹億圓
【縦線】
享保九年の大火
享保九年辰三月丗一日(百八十六年前)のひる九ツ半時南堀江橘通り弐丁目金屋
妙智といふ人の宅より出火いたし南風はげしく新町へやけ出終に北野迄焼払西は
あみた池迄東は木綿はし邊にて火鎮り西横堀北へ焼行博労町北がはへ火移り夫よ
り北は船場のこらず焼失又天満へ飛火川崎迄中ノ島堂島西天満のこらず焼
失廿二日朝北東風になり上町へ飛火致追々北風はげしく上町一面に成それより高
津へ移り嶋ノ内一圓それより道頓ぼり芝居へ飛火いたし火先いくつにも相なり難
波新地長町不残焼失す  其節大阪四百八十余町之内四百丗町余実に大阪初マツテ
の大火にて親子兄弟はなれ〴〵となり五畿内は勿論丹波丹後伊賀伊勢江州播磨淡
州等へにげ誠に其なんぎいわんかたなし
かまど数 九萬八千七百余
土蔵 二千八百余
死人 凡三萬余人
けが人 十弐萬余
【縦線】
天保八年の大火
天保八年酉二月十九日(七十三年前)朝五ツ時天満より出火風はけしくして所々へ
飛火いたし上町御城邊まて焼失北せんば長者町大家處々焼失夫より南本町までや
け然るに火事塲にて何物ともしれずあやしき風俗にて大阪市中あれ廻り人々の混
雑いわんかたなき次第それゆへ諸国在々へ逃る事実に蜘の子をちらすがごとくに
て日本國中に其節は此大火の噂サばかりなり実に希代の大火大そうどふ也
町数 百十二丁
かまど数 一萬八千五百七十八軒
土蔵 四百十一ヶ所
穴蔵 百三十ヶ所
寺社 三十六ヶ所 死人怪我人 数しらず
【縦線】
文久三年の大火
文久三癸亥年十一月廿一日(四十七年前)夜五ツ時新町橋詰北へ入所より出火い
だし候所西風はげしくして東へ一時に焼行夫より北西風になり巽へうつる又西南
に風かわり丑寅へやけゆく事はげしく夫より上町へ飛火にて火勢ます〳〵はげし
くせんば上町とも一事にもへあがり誠に大阪中火となるやう相見へ候まことに老
若男女の驚き筆紙につくしがたし終には大阪東のはしまて焼失仕候見る人大
阪市中のそうどうさつし玉ふべし同月廿三日晝四ツ時火鎮り申候
町数 百五十二丁
竈数 二萬五千余
土蔵 三百二十余
神佛 八十余 死人 四十六人 けが人 数しれず
【縦線】

【紙面左側欄外】
複製
不許

明治四十二年八月七日印刷    大阪市東区糸屋町二丁目六〇
仝   年八月十一日発行  《割書:印刷兼|発行人》高橋五之助 

  東区松屋町博物場北ノ辻角
《割書:発売元》 家村文翫堂

  東区南本町壹丁目
《割書:特約店》 西岡商店












疫癘速かに治する妙薬法

  疫癘(ゑきれい)速(すみやか)に治(ぢ)する妙薬法(めうやくほう)

□【一?】時疫(じゑき)を治するには。芭蕉(ばせを)の白根(しろね)掛目五匁おろししぼりて。
其生汁(そのなましる)を冷水(れいすい)一合にくはへ呑(のめ)は治する事/速(すみやか)也。熱(ねつ)つよきには
□て呑(のむ)べし。若(もし)ねつ裏(り)に入(いり)てはつさんしがたきには。四五日も
つゝけ呑(のめ)は熱(ねつ)はつさんして命(いのち)にさはりなし。近頃江州日野住人(ちかころこうしうひのゝちうにん)
中井/某(それかし)此/同方(とうはう)をしるし。印施(いんぜ)【注①】ありて疫難(ゑきなん)をすくふの功大(こうおゝ)ひ也
一七/曜(よう)の中の月/曜星(ようせい)もし五月五日にあたれはそのとし疾疫(しつゑき)
の愁(うれ)ひ多(おゝ)しと或経(あるきやう)に説(とけ)り。然るに当亥(とうい)のとし五月五日月曜に
あたれり。よつて其/愁(うれ)ひあらんことをおそる此ごろ間々(まゝ)疫病(やくひやう)
の流(はや)る事をきく。凡病の難治(なんぢ)なる傷寒(しやうかん)【注②】温寒(うんかん)疫癘(ゑきれい)【注③】に
越(こゆ)るものなしと。此/妙方(めうはう)我家(わかいへ)にもむかしよりつたへてあまた
の人に用ひこゝろむるに一人として治せざるはなし誠に仰(あを)ぎ
用ゆへき珍方(ちんはう)なれば。今/先人(せんじん)の志(こゝろざ)しをついで弥(いよ〳〵)この薬方(やくはう)
をひろめて。世(よ)にひとしく益(ゑき)あ□【ら】んことをこひねがふのみ
 熱症(ねつしやう)は冷水(れいすい)を用ゆべし。若(もし)陰症(いんしやう)【注④】か又水を好(この)まざる人には
 湯(ゆ)をくわへ用ゆべし但はせをのなき所にてはめうが
 の汁(しる)を多くのみてよし又/牛房汁(ごぼうしる)を呑(のみ)てもよし
附リ
 痢疾(りびやう)の治しかたきに。はせをの根(ね)をせんじ服(ふく)すれは治する事
 すみやか也

  文化十二□【乙】亥夏    平安 三笑洞印施

【注① 世のためになることを印刷して世人に知らせること。またそのもの。】
【注② 昔の、高熱を伴う疾患。いまのチフスの類。】
【注③ 悪性の流行病。疫病。】
【注④ 漢方医学で、病勢が体内にこもって外に発しない状態。発熱などの症状が現れない病気。】

京洛中大焼節届の次第

【一枚目】
天明八申歳
さるのとし正月廿九日あさ
     あけ六ツゟやけ
さゝや  助左衛門
かなや  利兵衛
まつや  弥兵衛
ふじや  おみつ
ますや  源右衛門
いつゝや 庄兵衛
大文じや 治右衛門
万や   かん左衛門
山かたや 嘉兵衛
はせ川  弥三郎
はせ川  与介
大こくや 長右衛門
     おいこの
大こくや 源吉
はかまや 久兵衛
さゝや  治兵衛
さゝや  三之介
たわらや 権右衛門

 今年卯としまてに
 三十弐年かと奉存候
一ほかにもいつけは御さ候
 これはつきゆへはなし【?】
右之内いゑたいちんは
わかさや治郎左衛門けふだい
はかりにて候
  右届はやけのとき
一そのもととのゝ心ざし
 やけ見まいとして
一金子弐両わた入ぬのこ
一白米五斗
一みそ 壱おけ
一かうのもの壱おけ
一さわら十本
一たひいろ〳〵〆
 五十壱そく
一おわり大こんの
 きりほし
一壱貫目これもさて〳〵
 けつかうちゆうほとの
 しなに御さ候ゆへに
 つかうたい〳〵に
 あまりかたしけ
【二枚目】
のふてありがた
なみだこぼして
つかい申候くわじ
みまいくたされ候て
あや徳へもしんぜ
そのほかいつれも
すこしづゝしんせ
とのやうにみな〳〵
よろこひ申され候
なを〳〵いつまても
わすれおきわ不申候
そのせつていきやあか【?】
ひやうきにも
一白銀おひたゝしく
 くたされたひ〳〵
 かす〳〵ありがたい
 事と奉存候【?】
 れいつくしかたく候
 十七けんの内にて
いへたいちんは
わかさやけふだい
はかりにて候
ほかはあと以内知【?】申候
右やつかいになるほと
の事に
まつ〳〵壱人も
やけし人なく
これかありかたい事
一むなん〳〵ほうかい【?】
 なむあみたふつ
かまとたけの
やけ人はおひ
たゝしく事【?】
此所ゆめになれ候
なむあみたふつ
  ていきやう
 善左衛門との
みへまいわかる【?】
まいすいさつで
よみくたされ候

【書状裏、文字なし】

安政二卯年十月二日夜地震大花場所一覧図

慶応四戊辰年大洪水細見図

京都大火本しらべ

鯰を蹴散らす伊勢神宮神馬

鯰に金銀を吐かされる持丸

嘉永七年寅十一月大阪大地震大津浪

《割書:嘉永七年|寅十一月》大坂大 地震(ぢしん)大 津浪(つなみ)
【紙面上から一段目】
《割書:十一月四日|五ツ半時》大地しん
清水舞台願教寺たいめん所崩れ
天満天神井戸屋形▲座摩石鳥居
絵馬堂崩れ▲本町狐小路高塀崩れ
▲西寺町金ひら絵馬堂▲福島上ノ
天神うら門鳥居崩▲中ノ天神拝でん
▲下ノ天神絵馬堂▲五百らかん門そで
かべらかん堂同台所光智院玄関
▲なんば鉄げん寺つりかね堂▲御まへ井
戸やかた▲両御堂境内所々大にそんじ
安如寺しゆろう【鐘楼】堂▲天王寺たいこ堂
▲ふとうじ菱に成▲其外宮寺所々
有之といへども一々爰にしるしがたし
  町々崩家記す
▲さのやばし塩町北入高塀崩死人ありはご板橋北
詰角崩出火▲小間物棚戸や町此辺多く崩
帯や町北がは土蔵崩▲永代はま大安蔵くづれ
▲堂島さくらばし南詰西へ七八軒崩れ▲あじ川
明正寺本堂崩▲幸町■■より南へ七八けん
▲北ほりへ四丁目五六軒▲両国橋かくや町西
南角十四五軒▲常安寺南詰十六七軒
▲のばく【畑地】蝋納や崩蝋墨土砂と成▲汐津橋北詰
五軒▲西口井戸辻▲北久太郎町丼池順けい町
丼池此外裏長や等多く有之筆につくしがたし
▲九条村▲前たの辺▲勘助島▲寺島▲富島
▲戎島▲江ノ子島▲ざこば辺▲長柄大仁村
▲梅田辺▲天王寺村▲天下茶や村▲今宮
此外木津
なんば所々
新田近在
所々有之と
いへども事
しげき故
略之
【挿絵の文】
大坂市中
毎夜
 〳〵
野宿
 図

【二段目】
   津浪の次第
翌五日
十一月五日【「昼」と右に傍記】七ツ時大地しんとなり候所何方ともなく
千万の雷落かゝる如く鳴ひゞき皆々大におそれ
ふしきに思ふ□暮方より二丈余りの大つなみ打来り
大船小舟のきらいなく津浪のために打あげられ
或は打われみぢんと成又内川へ押■■れ大船の
帆柱にて橋々を打落し道頓堀川大黒橋まで
千五百余艘の大船押登り船の上へ舟二重
三重にかさなり亀の甲を干すがごとく其中にも
あはれなるは昨今の地しんにおそれ町々の老若
男女貴賤の別ちなくうろたへさはぎて茶船
けん先き家形舟あるひは上荷三十石おもひ〳〵に
乗りうつりゆりつぶされるうれひなしと悦ぶ
かいもあらかなしや一時に津浪押かゝり舟もろ
ともに水底へひつくりかへりし啼声は大坂中へひゞ
きわたり誠にあはれ至極目も当られぬ次第也其外
西辺の人々蜘の子ちらすか如く上町さして逃る人数しれず
【右から横書きの所】
川へ押上けられたる舟凡

 安治川口      木津川口
千石以上 六十艘  千石以上 二百艘余
千石以下九十五艘  千石以下 四百艘余
いさば【注】  三十艘  茶 船  八十四艘
上荷  百十五艘  上荷 六百七十四艘
〆         いさば  五十艘
此外みぢん半割れ凡六百余艘あり
【注 魚問屋、魚の仲買人の意。】

【右から横書きの所】
水死一す■増
▲橋通にて四十八人▲南ほりへ《割書:四丁メ|五丁メ》凡三十三人
▲よしや町二人▲下はくろ四十三人▲四郎兵衛町四十五人
▲玉手町九人▲幸町凡弐百人▲金や町十一人▲寺
島四十二人▲勘助島五十三人▲大国町六人▲新
戎町八人▲あじ川口凡百五十人
  死人凡〆 《割書:男弐百六十三人|女三百八十七人》
右之外所々の川に死人有之候へとも
未其数不分他国より入込又は船頭是
等人には未幾千人とも相わからす候

【三段目 地図中の文】
 川岸心得之事
▲コレハ橋々の落たる印ナリ
●川の両側船ニウタレ人家
 大崩レ不当家スケガ
 ナシ損シ船ニ■乗ぬ
        ■■也

【四段目】
《割書:宝永|年中》大阪《割書:大地震|大津波》 《割書:次|第》
宝永四年《割書:亥》十月四日午下刻南西の方より
震い出し西横堀を始伏見堀立売堀
南ほりへ心斎橋南より北へ不残崩れ西横堀
通り不残崩其上鳴動いたし大津
浪逆登り大船の帆柱にて橋々を打
落し道頓堀日本橋迄大船□押込
安治川口も同断也四日朝より廿五日迄毎日〳〵□
大地震故家蔵夥しく破損有□□〳〵
恐しき大地しんなり

  北組
潰家 五百七十九軒
死人凡二百七十八人 《割書:男百十四人|女百六十四人》
  南組
潰家 三百十四軒
死人凡三百四十五人 《割書:男百四十八人|女弐百八十七人》【計算が合わない】
  天満組
潰家 百六十八軒
死人凡百十壱人  《割書:男三十一人|女八十人》
右三郷潰家〆千六十一軒 死人〆7百
三十四人あり けが人数しれず
大地震大津浪にて破損家死人舟橋左之通
家数六百三軒 橋数五十 船数大小千
三百余艘水■人七千人余洪水にて死人一万人
右宝永四年より宝暦六《割書:子》年迄五十年に
相当る梅田墓所にて三月十七日より
二七日の間万燈会供養諸宗大法事
修行するとあり
宝永四より嘉永七年迄百四十八年になる

【右から横書きの所】
嘉永七寅年中末代噺
正月 相州浦賀へアメリカ舟来る
二月 品川に御台場立同廿日異国船帰る
三月 さくらの宮正せんぐう
四月 六日午刻より京出火内裏炎上
五月 大坂御城石かけくづる
六月 大坂二本松町孝女御褒美
七月 同宮々御千度町々より出る
閏月 信貴山寅の守り出る
八月 大坂両みどう地築き
九月 十八日天保山沖へヲロシヤ船来る
十月 大坂長町男子三人産
十一月 大坂下【左の傍記■■】■■■にて水死■せがき
十二月 廿八日大火神田より日本橋近迄




安政二卯十月二日地震焼場所附

弘化丁未信濃国大地震之図

濃尾大地震後図

【見出し】
《割書:明治廿四年|十月廿八日》大地震後図

【見出し下部】
豊原国■画

明治廿四年十一月 日《割書:印刷|出板》
深川区常盤町一丁目
    十一バンチ
《割書:印刷|発行》兼 石井六之助

【本文】
明治廿四年十月廿八日
午前六時すきの地震
はわけてぎふ名古屋大垣
地方はけしくしんどう
おひたゝしく山くづれ家
屋ことごとくつぶれ死人
何万人なるかかつしれ
づおやにわかれおつと
にわかれわつか二三才の小
児一人のこる死したる
■【身ヵ】にとりすがりなき
さけびたるありさまは目
も当られぬふびんなり
さつそく所々へきう
助おもうけけがにんは
お手あてなしたり
じつに古今まれなる
大地震といふへし

本しらべ京都大火の説後編

【題字】
庚子七月風聞
《割書:後 |編》《割書:本|しらべ》京都大火之説
【題字下】
  九百五十町  十九日朝
凡 七万八千軒  六ツ時より
  土蔵三千七百 廿一日ひる
         八ツ時に鎮火
【右上】
らく中の
■【四角印】
辻ゟ辻一丁町なり

ふしみ
上りば
表丁
住よし
まで
やける
【左下】
増丁御門辺ゟ火
又々かわら丁二条
辺ゟ火上には一条ゟ
七条辺迄火又々
伏見火みぶとび火

安政二年大地震の絵

関東大地震並出火

《題:関東大地震《割書:並|》出火》
夫人として考なきは人にあらず江戸大地
しん大火と聞いては遠国の親兄諸親類の
嘆き悲み何斗りそやこれ一時もはやく人々の
安か尼存亡をしらしむる一助たらんこと巨
細にしるすと頃は安政二年卯十月二日夜四つ
すき雨御丸下数形備後守様本庄女芸せい様
本多越中守様酒井右京様此辺の御屋
敷少損じ松平下総守様焼る松平肥後守
様同向やしきやける松平伊賀守様内藤紀伊守様
松平玄蕃頭様少し損じ也八代すがし一は松平相模
守様同添やしき火消やしき遠藤但馬守様
ふ残やける鍛治橋御門うち松平三河守様
鳥居丹波守様松平和泉守様松平安芸
守様少々そんじ内水野周防守様
松平丹波守様久世大和守様備前様少々
細川越中守様松平伊豆守様秋元
但馬守様てんそう御屋敷少々いたみなり
大名小路は河津伊勢守様松平内蔵頭様
松平和泉守様織田言少輔様御やしき
少々つかの損じなり日比谷御門内土井
大炊頭様本多中務様松平右京様
長井遠江守様少々そんじ松平河内守様
松平土佐守様牧野備後守様松平主膳頭様少々損じ
常盤橋内松平越前守様夏目左近将監様
間部様太田様小笠原様酒井左衛門様一ツ橋様少々也
山下御門内松平肥前守様阿部様播磨様松平大膳
大夫様御屋敷損じる外桜田は上杉弾正大弼様板倉
周防守様大岡越前守様大久保駿河守様石川近江
守様西尾隠岐守様相馬大膳亨様少々損じ阿部因幡
守様水野出羽守様小笠原佐渡守様北条美濃守様
松平伯耆守様三浦志摩守様少々そんじ霞ケ
関長田馬場山王辺少々いたみ幸橋御門内松平
時之助様薩摩宰相やしき鍋島加賀守様少々
有馬備後守様丹波長門守様少々あたらし橋内
亀井隠岐守様真田信濃守様少々そんじ
愛宕下辺は場上馬芝三田辺田申輪前川
此へん少々是より南み方は川崎宿あたり
宿中少々やける神奈川宿少々損じなり
一新吉原五丁町大ひと崩れ東町より出火
■■■は内ふ残焼る又一口は小塚はらやける也


千住宿少々いたみ其外田まち辺■■丁芝はた
町三丁やける役若しん道かた側のこる浅草観音
境内は少々の損じ駒形丁すは丁黒舟丁焼
並木通門跡前此辺そんじ少くあべ川町少々
やけるしんほりばたほつた原辺御蔵前
どふり茅丁辺少々いたみ又一口は下谷辺
上野町壱丁め辺より広小路はんかはどふり
長者町石川主頭様黒田様井上様小笠
原様やける千だん木だんこ坂此辺少々谷中
根津少々の損じ本郷辺は湯しま少々焼る
菊坂駒込辺向山板はし少々いたみ物又
筋かへうち神田須田丁辺今川はし通少々損
十軒店むろまち日本しとふり少々のそんじ
南伝馬丁二丁目三丁目南鍛冶丁五ら言へ丁大工
丁具足丁畳丁柳丁ときは丁経木丁しら魚
やしき大根し竹がし辺迄横立十焼けのこり
本八丁ほり鉄ほうづ築地へん少々のいたみ
つくだ島少々やける八丁ぼりへんはかく別の事なし
霊かんじま南しんほり大川た少しやける
永代ばし少々そんじ深川あい川丁富吉丁
中しま丁北がは丁大しま丁はまぐり丁くろ井丁
さいねん寺ゆぐらした永代寺門前やける八幡宮
本社別条なく寺内少々損じ三十三軒堂
少々いたみ高はしとききは丁八名川丁六けんほり
大はしきは迄くずれ本所たて川通り石原林丁
津軽様御中やしきみとり丁のこらずやけるなり
西の方小川町へんより出火にて飯田町近へん迄
やける小石川辺は松平讃岐守様少々崩れ岩城
椎五郎様御やしき崩れ其外大小名少々損じ
四ツ谷赤坂かうし町辺青やまあざぶ辺少々そんじ
前代聞未の大ぢしん然れ共御城内無別条なし
御江戸五里四方の損じ大方ならす御こり三日夜しづまる
諸人安堵のおもひをなしぬ目出度し〳〵
一御公儀さまより御憐醫以て
貧民野宿の者へ御救ため
幸橋御門外深川海辺大
工丁浅草広小路右三ヶ所
九軒と七十一軒之小屋を建
        御上様
御仁恵御徳沢余ぉ
奉行史に難有奉共也
一江戸町数五千七百廿三丁未日は土蔵〆
十一万三千二ひゃく八十余神社仏閣損じ也

動いて
  なき
御代の
 栄を増神
かきてそいのる
   伊勢のかみ江


かわりけん

江戸鯰と信州鯰

【右頁上側】

〽これはたひへんだ
これではおれなん
ぞはとてもかな
わねへから おや
じ【親父】や かじ【火事】にも
そういおふ

かしま【鹿島大明神のこと】
〽これはたいへんはやく
いつておさへてやらずば
なるめへ

【右頁下側】
【おでん屋看板】
おでん四文
かん酒

おでん
〽ふるかねや【古金屋】さん ごらんな
みんなよつて あんなに
いじめるに
なさけへねへ
のふ

【左頁上側】
水かみの
つげに命を
たすかりて
六分の
内に
入るぞ

しき
【水神のお告げのお陰で生き残った6割の側に入った~という和歌】

〽もふこれからは
ひつこみ〳〵

【左頁左端中央】
いなか【田舎者の意】
〽ヤア〳〵これは
たいへんのこんだこれ
そんねへにおすなへ まんざいらく〳〵

【左頁下側】
職人
〽マア〳〵だんながたそん
なにせずと もうかん
にんしておやんなナせへ
それではわつちらが
こまります〳〵

〽かないません めくらといざりに
いのちだけの ごほうしやくだ
さりまし アゝ〳〵これはたいへんだ
これではおもらいにこまりきる

慶応二年京坂地方大風雨之図

尓時慶応二年寅八月七日
夜四ツ半頃より辰巳の方より風
ふき出し追々大風となりて
天地震動する事言語にたへたり
人家屋根こと〳〵く吹あけかへ
ふきおとしいつれも鳥籠のことし
尤吹たをしたる人家おひたゝし
上は加茂を始諸山又神社仏閣社損し
数多し東寺大そんし桟木凡八十本
計打たをれ東山祇園知恩院清水其外
諸境内大そんし諸堂はいふに及はす
桟木三百十本計大木打たをれたり
東本願寺諸御堂ふしん出来たるをこと〳〵く
吹たをし元のあれ地と成たる事残念の
いたり也町家凡八十六七軒計打たをれ損し家
      数しれす死人凡弐百余けか人は
      これも数しれす桂川三り余大水
           一面の海のことしと舟にて往来す
           伏見淀大水天橋落る
           大坂天神はし安治川はし落る
           高つき南山城小倉
           大あれのよし中々
              筆につくしかたし
            誠前代未聞の大風のよし
               恐れつゝしむ
                   へき事也

【椾は桟の異字体】

本しらべ城州伏見大火の図


 しらべ
城州
  伏見
 大火
   の図

慶応四年
 辰正月三日
   申の刻より
 出火いたし候
《割書:伏見|淀其外》同五日鎮火
《割書:所々合て竈(かまど)|数凡四千五百》いたし候
《割書:六拾七軒 土蔵数凡三十八ヶ|》
《割書:所と云 神社仏格もあまた|あるといへとも今しばしつまひか》
《割書:ならず|》

前山破裂当時の図

三陸海嘯絵報

京大坂伏見大地震

【朱書】
文政十三年(天保元)
【題字】
京大坂伏見
大地震
【本文】
頃は
七月二日ひる
  七ツ時ゟ
ゆりいたし
京大坂伏見
らく中落かへ
にし東本かんし
町家土蔵に此へん
へつしてつよく
牛馬命うしのふ
事かづしれず

二日三日四日
其内五六度
ほとは
殊の外
つよく
其せつは
をふらいへ
たゝみ
戸なぞ
侍【持誤ヵ】出し
 其上に而  【朱丸印「上田文庫」】
老若男女とも神ふつをいのりおかけにや四日の夜あけ
七ツ時よふ〳〵しつまり夫より大あめしきりにふり
出し殊に伏見なとに而は三日の内しんとお【1】いたし老
若男女きい【2】のおもひをなし候得ともこれまつ
たく王城之地ゆへけかもなくしつまりしにとかや

【1,振動ヵ】
【2、奇異ヵ】

弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頹川塞湛水之図

大坂・堺・伏見火災絵図

関東類焼大地震

大阪南船場大火

伊勢伊賀志摩近江尾張美濃大地震の図

じしん百万遍

平安大火末代噺

京都近世大火略図

嘉永三年江戸落雷の図

              夫天地不時の変動は
              陰陽混じてげきする也
               地にいれば動いて地
                震となすてんに
                 あると時は雷声を
                  はつすとか
                  や頃は嘉永
                   三年戌の
                     八月
                八日の夜江戸表
                  国々ともに
                雷のなることおびたゞ
                しくいなびかりは
大地にも入べくかゞやきわたり げに 出来秋のみ入
よしととぞおもわれける又雷は よう気のはつする
所にして陰気をはらひ邪気をさんずるがゆへに田畑
に生ずる五こくはさら也もろ〳〵のやさい物又はなりくだ物
にいたるまでよく熟してみのりよしとかやされば天幸ひ
を万民に下し玉ふ所なれば幸ひの下りし場所を小細しるす
       鳴神御下り場所
●日本ばしくぎ店  ●もと大工町  ●尾はり丁
●芝口三丁目    ●うだ川丁裏通 ●つきぢ
          ●神明丁うみ手 ●西久ぼ尾町
                  ●西久ぼ森本
                  ●あたごした
                  ●青松寺山
                  ●本所うまや堀
                   《割書:此所にてら獣|いけ取て今に有》
                  ●芝松本丁
                  ●赤ばね
                  ●七まかり
●白かねたい丁   ●ふなほり   ●柴井丁海手
●麻ふ広尾二ヶ所  ●品川沖へ三ヶ所●青山二ヶ所
●神田多丁     ●いつみ橋向  ●下谷二ヶ所
●ゆしま      ●妻ごひ坂上  ●本郷元町
●ごちんが原二ヶ所 ●番丁九ヶ所  ●小石川二ヶ所
●いゝたまち    ●青山久ほ町町 ●本所竪川三ヶ所
●権之田はら
●霊かん橋茅ば丁
●ふか川北川丁
●同六けん堀柳川丁
惣〆五十四ヶ所余
右之通に候得共人々にけが
なきは全く神国の御
いとく也万々歳目出度一條〳〵


四ツ目ヨリ天神川通リ堤上ニテ江戸ノ方ヲ見ル図

岐阜県愛知県大地震実況

《割書:岐阜県|愛知県》大地震実況

天変地異(てんへんちゐ)は往古(おふこ)より間々(まゝ)
有事(あること)書(しよ)にも見(み)へ古老(こらう)の咄(はなし)
に聞伝(きゝつた)へしが今回(こたび)尾州(びしう)濃(のう)
州(しう)両国(りうごく)非常(ひじやう)の震災(しんさい)に遭(あひ)
し人民(じんみん)が其惨苦(そのざんく)筆紙(しつし)【ママ】言(こと)
葉(ば)に尽(つく)しがたし其(そ)があらましを
記(しる)さんに明治廿四年十月廿八日
午前六時十五分 忽(たちま)ち大地(たいぢ)一(いち)
時(じ)に震(ふるい)幾千(いくせん)の家屋(かおく)を倒(たほ)し幾(いく)
百名(ひやくにん)【ママ】の人(ひと)を圧(あつ)し山(やま)は崩(くづれ)地(ち)は亀(き)
裂(れつ)し加(くわ)ふに火(ひ)を出(しゆつ)し岐阜大垣(ぎふおほがき)
のごときは全市(せんし)悉(ことごと)く焼失(しやうしゆつ)す
又(また)名古屋にては潰家災後(つぶれやさいご)
の類焼(るいしやう)人畜(にんちく)の死傷(ししよう)家屋(かをく)
の損害(そんがひ)その他(た)近県(きんけん)の
破損等(はそんとう)おびたゞしく前代(せんたい)
未聞(みもん)の珍事(ちんじ)なり

【紙面左下】
明治廿四年十一月■日印刷
仝  年十一月■日出版
日本橋区長谷川町十九バンチ
《割書:印刷兼|発行者》福田俣次郎

【コマ1に同じ】

家苦ばらい/ほうぼうへ逃状の事

【上の資料】
家苦(やく)はらひ
〽アヽラ
うるさいな〳〵
今(こん)ばんこよひの雨風(あめかぜ)に家(いへ)くら堂社(どうしや)おしなべて町(まち)もやしきも
おに瓦(かはら)屋根板(やねいた)迄(まで)もさらひませう去(きよ)ねんのやくの鯰(なまづ)めが
一周忌(いつしうき)にははやて風(かぜ)八月すへの五日(いつか)はや軒(のき)なみそろふ家々(いへ〳〵)も
きのふの無事(ぶじ)はけふの苦とかはるもはやき飛鳥川(あすかがは)岡(おか)は渕瀬(ふちせ)の
大出水(おほでみづ)かぜにはおそれ入豆(いりまめ)のさて〳〵ふくは福(ふく)はうち旦那(だんな)お門(かど)を
ながむればそらに戸板(といた)が舞上(まひあが)り平地(ひらち)の池(いけ)となるかみに泪(なみだ)の
雨(あめ)の水(みづ)ましてながるゝ船や竹(たけ)いかだながいものにはまきはしら
立(たち)よるかげの大木(たいぼく)も根(ね)から折口(おれくち)死出(しで)の山寺(やまでら)にはかなきおり
からにこのやくはらひがとんで出ふくろの中へさらり〳〵
             風雷散人戯述【巴文様】


【下の資料】
     ほう〴〵へ逃状(にげじやう)の事
一此あら四郎と申もの生国(しやうこく)は風(かぜ)さの国(くに)辰巳郡(たつみこうり)
 早手村(はやてむら)出生(しゆつせう)にて怪気(あやしげ)なる風来(ふうらい)ものに御 座(ざ)候間
 荒魔(あらま)ども失人(うせにん)に相立(あいたち)雷(らい)でん方(かた)へほう〴〵に
 逃出(にげいて)候所 殺生(せつせう)なり並木(なみき
)之 義(ぎ)は当吹折(とうふきおり)の
 八月二十五日の夜(よ)より翌(よく)六ッ時までと
 相(あい)きわめ困窮人(こんきうにん)の義は損料(そんりやう)七分(しちぶ)の
 割合(わりあい)を以(もつて)風雲(かざぐも)吹(ふき)かへしとして屋根板(やねいた)瓦(かわら)
 ふらされべく候 御(おん)仕きせの義は
 夏(なつ)は佃島(つくだじま)の水浅黄(みづあさぎ)ひとへもの一ツ
 冬(ふゆ)は破格子(やぶれごうし)のすのこ一枚(いちまい)可被下候
一 諸方(しよほう)木様(きさま)御破損(ごはそん)の義は
 申におよばず御家(おいへ)のぶさ
 ほう相(あい)たをし申ましく候
一 愁傷(しうせう)の義は代々(だい〳〵)一向夢(いつこうむ)
 中(ちう)にて寺は人(ひと)□築地(つきじ)
 門(もん)ぜつ地中(ちちう)本堂院(ほんどういん)つぶれんじ
 大破(たいは)に紛(まぎ)れ御座なく候もし
 この者か女中方(じよちうがた)の閨(ねや)をつぶしうんすうの鼻(はな)あらしをさせ
 松杉(まつすき)の大木(たいぼく)をねこきとなし折逃(おりにげ)屋根落等(やねおちとう)致(いたし)候はゝ荒魔(あらま)
 早速(さつそく)うかれ出 雨戸(あまど)こぢあけ可申(もうすべく)候あらしの雨(あめ)ふつてむさんの如(ごと)し
               難渋(なんじう)ふきやしき
                 家(いへ)なし飛蔵店(とびぞうたな)
   台風(たいふう)百年目      失人(うせにん) 並木(なみき)や多尾(たを)四鶴
      八月二十五日   とんださはぎ町
   浅草雷神門前(あさくさらいじんもんまへ)    木戸(きど)なし ふみぬきや釘蔵(くぎぞう)
     鳴神屋(なるかみや)
       五郎右衛門殿


痲疹養生法

 此節世上もつぱら麻疹(はしか)流行(りうかう)いたすの処 初(はじ)めは随分(ずいぶん)病躰(びやうてい)宜敷やうなれ共 後(あと)の不養生(ふようぜう)にて
 仕損(しそん)ずるものも多くこれ有哉に見聞(みきゝ)いたし候 医師(いし)方(がた)とても病用(びやうよう)繁多(いそがしき)おりから故 後(あと)の
 禁忌(いましめ)まで行届(ゆきとゞ)かれぬも間々(まゝ)有べきなれは自分(わが)推量(すいりよう)にて聊(いさゝか)の食物(くいもの)より怪我(けが)
 いたし候様なる事ある時は悔(くい)てかへらぬ事なるべし是 我身(わがみ)我子の一大事なれば
 よく〳〵慎(つゝし)み養生(ようぜう)肝要(かんよう)にいたすべき事なるべし
一麻疹 発熱(ほつねつ)のとき外(そと)は冷風(ひやかぜ)をふせぎ内(うち)は冷(つめた)き物の類を食(くは)する事なかれ内外
 とも熱(ねつ)つよきことのなればかならず病人は外より冷(ひへ)る事をこのみまた内には
 生物(なまもの)冷(つめた)きものを好(この)むゆへに此 禁(いましめ)をせざれば内外より冷(ひへ)て麻疹(はしか)出る事
 なく終(つい)には悪症(わるきせう)に変(かは)りまたは余病(ほかのやまひ)を引出もの也只 食物(くいもの)を深(ふか)くつゝしみ
 蒲団(ふとん)着類(きもの)をあつく着(き)する事第一也尤 暑(あつ)き時節(じせつ)は病間(ひやうま)を気(き)の透(とほ)る様にして
 むれざる様いたす事 宜(よろ)しと承る但(たゞ)し冷水(ひやみづ)を用るもあれども症(せう)によるよしなれば
 猥(みだり)に与(あた)ふべからず渇(かわ)くとも茶(ちや)を飲(のま)す事なかれ吐泄瀉(はきくだし)をなす也
 菉豆(やへなり)炒米(いりごめ)燈心(とうしん)を煎(せん)じ置 湯(ゆ)茶に代(かへ)て用る事よしと承る
    麻疹(はしか)禁忌(きんもつ)荒増(あらまし)
一 生魚(なまうを)一切殊に鱗(こけ)なき魚は猶さら也 一 鳥(とり)獣(けもの)の肉一切 一 豆腐(とうふ) 一豆
一茶 一酒 一 餅菓子(もちぐわし) 一 饅頭(まんぢう) 一 麪類(めんるい) 一油気 一 炒(いり)たるもの 一 密(みつ)
一 牛蒡(ごぼう) 一 葱(ねぎ) 一酢并一切の酸(すき)物 一 菓物(くだもの)一切《割書:くねんほ|なし  》は少しはよし 一 砂糖(さとう)《割書:少しは宜し|極甘きは不宜》
一一切 臭(くさ)みある野菜(やさい) 一 菌(きのこ)類 一 瓜(うり)類 一 辛(からき)物 一 塩(しほ)からき物 一 当坐漬香物(とうざづけかうのもの)
一一切 不浄(ふじやう)の物に触(ふれ)べからず惣(すべ)てあしき匂(にほひ)をかぐべからず
   以上食物 熱(ねつ)さめて後(のち)五十日或は七十五日 重(おも)きは百日 忌(いむ)べし男女 交合(かうごう)は必ず
   百日つゝしむべし
        食して宜物(よきもの)大概(たいがい)
一ゆり 一ふき 一くわゐ 一かんぴやう 一ぜんまい 一長いも 一ふ 一 冬瓜(とうぐわ)
一くず 一 白瓜(しろうり) 一 小豆(あづき) 一やへなり 一さゝげ類 一大根 一にんじん
一 菜(な) 一 椎茸(しいたけ) 一 鰹節(かつをぶし) 右何れも極(ごく)やはらかに仕立(したて)食すべし
一古人の禁(いましめ)に痘前(とうぜん)疹後(しんご)と言事有こといへり如何にも疱瘡(ほうそう)はその毒膿汁(どくうみしる)に出去(いでさる)
 といへども麻疹(はしか)はその毒 一旦(いつたん)あらはれて又元(もと)に皮肉(ひにく)に引 篭(こも)るなりこの故に
 後々(あと〳〵)の養生(ようぜう)極大切(ごくたいせつ)の事なるべし平常(つね)のごとく成候とて必ず夜風(よかぜ)夜 露(つゆ)にあたらぬ
 やうにし土間(とま)板(いた)の間(ま)などにて冷(ひへ)ざる様 子童(こども)は其 親々(おや〳〵)心付 余(よ)病を引出さぬやうに
 心懸る事第一たるべき事也
  此一紙は己れ其業体にあらざれども少しは病者の助にもならんかと愚文を憚らず斯
  板行いたすもの也御縁者御懇意の方々□□□く御風■被下候はゞ大幸ならん

                    大正二、七、十九

浮世辻うらなひ

北越震動誌

江戸地震施餓鬼の図

大嵐水入場所明細書之写

厄除わらふ門 初編・二編

【見出し】
厄除わらふ門 初編
【上段】
ほんとう         おだましで
   かへ           ないよ
 〽ころりの        〽八ツでの
    うわさ           やくよけ

うれしい         もつとこつ
   ねへ         ちへおよりよ
 〽ほどこし        〽やきばの
     ぐすり          こみあい

ひとが          はやく
  みるよ           おしよ
 〽とむらひの       〽おまじ
    のべつゞけ         ない

それ〳〵そこ       よくなつて
    だよ         きたよ
 〽けさしんだ       〽もちなをした
    人のうち         びやうにん

あれさ          日本ぢうが
 ぬけるよ         ひとつに
 〽四とだるの         よるヨ
    はやをけ      〽めいどのみちづれ

がつかり         あアよかつた
  したよ             ねへ
 〽みうちの        〽びやうにんの
   しにわかれ          ねだやし

【見出し】
厄除わらふ門 二編
おや〳〵         あわてゝは
 大きいねへ        いけない ̄よ
 〽おふせの        〽かんびやう
    あがりだか          にん
   
もつとわり        あれし
 こんでおくれ        ぬる
 〽はやをけの       〽きうしいつせう
      おきどころ

きがとをく        いきそう
  なるよ           だよ
 〽さしこんで       〽はきくだし
    きたびやう人

いのちを         ヱゝもう
 かきむしるよ       どうせう ̄ね
 〽しつてん        〽ていしゆの
     ばつたう      しにわかれ

ほねがなけりや ̄ア    くちをよせて
 いつしよになるよ      おくれよ
 〽こつあげのよまいごと  〽いちこの
                  みづむけ

たまら          あれ〳〵
  ないよ         こぼれるよ
 〽やくびやうの      〽おすくひ【御救い】の
       りうかう      こなだわら


こんでこぼれるよ

大坂大火場所附

大日本数量附暴病御救人別之写

忘れまい沼津見立

早飛脚廻りにてくわしき所本しらべ大地震

【全体】
嘉永七年寅ノ年
早飛脚廻りにて   大地震 諸国国々少々ツヽ不同あれ
くわしき所本しらべ     ども大体同時同やうの地しんなり
              六月十四日ゟ地震廿一日くれ半時に
              又ゆり夜発八ッ時に又ゆり都合八日ノ
              間に凡弐百七十五度の大じしん也
【上段】
 和州奈良
六月十四日夜九ッ半時ゆり始め大小共度々
ゆり朝六ッゟ半時斗大地震ゆり奈良末町
あちこちの図の如くくすれ其時家の内に一人も
いる事ならず皆々野文之興福寺其外広き
明地抔に而夜あかし南は清水通不残木辻の四ツ
辻ゟ十軒斗り崩れ鳴川町辺はさつはり北西手貝通り
北半田西町南北大崩れ川久保町細川町北向町北風呂辻子町
此辺別して大くづれ死人凡百三十人けか人かすしれつ

 同郡山   死人凡七十五人斗り
       けが人多し
同十四日夜八ッ時ゟ十五日朝五ッ時ゆりつゞけの大地震にて町家
壱軒も無事なるはなく勿論一人も家内に居る事ならず皆々野
はたけなどの広き所の明地或はやぶなどにて夜を明し大道往来のもの
一人もなく皆門をしめよせいつれに入ともわからず十六日くれ方迄大小五十
七度ゆる毎夜〳〵〳〵野宿にて目も当られむ次第也柳町一丁目ゟ四丁目迄
凡七十五六軒くつれる其外町々右同やうの事なり
 同古市
同十四日夜八ッ時大地震度々ゆり朝明六ッ
半時ゟ大じしん町家一軒ものこらずくづれ家
の内にいながら死者も有川へ出て死者も有
誠に〳〵あはれなるときゝおよぶ又はおやしき
町家少々のこる誠にまれなるおそろしき
大じしん也 死人凡大人百五十人れ
      い  小児三十七人 けが人かずしれず
 伊賀上野
右同日同時大地震にてお城大手御門口大そんじ市中■六■と■
くづれ鍵の辻より出火に而黒門まへ迄やけ夫ゟ嶋の原といふ処ゟ大川
原といふ処迄ほらのために一面のどろうみのごとく其そうどう
筆につくしがたし十六日くれかたまてに五十七度のじしん也
         死人凡弐百余けが人おびたゝし
 伊勢四日市
同十四日夜四ッ時ゟゆり始明六ッ時の大地
しん也崩れ家凡三百六十軒あまり昼
五ッ時ゟ出火に而崩れ家とも四百七十軒
斗りやけ大じしんの上出火に付死人かず
しれず凡五百余りと所の人のうわさ

六月廿日やはり少々ヅヽ地しんゆりなが
らくれ半過よりかみなり鳴出し
大小とも度々なり近近へ七所
おちる明廿一日九ッ時前鳴やむ

【下段】
 摂州大坂なんば新地
此度諸国大地震に付て
どこもかも大そふとう也大坂
にて尼出の地震といふ者有
此地震は人もゆり上け其時にはよう
がらし〳〵〳〵と言(い)ふ此地しんは
    中〳〵又おそろしい
     地しんにて家蔵粉も
      なふして呑事おそろしき事なり
       其中にも大坂は一ばんゆりようが
        ぬるしゆゑつく〴〵かんがへば
         尼出におそれてじや

        なら
        〽さらしやの
          うちはつぶれる
             大地震

大津近辺石ば船のか【「り」ヵ】ば大石とうろう湖水へたをれこみ辺同石舟ばん所
同断横死両三人も有之候余は右にじゆんじはそんしよもあまた御座候

丹波亀山十四日夜四ッ半時ごろより近辺の山うなり出しまもなく
大じしん人家崩れはげしき事人々の咄しゟおそろしきてい也

江州信楽同日同時ごろに大じしんゆり人家はそんしことに
土蔵おびたゝしくかへ土をちひゞわれ凡蔵のかず廿七八
たをれ家数南北弐百五十軒斗り崩れけが人数しれず

 南山城木津
同十四日夜九ッ半時より
東西南北のあやちなく黒雲
担【振ヵ】下り石ふり笠置山ゟ大岩等
吹出し図の如く近辺大水となり
家十軒斗りツヽ崩れながら流れ命をしく
ともにけ行処無之夜中の事なれば
殊にあわれなる次第なり死人いまだ
数相わからず水十五日九ッ時比にさつはり引くなり

 越前福井
六月十三日五ッ時塩町かちや町辺出火大風はげしく東西南北共不残やけ二百丁
斗寺院百ヶ所両本願寺とも焼近在凡十ヶ所やけ夜四ッ時にしづまり申す
又其夜八ッ時ゟ大じしん田地などもとろ海と成所々の家くづ
れ死人凡七十五六人まことに〳〵其こんざつ筆につくしかたし
十六日くれかたまさにたひ〳〵の大じしんなり

【全体】
此度大地震かみなり出火に付諸方御しらせのため▲おわらいにちよと尼出をさしくわへるなり
           【朱文字書込み】大正元・九・十四

【題箋】
嘉永七甲寅六月十四日
 大坂 大地震
 諸国


呉服橋外桶町河岸つむじ風之図

守礼 大矢山日行寺

えしの上手御作
南無大火【注①】大事安全妙王

ほうほう【方々】かじの
うれゐをのかし給ふ

今日不吹誰詰合
春風柏子木【注】一時来
【柏+子の漢字は造字、柏+子木で拍子木(ひょうしぎ)と読ませたいのだろう】

おんそろそろ
ふいたりやそわか

供物 のし水引におよばず只清らかに
   正のものを正で御備可被成候
【注① 別本では大火をダイヒと読ませており、大火を大悲(ダイヒ)に掛けているようです】
【類似画像が以下にあり、上側の切れている部分はここより読み取っています】
【国立国会図書館デジタルコレクション 火水風災雑輯. [2]の29コマ】
【https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2592141】と

越後の国大地震

〔落雷骨接泥鏝療治〕

新板東海道地震双六

はしか毒いみ心得艸

【表紙】

文久二壬戌七月出板
はしか/毒(どく)いみ/心得(こころえ)艸
   福岡屋右兵衛板

/麻疹流行(はしかりうこう)年紀
○天平九丁丑 人多く死す ○享保十五庚戌
○延暦九庚午       ○宝暦三癸亥 人多くしす
○長徳四戊戌       ○安永五丙申
○文明三辛卯       ○享和三癸亥
○永正三丙寅       ○文政七甲申
○慶安二己丑       ○天保八丁酉
○元禄三庚午
  よく四年はるまでに
至り人多くしす

【下頁】
  【印】○はしかのこゝろ得
一はしかまへにむらさき草の根せんじてのめばかるくする
 こと妙なり
一はしかの気ざし有としらばふきの根をせんじのむべし
 はしかのんどの穴へてきずまたしほ漬のきんかんをまる
 飲にしてもよし
一はしかをやむと思はヾ俗にごりう柳またには柳などゝ
 となゆる木のはをせんじ飲べし妙薬なり
一はしかのねつにて手足だるくとも身うちをもみ按

 摩をとらすることはなはだ悪しなでこすりするもよろし
 からず堅くいむべし
一はしかをやみ早くはつしさせんとするにも極寒の時ぶんは
 ひとへものを一まい着綿入くらいをおほひ寝てゐるがよし餘りに
 あつぎをして汗(あせ)をしぼればしやうかん【傷寒 注①】おこり【瘧 注②】などに成なり
 ただし風のあたらぬやうにたてこめて置べし
一はしかは餘の病より後のやうじやう至てむづかしくもしふやう
 じやうにするときは種々の病とへんじ身命をそこなひ五体をふ
 ぐにするをてきめん也よつて今食してよろしき品をえらみ

【注① 昔の、高熱を伴う疾患。いまのチフスの類。】
【注② 間欠熱の一種。悪寒、発熱が隔日または毎日、時を定めておこる病気。マラリア性の熱病。】


【上頁】
そのあらましをこゝにしるす
  病はじめてよりおわりまで食してよろしきもの
一大こん  一かぶ   一にんじん 一小かぶ   一ながいも
一じねん生 一むかご  一さつま芋 一かんひやう 一しそ
一ゆり   一ぜんまい 一くわい  一いんげん  一ふき
一ゆば   一くず   一ふ    一ほし大こん 一さゝげ
一やへなり 一冬瓜   一大豆   一小豆    一むぎ
一うんどん 一しろ瓜  一なし   一ごぼう 《割書: 出そろいて|のちはいむべし》
一かつをぶし 《割書: 出そろいてのちには|せう〳〵ならばよし》

  十二日すぎてよろしき品
一菜   一ちさ   一つく芋  一とうふ  一はすのね
魚るい  一きす   一さより  一あいなめ 一石もち 
一小だい 一小がれい 一酒しほ 《割書:廿一日後ねつ|  さめてのちはよし》
  三十日過てより宜しき品
一ねいも 一なすび《割書:つけたのは|わろし》一のり 一めうがたけ 一木のめ
一つけな 一こんぶ  一水こんにやく 一しいたけ 一しようろ
一みかん 一くねんぼ
魚るい 一なまだい  一小びらめ 一いしがれい 一むしがれい
                       ○三
【下頁】
一あこふ 一もうを 一ほうぼう
  五十日過てより宜しき品
一せり    一ずいき  一わさび  一生が  一さといも
一えだ豆   一あらめ  一ひじき  一けし  一さんしよ
一梅ぼし   一かちぐり 一きくらげ 一ゆず  一りんご
一まるづけ瓜 一すいくわ 一そば   一そうめん
魚るい    一せいご  一しらうを 一わらさ 一あじ
一かさご   一ひしこ  一こひ   一ふな  一赤がい
一しじみ   一きんこ  一かき   一いか  一あんこう

  七十五日過ぎてより宜しき品
一生椎たけ  一生松たけ 一たで  一唐がらし 一からし
一かき    一桃    一びわ  一ぶどう
魚るい    一大だい  一ふつこ 一いなだ 一こち
一かながしら 一たこ   一さざい 一あわび
  百日過てより宜しき品
一じゆんさい 一こんにやく 一そらまめ  一きうり 一唐もろこし
一くり    一ごま    一まくわうり 一ねぎ  一はまぐり 
魚るい    一なまこ   一すゞき   一いな  一あゆ
                       四

一いせゑび 一しばゑび  一さわら 一たら 一いさき
一いわし  一なまりぶし 一するめ 一酢せう〳〵はよろし
  なるたけ長くいむべき品
一竹の子 一かに   一むつ  一赤にし 一からすみ
一どぜう 一鮭    一まぐろ 一ふぐ  一くじら
一ぼら 一がん。かも 一油るい 一もちるい 一たまご
一酒  一房事
人々の症によりて何事なしといへどあたるときには必害あり一口ものゝ
為に百年の寿をそこなふことあらば後悔のなからんや穴覧々々

大合戦図

岐阜県下大地震災之統計略表

京都大火大功記十段目抜文句

大坂下りなまずのかるわざ

《題:大坂下り
なまづの
かるわざ》
安政二卯年十月二日【注①】
江戸にて興行

〽この大うをは どろの
なかにてそだち くに〴〵
のぬまを しゆぎやう
つかまつり 下ふさ【下総】のくに
いんばぬま【印旛沼】を よんどころ
なく おいだされ それより
信しう【信州】ぜんくわうじ【善光寺】にて
はじめて かるわざいたし
なを又京大坂へのほり【上り】
大ひやうばんにあづかり
みやうがしごく ありがたく
ぞんじ どなたのおすゝめは
ござりませんが こんど
御とうち【当地】へくだり大ゆりのげい
たう【芸当】 いへからいへの がんどうがえし【注②】
みなさまがたのおめのさめます
やうごらんに入ます まづさいしよは
ぢひゞきにとりかゝります▲

【下段】
▲〽さて〳〵〳〵〳〵
このたびのじしん
さわぎでゆりちらし
二かいや【二階屋】 どざう【土蔵】 ながや
だて【長屋建】 かはらをおとしてふるふ
ところが ぐら〳〵〳〵〳〵これをば
なつけて どこからどこまではい
ます ところが大のじ〳〵
〽さて〳〵〳〵〳〵そこでひがでゝほや〳〵
やける ホ□【イヵ】〳〵〳〵〳〵いへにかい【交い】ます まる
たんぼ【丸太棒】 のき【軒】のはしにて しつかとゆはへ やねは
こなたへかへらぬやふに のきからのきへ ずらりと
ならぶ これをなづけて のだのさかりぶじしや【注③】
それ〳〵あんまはあぶない〳〵くらはさゆふへ
ぐらりとかへるなかに ひらや【平屋】がちよぼんと
のこる だるま大し【達磨大師】のざぜん【座禅】のかたち
サアこれからがみなさんのほねおり【骨折り】だ
みなどつとはたらけ〳〵

【注① 安政江戸地震が発生した日、この地震は関東南部を震源地とするマグニチュード7クラスの大地震で、最大震度は6と想定されています。】
【注② 「がんどう返し」とは、歌舞伎用語で舞台装置を垂直回転させて舞台転換すること、ここでは鯰が家をひっくり返すことを指します。】
【注③ 大阪市福島区野田地区の藤は約六百年前からその美しさで知られ、「吉野の桜、野田の藤、高雄の紅葉」は三大名所といいました。ここではずらりと並んだ藤(ふじ)と無事(ぶじ)を掛けています。】


るいせう道しるベ 上・中・下

【一枚目(上段右)】
●御上屋敷
▲御中屋敷 るいせう道しるべ 上
■御下屋敷
【本文】
頃は文化八未のとし二月十一日昼七ツ時一ヶ谷
谷町より出火しておりふし西北風はけし
く念仏坂より二た口になり此へんの御組屋
しき残らずかつぱ坂安龍寺京御寺此辺
一面になり西と北との大風三方へふきちらし
それより尾張様御長屋すみ少しむかふは
●松平摂津守様御屋しき残らず法弘寺より
四谷おたんす町坂町しつ町竹丁通は麹
まち十一丁目十二丁目十三丁目伝馬丁四丁目
角まで若まつ町おし丁おし原横町此辺
御組屋しき石きり横町てん王横丁くはん
おん坂蓮浄院真浄院安らく寺西念寺四
谷御門外■尾張様是より北風はげしく
石をとばすことく御堀はた通酒井様●松平
佐渡守様大久保豊前守様村松様此へん御
簱本様方あまたさめかはし坂迄残らすや
ける紀州様御屋しきへ出このときゑん〳〵
として四角八めんにさんらんす已にきのくに
坂下ふるや町ゆや町それよりあか坂御門
外よりそのいつきにくわしきをしるす
【二枚目(上段左)】
 おなしく  中
それより表くら伝馬町残らず御火消屋
しき○竹腰山城守様△松平出羽守様○井上
佐太夫様此へん御簱本様御屋しきあまた
黒鍬谷此へん御組屋敷残らず浄土寺浄げ
ん寺△松平安芸守様それよりにしか西風つよく
して火は下へ出るまた一ト口八田町一丁目より五
丁目までうらおもて不残○三浦長門守様一ツ
木町しんまち仲の町此へん御簱本様かた
御屋しきあまた△黒田ひぜんの守様△相良
壱岐守様○水野日向守様なつめ様また谷町
八町家残らず相馬様中屋敷御長屋ばかり
すこし此あたり御組屋しきよりなたれ
坂へ出る○真田様○松平日向守様○岡部様
○土岐ちから様○山口周防守様○松平大和守様御
うしろ長屋不残御火けし屋敷ようせんじ
てうせんじ○井上様○石川若狭守様○牧野
半右衛門様○本多兵庫様本多越中守様御上
屋しき○酒井出雲守様○稲垣摂津守様南
部内蔵守様御上屋しき此へん御簱本様かた
あまた市谷人町不残仲の町御簱本様方あまた
【三枚目(下段)】
  そのおわり   下
扨また江戸見坂○土岐美濃守様山城御簱本
御屋敷あまた西の久保吹出町入門前てん徳
じ神谷町残らず○仙石越ぜんの守様○木下様
それより広こうじ清光寺青龍寺西門前町
切通し薬師堂境内にてやけとまる上は○水の
右近将監様永井町金池院宇津様○馬場
大助様かはらけ町通り不残○青木甲斐守様
○瀧川様森もとへんすこし此とき風は
すこししづまりて赤ばねばしへ出るとき
よふ〳〵八方の火せいしづまりてしめりしら
するかねの音におや子兄弟くんしん夫婦
あいおふてよろこびのてへともろともに
明かたちかくなりにけり
右るいせうひのもとよりけし口迄のみちのり凡
壱里半御大名様御屋敷凡三拾ヶ所寺院町
家はかぞふるにいとまあらず
此三まいずりをゑんきんにかきらずこけふに
親をもてる人ははやく書状にふうじこみ
そのつゝがなきをしらさは一家一もんの人々
あんしんせばげに孝行の一助ともならんや

流行痲疹やくばらい

  《割書:流|行》麻疹やくはらい

▲やアラはしかいな〳〵今度
 世上へりうこうのはしか
 病ではやりませうおい
 しやおかどをながむ
 ればむかいの人がまつ
 かざりはやくいそいで
 薬ばこまだ若水のき
 むすめもぞやみ【注①】は一ト二タ
 三ヶ日おかめにばらりとまめ
 まきや福は内へのおみまいは
 いんげん豆におにまめや鶴は
 ちとせの御じゆめうとながくのば
 したかんひやうにかめにいれたる
 水あめもよひ初夢のふじの山
 あげれば〆たきぐすりやかごやの
 あしもかるやきや七草かゆより白
 かいとのどをならづけくすりぐひひだち
 かげんのそのとこへふらつきものゝ風の神
 さまたげなさんとするならば虎のいせいの
 やぶいしやがうさい角【注②】にておさいつけちく
 らがおき【注③】へさらり〳〵

【注① 「そやみ」ともいう。天然痘・労咳(ろうがい=肺結核)などの病気の最初の時期をいう。】
【注② 烏犀角(うさいかく)=犀の黒色の角(つの)。漢方だ、子供の解熱剤に用いる。特に疱瘡に唯一の良薬とされた。】
【注③ 「ちくらが沖」=朝鮮と日本との潮境にあたる海。また日本海の海の果てを漠然という。】








地震百万遍

嘉永七年大和外二か国大地震

嘉永七年六月十三日
ひる九ツ時よりゆり出十四日ゟ
よる九ツ八ツのころ大ぢしん
にてあふみの国みづうみの
廻り大あれにてぜかしろ【膳所城ヵ】
みなくちいしべ其ほとり家
をそんじ人死凡千五百人余山城国
きづのほとり山くづれ岩石出て家をそんじ人死凡
九百人余大和国こふり山寺々大とふ家くづれ人死
七百人余いが国うへの在々人死千百人余いせ国四日市
其□所々家をそんじ火なんにて人死のかず
しれづ人々おどろきて神〳〵へ祈をかけ
ふしぎなるかなしんとくにてお【?】しにかゝりても
たすかる人もあり地しんも
しづかになりまことに神国の
ありがたき事人々とゝ
    まさるものなしと
    まち〳〵のとりさた
          なり

鯰と職人たち/鯰大尽の遊び

弘化四年信州地方大地震

京都所々図絵

頃は嘉永七寅の四月六日午の上こく仙洞御所上の方辺ゟ
出火おりふし辰巳の風にて禁裏御所へ火うつり上の御てゟ
一條様へ此外このへん御公家様方焼近衛様半やけ夫より
町方へ火うつり大宮辺り椹木町まて上立売大みやへ
かへりこれよりにしのかた   上方御炎上蛤御門外
よりとび火西は千本通り東則北は今出川かへるまて南
は上立売下へ丁迄翌七日辰のこく漸々火しづまりけるとかや

流行暴瀉病療治方

此節流行の暴瀉病は其療治方種々ある趣に候へども其中素人
心得べき法を示す豫(あらかし)めこれを防くには都て身を冷すことなく
腹には木綿を巻き大酒大食を慎み其外こなれ難き食物
を一切たべ申間敷候若此症催し候はゝはやく寝床に入りて
飲食を慎み惣身をあたゝめ左に記す芳香散といふ薬を
用ゆべし是のみにして治するもの少からず且又吐瀉甚
敷惣身冷ゆる程にいたりしものはしょう焼酎壱弐合の中に
龍脳又は樟脳壱弐匁を入れあたゝめて木綿の切にひたし
腹并に手足へ静にすり込み芥子(からし)泥を心下腹并手足へ小
半時位ヅヽ度々張るべし
     芳香散
《割書:上品》 桂枝《割書: 細末》  益智《割書: 同》  乾姜 《割書:同》  各等分
右調合いたし壱弐分ヅヽ時々用ゆべし
     芥子泥
からし粉  うどん粉  各等分
右あつき醋(す)にて堅くねり木綿の切にのばし張り候事
   但し間に合ざる時はあつき湯にて芥子粉計ねり候ても宜し
       又法
あつき茶に其三分へ焼酎を和し砂糖を少し加へ用ゆべし
   但し座敷を閉布木綿等に焼酎を付 頻(しき)りに惣身をこするべし
     但し手足の先并腹ひえる所を温鉄または温石を布に
     つゝみ湯をつかひたるごときこゝろもちになる程
     こするも亦よし

安芸国大水図

しんぱんない物づくし

文久二戌年
      神喜板
 しんぱん   
  ない物づくし
又もない〳〵ない物は      やぼと/化物(ばけもの)お江戸にない
御上のせいとにそつがない    今としのはしかはほうづがない【限りがない】
なれども此頃もうすへない    ふうふではしかはしようがない
女ぼがあつてもつまらない    七十五日はやられない
やつたら大へん命がない     しくじるお方も/少(すくな)くない
ていしゆすきならしがたがない  それでもせけんへみつともない
しんるいゑんしやへめんぼくない がまんをするより外はない
はしかのあけぐ【「あげく」ヵ】はくう物ない   おつけ【おつゆ】にたくわんむまくない
さかなも当ぶんくわれない    お酒はなほさらのまれない
やらかいやつてはたまらない   それではせがれもなさけない

地震よけのお守り札

肥前国島原之図

打身骨抜即席御りやう治

打身 即席御りやう治 火出し仕候
骨抜           外家医前■

【挿絵内のれん】  【挿絵内看板】
  瓢磐亭       江戸前 鯰大家破焼
            なまづ 大かばやき

【本文】
       御披露(ごひらう)
一御町中様 万歳楽々(まんざいらく〳〵) 御軒別(ごけんべつ) にゆらせられ仰天(ぎようてん )
 地獄(ぢごく) に奉存候しづまつて私義 先達中(さきだつてぢう)江戸前(えどまへ)
 鯰(なまづ)大家破焼(おほかばやき)自身(じしん)大道(たいどう)ざき仕候所ゆり出し焼失(しやうしつ )より
 家蔵(いへくら)身代迄(しんたいまで)御ゆりあげ動揺(どうよう)向(むき)被仰付候段 大変(たいへん )時(じ)こく
 古今(ここん)に有(あり)がたく奉損候(そんじたてまつり )猶又(なほまた)今磐(こんばん)御 愁(うれ)ひの為(ため)市中(しちう)なんぎめし
 此末(このすゑ)どうぜう汁(しる)打身(うちみ)骨抜(ほねぬき)即席(そくせき)御りやうぢ取合(とりあはせ)格別(かくべつ)
 風儀宜(ふうぎよろし)く世直(よなほ)し仕差上可申候間 民(たみ)の竈(かまど)の御 賑々(にぎ〳〵)しく
 御威光(ごいくわう)駕(が)の程 一偏(ひとへ)に奉願上候以上

【挿絵内の札図】
  市地うなんきめし  御■御一人前 五合宛
  此末どうせう汁   ことし一ぱい 難渋見聞

卯十月二日夜よりゆり出し     神座鹿島町
 みせひらき焼失          かなめ屋石蔵
   麁かゆ差上申候


鯰を押える鹿島大明神

京都大火記事

元治元年甲子七月十九日
京都大火に付類焼之有無に
拘らす洛中洛外寺社境内に至迄
町人共へ為 御救玄米壱万石被
下置猶又類焼之者えは別段玄米
壱万石増被 下其外種々難有き
事共筆紙に尽し難く其類焼之
絵図在といへとも只荒ましを記して
くはしく知りがたし仍而町数殿舎等之
員数を細記して
御恩沢之深く厚き事を遠き国々え
知らしむる人之便り且は幼童婦女子に
至る迄 御恩徳を忘れさらしめんとす

  宮御門跡方  三ヶ所   同御里坊  壱ヶ所
  堂上方    十八軒   同御抱屋敷 二ヶ所
  御所御役人方 七十七軒  堂上御家来衆 弐百七十六軒
  東六条御家来 百六十七軒 仏光寺御家来 八軒
  諸家御屋敷  五十一ヶ所 武家家来衆  七十軒
  御医師    二十九軒  寺社 弐百五十三ヶ所
  町数八百十一丁 村一ヶ所 塔頭 九十五ヶ寺
  惣竃数  弐万七千五百十三軒
  境内建家 百五十五軒   明き家 四百弐軒
  焼土蔵  千弐百十六軒  地蔵堂 四百廿ヶ所
  番部や  五百六十二ヶ所 物入  弐百六十七ヶ所
  髪結床  百三十二ヶ所  日小屋 五十九軒
  芝居   弐ヶ所 辻打芝居 壱ヶ所
  橋大小  四十一
     外に   非人小屋  壱ヶ所
          穢多村   三ヶ所
          此小屋数合 四百四十三軒
   右既略

地震吉凶之弁

大阪・伏見出火の図

【枠外】
慶應四辰正月人のうわさ
【上段】
此度諸ゝの出火におどろき住所離散の人ゝ
其こんさツいわんかたなし夫故遠近の親るい
ゑんじや其人ゝの心をあんどなんしめんが為に
此図を出していさゝかたより共ならんかト見読ニ備

天下泰平
国家安穂
御代万事
目出度し

薩州様
御陣営

長州様
御陣営

大阪
御城
正月九日
卯の刻
御城筋がね御門ノ内
火の手上ル
次に京ばし
御門内夫ゟ
玉造御門
外小家夫ゟ
火の手三ツに成
追手御門の内
火の手二つになり
十日辰の刻
ゑんしよぐらやける

正月三日夜七ツ時
大阪とさぼり
薩州様御くら
やしき辺出火
同十日夜五ツ時
天満与力丁
出火









なまづの力ばなし/なまづの夫婦やきもちばなし

即席鯰はなし

京都大阪近世大火略図

尾濃大地震

尾濃大地震
 明治辛卯冬十一月
     廣■■ 【落款印二つ】

濃尾大地震図

本しらべ大阪大地震の次第初編

【紙面右側欄外】
嘉永七寅年十一月四日五ツ半時より半時計【斗】りゆる 本しらべ《割書:同五日七ツ半時|大ゆりは後出す》

《割書:本|し》 大阪大地震の次第《割書:初|編》
《割書:ら|べ》
【上段】
せんば【黒地白抜き文字】座摩宮鳥居并に
石どうろう門くづれ候事
北久太郎町どうふや北入所家
二三げんくづれ候事
塩町さのやばし角高塀
西へくづれ死人けが人三人
南御堂本堂北西手少々
そんじ
本町きつね小路東がは寺
高へいくづれ
御霊宮社内井戸やかた
大くづれ
順けい町丼池角家大そんじ
長ほりさのやばし北ずめ
東竹や裏家七八軒大くづれ
本町丼池近辺地しんにて手
あやまち【失火】有
長堀板やばし北詰東入角大そんじ
川西【黒地に白抜き文字】あはざ戸や町小間物
棚西南角大いがみ
同それより少し西北がわ家
七八軒大くつれ候事
同それより半丁西角やしき
両かは人家廿五軒大くづれ
同それより少し西北東角人家
十軒ばかり大くづれ
願きやう寺たいめん所
大くづれ
同前すじ北入ねり塀大ゆがみ
あわざ堀岡崎はし南づめ
半丁東南へ入人家五六軒くづれ
永代浜半丁東土蔵一ヶ所崩れ
両国ばし北づめ壱丁北西南角
角やしき七八軒大くづれ
常安ばし北づめ角大ゆがみ
京町堀羽子板ばし北づめ角凡三間
ばかり崩てあやまちに相成候事
新中ばし北づめ東北角凡九部通
大そんじ犬才はし【犬斉橋】北づめ東へ入蔵立の
家かべおちる又辻より東高へい崩る
同横町塀大そんじ有之

【中段】
堂島
福島【この二行黒地白抜き文字】五百らかん羅漢堂東
手惣くづれ大どころ大そんじ
同門袖かべ惣くつれ
光智院玄関大くづれ
同此近辺宮寺そんじ候事
数しれず
しをつばし北づめ東ふろ■や大崩
同南づめ凡長さ十五間土蔵
一ヶ所惣壁をち柱ばかり
同上天神門くづれうら門鳥居大ゆがみ
同中天神はいでん大くづれ
同下天神絵馬堂大くづれ
北野ふどう寺本堂ひしに成崩
梅田ばし南づめ西へ入のべ岡御屋敷
八まん宮絵馬堂大そんじ
又梅田ばし北詰西へ入うら町家二
軒崩る同東へ入高 塀(へい)くだける
此近辺四五軒大そんじ
北しんちみどりばし北づめ西角
にうりや西へ四五けん計【斗】り大そんじ
桜ばし南詰西へ入浜家二三【「け」の脱字ヵ】ん
崩る此近辺少々つゝのくづれ有
西へ辻より西へ入おだれ【注】をちる
【注 軒先の垂木の木口を隠すのに使う横板。屋根の庇の意にも。】

天満【黒地に白抜き文字】天神社内井戸やかた
くづれうら門近辺の小家損し
池田町近へん少々そんじ有
此近辺より東天満所々少々づゝ
の損じ▲《割書:上|町》のばく【畑地】蝋納屋
十三軒ばかり崩れ蝋と壁
土まぜり大こんさつといふ
本町おはらひすじ近辺所々
少々そんじ有▲天王寺境内
所々ねり塀くづれそんじ有之
けれども外に別条なし
清水ふたい大くづれ損じ
あり下寺町大れん寺表の塀
ゆがみそんじ有とのうわさ
此近辺寺々所々少々づゝそんじ有
長町毘沙門大鳥居くづれて候
此近辺長町うらあちこち大
そんじ有之候事

【下段】
玉造こけん茶屋新宅人家凡十軒計【斗】
大そんじ天満ほり川戎近へん大そんじ解船町
西よこぼり少し南家大ゆがみ▲新町東の扇や■■の
四本柱の座敷大くず【ママ】れ其ほか少々つゝそんじは
町中に数しれず并にけが人は少々づゝ御座候へ
ども死人なし

【下段の上方】
南辺【黒地に白抜き文字】幸町東うらがは樋より
南へ四五軒そんじ幸栄ばし
西つめ一丁西角家三げん計【斗】
崩る同幸町かまやたゝらば
大くづれ此辺に大そんし有
新川辺より土ばし近辺あち
こち損じありなんば新地
みぞの川西裏家四五軒
大そんじ木津市中
あちこちそんじ安にう寺【安養寺】
つりがね堂くづれなんば
むら所々大損じ有之
新家右同断住よし
境内石どうろう等凡八部
どふり損じ其外末社少々
づつのそんじ有之今宮右同断

【下段下方】
ほりへ【黒地に白抜き文字】橘通り三丁め凡半丁
はかり大そんじ有此近辺浜
すじ新立の蔵少々そんじ有之
ほり江いなり社おたび地内
神楽所相撲場大そんじ
四ツばし南づめ壱丁西東角
蔵少々そんじ有之
御池通五丁目南東角四
けん計【斗】りくづれ
土佐家敷塀三間ばかり
そんじ又あみだ池横門すじ
六丁目東角三軒計【斗】りくづれ
損じ有○寺■うらがは少々
そんじ南安治川九条此
近辺所々少々づゝのそんじ
あり草々【「種々」の意ヵ】述がたし

【紙面左側欄外 上部】
五日七ツ半ゆりそれより大ゆりどうし
同夜五ツ時□□□□□大ゆり

【同 下部】
是に洩たる近国近在は委しき後篇に出す
           大正元、九、十四


【紙面外部】
嘉永七寅年十一月四日朝五ツ半時
大地震 大坂之部



大坂南堀江出火記事

【一段目】
享保九甲辰年三月二十一日午の
中刻南堀江三町目金屋次兵衛
祖母妙知尼隠居屋鋪より出火
西南大風にて北東へ度々風替り
翌二十二日申の上刻火鎮申候
焼失之覚
一町数 四百八丁
 内
  百六拾三町 北組
  百七拾五町 南組
  七拾町 天満組
一家員 十二万千七百六拾五軒
 内
  四千三百廿八軒 北組
  四千九百六拾八軒 南組
  弐千五百六拾九軒 天満組


安政二年十月二日大地震附類焼場所

流行暴瀉病療治の御觸書の写

     御触書之写
一此節流行の暴瀉(ほふしや)病之療治種々ある趣に候
 得共其中に素人か心得法を示すあらかじめ是を
 防く物はすへて身を冷し事なくはらには木綿巻
 大酒大食を慎み其外こなれがたき食物一切慎み
 若此病受候はゝ早々寝床に入飲食を慎み惣身温め
 左に記す芳香散といふ薬用ゆべし且又吐【「咄」は誤記と思われる。】瀉甚しき惣
 身冷ゆる者は焼酎一二合の中に龍脳一二包入温め木綿
 の切にしたし腹并手足温めからしをかきすりこむべし
 芳香散上に桂皮細末益智細末乾姜細末故【右ヵ】調合
 致し用べし辛の粉うんどん粉あつき湯にて堅くねり
 木綿の切にのべはるべし但し間に合さる時はからし斗りねりてよし
       又法
あつき茶にて三分一焼酎と和砂糖少々用べし但座敷
とち木綿え焼酎を付しきりに惣身えなするべし
但し手足の先并に腹冷ゆる所あたゝめ鉄又は温石を
つゝみ湯を遣ふ如くの心持になる程すべし
右は此節流行病甚しく諸人難義致候に付其病に
不拘早速用候薬法諸人心得のため急度可相
達候事
右御書付之趣従町奉行所被
仰渡候事
   八月廿二        【蔵書印】上田文庫



天明八年戊申年正月晦日京都大火ニ付諸事聞書

天明八戊申年正月晦日京都大火に付
諸事聞書
              中尾方治

一正月晦日暁七ツ時頃川東四条下るとん栗の辻子ゟ【*】
 出火之処丑寅の風強く川西寺町松【原文の「松」は異体字の「枩」】原通え飛火夫
 より次第に焼広かり仏光寺其外町方寺社段々
 焼東本願寺本国寺大宮通野まて焼秡風替り
 辰巳風烈敷相成東は寺町西は大宮通迄一面大
 火に相成北西え焼立四ツ時の頃牢屋敷両町御奉行
 所両組屋敷小堀数馬様両御屋敷不残焼
 御城番両組屋敷過半焼両御門頭御役屋敷
 始其辺御所司代組屋敷相残り候併右組屋敷

【『天明八年京都大火図』に建仁寺西側・賀茂川沿いに「ドングリ辻子」がある】
【「ドングリ辻子」は鴨川東側の宮川町の団栗辻子で、現在の京都市東山区宮川筋付近に該当】

 御所諸家こと〳〵く焼亡同四年丙辰十二月廿六日の夜
 仙洞御所女院御所炎上皇居には至らす東山院の御宇
 宝永五年戊子三月八日同炎上天明八戊申年正月晦日
 内裏炎上宝永五より八十一年目なり古へよりかく計
 焼亡のためしもあれと今度のことくなる大火は見へ
 すとなり

鯰筆を震

明治丙申三陸大海嘯之実況

明治三陸大海嘯之実況          小国政 梅堂
丙申 

時(とき)惟(こ)れ明治二十
九年六月十五日 岩手(いわて)
宮城(みやぎ)青森(あをもり)の三 県海辺(けんかいへん)に
起(おこ)りし大海嘯(をほつなみ)は実(じつ)に猛烈(もうれつ)を極(きは)め
たり此日(このひ)は恰(あたか)も旧暦(きふれき)の端午(たんご)にて家族(かぞく)友(いう)
人(しん)相会(あいくわい)し宴飲歓(ゑんゐんくわん)を尽(つく)しつゝありしが突(とつ)
然(ぜん)沖合(をきあい)に当(あた)つて巨砲(きよはう)を発(はつ)したるが如(ごと)き響(ひゞき)
あり人々 怪(あやし)み屋外(をくゞわい)に出(いて)んとする一 瞬(しゆん)間(かん)数(す)
丈(じやう)の狂瀾(きやうらん)襲(をそ)ひ来(きた)り三万に近(ちか)き人命(じんめい)を
家屋(かをく)と共(とも)に一 掃(そう)せり幸(さひはひ)に逃(のが)れしも
或(あるひ)は為(ため)に不具者(かたわ)となり或(あるひ)は食(くら)
ふに粟(あは)なく其惨憺凄愴(そのさんたんせいそう)た
るの状(じやう)能(よ)く筆舌(ひつぜつ)の尽(つくす)
す所(ところ)にあらず

弊堂(へいどう)今回(こんくわい)稀有(けう)の大海嘯(をほつなみ)
実況(じつきやう)を出版(しいつぱん)して博(ひろ)く天下(てんか)の
仁人(じんしん)に照会(せうくわい)し此同胞目前(このどうはうもくぜん)の
急(きふ)を救助(きふじよ)するの義務(ぎむ)を
尽(つく)せられんことを
希望(きばう)す
                明治廿九年七月《割書:一日印刷| 日発行》
                臨写印刷兼発行者
                日本橋区長谷川町十九バンチ
                 福田初次郎





洛中大火夢物語

【表紙】
元治元年
洛中大火夢物語
甲子七月

【火災絵図、文字なし】

今度類焼に逢(あい)難渋(なんじゆ)之ものえ米銭又は粥(かゆ)
等(とう)為(して)御救(おすくいと)被下候得共 運路(うんろ)難捗衣【依ヵ】京 積米(つみまい)払(ふつ)
底(て )に付猶 御仁恵(ごしんゑい)を以 不(ず)取敢(とりあへ)市中(しちう)一体(いちたい)へ玄米(げんまい)
為御救被下にては上にも類焼(るいしよ)町々之ものどもへ猶(なを)
又玄米一万 石(こく)増(まし)被下候 米 渡場所(わたりばしよ)
《割書:下立売|釜座》守護職(しゆごしよく)御屋敷  壬生寺(みふてら)  道場(とうしよ)
  右之趣 散(さん)在之町人共へ見掛次第可申聞候

米高直ニ付大阪市中にほどこし名前録後編

神馬と鯰

安政二乙卯年大震大火の図

十箇国大地震の図

《割書:十|箇》 大地震之図
《割書:国》

【紙面右下】
御大名様方御城下十八ヶ所
郡 数    五十六ヶ所
寺 社   千二百余ヶ所
里 数    《割書:立 百二十り余|巾 七十り余》

夫天地不時の変動は陰
陽混して雷雨をなす地に
入れば地震をなすアゝ神仏の
庇護も是を納ることかたし
頃は嘉永七甲寅年十一月四日
五ツ時大地震にてまづ伊豆の国は大島かんず【神津島のことか】三
倉三宅其外島〳〵大小ゆりつぶれ下田はいろ
が崎戸田河津いなし赤沢いとう北条にら山
仁田しゆぜんじあたみをせ【大瀬】いづれも地をく
つがへすかとあやしむばかりにて家はしやうぎ
だをし【将棋倒し】にたをれ一人として生ある心ちはなかりし
とかやしかるに時刻半時ほど過ると思ふころ
むさんなるかなしゆぜんじ山一度くずれこの
もの音すごきことたとへんかたなし下田千軒の町大
はんつなみにておしながし大船四十五そう小舟数多
行ゑ【衛】しれずやう〳〵のかれ侍たる大船は遠州三州の辺迄
浪にひかれ行しとなり箱根宿山中三ツたに大いにあれ
三島はこと〳〵くつぶれ明神社より西へ五六軒東へ二丁余焼け
駿州は沼津五万石水野出羽守様御城下しやうぎだをしにたをれ
宿半より先は焼失する浜手はつなみにて人家損亡多し原宿柏
原吉原宿冨士の元市場ふじの根がた大にあれつふれ家多し富士川がけ崩れ二丁余り埋
川水りうくわん【柳岸】流れ岩淵此辺家あまたそんじ山々大にあれ崩るゝかん原甚つよく由井の宿は
焼失する倉沢さつたとうげくずれ興津川大水におよび興津宿大に
つぶれ出火いたす所
是又名にしおふ興津しら浪と古哥の吟のごとくびやう〳〵たる風景も一度に大津なみとなり
て清見寺の辺迄おしかさなるばかりに来り宿内人家あまた引かれ真事に目もあてられぬ
ありさまなり尤此興津宿はむかしか□【「ゝ」ヵ】るつなみありし所なるとかや清水三保の松ばら
甚つよく江じり宿大半つぶれ小吉田辺も同断也府中御城下つふれ焼失す弥勒
辺あべ川是又水かさなり留る小島一万石松平丹後守様御陣屋下まりこ宿うつの谷峠
の峯大にあれくずれるなりおかべ宿藤枝宿甚つよく田中四万石本多豊前守様
御城下こと〳〵くそんじやける瀬戸川常に水なき川なれども古今の大水にて是又渡
りを留る三軒家辺しまた宿つふれ大井川いにしへよりならびなき
大水にして是を
見聞く者きもたましいをひやせしとかや又遠州は金谷宿つぶれ日坂とうげさよ
の中山大ぢごく小ぢごくこと〳〵くあれ実に是らを大小のぢごくかとあやしむばかり
なり日坂宿大にそんじ掛川六万石太田摂津守様御城下いたつてつよくゆりつぶ
れ焼失す原川袋井宿見附宿池田いづれも大かたならず大天龍小天龍此川一ツ
一ツになるにもたらずしてつゝみ五百軒ほど切れ込人家あまたそんずる也横須賀三万
三千石西尾隠岐守様御城下相良一万石田沼玄蕃頭様御陣屋下浜松六万石井上河内守様
御城下ともにそんじ是より尾州路にいたりてもひゞき甚つよく相州根ぶ川辺つよく箱
根山は御関所手前畑湯本風の神へんつよく小田原十一万三千百廿九石大久保加賀守様御
城下大いそ小いそ平つか四ッ谷ふじ沢辺かくべつそんしもなくかまくら江のしま
辺はいたつてつよくりやうし町其外浜手大にそんじるなり三崎浦長州萩の
御大守三十六万石松平大膳大夫様御持場りやうし町其外浦々人家つなみにて家数
二百軒余引ながれる浦賀金ざはつなみにてそん亡多くなか〳〵もつて筆につくし
がたし大津は肥後熊本の御大守五十四万石細川越中守様御持場近辺つよくそんしるなり
又とつか宿ひゞきつよくほとかやかな川かわ崎大師かわら【河原】へん江戸は山の手
下町とも所々少々つゝのそんじ所有て甲州は身のぶ山大にあれるはたこや町近辺
つるせかつ沼いわさ【石和】辺殊さら甲府は御城下大にそんしにらさき【韮崎】たいがはら【台ヶ原】武州はちゝぶ四万
此辺山々大にあれる中仙道は信州わだ峠辺より下のすは【下の諏訪】しほ【塩尻ヵ】せば【洗馬】元山【本山】ならは【「奈良井」と思われる。とすれば「は」は「い」の誤記か。】八五原【藪原ヵ】宮こし福
しま御関所辺上ヶ松す原の尻辺つよく山々崩れあるひは谷々大いにそんしるなり又飯田
二万七千石堀大和守様御城下こと〳〵くつよくふるびかたさか【?】みや田宿そんじて
高遠三万三千石内藤駿河守様御城下是またいたつてつよく上のすは高しま
三万石諏訪因幡守様御城下甚つよく松本六万石松平丹波守御城下是又
大いにそんじ殊さらしやうしつにおよぶ惣して人家牛馬のそんぼう
大かたならす【並み大抵でない】松代十万石真田しなの守様御城下上田辺飯山二万石本多
豊後守様御城下辺いつれ大かたならさるそんしにてぜんかうじ近辺
までもひゞきいたつてつよし又房州上総の両国ともいたつてつよく房
州なかう【鵜】の浜津なみ人家そんぼう多くなか〳〵もつてあわれといふもお
ろかなり惣して人家はいふにおよはず土蔵并に大船小舟のそんぼういくばく
どもごんご【言語】にのへかたしやう〳〵七日夜日かづ四日にしてゆりやみ諸人あんとな
すとはいへども未だきやうぶの思ひはさらさりしとかやかゝる折から諸国のゑん
者いかで人じやうとしてあんじさらんものはあるべからず一刻もはやくこの
あんび【安否】を告げあんどなさしめんと専一なれば其たよりにもなるへきまゝ
委細を図面にあらわしかくはしるす

【紙面右側中程 図の上部】
今切御関所
より一りほど
つなみにて
引ながす

【紙面左側中程】
○此辺つなみ
にてりやう
し町
大にな
かれる


当時流行病療養妙伝

    当時 流(はやり)行 病(やまひ)療(りやう)養(じ)妙伝(みやうでん)
一夫すてに腹いたみ出しなば
 釜(かま)にて塩(しほ)湯をわかし有て
 茶わんにていつぱいのみ釜の
 ゆはたらゐへとり二ッの手ぬぐひ
 にひたしとりかへ引かへいく
 度(たひ)もへそにあて腹(はら)中(ぢう)を
 あたゝめべし 但(たゝし)しぬるき湯
 にてはきか須(ず)【須に「”」が付く】と知(しる)るべししかるうちに
 そう身(しん)よりあせの出ること瀧(たき)の如し
 やがて腹いたみやむなり後又々
 いたみだしなば又々前の如く
 してあたゝめべし病のおもき
 かろきにかゝわらず少しも
 はやく是を用ひたまへばさんじ
 に気分よく効能 眼(がん)ぜんなり右は  
 しかるべき御 方(ほう)様之御 伝授(でんしゆ)なるよし
 なればかろしめなげやり給ふこと
 なかれ是にて全快いたし助る人
 多かりければ諸人の助にも相なり
 候間こゝに記す
  ▲まじないのうた是を門口へ張置べし
    〽いかでかわ身(み)もすそ川の流(なが)れくむ
          人にたよらじゑきれいの神(かみ)
【下段】
右しほゆの中へ
やぶからしと申草
を入れ用ゆべし
なほ〳〵きゝめよし
九死たりとも助命
する霊草なり

此うた
  ついでなれば
     こゝにあらわす也

地しんの辯

新版京絵図

江戸十里四方大風出水焼失場所附

泪如来の損像

嘉永七年寅十一月諸国大地震大津波并出火

【一段目】
《割書:一嘉永七年|寅十一月》諸国大地震大津波并出火
      阿州
十一月四日朝少々ゆり出し五日七ツ時ゟ大地しんと成り
徳嶋魚市場辺より出火▲新魚や町▲新シ丁二丁メ
より三丁目辺▲通り町一丁メゟ三丁メ迄八百や丁中丁
きの宮丁紙や丁三丁メ迄塀裏不残

ゑんまの子のわけ

本志らべ大阪大地震大破略記

嘉永七寅十一月四日巳上刻より凡半時斗り之間
本しらべ《割書:大|坂》大地震大破略記

【上段】
西宮八十軒斗
家つぶれ
一北久太郎町丼池筋西北角
 家半分斗りゆがみ
一同北どなり一軒くずれ
 同北どなり半くずれ
一順慶町どぶ池すじ東南角
 同東となり二軒余くずれ
一塩町さのやばし筋東北角より
 北へ丁さかいめまで高塀くすれ
 けが人あり
一長ほり御堂筋北づめ浜西へ入
 北かわ納屋壱ヶ所うら借家
 又六けんはかり崩れ
一さま宮表門石鳥居崩れ
一天満天神境内井戸家形崩れ
 同所土蔵くずれ
一御霊境内井戸家かたくずれ
一南御堂高塀くずれ
一福しま天神表門くずれ
一中之嶋延岡御屋鋪鎮守
 八幡宮絵馬堂くづれ
一天満梅がへ寺町行あたり正■寺
 境内金ひら社絵馬堂くづれ
一本町狐小路浄久寺西手
 横高塀くすれ
一淡路町中ばし辺大道われる
一福嶋中の天神本社拝殿共
 くずれ
一同所下の天神絵馬堂崩れ
一あみだ池壱丁西うら町
 家廿けんばかりくづれ
一せと物町本町より北
 たをれ三けんばかり
 くづれ

【中段】
尼三十軒ばかり
家くづれ
一京町ぼり羽子板ばし北づめ
 西角浜がわ家二三けん斗り
 くずれ出火に成候由
一同西両こくばしかごや町
 西南角間口十六間ばかり
 くずれ
 道空町両国橋すじ東に入
 高塀くづれ
一江戸ぼり犬才ばし北づめ東に入
 家一けんくずれ
一さつまぼりくわんきやうじ
 境内たいめん所くずれ
一同所うら手長屋廿軒斗り
 くずれ
一あわざやぶのよこ町西がわ
 家五六軒斗りくずれ
一立売ぼり中ばし筋南北
 両角くずれ
一幸町東通より南に入人家
 二三軒斗りくずれ
一堂じま桜ばし南詰西に入家
 五六軒くずれ
一福しまかうちん前家一軒
 くずれ
一高原牢御家しき前の家一軒
 くずれ
一西高津社地御蔵跡辺土蔵
 一ヶ所くづれ
一天王寺清水ぶたい大破
一ふくしま五百らかんくずれ
 ■くわしくすれる
一大仁むら民家多くくずゝ
一同五日七ッ時半時ばかりゆり

【下段】
同五日くれ六半より安治川口より
大つなみ凡千石舟より小舟
数しれすつぶれ幷死人かず
しれす并はしつぶれ
住吉橋 さいわひばし
しほみばし 日吉ばし
黒かねばし かなやばし
天王寺からん御殿亀井水
大こうどう生玉かくら所
下寺丁【町】両国寺本どう
つぶれ委敷ず後偏に出し





天明八年京都大火図

【絵図、縦84cm】
【右上】
洛中堅横通小路辻子
神社仏閣諸大名屋鋪
市中名家小橋之分此
図に略之委は大絵図可
見之
【凡例】
絵図部分
太黒筋竹藪
赤筋焼場
黒筋無事
此印は焼残
此書川流
【右下】
于時天明八戊申正月晦日暁寅下刻東石垣櫧子辻子より出火北東風強寺町通高辻え飛火夫より炎数ヶ所
散乱仏光寺因幡堂至未之刻壬生本国寺二条御城辺両奉行所諸司代屋鋪次第風烈しく
西陳【ママ】諸宗寺院酉之下刻 御築地え火移り堂上方不残同二月朔日巳之刻鎮火る同二日三日市中
土蔵追々に焼失す上鞍馬より下も七条迄市中神社仏閣不残為焼失怪我人焼死人
    平均 焼場東西凡二十町南北凡五十町
       幅一町にして行程二十七里半余
一町数合千四百廿四町
一家数合三万六千七百九拾七軒
一社数三拾壱ヶ所
   又六ヶ所
一寺数弐百壱ヶ寺
   但大寺院には塔中有之共是は数不入
一焼死人百四拾七人
   但出訴有之分
一土蔵壱万余ヶ所
一焼失之書籍壱万三千部
   但印板
【左上】
            天明八申年迄
    承応二癸巳年大内火  百卅六年に成
洛中大火延宝元癸丑年洛大火 同百十六年に成
    寛永五戊子年洛大内火同八十一年に成
【左下】
火中焼残之分
御築地庭上桜橘花山院殿梶井殿天神京極御門二条
御城上御霊本社相国寺塔中西陳【ママ】本隆寺本堂
和泉式部軒端梅川原町土佐屋鋪宮川町恵比寿社
本国寺番神堂

弘化四年丹後地方上り山一件

【右ページ】
かかる目出度御代の印なるにこゝに
松平伯耆守様御領分丹後国
竹野郡幾野村百性権左衛門とゆふ
大百性有此人正直して常に
人にほとしを専として大冨家なり
頃は弘化四年未年正月十三日夜
五ツ半時頃也右権左衛門所持の
地面之内大い成畑有右畑之内
其おとあたかも大地より雷出る程しんだう
して其ものをと八方にひゝき夜
中の事ゆへ何事ならんと百性とも
貝をふき立近郷近村者とも鍬鎌棒の類
得もの〳〵もち来名主年寄者共一
同せはいたし其最寄の持口相かため
とかく夜の明るを相侍いたりしに程な
く夜明方にをと鳴もしつまりけり一同
是を見るにこゝにふしきなるは右権左衛門
所持大い成畑の内高さ弐丈七尺余廻り八十
五間大山一夜出亦外にふしきあり同其夜
の事也しに内地面の内青石地中よりゆり
出し其ものをと地より雷出【なヵ】る如し大きさ三間
九尺高さ一丈七尺八寸外に亦如図なる岩也大い成事
意入【慮ん?】【廣大ヵ】也同地面之内事なり此岩出る時そのひゝき大龍
地より出て夫【天?】上る程しんとうしたりけり長さ弐十五間四尺余
【図中】
   高さ
    弐丈七尺余
   廻り
    八十五間
       餘
 大山

【左ページ】
元の丸さ凡廿間余先丸さ七間弐尺也
右絵図面もって名主年寄の者とも
御領主御訴相成右見分有大成
珍事成とて御領主御歓有之いに
しへの駿河国ふし山近郷の水海是も
一夜の内出来たり夫大い成ふしき
なりそのときふしのすそに一村有其村
者ともふしの出来たりしをあす
見んとていゝしを今において其
村にてはふし見へすとゆふその
むらをあす見村言かゝる事うた
かひし事也抑富士山利やく
広大成事世の人知る所也日本六十
余州高山其数多し中にも大和
 大峯あり紀州には熊野有亦
  高野山有山城には比叡山有
   さかみ箱根有大山石尊
    あり武州妙義有
     はるなありかゞに白
     山有信州に
     戸かくし山有
     出羽羽黒山
     有皆其り
     やく広大也
     事皆〳〵
     知る所也また
     宝永四年事
     なりふし中にて
     宝永頃成き是宝永山【上段四角印】
【下段四角印】
となつく
世の人知る所也
かゝる例も有之
みな〳〵吉事なり
此度珍事是ま
つたく豊年の
印ならんと皆々
此山を豊年山
ならん言て貴■【重?賓?】
へ高覧に備
へんと也

【中段】
長さ
二十
五間
四尺余

元の丸さ凡
廿間余先
丸さ七間二尺也

大岩

大きさ三間九尺
高さ壱丈七尺六寸余
青岩【22~23行目に青石の大きさを示す文言あり。】





大坂大火騒動絵図

弘化丁未夏四月十三日信州犀川崩激六郡漂蕩之図

嘉永年間より米相場直段并年代記書抜大新版